Coolier - 新生・東方創想話

俺が死んだら、

2012/03/31 19:42:12
最終更新
サイズ
113.7KB
ページ数
1
閲覧数
1540
評価数
4/26
POINT
640
Rate
4.93

分類タグ

「ああー、もう! ホント、どうなってるのよ?」
「さあねぇ…。私に言ったって、しょうがないわ」

山は色付き、人も物の怪も等しく浮かれ踊る秋の日。
けれど、死んでしまっては、それもあまり関わりはないようだ。

静まりかえった楼閣には、明確に定義された『命』を持った者は、一人と半分しかいない。
その内の半分。魂魄妖夢が、まめまめしく、暖かに色付いた庭を手入れしている。
それを眺めるともなく眺めつつ、もう一人、八雲紫が、この楼閣の主といささか物騒な茶飲み話をしていた。

それは、今日に始まった事ではない。

「分からない、分からないわ…! この私に境界が操れない、ましてや見る事すら出来ないなんて…。あんなにはっきりと違いのあるモノなのに…。ねえ?」
「私に言われたって、その悩みにはお答えできないわねぇ。…あら、このおせんべ、妖夢の手作り?」
「あ、気づきました? それ、里のおじいさんに教えてもらったんです。ほら、いつものお菓子屋さんの御隠居さん」
「へぇ…。マメねぇ、妖夢ってば。おいしいわよ」

十月の頭。あくびが出そうな、けだるくて暖かな午後。
それを堪能する様子もなく、紫は深く沈思している。しかし、それもあまり功を奏してはいない。

何やら苛立っている紫と、お茶を啜って、おせんべだのお団子だの、新米を使ったお菓子を存分に堪能している幽々子。
代わり映えの無い二人の大妖。
ここ一月ばかり、飽きるほど繰り替えされた問答は、今日も変わらず繰り替えされている。
変わって行くのは、季節とお茶菓子の二つだけ。
けれど今日は、そこに一つの違いが。

「ああ、こういう解決法はどう? …きっと、紫も楽しいんじゃないかしら」
「…いいわ、聞かせて」






        一        






ひどく無機質な声が、どこか、俺の奥のほうにこびり着いて離れなかった。

「つきましては、今後の御相談を…」

もう、これ以上聞きたくない。
電話線を引き抜いた。

「嘘だろ?」

万年床に倒れ込んで、それだけを呟くのが、精々だった。

死んだ。即死だった。
トラックとの接触事故。見晴しのよい直線での、偶然で不幸な交通事故。
電話のむこうの男は、確かにそう言っていた。

たしか、『御愁傷様です』とも。

口の中に血の味が拡がった。唇が切れていた。
涙は、こぼれなかった。

不運な母だった。
長く身を病んでいて、誰かの助けが、稼ぎが無ければ生きていけなかった。

そんな暮らしに疲れ果てたのか、五年前に、親父が蒸発した。
母さんはその事を、自分のせいだと思いつめていた。…事実、そうだったのだろう。
その思いは、きっと最後まで変わらなかった。

不憫な兄だった。
家のために、オレのために中卒で働き続けて、その身をすり減らした。
オレが高校を出られたのも、兄貴の稼ぎがあったからだ。
結局、兄貴は自分のために人生を過ごせなかった。

バカだけど、底なしのお人好しだった兄貴。
病弱だけど、誰よりもオレ達を愛してくれた母さん。

それが死んだ。

「嘘だろ…」

もう一度、呟いた。
こんなことが、あっていいのか。
金も学歴も友達も恋人も親父も、あきらめたのに。
こんな理不尽なことが、あっていいのか。

友人もいない。彼女もいない。貯金も無い。

施設に稼ぎを振りこんで、俺が一月食い繋ぐだけが財布に残る。
月に数度、便りがくる。たまの休日に、三人揃って話をする。

ただそれだけの五年間だったのに。
それだけのために、俺は生きていたのに。
こうも簡単に、奪われたのか。

全部まとめて。
一息に、奪われたのか。
けれど、泣かなかった。悲しくなかった。
そのトラックの運転手を、憎もうとも思わなかった。

今、俺の頭を埋めているのは絶望じゃない。この先の、俺の事。
浅ましいとは思えども、ソレくらいしか考えることは、もう無い。

「どうすんだよ…」

口に出しては見たものの、未来は塞がっていた。
目を逸らしていただけで、そんな行く末はずいぶん前から分かりきっていたんだろう。

最高にブラックな職場の、頭の悪い上司の下でこき使われて、運がよければ定年まで飼い殺し。そうでなけりゃ鬱か過労死。
学歴も金も友人も恋人も夢も目標も、家族も無く。独りで死ぬ。
この御時世、転職だってままならない。いっそ、路上生活。

どれを選んだって、考えるだけで反吐の出そうな一生。

それと、もう一つ。近年はやりの解決法だ。

「死ぬか…? おい」

そちらのほうが、いくらかは魅力的に思えた。
死ねば、なにもかも終わりだ。
こんな出来の悪い理不尽も、今もしつこく残ってる肩と目の奥の痛みも、どうしようもない憤りも。終わる。消える。
そう思うと、空ろな体の内側が少し暖まった。

『死んだらだめだ』『命を大切にしろ』『生きていればきっといいこともある』
などと世間は言うけれど、それはとんでもないウソだと、俺はずいぶん前から知っている。
そういったモノを、与えられなかったヤツだって、この世界には溢れてるんだ。

…どうやら、心は決まったらしい。

窓から、夜もふけて往来の絶えた通りを見下ろした。
開け放った窓から、冷えきった風が流れ込む。
マンションの八階だ。頭から落ちれば、たぶん即死できるだろう。
吊るよりは、すぐに死体を見つけてもらえるからマシだ…、と思う。落ちた後の俺がどうなるかなんて、分かりゃしない。
迷惑をかけるが、勘弁してもらいたい。最後のわがままだ。

黙考の時間は、それほど長くなかった。
まるで、最初っからそれしか選べなかったように、最後の選択を受け入れた。

遺書は、必要無い。
読む人間など、どこにもいない。

べつに、怖くはなかった。
その代わりなのか、妙な高揚感がある。
少しいい気分だ。

落下防止の柵に、足を投げ出し腰かける。
びくともせずに、俺の体重を支えた。これほど頑丈なら、今もどこかで大いに役割を果たしている事だろう。
それを乗り越えて、飛び下りようと言うのだから。皮肉な事だ。

部屋の電気が消えていない。そんな事に気付いて、消そうかと思った。
ま、どうでもいいことだ。もう電気代なんて払えない。

気を静め、少し息を吸って、身を踊らせた。

世間では走馬灯などと言うけれど、あれもウソだった。
ただ、何もない。
けれど、なぜだか。

まだ、死にたくない。のか?

でも、もう遅い。
止まれやしない。



       二         



「あら? 起きないわねぇ…?」

若い女の声が聞こえてきた。つーことは、死に損ねた。

一応未練はあったが…。少しばかり憂鬱になった。
すっぱり死ねば良かったんだが、そうは上手く行かなかったようだ。
死にたく無い、などと思ったのは、果たして間違いだったか。

「起きないのなら仕方ないわねぇ…、そうね、食べちゃいましょうか。そうときまれば、ひさしぶりの上物だもの、幽香も呼ぼうかしら?」
「…笑えない冗談だな、おい」
「あら、お目覚め? 良かったわ、苦労をふいにするところだったもの」

お目覚めとは言うが、体も目蓋も、ずいぶん重い。
だが、俺を『喰う』算段を立てられるのは、気に食わない。
気合いで無理矢理にでも目蓋をこじ開け、体を起こす。

そして、ぼんやりと開いた俺の目に映ったのは、リノリウムの白い天井ではなく、木目の鮮やかな天井。
寝ているのは、病院のぱりっとしたベッドではなく、畳に敷かれたせんべい布団。掛け布団は無い。
俺がいるのは、畳に障子、床の間に掛け軸、ご丁寧なことに火鉢まで置いてある和室。けっこう寒い。

枕元に座っているのは白衣のナースではなくて、どことなくうさん臭い、金髪の女。

「…あんた、誰だ。それに、ここはどこだ」
「私は八雲紫、ここは私の屋敷よ」

ぞんざいな口調で、紫と名乗った女が言った。
言いたい事もあるが…。取りあえずは、聞きたい事が山ほどある。

「なんで、俺はあんたの屋敷にいる? ここはどこだ? 今日は何月何日だ?」
「私が拾ったから貴方はここにいる。 ここは幻想郷。 今日は貴方の命日。」
「…はぁ?」

ますますもって意味がわからない。
拾ったとはどういう事だ? 『ゲンソウキョウ』とはどこだ? 俺の命日?
答えを与えられても、謎は深まるばかりで、問いは尽きない。

「…取りあえず、俺の状況を説明してくれよ。ここは何県だよ? 都内か?」
「イヤ、面倒臭いもの。それに、なんとなく分かるんじゃない?」
「…なら、あんたの事を教えてくれ。医者か? それとも俺の知らない俺の親戚か何かか?」
「私はスキマ妖怪の八雲紫よ。これで二度目になるかしら」

いくら待っても、その後に言葉は続かなかった。まさか、これで説明したつもりなのか…。
大体、ようかいって? ようかいって、あの妖怪か? だとしたら、マジでふざけてる。

しかし、今ので状況は大体分かった。
俺はタチの悪いイタズラをされているか、そうでなければメンヘラ女に捕まってるんだろう。でなきゃ夢オチだ。
そうでなければこんな扱いをされるわけがない。
そう理解すると、腹が立ってきた。

まったく、どういう事なんだか。
病院もなに考えてんだ? なにを言われたのか知らんが、こんなわけのわからん奴に俺を引き渡すなよ。しかも意識の戻らないままで? ありえねー。
金の払えないやつはクズ以下の虫ケラってか? おいおい、そりゃねーよ。血の小便してでも金作ってやる。その程度日常茶飯だ。

…待て、ヤのつく人にさらわれて…? いや、ないない。そんな怖い人に関わった事はない。別にアブナイ金利の金なんて借りてない。
いや、でも…。それが一番納得できる気が…。じゃあ、俺ってばこのままコマギレに解体されて…。じつは俺が搬送された病院は…。
いや、無い。それだけは無い。もしそうだったなら、意識の無いままバラされてる。
大体、日本は法治国家ですよ?

ホント、わけわからん。
ああ、腹立たしい。

「まるでワケ分かんねー。俺はこれで帰るよ、世話になったな」

大袈裟なため息に合わせて立ち上がると、憤りと立ちくらみと絶望で少し視界が揺れた。
ゆるりと女が立ったのが、揺らいだ視界に映りこむ。
そのままに、吐息がふれるほどの距離にずい、と近寄られて。

「まだ、解らないのね」

無造作に、女が俺の胸板に手を伸ばした。

「…はぁ?」

しばらく、自分に起きている事が理解できなかった。
俺の胸のど真ん中に、女の腕が肘までめりこんで。
俺の胸が、貫かれていた。

「うおぁあああああぁっ!?」

まったく予想外の事体に、驚き慌て、不様に倒れこんで気がついた。
おかしい、痛くない、傷がない、血が出ない。
慌ててべたべたと触ってみても、服も体も傷一つない。

だが、あの時、確かにあの腕は俺を貫いた。
確かに見た。

「…ど、どういうことだよっ!?」
「妖怪だもの。これで理解できたかしら?」

女の問い掛けに意味なんてありはしない。理解もクソもありはしない。
俺は、たった今、体験した。

こいつ、間違いなく人間じゃない。

女が、微笑む。
綺麗だ。
そう思った瞬間、その唇に血がこびり着いているような錯角に囚われた。
隠しようも無く、死の恐怖が。生物にとっての、限り無く純粋な恐怖が覆い被さる。

この女は、おそらく最初からウソをついていなかった。
冗談ではなかった。
俺を食う算段のこと。『ゲンソウキョウ』のこと。俺の命日だ、と言ったこと。

全て、本気だ。

こいつは、俺を喰う。

耐えられなくなる。押し潰される。いや、押し潰そうなどとはしていない。俺が勝手に潰れるだけ。
怖い。どうしようもなく怖い。視線すらも動かせない。あの眼が怖い。

氷柱みたいな手指に、稲穂みたいに輝く髪に、焔を埋め込んだような瞳の奥に、血が粘り着いているように見えた。
ありもしない血の痕に怯え、みっともなく体を震わせた。

けれど、不意にそれから解き放たれた。
女の顔に、呆れたような、拍子抜けしたような笑みが浮かんだ。

「冗談よ。…死にたくない?」
「…はぁ?」

突然の問いかけに、そんなまぬけな答えしか返せない。ああ、バカ丸出し。
でも無理もない。先程とは、何もかも、あまりにも違う。
冷厳な風格、冷たい声音、射抜くような眼差し、威圧感。
そいつら全てが消えて、ついでに躰までもがひと回り小さくなったように見えた。

一方的な問いが続いた。

「さっきからそればかりね、あなた。で、死にたいの?  死にたく無いの?」
「えっ、いや、死にたく無い…」
「あら、そう。ま、そういうことなら責任を持って外に送るわ。…いえね、そんなことより、まずはつき合いなさいな」

それだけを言い放ち、嬉しいコトでもあったかのように、いそいそと酒の支度を始めた。
二人分の。
もしかしなくても、あれは俺の分だろう。

…なに考えてんだこいつ。
何もかもだ。さっきから、何もかもわけが分からない。
まだ、目覚めて10分も経たないのに、頭の中はゴチャゴチャだ。

体の震えは止まっても、次は過負荷に耐えかねて脳みそが震え出す。
恐怖が、そのまま困惑に変わっただけだ。

いくら待っても説明はなし。
酒の膳が整って、紫がすとん。と倒れこんだままの、俺の向いに座る。
そこまで待っても、説明なんてなかった。

ここまで待ったんだ、もういいだろう。
パスっと殺されるような事も、今なら無いと思う。
盛大にブチキレる。

「だぁぁあああああっ! わけわからん! さっきからさっぱりだよ、言ってることよぉ! 説明しろよ! 説明をよぉぉぉおお!
 なにが酒盛りかぁあああああああ! 酒を仕舞え! 残念そうな顔してんじゃねぇえええええええええ!」
「もぅ、うるさいわねぇ…。存外に、出来の悪い男だこと」



        三        



その後、飲みながら(俺は断ったが、無駄だった)聞いた事は、およそイカレてるとしか思えなかった。

ここは幻想郷。強大な結界に隔てられ、彼岸と現であろうとも分け隔て無く結ばれる異界。
元来は、世を追われた妖怪達の桃源郷、旧き良き世界。…だが、今となっては世界に忘れ去られた物たちの終着点。言ってみれば世界の掃きだめだ。
幻想郷には因果の環から外れた人と妖怪が住まい、たまさかにまっとうな人間も迷いこむ。
俺のように。

ここの妖怪は、そんな不運でまっとうな人間、自殺願望者、誰にも赦されない大罪人、『人間牧場』の人間なんかを喰っている。
そして、俺は見事この女のお眼鏡にかなって、『スキマ』とやらに飲み込まれ、こんがりと塩焼き(塩蒸しも考えていたそうだ)にされかけた。
それで、現在に至る。と。

「信じたくねーなー、おい…」
「信じなさい。自分で見た事ならば、全てを受け入れるのがここの流儀よ。だから早く受け入れて私に喰われなさい」
「いや、理論ぶっ飛んでるから。…けど、なんであんたは俺に死にたくないか、なんて聞いたんだ?」
「八雲様と呼びなさいと言ったはずよ」
「やっぱり、死にたくもないやつを、問答無用で殺して喰うのは御法度なのか? 八雲さん」
「そんなわけないでしょう? 常識で考えなさい。幻想郷の住人でなければ、泣こうが喚こうがお構いなしよ」
「常識ね…。…ん? ならさ、なんで俺を助けたんだ?」
「さあ? 気紛れね。変化が欲しい年頃なのかしら?」

大きなため息が出た。
まだ、聞きたい事は山ほどあるが、差し当たってはため息しか出なかった。
猛烈に頭痛がする。といっても酒のせいじゃない。
このあまりにもバカげた『現実』のせいだ。

見聞きしたこと全部、何もかもが最高に信じられないが、きっと本当なのだろう。
兄貴と母さんが死んだ事も、俺が死ななかった事も、幻想郷なるところに連れて来られたのも、妖怪と差し向いで飲んでる事も。

信じたく無いが、事実なのだろう。
けれど、彼女が言うままに、この非現実を受け入れたとしても、問題は山積みだ。

「しかし、先々俺はどうなるんだ?」
「ま、私に喰われるか、帰る事になるわね。私に喰われるのを断固お勧めするわ」
「…いや、塩焼きはやめてくれ、まだ死にたくないからな」

「…どうして? あなたはもう死んだのに」

彼女の柳の若葉のような唇から、ただ純粋な、おそらくは初めて本心を見せた問いが発せられた。
その問いに答えようとして、なぜか言葉に詰まった。
何か大事な理由があると思ったが、それが言葉にならない。

命はそれほど惜しくない。死ぬのは大して怖くない。未練はあまり残って無い。
痛いのも苦しいのも嫌いだが、それが理由ではない気がする。
いささか勢いに乗り過ぎたが、死を選んだことを後悔はしていない。
それでも、死にたくない。

呆然と黙り込んだ俺を見て、紫が満面の笑みで言った。

「次の満月まで時間をあげる。それまでに理由を聞かせなければ。…そうね、幻想郷は貴方を認めない」
「…つまり塩焼きか?」
「さあ、どうかしら? …記憶を根こそぎ奪って、私の下僕になってもらうのもいいわね」

それだけ言うと、小さなあくびを一つして、スキマに入って行った。
呼び止める間も無かった。

もっと紫に話を聞きたい。まだ分からない事が多すぎる。

けれど、それよりも先に火急の用事を済ませよう。済ませなければ。
話はそれからでも遅くない。

さて。

「トイレって、どこだ…?」



        四        



「ふぅ…」

結局、2~3分ばかりさまよって、ようやくトイレを見つけた。いや、厠と言った方がいいのか。
六畳一間の兎小屋はもうたくさんだが、無闇に広いのも考えものだ。
用を足してから、手水鉢に張った薄氷をたたき割り、凍みるように冷たい水で顔を洗う。
服の袖で乱暴に顔をぬぐい、縁側に座りこんだ。

