ある日、チルノは二銭銅貨を手に入れた。
勿論、誰かから盗んだり、拾得物を横領したわけではない。この二銭銅貨は、ある筋から手伝いを頼まれ、それを成し遂げた事によって支払われた正当な報酬である。
「……これもお金なのかぁ」
その銅貨を見た時、チルノは惚けた声をあげながら、しげしげとそれを観察した。この氷の妖精にとって、二銭銅貨はどうにも珍しい物であるらしい。
だが、それは仕方がないだろう。
妖精という生き物は幻想郷における『貨幣経済』とは、あまり相性の良くない生き物だ。妖精を雇おうという雇用主は少ないので、働き口が根本的に少ない。仮に雇用先が見つかっても、童話や民話などで妖精の報酬は現物支給と繰り返し描かれている所為なのだろうか『賄い付きで時給ゼロ円』や『ゾンビフェアリーをしてくれるボランティア妖精大募集』など、賃金の発生する仕事は極めて少ない。
そうした現状に、一部の妖精は抗議の声を上げた。
『ブルジョワを打破せよ! 資本主義を打倒せよ! 立て! 幻想郷の妖精達よ!』
そうしてアジる赤い妖精達も少なからず存在したのだ。
しかし、大半の妖精達にとってそうしたイデオロギー闘争などどうでもよく、そんな事よりもおうどんが食べたかったので、ペレストロイカやアラブの春が如き変革が幻想郷に起こる事は無かった。
そんな平和な妖精達の例に漏れず、チルノは金に縁がない。財布すら持ち歩かないくらい金に縁がない。貧乏、赤貧を通り越し、どん底の経済状況である。
しかし、今日のチルノはお金を、二銭銅貨を持っていた。チルノに手伝いを頼んだ人物が適当な『飴』や『ミルク』といった妖精への報酬を用意し忘れていたので、ならば代わりに金で解決しようと二銭銅貨を渡されたためである。
以上が、チルノが二銭銅貨を持っている次第だった。
「一厘銅貨に比べて、大きいんだ」
そう言いながら、チルノは二銭銅貨を掲げて見る。
銅貨の表には日本皇室の菊花紋である十六八重表菊が上部に描かれ、その左右には『五十枚、一圓換』と交換レートが分かりやすく記載されており、中央には縦書きで植物の文様によって装飾された『二銭』という文字が大きく刻まれていた。
裏には、うねる竜が描かれていて、周りには『大日本・明治九年』とその貨幣が鋳造された年が刻印されている。その下部には『2SEN』とローマ字にて、この硬貨の価値が二銭である事が記されていた。
つまるところ、そいつは何処から見ても立派な二銭銅貨だった。その硬貨の名称が刻まれている以上、その点は間違いないだろう。
そうして物珍しそうに二銭銅貨を眺める氷の妖精であるが、金というものを全く知らないわけではない。
チルノは、一厘銅貨なら使った事があった。
一厘銅貨は、小さくて丸くて、表の真ん中にただ『一厘』と書いてあるだけの可愛い銅貨だ。それを何枚か溜めて、駄菓子屋に行って甘いお菓子を買う事が、氷の妖精が行う数少ない経済活動だった。
駄菓子屋でチルノが買うのは決まって『金平糖』だ。
ポルトガル由来の菓子である金平糖は、星屑のように綺麗な砂糖菓子である。室町時代に日本に伝来し、井原西鶴も『日本永代蔵』において、
『胡麻を砂糖にて煎じ幾日もほし乾げて後、煎り鍋へ蒔きてぬくもりの行くにしたがひ胡麻より砂糖を吹出し、自ら金餅糖(金平糖の異名。他にも金米糖、糖花とも)になりぬ』
などと金平糖の製造法について書き記しているくらい金平糖は、日本に馴染んでいる南蛮菓子なのである。
そんな砂糖菓子が、チルノの一番のお気に入りだった。
