大した目的もなく私はぶらぶらと里をふらつき、行き交う人たちとすれ違う。近づきつつある春色に自然と欠伸が漏れていた。
こう暖かいとずっと寝ていたくなるが、そうしているとナズーリンに嫌味を言われるのは確実であるし、だからといってすることがあるわけでもない。聖のチラシをメモ用紙に加工する手伝いなんて5分もあれば終わってしまうし。
故に、私はこうして散歩をしていたのだが、それにも飽きたしそろそろ帰ろうかな。ついでに貸本屋によって漫画でも借りてこようか。
そんなことを考えていた時、人溜まりが目に入った。それだけなら特に気にする事無く通りすぎるのだけど、その中心に見知った顔を見つけて立ち止まる。
「つまりだな、道教を学べば我のようになれるのだ。強く気高く、そして美しい我のようにだ」
うわぁ、殴りてぇ。
反射的に思ってしまうドヤ顔と台詞を言っているのは最近越してきた尸解仙、物部布都。
越してきたというか、命蓮寺の地下で眠っていたらしいのだけど、詳しい事情は知らない。
道教を学んだ仙人モドキ、私が知っているのはその程度だ。
というか、こいつはなにをしているのか。たぶん道教の布教をしているのかとは思うが、自分の自慢話を朗々と語っているようにしか見えない。
人溜まりの殆どが、珍獣を見る視線と呆れの視線を混ぜたものを送っている。熱心に聞いているのは子どもくらいだった。
――いや、もう一人いた。そいつを確認した私は思わず溜息が漏れる。どうしてあんたがそんなに熱心なのかね。
「何してんのさ、ムラサ」
「うえっ、あ、ぬ、ぬえ。や、今日はいい天気だねっ」
冷や汗だらだら視線泳ぎまくり声裏返りまくり、そこまで驚かなくてもいいのに。
挙動不審な彼女につい吹き出してしまった。
「なにそれ。というか、なにしてんのさ」
「いやその……えと、ね?」
いや、『ね?』とか言われても困る。
「向こうの偵察でもしてたの? だったらやめといたほうがいいよ。聖に怒られたくないなら」
向こうに対抗するためにマミゾウを呼び寄せた私だったが、結果的には聖の負担を増やすだけに終わった。ついでに、『気持ちは嬉しいが向こうと争う気はない』と窘められてしまった。
「う、うん。そんなところだったんだけど……まずかった、かな?」
がくがくと首を縦に振って肯定を示すムラサ。
「和解済みって聞いたし、意味はないと思うよ」
『無闇矢鱈と諍いを起こすようなことはしたくないし、そちらにも事情があったのはわかっている。これからは友好的な関係を作っていきたい』。聖から聞いた話は大体そんなところだ。
随分と物分かりがいいとは思ったが、不信に思う程でもない。向こうも下手に騒いで妖怪の賢者に目を付けられるようなことは避けたいだろうし。
「そ、そうかな……」
「そうそう。今時宗教戦争なんて流行らないって。漫画でも読んでたほうが有意義だよ」
おお、と観衆たちがどよめきの声をあげた。天に向かって両手を上げた物部布都、その上には不可視の糸で釣らされたように磐船が浮かんでいた。
確かに布教効果はあるだろうけど、場所を選んだほうが……。
「どうだ見よ! これぞ道教の秘術ぶはぁ!?」
「往来で船を出すなと何度言ったらわかる! この馬鹿たれ!」
案の定、騒ぎを聞きつけた慧音にげんこつを食らっていた。というか、何度もこんなことをしていたのか。そして懲りてないと。やっぱり馬鹿なんだろうか。
「我を馬鹿呼ばわりとはどういう了見だ半獣風情が! 痛い目をみないとわから」
修正! という怒声とやたらに低く重い音が響き――そして静かになった。
慧音は意識を失った物部を背負うと、観衆たちに『宗教はよく考えて入るように』と言い残し立ち去る。
観衆たちは呆けたように立ち尽くしていたが、やがて散り散りに去っていった。