辺りには、他の建物の明かりはおろか、人の音すらない。
月の灯りと、風の音。本当にそれだけの世界だ。
不思議に、心が安らいだ。

おかしな心持ちだ。
つい数時間前には家族の訃報を聞き、自殺した。
けど今は、こんなけったいな世界でのんきに月を眺めている。
まったく、どうなっているのか。俺は、こんなに適応力の高い男だったか。

ほんの少しだけ欠けた月が、冷涼とした灯りを灯す。
月が満ちるまでは、あと四日と少しだろう。 
短いとも長いとも、思わなかった。

とりあえず眠い。次は、寝床を探さなければ。



        五        



目が覚めた時には、日はかなり上り詰めていた。
もっと寝ていたかったのだが、生命の危機を感じて、体が勝手にエンジンをかけた感じだ。
暖かい寝床が見つからず、他人の家の押し入れを漁るわけにも行かず、あのせんべい布団で寝たせいだ。
まったく忌わしいったらない。

「ゔあぁああ……。 はぁ」

大きく伸びをして、ついでにため息をついて部屋を出た。
まずは飯が食いたい。それに風呂にも入りたい。
この欲求の二つを実現するためには、まず八雲を捕まえなければ。
だが、このやたらと広い家で、彼女を探し当てるのは中々時間がかかりそうだ。
そう、善は急げ。

「おーい、八雲さーん。居るかー?」
「呼んだか? 客人」

と、大声をあげた俺のすぐ後ろから、涼やかな女性の声が聞こえた。
数秒で見つかったのは、八雲ではなかった。
振り向いた俺の目には、廊下に佇む金髪の女と、冷たい風に揺れる、…黄金色の九本の尾が映った。

何度か、目をしばたいた。
二度目で、紫とはまた違った色味の金髪の中に、狐の耳を見つけてしまった。
…どうやら、見間違いではない。そうあって欲しいものだが、そうではない。 

「どうしたんだ? 呆けたような顔をして。紫様に用事か?」
「…あ、ああ、そうだけど。」
「ならついて来るといい。紫様の部屋まで案内しよう」

身を翻して、尻尾女が足早に廊下を歩き始めた。
慌てて追い掛けると、鶯張りの床が澄んだ音で鳴く。

「なあ、あんたの名前は? 良ければ教えてくれないか」
「八雲藍。紫様は私の主、私は紫様の式神だ。お前は?」
「俺は、矢上薫だ。多分短い間だが、よろしくな」
「…変わった人間だな」

それだけを言うと、藍は歩調を速めた。
どうやら、親睦を深める必要性は感じていないらしい。それなら、俺も無理には話し掛けない。
そのまま黙々と歩いていき、離れの一室で、藍は足を止めた。

「紫様、おはようございます。客人がお呼びです」

そう言うや否や、スパン! と小気味よい音を立てて襖を開け放つ。
驚いたことに、中にはエアコンがあり、少し暑いのではと思うほどの温度が保たれていた。本当に非常識な屋敷だ。
藍は、そんなことにはお構い無しで、そのまま全ての障子と襖を次々と開け放って、外の冷気を放り込む。

しまいに、紫が潜り込んでいると思わしき布団をはぎ取った。
そこには、芋虫のように丸まった紫が居た。妖怪とはいえ、17~8に見える女だ。寝巻き姿はけっこうな眼福である。

「ぅう…なにするのよぅ…!」
「こうでもしないと、お起きにならないでしょう? お客人がお呼びですよ」
「あぁ、あれね…。別に食べちゃっていーわよー…? だからもうちょっと…」
「もぅ! またそんな事を…、いいから早く起きて下さい! ご自分で拾ってきたのですから!」
「…おい、俺は捨て猫か何かか? 拾った捨て猫喰うってか? おい」

藍の説得には応じないで、紫はくるくると敷き布団にくるまった。
俺の抗議は、さらりと無視された。

「…なんつーか、太巻きみたいだな」
「そうだな、切って並べてみようか?」
「…いや、いい。それはそうと、いつもこんなんなのか?」
「いや、最近は冬眠前だから特別に手強いな。まだ寝つくのには早いのだが…」
「…冬眠か、そうか」
「ああ」

もう、冬眠するなんて程度では動揺しない。
そんなもん、熊だって栗鼠だってするじゃないか。栗鼠の姿に熊の暴力、あの女にはピッタリだ。
それに、いくら手強くとも、紫に起きてもらわねば色々と不都合なのだ。
意を決して、そろそろと太巻きに近寄る。

目の前の寝息を立てる太巻きをつついてみた。
…微動だにしない。

ごろごろと揺さぶって、いや転がしてみる。
こんなのじゃダメか。

それならばと、飛び出た足の裏をくすぐってみる。
これにも全く反応しない。
大した根性だ。それとも感覚をシャットアウトできたりするのだろうか?
だとしたら便利なもんだ。ふむ。

さて、次はどうするか…?

「ぐぉふぅ…っ!?」

鳩尾に、華奢な拳がばっちりとめり込んだ。息が詰まり、内臓がゆさぶられる感覚に吐き気を感じる。
調子に乗ってくすぐり続けていたら、スキマから伸びた腕に鳩尾を思いきり殴られたのだ。
痛い。とても痛い。
うずくまった俺が、涙に滲んだ目を向けると、ちょうど太巻きがスキマの中に入って行く所だった。
藍が無言で伸ばした腕も、間一髪で太巻きを掴むには至らなかった。

「さて、こうなるとな…。とりあえず、早めの昼食にしようか。遅い朝食でも良いが、どちらがいい?」
「…昼にしてくれ。あ、そうだ。その前に風呂に入れるか?」
「ああ、構わないよ。…しかし、随分と怖いもの知らずだな、客人。近ごろ珍しい図々しさだ」
「ああ、それが身上でね」
「…やはり、変わっているな」

うずくまった俺には目も向けず、藍が、愉しげに笑った。



        六        



かっこーん。と、
乾いた、小気味よい音が凍てついた空に響いた。
また一つ、太ももほどの雑木の幹を取り上げて、丸太の上に据える。

「で、あとどれだけ割るんだ?」
「そうだな、しばらくは滞在するのだから…。もう二ダースほどか」

藍が、縁側でのんびりと煙管をふかしている。
それを横目に、俺は汗を流して薪を割っていた。

「大体、なんだって俺が…。そもそも、紫の部屋にエアコンがあったじゃないかよ」
「居候なんだ、それぐらいはやるものだ。それに、エアコンでは風呂も沸かないし、飯も炊けない」
「それは分かるが…。いや、待て待て。さっきは客人って言ってたろ!」
「今から、居候だ」

それだけ言うと、灰を地面に落として奥に入って行った。いい気なもんだ。
とりあえず、あと24本。早いところ済ませて風呂を浴びよう。…いや、沸かそう。
しかし、24本か。1本4つに割ったら96だ、大層な量じゃないか。やれやれだ。

「迂闊なこと言わなきゃ良かったな…」
「後悔先に立たず!」
「ぉう!?」

鉈を振りかぶったその時、突然快活なシャウトが聞こえた。
大声ってのは、単純だけどその分驚かすには効果的だ。それが背後からなら、さらに格別。
びっくりした。すごく。
嗚呼、心臓が口から半分は飛び出たかもしれない。いや、この程度なら胆嚢あたりですんだかもわからん。
待て、胆嚢が無くなったらただでさえ小さな肝っ玉が消滅する事にはならないか? 一大事じゃないですか-!

「おにーさん、ナタ飛んでったよ?」
「え? ああ… おお」

ショック緩和用の下らない思考を止めて、割れてない薪から視線を動かすと、鉈が地面に突き立っていた。
我ながらうまいこと放り出したものだ。まるで、王の選定を担う聖剣だ。
いい、これはテンションが上がってしまうぞ…。

「…じゃなくてだな。いきなり後ろで大声を出すな。あと、誰だお前!」

と、下らない思考を引きずるのはやめて、振り向く。
しかして、後ろにいたのは、人間でも妖怪でもない。
一匹の、猫だった。

「いや…、いやいや。…これはねーよ」
「にゃあぅ?」
「…ねーよな? な?」

まさか、この猫が叫ぶワケが無い。声帯の構造からして違うんだ、杞憂だよ、杞憂。
それでも猫をチラ見しながら、突き立った聖剣を引き抜く。
もう一度、大きく振りかぶった。

「迷信を馬鹿にしては駄目!」
「さては貴様ーっ!」

今度は、放り出さなかった。
同じ手が二度通用すると思ったら大間違いだ。
甘い。虎屋のようかんより甘いと言わざるを得ない。

しかと掴んだ鉈を、猫がいたところに突き付ける。
さながら魔王との決戦に臨む勇者のように。

「正体を見せ…!?」

そこには、二本の尻尾と猫耳の生えた少女が、ちょこんと体育座りをしていた。

大丈夫だ、問題ない。
この程度は予測の範囲内だ。
そう、問題はない。
化け猫、ただの化け猫。猫なのだ、こいつは猫だ。
そう、ビビってなどはいない。ちょっと見えそうなスカートの中に期待などしていない。

その証拠に、すぐさま始まった珍妙な会話にも、冷静でいられたと思う。

「刃物を人にむけては駄目!」
「いや、人じゃあないだろ」
「…それもそうね。そういうおにーさんは人間なの?」
「ああ、一応な」
「えー? ほんとー?」

そうまくしたてたとたん、少女はついっ、と立ち上がって俺の品定めを開始した。
ちょこまかと俺の周りを歩き回って、じろじろと眺め回す。
別にそれは構わないが、匂いを嗅ぐのは勘弁して欲しい。さすがに気恥ずかしい。

「ふーん。へー。あ、もしかして藍さまの言ってたお客人って、おにーさん?」
「あー、いや、違うぞ。さっきから居候らしいんだ、俺は」
「ふーん、変なの。じゃあまたね!」

それだけ言うと、名も知らぬ少女はどこかに跳んで行った。
どいつもこいつも突然だ。
自分勝手で自由奔放、俺の都合は頭にない。

紫の言う所の理由を見つけても、こんな所で生きていけるんだろうか?
一日目にして早くも不安になってきた。
鉈の刃が欠けていた。



        七        



「着替えはここに置いておくが、着物は着れるな?」
「ああ、まあ一応な」
「最近は、着物もロクに着られない人間が里にも増えているものだからな。嘆かわしい。そもそもが…」

戸板ごしに、くぐもった愚痴ともなんともつかない呟きが聞こえる。
声といっしょに足音が遠ざかってからは、俺のたてる水音より他の音は聞こえなくなった。
独りだ。

「天涯孤独か…、実感ねーな…」

本当に、夢のようだ。
ただ電話口で聞いて、数分後には自殺して、ココに来て、考える間も無く時が過ぎてしまって。
まだ、俺は家族の死を、本当に受け止めてない。
母さんが、兄貴が死んだということを。

こんなことで良いはずが無い。

そう思いはするけれど、…そこで思考は止められてしまう。

元来、考え事は得手ではないのだ。
成果が出ないと分かっていて、これ以上時間を費やすのもバカらしい。
そう思った。

けど、そう思ってしまった自分が、少し気に喰わなかった。

乱暴に湯を波立たせて、湯舟から出る。
石鹸で髪を洗い、そのまま体を拭いて着替えた。
置いてあったのは、厚手の不思議な生地で仕立てられた墨染めの筒袖、帯は薄く灰色がかった白、それとくすんだ柳色の綿入れ、日本男児の心意気、褌。
袴は無かった。

あつらえたみたいにぴったりなそいつらを、てきぱきと身につけた。
着物を着るなんて珍しい事だが、わりと暖かいし動きやすいし、良いものだ。
それになんとなく、気が張り詰めてくる気がした。
これなら、あと二日は戦える。



        八        



「もう仕度ができるな、橙を呼んで来てくれないか?」
「わかった。で、どこにいるんだ? つか橙って誰だ?」
「…そうだな、私が行こう」
「いや、教えてくれれば…」

俺が言い切らないうちに、勝手口から藍が出て行った。
どいつもこいつも、人の話をこれっぽっちも聞きはしない。持病みたいなものか?
俺は、一人取り残された。

刻んだ青ネギを小鉢に移す。
煮干しの出汁に、辛口でむせ返りそうな濃い香りの味噌を溶く。
よくわからない菜っ葉のおひたしを小鉢に盛る。
蒸らし上がった飯をお櫃に移す。

それだけで、昼飯の仕度はだいたい終わりだ。
することもなく、煮干しばかりが詰まったブリキの箱なんぞを覗いていると、ぱたぱたと廊下を走る音が聞こえた。

「やっほう! お昼ごはんーっ!」
「あれっ? おぉ、お前ここに住んでるのか。俺は矢上薫だ。お前は?」

なにがあったのか、俺の自己紹介中だというのに少女の顔色が、薄い紅色から白、青くなって怒りで赤くなる。

「あーっ!? わたしの煮干しー! さてはこんにゃろーっ!」

少女が叫び、視界から消えた。
俺の左腕から、ぱっ。と血が舞う。
少女が背後に回り、俺の喉元に、鋼よりも冷たく鋭い爪を押し当てる。

一瞬だった。

「わたしの煮干しかえせー!」

その、子供じみた要求が、俺に今なにが起きたのかをいっそう強烈に認識させた。
大抵のことには驚かなくなっていたと思ったが、またもや命の危機かよ。
これは、さすがにやべえ。

「待て待て待て! おかしいぞコレ! 煮干しとか別に盗んでないから! 興味ないから! 落ち着け! 離せ!」
「嘘をつけー! だったらなんで覗いてた!」
「いや、ヒマだったからつい…。 っつかホント離して! 腕とかなんかヤバいから! 血が!」
「あれー? 血が出てるねー。おかしいなー、大丈夫だと思ったんだけど…。ごめんねー、反省はしない」
「なにが大丈夫かー! 痛いから! マジで! 離せ!」

「やれやれ…。離してやれ、橙」

少し呆れたような、それでも凛とした声が聞こえる。
正に救いの神。地獄に仏。九死に一生。間一髪。そんな感じ。

勝手口に立っているのは、やはり藍だった。
ああ、なんというタイミングのよさ。この状況を待っていたんじゃなかろうか?
ホント、ニクいやつだぜこんちくしょう…!

「ヤダ」
「なっ…! 橙、我が侭を言うな!」
「ヤダ」
「ほ、ほら。もう昼ご飯が出来ているんだ、冷めてしまうぞ」
「あっためればいいじゃない」
「いや、だからだな…」

…ダメだ。
昼ご飯より先に、俺が冷めきった。
この救いの神、てんでダメだ。完全にナメられてる。
解放されるどころか、橙の腕にいっそう力がこもってる。
結局、自分で丸めこむしかないのか…。

「まずは、落ち着いて箱の中見てくれよ。開いてる袋は、ないだろ?」
「…うん」
「じゃあ次だ。俺が、煮干しの袋をまるまる一個、隠し持ってるか? あの袋、かなり大きいぞ」
「…むう」

俺を掴んでいた腕が緩んだ。
左腕からはいまだに血が溢れだして、バトル漫画のような血だまりを形成してはいるものの。
どうやら、許してもらえたらしい。所詮は子猫ちゃんといったところか、御しやすい。俺が犯人だったらそのへんに煮干しを隠しとく。

まだ物騒な顔の橙が、俺の前につかつかと進みでた。
そのまま、息が触れるほどの距離に、端正な顔を、ずい。と近寄せた。妙にどぎまぎする。
けど、俺に浴びせられる言葉は、謝罪だとか何だとか、そうステキなものじゃなかった。

「気をつける事だね」

細っこい体から発せられたとは思えない、ドスの聞いた低音。
例えるなら、石臼をごろごろと挽き回すような重低音。

思わず立ちすくんだ俺を捨て置いて、二人は昼飯の仕度を再開した。実に自然である。一服の絵画。
まただ。一時が万事この調子。
だけど、半日続けば、こんなめちゃくちゃにも慣れようというものだ。
けど、まだ痛みには慣れてない。

「おい、俺の左腕はどうなるんだ?」
「ん…? ああ、直ぐに治るさ。まあ、一応見せてみろ」
「いや、直ぐに治るってオカシイだろ…。かなり深いぞ? たぶん」
「いいから、見せろ」

言われるがままに、左腕を差し出した。
差し出して、驚いた。二の腕の傷は、かなり浅い。
一体、どういうことだ? さっきは、かなり血が流れていた。傷はそれなりに深いと思ったが…。

「なんだ、かなり浅いな。この分ならば、お昼が終われば元通りだ」
「おい、どういうことだ? 傷は深かったと思ったが…」
「知らないか」
「ああ、知らないね」
「まあ、知る必要も無いな。これ以上、気にするな」
「…わーったよ、肉体改造でもされてないんならいいさ」

こいつらの、言う事なす事やる事、本当に不親切極まりない。
他人に理解してもらうことの重要性を理解しなければならない。切にそう願う。
けれど、だんだん分かってきた。

彼女達は自分の都合で生きているんだろう。
気づかいも気苦労も、腹芸も腹の探りあいも無い。ただ、自分の望むままに行動する。
そうやって、周りの者を振り回す。
それでいて、つながりあっている。
進歩して、豊かになったハズの俺たちでは、あり得ない生活。
こんな日々が暮らせるのならば、悪くない。かもしれない。

「…悪くないよな」
「腕を抉られるのがー? 私はあんまり楽しくないけど…」
「ちげーよ! なにをどうしたらそんな答えが出るんだよ? 言葉の錬金術か?」
「違うんだー。まあいいや、早くごはん食べよ!」
「そうだな、私は賛成だ」
「…俺もだ」