味は全く以って甘いだけだが、砂糖菓子とという物は、つまりは飴のような物なので、ゆっくりと舐めていれば長く甘味を楽しめる。その上、金平糖はひと粒ひと粒は小さいけれど、たくさんの小さな金平糖が小瓶に詰まって売っているので、コストパフォーマンスが大変よろしいし、何よりも見た目が綺麗だった。
そんな味良し、量良し、見た目良しと三拍子揃っている金平糖がチルノの駄菓子屋における定番なのだ。
「……でも、これで金平糖は買えるかな」
金平糖の値段は、ちっちゃな小瓶で一厘だ。
対して、チルノの持っている二銭銅貨には二銭の価値が有る。
しかし、チルノは一厘銅貨しか使った事がなかったので、二銭が一厘よりも『強い』のか『弱い』のかが判別できない。
そうしてチルノが悩んでいると、二銭銅貨をお駄賃としてあげた人間が声をかけてきた。
「何をぼーっとしているんだ?」
声をかけてきたのは、金平糖みたいな弾幕を得意としている普通の魔法使い、霧雨魔理沙だった。魔法使いに声をかけられてチルノは、我に返って彼女を見る。
すると魔理沙は、チルノの口を指差して「口、垂れてるぜ」と指摘をしてきた。
チルノが口元に手をやると何やら濡れている。どうやら『金平糖』の事を想っていた所為で、口からよだれが垂れてしまったらしい。チルノは慌てて口を拭った。
「で、何をそんなに惚けていたんだ」
「ええとさ。この二銭銅貨について教えて欲しいんだけど」
「ふむ」
「これって、一厘銅貨よりも強いの? 弱いの?」
「大きさをみれば一目瞭然だと思うが、それは一厘よりもずっと強いぜ」
実際、二銭銅貨は一厘銅貨よりも一回りも二周りも大きかった。硬貨をおはじきにした場合、一厘硬貨を呆気なく吹き飛ばしてしまうぐらいに二銭銅貨は巨大に思える。
一厘銅貨よりも、強くて大きい。
そんな強大な銅貨を手中に収めている事に奇妙な興奮を覚えながら、チルノは霧雨魔理沙に更に問うた。
「だったらさ、だったらさ。この二銭銅貨はどれくらい強いの?」
「一厘銅貨の二十倍くらいだな」
「すげぇ!」
魔理沙の答えにチルノは声を上げる。二銭銅貨の実力は、チルノの想像を遥かに超えていたからだ。
お金に疎い氷の妖精は、二銭銅貨の強さを、一厘銅貨の二倍から三倍、多くとも五倍程度ではないかと考えていた。ガンダムだって、通常の五倍のエネルギーゲイン、赤ザクも通常の三倍のスピードでしかない。それを思えば、その程度にとどまると普通は考えるだろう。
だが、そんなチルノの予想は覆される。
なんと、そいつは二十倍だ。少年漫画もかくやというインフレ具合に氷の妖精は熱狂し、それから、我に返って困惑し始めた。
「ど、どうしようか」
チルノは、二銭銅貨の巨大さに、腰が引けてしまった。
所有するものも着ている服だけ、家は自作の氷のドームに床は草地という『足るを知る』を体現したような生活をしているチルノにとって、二銭銅貨は黒船であった。過ぎた力だった。デビルガンダムだった。D.O.M.E.だった。ターンXだったのだ。
その圧倒的力によって、我が身を滅ぼしかねないほどの強大な力を前にして、チルノは二銭銅貨を持て余してしまう。
「いや、どうもこうも無いだろう。好きに使えば良いんだぜ」
「そんな事言われても……」
チルノが使った事のあるお金の上限は、一厘銅貨四枚なのだ。つまり四厘だ。その時、チルノは金平糖を一瓶買って、更に贅沢にも五家宝ときなこ玉をいっこずつ買った。
それを買った日は、まさに至福の一日と言っても過言ではなかった。桃源郷とはこのような生活を言うのだろうと確信できる日々だった。