「ほら、あんな馬鹿なら偵察する意味もないって」
それを見送った私は、ムラサに言う。が、彼女もぼけっとしたまま慧音たちが去っていった方を向いていた。
まあ、わからなくもない。まさか、あんな馬鹿っぽいやつだとは私も思っていなかったし。
「ムラサー? ほら、ぼけっとしてないで。漫画借りに行こうよ」
「え、うん、そうだね! 早く貸本屋に行こう!」
「ずいぶん乗り気だねって、ムラサ! そんなに引っ張らないでよ! しかも逆だよ!」
そう言ってるのにムラサは聞く耳を持たずにずんずん歩き出す。結果、手を掴まれた私も引っ張られ蹴躓きそうになる。
もう一度抗議の声をあげようと口を開きかけるが、握り締められた手から伝わる体温に気がついて、すぐに閉じる。
思考すること刹那……帰る時間は遅くなるがよしとしよう。うん。
◇
「ってことがあったの」
ごろごろと漫画を読みながら畳の上でくつろぐ私。かなり気ままに過ごしているけれど、ここは自室ではなく星の部屋である。
本人の了解は得ているので問題はないが。彼女も漫画は読みたいらしいし。自分で借りにいくのは恥ずかしいそうだ。
「ムラサが、ですか」
私と対照的に行儀よく座って漫画を読んでいた星はなにか思うところがあったのか、考えるように顎に手を当てる。
「それがどうかした? ムラサって真面目だから『聖のために~』って先走ったんじゃない?」
「それならいいんですが……私も熱心に道教の布教を聞いているムラサを見たことがあるんですけど、なんだかおかしな様子でした」
曰く、偵察に熱心と言うよりも夢中になってあの尸解仙――物部布都――を見つめていた。まるで、ショーウィンドウのトランペットを見つめている少年のような眼差しだった。
「声をかけたら慌てた様子で立ち去ってしまって、何か隠しているような風でした」
声をかけたら慌てた様子だった。
数刻前のムラサを思い出す。あの時の彼女もやけに慌てて落ち着きがなかった。
それに、あの時は熱心に偵察しているのだと思ったが、言われてみれば夢中になっているような目をしていた。
その目を向けていたのは――物部布都。
何故、あいつをそんなに夢中になって見つめていた?
「……もしかして、ムラサは道教に鞍替えする気なのでは?」
「はっ?」
私の疑問に対して、突拍子も無い答えを星は呟いた。
「いやいや、それはないでしょ。聖大好きなムラサが鞍替えとか」
色々あったのを助けてもらった恩人で尊敬している。彼女のために役立ちたいのだ。
少し照れくさそうにそう言ってムラサの顔は忘れられない。そのムラサが鞍替えなんてするわけがない。
「それはそうですが……その、聖以上にあの尸解仙に惹かれた、とは考えられませんか?」
「いやいやないって。あの馬鹿っぽい奴のどこに惹かれるのさ」
「いやまぁ……確かにあんなですが、知識も力もあることには違いないですし。それに、ムラサは子どもっぽい人が好みみたいですし」
「そうなの?」
「あー、そう、だと思いますよ。ええ」
星は困ったように言葉を濁す。微妙そうに私を見てるけど、どうしたんだろ。
まぁ、いいや。とにかく、ムラサは子どもっぽい奴が好みらしい。確かにあいつも子どもには人気があったようだし、ありえなくはない。
「あとはムラサも物部さんも一度死んだ身同士ですから、根底で惹かれるものがあったとか」
それに、と星は言いかけて口をつぐむ。
「それに?」
続けて訊ねると言いづらそうにだが、星は口を開いた。
「誤解しないで欲しいのですが……聖輦船が形を変えた今、ムラサが命蓮寺にいる必要はないんです。ムラサがここにいる理由の一つはあの船でしたから」
「……ムラサは命蓮寺に必要ない、ってこと」