結局、流されている。
でも、何だかんだと言って、俺は笑っている。
それが、とても楽しく思えた。



        九        



『いただきます』

幸せそうな橙の声と、淡々とした藍の声。おまけに少し堅い俺の声。
三人揃っての、『いただきます』。

こんなの、中学校以来だ。
家では皆バラバラだったから、こんな事は小学校以来ほとんどしてない。
慣れないやら、照れくさいやらで、挨拶一つにも一苦労した。

でも、あとは食うだけだ。それならば大の得意である。

ちゃぶ台には、あぶらげと大根の千六本の味噌汁、大根の含め煮、よくわからない菜っ葉のおひたし、白菜の塩漬け、それとご飯。
質素だけど、貧しくはない。豊かさがにじみ出てくるような、そんな献立。
でも、猫と狐の妖怪が、さも美味しそうに大根の含め煮でご飯を食べてるのは、どういうことなんだろうか。
肉食じゃないのか? こいつらは。
橙は味噌汁にたっぷりと刻みネギを入れてるが、猫はネギ食ったらいかんだろうに。

そんな思考が、橙の声に遮られた。

「いやー、ひさしぶりのご飯だな-」
「久しぶり? どういうこっちゃ?」
「私達は人間とは違って、お腹もへらないし、食事の必要性もないんだよ。だから食事はあんまりしないんだ」
「ふーん。羨ましいな」
「まあ、便利ではあるな。橙のように、食べること事体が楽しみである者も居るには居るが、少数だ。大方は、酒と肴があれば天下太平だ。私もそうだよ」
「いいねぇ、ますます羨ましいよ」

九割は本心で出来た呟きを口に上せてから、大根に箸をつけた。
…旨い。物を食って、うまいと思ったのは久しぶりだ。
そんな当たり前の楽しみも、今までの生活の中には無かった。

そうまでして、俺は。

ふとしたはずみで、そう思ってしまった。思ってしまうと、それはもう取り返しのつかないほど膨れ上がりそうで。
俺は慌てて意識を逸らした。

「…うめぇな」
「それは何よりだ。おかわりは一膳までだ、居候」
「安心しろ。そんなに食わんよ」
「藍さま、おかわりー!」
「おぉ、食うな-…。あー、でも早食いは太るって言うぞ?」
「そ…そんな迷信を信じては駄目なんだよ!」
「ほう、迷信などとは言わないが、聞いたことの無い話だ。本当なのか? 居候。…いや、近いうちに橙が教えてくれるな」
「ぐぬぬ…」

湯気のたつご飯を前に、葛藤する橙を見て藍が笑う。
俺も、知らず、重苦しくて粘り着くような、嫌な感情を振り落として。
低く声をあげて笑っていた。

「橙、式神は太らないぞ」

その一声で、考え込んでいた橙がはっとする。
そのまま数秒固まってから、何ごとも無かったかのように食べ始めた。
藍の含み笑いが聞こえる。
俺も、食べるのを忘れて吹き出した。

本当に、何年ぶりだろうか。
一つの食卓を囲んで、おしゃべりして、笑いあうなんて。
本当に、何年ぶりだろうか?
こんなに、楽しかったんだな。



        十        



『ごちそうさま』

満足そうな橙の声、相変わらず淡々とした藍の声。まだまだ堅い俺の声。
三人三色の挨拶の後。
食後は皆揃っての洗い物となった。いや、一人は明らかに働いていないが。

「うぉっ、水冷てーな」
「ふふん、これだから…。冷たっ!」
「ほら、二人とも。早く洗ってくれないと私が拭く物が無いぞ」
「…相変わらず良いご身分だな、おい」
「ふむ、仕方のない奴だ」

藍が言うや否や、手の切れるような冷水が一瞬でお湯に変わった。
たじろぐ俺には構いもせずに、驚く様子も無く橙が洗い物を続けている。

俺も、それに倣うことにした。



        十一



洗い物が終わり、こたつでお茶を飲んでいた俺は、また揉め事に巻き込まれていた。

「えー、ヤダー。さむいー。重いー。動きたくないー」
「またそんな我が侭を…。なら、お前が夕飯の仕度をするか?」
「やだー」
「それなら、香霖堂に行ってこい」
「ヤだー」

事の起こりは、ヒーターの故障だった。
万事につけ使い方が荒っぽいのが問題だと思うんだが、大事に使おう、などという発想はどうやら持ち合わせていないようだ。
どうせ、いつかは壊れてしまうのだ。と考えて目一杯使っているのだろう。
でも、動かないからって凹むほどぶん殴るのはよくないと思う。おかげで、哀れなヒーターは、まるで月面のようにクレーターだらけじゃないか。
で、まあ。結局。

「じゃあ、そこの『いそうろう』に行かせればいいじゃーん」

こうなるわけだ、当然。

「そら無理だ。こーりんどーとやらがどこにあるかも俺は知らん」
「それに妖怪も居るからな。のこのこ歩いて行こうものなら、いいカモになるだけだぞ」
「えー、いいじゃーん。もうなんかめんどくさーい」
「…ふむ…、そこまで言うのなら仕方がない。矢上に行かせるか」
「え? ちょ…」
「まぁ、話は最後まで聞け。ただし、橙がお守をすることを条件としようじゃないか」

で、結局。こうなるわけだ。



        十二        



「おい、こんなとこ歩けねーよ! おい!? ねえ!? ちょまっ、置いてかないでー!」
「ん? なにー?」
「確信犯だろお前…。ひ弱なオレがこんな物背負って、こんながけっぷち歩けると思いますか? 無理ですよ? バカですか?」
「えー? 無理なのー? 個人的には、おにーさん人間やめちゃっていい気もするけど…」
「やめてねーよ! 死んでもやめるか!」
「しょうがないなー、もう」

そう言うや否や、問答無用で、細っこい左腕一本で、担いだヒーターごと俺を肩に担ぎ上げた。
…嫌な予感がする。

「おい、待…」

橙が跳んだ。
見る間に景色が遠くなり、雲に突っ込む。
はためく着物、逆巻く風、風に踊る橙の髪。
俺、飛んでる。

「やーっはぁぁぁあああ!」
「のぁあああああ!? おい、たけえって! おい! 着地できんの? 死ぬの!?」
「おにーさん、うるさい。男はどーんと構えてるものだよ?」
「いや、無理無理無理! 地面が! 来る! きっと来 ぉぐぅっ!」

視界が暗くなって、白くなって、また暗くなる。
着地の衝撃で、俺の腹にめり込んだ肩が、跳躍のGでまためり込んでいく。
つまりだ、常に渾身の腹パンを喰らっている状態。
気絶するのが一番楽なんだろうが、どうにも上手く行かない。
…この責め苦が、一刻でも早く終わるのを待つしか出来ないのだ。俺は。
また、目の前が暗くなった。



        十三        



「とうちゃーく♪」

奇跡としか言い様がない。他のなんだと言うんだ。
俺は立っていた。
地面は揺れて、腹には鈍痛。吐き気と呼吸困難のおまけ付きだが。

「お前…バカだ…」
「…? なんか言ったー?」

今度こそ本当に、目の前が真っ暗になった。




        十四        



「やあ、お目覚めだね。いらっしゃいませ」
「あ、おきたおきた。早かったねー」

目を開き、古びたソファベッドから体を起こすと、同時に声がふたつ聞こえた。
一つは、橙、もう一つは若い男の声。

「気分はどうだい?」
「…最悪だね」
「はは、そうだろうね。まあ、紫に起こされるよりはマシだったろう?」
「む…。まー、そうさな。紫の事、知ってるんだな」
「君と同じか、それ以上にはね。でも、そこのお嬢さんの方が、よく知っているんじゃないのか? 知りたいのなら聞いてみたらどうだい」

名指しされたようなものだが、それでも橙はきょとんとしたまま、交互にオレ達を見比べていた。
まったく、本当にこいつは紫たちと同じ式神なのか?

このお嬢さんと通じない話をするよりも、この男から聞き出す方が手っ取り早そうだ。
けど、そんなことはもうどうでもいい。知ったところでどうにかなるような事ではないのだ。

「いや、いいよ。…迷惑をかけた」
「こちらこそ。退屈な時間を紛らわせてもらったよ」
「ヒーターはどうなったんだ?」
「ああ、彼女に代わりを選ばせているよ」
「そうか、邪魔したな」
「邪魔ではないよ。言っただろう? 退屈を紛らわせてもらったんだ、等価交換さ」
「…借しをつくるのは、嫌いか?」
「ああ、好きじゃない。どうにも、返さないヤツが多くてね」

言って、男が少し顔を綻ばせた。なぜかは知らないが、この状況をけっこう楽しんでいるらしい。
あまり心地の良い笑いでないのが、少し気に触った。
と、突然。

「いやー、いいですねー! ドライでクールな男の友情! ってことにしときましょう! お二人ともそれなりな美形で絵面もいいですねー!」
 
そんな騒々しい声と、蹴り開けられた扉の悲鳴、ばしばしと切られるシャッター、嫌そうな店主の声。三つがほとんど同時に聞こえた。

「…前にも言ったけれど! 取材を許可した覚えはないね。射命丸さん」
「あやや、これはあくまでも個人的な興味から発した…」
「いいのかい? 僕は貴重な購読者だよ? それでも取材を続けるのならば、考えがあるけれど」
「ぬぬぬ、いつになく手厳しい」

闖入者に答えた店主の声から、この間十秒。その間に、状況は大体把握できた。
まず、少女の名前は射命丸。彼女は何かの記者をしているのだろう。雑誌か、新聞か…? それも、ごく小さな物だ。
それの理由に、彼女はごく軽装だ。店主の発言から、写真の撮影から原稿まで一人でやっているだろうことも分かる。

次に、この少女の書いた雑誌なり新聞なりの購読者は少ない。哀れなほど。

次に、この少女は人間じゃない。
背中の黒い翼、紅い高下駄、山伏の冠るような紅い帽子。
実に分かりやすい。ここまでシンプルだと、いっそ清々しいくらいだ。
聞かなくてもわかるその答え。天狗。
この分ならば、次に出るのは鬼か河童か、そんなもんだろう。

「そもそも、君の記事は結構だけど、近ごろは度が過ぎるね。
 号外で窓を割っていく上に、一度ネタを見つけたからといって僕の店に張り付くのはやめてもらいたい」
「いえ、私は記憶にございませんが…」
「僕の店に紫が対価を受け取りに来ただけで、『大妖怪、熱愛発覚!』。なんて一面トップで書いた事もかい? 僕はまだ記憶にあるよ」
「…いえ、ございます。ハイ」

…最後に一つ追加。この少女は危険だ。
油断したら死ぬ。社会的にだ。

ここまで考えをまとめて、ある事に気がついた。

俺、すぐに帰らないとヤバいんじゃねーのか?

思い付いたら即実行。今までのポリシーどおりに、橙なぞは放っておいてくるりと踵を返した。
だが、それでも遅かったみたいだ。

「あややや? もうお帰りですか? せっかく霖之助さんが美味しいお茶を煎れてくれるというのに…」
「うん、それは初耳だね。どういうことだい?」
「ふっ…、そんなあなたに朗報です! ここに、こんな面白いものがあるのですが…」

不敵に笑い、ポケットからソレを取り出したとたん、店主の目の色が変わった。ついでに顔色もだ。
さし上げられた射命丸の手には、ソレ。スマホが握られていた。
明らかに、今の俺はスマホと天秤にかけられている。
これは、最悪な予感がする。

「…あー、いや、確かにそう言ったね。君たち、緑茶でいいかい?」
「さっすが! 話がわかりますねぇ」
「僕は、自分にとっての利害はわきまえているよ」

思ったとおり、実に思いどおりの展開。
すがるように橙を見ても、彼女は電池の切れたア○ボに夢中で、俺の事など気にもしていない。
そしてやはり、俺の呟きも。

「俺の利害はどうなるんだよぅ…」
「知らないね」
「知りません」

誰にも、聞いてもらえなかった。
もう、これが当然のような気もする。



        十五        



文の攻撃は、三十分は続いたろう。その質問は、どれも不躾で、巧妙だった。
それを逐一描写する勇気は、俺には無い。
けれど、俺はその攻撃を耐え抜いて。俺の名前と、紫との出合いを語っただけに止めた。
我々日本国民にはすべからく黙秘権が与えられるべきであるのだ。与えられたものを行使して何が悪いというのか。
彼女はだいぶ不機嫌な顔をしているが、んなこと俺の知った事ではない。

俺が攻撃されている間。いや、今この瞬間もこの店の店主、森近霖之助は、俺を売って手にしたスマホを矯めつ眇めつ眺めている。
俺のお守であるはずの橙は、お茶と茶菓子をかっ喰らって昼寝を始めた。今もぐっすりお休みだ。

圧倒的な孤独の中での死闘。それは、まるで一生のように感じた。
だが、俺は凌いだ。

「いやはや、強情ですねぇ…。吐かせるには、拷問が入り用でしょうかね。石でも抱かせますか?」
「いや、最近そのテのジョークが理解できなくなってな。どうも本気に聞こえる」
「私は本気ですよ…? …あややや、冗談ですってば、冗談! この世の終わりみたいな顔されても…」
「…安心したよ。で、この世の前に、取材はまだ終わらないのか?」
「ええ、もう終わりです。残念ですがお開きにしましょう」

明確な、終了の意思表示。
それを聞いたとたん、全身から力が抜けて行った。
守り抜いたのだ。俺は。

達成感に身を浸しながら、冷えてしまったお茶を、一息に飲み干した。
手帳に向かって何か話しかけ始めた文は捨ておいて、まだ残っていた干菓子をつまんで店内を見て回る。

煮沸式加湿器、ワンダース○ン、不思議な石ころ、PHS、LDプレイヤー、どこか神々しいボロボロの日本刀、口ばかりがやけに綺麗な壺。
がらくたと商品、宝とゴミクズ、ギリギリの境界上にある物が所狭しと並んでいる。
その中で、一つの商品が目を引いた。

「お、iMac」

棚の上に置いてあったソイツは、だいぶ使い込まれた赤いタイプだった。
その、なんとなく間の抜けたラインが愛らしく、俺も買ってみたいと思ったPCだ。無論そんな金は無かったが。

「ああ、それですね? 目のつけ所が鋭い、それは僕も気に入っている物ですよ。何よりも、美しい。
 そのデザインが、内面を求めることばかりではなく外にむけて表す余裕を示している事は明白です。
 万事につけせせこましい他のパソコンとは、一線を画しますね。僕はその作者に敬意を表しますよ。まったく、すばらしい。
 けれど、その式神はずいぶん気難しいのですよ…。かくいう僕も、まだ使役できないのです。
 ですが、あなたがその神秘の箱を解しようとするのならば、大いに応援しますよ。今ならそのimac…。え…?」

突如、店主が営業モードに切り替わって口上をぶちまけ始めた。ちょっと引くぐらいの勢いで。
と、営業トークをマシンガンのように奏でる口が止まり、代わりに小さな疑問がもれる。
数秒の思考の次に溢れたのは、叫びだ。

「そうかぁっ! 君は外の知識を憶えているんだね!? だからソレの名前がわかるのか! もしかして使い方もわかるのかい!?」
「あ、ああ。それなりに…」
「それは凄い! 君のようなさえない男が、この不思議な式神使いとはね! まったく、すばらしい僥倖だ…!
 ぜひ、僕にも伝授してはくれないだろうか!?」
「分かった、いいから落ち着けって! 色々勘違いしてるから、まずはそこからだな」
「あ、あぁ。すまない。僕としたことが取り乱した」

霖之助は少し居住まいをただすと、ストーブの上に沸かしてあるお湯で、今度は紅茶を煎れた。
橙と文も、俺の話に興味津々と言ったふうで、ストーブの周りに寄り集まってきた。
少女二人に両脇を固められるのは悪い気分じゃないもんだ。こいつらの、爪と手帳が無ければもっと幸せなんだがな。

そして、俺の生涯で最初の講演会が始まった。

それは、2時間ほどだったか? ずいぶん濃い時間だったので、長く感じたかも知れない。
PCの動力から原理まで。知っている事のおおよそ全てを教えた。頭脳は明晰で、砂地に水をまくように吸い取って行くのが小気味よい。
別に俺もエンジニアをしていたわけではないが、仕事で必須だったから、そこらのパンピーよりもよっぽど詳しい自信はある。
その講演会の中で、霖之助は貪欲に知識を求めてきたが、結局は一つの問題に帰結するようだ。

「つまりだ…、つまりだよ? その『電気』が無ければ、これらは全てガラクタなのか…?」
「ああ、そうだ」
「そんな…」
「あやや、確かに河童たちも『電力の定圧での安定供給が難しい』なんて言ってましたねえ。この事でしょうか?」
「…そんな……、そんな事がぁあっ…!!」
「うわっ?! 大声出さないで下さいよ…」
「右に同じ」

唐突に一声吠え、気力を使い果たしたかのように、霖之助はがっくりとうなだれた。
俺たちの言葉に反応する余裕もないようだ。まあ、無理もない。
この『式神』に、彼は少なからず、幻想を抱きすぎていたみたいだ。
そいつら全てが、ここではガラクタだと言われたら、そりゃあ落ち込むだろう。
うなだれた霖之助が、よろよろと店内のカーテンを閉めて回る。どうやら、これで店仕舞いにするつもりらしい。

「閉店です。御買い物の用があるのなら、今すぐにどうぞ。無いのでしたら、…また後日にいらして下さい」

いっぱいいっぱいの営業スマイルでそんなことを言ったが、まるで夢遊病の幽霊だった。



        十六        



三人揃って夢遊病の幽霊に追い出されて、夕暮れの中に放り出された。
落ち込んでるからって、この扱いはないと思う。
でも、そう思っているのは俺だけらしい。二人には、特に不満は見えなかった。

「あ、そうだ。写真、撮りませんか?」

いきなり天狗にそんなことを口走られて、戸惑わない人間はいない。
俺も、その例に漏れなかった。

「は? え? 写真? なんで?」
「私達の出会った今日という日を祝して…」
「断る。誰が信じるか」

後ろで地団駄を踏んでいる、知った事か。
まったく、週刊誌がどれだけ悪辣な事をしていたかようやく理解できた。
外に帰れたら、週刊誌だけは絶対買わないようにしようそうしよう。
まあ、今までに買った事など一度も無いし、拾った事も無い。

行きとは違って、橙に先導されて、森を突っ切り家路を急ぐ。
時間はかかるであろうが、これが普通で、普通とは平和を意味するのだから何の問題も無い。
そのおかげで、帰りは、俺にもおしゃべりをする余裕があった。