金平糖を一粒一粒じっくり時間をかけて舐めて空にしても、まだ五家宝やきなこ玉が残っている。その事にチルノはなんとも言えない嬉しさを覚えたものだ。
そして二銭銅貨は、その時の五倍もの喜びをもたらしてくれるのだという。
それは空恐ろしくなるほどの、幸福の予感と言えるだろう。
二銭銅貨=一厘銅貨×二十という衝撃。
それはつまり、チルノの手元にある二銭銅貨を使用すれば、駄菓子屋で金平糖が二十瓶も買えるという事に他ならない。
一日一瓶を消化したとして、二十日間も金平糖を舐め続ければ、チルノは嬉しさのあまり頭がどうにかなってしまうだろう。
「あ、あたい、どうすればいいんだろう」
幾ら好物である金平糖といえども、二十日も連続で食べてしまえば、きっと自分は馬鹿になる。既に馬鹿ではないかという疑問は却下するとして、困りきったチルノは霧雨魔理沙に教えを乞うた。
「いや、だったら少しずつ使えばいいだろ」
「あ、そっか」
教われば、なんと簡単な事だろうか。チルノは手を叩いて納得した。
使い切らずに食べられる分だけお菓子を買えば良いのだ。食物とは違い、お金は腐ったりしないので、幾らでも溜めておけるのである。成程、世の金持ちがお金を溜め込む筈だ。
チルノは救われたようにホッと息を吐く。
「好きに使えばいいんだぜ。それはお前の金なんだからな」
「うん!」
霧雨魔理沙に促され、チルノは大きく頷くと駄菓子屋へと向かったのだった。
この幻想郷という土地は、ある時期を境に博麗大結界により、自由に外界と行き来をする事は出来なくなった。そのために、基本的な風俗習慣は、その時期より変化していない。最近はは、里にお寺が出来たり、山に神社が出来たり、天人やら仙人やら聖人やらが幻想郷を徘徊しているけれど、根本的な庶民の生活は変わらずに、古い時代のままで保存されている。
その為、子供達の社交場たる駄菓子屋も、幻想郷が閉ざされた当時のままで、品揃えもここ百年ばかり殆ど変化が無い。せいぜい、キャベツ太郎やうまい君が店に隅っこで壁の花となっているぐらいだろう。
そんな昔ながらの行きつけの駄菓子屋に、チルノはやって来た。ここは妖精や妖怪が買い物をしても嫌な顔されないので、弾幕ごっこでひと汗流した後などに、友人と一緒に遊びに来たりするのだ。
「こんにちわー」
硝子の嵌った木の引き戸を開けると、来客を知らせるように『ガラガラ』という音が鳴る。外の世界では幻想となりつつある木造建築の駄菓子屋であった。
「いらっしゃい。ゆっくり見ていってね」
「うん!」
顔馴染みである店主に挨拶をすると、チルノは店内を見回した。店内はあまり明るくない。薄暗いといってもいいだろう。
明り取りとなる窓が少なく、壁には棚が敷き詰められて、商品が所狭しと置かれて、室内に閉塞感が漂っている所為だろうか。これだけ物が所狭しと敷き詰められては、どうやったところで店内が暗くなるのは避けられない。
普段ならチルノは、真っ先に金平糖の置いてある棚に直行し、それを一瓶買って店を出る。
だが、今日のチルノはお大尽だ。
いつもの何倍もお金を持っているので、自然と気持ちも大きくなる。ちょっと、店を見て回ってやろう。そんな心持ちになっていたので、氷精は、まるで紅魔館のご令嬢となったかのようなすまし顔をすると、店内を見て回る事にした。
駄菓子屋に入って最初に目に入るのは、きなこ玉の入った入れ物だ。ころころとしたきなこ玉が、小さな透明の瓶の中に幾つも入っている。
「きなこ玉はいっこ、一厘かぁ」
