§
よくわからない人だ。
東風谷早苗は、博麗霊夢という人間について考えるとき、いつもこう思う。
わからないのだが、長い時を生きた者に特有の思考を窺わせない得体の知れなさとは違う。
むしろわかりやすいと言ってもいい。
行動を見聞きしていると、色々なことがわかる。
けれど、「ならば、つまりどういう人物なのか」と聞かれると、返答に困る。
どんな言葉で表したとしても微妙に違う気がして、結局『よくわからない人』という評価になってしまう。
空に浮かぶ雲か雨上がりの虹のような、見えるけれども掴めず、追えず。そういう人物であった。
そういう人物と、博麗神社拝殿の縁側で、早苗は並んでお茶を啜っていた。
人里近くに、命蓮寺という寺ができたころの話である。
分社の様子を見に来たついでに、霊夢にお茶をご馳走になっていたのだった。
霊夢は湯飲みを置いたまま、ぼんやりと鎮守の杜を眺めている。
元々饒舌な性質ではないが、今日は特に言葉少なく、早苗が近況など話すのに相槌を打つ程度であった。
何が気になるのか、時々腕を上下に振っている。
袖がひらひら揺れて、鳥が羽ばたくような様であった。
やがてお茶もなくなり、早苗を暇を告げて腰を上げた。
風に乗るように浮き上がり、守矢神社のある妖怪の山へと向かおうとすると、その向きから霊夢がふわふわと飛んで来る。
「早苗、帰るの?」
「はい……って、あら? 霊夢さん?」
早苗は目を丸くして、博麗神社を見下ろした。
縁側には霊夢が座っている。
隣を見ると、そこにも霊夢が浮かんでいた。
「霊夢さんが増えた……」
「増えるか」
早苗が愕然として呟くと、霊夢は言った。
そのまま降下していくので、早苗もそれについていく。
帰って来た霊夢が境内に降り立つと、縁側にいた霊夢が湯飲みを渡した。
後から来た霊夢はそれを受け取り、渡した霊夢の額の辺りで何かを摘むような仕草をする。
すると、最初にいた霊夢の姿がふっと消え、その代わりに白い蝶がひらひらと羽ばたいていた。
一人になった霊夢の指には、人の形に切った紙がある。
それが何か、早苗は知っていた。
「式神も使われるんですね」
「紫ほど上手くはないけどね。練習中よ」
人型を袖にしまいこみながら霊夢が言う。
式神。
獣や虫などに、行動を制御する方程式を与えることで自在に使役するものだ。
優秀な術者となれば妖怪にすら式を付けることもできる。
「あぁ、だからちょっと変だったんですか」
「どこかおかしかった?」
「お茶を飲みませんでしたし、時々手を振ってました」
こう、と手振りで示してみせる。
今にして思うと、あれは蝶が羽ばたく姿だったのだろう。
「式がどっかおかしかったのかしら。調整が必要ねぇ」
霊夢は縁側に座りながらそう言った。
早苗は同じように腰掛けて、聞いた。
「ところで霊夢さん。どちらへ出かけていたんですか?」
「妖怪退治よ。里から依頼を受けたの」
「ははぁ、妖怪退治ですか。お一人で?」
「そうよ」
「なら、私を誘ってくれてもよかったじゃないですか」
「あんた、それ本気で言ってる?」
「ええ。最近、妖怪退治が楽しくなってきたんですよね」
早苗がそう言うと、霊夢は無言で早苗の顔を伺った。
早苗の言葉の真意を探っているようだったが、しばらくすると溜息を吐いた。
「そういう妖怪退治じゃなくてね」
霊夢は湯飲みを縁側に置いた。
右の袖を抜き取って軽く振ると、術によって作られている空間からバラバラと落ちてくるものがあった。
大幣、陰陽玉、長大な針、朱で書かれたお札。
妖怪退治の道具であった。
当然早苗には効果がないものであるが、それでもぎょっとするほどの力が込められている。
「あの、霊夢さん。こんなのぶつけられたら、本当に死んじゃうんじゃないですか?」
「そうよ。妖怪退治なんだから」
当然のように、霊夢は言った。
妖怪が人を襲い、人が妖怪を退治することは幻想郷を支配する秩序の一つである。
そして、博麗の巫女というのは妖怪退治をする人間の象徴であった。
近年はスペルカードルールによって多少平和的に体現されるようになったが、法を守らない者、そもそも理解しない者は枚挙に遑がなかった。
そのような相手は、古来のやり方で退治しなければならない。
つまりは殺してしまうということだ。
霊夢が人里から依頼を受け、対価に報酬を得る妖怪退治とは、ほとんどがそういうものであった。
そういう行為に特に思うところがあるわけでもないが、それでも、楽しいことではなかった。
「早苗。あんたは別に、こういう妖怪退治をしなくてもいい。でも、知らないのはだめよ」
早苗には言葉もない。
顔色が青褪めて見えた。
「覚えておきなさい。受け止めなさい」
霊夢は言った。
「幻想郷って言うのはね、こういう場所なのよ」
この日、早苗は霊夢についてまた一、二の新しいことを知った。
けれどその結果、やはり博麗霊夢という存在が遠ざかった気がするばかりであった。
§
その晩のことである。
霊夢は鳥居の下に座して酒を飲んでいた。
高台にある博麗神社からは幻想郷が一望できる。
それが肴であった。
境内は静まり返っている。
霊夢はゆるゆると酒盃を傾けた。
やがて、ことりと音を立てて、霊夢は杯を置いた。
目を細めるようにして夜の闇を見透かしている。
霊夢が見ているものは、己が管理する博麗大結界の外の世界。
幻想郷の博麗神社と重なるようにして存在する、外の博麗神社であった。
外の博麗神社は人の営みから外れた位置にあるため、一見すると幻想郷と同じ夜に包まれているように見える。
けれど、そこは霊夢の知らぬ理で支配された世界であった。
自然を語るとき、神を必要としない世界だと言う。