「こええなー、あの天狗」
「うん…」

それだけ呟くと、橙はキノコを蹴散らして帰路を先導する。
その声は、下らない思考とおしゃべりができる程度には調子が出てきた俺とは違い、乾ききっていた。
彼女らしからぬ、何かひどくおかしな物を見た気がして、俺は口をつぐんだ。

それきり、ひどく霧が立ちこめた森を進む。粘ついた空気が、肌をなぞる。
肉体には何の影響も無いが、この毒々しい風は、浮き足立っていた俺の心をどこかへ沈めて行く。
イヤな風に、俺は少し身を震わせた。

「式神ってね、考えないんだ」

その中で、橙が急に言った。
早く行こう、早くこの森を出よう。と言いかけた俺を押しとどめるように呟いた。

たった一言。そう言ったきり、またキノコの森を歩き始めた。
意味は分からないが、彼女は明らかに、俺になにかを求めているらしい。
でも、俺にはその答えが何か分からなかった。

どこをどう歩いたのか、森がいつのまにか変わった。生えている木々、下草、空気。全てが霊妙な雰囲気になっている。
空も色を変え、刷毛で佩いたように、わずかな朱色を残す。
道の先には、灯りの灯った屋敷が見えた。

「私さ、コンピュータって嫌い」

唐突に、そんなことを言った。
立ち止まって、汚れるのも構わずに、張り出した木の根に座り込んだ。

「話を聞いてるとさ、あの箱と私たちって、聞けば聞くほどいっしょだな-って。あんな、ただの箱と同じモノで、同じような価値だなんて。
 そんなのぜったいヤだな-。ってさ」
「…? いや、確かにパソコンは大層な計算も一瞬でできるけど、それはただの計算機だぞ? それと比べるのはおかしいだろ」

座り込んだ橙が、少し意外そうに俺を見上げる。
そして、その言葉を口にした。

「だから、いっしょなんだよ」

少女の言葉の意味が、まったく分からなかった。
それがどういう意味なのか。何と、何がいっしょなのか。
だが、すぐに答えを突き付けてくれた。

「そこらへんからた半端者の妖怪を連れてきて、術者がそれ相応の式をかぶせる。九尾狐には九尾狐に相応しい式。猫叉には猫叉に相応しい式。
 そうやって作るんだよ。式神は、みんなそう」
「ぬ…?」
「パソコンもそうでしょう? 言ってたじゃん。
 適当な本体を引きずってきて、それに色々な『そふと』だの『おーえす』だの色々かぶせていじくって、一人前のパソコンにするんだって」
「む…。まあ、そうだ」
「でね? どんな素体にどんな式をかぶせても、与えられた課題を解く『思考』はあっても、自分で課題を見つける『考え』が無い。って藍さまが言ってた。
 おにーさんも、パソコンには『そこのコップをとってくれ』じゃなくて『アーム3を時速1キロで右に30度、上方向に12度、前に20センチ伸ばしてアームを閉じろ』って言わないと通じないって言ったじゃない。
 なら、程度は違っても、私たちはあの箱とそうは変わらないんじゃないかなー。って、嫌になっちゃうんだ」

そう言って、笑っている橙は普段と同じに見えた。
でも、そう見えただけ。そう見えるだけで、その姿はひどく寂しげだった。
なら、励ましてやらないと駄目だろう。大人、いや、一人前の男として当たり前のことだ。
ほとんど初対面なのに、そう思っただけ、それだけで、なぜだか言葉が堰を切ったように流れ出した。

「それは違う。俺は式神がどんなものかはまったくこれっぽっちも分からないけど、お前はパソコンとは違うぞ。
 悩むパソコンなんて、どこにも無いさ。人格を持てば、それがどのような器に在ろうと人だ。俺はそう思う。
 もし、式以上になり得ないとしても、お前の主は式神としての価値以上のモノをお前に求めていると思う。だって、紫が式神を必要とする訳がない。
 自分以外の目が欲しいのならスキマを開けばいい。足もそう、手もそう。腕っぷしなんて言うまでも無いし、計算だって自分で出来る。
 それでも必要ってことは、式神としての機能以上のモノが必要なんじゃないのか? とりあえず、俺はそう思う」
「そうなのかなー?」
「…ああ、そうだ。俺が言うんだから間違いない」
「ふーん。信用できないかも」

ぴょん、と飛び下りて、お尻をはたいてゴミを落として。

「でも、…そうだといいよね」

橙は、笑顔で振り向いた。
よかった、と思った。
それともう一つ。23年生きていて、初めての感情も同居している。
ソレは、世間一般で言うところの『ときめき』なのではないかと、どこかで考えた。

でも、それだけだ。彼女は俺には過ぎたものであるし、無論、恋などしていない。…俺はロリコンではないのです。
ただ、美しいもの、として感じて、過ぎ去った。
妙に晴れがましい気分で、空を視る。もう、夕暮れも去ってしまった空が映った。
早く帰ろう。藍が待っているだろうから。

「ぃよっ! 憎いですねーぇ、この色男! 一面トップを総取りですよ-!」
「…帰れよ、バ鴉」

あーもうブチ壊し。なんかもう何もかもブチ壊し。
いい雰囲気とかいいセリフとか、もう全部ブチ壊し。
ホンッとにブチ壊し。まるでブチ壊し。

「帰れバ鴉! 写真とんな! フィルムよこせ!」
「そういうわけにも行かないってなもんですよ? 私は前人未到のエル・ドラド、天涯魔境、最果ての地、全て遠き理想郷。
 その名も八雲さんちを撮っているだけなのに、そこにあなた達が割り込んでるんですから。どっかいってほしいのはむしろこっちで…」
「アホか! 通じるか! いいからフィルムよこs。…ぁー、うん。もういいや」
「…ん? ふむ、では私の勝利で確定ですかね? 流石の天狗プレッシャー。では…」

いいや、違う。俺の勝利を確認したのだから、俺は黙った。
橙は最初から黙り込んでいた。つまりはそういう事だ。
この天狗も、数秒後には心底から後悔するだろう。
だって、この森、この屋敷は彼女の縄張りだ。彼女がこんなに身勝手で面白そうなヤツを見逃すハズが無い。
それにしたって、少しやり過ぎかもしれないが。

「今晩は、良い夜になりそうね。…あなたもそうは思いませんこと?」

ほら、出た。
具体的には、射命丸の上半身、ちょうど胸骨あたりから出た。ぞろりと出た。
そもそも自分の胸にスキマが開いてるのに気付かないのもアレだが、紫も紫だ。

実際、射命丸はわけの分からない呪文と泡を吹いて卒倒したし、俺と橙、騒ぎを聞いて駆け付けた藍もドン引きだ。
楽しそうなのは一人だけである。

「あら? 泡なんて吹いちゃって可愛らしいわねぇ。ま、いいから起きなさい」

なにが『いいから』なのか、紫以外には誰も理解できてない。なにがいいものか。
正直に言ってしまうと、射命丸が頭からスキマ直送の水をぶちまけられた時は、はっきりと同情した。
それを楽しんでいるのか、暇つぶしなのか、妖怪を躾けているのか、それすら分からないのがさらに無気味である。
でも、次の二言で、何を目的としているのか把握できた。

「そうね、記念撮影でもしましょうかしら?」
「は…。紫様、それは何の記念ですか?」
「後からついて来るわよ、そんなモノは。いいわよね? 天狗さん」
「ひゃ…ふぁい! 喜んで!」

楽しんでる、絶対にコイツは楽しんでる。
あの天狗が翻弄されてるのを見るのは痛快だが、俺の事も、そうなのか。
俺の命も退屈を紛らす娯楽に過ぎないのだろうか、楽しんでいるのだろうか?
…あまり考えたくないので、考えない事にしよう。

「はーい、笑って笑って-」

その声で我に帰り、間抜け面を向けたらば、ぱちりとシャッターが落ちた。
いつのまにか、周りには八雲一家がいて、俺を囲んでいる。どうやら、本当に記念撮影をする、いや、既にしたらしい。
つーか、今の間抜け面はわりと深刻だ。

「ちょ、待…」
「イヤーイイエガオデシタネ-! ソレデハフィルムヲゲンゾウシマシタラマタ…」
「待ちなさいな」
「…ナんデしょうカ?」
「フィルムは預かるわね? 大事なものなのだから、私が大事に隠しておきますわ」

紫がそう言った時には、フィルムは紫の指につままれていた。
極上の微笑みもおまけだ。0円である。
…金貰ってでも、見たくない。

その笑顔に、無謀にもずぶ濡れの天狗が挑んだ。

「いえいえ、そんなお手数をかけるわけにはいきません。こちらで責任を持って現像して、お届けさせていただきます」
「あら、ありがとう。でもそういうわけにもいかないのよ。お世話になりっぱなしでは、申し訳ないじゃない」
「…? お世話…とは、その、何の事でしょう…?」
「あら、お忘れになってしまって? 二ヶ月ほど前かしらね、貴方の新聞に大きく、熱愛発覚! だなんて取り上げてもらったじゃないの。
 本っ当に、吃驚したんだから。あの時は、本当にどうしてくれようか…、いえ、どうしようかと思いましたわ」

小さな微笑みが、満面の笑みになる。紫のそれに比例して、カラスの顔色は青から紙のような白になった。
小刻みに震えているように見えるのも、俺だけじゃないだろう。
だれ一人として口を開かない重い沈黙の中、カチカチと歯の根が踊り出す音がはっきりと聞こえた。

橙は、さっきからだんまりを決め込んでいるし、藍はどこ吹く風と言った体で帰って行く。
そも俺は、あっけにとられていただけなんだが、ここに来てそれが一番賢いやり方なのだと理解した。
…触らぬ神に祟りなし。沈黙は美徳。
やはり先人の言葉には、千金の価がある。それが理解できないバ鴉は、龍の逆鱗を何枚でも引き剥がしてしまえばいいのだ。
やがて始まるであろう惨劇は見ない事にして、屋敷へと向うのが良いだろう。

「夕飯、なんだ?」
「おでんだよ、冬らしいだろう? しかし、冷えると風情があったのだがなぁ、今日はいささか暖かかったな」
「あったかいほうが好きだなー、私は」
「そうだなー、猫はコタツで丸くなればいいもんな」
「そんな迷信を信じては駄目!」
「…迷信だったのか?」
「まあ、屋敷でのお前を見る限りでは、私は迷信だとは思わないな」
「…だってさ」
「ぐぬぬ」

背後から、悲鳴まじりの嘆願が聞こえても気にしないあたり、さして特別な事でもないのだろう。
助ける気などは、俺もさらさら無いんだが、…これが日常茶飯事だと言うのは問題があるかもしれない。

しかし、その問題などは半日引き回された後のおでんと熱燗にくらべれば、どうでもいい事であった。



        十七        



「む…、なんだ? この酒」
「文字通りの天上の美酒よ。濁りや穢れなんて、欠片も存在しないわ。お気に召したかしら?」
「…あぁ、なんか澄んでるな」
「反応が薄いな。それでは呑ませ甲斐がないぞ? もっと驚け」
「んー、旨いんだけどなんか…。俺にはなんか合わないな。…焼酎のがいいなー」
「ふん、贅沢だこと。それなら寄越しなさい」
「断る、俺の酒だ。一滴とてくれてやるものか」
「ねえ藍さま-、さいごのだけど厚揚げもらっていーい?」
「ダメだ、猫はちくわぶでも食べているがいい」
「なによぅ、口に合わないんだし、元は私の倉から出したんじゃないの。ちょっとくらい良いじゃない」
「えー、いいじゃーん。藍さまこそ、それでもち巾着三つめじゃない」
「ダメなものはダメだ。いくらお前でも、私の厚揚げは渡さないぞ」
「それでも大妖怪ってんだから、驚くわな…。ほら、持ってけ大虎め」

こたつを囲んで、妖怪一人と式神二人に囲まれての晩飯。
いささか滑稽になってくるほど、バカげた光景だ。
それに馴染んでいる俺は、よっぽどバカなんだろう。

しかし、大層騒がしい。…と言うよりも姦しい。
騒がしさに当てられるだけではなくて、ストーブの暖気とおでんの湯気もあり、少し暑いくらいだ。
それに、周りを囲む、見てくれだけは少女の三人。これでは酔いの回りが早いのも頷ける。
ならば、少しばかり饒舌になるのも必定だ。

それに、この酒である。さっきはああ言ったものの、実に美味しい。
大根、こんにゃく、厚揚げ、ちくわぶ、それときんちゃくに玉子。それだけの朴訥なおでんと競らず競わず、実によく合う。
それでいて優雅、上品、高貴な薫りが押し寄せる。矛盾しているがそうなのである。そうである以上仕方ない。
仕方ないので、もう一杯と盃を重ねるわけだ。

気付けば、徳利の森が出来ていた。
橙はとっくにいびきをかいて眠ってるし、藍は付き合いきれないと言って、早々に退散した。
残ったのは、二人。
そうなってしまうと、もはや行く先は一つ。宣戦布告をすら無いデスマッチである。

…まあ、あまりに醜かったので、戦況を大幅に端折って結論から言ってしまうと、俺の負けであった。

だが…! だが、俺は敗北はしたが屈服はしていないのだ。
なぜならば、奴はあろうことかイカサマをしていた。
タネなどと言えるような物は無い、呑んだように見せ掛けてスキマにこぼしてリサイクルしていただけだ。だが、単純ゆえに効果は高かった。

…それに気付かない俺にも問題はあるが、そんなことはいい。俺はバカなんだ。
とりあえず、俺は負けてない。負けてないったら負けてない。
この勝負はノーカウントだ。

そんな、畳に倒れふしている俺の心中を知ってか知らずか、楽しそうに不吉な笑みを浮かべ、今度は本当に杯を含んでいた。
…とてもじゃないがつき合いきれない。
話をしたかったのだが、ほこほこに蒸し上がった頭では、こいつにからかわれて赤面するだけだろう。
こうなってしまっては、諦めるしかない。

「もうつき合いきれんよ。…風呂浴びて寝るわ」
「あら、つまらないわね。まだ夜は長いのに」
「俺を殺す気か?」
「…? 食べてもいいのかしら?」
「…俺を呑み殺す気か、と聞いたつもりだ」
「その気はあんまり無いわね。…でも、あなたは私に用があるのでしょう?」
「む…」

確かにその通りである。だが、こいつはどうにもイヤな予感がする。
この満面の笑みには、美しさより先に不吉さを感じる。
そして、幻想郷でのこういった予感は外れたことが無い。つまりは確信した。

「なら、飲みなさい」

とびきりの笑顔で、ヤツはそう言った。



        十八        



こたつで安らかに熟睡しているところに、誰かの蹴りがブチこまれた。

「ぉぅ…!? ぁあ…」

昨夜は結局、潰された。完膚なきまでに。
経過はあまりにも醜いので端折るが(そもそも憶えていない)、終わってみればアホらしい。勝敗なぞ決するまでもなかったということだ。
惨敗、ボロ負け、完封、前後不覚、乱酔、泥酔。
ここに本来なら七転八倒二日酔いも入るのだが、驚いたことにソレが無い。
あの酒のおかげであろうか? 実に心地よい目覚めだった。蹴りがなければ。
調子にのって勝負を受けたくせに、完膚なきまでに負けた恥辱は拭えないが。俺が心地よいと言ったら、俺は心地よいのだ。
だがしかし。

「うっわ…」

対照的に、周囲はまさに戦場跡だった。
崩れたビルのように林立する一升瓶。
歩兵の骸のように散らばる徳利。
瓦礫のように散らばる割れた徳利。
血だまりのようなこぼれてしまった酒。
ただ二つ、その荒野に雄々しく立つ盃。
橙。
全てが容赦なく散らばっていた。

というか、見た感じでは橙が二、三本、徳利を押しつぶしている。
このお嬢さんは痛くないのだろうか? まあ、式神ともなれば鍛え方が違うんだろう。

とりあえず、こたつから這い出して立ち上がった。
…眼下に広がる光景に、軽い目眩がした。俯瞰で見た戦場跡は、いっそう悲惨さを増して見える。
…まずは、本物の死体のごとく転がっているこのお嬢さんを起こそうか。
そうしたら、猫の手でも何でも借りて、この惨状を始末すればいい。

「おーい、橙、起きろー」

が。ゆさぶってみるものの、起きない。
一人より二人理論で片づけを手伝わせて、あわよくば逃亡しようなどという魂胆はお見通しだろうか?
そも、このお嬢さんが大人しく片づけを手伝うタマでもあるまい。
だが、そこに寝ていられたら片付ける事すら出来ないではないか。手伝わないのなら、邪魔をしてほしくないと思うのは当然だ。

「ならば是非もなし…っと。…ほいっ!」

気合い一発。橙をずるずると廊下に引きずり出して、障子をぴしゃりと。

「コサックダンスはだめぇぇぇえええ!?」
「ぅぉ…!? …おはよ、いい夢見たか?」
「え!? あ?! うぅ…? …夢?」
「間違い無く夢だ、だから安心して片づけを手伝え」
「そうか…、よかったぁ…」

閉められなかった。
おはようからおやすみまで、実に愉快なお嬢さんである。楽しそうで何よりである。
今も、何が良かったのかは知らないが、とりあえず心から安心しているので、とりあえず彼女は良かったのだろう。実に良い事である。

が、そんなこと知ったこっちゃない。
散らかした以上は、片付けるのが道理だ。
道理は通すべきである。
さらに、目の前で困っている人には、手を差し伸べるのも道理である。
道理は通すべきである。

「よし、片付けるぞ。手伝え橙」
「ぅ…?」
「言ったそばからこたつに入るなよー、お前」

俺から発せられたよこしまな気配を察してか、橙がずるずるとこたつに這いずって行き。
ばしゃん、とも、がしゃん、とも聞こえる音を立て。

「ぅ痛ぁぁあああっ!? なんぞ-っ!?」

飛び起きた。本当に愉快なお嬢さんだ。
さっきはああ思ったが、いくらなんでも、徳利を轢き潰したら痛いみたいだ。

「そのへん、普通なのになぁー」
「んぁ…? なに?」
「いや、独り言だ。一人暮らしが長いと、誰でもこうなるもんなんだよ」
「ふーん。確かに紫さまも、一人でぶつぶつ言ってるものなー」