自分でも驚くくらい怖い声を出していた。誤解しないでくれと言ったのに、これじゃ子どもだ。
ごめん、と謝ると星は、気にしないでください、と言い続ける。
「あくまで役割を考えれば、です。もちろん私はムラサにいて欲しいと思っています。けれど、私は気にしなくても、ムラサは気に病んでいるかも知れない。だから、新たな居場所を求めて鞍替えするという可能性は零ではありません」
ムラサは、命蓮寺にいる必要はない。それは彼女自身も自嘲するように言っていたことだった。
自分は動かす船も沈める船もない名ばかり船長だと。
それを彼女は気に病んでいたのだろうか。私が気が付かなかっただけで胸のうちでは苦しんでいた……。
「ぬえ」
凛とした声に沈んでいた気持ちと顔が引き戻される。じっと見つめる星の目はやさしく私を映していた。
「言っておいて何ですが……私の考え過ぎだと思いますよ。ムラサは私達を置いて行ってしまうほど甲斐性無しじゃありません」
星はそう言って、安心させるように微笑んだ。
日溜まりみたいに暖かい彼女の笑顔に、私の固まっていた気持ちがゆるむ。
「だけど、ヘタレだよね」
「ええ。それに大食いです」
「ニブチンだし」
「ぬえは苦労していますね」
「ホントだよ」
私達は顔を見合わせて笑いあう。少しだけ気が楽になった。
◇
考えてもわからないことをいつまでも考えてもしょうがない。それにいざとなれば本人に聞けばいいのだし。
気持ちを完全に切り替えれたわけじゃないけど、星と話してだいぶ気が楽になった。
どんな時でもお腹はすく。私は夕食が出来たことを知らせにムラサの部屋に向かっていた。
「ムラサー。ご飯できたよー」
ドアを2回ノック。いつもならすぐに返事があるのに、今日は静寂しか返ってこない。もう一度ノック。やはり返事はない。
「ムラサー?」
散歩にでも行ってるのかと思い、薄くドアを開いて中を伺う。部屋に入ってまず目につくのは、壁際に置かれた本棚。そこにはほんの代わりに模型船が置かれている。
素人目から見てもなかなかのディテールなのだけど、沈没しかけているタイタニック号というのはどうなんだろう。いや、船幽霊的には正しいのかもしれないけど。
「なんだいるじゃん」
その部屋の中心にムラサは座っていた。置かれた小さなテーブルに新聞と――チラシ、だろうか。裏返しで内容はわからない――を広げて真剣な目で読んでいる。
何をそんな真面目に読んでいるのか。私はよく見ようと身を乗り出す。
「ん? あ、ぬぬぬぬえ!? ちゃんとノックしてって言ってるじゃん!」
が、やっと私に気がついたムラサは素早くチラシと新聞を背中に隠してしまった。ノックの音も聞こえないほど真剣だったけど、何を見ていたんだろう。
訊ねるとムラサは視線を逸らしながら、どもりながら応える。
「い、いやなんでもないよ。たいしたものじゃないって」
「そうは見えないけど」
「なんでもないよ。なんでもないってば……」
指摘してもなんでもない、とうわ言のように繰り返すだけで私の求めている返答は返ってきそうにない。明らかに何かを隠している。
その態度にどうしても不安を思いだしてしまう。
新たな居場所を求めてここからいなくなってしまうんじゃないか。これからムラサの隣にいるのは――。
馬鹿らしいと頭を振って思考を振り払う。けれど、一度思ってしまった不安は簡単にはぬぐい去れない。
「……ムラサ」「……ぬえ」
発した言葉は同時。
お互いに顔を見合わせて、そして逸らす。
『いなくなったりしないよね?』
一言、そう続けることが出来なかった。
答えが怖くて、一歩踏み込むことさえ躊躇う。
もし、苦しそうな顔をして『ごめん』と言われたらどうする? 行ってほしくないと言えばいいのか。それでも意志が変わらなかったら?