妖しの者がおらずとも、闇への恐れを払える世界だと言う。
それが、あの風祝の住んでいた世界であった。
(惑わせてしまったかしらね)
山へ帰る早苗の、消沈した様子を思い出して、霊夢は思った。
早苗にしては珍しい姿であった。
大して根拠もないくせに妙に自信満々で、信仰の為にと、あれやこれやと思いついては突っ走る。
霊夢は彼女のそういう一途で直向な熱さを密かに好ましく思っていた。
それを失わせるのは本意ではない。
だが、余計なことをしたとは思わなかった。
いつかは言わなければいけないことだったからだ。
幻想郷は人と妖怪の共存する地である。
けれど、その共存という言葉の意味は、みんなでお手て繋いで仲良くしましょう、などというものではない。
人が妖怪に喰われ、妖怪が人に退治される。それが日常として存在する残酷さもまた、幻想郷であった。
万人が知る、幻想郷の律であった。
今更になってという話である。
早苗が力を持っていて、能く術を使うために、外から来たばかりであることを失念していたのだ。
幻想郷ではあまりに当たり前のことであったので、まさか気づいていないとは思っていなかったのである。
(今のあいつは、ここみたいなものだわ)
外と内との境界。その微妙な位置に、早苗は立っている。
見えてはいるのにわずかに噛み合わない、ズレた位置から向かい合っている。
だからまだ、真実幻想郷の住人だとは言えない。
霊夢はとっくに早苗を幻想郷に迎えたつもりだったし、おそらく相手もそうだった。
お互いがそう思っていたために、かえって大切なことを見落としていたのであった。
(早苗。あんたはいつまでもそこにいちゃいけないのよ)
現と幻想の境界に立つのは、博麗の巫女たる霊夢の定めである。
信仰する二柱の神がいる限り、早苗が外に帰ることはないだろう。
ならば早苗は、こちらの世界の住人とならなければならない。
霊夢は新たに酒を注いだ。
本当の意味で早苗が幻想郷の住人になる日。そんな日が早く来ればいい。
霊夢は杯を天に掲げ、一気に飲み干した。
§
それから三日ばかりが過ぎた。
早苗は箒を手に守矢神社の掃除をしていたのだが、その手は止まりがちであった。
本来の意味での妖怪退治についてである。
霊夢は早苗にやる必要はないと言ったが、どうであろうと早苗は思う。
確かにスペルカードを用いた弾幕戦闘でも、妖怪退治はできる。
しかし、それは相手がスペルカードルールに従ってくれなければ妖怪退治ができないということである。
最近は人里近くにできた命蓮寺に住む新勢力がかなりの勢いで信仰を集めており、信仰拡大を狙う早苗としては人里に守矢の存在感を示しておきたい。
妖怪退治を引き受けるようにするというのは、手っ取り早い上策であった。
(でも、私にできるかしら……)
早苗には、その自信がなかった。
早苗は、最近まで外の世界に住んでいたのだ。
外の世界。特に、早苗の暮らしていた国は命を奪うことに触れる必要のない場所であった。
小さな虫くらいならば殺しもするが、肉も魚も切り身になって手に入るし、そこらで小動物など殺した日には警察のお世話になってしまう。
戦争は過去の記録でしかなく、人が人を殺すのは液晶の向こうの話であった。
今までの人生の九割はその世界で暮らしていたのだ。そこで培われた倫理観、常識というものは容易く変えられるものではない。
果たして、妖怪を殺すことができるだろうか。
早苗は自問する。
不定形の化け物。これは出来そうな気がする。
では、獣の姿をした妖獣はどうだろう。途端に怪しくなってきた。
人型をしているものとなればもう出来る気がしない。
(いいえ、本当は、そういうことではなくて……)
早苗は頭を振った。
早苗は困惑していたのだ。
神社ごと引っ越してきて、外との違いに随分と驚いた。
時間が流れてそれにも慣れたつもりだったのに、その根っこのところに早苗の知らぬものがあった。
それに気づいてから、早苗は地に足の着かないような不快な浮遊感を感じていた。
妖怪退治を――言葉を和らげないなら妖怪殺しを――するかどうか。
それに答えを出すことは、宙ぶらりんになっている自分の立場に確固たる足場を作るための手段なのだ。
神社の二柱に対する早苗が揺ぎ無く定まっているように、本当の幻想郷に対する早苗を定義する儀式であった。
そういう大切な問いだからこそ、早苗は中々答えを出せないでいた。
そうしてまた鬱鬱としていると、何者か、山道から境内に入ってきたものがいた。
早苗が陰鬱な表情を消してそちらに目を向けると、そこに立っていたのは人間の男だった。
まだ若い。早苗よりいくらか年上というところだろう。
顔色が悪く、何かに怯えるような目をしている。
右の手で左肩の辺りを押さえているのが気にかかった。
守矢神社があるのは妖怪の中でも排他的な種族である天狗を頂点とする妖怪の山である。
神社に至る山道で人間を妨げてはいけないという約束になっているが、もしやと思うこともある。
「あの、大丈夫ですか?」
早苗は男に近づきながら声をかけた。
すると男は、ばっと地に伏して言った。
「どうかお助け下さい。このままでは、幾日もしないうちに死んでしまいます」
「ど、どうしたんですか? とにかく、頭を上げて下さい」
男は尋常ならざる様子である。
早苗は平伏した男に様々に宥める言葉をかけ、腕を引くようにして頭を上げさせた。
「一体、何があったのですか?」
早苗が改めて問うと、男は無言で襟を寛げ、諸肌を脱いだ。
「きゃ」と、声を上げかけて早苗が口を押さえたのは、男の裸を見たからではない。
男の左肩に、妙な出来物があった。