ふんふんと独り合点しながら、何ごとも無かったかのようにしゃがみこんで徳利の破片を拾い始めた。
その姿は愛らしいが、ずいぶんと非合理的な作業方だ。帚ぐらいはあれば良いんだが…。

「おーい、橙よ、帚ってあるか?」
「んー? 別にいらないんじゃない?」

と、実にあっさりと、俺の善意ゆえの提案を撥ね付けた。
それも当然。落ち着いて見れば、橙の破片を拾う速度は異常である。
俺が視認できない大きさのモノまで拾い集めているあたり、さすが式神は格が違った。
さらに、既に自分で割った分は拾い集めて、今は知らぬ間に割れていた分に取りかかっている。

これでは、帚だのなんだのなんて、大きなお世話というものだ。部屋の隅で大人しくしていよう。
あくまでも、部屋の隅にストーブがあるのはあくまでも偶然である。
偶然です。

「あったけーなー…」
「…ところで、自分の飲み散らかしを他人にまかせきるのって、どう思う?」
「む、うむ。…ひじょーによろしくない」
「ならどうすればいいのかな? おにーさん」
「うーむ、正論だな。セイロン諸島は、言わずと知れた茶葉の名産地だな。知ってるか? シルバーリーフって…」
「…うるせーぇ! 手ぇ動かせーえぃ!」
「うるせい! 働かなくたって飯が食えるのにどうして働くもんか!」
「ん…、まあ、そだね。そうだよね」
「む、素直なんだな。宗旨変えか?」
「私は、変わらないし変われないよ。変わったと思うのなら、おにーさんのほうじゃない?」
「そんなモンか? …まあ、ここに来て価値観変わらないヤツってのも大概だよな、確かに」

そう言って、やれやれと重い腰をあげた。
確かに俺の飲み散らかしではあるが、ここに紫が居ないのであれば、腰もよけい重くなろう。
大体、俺のできる事などタカが知れている。雑巾の仕舞い所も瓶の仕舞い場所も分からないのでは、洗い物しかできる事はない。
その洗い物も、いくら昨日は暖かかったとはいえ、真冬の朝方の冷水でするより他にはない。ゾッとしない話だ。

「いよ、っと…」
「おー、すごいすごい。器用だねー」

投げやりな賛辞を背中で受け流して、脱いだ綿入れに包んだ徳利23本を台所に抱えて行く。
少し酒が染みてしまうかもしれないが、まあいい。
藍は文句を言うだろうが、俺だって少しぐらいは好き勝手にやってみたいのだ。

「良くない。次からは控えてもらおう」
「…今度は読心術か? 朝から非常識で結構なことだ」
「む、言うようになったな」

予想通りに飛んできた、台所で朝飯の仕度をしていた読心術師の批判を受け流して洗い物を始めた。
蛇口を捻れば水が出てくれるのは、この原初社会においては何よりだが、冷たい。
徳利を五本も洗わないうちに、叫び声をあげたいほど手が冷えきってしまった。
だが、読心術師の機嫌を損ねてしまったのか、訴える視線を向けてもお湯にはしてくれない。
今はこの水温が一度だって高くなるのなら、なんだってしてやりたい気分だ。

「随分と蟒蛇ぶりを発揮してくれたものだな、昨夜は」
「うぐっ、…呑み散らかして悪かったな」
「そんなコトはどうでもいい。貴様、昨晩は一体何円呑んだかおぼえているのか?」
「む、いや、知らんが…」
「たわけ、値などつかんぞ。あれと同じものが飲みたくば、もう数千年後に月まで行って来い」
「げえっ…!? え…? …マジ?」
「マジだ。分かったら紫様を起こしてこい、阿呆」

追い討ちじみた藍の皮肉と命令に、頭が埋め立てられた。
いま、藍は俺に、あの歩く恐怖の塊を起こして来いと言ったのか…?!

「うへ…。おい、マジかよ…!?」
「マジだ、早く行け。私は御免だからな」
「…わるいな、洗い物が終わってからだ」

四秒で冷め切った思考は、眼前の死を回避する為に、実に無難で適当な言い訳をくり出す。
しかしそれは、俺に洗い物が科せられて、それを遂行する義務が存在する場合が前提だ。
こうなってしまっては通じないんである。

「洗い物なら私がやるよ-」
「悪いな、橙。助かるよ。…というわけだ、行ってこい居候」
「橙…!? いつから…?!」

あいかわらず、不意打ちには弱い。
発した問いは、われながら潔い愚問だ。いつから居たかが知れようと、状況は改善されようが無いのに。
その愚問に、橙は律儀に指を折りながら数えて、実にどうでもいい答えを返してくれた。

「20秒と少しぐらい前かな? で、なにかおにーさんに関係あるの?」
「ない」
「何よりだ。起こしに行ってこい」
「…なんだ? アレか、タッグを組んで俺を殺しにかかるってか? 息ピッタリじゃねーかうらやましーな-!」
「一々組まずとも、式神と主はある程度心が繋がっているんだ。息があうのは当然だ」
「ま、式から主への一方通行なんだけどねー。あ、藍さまー水あっためてー」
「おうおう、人突き飛ばしといてそれかい。…やるじゃねえか穣ちゃん」

と、それっきり二人は黙り込んだ。
沈黙の中、やることもなくぼーっと立ち尽くす。
…いや、沈黙ではない。痛いほど伝わってくる『働け居候』アタック。
と言うか、マジで頭の中に声が響いてる。勘弁してください。俺をニート扱いしないで。

「あー…もう! わーったよ、行ってやらぁ!」

そして俺は半ばヤケで、言ってはならないコトを口にした。



        十九        



そうなんである。そうなってしまったのである。
詰まるところ、圧力ってやつだ。圧倒的絶対的権力による穏便な強制。
俺の選択ではないのです。
よって、俺には何の責任も無い。と、言えるべきである。

さらに、相手は格の違いなどという言葉ではすまない、圧倒的ななんかヤバいの。
それにただの人間が刃向かうには、力量差を埋める戦術が必要なんである。
その一つが奇襲、もう一つは夜襲。もう朝だけど夜襲。
どちらをとっても、シンプルかつ簡易で堅実な戦法。満点だ。(自己採点)

つまり、可憐な少女の寝間の襖を、息を殺して開けているコトには、現状何の問題も無い。
そう、俺は変態ではない。俺は間違っていない。別に紫の寝間着とか期待していない。あいつって隠れ巨乳だな…とか考えてない。
布団を剥いだ下にあるモノに、期待などはしていない…!

「起きてるわよ」
「ごめんなさいもう二度としませんほんの出来心なんです俺だって男なんだしわるい女に誑かされてこんなことをしてしまう可能性だってなきにしもあらずですしそもそもですね俺に行かせるって時点であいつらグルでなんらかの策が練られいてつまりおれは嵌められたんです落ち着けこれは孔明のわなだああもうなに言ってんだ俺ちくしょうとにかく俺は悪くないんですしかたなかったんです信じて下さい許して下さい………!!」
「五月蝿いわね」
「ひっ…! すいませ…」
「着替えるから、出なさい。後でお茶を持って来ること」
「はいっ!」

返事一発。ぴしゃりと障子を閉めた。
途端に耐えきれなくなり、廊下に座り込んでしまった。自分の不様さを笑いたい。
実際、笑おうとしたが、頬のはじが少し引きつっただけだった。
俺は少し勘違いをしていた。
人間など及びもしない大妖怪、という認識は間違いであった。本来ならば、関わるコトすらあり得なかった存在だ、そのことに今さら気付いた。

寝起きで不機嫌。があれだったら、マジで怒らせたらどうなるのか想像も出来ない。

と、部屋の中から衣擦れが聞こえてきた。思い出したように、耳に鳥のさえずりが飛び込んで来る。
それで現実に引き戻された。普段ならばこの状況に思う所があるのだろうが、生憎と、俺はそんなに図太くできていない。
命令どおりに、割合しっかりした足取りで台所に行って紫の茶をねだる、と。

「自分でやれ」

…これだ。
手が離せないのはよく分かる。だが、俺だって三度のメシを任せるには足る男。朝飯の仕度を代わるなんて朝飯前だ。
あの部屋に茶を給仕するってのは、結構な精神的労働なんである。
が、藍は口を歪めて、それっきり口を聞かずに葱を刻み始めた。
もしやこいつは、俺が不様を晒すのを期待しているのか?

橙はそもそも紫が苦手らしい。聞こえないふりで洗い物を続けている。
こうなってしまうと、俺は弱い。結局は俺がお茶汲みをすることになってしまった。



        二十        


何の因果か、朝の寝室で大妖怪と茶を啜る。…スキマを使って10秒で俺のお茶が出てくるんなら、最初から頼むなと。
俺はお茶の味など分からないが、紫は濃いめの番茶を啜って、『気の回る男ね。これからも朝は番茶、食後は煎茶でね』などと上機嫌だ。
無論、知ってて煎れたのだが、こうも無邪気に喜ばれるとなんかこう、…ぐっと来る。
恥ずかしくなって、会話も無く、黙りこくって茶を啜る。

いや、言いたいことはあるけども。『煎茶番茶なぞと年寄り臭い、どうせなら見た目に相応しい言動をとれ。紅茶のめ』
なーんて、殺されるので言えないね。
ので、黙りこくって茶を啜っているよ。

「年寄り臭い、ねぇ…?」
「…! いや、その…!」
「ええ、別に構いませんとも。実際に年寄りですし、年寄り臭いなんて言葉は、若い人間に対して使う言葉ですものね。…ね?」
「…あ、ああ、そうだ、そうです。そう言ってくれると助かる。失言だった、すまない」
「ええ、そうですとも。肉体は老いずとも、心は爛れて往くわ。それが嫌なら、退屈な日常を良しとしないことね。
 それは、人間にこそ甘受させるべき怠惰よ。私達の本分は、それとは対極に在るモノなのですから」
「んー? 話が見えんなぁ」
「あら、分からないかしら?」
「ああ、幸いにバカだからな」
「ふん…。私は、まだまだ若いってコトよ」

そう言って、空になった湯飲みを置いて立ち上がった。
慌てて残りを飲み干し、腰をあげた俺に、彼女は向き直り。

「女心と秋の空。ぼやっとしていると、氷雨に濡れるわよ?」

実に楽しそうな、やましい所はあまり見えない微笑みを投げ付けてきた。
ドカンと一発かまされて、呆けている俺を置き去りに、板張りの鶯の悲鳴が遠ざかって行った。



        二十一        



刻み葱入りの卵焼き、水菜のお浸し、焼いたあぶらげのカリっとしたところに大根おろしと醤油、大根の千六本とあぶらげの味噌汁、白菜の塩漬けに柚子を絞ったの、シソの実の佃煮、飯。
以上、九尾狐渾身の献立の羅列。旬だからなのか、朝昼晩とやたらと大根を喰っている気がする今日この頃。

あぶらげの登場回数もやたら多いが、それは別段おかしな事でもない。飯の仕度を任されている誰かの好みだ。
どれもこれも、実に旨そうだ。旨そうではあるのだ、いや、旨いのだろう。旨いんだ。絶対に旨い。
でも味がしないんだ。

さらには、雪見障子から舞い散る粉雪を眺めて、暖かい和室で少女と美女と共にちゃぶ台を囲んで食べる。
これ以上無いシチュだと言わなければならないだろう。最高の贅沢だ。
この状況で食えば、たとえダンボール肉まんだって旨いに違いない。食いたかないが。
それでも味がしないんだよ、これが。

ああ、俺も彼女らに倣って、唐突に聞こう。
果たして、これが紫が言うところの氷雨なんでしょうか? 
むしろ、より克明に表現するなら酸性雨ではないだろうか? 硫酸レベルの。

「あら? 箸が進んでないわね、薫。その卵焼き、もらっちゃうわよ?」
   と、朝から酒が入って、なにやらご機嫌なのは、右の紫。
「いけませんよ、紫様。そのような凡愚の箸をつけた物を食べるなどとは言語道断。…居候、早く黙って綺麗に食え」
   と、暖かな和室の中で、氷のような敵意をなぜだか俺に向けてくれてるのは、向いの藍。
「…」
   沈黙は美徳也、を貫き通して、この部屋の温度をさらに下げてくれてるのは、左の橙。

一方的にはしゃぐ紫と、はしゃげばはしゃぐだけ冷めて行く藍。
噛み合わない二人の不均等の埋め合わせは、全て俺に回ってくる仕組みらしい。

そうかそうか、そうなのか。俺はそんなに悪い事をしたのか。
いきなりこんな地獄の釜の中に放り込まれたのだから、さぞかし悪い事をしたのだろう。
しかし、俺が一体何をしたと言うのか? 教えられるもんなら教えてみやがれ、こんちくしょう。

ま、いくら呪ったとて、誰が教えてくれるわけでもない。
ので自分で考える…意味も無い。
煮えたぎる熱湯に放り込まれたら、何故かを考えるよりも這い出る方が先なのだ。

それは、実に容易い。一膳の飯を汁と共にかきこんで卵焼きとお浸しを殲滅。
あぶらげは『昨日は飲み過ぎちまってな。食欲あんまり無いんだ』と心にも無いことを言って相応しい輩に食わせればいい。
全行程で3分もかからない。体力勝負の薪割りや、大妖怪のお茶汲みに比べりゃ楽勝だ。
3分で離脱は完了する。

汁を飲む。啜りもせずに、まさに飲み干す。
その合間に、飯をかきこむ。下品にならないように、健全ないきおいを装ってかきこむ。
卵も、お浸しも余裕。卵焼きはあくまでふわりと軽くて、お浸しはしゃっきりと歯切れよい。咀嚼は快調だ。
あぶらげは、押し付けるまでもなく歓迎された。やはり、この登場率は仕組まれたものだったらしい。
全行程は、完了した…!

「ごっそさん」

食った。言った。確かに、そう言えた。
これで終わる。邪魔などは入らず、覚悟は杞憂に終わる。

そう、一度終わった。
なのに、だってのに、なんだってこいつは俺を追い詰めたがるのか?

「あら、そんなに急ぐ事は無いでしょう? …ほら、付きあいなさいな」
「――なっ…!?」
「紫様…! そのような…!」
「食事中よ、大声を出すのは憚られるわ」

藍の返答の代わりに響くのは、ぎしり、と響く歯噛みの音だ。
今はそれすらも有り難い。
その殺意のお陰で、紫のおかげで沸き立った頭が、すっと冷えた。

俺の右肩に、何やら温かい感触。ソレが存外に軽いことに気づいて。
それからようやく、紫が俺にしなだれかかっていると認識できました。
眼前十数センチに、紫の瞳が見えたんだ。
…勘弁。

「…あの、体、引いてもらっていいでしょうかね…?」
「あら、どうして? 嫌ではないでしょう?」
「いや、だからだな…。ええい…!」

糠に釘を打ち込む愚行に焦れて、いささか強引に身を引いた。
しかし、まあ。大失敗であった。
俺に体を完全に預けていれば、俺が身を引けば当然紫もついてくる。…それに思い至らなかったとは。
すなわち、身を引いた俺に従って紫も倒れこむ。間抜けな俺は、それに対応できずに尻餅をつく。

紫に、押し倒された格好になる。

…ここに至っては、もはや無言。ひたすらに静か。
音らしい音は、藍の歯ぎしりのみ。つーか砕けたろ、歯。

その静寂の中で、俺は不思議に冷静であった。
いや、紫って意外と軽いんだな-、とか、夕飯は魚が食べたいなー、とか。益体もない考え事をしていたあたり、どうも正気ではなかった。
しかして、俺にのっかってるこやつは賑々しいのがお好みらしい。とんでもない事を口走りやがった。

「…あら、不能者?」
「ははあ。一昨日は夜中に屋敷中を歩き回っていたくせに、何をするでもなく寝たので疑ってはいたが…」
「ふーん…」
「ん な わ け あ る かーっ! ついとるモンついとるわー! 分かったらどけ!ってか退かす!」

威勢よく吠えて、その割には紳士的に紫をはねのける、というより押しのける。大妖相手によくやった方だ。誰かほめて。
と、紫はそのまま立ち上がり、襖に手をかけ言い放つ。

「明後日は、お月見ね」

ぱしん、と襖が閉まり、部屋の空気がふわりと緩む。
弛んだ空気に、ため息が溢れた。

「はあ…、遊ばれたな」
「ああ、遊ばれた。この感覚は久しぶりだな…」
「みんなで遊んでたようにも見えたけどなー」

もう一度、ため息が溢れた。

「…おかわり、くれ」
「あ、私も-」
「ああ、軽めにしておくぞ」

刻み葱入りの卵焼き、水菜のお浸し、焼いたあぶらげのカリっとしたところに大根おろしと醤油、大根の千六本とあぶらげの味噌汁、白菜の塩漬けに柚子を絞ったの、シソの実の佃煮、飯。
以上、九尾狐渾身の献立の羅列。旬だからなのか、朝昼晩とやたらと大根を喰っている気がする今日この頃。
あぶらげの登場回数もやたら多いが、それは別段おかしな事でもない。飯の仕度を任されている誰かの好みだ。
どれもこれも、実に旨そうだ。

実に旨い。



        二十三        



食事の片づけを終えて、揃ってこたつに潜り込み茶飲み話を始める。
茶飲み話、というか、藍にべったり張り付いた橙と向かい合ってるせいで、三者面談でもしてる錯覚。

「大体なんだ貴様は、あの程度で流されるとは…。軟弱にもほどがある」
「そうだよねー。確かに心弱いよね。ま、おにーさんなんかヘタレくさいし」
「実際にどうしようもない腰抜けだろうさ、この男は。外からこちらに逃げ込んできたのも同じだ」

前言撤回。お小言タイムの始まりでした。
ま、特に言い返せる事もないので、カキのように押し黙ってるだけなのだが。

色々と言いたい放題だが、俺には特に何も聞こえないので、みかんをむさぼり喰うだけである。
こいつはまったく、楽で良い。
すいませんもうしわけありません。とかいう邪教の呪詛も、上体をひたすら直角に折り曲げ続ける謎の屈伸運動も不要とは。
ああ、ステキ。