神霊廟に鞍替えして幸せになると言うなら、どうして私が否定できる。ここにいて欲しい、皆で暮らしたいというのは私の我儘だ。それだけで彼女の幸せになろうと意思を邪魔してもいいのか。私はどうしたらいい。
答えのでない思考は空回りを続ける。
ムラサも逡巡したように視線と口を動かしていたが、
「……ん、ごめん。なんでもない」
結局、同じ言葉を繰り返すだけだった。
「ぬえは、どうしたの?」
「え……その……」
私は、
「なんでもない……ご飯、出来たよ」
言葉を飲みこんでうつむくことしか出来なかった。
やけに部屋と廊下の敷居がはっきりと見えた。
◇
一晩明けても気は晴れなかった。どろりと重いものが内側に溜まっているような感覚が体を支配する。思考もマイナスに傾き続ける。
それを解消する方法は簡単だ。ただ一言、ムラサに訊くだけでいい。それはわかっているのに、怖くて出来ない。
朝食の時のムラサはいつもと同じ量を食べて、いつもみたいに笑っていた。
だから、その裏には私にとって悲劇的な決意を秘めているのではないか。そう勘ぐってしまう。
私は昨日と同じように里をふらついていた。
曖昧なままでいれば時間が解決してくれるかもしれない。
そんな宛もない希望を抱きながら。
「っつ」
そして、すぐに後悔することになった。
「そこの小童も道教を学ぶがよいぞ。我のようになれる。健やかで聡明な女子にな」
偉そうに演説をしている物部。呆れたような大人と目を輝かせている子ども。そして、その人垣の中にいる、期待に満ちたまなざしで見つめるムラサ。
昨日とまったく同じワンシーン。違うのはムラサに声をかけることが出来ず立ち尽くす私。
満足に動かない足を一歩踏み出そうとしたとき、チラシを踏みつけていることに気がついた。土で薄汚れたそれは、道教勧誘を謳った宣伝ビラのようだった。ブン屋がばら撒いたり、里のあちこちに貼ってあるのを見たことが――
『い、いやなんでもないよ。たいしたものじゃないって』
『そうは見えないけど』
『なんでもないよ。なんでもないってば……』
瞬間、漠然としていた不安がはっきりと形になった。ムラサはあの尸解仙に惹かれているのではないか、という不安が。
無意識のうちにその光景から背を向けていた。胸に抱いた感情は胸が張り裂ける、なんて激情じゃなくて畳にこぼした水が染みこんでいくような静かな諦観。
ムラサが幸せになれるのなら、それでもいいか。
いいんだ、ムラサが幸せなら私はどうだっていいんだ。それで納得すればいい。
なのに、どうして体は震える? 何故、手が固く握り締められている? 本当に私は諦めているのか。ただそうやって思い込もうとしているだけじゃないのか。
足取りは重く、宛もなく動き始める。とにかくこの場から離れたかった。/どうして? それでいいなら祝福してやればいいじゃないか。
気持ちの整理をつけて、その時別れを惜しもう。今二人の邪魔をするのは駄目だ。/なぜ? 何が駄目なのだ。
それでいいんだ。私はムラサが幸せならそれでいい。別に二度と会えなくなるわけじゃない。向こうの奴らは気に食わないけど、ムラサに会うためなら我慢してやる。ただムラサの住む場所が変わって、一緒に過ごす奴が変わるだけ――
体に軽い衝撃が走った。視線を下げて歩いていたせいで、前から歩いてきた人物に気が付かず、ぶつかってしまったようだ。
適当に謝罪の言葉を言って、立ち去ろうとする。しかし、その人物に腕を引かれてしまい叶わなかった。
「わっ、ぬえさん? なんだか死にそうな顔してますけど、大丈夫ですか?」
なんだ早苗か。ひどい言われようだけど、きっとその通りだから否定はできない。
心配そうな彼女に大丈夫、と笑おうとしたけど上手く作れない。喉から変な声が漏れるだけだった。
「ぬえさん? なんで泣いてるんですか? 誰かにいじめられたんですか?」
そんな子どもみたいな理由で泣くわけないじゃん。あれ、けど泣いてるの、私?