肉が虫の形に盛り上がっている。
手に鋏があり、鋭い針を備えた尾を持っている虫であった。
それが、まるで皮膚の下で生きているように蠢いているのだ。
呪詛によるものである。
虫が体内をゆっくりと這い進み、やがて心の臓を毒針で一突きにして死に至らしめる呪いであった。
「お願いします。この呪を落として下さい」
「えーと……」
重ねて、男は言った。
正直に言うと、この呪いは早苗の手に余るものだった。
早苗の扱う秘術は人々の信仰を得るために覚えた見栄えのよい風雨の術が中心だったからだ。
外の世界では呪いや祟り、獣憑きというようなものは細菌やウィルス、それらしい名前のついた精神の病に取って代わられて消えてしまっているので、それらを祓う術は必要なかったのである。
そのとき、一陣の風が巻き起こると早苗の髪を揺らして吹き抜けて行った。
早苗は風の声に耳を傾け、小さく頷く。
「わかりました。どうぞ、こちらへ」
早苗は男に衣服を整えさせ、本堂へと案内した。
奥には、既に祭神である八坂神奈子が、片膝を立てた尊大な様子で座している。
古来より生きる力強き神にしてはフランクな彼女であるが、こうして人前に姿を見せるときはそれなりの威厳を見せるのは早苗が切々と訴えたことの賜物であった。
早苗は神奈子に頭を下げて、言った。
「八坂様。連れて参りました」
「ああ。ま、座るがいい」
男を神奈子の前に座らせ、早苗は二人を横から見る位置に控えた。
神奈子は再び男に服を脱がせて、呪詛を眺めた。
「なるほど、強い呪いだ。確かに私ならば呪いを解くこともできようが……」
神奈子は、ううむと唸り、何事か考えているようだった。
男は不安そうにその様子を伺い、救いを求めるように早苗に目を送った。
神と人とを繋ぐのが巫女の――早苗は風祝であるが――役目である。
早苗は男の意を汲んで、神奈子に声をかけた。
「八坂様、どうなさったのですか?」
「……お前。その呪いは、呪詛返しをされたものだな」
神奈子がそう言うと、ただでさえ悪かった男の顔色がますます悪くなった。
裸の肩が震えている。
呪詛返しというのは、誰かにかけた呪いが自身へと返ることを言う。
人を呪わば穴二つと言うように、呪いというのは失敗すると術者に跳ね返るものなのだ。
つまり、この男は他人に死の呪いをかけようとして失敗したのである。
そんな男を助けるべきか否か、それを神奈子は考えていたのであった。
「わ、私はっ、殺すつもりなどなかったのです!」
脂汗を流しながら、男が声を張った。
「一日か二日脅かしたら術を解くつもりでした。殺すなど、そんな――っ」
「ほう。では、なぜそんなことをしたのか話してみよ」
「……わかりました」
そうして、男は話を始めた。
§
その男は、人里の商家の息子である。
生まれつき些少の霊力を持っており、占いをよく当てた。
それだけならば良かったのだが、四月ほど前、取引した商品に様々な術の載っている本を見つけて己のものにした。
書を読み、独学で身につけたと言うから、才はあったのかもしれない。
術を覚えた男が商売を辞めて家を出、妖怪退治をするようになったのが一月ばかり前のことである。
男は己の才に自信があり、それで十分に食べていけると考えたのだが、それがどうも上手くいかなかった。
依頼された仕事は二つだけで、その二つも報酬が気に入らないと断ってしまった。
そして先日、持ち出した金が心許なくなり、やむなく男が実家に帰ると、父が金の支度をしていた。
それなりのまとまった金である。
何に使うのかと問えば、妖怪退治を頼んだ博麗の巫女に渡す謝礼だと言う。
なんたることだ、と男は思った。
博麗神社の巫女と言えば、妖怪に囲まれて過ごしているなどと言われるいい加減な巫女ではないか。
自分のところにくる依頼の対価は端金だというのに、どうしてそんな巫女がこのように金を得られるのか。
そもそも、妖怪退治を頼みたいなら、息子の自分に頼めばいいではないか。
このように思ったのだった。
鬱憤が溜まった男は、人里でぶつぶつと霊夢への文句を漏らしていた。
妖怪神社の巫女なんぞより、自分の方が優れている。
その自分がないがしろにされて、巫女が礼を得ているのは不当だ。
このようなことを誰構わず大声で吹聴していたのである。
里の人間にはそれを聞いていい顔をしなかった者もいるが、博麗神社に妖怪が屯しているのは事実であるので男に賛同する者も少なからずいた。
賛同者を得た男がますますいい気になっていると、そこに一人の老女が文句をつけた。
この老女は過去に娘夫婦と孫を妖怪に喰われ、それを霊夢が退治して以来熱心な博麗神社の信者なのであった。
お前など博麗の巫女様の足元にも及ばない。それどころか、お前程度の力で妖怪に挑めばたちまち死んでしまうだろう。
人前でこう詰られた男は羞恥に怒り、ならば博麗の巫女と勝負して証明してやると言い、老女も巫女様が負けるはずがないと受けた。
この騒ぎはたちまちに広がり、いつの間にか男と霊夢が勝負をすることは公然の事実のようになってしまったのである。
この話を持って、苦い顔をした上白沢慧音が博麗神社を訪ねて来たのは、二日前の昼過ぎのことであった。
昼寝をしていた霊夢は、縁側で横になって慧音の話を聞いている。
「とまぁ、そういうわけなんだ。私も何とか収めようとしてみたが、見世物のように面白がっている者まで出てきてどうにも収拾がつかなくなっている。すまないが、勝負を受けてやってもらえないだろうか」
「はぁ、面倒ねぇ……。どっちが上かなんて、どうでもいいじゃない」
霊夢は心底から言った。