チルノは、きなこ玉を生涯に三度くらいしか食べた事がないが、その味はしっかりと覚えている。きなこ玉を口に放り込むと、きなこ独特の大豆の香りと共に水あめの甘味が口の中でぱっと弾けて、なんとも言えない幸せな気持ちに包まれるのだ。
難点は、飴類に比べると、少しコストパフォーマンスが悪いことだ。とっても美味しいのだけど、きなこ玉は口に入れてモグモグしているとあっという間に無くなってしまうのである。その辺りが、きなこ玉が金平糖の後塵に配している理由だろう。
「でも、今日は何個か買ってもいいかもしれない」
そう呟きながら、チルノは他の駄菓子に視線を移す。
すると、きなこ玉の隣には、塩釜や落雁、有平糖、金平糖、花林糖、五家宝などの駄菓子が目に付いた。この辺りのお菓子は、この幻想郷が博麗大結界に包まれる以前から、駄菓子屋に並んでいる定番の駄菓子である。特に、一部の菓子などは、駄菓子屋の元祖である木戸番小屋でも売られていた程、由緒ある駄菓子達だ。
この辺は鉄板である。
しかし、くどいようであるが、今日のチルノはお大尽だ。
お金があると、どうしても人というのは気が大きくなるもの。そんな金平糖やきなこ玉といった定番のお菓子は当然として、たまには他のものにでも手を出してみようかと、チルノは普段は買わない駄菓子をじっくり見てみる。
「……落雁は食べた事あるけど、いまいち好きになれないからなぁ」
米、麦、栗、大豆、小豆といった澱粉質の粉に、砂糖や水あめを加えて甘味をつけて、型に押し固めた菓子が落雁である。特に、綺麗に着色され、形が整えられたお高いものは、茶の湯に於ける定番の茶菓子としても、仏事における供え物としても良く使用される大変由緒正しいお菓子だ。
しかし、そうした歴史的背景と味の好みは別である。
チルノは、落雁がどうにも苦手なのだ。パサパサしてて、食べにくくて、いまいち好きになれない。
これが飴の類なら舐めていれば良い。餅の類なら噛めばよい。あられや煎餅ならバリバリと音を立てて齧ればよい。
だが、落雁は硬いにも関わらず舐めもあんまり無くならず、地道にポリポリと齧るしかないのだ。その辺りの『どちらにも付かず』なあたりが、チルノが落雁を苦手としている理由だろうか。
「まあ、他だね……っと」
とりあえず、金平糖にきなこ玉、それに有平糖をいっこずつ買うことを決めて、チルノは他の棚を見て回ることにする。黒糖で覆われた麩菓子、様々な煎餅類、砂糖をまぶしたパン、丸いカステラ、薄荷糖などの菓子に加えて、お手玉にベエ独楽、めんこに盤双六、更には凧に羽子板といった玩具も、駄菓子屋の店先に並んでいた。
普段であれば、こうした玩具などチルノの眼中には無い。玩具というのは、駄菓子に比べて値が張るからだ。
詳しい値段は分からないけど、親友である大妖精曰く、
『駄菓子屋の玩具って、本当にお高いね……』
と、いう事らしい。
人間の里で『ブラウニー』の真似事をして、副収入を稼いでいる大妖精をして『お高い』と言わしめる物が、駄菓子屋の玩具である。
いつものチルノなら、どうせ手が届かないと眼中に無かった。
けれど、今のチルノはお大尽、お金様を沢山持っていている。今までの何倍ものお金を保有しているのだ。
チルノの興味は、駄菓子から玩具に移った。
「色々なおもちゃがあるんだなぁ」
そうした人間が作り出した玩具を眺めながら、チルノは感心したように呟きながら、棚を彩っている玩具を取って、弄繰り回してみる。
ちょっと、玩具の一個ぐらい買ってみようか。
少しチルノは考えた。