頬を拭うと手の甲は確かに濡れていた。なんだ、本当に泣いてるんじゃん。
ははっ。好きな奴に好きな人が出来て泣くなんて、本当に子どもみたい。
「ぬえさん!? 大丈夫ですか! どうしたんですか!」
あれ、早苗の背が急に大きくなった? と思ったがどうやら私がへたりこんでいるみたいだった。
立ってられないくらいまで泣くなんていつ以来だろう。気がつけば、早苗にすがりついて泣きじゃくっていた。
やっぱり駄目だ。いいわけがない。ムラサがいなくなるなんていいわけがないんだ。誤魔化していただけだった。私はムラサが誰かに取られるのが嫌だった。たとえ、それでムラサが幸せになれるのだとしても。
ああ、そうだ。私は聖みたいな聖人じゃない。想い人が幸福なら自分は不幸でも構わないなんて言い切れるほど強くない。
ムラサが幸せでも――私は嫌だ。ムラサは私の隣にいて欲しい、私の手を握っていて欲しい。
子どもそのものの思考。私のものだと一度でも言ったわけじゃないのに、認められたわけでもないのに、勝手に取られただなんて。自己嫌悪で死にたくなる。
だけど、諦められるわけがない。
私はムラサが好きなんだ。
◇
それなりに賑やかな茶屋、その奥側の座敷に向かい合って私と早苗は座っていた。どうしてここにいるのか記憶が曖昧だけど、たぶん気を使った早苗が連れてきてくれたんだと思う。
……改めてさっきの自分を思い出すと別の意味で死にたくなってきた。いきなり早苗にすがりついた挙句に通りのど真ん中で泣きわめいたとか。
うわぁ、最悪すぎる。絶対通行人にいらぬ誤解を与えたに違いない。
気まずすぎて、視線をお茶の水面から外すことができなかった。しかし、黙っているわけにもいかない。小さく深呼吸して私は早苗と視線を交える。
「えーと……その、なんか気使わせちゃって、ごめん」
「お気になさらずに。私が勝手にしただけですから」
「ううん。それでも、ありがとう」
早苗はやさしく気遣うような笑顔を浮かべる。その笑顔と泣いてすっきりしたおかげで、今度は上手に笑えた。
「どうして泣いていたのか、訊いてもいいですか」
笑顔を引っ込め、一転して真剣な表情で早苗は言う。疑問形であったが、言って欲しいという意思が言外から読み取れる。
けれど、興味本位からではなく私を気遣ってのことだと言うことはわかっている。彼女はそういうところはしっかりしているのだ。
だから、私は頷いて経緯を説明し始めた。
昨日、ムラサが物部を熱心に見ていたこと。
偵察でもしているのかと訊ねると様子がおかしかったこと。
星が『ムラサは命蓮寺にいる必要はない』と言っていたこと。
新聞と道教勧誘のチラシを真剣な目で読んでいたこと。
今日もムラサが物部に期待の眼差しを向けていたこと。
それが悔しくて悲しかったこと。
そして、これは非情に言いづらいのだが、言わない訳にはいかない。
私はムラサが好きだということ。出来れば、ではなく、どうしても一緒にいたいということ。
「……なるほど。それで、ですか」
何も言わずに話を聞いた早苗はうんうんと頷くと、お茶を一口すすり息を吐く。
私は湯のみの縁を指でなぞりながら話を続ける。
「私は、ムラサが幸せならそれでいいなんて言えない。私はムラサがいないと嫌だ。だけど、新しい場所で好きな人と幸せになろうとしているムラサを邪魔するのも、嫌だ」
私が幸せでなければならない。しかし、彼女を不幸にしてはならない。
とんだ矛盾、二律背反、ジキルとハイド。どちらか一方しか成り立たないこれを、私はどうすればいいのだろう。
「だったら簡単ですよ」
「そう……え?」
あっさりと至極当然のように早苗は言った。余りにもあっさりと言うものだから思わず聞き返してしまった。
しかし、そんな簡単な問題とは思えないのだけど。一体何を考えているのだろうか。
訊ねると、早苗は自信ありげに口火を切った。
「ぬえさんがムラサさんの好きな人になって幸せにしてあげればいいんです」
そして言うことは全て言ったとばかりにお茶をすべて飲み干し、店員におかわりを要求する。
あら、早苗ちゃんまた可愛い子連れてきて恋人かしらうふふ。
いやぁん、私には小傘ちゃんって娘がいますようふふ。