「おーい! 聞いてるのー?」
「ん…? ああ、聞いてない」
「…いっそ清々しいな、真似できそうにない才能だよ」
「で、なんだ?」
「ああ、今日は二人とも仕事があってな、家が空…いや、二人きりになる」
「ふーん。じゃあ一日酒飲んでるよ」
「そこでだ、私の仕事を手伝え」
「嫌だ」

みかんに手を伸ばしながら、ノータイム0,3秒で即答したよ。
冗談じゃない、そんな事をしたらおそらく命が幾つあっても足りやしない。
それに、今は少し考え事がしたい。…考えれば分かるような事でもないが、それでも時間は欲しいのだ。

「よし、決まりだな、半刻…30分後に出るぞ」
「…何が決まったんだよっ!?」
「藍さまの決意でしょ? ねー、藍さま」
「おお、分かったか。さすがは橙だな」

ヨーシヨシスゴイゾエライゾー、とわしゃわしゃ橙の頭をなでくりまわす藍。威厳も何もありゃしない。
橙は…、まあ絵にはなっている。えへへー、とか正体なく笑み崩れてるのは、実に似合いだ。
俺は、きっと苦虫をどんぶり一杯食わされたような顔をしているに違いあるまい。
こうなった以上は、もうどうにもなりはしない。黙って振り回されるしか無いんだ、俺は。

橙を膝枕にして、なにやら藍は満足げだ。紫とは違って、やはりこの二人には親子って言葉が似合いの気がする。
しかしこの絵面、そこはかとなく不健全である。それを眺めてみかんを食ってるってのも、マヌケな話だ。



        二十四



きっかり三十分後、俺と藍はまだこたつでだらだらとしていた。
藍の仕事場が、普通の会社、ましてや俺のようなドのつくブラックじゃない事は明白だし、従って出社時間なんてのも無い事は分かるが…。
自分から言い出した時間を破るなんて、珍しい。

そうならそうと、少し前に声をかけてやればよかったって? もっともだ。
けれど、こんなによく眠っているんじゃあ、俺じゃなくても起こしづらいだろうさ。
こたつに突っ伏してすやすや寝息を立てて、耳は時おりつんつんと動いている。
そのうえ少しよだれをたらして熟睡してるんじゃあ、これは起こしにくい、
橙だってスルーして出かけたところを見ると、どうも起こしたらヤバそうな風情もある。

それに、俺にもこういう経験があるのだ。
毎日六時出社、運が良ければ日付けが変わってから退社、会社に一泊二日の小旅行は当たり前。納期前には一週間の大旅行も可。
なんてことしてると、体は健気にも無謀なリズムに順応してくれる。
それで、半年に一度か二度の完全な休日にもなると、たっぷり寝てすっきり起きた。と思った途端にこんな寝かたをするのだ。

…こいつも、普段は大層な苦労をしているのだろう。
こんなのんびりとした世界でも、人間の営みは変わらない。
産み、育ち、死に、善行道徳美徳背徳悪徳悪行。全てを繰り返し、誰かがそれを管理する。
そのしわ寄せをくっている内の一人なのかもしれない。

そう考えると、こいつと俺が急に親しい存在に思えてきた。
古くからの知故のような、あるいは姉弟のような…。

姉弟…? 姉弟?
思考を始めたことに後悔した。俺と藍が姉弟? シャレにならない。
その光景が容易に想像できるのが、さらに癪に触る。
何がどうあっても、そんな事はあって欲しく無い。

腹立ちまぎれに、藍を揺り起こそうとして手を伸ばした。けれどその手は押し止まる。
藍は、これがまた憎たらしい事に、幸せそうな満ち足りた寝顔だった。
これを揺り起こせるのは、よほどの冷血漢だろう。
俺は腹立ちと、あまり意味の無い妄想を頭の中から追い出して、少し庭でも歩く事にした。



        二十五        



俺が部屋に戻ってくる足音で、藍はようやく目を覚ました。
べつに責めやしないんだが、反応が愉快だったので気づいていないふりをしてみる。
口の端をごしごしぬぐって、『間一発! ばれてない!』見たいな顔してるのが、滑稽。
それでも、十五秒ほどでいつもの真面目モードに移行した。

「少し寝てしまったな…、時間が惜しい、行くぞ居候」
「ははあ、一時間は少しですか?」
「一日の二十四分の一、ましてや一年の八千七百六十分の一だぞ? 誰がどう言おうと少しだ」
「…うーん、なんか説得力あるのがたまらなく嫌だな」
「もういいだろう。下らない事で時間を無駄にすることは無い、行くぞ」
「さいでっか…」

今さら、口ごたえをしたって何も始まりやしない。俺は黙って藍について行く事にした。
しかし、藍は八雲亭の外へ出る気配は無く、ひたすら屋敷の中心部へと突き進んで行った。
その中心部の小部屋にあるのは。見るからに怪しげな、地下へと伸びる螺旋階段だった。
木で組み上げられたそれは、機械のような正確さをもって足音を軋む。
ともすれば底など存在しないかのような錯覚を覚えるソレは、その実、十メーターもありはしない。

底に着き、緊張を感じる間も無く、藍がこの屋敷に唯一、鍵が掛けられたドアを開けた。
その中に見たのは、机上に三台のパソコンと二脚の椅子。だけだ。
それだけの殺風景な灰色の部屋、…見なれた光景だ。こんな場所が、彼女の仕事場なのか?

「御想像の通り、つまらない冗長な仕事だよ。それだけに、幻想郷では無二の役割を持つ。精々気合いを入れる事だ」

俺の心を見透かしたように、藍が言葉を投げてよこした。
次には、意外な事にこの仕事の説明が回ってきた。

「ここでしているのは外の世界と幻想郷とを隔てる大結界の監視、制御だ。
 このような設備でなにを、と思うかもしれないが、本来ならば結界の制御は術者である紫様が一任する。
 が、それでは術者の負担が大きい。この結界は三層の乖離型だが、それでもこの規模では手間が多すぎる。
 管理の楽な乖離型には、大きくは干渉しか問題が無いとは言え、それも膨大だ。
 さて、そこで私たちの出番と言うワケだ。
 部外者である我々は紫様の結界に干渉する事はできない。が、普段の監視と情報収集ならば十分役にたてる。
 そこのモニターで歪みと外力をそれぞれ観測している。それが規定値以上になれば、即ち異常事体だ。現地に行って調査報告する。
 これが仕事内容だ。質問は?」
「…乖離型ってナニ?」
「内と外を乖離するタイプの結界だ。外とのズレを考慮しない。他は?」
「いや、もういい…」
「話が早くて結構だ。仕事は単純、数値が規定以上の日付け、座標をすでに洗い出してある。そこに向かって原因究明だ。
 …といっても、そんなことは月に二度も起らないのだがな。こうして説明をしている時間のほうが、仕事よりも長いかもしれないぞ」

そう言って、パソコンのモニターを覗き込んで、3回数列を呟いた。
その背中に、今まで感じていた疑問をぶつけてみた。

「要するにさ、この仕事、押し付けられたのか?」
「…ああ、本来管理をするべき人間の神職から紫様に、そこから私に回されて来た。押し付けられた、というのは語弊があるがな。
 より高い能率で、より正確に役割を果たす。私達はそういったモノだ、相応しい役割を得たに過ぎない」
「ふーん…? なら、藍もたらい回しにできるんじゃないか?」

俺がそう言うと、藍は随分と意外そうな、どことなく不思議そうな視線を俺に向けた。

「…お前に呼び捨てられるとは、思っても見なかったな。面白い事もある」
「ああ、呼び方が無かったからな。嫌だったか?」
「いや、構わないよ。それはそうと、問いに答えよう。…答えは否だ、いついかなる状況であろうとな」
「それはまた…、大きく出たな」
「…ふむ、知らないようだから言っておこう」

藍はそう言って、席を立った。そしてこの灰色の部屋の戸をあける。

「人間、その他大勢の生物には様々な欲求がある。一次的な、本能と言ってもよい衝動から、名声、権力へのより高度な欲求も。
 特に、人間の欲は限りがない。それは人間と常に寄り添い、人間の進歩を助け、発展を阻害してきた。
 が、結局のところ、それらは根本的に一つの欲求へと収束する。人も、獣も。
 即ち、全ての種族に共通である行為、種の保存だ」

その長ったらしい講釈をかまされながら、廊下を今度は外側に辿り、玄関を出る。
玄関を出てから、雪駄をはいたことに後悔した。また歩き回るだろうに、これでは歩きにくい。靴にすりゃよかった…。

ま、大層な説教を聞いてもそれくらいしか考えることは無かった。
俺のあまりよろしくないおつむでは、藍の真意は理解しかねる。

「つまり、どういうことだ?」
「すべての命を持った存在には、その意志、人格とは無関係に、生涯を賭けて為すべき何かがあるという事だ。我々式神にもな」
「話がでかいねえ…。どうも、まいるよ」

確かに、無気力な俺とは違って、藍は確固たる目的を持って行動しているように思える。
今だって、真冬の寒空の下、他人から回ってきた仕事を、見返りも無く愚痴の一つも吐かずにこなしている。それだけで十分尊敬に値する。
ともすれば投げやりに聞こえる俺の言葉も、藍に感嘆しているからこそだ。

「式神の、種の保存などに伍する意義は、どうやら『仕事』と言える物らしくてな。私達が式神である以上、それに則した行動をとるしか無いらしい」
「らしい、か?」
「ああ、…最近、どうも確証がとれなくなってな。揺らいでいる最中だよ」
「ふーん…、ま、俺もそうじゃない方に賭けとくよ」
「仕事が、本懐ではないと?」
「ああ」
「…何故、そう思う?」

なんてことはない、ただの軽薄な呟きだったが、藍にはなにやら引っ掛かるモノがあったらしい。
歩みを止めて、意志に満ちた金の瞳で見据えられると、何やら詰問されているような気がする。
が、残念なことにいくら真剣に聞かれても真剣になんて答えようが無い。元から理由らしいものなんて欠片もありはしないのだから。
それでも、何か理由があるはずだ、と頭の中をくまなく走査したところ、ソレらしいものなら見つかった。

「うむ、アレだ。一個の命を持って生きてるなら、道具じゃない。けど仕事一筋ってのは、突き詰めると道具の生き方なんだな。
 そういうのは、なんつーか…もったいない。命の中で楽しめる事は山ほどあって、仕事も山ほどあって、それだのに仕事しか選ばないのはもったいない。と思う。
 せっかくの命だから、もっと他の理由があっても良いと思った。俺は」

勢いと、少しの焦りで言ってから、後悔した。なんだ、これは根拠だとか確証だとかは何も無い感情論だ。
それに、意義が云々。の話にはこれっぽっちも関係ないじゃないか。恥を晒しただけかよ、俺…。

「ふむ…、人間の考え方だな、ソレは。短い人生に花を咲かせて、満たされて死に往く事を良しとする。実に典型的だ」

案の定、一刀両断だ。まったく、容赦が無いよ。
だが、そう言って再び歩み始めた藍の口元は弛んでいた。俺の見間違いではない。
なぜ彼女が微笑んだのかは、俺が推し量れることではないが、それでも、なぜだか楽しい気分だ。
願わくば、この心持ちが仕事上がりまで続いて欲しいものだ。
帽子掛けにかけてあった帽子をかぶる彼女を見て、そう思った。



        二十六        



その期待は、ま、ブチ砕かれたと言ってよい。
ただ一日、二人で跳び回っただけで、波瀾も変化も無く終わり、今こうして帰路に着いている。
なんだか違和感を感じるが、ここ数日の嵐の日々からすれば、無理もない。
しかし、本当に無為な一日だった。ただひたすらついて回って、昼っころに里の人間から逃げられただけだ。

 別にとって喰おうってわけじゃないのに、人では無いモノを見たってだけで、なぜああもみみっちいマネをするんだ? 傷つくよ…。
 大体が、俺達はこの世界の維持のために駆けずり回ってるんだから、その苦労が誰にも知られないってのは、おかしな話だろ。

てな話を藍にしたが、またも見事に両断。
のたまって曰く、見返りとは人間の為の物、式神には似合わないたぐいの我欲。だそうだ。

それでだ、どうやら一日分の事実を総合するに、俺は本当に、紫に近付くことが無いように。って理由だけで一日引き回されたみたいだ。することも無く。
この非常識さには、あきれ返ると同時に、何やらほの暖かい感情が芽ばえてしまう。
いかにも、ミス鉄面皮でござい。なんて顔してるクセに、こんなバカげた一途さを見せつけられたら、まいらないヤツなんて居ないさ。

…んで、すっかりまいってしまった俺はというと、一日なーんにもしなかった。できなかった。
そも、結界だのなんだのには疎いのだから、できることなんて最初から無い。

いいかげん、美しい日本の原風景にも見飽きて、退屈さに嫌気がさし始めるには、そう時間は必要無かった。
さすれば必定、チキンの俺は、さしあたっての大問題である、『生きる意味』なんてバカげた問いをこねくりまわし始める。
で、夕暮れの中に屋敷が見えてきてようやく、下らない思考を切り上げるに至れたのだ。

思考を切り上げて俺は、目眩と共に、少しばかり息を飲んだ。
景色が綺麗だったから? 違う。そうじゃない。
百舌の一鳴きに驚いたから? 違う。そんなんじゃない。
藍が、綺麗だったから? 違う、そうでもない。

そう。

茜色の中に捉えた屋敷のたたずまいは、昨日と同じでいて、やはり違った。
昨日は、風が吹いていた。
昨日は、夕焼けは紅ではなかった。
昨日は、藍が隣にはいなかった。
昨日は、橙が隣にいた。

それに気づいたから。

森も、空も、風も、命も、すべては移り往くと。
美しいままでは居られない、けれど醜いままでもないと。
美しかった今は消えてしまっても、きっと、もっともっと美しい明日が親しげにやってくると。
それが即ち、未来である、と。

それがわかった。

「ありがとうな、藍」
「何に感謝したのかは知らないが、礼には及ばない。これが、私の在り方だからな」

端から見れば、実に珍妙なやりとりだ。
主語の無い感謝に、何の話か分からないが気にするな。と返事がきたもんだ。

だが、この二言には、万感の思いが、惜別の情念が込められていた。はっきりと感じた。
…この珍妙な二日間と少しの幕引きには、こんなんが相応しい。

四日目を待つまでもない。俺は、答えを見つけてしまった。
それは即ち、元の世界に帰れるってコト。この世界と、別れるという事。
それでも、俺はいささかの乱れもなく、家路を歩めた。

そんな俺を見て、彼女は何を感じたのだろう?
それは、俺には知るすべもない事だ。
藍も、変わらず歩んで行く。
それで、何もかもを伝えきれたような気がした。

ただ、黙って歩いた。それが、幸せだった。



        二十七        



「あら、御馳走ね」

三人揃ってじりじりしながら待ち構えていたところに、一升瓶三本を華奢な左の手指でもって、首をまとめてぶら下げて、襖を開いて開口一番。
彼女はそう言った。

さもありなん。
俺が見たかぎりでは、八雲家の食卓に並ぶのは粗菜ばかりだった。だがこれはどうだ。
品数こそ飯と汁を含めて六品と控えめなものの、その菜は海彦山彦もびっくりの絢爛さ。
橙なんか、『マテ』をされてるビーグル犬そのものだ。…こいつ猫だったっけか? 自信がない。
藍はといえば、普段と変わらない。橙を見守る視線も、淡々としたその表情も変わらない。

一方俺は、なぜ海の無い幻想郷に海彦がいるのかを考えていた。

宴は、いつもと変わらない。
橙は食い気一辺倒で、藍はあくまで慎ましやか。紫は、楽しげに飄々と杯を重ねる。

でも、皆俺の別離を知っている。

彼女らは、『そういった』モノだ。
ここ数日でようやく得心がいった。
だから、俺も別れを惜しみはしない。

…けれど、別れが惜しくないワケが無い。そして、この別れの先にはまた別れがある。
本当は、涙の一つや二つはこぼしたいが、それは不粋だろう。
これは、当然のコトだ。平然と越えるべき、今日と明日の境界だ。

幸せな今日であろうと、一日を繰り返し続ける事は出来ない。なにより、人間達はそれを望まない。
そして矛盾に出会う。
今日より幸せなハズの望んだ明日が、望まぬ明日にすりかわってしまう。
だから、人間はしばしば『明日』から逃げ出す。今日に、永遠に止まりたい、と。
俺のように。

けれど、それすらも矛盾だという事に気づく。
短い人生の中、幸せを求めていたはずなのに、諦めて、終わらせてしまおうというのだから。
でも、気づいた時には、遅い。

しかし、幸いにも俺は終わらなかった。気づけた。
コロッと潰れるはずの命は、何がどうなったものやら、こうまで長らえている。
たった二日長らえた。それでも、十分だ。

こんなバカげた二日でも、楽しかった。
今までの人生と、同じように。

そう、俺は幸せだったらしい。
母さんと兄貴がいて。それだけで、よかったらしい。

その日々に止まろうと、俺は明日から逃げた。
でも、もう大丈夫だ。
あんな不様なマネはしない。もう逃げない。
それを乗り越えられるかは、また別のお話になってしまうが。

何があるかは、分からない。それでも進む。
行く先には、本当に何も無いのかもしれない。それでも、ここに止まって朽ちる事だけは、絶対に無い。
逃げ出したまま背を向けて、忘れ去るなんてもったいない事はしない。

幸せに、最後まで向き合おう。

「ほら、杯が乾いているじゃない」

思いもかけない、優しい声にどきりとした。
上の空で、ただ空の杯を見つめていた俺を、紫は見ていたのだろう。
言うや否や、杯は熱い酒で満ちた。

これで最後の夜。だというのに、こんなにも、こいつの不吉な笑みは変わらなかった。



        二十八        



洗い物を終えて、最後の器を洗い篭に入れた。
三人とも早々に引っ込んで、後は俺に任せっきりにして風呂に入っている。
…もうちょっと、ちやほやしてくれてもいいんじゃないでしょうか? 本音を言わせてもらえば、寂しいんだが。
まあ、こんな別れが、あってもいいだろう。