そもそも、こうした駄菓子は食べてしまえばそれで終わりである。けれども、玩具は壊れてしまうまでは何度でも遊ぶ事ができるではないか。それはお菓子を買うよりもよっぽどコストパフォーマンスが良いように思える。
だが、玩具を買うにしても何を買うべきだろうか。
「凧なんて空を飛ぶだけでちっとも面白くないし、ベエ独楽は妖怪の山の回っている人を見てれば十分楽しい。お手玉や羽子板するなら弾幕ごっこの方が面白いし……」
玩具に次々と駄目出しをしていくと、残ったのはめんこと盤双六の二つだった。
そしてめんこと盤双六を比べた場合、厚紙に絵が描いてあるだけのめんこよりも、白黒あわせて三十の駒に加えて、遊戯盤とさいころが付いてくる盤双六の方が見た目にも凄そうに思える。
それに盤双六というのは、なかなか知的な遊びではないか。
前々から、チルノは妖怪の山で河童や天狗がやっている将棋、あるいは紅魔館の吸血鬼がしているチェスといった盤遊戯に一種の憧憬のようなものを抱いていた。
あのように盤を挟んで、
「ああ、そのチェックメイト、飛車取りだね。それに、まだあたいのバトルフェイズはまだ終わってない!」
などと、ほうじ茶でも飲みながら気取った事を言ってみたかったのである。
実際の盤双六というものの実体すら知らないままに、チルノは盤双六の夢を見た。それはルール無用の荒唐無稽な光景だったが、それでもチルノの心を熱くするには十分だった。
「うん。盤双六に加えて、金平糖と有平糖、そしてきなこ玉を買おう」
そうと決まれば行動は早い。
チルノは、小さな竹で編まれた買い物籠に、金平糖の入った小瓶を一つ、きなこ玉いっこ、それに有平糖を一包みを入れて、駄菓子屋の棚のいっとう上に飾ってあった盤双六を指差して『くださいな』と、二銭銅貨を差し出した。
すると、眠たげにしている店主曰く。
「全部買うのに、二銭じゃ足りないわね」
その言葉にチルノは衝撃を受ける。
チルノには、最強の味方であるはずの二銭銅貨が付いている筈なのだ。それは一厘の二十倍も強く、向かうところ敵なしであったはず。
それなのに、二銭銅貨は今回の買い物に歯が立たないのだと言う。
それほどなのか。
今回の買い物とは、それほどにも強敵なのだろうか。
駄菓子屋店主の重い一撃を受けて、チルノの目の前は暗くなる。二銭銅貨が通用しなかった衝撃によって、脳震盪を起こしかけたのだろう。
チルノの身体がぐらりと揺れて、倒れ掛かるがどうにか踏みとどまる。意識を保つ事ができたのは、毎日、夜の八時には就寝しているという健康優良児的な生活を送っていた賜物だろう。己の生活態度の良さを感謝しながら、駄菓子屋の『足りないわね』攻撃を耐え切ったチルノは、反撃の狼煙を上げた。
「ま、まからへん?」
「無理やね」
起死回生を狙って、つたない関西弁で値切り交渉をしてみたが、それも一蹴されてしまう。
だが、それは当然と言えるだろう。駄菓子屋とは根本的に原価ギリギリの商売をしている修羅の国。そこで値切りなど、どだい無理な話である。
駄菓子屋の値切り耐性は鉄壁で、チルノの付け焼刃の買い物技術では突破する事は出来ない。
絶望の刃が、氷精を刺し貫こうとしていた。
その手には、じっとりとした汗が滲んでいるのは、勝機が欠片も見えない所為だ。それに、物を買おうとして、お金が足りないと気が付いた時というのは、どうにもじっとりとした嫌な汗を掻いてしまうモノである。二銭銅貨という切り札を叩きのめされ、チルノは決断を迫られていた。
どう動きべきか。
盤双六を諦めて、すごすごと帰るか。あるいは、みっともなく盤双六に拘泥するか。
諦めるなら、話は早い。