あらあら早苗ちゃんってモテモテなのねうふふ。
顔見知りらしい店員と一頻り会話を交わすと注がれたお茶を一口すする。ついでに手付かずだった団子も頬張り満足気に頷く。
店内に流れるまったりとした空気と香りに荒んだ私の心も癒されて、
「え?」
「え?」
「いやいやいやいや。なんでもう『問題解決!』みたいな空気出してるのよおかしいでしょ」
「え、解決じゃないですかこれで」
その何を馬鹿なと言わんばかりの目をやめなさい。
「というか、実際どういう意味さ。私がムラサの――になるなんて……」
「その通りの意味ですよ。ムラサさんに好きな人がいるから苦しいなら、その好きな人になってしまいましょう」
えー……それは物部よりも魅力的になってムラサの目を引こうって意味でいいんでしょうか早苗さん。
「はい、そうですよっ」
「け、けど……なんか横取りしたみたいで……」
「ぬえさんの話だとムラサさんの片思いなのでしょう? ならいいじゃないですか」
「それはそうだけどさ……」
「それに。いくら理由をつけても、結局ぬえさんの我儘っていうことには変わりませんよ」
「うっ……」
真面目な顔に戻った早苗は痛いところを突いてくる。
たとえ私が、聖のためだとか命蓮寺のためとか理由をつけても、根底にあるのは『ムラサと一緒にいたい』という私の我儘だ。
それならば、最後まで我儘を貫いて『私がお前を幸せにしてやる』くらいに言え。振り上げた拳を下ろせないなら、いっそもう片方も上げてしまえ。彼女はそう言いたいのだろう。
それは理屈だけなら完璧だ。誰も不幸にならない。実行することが出来れば、であるが。
実行出来たとしても、ムラサが私を選んでくれるとは限らない。もっとつらい目に合うかも知れない。
だけど、僅かにでも可能性があるのなら。ムラサが私の隣にいてくれるのなら。
私は――
「今更かもしれませんが、選ぶのはぬえさんです。どんな選択をとってもいいんです」
黙りこんだ私を案じるように早苗は語りかける。
「ですが、後悔だけはしないでください。幸せになってください。これは私の我儘ですけど、ぬえさんは笑顔でいて欲しいんです」
その方が可愛いですしね。
早苗は茶化すような言葉で最後を締めくくる。そんな彼女に自然と笑みがこぼれていた。一緒に体に溜まっていた重たいものも何処かに行ってしまった。
私は目の前の団子に手を伸ばし頬張る。うん、甘くて美味しい。美味しいと思えるなら、私はもう大丈夫。きっと前に進める。
「その口説き文句、誰にでも言ってるんじゃないの?」
「私が口説いたのは小傘ちゃんだけですよ」
あーはいはい。そうでござんしたね。
これ以上言っても惚気しか返ってきそうにない。だから、さっさと言うべきを言ってしまおう。照れくさくならないうちに。
「早苗」
「はい」
「ありがとう。まだ自信はないけど、やる気はあるから。うん、頑張ってみる」
「いいえ、こちらこそ。そうやって笑ってるほうがやっぱり素敵です」
思ったよりも素直に、はっきりと感謝を伝えることが出来た。が、やっぱり照れくさい。嬉しそうに笑う早苗から顔を逸らしてしまう。
「……やっぱり誰にでも言ってない?」
「言ってませんよう、もう」
早苗は可愛らしく拗ねると、何か思い出したようにスカートのポケットをまさぐる。
「これ、よかったらムラサさんとどうですか?」
取り出されたのは六枚ほどの新聞の切り抜きだった。記されている内容は喫茶店、茶屋、ケーキショップ、それらから若干浮いたようにラーメン屋台の記事。どれもグルメ情報ついて書かれたもののようだ。
上手くいったらここで楽しめ、ということか。というか、一人でこんなに回るつもりだったのかあんたは。
「う……だって、みんな美味しそうですし。ラーメン屋は一人だと恥ずかしいから小傘ちゃんと行こうと思っていたんですけど」
「何処にそんな入るのかしら。その胸とか?」
「なっ、セクハラですよ!」
「いいじゃん、ちょっとくらい私にも分けてよ」
「こら、何処触ってるんですか!」
私の気負いが晴れたおかげ場の雰囲気も緩くなる。ちょっとばかしガールズトークに明け暮れようとした矢先、