「もうそいつの勝ちでいいわよ、って言いたいところだけど……」
「受けてもらえるか?」
「私の評価になんかに興味はないけど、『おばあちゃん』が喧嘩買っちゃったのなら仕方ないわね。うちの数少ない参拝客だし」
「そうか。ありがとう、霊夢」
「いいわよ別に。それじゃ行きましょうか」
霊夢はそう言って起き上がった。
さっさと靴を履いて、出発しようとしている。
「ちょっと待ってくれ。今から来るのか?」
「面倒だからさっさと終わらせたいのよ。受けてあげるんだから、時間くらいこっちの好きにさせてもらうわ」
「……わかった。行こう」
そういうことで、霊夢と男の勝負はその日の内に行われることになった。
§
人間の里――。
幻想郷に人が住む集落は一つ二つではないが、中でも最も大きいのがこの里であり、単に人里と言えばここを指す場合が多い。
住んでいるのはほぼ人間だけだが、商店などの客としては妖怪もよく訪れる。
その里にある広場が、男と霊夢の戦いの場に選ばれた。
普段は子供たちの遊び場になっていて、定期的に市が立ったり人形遣いが人形劇をしたりしている場所である。
二人の対決を見るために、広場には大勢の観客が詰めかけていた。
「で、何で戦うの? 弾幕決闘?」
「馬鹿な。そんな女子供の遊びで妖怪退治の本当の実力が問えるものか」
スペルカードをちらつかせながら霊夢が言うと、男はこのように言った。
だからといって、本物の妖怪を連れてきて調伏するわけにもいかない。
様々に話し合った後、「ならば射覆がよいだろう」ということになった。
せきふ、と読む。
覆いに隠されたものを当てるというもので、多くは易を用いて行われる。
易とはつまり占いのことであるので、男は霊夢の提案に難癖つけた挙句に自分の得意なフィールドで戦うことにしたのだ。
すぐに準備が整えられた。
背の高い机が二つ用意され、一つには紫色の布が被せられた箱が。
もう一つには紙と墨を入れた硯が用意された。
箱の中には進行役に選ばれた慧音が、家から持ってきたものが入れてある。
霊夢と男は、順番に箱の中身を判じて紙に書き付ける。
そして、二人が書き終わったら覆いを取って中身と照らし合わせて正誤の判定を行う。
これを三度繰り返して勝敗を決めることになった。
一度目の勝負である。
男が先手となった。
男は箱の置かれた机の前に立つと、竹を用いて占いを始めた。
易というのは結果がそのまま読めるわけではなく、占いの結果に得られるのは断片的な情報である。
それを重ね合わせることで、易者は答えを得るのだ。
大雑把に言えばなぞなぞと同じ。上は大水、下は大火事、なーんだ。という具合だ。
つまり、術者には占いの腕とそこから判じる腕の二つが要求される。
男は占いを終えると、筆に墨を含ませ、自信ありげに紙に書き付けた。
その紙を慧音が預かり、次は霊夢の番である。
霊夢は最初から紙のある机の前に進むと、右手の親指と人差し指で丸を作り、遠眼鏡を覗くようにしてそれを覗いた。
そして、すぐさま紙に答えを書くと、それを自分で持ち上げて観衆へと示す。
茶碗。そう書かれていた。
少し遅れて、慧音が男の書いた紙を観衆に見せる。
そこに書かれていたのもまた、茶碗であった。
実際に覆いを取ってみれば、箱の中には正しく茶碗が入っている。
両者正解。分けとなった。
慧音が中身を取り替え、二戦目。
男は同じようにして占い、答えを書いた紙を慧音に渡した。
(ほう――)
紙を見た慧音は心中で密かに驚いた。
男の答えは「蛤(はまぐり)」。
慧音が入れたものは蛤の貝殻であったので、見事に正解している。
その上、貝殻と言うだけでなく、貝の種類まで当てていた。
さて、順が変わって、霊夢。
霊夢もまた、先と同じようにすると、答えを示す。
慧音も観衆に男の紙を見せた。
霊夢の回答は、若紫である。
答えが異なっている。
どちらが間違っているのかとざわめく観衆の前で、覆いが取られた。
果たして、出て来たのは二つの蛤の貝殻である。
男が正解、霊夢が間違えたかと思われたが、
「待ってくれ、皆。これを見て欲しい」
慧音が言って、貝殻の内側がよく見えるようにした。
おお、と観客がどよめく。
貝には金箔などが眩く散りばめられ、ひとつには雀が飛んで行くのを見る紫の上、もうひとつには垣根から覗く源氏の君が描かれている。
源氏物語の一巻。若紫の情景であった。
貝合わせに用いる蛤の貝殻だったのである。
男の答えも正解であったが、慧音は観客の意見を容れて霊夢を勝者とした。
霊夢の一勝である。
続いて三戦目。
これを取るか分ければ霊夢の勝利である。
男が取れば引き分けとなってしまうが、そのときはまた何か考えなければならないだろう。
慧音は木彫りの鳥を箱に入れ、布を被せた。
準備が整うと、男は言った。
「今までは私が先手だったのだから、今度は博麗の巫女が先にみてはどうかな」
「いいわよ」
霊夢は頷き、やはり箱ではなく、紙の前に進んだ。
二度までと同じように指の輪より覗き、筆を取って書き付ける。
紙を慧音に渡した霊夢が下がり、男の番である。
男は箱の前に進むと、竹を使わず、右の手を箱の上に翳した。
目を瞑り、何やら呪文を呟きながら撫でるようにして手を左右に振っている。
やがて、目をカッと見開くと
「瓜!」
と叫んだ。
叫んでから、「失礼。書くのでしたね」と言い、机を移動して墨を含ませた筆で黒々と書いた。
答えが出揃えば、解答の時間だ。
慧音は霊夢の答えを観客に示し、覆いを取る。
「何……?」
驚きと困惑の入り混じった声を上げたのは、慧音である。
彼女は確かに鳥の彫り物を入れた。
しかし、それが今や青い瓜に変わっているではないか。