洗い物を済ませて、電気を消して縁側へ出た。

なにか、話をしたわけでもない。それでも、彼女はそこにいた。
紫は、縁側に座り、月を眺めていた。

隣に腰かけて、俺も月を眺める。
それだけで、心中は驚くほどに静まった。

俺が言うべきことは無い。
ただ黙って、隣で月を眺める。
色々と聞きたい事もあったが、それも今となっては下らない。

この月を眺めるより外に、すべき事などあるのだろうか。
俺には、それが見当たらなかった。
紫も、ただ茫漠と月を眺めている。
永い年月の中、とうに見飽いたであろう月を、ただ。

こんな、無為で、心地のよい時間。これをこそ、幸せと呼ぶべきだった。

苦しくても、一緒にいられればよかった。
それだけで、十分だった。

ただ、こうしていられれば。

「寒いわね」
「まあ、冬だしな。風が無いから、いいさ」
「…男は、そう泣くモノではないわ」
「…いいじゃんよ、たまには」
「それほどに、悔しい?」
「悔しくないって言ったら嘘だけど、…そればっかりでもないさ」
「そう…。なら、よかった」

紫は小さなあくびをして、視線を月に返した。

「…理由、聞かなくていいのか?」
「聞いて欲しいの?」
「おう」
「じゃあ。貴方はなんで、『死にたくない』と言ったのかしら?」
「うーん…。上手く言えないなあ」
「殺すわよ」
「真顔で言うなよ、怖ぇって。…いや、笑顔でも怖いな」
「もう! ふざけてないで、聞いてあげたのだから答えなさい!」

俺を睨んで、ちょっと真剣に怒っている紫を一通り観察して、少し笑った。我ながら余裕である。
…今生の別れになるだろう。どんな姿も、留めたかった。

「ああ、幸せだった一日の途中で、こっちに逃げてきたからさ。きちんと、日の入りまで見届けないと目覚めが悪くてな」
「…家族を、弔いたいと?」
「ん…。まあ、それもあるよ。それにな、こんな信じられない事が起きるんなら、明日は、幸せが案外転がってるような気がしてさ」
「…その明日に、何も無くても?」
「ああ。行くよ」
「莫迦ねえ…。…バカ」
「…ああ、幸いにな」

それで、聞きたい事は終わりらしい。
音の無い月夜に、紫の影が立った。
俺の胸板にそうしたように、虚空にその手を突きかざした。

その手が、ゆっくりと仮初の日々を断つ。
無数の目が、不躾にこの夜を覗き込むのが見える。
あの時に見た『何か』は、まさしくこれだった。

その大きさは、一人分。余分も無ければ不足も無い。
紫が手を下ろすと、揺らいでいたスキマは、ぴたりと定まった。

「あなたは、本来ならば死んでいた命。それでも通ると言うのなら。…気をつけて」

紫は、最後にらしくも無い事を言った。



        二十九        



耳障りな電子音と、激痛でもって目がさめた。
石のように固まっていた目蓋をこじ開ける。

うすぼんやりと映ったのは、白く冷たい、リノリウムの天井。

…どうやら、死に損ねた。

回りでは、何やら医者が騒ぎ立てている。
まったく、何を慌てる事があるものやら。

なにせ、俺は。生きているのだ。



        三十        



その後の事は、ここに逐一語るまでも無い。

つづめて言えば、俺は二日の昏睡の後目覚め、右足の機能を失っていた。当然、入院生活リハビリ三昧。
その後一ヶ月、カウンセリングと名のついた茶飲み話を押し付けられて、借金をお供に晴れて御放免と相成った。
その後は、裁判やら示談やら民事やら刑事やら葬儀やら四十九日やらでおおわらわ。
で、どうやら暮らしが落ち着いたのはこちらに帰ってきてから、一年と少しがたってからだ。

落ち着いた、とはいえ俺は片足。この御時世、マトモな仕事にはつきにくい。
半年をナマポ暮しでやり過ごし、お先真っ暗もうどうにでもなーれ。と腹を括った矢先、ちょっとした出会いがあった。
それは一冊の本。手書きのポップなんぞを張り付けられて、平積みされていた。
芸人の、いわゆる自伝なのだが、それはまあ悲惨な少年~青年時代のお話だった。

この程度なら…、俺にも書けるんじゃねーか?
そう思ったヤツは大勢いるだろうし、書いたヤツも大勢いるかもしれない。
俺もそう思って、ハロワやら身体障害者向けの相談所やらかろうじて食い付いたバイトやらに通いながら、一年かけて書いた。
今だから言えるが、我ながら呆れた考え無しだった。

書く事は、そう難しくなかった。あれだけ強烈な毎日は、そう忘れられるものじゃない。
で、物書きの九分九厘が挫折するところの、持ち込みだ。
これがまあ、一体どうした事やら。トントン拍子で、出版される事になってしまった。
それの誤植やら修正やら差し換えが終わったのが昨日。

俺が、これを書いているのが、今日だ。
一度は逃げ出した今日ではあるけれど、なかなかに、楽しい一日だと思う。






          終                   






「…なんでこんなん書いたんだ? 俺よ…」

…言いながら、しっかりと外付けHDDとポータブルFDにバックアップをとってるのはなぜだ。
まあ、いつの日かラノベかファンタジー業界に進出する時のためにでもなるであろう。いや、無理だろうけど。
人生はそこそこ楽しいが、そう甘くもない。
ギリギリのとこでやってければ、それで重畳だ。

「…ぶっ」

作業を終わらせて、すべてのソフトを終了する。そこで、いつも俺は笑ってしまう。
それというのも、この壁紙が悪い。
一通のメールに添付されていた画像データ。
メールの送信元は、文字バケをしているアドレス。
件名は、『天狗です。お元気ですか?』
その写真に写ってる俺が、あんまりにも間抜けな顔をしているせいで、いつも笑ってしまうのだ。

ノートを閉じて伸びをする。
昨日の夜からほとんど動いていない関節が、少しヤバいくらいの音を立てた。
それに眠い。たいそう眠い。
しかし、洗濯物をとりこまなくてはならない。
昨日の朝から24時間以上干しっぱなしだ。このまま寝るのは、少し気が引ける。

「よ…っと」

びっこを引いて、窓際まで歩く。
今では慣れたものだ。最初はころころとよく転んだが、もうそんなことはない。
落下防止の柵改め、物干しに干しておいた下着類山ほどを部屋の中に放り込む。

…窓から見える景色は、あの頃とは本当に違う。
相変わらず空気は排ガスくさいけれど、鮮やかさは、まるで違う。
葉桜の瑞々しさも、燕の来訪も、去って行かんとする春も、何も見えてはいなかった。
それだけ、俺が目を閉じていたって事なんだろう。

「くぁ…ぁふぁ~…」

欠伸を一発やらかして、今度は本当に目を閉じる。
窓枠に腰かけて、物干しに背を預けた。
こんなところで、昼寝をするのも悪くはない。
そういう小さな楽しみを、いちいち拾い集めるのが、幸せ者になるコツだ。と思ってる。


日差しの中でまどろみ、眠りに落ちる刹那。懐かしい感じがした。

不思議な感覚。

飛んでいるのに、落ちている。

風が強い。

目は、開けない方がいいだろう。




        壱        




櫓の軋み、船べりに跳ねる水音、悠々とした川の瀬音。

「よく寝る客だねぇ…、いいかげん退屈だよ…」

誰とも知らない、女の独り言。
すべてが混然となって、まどろみの中に聞こえてくる。
どうして、ここにいるのか。
分からないが、さりとて考える必要も無し、考えられるほど、脳はしゃっきりと起きていない。

もうちょっと、何も考えずに寝ていたかったが、そうも行かなかった。

「ほら、起きな。あたいが退屈なんだ」

げしげしと俺のすねを蹴りとばしてくれる、ありがたい船頭さまがいらっしゃるからだ。
…ま、無賃乗船してるんじゃ、文句も言えない。

「やめて! 痛い! 痛いって…! ほら、持ってけよ」

大人しく舟代を払ってやるのも癪だった。
手のひらに握りしめていた、紙帯で括られた五両を舟板に寝転んだまま投げ渡してやる。どうも過分だが、持っていたとて仕様が無い。
船頭は、のんびりと艪を漕ぐ手を止めないまま、片手を離し左手で事も無げにつかみ取る。
すぐさま、親指で帯を破り切ると、惜し気も無く水面にばらまいた。

「三途の川遊覧ツアーに、ようこそ。お客さん」

息を飲んだ。
船頭の声にではない。
苦虫を噛み潰したような顔をしていたかは分からないが、しぶしぶと上体を起こした俺の目に、到底理解できない光景が映ったからだ。

行く手の川岸は、深紅。
彼岸花が、その花弁に、死の匂いを隠そうともせず咲き乱れている。
船頭の背には、ただ灰色。
小石と砂礫ばかりが重なり、積もる、賽の河原。
風の無い空に、無数に舞う秋茜。
と見えるのは、すべて、彼岸花の花弁。

毎度の事ながら、呆れ返る。
遥か昔の人々が幻想したものとは、あまりに違う川だ。
脱衣婆も脱衣翁も、河原で石を積み上げる幼子もいない。
ひたすらに穏やかに流れる、死出の旅路だ。

「で、どうだいお兄さん。未練の程は?」
「…寝る」
「おっと、そう気を悪くしないでおくれな。お決まりの冗談だよ。年寄り連中相手だと、受けがよくてさ」
「それはまたタチの悪い…。若者と楽しいおしゃべりがしたいのなら、慎んだ方がいいな」
「これはすまなかったね。…まあ、何だ。気をしっかり持ってるようで、何よりだよ」
「いや、これで結構悔しいんだけどな。…今さらどうしようもないさ」
「そうさね、死んだらそれでお終いさ。よく分かってるじゃないか」
「ああ、なんせ二回目だ」
「ははっ! そいつぁいい。坊さん連中に習うより、慣れろってことかい」

と、なにやら満足げな顔で、漕ぐ手を止めてどっかと座る。
煙管と火口を取り出した。
櫓をほっぽりだして、いかにもうまそうに二口、三口とやる。
船が流れにとられないかと気になったが、微動だにしていなかった。…どういうことか、考えたって分からないのは、明白だ。
頭の中を真っ白に塗りつぶしておいて、あくびをした。

「あんたも、どうだい?」

船頭が、煙管を差し出した。
おそらくは象牙で出来た、琥珀に近い象牙色の煙管にうっすらと紅が付いている。
普段なら、受け取らなかっただろうけれど、小さく礼を言い、手にとっていた。
なぜだか、距離をとろう、だとかは思いもしなかった。

一口、二口とふかす。
さほどの愛煙家でもなかったが、これはうまい。
生前、たまさかに吸っていた煙草と比べてしまうと、いっそゴザでも切り取って吸っていたた方が、安上がりで気がきいていたとさえ思える。
まったく、酒といい煙草といい、どうして元の世界にはまずいモノしかなかったのだろう。

もう二口ばかりふかした所で、恨めしげにこちらを睨んでいるのと目があった。
苦笑いをして、煙管を返した。
もう一度あくびをして、舟板にどさりと寝転ぶ。

「なんだ、またお休みかい?」

煙管を口に持ってゆきかけた手を止めて、呆れたような口調で言った。

「昼寝しようとしてた矢先でさ…、眠くてたまらんよ」

あくびをかみ殺しながら、それでも律儀に答えてやると、こいつ、意外な事を言った。

「まあ、お迎えは結構シビアだからねえ。不馴れだったし、急いでやらにゃならなかったのさ」

「…このヤロー。お前かー、柵壊したの」
「仕方なかった…と言っても、まあ納得できるものじゃないだろうけど…。堪忍しておくれ」
「…はらわた煮えてるけど、いいさ。覆水盆に帰らず。死んだらお終いだ」
「ホント、悪かったね。本職ならもっと上手いことやるのだけれど。…なにぶん、あたいは末端の渡し守さね」
「なんだ、死神連中も人材不足なのか?」
「…いやぁ、さるお人の頼みでね。これはあたいの一存でしている事さ」

そこだけ、彼女は声を潜めた。
と言っても、いたずら小僧のように目を輝かせられては、密談とは思えない。
ちょいちょい、と手招きをするので、身を起こして顔を寄せてやる。
彼女は、本当にイタズラ小僧そのまんまのような無邪気さで、俺に囁いてよこした。

「本来なら、哀れにも死んぢまったあんたを、閻魔様の御前まで連れて行くのだけれど…、ふふっ。
 途中で『誰か』にひっ攫ってもらおうってワケさ。…どうだい、痛快だろう?」

…やっぱり、楽しそうだ。これが他人事なら俺も楽しめるんだが、自分の事では、どうも複雑だ。
だが、どうやら自分に味方してくれていると思ってよいのだろう。今は、ありがたい。

「ああ、だから舟代を受け取らなかったのか?」
「決められた仕事をするわけでもないからね。…まあ、あんなにあるとは思わなかったけれど」
「随分と律儀じゃないか。いい部下だよ」
「いやあ、嬉しいこと言ってくれるじゃないか。いい客だよ、あんた」

と、今までのように唐突に、やに下がっている船頭の隣、ボロ舟の船べりにスキマが開いた。
二人とも、目を向けるが、別に驚きはしない。

「律儀だなんてとんでもないわよ? そこの死神、あなたと同じかそれ以上の怠け者ですもの」
「やや、これは手厳しい。…お約束通り、指定の者をこれへ」
「ええ、ありがと。明日にでも、数人回すわね」
「へへ、すみませんね、どうも…」

回すって、何を…? いや、まさか…。

「…これは、聞いてなかったほうがいいんだよな?」
「そうね、それが賢いわ。さ、長居は無用よ、見つかったら五月蝿いのがいるわ」
「わーった。それじゃあな、…名前は?」
「小野塚 小町。しがない渡し守さ」
「俺は…って、もう知ってるよな。また会いに来るよ。じゃあな、小m。ぅをーう!?」

やってくれる。
おおかた、紫が身を乗り出しているスキマに引きずり込まれるだろうと思ったのだが…。
ケツの下にスキマを開いてくれるとは…。
やってくれる。



        弐



「起きなさい」

言うやいなや、ぴしゃりと頬を張られた。

「はぁ!? いってぇ! どいつもこいつも、そんなに俺が安眠してるのが憎いかよ!」
「永眠する?」
「…いえ、冬眠程度にしといて下さい」
「そうね、それがいいわ。…で、どこまで知っているの?」
「…俺はもう死んでいて、地獄にも天国にも行かないどっちつかず。俺が外に帰れるのは、期間限定だった。それくらいだな」
「ええ、そうね…」

低く呟いて、紫は沈思する。
俺は、夕暮れ時の縁側に両手をついて座り込み、ぼんやりと庭を眺めている。
庭は、適度な乱雑さをもって草花が散り溢れている。露草が、ひときわ高く青々と茂っているのが眼に止まった。
桜は散り、それでもなお美しく、濃緑の葉を芽吹いていた。
夕暮れの空は紅い。明日は雨だろうか。

「…あの夜は、本当にあなたの命日だったのよ」

紫が、言った。
俺は、別段居ずまいを正すことも、驚くこともせず、ただ受け入れていた。

「死んで、三途の川を昇って、閻魔の前に突き出されるべきだったあなたを、私は無理矢理引き止めた。
 その時点で、あなたは死んでいるのに、命を持っている。そういった、いわば生霊になっていたのよ。
 それで現世で暮らしたい、だなんてもってのほか。けど、私が色々と手を打って二年限りであなたを元に返したの。
 で、二年後に裁きを下して、しかるべき行き先を決めるのだけれど、ほかの死神より先にお迎えにいってもらい、どこかおかしなところに運ばれたと勘違いさせた。
 それだけやって、ようやくあなたはこの縁側に座っている」

…今さら、驚きもしない。
俺は、もう終わってしまった。今の俺が考えるべきは、これからの事だった。

やはり、紫には伝わったのか。

「…そうね、これからのあなたの話をしましょう。
 さっきも言った通り、あなたは一度死んで命を持ったまま現世に帰りまた死んで命を失い裁きを受けないまま異界に幻想として留まっている。
 これ以上無いくらいややこしい、普通の命の環の中から大きくはみだした命ね。…私達の言うところの、妖怪よ。一人1種族の」
「…ウソだろ?」
「嘘は私の好むところだけれど。…残念ながら、あなたは本当に、人間ではないわ」
「それって、つまり」
「あなたは、人とは大きく離れた力を持って、永い時を生きる。ここで、幻想郷で。」

その言葉を聞いて、何やら体から力が抜けた。
体に詰まっていた重いものが、大切な重荷が一気に抜け出て行く気がした。
第二の人生。
0からのやり直しでも、振り出しに戻るのでもない。
まったく新しい、新しい朝からの永い永い一日が始まる。ここで。

紫が言ったのはそういうコト。

だが、…それは同時に、今日まで俺を照らしてくれた人々は、もう俺の前には決して現われないということ。

俺が築き上げたモノは、一夜にして奪われてしまったということだ。
別れも、もう言えないということだ。
もう二度と、会えないということだ。

例えようも無い清々しさと同じ程、悔しく、悲しかった。

「…悪い、一人にしてくれないか」
「嫌ね」

きっぱりと一言。まったく予想だにしていない一言だ。
いつもの事だ。

「…そんなに、俺が泣いてるとこ見たいか?」
「ええ。笑っているあなたしか、見たことが無いから」
「最後の夜に、泣いてやったじゃんよ」
「あなた、堪えてしまうじゃない。悲しい時は、思いきり泣いたほうがいいわよ。泣けなくなってしまうから」
「…紫、お前」
「その無礼な口を閉じなさい。…こういう時は、黙っていればいいの」

紫が、手を重ねてきた。
縁側で、小さく重なりあうだけの手。
例えようもなく、温かかった。

…まったく、こんなのってないぜ。

夢も、希望も、親友も、仲間も、好きな子も。
全部、手に入れたってのに。

…ぁあ、もう。何だってんだよ。

そっと、紫が手を握ってくれている。
それだけでもう、わけも無く、涙が溢れて止まらなかった。

「ごめんなさいね」

…何を、謝ることがある?