「やっと見つかった……ぬえ……」
よく聞きなれた、大好きな声が耳に届いた。
湯のみを倒しそうになりながら、私は慌てて立ち上がり入り口に佇むその声の持ち主を姿を見る。
走り続けて息を切らしてのか、膝に手をついた体勢の少女はずり落ちそうな船長帽を直すとこちらに向き直り、安心したように微笑んだ。
「ムラサ……」
見間違えるはずもない。村沙水蜜はたしかに私の目の前にいた。
どうしてここが? 探してくれたの? と疑問は脳を駆けまわるが言語に直すことができない。ただ彼女のが目の前にいることが嬉しくて、それを噛み締めるので精一杯だった。
「ムラサさん? どうしてここが?」
私の疑問は早苗が代弁してくれた。ムラサは呼吸を整えながら喋り始める。
「慧音先生が、教えてくれたんだ……。ふぅ……ぬえが通りで泣いていたって。それで周りから話訊いたらこっちのほうに来たって」
それでここがわかったということか。しかし、やっぱり周りから見られてたんだなぁ……今さらながら恥ずかしくなってきた。
「それで、早苗さん。どういうこと?」
「どう、と言われても……」
こちらまで近づいてきたムラサはそう言って早苗を見やる。睨みつけるような敵愾心が込められた視線に早苗はたじろぐばかりだった。
なんでそんな目を、と考えて思い当たる。ムラサは私が泣いていたことしか聞いていないようだった。伝聞だけなら状況的には早苗が原因だとも考えれる。そこを誤解しているのだろう。
彼女が私を心配してくれていたことに気分が浮き立つが、すぐに気を引き締める。困ったように視線を右往左往させる早苗をほうっておくわけにもいかないし、これから伝えることを前にそんな気分ではいられない。
「早苗は私の事情聞いてくれただけだよ。むしろ、助けてもらったんだ」
「あ、そうだったの……ごめんなさい早苗さん。勘違いしちゃって」
ムラサはバツが悪そうに頭を下げる。
「いえ、お気になさらず。それよりも」
早苗は一旦そこで言葉を切ると、私に目配せする。覚悟は出来たか、その目はそう言っていた。
大丈夫、もう心の準備は出来ている。私が無言で頷くと、早苗は言葉を続ける。
「ぬえさんの話を聞いてください」
「……それは、さっき言ってた『事情』ってやつ?」
「はい」
早苗の真剣な表情からただならぬものを読み取ったのか、ムラサも表情を引き締める。
「ムラサ」
「ぬえ……ん?」
いよいよだ。うるさい心臓の鼓動を感じながら、私はムラサと向かい合う。正直、怖い。私の望む反応が返ってくる保証は無い。
けど、言わなければ伝わらないから。言わなければわからないから。
しっかりと目を見て思いを伝える。それだけでいいんだ。
「その、私は」
「大丈夫。何も言わなくてもわかってるから」
「……うぇ?」
「もっと早く言うべきだったね……」
予想を外れるムラサの言葉にマヌケな声が漏れた。わかってる? ムラサが? 鈍感なムラサが?
どういうことなのか、と続けることは出来なかった。その前にムラサが私の腰に腕を回して引き寄せたからだ。
自然、ムラサと密着する体勢になる。体温も匂いもすぐ間近から感じられる距離にさっきとは違った理由で心臓が跳ね上がる。
「早苗。ぬえを助けてもらったのは感謝してるけど、これとそれは別だから」
だから、とびしっと早苗に指を突きつける。早苗は状況を全く理解できておらず疑問符を浮かべるだけで、何も言えない。
かくいう私もまったく意味がわからない。ムラサに急に抱き寄せられて、そのムラサは早苗に何か宣言しようとしている。
あー……けど、ムラサの体冷たくて気持ちいい……良い匂いするし……。
「ぬえをラーメン屋に連れていくのは私。それは譲れない」
キリッとしたかっこいい表情で、茶屋全体に響く凛とした声でムラサは宣言した。
そう、ラーメン……
『はっ?』
ダブった言葉は私と早苗と、店員のおばちゃんまでもが含まれていた。
◇
店内中からの注目を浴びた後、私たちはお互いに事情を説明しあった結果。まったく話がすれ違っていたことを理解した。
「えーと、つまり。ぬえさんが泣いていたのはラーメン屋に連れていって欲しかったから。そこで私に連れて行ってもらおうと計画しているのだと、この切り抜きを見て勘違いした」