男は、術によって中身を瓜に変えてしまったのだ。
(こいつ、何かしたわね)
霊夢は男の仕業であることを確信している。
なぜなら、自分が間違えるはずがないからだ。
亜空穴。
霊夢が利用する瞬間移動の術であるが、この術の本質は空間を穿って二点を結びつけることにある。
霊夢はそれを利用して、直接箱の中身を視認していたのであった。
貝に描かれた絵まで見えるというのに、いくらなんでも瓜と鳥では見間違えようがない。
(まぁ、名付けを利用した簡単な幻術だろうけど……どうしようかしら)
言霊――言葉には力が宿る。
わざわざ『瓜』と叫んだのはそのためであった。
男のかけた術を解くのはそれほど難しいことではない。
だが、箱の中から瓜が出てきたのは、既に大勢の目に触れてしまっている。
ここで霊夢が術を解けば、逆に外れるのを恐れた霊夢が瓜を鳥にしたと言われかねなかった。
元々術比べであるので、幻術によって競うのもルール違反ではなかったが、それは余人の目に触れぬところで行われるべきことであったのである。
慧音もそうと考えたのか、「では」と勝者を宣言しようとした。
「待って」
それを止めたのは、霊夢である。
霊夢は地面に落ちていた石を拾って机に歩み寄り、それを瓜に打ち付けた。
瓜が欠けて穴が開く。
霊夢は術を以ってその穴と空とを結び、一羽の雀を、あたかも中から出て来たかのように飛び立たせてみせた。
「ほら、鳥もいたでしょう?」
「むむ……」
男は唸った。
瓜の中に鳥がいたことにされてしまえば――それはそれで意味のわからない状況だが――矛盾なくどちらの答えも正しいことになる。
「さて。この勝敗、どのようにするべきだろうか」
聴衆に慧音が問うた。
彼らは口々にそれに答えたが、中々に意見の一致を見ない。
しかし、割れている意見というのは、「瓜より中を見通した霊夢が勝る」というものと、「異なるものが入っていたのだから引き分けである」というものであった。
つまりどちらにしても三番勝負は霊夢の勝利ということとなる。
結局、三度目の結果は引き分け。一勝二分で霊夢の勝ちとなった。
勝負の終わった後、男は呆然となって立ち尽くしていた。
解散していく見物人には彼を笑う者もあったし、褒める者、慰める者もあったが、そのどちらもが彼の癇に障った。
彼は本心自らが博麗の巫女に勝ると確信していたので、負けたことに理解が及ばなかったのである。
睨むように霊夢を見ていると、彼女は慧音と話しているようだった。
霊夢が机の上に置かれている瓜の上でさっと手を振り、彼女の袖が瓜の上を通ると、瓜は元の鳥に戻っている。
しかし、霊夢が石で叩いたために、羽の部分が欠けてしまっていた。
「あー、ごめん、慧音。ついうっかり」
「いや、構わない。私も妙なことを頼んでしまったし、これでお相子にしよう」
「そう? ありがとう」
男は目を瞬いて、二度、三度とその様子を見た。
何度見ても、そこにあるのは瓜ではなく、鳥であった。
そこに近づいてくるものがある。この勝負の原因になった老女であった。
老女は我がことのように誇らしげに言った。
「ほれ見たことか。未熟者が巫女様に敵うものかよ」
「…………っ」
男は、無言で踵を返す。
肩を怒らせて帰っていく男を、霊夢がじっと見つめていた。
男の姿が見えなくなった頃、霊夢は老女に呼びかけた。
「ねえ、おばあちゃん。お願いがあるんだけど――」
§
男は家に戻ると――その途中で既に霊夢との勝負は噂になっていて、頭は熱くなるばかりだった――男は術を学んだ書を引っ張り出した。
頁を繰って、一つの呪術が載った頁を開く。
「誰が未熟なものか……思い知らせてやる……」
毒虫を模した呪いを、体内に植える呪詛である。
この虫は時間をかけて腕から心臓へと進み、五日目に刺し殺すというものだ。
男はこの術を老女にかけ、十分に脅したところで自ら出向いて呪いを解き、自分の力を見せ付けようと考えたのだった。
だが、博麗の巫女が近くにいる状況では危険だ。
男は巫女が帰るまでじっと待ち、それを見送った後、一晩かけて呪詛を行った。
その翌朝のこと。
慧音が日課である朝の散策をしていると、件の老女の家から霊夢が出てくるのに鉢合わせた。
白い蝶が、霊夢の肩の辺りで遊んでいる。
「霊夢?」
「あら慧音。おはよう」
「あぁ、おはよう。泊まっていたのか」
「ちょっと、思うところがあってね」
霊夢はそう言って、大きな欠伸をした。
「あーあ、一晩中起きてたから眠いわ。神社に帰ったら昼寝しよっと」
§
「呪詛を行った翌朝になって、私は呪い返しを受けたことに気づきました。何とかこれを解こうとしたのですがどうにもならず。こうなっては神様に縋るより他ないと思い、こちらへとやってきたのです」
「……呆れたわね。ただの自業自得じゃないかい」
そう神奈子が言ったが、早苗も全くの同感であった。
八つ当たりの挙句に死に至る呪いを使ってのマッチポンプ。
これでは呆れられるのも当然である。
「も、申し訳ありません!」
男は手をついて頭を下げる。
命がかかっているので、彼も必死だ。
「もう二度とこのようなことは致しません。ですから――」
「反省しているのか」
「は……はいっ」
「そうか」
神奈子は大仰に頷いた。
男が顔に喜色を浮かべる。
だが、続く神奈子の言葉は辛らつだった
「ではなぜ、お前はここにいるのか」
「は……え……?」
「自らの行いを恥じているなら、先ずは博麗の巫女の下へ行き、頭を下げて助けを請うのが道理だろう」
「そ、それは……その通りですが……」
「救われたいのなら道を正せ。そうでないのなら、私がお前を救うことはない」