今さら、恨もうなどとは思わないよ。
あの幸せな日々は、全部紫がくれたんだから。

…ただ、ちょっと。

幸せすぎたのだ。
俺みたいな、死にぞこないには。

「…ありがとう。八雲さんのおかげだ」

…伝えたかった。

二年間、伝えたかった言葉を。
心残りだった。
ずっと、伝えたかった。

…でも、伝えても、涙は、止まらない。

「ぅ、ぁああっ…」

嗚咽が漏れる。
しゃくりあげる俺に、紫が、そっと体を預けてくれた。
                

「ッしゃァア! 来た、来た来た来た来ました世紀の奇跡の大スクゥーープッ! イェア! フォゥ! イイデスネーそのアングルゥ-!」
「去ねぇッ…!!」
「ひゃう!? いえ、ちょ!? 隙間の無い弾幕ってルール違h」
「私がルールブックよ」



ピチューン


…あぜんとする間も無いままに、状況終了。バカなカラスは、黒焦げで生々しく痙攣している。
俺は涙をぬぐうのも忘れて、庭先に出てきた藍がバカラスを縛り上げるのを眺めていた。
…そりゃあ、いくら速くたって、全天を妖弾で包み込まれたらどうしようもない。

射命丸を肩に担ぎ上げた藍が、俺を見て少し驚いた顔をした。が、それきりだ。
驚くことではない。いつかは戻って来ると確信していたのだから。それが今日だっただけの事だ。
俺も、みっともない姿を晒し続けるのは止めよう。

涙を拭いて、立ち上がる。
右足は、動く。
少し、笑った。

鶯張りの床を踏み締めて、藍と紫の後を追った。



        参        



「…なぜ、あそこに居たのかしら?」
「いえ、通りかかったら見かけたので…」
「…藍」

介抱されて、庭先に引き据えられた射命丸を傲然と見下し、平和的私刑が行われていた。

紫が縁側に座っている。俺と藍が両側に立っている。
…射命丸は、凶暴な洗濯板。といった風情の石盤の上に、両手両足を縛られ、お札を張り付けられて正座している。

紫が、ぱちん。と指をかき鳴らす。
藍が、射命丸の膝の上に、一抱えはある重りを追加した。
…言わずと知れた、伝統的な石抱きの刑である。

「あいたたた! 痛いですって、これホント! …え、ちょ、どうなってんの!? これヤバ…!
 …ぜんぶ、っぅ!言います、どけてください…!」
「…質問に答えなさい」
「いえ、そのまえに、重りを…!」
「藍」

ぱちん。

…こええ。
本気かどうかは知らんが、これはかなり怒っていると見ていいだろう。
能面のような表情には、不吉な笑みすらも浮かんでいない。

藍が、いささか申し訳なさそうな顔で、また重りを運んで来る。
重りを乗せる寸前で、射命丸が折れた。

「言います! 言います! あのサボりジャンキーを買収したんです! 合図をまってかけつけました! すいません!」
「そう、後で彼女にも話を聞かせてもらうわ。
 …藍、何をしているの? そんな重そうなもの抱えてないで、早く適当なところに乗せなさいな」
「は…? いえ、しかし…」
「藍?」

もう一個、重りが追加された。

「ひぎぃいっ!? や、なにコレぇ!? 折れりゅ折れひゃう! 砕けぇ…っ!」
「五月蝿い」
「ぅぁ、ぁっ…!」
「どこに隠れていたの?」
「あの、木の。うぇ、にっ…隠れ蓑、つかっれぇ…! はくぅうう…!」
「一個、どかしなさい」

…凄絶である。
あの天狗が、このザマだ。
見たとこ、特別製のお札が体に4枚は貼られている。
…効能は、想像したくない。

これは、さっさと奥に引っ込んでしまえばよかった…。
なんとなく紫に付いてきたのは間違いだった。
だがしかし、この空気の中では身動きなぞできやしない。

「最悪のタイミングで、殊勝にも出てきたわね。どういう心変わり?」
「はひ…。いえ、そのまま隠れ蓑、を…ぃぅっ! …使って、お二人の秘め事を覗いてしまうのは、天狗の誇りが許さず…」
「一個、乗せなさい」
「え…。いえ、はい」

逆鱗剥がしゲームが、実にお上手な天狗である。
…今は純粋に哀れだ。
藍が重りをのせるのを見届けるや、満足したのか龍は屋敷に引っ込んでしまった。

「疲れてしまったわ。寝るから、夕飯は要らないわよ」
「はぎゅぅ…! この、おも、りぃ…! どかひれ…くらはい…!」
「日が暮れるまでの辛抱ね」

満足はしていなかったようです。

「まー、なんだ。しかたないよ、相手が悪かったって」
「はひい…! …これ、どかして…ぇ」
「私は嫌ですね。命が惜しい」
「…悪い、俺もだ」
「ひぐ、ぅくうっ! そんな…ぁ!」
「…オッケー。こうしよう」
「なんれすか、はや、く。いって下さい、よぅ…!」
「俺がこの状況を写真にとって、射命丸さんが俺にフィルムを預ける。そして俺が重りをどかす」
「な…!? くぅっ…! …もう、いい…です、それでぇ…! …はやく…っ!」
「ほいよ、っと」

縁側から、裸足のままで庭先に下りる。
別に、写真なんか撮りやしない。そのまま、重りを二つともどかして、お札を剥がしてやった。
お札はどうやら、封魔と、服従と、五感の増大が2枚。と読めた。

射命丸が地べたに転がった。膝から臑にかけて、赤黒く染まっているのは、お札を剥がした途端、もう治り始めているように見えた。
いったい何をどうすればこうなるのか。あの天狗が両手両足を縛られて、軽く痙攣しながら涙目で荒い息をついている。
…ま、俺にSっ気はないので別に思うことは無い。Mっ気もないのでうらやましくも無い。

藍と目を合わせて、肩をすくめた。
藍は心得た様子で、台所のほうに上がって行った。
俺は、刃物を持ち歩く習慣は無いので、縄はそのままに肩に担ぎ上げる。…死人のように重い。
力なく垂れ下がっている翼が鼻をくすぐるので、くしゃみが出た。



        四



「ああ、もう…。助かりました…」
「これで、いいかげんに懲りたか?」
「これで懲りないというのなら、それはもう死んでも直りませんね」
「懲りました、懲りたっスよ…」

吐き出して、力なくうなだれると、茶わんに酌んだ冷や酒を一息に飲み干した。
ばふー、とため息をついて、涙をごしごしとぬぐった。

「ええ、もう…。こんなことになるのなら、欲張らずに黙って隠れてればよかった…」
「まあ、見通しが甘かったなあ」
「そうですね…。紫さまも、久しぶりに怒っていましたよ」
「ヘマをやらかして、あんな不様を晒して…。私もう、恥ずかしくてお山に帰れませんよ…。それどころか、天狗仲間に知られたら、もう…!」

障子を一枚開け放った外からは、夕陽の代わりに夜気が流れ込んでくる。
いささか涼しすぎる部屋の中、射命丸のグチは熱くなる一方だ。
もう、ぐちゃぐちゃと、何を言っているかも分からない。まるでアブない人だ、これは。

「大丈夫だって。俺も藍も、信用してくれて構わないし、紫だって意味も無く他人を貶めたりしな…い…。…か?」
「…私を見るな」
「いいんですよ、もう…。矢上さんの親切が、私の救いですよ…」
「…そうか、まあ、なんだ。…そうか」
「今度ゆっくりと、お茶でもしたいものでs」
「断r…まあ、いいよ」
「…!? 本当ですね? いいんですね!?」
「いいのか? …死ぬぞ?」
「いや、今回も、半分ぐらい俺のせいだしさ。それくらいなら…」

と、また射命丸がごしごしと涙をぬぐう。
俺の手から冷や酒の湯飲みをむしり取って、一息に飲み干した。

「優しいですねぇ、矢上さんは…! 私、お山にいられなくなったら矢上さんのところに転がり込ませてもらいましょうか…」
「いや、それってこの屋敷に居候って事にならないか?」
「ふむ、現在同棲中である…と」
「げっ」
「冗談です、冗談。…では、鬼の寝ている間に、おいとまさせてもらいましょう」
「おや、もうお帰りで? この時間です、夕飯を御一緒にと考えていたのですが…」
「ええ、ご親友と水入らずのところ、お邪魔しては申し訳ないですから」
「…語弊がありますが、そういうことであれば。お心づかい、ありがたく頂戴します」
「はい。それと…」

机上のカメラを取って、フィルムカバーを開けた。
そのまま、躊躇うことなくフィルムをつまんで引き延ばした。

「ありゃ、いいのか?」
「ええ。何やら現像できないような光景が色々映っていたので、こうした方がお二人にとってよかろうと。…では!」

…電光石火で逃げ去った射命丸の、最後っ屁のおかげだ。
狐のハズが、まるで猛虎のような藍の視線である。

…誰か助けてくれ。

と、ぱたぱたと聞き覚えのある足音が聞こえてくる。
さらなる波瀾の足音である。
この足音に聞き覚えが無ければ、少しは助けが期待できたのだが…。

どうも、大変な一日になった。

だが、これからは。
これが俺の日常だ。

…いいじゃないか、これも。



        伍



薫が帰ってきてから二日。屋敷は一向に静かになりはしない。
今日もまた、もう亥の刻だというのに式達が覗いただの濡れ衣だの騒いでいる。
これではまるで、人間そのものではないか。

私は、いっそ考えるのが阿呆らしくなった。
あれから2年と半年。式神二人はずるずると屋敷に居続け、あの男も、すっかりここに住むつもりでいる。
私の平穏と退屈は、乱されっぱなし。

しかし、だ。身から出た錆、という言葉もある。
ここは一つ、辛抱のしどころ。
それに。

「ま、これはこれで楽しいものね…」

スキマを開きつつも、苦笑が抑えきれなかった。おかげで、スキマは落ち着くまでに大層荒ぶった。
期待以上、どころではない。予想だにしなかった結果だ。これは。

幽々子の部屋に出ると、折しも彼女は床についていた。
寝床にうつぶせになって、外の世界の紀行文を熱心に読んでいる。酔狂なことだ。
幽々子は、ちらと視線を向けただけで、微動だにしなかった。
私のこうした訪問にはもはや慣れ切っているし、私以上の興味の対象をめくっているのだから、私を気にする筈もない。
…いなされてしまうのは、少し癪。

「きゃっ…。もう、どこ座ってるのよ、重いわ」
「座布団の一つも出さないのが悪いのよ。見たところ、ココが一番座り心地がよさそうだったもの」
「だからってお尻に座られたらいい気はしないわよ、普通なら。大体、どうやって亡霊に座ってるの?」
「さあ? 知らないわ。でも今は、それより気になる疑問の答え、知ってるわよ」

言うや、彼女は本を伏せて私を横目に見た。
やはり、退屈しのぎのこの遊び。彼女も随分気にかけていたらしい。
あの男、薫の事。
話に聞かせるのが楽しみだ。

「…薫だっけ? 結局、彼は今、どっちなの?」
「聞いて驚きなさい。…最初から最後まで、人間よ」
「じゃあ…!」
「いいえ。まだ私との経道はあるし、私の命令には逆らわない。身体能力も高いまま。立派な式神よ」
「…あら、それはそれは…」

くるくると表情の変わる、見ていて嬉しくなってしまうような童顔だ。
始めて会った時よりも、いっそう若々しくなった顔がくるくると喜怒哀楽を繰り返すのは、愛らしい。

「でも、感情の働きは人間そのものよ? 主に寄り添って号泣するような式神が、どこにいるものですか」
「あら、枯れたようなふりして、やるじゃない」
「言ってなさい。…で、結論」
「…待って、私に言わせてくれる?」
「ええ、どうぞ」
「人間とは、人生を生きている、生きていた者すべて。…違う?」
「…いえ、そうね。私もそうだと思ってる。
 百年にも満たない、自分の意志を持って過ごせるのは精々70年のひ弱な命。そんなものを生きていれば、自ずから、すべての事象の捉え方は、妖怪とはまるで違うものとなるでしょうね」
「人間が、あれ程に知識を求めて、歩みを止めようとしないのも、与えられた命の弱さと短さを知っているから。なのかしら?」
「ええ、あんなに短い人生なのに、求める幸せは私達よりずっと多い。人間の命は濃いのよ。千年を生きる妖怪の十倍、一万年を生きる妖怪の百倍も」

私がそう言って、会話は途絶えた。
だけれど、幽々子はなにやらもじもじとして、左手で後ろ髪をいじっている。
これは、彼女が聞きにくい事を、多くの場合は興味本位で聞こうとしている時に、決まって見せる癖だ。
それでも、最後は決まって我慢しきれずに言い出してくるので、私はその癖に気づかないふりをしている。
ただ、今夜は言い出すまでの時間が長かった。

「…紫。あなたは、いつ彼に本当の事を言うつもり?」

…なるほど、躊躇うわけも、よく分かる。私でも、躊躇しただろう。
答えを言うのも、躊躇ってしまうのだから。

「…言わないわ。知ってしまったら、きっと。このままではいられないもの」
「はあ…。やっぱり、そんな事だろうと思った。人間のあしらい方はまだまだね」
「…何よ、言うじゃない」
「ええ、あんなに簡単で分かりやすい生き物のあしらい方ぐらい、憶えていない方が難しいわ」

また、ずいぶんな事を言う。
その記憶を失っても、彼女はいまだ人間だ。それでいて、永遠の時を生きる人ではないモノの考え方も合わせ持っている。
だから、きっと彼女には彼女にしか見えていない世界が見えているのだ。
それだから、私はこれまでもこれからも彼女の友として、そばに居たい。
今日みたいな事があるから。

「早く言ってよ。気になってしかたがないって、いつも言ってるじゃない」
「鰆と桜鯛よ、紫」
「…わかってるわよ」
「あ、それと夏になったら…」
「鯵と鰯を、生と干物でしょう? ほら、早く言いなさいな」
「それに、イサキもね」
「雲丹もつけるわ。…で?」
「さすが、愛してるわ紫。…で、そう。彼の話ね」
「ええ。静かに千年と少しも白蛇やってて、後一歩で龍ってところを、式神にされてしまったのだもの。憎んでも憎んでも、飽き足らないわよ」
「まともな妖怪なら、ね。だって彼、人間でしょう?」
「ええ」
「なら、きっと感謝してるわよ」
「…それは、人生に、かしら?」
「ええ、嘘でも本当でも、その全てに。自分が見て、感じてきた何もかもに」
「それが本当なら、…不思議な事ね」
「何だかんだ言って、人間ってそういう命だから。だから、早く教えてやりなさい」

妙に、悟ったような事を言う。こういう時、彼女は決まって目を閉じる。
その横顔を見るたびに、私はあまり思い出したくはない事を律儀に思い出してしまう。
あまり鮮明に浮かび上がる前に、私は考えるのを止めた。

「不思議ね、人間って。何より獰猛に敵を求めるかと思ったら、そんな不条理を愛せるなんて」
「そう? きっと妖怪にだってできるわよ。皆、そうしない方が楽で、平和だからそうしているだけよ。
 ココは不条理は多すぎるし、敵を求めるには狭すぎるわ」
「そうね、月に求めるしかなくなるわ」
「あ、そうそう。あのお酒、まだ残ってる?」
「残念。もう無いわ」
「あら、残念。せっかく、紫が美味しい魚を届けてくれるのに」
「薫のせいよ。今度…そうね、魚を届けに来る時連れて来るから、存分にからかってやりなさい」
「大変な主を持ったわねぇ…。ちょっと、いいかげん降りなさいよ」

くすくすと笑いながら、ちょっと体を揺すった。
気分がよいので、今夜は素直に従う事にしようか。

「それで、なんで私の隣に寝るのよ?」
「たまにはいいじゃない。昔を思い出すわ」
「ホント、大変ね…。こんな主を持って…」
「そう振り回すばかりでもないのよ? この間は、きちんと誠意を見せてあげたんだから」
「…どうやって?」
「貴男の言うこと一つ、なんでも聞いてあげるって」
「あら…、それはそれは…。で、なんて言ったの?」
「聞きたい?」
「ええ、とても。雲丹と紫の話とだったら、雲丹は捨てるわ」

行灯の火が天上で揺れるのを眺めて、私は笑っていたと思う。
身勝手ではあるが、彼を送りだしてよかった。
こんなにも、バカでステキな隣人は、そういない。

「早く言ってよ。気になるじゃない」

私は、はっきりと笑った。

「俺のHDD壊してくれって。本体ごと持ってきたけど…。中、見る?」

幽々子と二人で笑った。今夜は、長くなるだろう。



        了
初めに、どうも御精読ありがとうございました。

はじめまして、ワタリ蟹です。万が一はじめましてでない方がいらっしゃるのなら、私と結婚して下さい。

さて、私にとって二作目のSSとなる今作ですが、私生活でも色々とあって、何やら吹っ切れてしまったのが文章にもにじみ出ているような気がします。
そうです、読みにくい漢字も、身勝手な妄想も、旧字体漢数字と入り乱れる漢数字も、空気読めないアラビア数字も、全部仕様です。
自重できませんでした。自由って怖い。
あ、でも誤字誤植は仕様じゃないです。私の貧弱な脳みそのせいです。すいません。

そんな読みにくいSSに、最後までつきあっていただいた皆々様方、本当にありがとうございました。重ね重ね、御礼申し上げまする。
それと、あややの扱いが酷くなってしまったのも仕様です。好きな子はいぢめたくなるんです、私は。
私がコンパスになったら、間違いなく南向きますね。

言いたい事は、大体こんなところでしょうか。
まだまだ書きたいものは溜まっているので、ネタが尽きるまではのんびりと書き続けると思います。
貶されても喜びますが、少しおだてれば、この豚は木にも昇れば空も飛びます。
これからもだらだらと書き続けるので、ほんの少し、おだてていただければ幸いです。
長々と失礼いたしました、では。
ワタリ蟹
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.360簡易評価
11.10名前が無い程度の能力削除
努力は認める
18.無評価名前が無い程度の能力削除
長く書けることもある種の才能だね
19.100名前が無い程度の能力削除
とても良かった。

色々言いたいけれど、多過ぎて書けそうにないので、一言だけで言うと。

とても良かったです。
22.90名前が無い程度の能力削除
最初の方の葛藤がもうちょっとほしかったかな。簡単に受け入れすぎなような気が・・・
しかし全体的に心理描写はしっかりと書かれていて退屈せずに、テンポもよく楽しめました
25.80S.Kawamura削除
good! 正直な文章は好きです。