『べ、別に本当に欲しいと思ったんじゃないんだからね! ちょっと買ってみようかを思っただけなんだから、勘違いしないでよね!』と顔を赤くしながら呟けば、多少の羞恥心を犠牲にするだけで、事を丸く納める事ができるだろう。
だが、もしそれを諦めないのなら。
あくまでも諦観を拒絶して、前に進む事を決断するというのなら、チルノは代償を支払わなければならない。
勝利とは、数多の犠牲を積み上げた者だけが手にすることが出来る血塗られた王冠だ。この戦いに勝利する事を望むならば、それに相応する代価がいる。等価交換は世界の原則、勝利を欲するのならば、まず代価を払わねばならない。歴史の勝者たちは、そうして数え切れないほどの屍を積み上げてきたのだ。
だが、そのような代価を――盤双六に相当するような代償を、チルノは持っているのだろうか。
チルノに限らず妖精というものは、さして物持ちではない。立って半畳、寝て一畳を地でいく、その日暮しの生き物だ。江戸っ子は宵越しの銭を持たぬが、妖精は根本的に銭すら持たない。そんな持たざる者であるチルノに、どうやって駄菓子屋の納得できる代価を払うことが出来ようか。どこをどう叩けば、氷の妖精から盤将棋の代価が出てくるというのだろうか。
「か、身体で払うってのは?」
「妖精を雇うのは、色々と面倒なのよねぇ。物覚え悪いし」
己自身を代償に差し出したら、呆気なく断られた。まさか、自分を売ろうとしたら売れなかったなどとは、情けないにも程がある。
チルノは、落胆から、視線を落とした。
すると、手に持っていた小さな買い物籠に入る。
そこで目があったのは、綺麗な星屑の如き砂糖菓子だった。いつも買っている定番の金平糖である。
この砂糖菓子は、いつもチルノの心を慰めてくれた。弾幕ごっこで見るも無残な負け方をした時も、大蛙に飲み込まれて一回休みに鳴りかけた時も、お店のカートで激走した時も、成層圏から地上にダイブした時も、この金平糖は、チルノを甘味という側面から全力でバックアップしてくれた。
そうした金平糖であるなら、代償と成り得るのではないだろうか。
この相棒とすら呼べる金平糖を犠牲とすれば、その分、お金が浮いて盤双六に手が届くのではないか。
それは、極めて現実的な考え方だった。
もう一つの砂糖菓子である有平糖は、まだ食べた事のないお菓子で、きなこ玉は安定感を出すために確保しておきたい。そうなると、切り捨てる余地があるのは、金平糖しかない。
それこそが最善の選択と言えるだろう。
「……でも」
だが、チルノは金平糖を手放す決断が出来なかった。
ここで平然と金平糖を切り捨てる程、チルノは冷酷ではない。彼女は、車寅次郎や山下清にも引けを取らない人情家である。困っている人がいれば、とりあえず氷のドームなマイハウスに泊めて、晩御飯にかき氷(ブルーハワイ味)をご馳走するお人よしなのだ。
だから、最善と知りながらもチルノは金平糖を犠牲とする事が出来なかった。何よりも、金平糖は甘くて美味しいのだ。
そうしてチルノが決断を下せないでいると、金平糖のはっきりとした幻聴(CV:大塚○夫)がチルノの耳朶を貫く。
『私に構うな!』
それはチルノの背中を押すための一言だ。
自分を捨ててでも先に進めという、砂糖菓子の魂の叫びだった。
「でも、あたいは、金平糖を……」
捨てられない。
捨てられるはずが無い。
紅霧異変の折、弾幕ごっこに初めて挑み、霊夢、魔理沙らに負けてしまい、心が折れそうになった時も、金平糖はチルノを甘味で励ましてくれた。