ごう、と強い風が本殿の奥から吹き付けて、男は堪らず目を閉じた。
目を開いたときには、既に神奈子の姿は消えている。
どうやら風に乗ってどこかへ行ってしまったようだ。
男は顔を床に押し付けんばかりにしてぶるぶると震えている。
「嗚呼、神は私を見捨てたのか……」
「ええ!? いえ、それは違います!」
神のようにぱっと消えることも出来ず、どうしようかと困っていた早苗は、男がとんでもないことを口走ったので慌てて声を上げた。
信仰獲得とは人気商売である。
縋った神に見捨てられたなどと噂が立てば、守矢の信仰に影響を与えること間違いない。
「八坂様は博麗の巫女をよくご存知でいらっしゃますから、あなたがきちんと謝ればその呪いは解いてもらえると確信してのことなのです」
そうだったらいいなぁ、と思いながら早苗は言った。
「とにかく、博麗神社に行きましょう」
「しかし、博麗の巫女が助けてくれるだろうか」
「大丈夫ですよ。私からもお願いしますから。さぁ、行きましょう。ほら、立って下さい」
男に手を貸してやりながら、早苗は、これからは憑き物落しなどの術も勉強しようと心に決めた。
§
早苗と男は結構な時間をかけて博麗神社に到着した。
なぜかと言うと男が空を飛ぶことが出来なかったからであり、その事実は早苗を少なからず驚かせた。
霊夢は常のように縁側に座っていたが、男を見ると少し驚いた様子だった。
「そっちから来たのね。期日になっても解けてなかったら解きに行こうと思ってたのに」
「霊夢さん、知っていたんですか?」
「そりゃ、私が返した呪だもの。早苗が一緒ってことは守矢の神社に行ったの?」
「ええ。ですけど、神奈子様が霊夢さんに何とかしてもらえと」
「ふーん。別にそっちでやっちゃってもよかったんだけどね。ま、わざわざ来たんだし、何とかしますか。ちょっと待ってなさい」
霊夢はあっさりと言って、神社の中へ入って行った。
あまりにあっさりした態度だったので、早苗と男はきょとんとした顔を見合わせた。
「助けて、もらえるのか?」
「みたいですね……」
しばらくすると、霊夢は一枚の御札を持って戻ってきた。
「じゃあ脱いで」と言って男の上半身を裸にさせる。
霊夢は指に挟んだ御札を唇に当てて、小さく呪文を唱え始めた。
「――まことこの世に跡を垂れ給う神ならば救いたまえ。オン・マユラ・キランデイ・ソワカ」
霊夢が札を空中に投げる。
すると、お札は炎を上げて勢いよく燃え上がった。
炎は立派な尾羽を広げた鳥の形になり、男の肩に舞い降りる。
そして、鋭い目で狙いを定めると、燃え盛る嘴で呪虫をくわえて引っ張り出した。
炎の鳥は空へ飛び上がると虫諸共に焼けて消え、後には炭になった紙片がわずかに漂っているばかりであった。
「はい、終わり」
手をはたきながら霊夢が言った。
驚くほどの早業だった。都合三十秒もかかっていない。
しかも場所は縁側である。神徳のありがたみなどあったものではなかった。
男など、まだ信じられないのか、さっきまで虫の這っていた辺りを手で撫でている。
もちろんそこには虫はおらず、嘴が侵入した傷すら残っていない。
男が呆然としているようだったので、早苗は霊夢に疑問をぶつけることにした。
「霊夢さん、今の真言でしたよね? いつの間に仏教に鞍替えしたんです」
「細かいこと気にしないの。毒虫毒蛇には孔雀明王の力を借りるのが一番手っ取り早いのよ。それに、仏様のほうが神様より優しいしね」
「そりゃまぁ、八百万の神は荒霊和霊ですから。でも、神奈子様と諏訪子様はお優しいですよ」
「諏訪子なんて結構な祟り神じゃない」
「それでもお優しい方なんですもん」
二人がそんなことを言っていると、男が「あの!」と声を上げた。
見れば、男が地に体を投げ出して平伏している。
「いいわよそんな畏まらなくても。気持ち悪い」
霊夢はそう言うと、男を立ち上がらせた。
男は、立ち上がってからも深く頭を下げて言った。
「この度は大変に迷惑をおかけしました。博麗の巫女というのは凄いものなのだな」
「全くよ。いい迷惑だったわ。これに懲りたら、もう術を使ったりするのは辞めなさいよ」
「はい。これからは心を入れ替えて励みます」
男はそう言うと、何度も頭を下げながら帰って行った。
石段の上からその後姿を見送って、早苗は嬉しそうに話しかけた。
「よかったですね、霊夢さん。あの人、きっといい退魔師になってくれますよ」
「んー……」
霊夢は難しい顔をして、髪をガシガシとかき回した。
「私は、それを辞めた方がいいって言ったんだけどねぇ」
「え? どうしてです?」
「力不足」
霊夢は端的に言った。
「術は幾らか使うみたいだけど、器じゃないのよ。だってあいつが送ってきたの、術者の力が足りないからとても呪い殺せるようなものじゃなかったのよ?」
「そうだったんですか?」
「そうだったのよ。まぁ、それでも人に呪いかけたのは事実だからちょっと脅かしてやったんだけど。早苗だってあいつが大したことないの気づいてたでしょ?」
「う……」
早苗は言葉に詰まった。
自分も、空を飛べないと聞いたときに驚いたことを思い出したからだ。
「なぜかあの手の輩は後を絶たないのよねぇ。妖怪退治なんか、できるやつに任せとけばいいのに」
「できるやつ、ですか……」
「そう、できるやつ。私とか」
霊夢は一度言葉を止めた。
言うかどうか迷っているようだった。
が、結局、言った。
「それから、あんたとかね」
「わたしが……」
早苗は霊夢の顔を見た。
黒い瞳が真っ直ぐに見返してくる。
「勘違いしないでよ。別にあんたにやれって言ってるんじゃないの。力があるかどうかって話」