早苗は切り抜きの一枚を手に取り、確認するように訊ねる。
「はい……」
ムラサは畳の目しか見えないくらいに俯いたまま応える。隣で座る私も似たような格好であった。
今の私の気分は、穴があったら墓穴にしたい。それくらいにいたたまれない気分だった。
だって、だってだよ。今までのことが全部私の勘違いだった、ってなったら誰だってこのくらいになるさ。
「昨日、ぬえを誘おうとしたんだけど……ちょっと恥ずかしくて……。だから、それで落ち込んで早苗に頼み込んだのかと……」
昨晩、ムラサが読んでいた新聞はこの切り抜きと同じものだった。傍にあったチラシは一緒に挟み込まれていただけで、経路図をメモするために出されていただけだった。
一人でラーメン屋に行くのは気後れするから、私を誘おうとしたがそれにも気後れして取りやめ。結果、私が深読みして勘違い。
そして、私が勘違いした最大の原因。何故、物部布都を熱心に見ていたのかと言えば。
「いやぁ、その……あの船、沈めてみたいなぁって。ほら、幻想郷にある船ってボートくらいだし、あんな立派な船は久しぶりだったから……つい」
熱心に眺めていたのはあいつではなく、喚んだ船だったというどうしようもないオチがついた。
結局、私が勝手に深読みして勘違いして一人で騒いだだけのことだった。
ははっ……死にたい。大通りで泣きわめいて、賑わう茶屋でラーメン屋に連れていく宣言されて……何やってるんだろ私。
「え、えーと。と、とにかくよかったじゃないですか! これからも仲良く一緒に過ごせますよ! あ、あとは……では私はこれで!」
それだけ言うと早苗は微妙に引きつった笑顔を浮かべて、疾風のように去っていった。
残されたのは死に体が二つとどうしようもないくらい気まずい空気。
何を言えばいいんだろう。というかどんな顔をすればいいんだろう。笑えばいいのかな笑えねえよ。
無言の時間がひたすらに過ぎていき、湯気立つお茶が冷たくなった頃、
「あー……その、ぬえ。ありがとう」
ムラサが口火を切った。
私は重しがついたように重い頭を上げて、彼女と視線を合わせる。ぎこちなくはあったが、その表情は笑顔を浮かべていた。
「……なんでお礼なのさ。私の勘違いで散々迷惑かけたのに」
「それよりも……私のこと、心配してくれたことが嬉しかったから」
「……そうだよ。ムラサがいなくなったらどうしよう、私以外の奴が隣にいたらどうしようって心配だったんだ。あんたすぐどっかに行っちゃいそうだし」
もう、全部言ってしまおう。言おうとしていたこと、伝えたかった気持ち。
ロマンティックなんかじゃないけど、どうせ私達には無縁のことだ。子どもっぽく言いたいことを全て言ったほうが私らしい。
「そのことだけど、私は何処にも行く気はないよ。そりゃあ、私は役立たずだけどさ」
「ムラサは役立たずじゃない」
誰がなんといってもそれだけは違う。私にはムラサが必要なんだ。鈍感で大食いでヘタレだけど、海みたいに大きくてかっこいい彼女が私には必要なんだ。いらない、という奴がいたなら私が消してやる。
強い私の言葉にムラサは一瞬きょとんとして、すぐに嬉しそうに頷いた。
「私は船長だから、乗員を置いて何処かに行ったりはしないよ。形が変わって船でもそれは変わらない」
それに、そう言ってくれるぬえがいるところに私もいたいから。それだけでいる理由は十分じゃないかな。
照れくさそうにそう言って、ムラサは私の目をじっと見つめる。深くて明るい二つのエメラルドグリーンが私を捉えて離さない。
少しためらいがちに私の肩に腕を伸ばし、一息で抱き寄せる。彼女の冷たい体温が今は熱っぽく暖かい。うるさい鼓動は私のものか、彼女のものか。
そっと、ムラサは唇を触れるくらいまで私の耳元に近づけて、
「――!?」
私がずっと言って欲しくて、願い続けたことを囁く。
明るい光が私達を包み込んだ。
気持ちのすれ違いと不安が上手く描けている。
最近はぬえちゃんのお話しが増えてきて嬉しい限りです。
いいむらぬえ
てか文ちゃん何してんのwwww
ニヤニヤが止まらぬぇ!
恋する乙女という感じで良いですね。