六十年周期の大結界異変の折も、幻想郷の閻魔によって『死』という物を意識させられ、恐怖を覚えていた時、それをかき消してくれたのは砂糖菓子の甘味だった。
この砂糖菓子が居なければ、今のチルノは無いだろう。
それなのに、捨てられるはずが無いではないか。
「そんな事出来ないよ……」
『ならば、貴様はずっとそこで足踏みをし続けるのか。それが最強を標榜する妖精の選択か! そこに大儀があるのか!』
「それは……」
『最強たる事を目指すなら、私のような砂糖菓子などに構わず、前に進め! 後ろを見るな! それこそが我ら金平糖への手向けとなる!』
「……………………分かった」
金平糖の言葉にチルノは決意する。
この砂糖菓子を犠牲として、前に進もう。
そうすると、妖精は決めた。
チルノは、金平糖をそっと脇にどけると、駄菓子屋の店主に向かってこう言い放った。
「じゃあ、これで」
「いや、金平糖を一つどけても全然足りないから」
「え?」
まるで萃鬼「天手力男投げ」でも喰らったかのような衝撃である。断腸の思いで金平糖を切り捨てたというのに、それでも足りないとはどういう事だろう。
それほどに、盤双六というのは強いのか。
「これなら、どう?」
ならばと、チルノは慌てて他の菓子もどけてみる。しかし、店主は変わらずに首を振るだけだ。
「あのさ、これって幾ら?」
「二十銭」
次元が違った。
チルノは金平糖一瓶と有平糖にきなこ玉、それにでっかい麩菓子に煎餅を買って店を出た。
全部で、八厘だった。
店を出ると世界は金色に染め上げられていた。店に入ったのは昼過ぎであったのに、いつの間にか黄昏時になっていたようだ。
斜陽を背にしながら、チルノは袋に入っている駄菓子をいっこ手に取った。それは、断腸の別れをしたはずの金平糖の小瓶だ。
「盤双六って高いね」
『盤将棋の価格を見誤るとは、この金平糖、一生の不覚!』
妖精と菓子は、なんとも情けなそうに溜め息を吐いた。
魔理沙よりお駄賃を貰い、それが一厘銅貨の二十倍と浮かれていたら、それよりも十倍も強い奴がやってきた。少年漫画よりも酷いインフレの起こし方だ。
「まあ、でも、これでよかったんだよ」
力及ばずと口惜しげに呟くお菓子とは裏腹に、チルノは少し残念そうではあるけれど、妙にさっぱりとしていた。
確かに盤遊戯で理知的な女を演出するのも魅力的だけど、そいつが金平糖の二百倍も魅力的かと言われれば、それは違うような気もする。せいぜい二十一倍がいいところだろう。だったら、それに二銭以上を払う価値は無かった。
別に、二十銭という値段に心を折られて撤退したわけではない。よくよく考えてみたら、いらないと、チルノは気が付いたのだ。負け惜しみではないので、その辺りを勘違いをしてはいけない。
『本当に、良かったのか?』
問い掛けられて、チルノは金平糖の小瓶をじっと見た。
そして、苦いもの少しだけ混じった笑みを浮かべると、瓶から星屑のようなそれを一粒取り出して、ポンと口の中に入れる。
金平糖は、とても甘くて美味しかったけれど、どういうわけか少しだけ苦く感じた。
それは、ちょっとだけ大人の味だった。
了
勿論、誰かから盗んだり、拾得物を横領したわけではない。この二銭銅貨は、ある筋から手伝いを頼まれ、それを成し遂げた事によって支払われた正当な報酬である。
「……これもお金なのかぁ」
その銅貨を見た時、チルノは惚けた声をあげながら、しげしげとそれを観察した。この氷の妖精にとって、二銭銅貨はどうにも珍しい物であるらしい。
だが、それは仕方がないだろう。