「はい、わかってます。でも、私」
「うん?」
「迷っているんです。どうすればいいのか。早く決めなきゃって思うんですけど、でも、決められなくて」
早苗が言うと、霊夢は少し困った顔になった。
「私はずっと幻想郷で暮らしてたし、同じように博麗だったから、早苗に上手く言ってあげられない。でも、今決められないなら無理に悩まなくてもいいんじゃない? 判断材料になることはこれからも見えるだろうし、きっかけがあれば意外とすとんって決まるものよ」
「そんなのでいいんでしょうか?」
「ま、いいんじゃないの?」
霊夢は早苗に背を向けて、神社へと戻っていく。
「待っててあげるわよ、私はね」
背中越しの声が、早苗に聞こえた。
§
騒ぎから一週間ばかりした頃。霊夢がふらりと守矢神社を訪れた。
「あいつ、死んだわよ」
応対に出た早苗に、霊夢は言った。
「あいつ……?」
「この前の、ほら、呪いのあいつよ」
「あぁ、あの人……って、え、亡くなったんですか!?」
早苗は声を上げた。
こちらに来てからの知り合いは殺しても死なないような連中ばかりだったので、見知った誰かの死に触れたのは初めてだった。
「どうして、亡くなったんですか?」
「妖怪退治に失敗したのよ。だから辞めろって言ったのに」
「そうですか……」
早苗はしばし黙して男に祈りをささげた。
「霊夢さん、わざわざありがとうございました」
「いいのいいの。どうせ用もあったしね」
「用? 私にですか?」
「そうよ」
霊夢は頷いた。
「その男が退治し損ねた妖怪退治、私に回ってきたの。これから行くんだけど、一緒に来る?」
「え……あっ……」
そうだったのかと早苗は悟った。
霊夢は、未だに悩んでいる自分のために、新しい判断の材料を持ってきてくれたのだ。
妖怪が人を殺すこと。
妖怪を退治するものが返り討ちに遭うこともあること。
そして。妖怪を、殺すこと。
「どうする? 無理にとは言わないわ」
「……行きます」
早苗は言った。
これはチャンスだと思った。
好機というよりは、機会。
つまりは、きっかけ。
早苗のために何くれと世話を焼いてくれている霊夢にこそ、誠実に応えようと。
「私も連れて行ってください」
霊夢は、黙って頷いた。
§
現場まで行く道すがら、霊夢はその妖怪について話した。
元はどこかの山に住んでいた犬だとも狼だとも言われている。
それが人の味を知って妖怪化し、山から降りてきたらしい。
人里と他の集落で行商を行っている商人の一隊が襲われて、何人か喰われた。
そういう話であった。
「見つけた」
「え、どこですか?」
早苗が聞いた。
二人は空を飛んでいる。
山の上の神社から高度を変えずに飛んできたので、下が平野になればかなりの高さだ。
眼下には人の通る道が白っぽく長く伸びているのが見える。
「あそこよ」
霊夢は道から少し離れた草叢を指して言った。
見てみれば、黒い点のようなものが三つ動いている。
四足の獣の姿をした妖であった。
どれも黒い毛並みをしているが、一匹だけが他より一回り大きい。
「三匹いますよ」
「群れてたのね」
霊夢は右の袖に手を突っ込んだ。
手を抜くと、左手の指の間に長い針が握られている。
霊夢が主立って使う道具、封魔針だ。
それが、三本。
「いくわよ」
言うと同時に、霊夢は封魔針を放っていた。
それを追いかけて、霊夢も急降下していく。
ひゅうひゅうと風を切って飛ぶ針に、妖獣の一匹がいち早く気づいた。
一回り大きい者である。
その獣が吠えた。
一匹はそれを聞いて跳び、一匹は空を見上げる。
見上げた一匹の鼻面に封魔針が突き刺さり、喉の上から出て地面に縫い付けた。
残りの二匹は針を躱している。
霊夢は針を受けた妖獣を狙った。
大幣を取り出して霊力を流すと、ぼんやりと光を発するようになる。
それを打ち下ろすと、まるで刃であるように音もなく妖獣の首に吸い込まれた。
針に縫われた頭はそのままに、体の方がどうと倒れた。
吹き出した血を霊夢が袖で受け、白い袖が赤く染まった。
そこへ背後から一匹が飛び掛る。
霊夢は慌てず、振り返る動作で血に濡れた袖を振った。
袖口から何枚もの御札が飛び出し、妖獣の全身に張り付いた。
御札は青白い火花を飛ばし、妖獣は地面に落ちた。
全身がびくびくと痙攣している。
霊夢はそれに近づき、これも首を落として止めを刺した。
残るは一匹。
リーダー格であるらしい最後の妖獣は身を低くして唸っている。
睨み合うようになった。
妖獣が飛びかからんと四肢を撓めたが、霊夢が先んじた。
土を蹴っている。
最初に避けられた二本の封魔針が土と一緒に飛んだ。
妖獣は横っ跳びで避けた。
そこに霊夢が詰めて来る。
今度は後ろへと跳んだ。
その足が地に着くのと同時に、身を翻して逃げ始めた。
「早苗! 飛びなさい!」
霊夢が叫んだ。
妖獣の向かう先に、霊夢を追って下りてきていた早苗が立っていたのである。
しかし、早苗は動かない。
妖獣の口の中で三角の牙が唾液に濡れ光っているのを見ている。
「早苗!」
また霊夢が叫んだ。
早苗はまだ動かない。
考えている。
今ここで、早苗に与えられた選択肢は三つあった。
一つ、殺さないことを選ぶこと。
二つ、殺すことを選ぶこと。
三つ、選択を先延ばしにして逃げること。
(私は)
三つ目は早々に却下した。
何のためにここに来たのだ。選ぶためではなかったのか。
己の立ち位置を定めて、永住の地である幻想郷と向き合うためではなかったか。
妖獣の向こうで、霊夢が封魔針を構えている。
早苗が何を選ぼうとも、彼女は容易くこの妖獣を討つのだろうと思った。
(私は――!)
見てきたこと。聞いてきたこと。沢山の判断ための物事。
そして、最後に背を押したのは、霊夢に負けたくないと思う気持ちだった。
同じ年頃の少女にできることができなくてどうすると、そういう負けん気だった。
若く未熟な選択であるとも言える。
けれど、計り知れぬ熱を秘めていた。
霊夢が好むところの、早苗の性質であった。
「霊夢さん! 私がやります!」
霊夢は早苗をちらりと見て、針を持つ手を下ろした。
スペルカードは取らない。
四肢の隅々にまで、彼女が受ける神の力を漲らせる。
相手は妖獣。すなわち、動物が変化したものだ。
精神に重きを置く妖怪と異なり肉に依る存在であるため、つまり物理的に殺してしまえば終わりである。
早苗は大きく息を吸って、右手に刀印を結んだ。
「臨兵闘者皆陳列在前!」
九字と共に横縦に空を切る。
と、霊弾が展開され、格子を描いて妖獣を囲い込んだ。
一瞬の後、格子柄は砕けて妖獣へと殺到し、莫大な霊力によって磨り潰すように圧殺した。
霊弾の砕ける光が散った後には、肉片一つ残ってはいなかった。
「や……った?」
己の力が成した跡を見て、早苗はペタリと座り込んだ。
体力、あるいは霊力的にはほとんど消耗していない。
異変で一番最初に出会う相手と戦う方がよほど疲れるくらいだった。
しかし、何かずっしりとしたものを肩に乗せられたように体が重かった。
それは、早苗の選択の結果であった。
いかなるように幻想郷に向かい合うかに対する回答。それにくっついてきた副産物。
早苗が行うと決めた役割と、それが生み出す責任の重さだった。
その重さは、おそらく霊夢が背負っているのと同種のものだった。
幻想郷の誰よりも重いソレを背負って、彼女は飄々と空を飛んでいるのだ。
(あぁ、でも、これで少しくらいは――)
気分は重かったが、同時に嬉しくもあった。
わからないばかりだった霊夢に、少しだけ――ほんの少しだけ近づいた気がした。
「ふ、ふふふふふ……やれる、私にもやれますよぉ……」
「……大丈夫かしら、こいつ」
不気味に笑い始めた早苗を見て、これからが大変だ。と霊夢は思った。
早苗は妖怪退治する道を選んだが、危険な道である。
妖怪退治にルールはない。
不意打ち上等。弾幕で攻撃するなら逃げ場は作らない。
効率的な力の使い方というものもある。
あんな雑魚妖獣に全力を出してどうするのか。道中で最初に会った妖精にボムを使うような無駄さ加減だった。
早苗が覚えなければならないことは、たくさんあった。
(しばらくは目が離せないわね……)
早苗のこと、やると決めれば明日からでも妖怪退治を請け負いかねない。
妖怪退治の先輩として、慣れるまではサポートしてやろうと霊夢は決めた。
ミスをすればそのまま人生が終わる、ノーコンティニューの世界である。
実地で覚えろというのはさすがに無茶な話であった。
(全く、面倒くさいったらないわね)
そう思いながら、霊夢は不思議と微笑んでいた。
地面にへたり込んでいる早苗に手を差し出す。
「あ、ありがとうございます」
早苗が手を伸ばして、霊夢の手を取った。
触れ合った手を握り合ったとき、霊夢は言った。
言えた。
「ようこそ、幻想郷へ」
面白かったです
しかも特定の小説の影響を受け過ぎというか、いや穿ち過ぎかな。
やるならもう少しさらに踏み込むというか、良く話を練って独自色を出してくれたらよかったと思います。
前作『ぬかふ』に対する俺のコメントに作者様が目を通して下さっていらしたらお分かりかと思うのですが、
今作における世界観の共有の有無は、自分にとって結構大きな興味の対象であったのです。
だからやっちまった。普段はほとんどしない、本文よりも後書きを先に読んでしまうという行動を。
つまり答えを先に求めてしまった。その時の俺の気分はこんな感じ。
「ビンゴ! や~ん、見せて見せて。貴方の頭の中にある幻想郷を早く見せてくんなまし!」
物語の設定も逸る気持ちに拍車をかけた。
幻想郷を体現する人物といっても過言ではない霊夢と、外の世界からの越境者である早苗の対比をこう置き換えたんですね。
なるほど、作者様(霊夢)が設定した幻想郷における理を、読者(早苗)である俺にわかりやすく解説してくれるんだな、と。
で、そういう視点から作品を読んでしまうと、二点ほど若干物足りない部分が出てくるのです。
まずはオリキャラの死。ちょっとばかり命の相場が安い幻想郷であることは理解。
ここで死生観、までは突っ込んで書く必要はなくとも、霊夢と早苗双方の死に対する感じ方の違いを見てみたかった。
もう一つは妖怪退治。命名決闘法では片付かない人妖の関係が存在する幻想郷であることは理解。
なので、早苗が覚悟を決める最初の相手が理非を解さぬ妖獣で良かったのか? 人と意思疎通可能な知性を持っている、
或いは人型の妖怪であったほうが〝殺す〟という重さを伝えられたのではないか? などと思ってしまった。
本文から目を通していたなら、このような過剰又は早急な期待を抱かなかった、はず。
「そこら辺が明らかになるのはもっと先なんだろうな」みたいに余裕をもって読了出来た、と思う。
失敗こいたってのはこの事。先入観に囚われてしまった完全に俺の自爆であり独り相撲。
貴方に限らず、書き手の皆様がそれぞれ自分だけの幻想郷を構築、広げていく過程を拝見させて頂くのは、
作品単体を拝読する事に勝るとも劣らずの、俺にとっての喜びです。
作者様の次回作に大いなる期待を。今回のようなノイズ混じりのコメントを書かぬよう、俺も猛省します。
長文御容赦。
ありそうな題材なのにね
こう言う稗史の方が幻想郷本来の姿って気はしますね
さすが霊夢さんや
霊夢が妖怪退治をまともにする話が読めるとは。
早苗、神奈子様、霊夢、三人ともイメージ通りで読みやすかった。