妖精という生き物は幻想郷における『貨幣経済』とは、あまり相性の良くない生き物だ。妖精を雇おうという雇用主は少ないので、働き口が根本的に少ない。仮に雇用先が見つかっても、童話や民話などで妖精の報酬は現物支給と繰り返し描かれている所為なのだろうか『賄い付きで時給ゼロ円』や『ゾンビフェアリーをしてくれるボランティア妖精大募集』など、賃金の発生する仕事は極めて少ない。
そうした現状に、一部の妖精は抗議の声を上げた。
『ブルジョワを打破せよ! 資本主義を打倒せよ! 立て! 幻想郷の妖精達よ!』
そうしてアジる赤い妖精達も少なからず存在したのだ。
しかし、大半の妖精達にとってそうしたイデオロギー闘争などどうでもよく、そんな事よりもおうどんが食べたかったので、ペレストロイカやアラブの春が如き変革が幻想郷に起こる事は無かった。
そんな平和な妖精達の例に漏れず、チルノは金に縁がない。財布すら持ち歩かないくらい金に縁がない。貧乏、赤貧を通り越し、どん底の経済状況である。
しかし、今日のチルノはお金を、二銭銅貨を持っていた。チルノに手伝いを頼んだ人物が適当な『飴』や『ミルク』といった妖精への報酬を用意し忘れていたので、ならば代わりに金で解決しようと二銭銅貨を渡されたためである。
以上が、チルノが二銭銅貨を持っている次第だった。
「一厘銅貨に比べて、大きいんだ」
そう言いながら、チルノは二銭銅貨を掲げて見る。
銅貨の表には日本皇室の菊花紋である十六八重表菊が上部に描かれ、その左右には『五十枚、一圓換』と交換レートが分かりやすく記載されており、中央には縦書きで植物の文様によって装飾された『二銭』という文字が大きく刻まれていた。
裏には、うねる竜が描かれていて、周りには『大日本・明治九年』とその貨幣が鋳造された年が刻印されている。その下部には『2SEN』とローマ字にて、この硬貨の価値が二銭である事が記されていた。
つまるところ、そいつは何処から見ても立派な二銭銅貨だった。その硬貨の名称が刻まれている以上、その点は間違いないだろう。
そうして物珍しそうに二銭銅貨を眺める氷の妖精であるが、金というものを全く知らないわけではない。
チルノは、一厘銅貨なら使った事があった。
一厘銅貨は、小さくて丸くて、表の真ん中にただ『一厘』と書いてあるだけの可愛い銅貨だ。それを何枚か溜めて、駄菓子屋に行って甘いお菓子を買う事が、氷の妖精が行う数少ない経済活動だった。
駄菓子屋でチルノが買うのは決まって『金平糖』だ。
ポルトガル由来の菓子である金平糖は、星屑のように綺麗な砂糖菓子である。室町時代に日本に伝来し、井原西鶴も『日本永代蔵』において、
『胡麻を砂糖にて煎じ幾日もほし乾げて後、煎り鍋へ蒔きてぬくもりの行くにしたがひ胡麻より砂糖を吹出し、自ら金餅糖(金平糖の異名。他にも金米糖、糖花とも)になりぬ』
などと金平糖の製造法について書き記しているくらい金平糖は、日本に馴染んでいる南蛮菓子なのである。
そんな砂糖菓子が、チルノの一番のお気に入りだった。
味は全く以って甘いだけだが、砂糖菓子とという物は、つまりは飴のような物なので、ゆっくりと舐めていれば長く甘味を楽しめる。その上、金平糖はひと粒ひと粒は小さいけれど、たくさんの小さな金平糖が小瓶に詰まって売っているので、コストパフォーマンスが大変よろしいし、何よりも見た目が綺麗だった。
そんな味良し、量良し、見た目良しと三拍子揃っている金平糖がチルノの駄菓子屋における定番なのだ。
「……でも、これで金平糖は買えるかな」
金平糖の値段は、ちっちゃな小瓶で一厘だ。
対して、チルノの持っている二銭銅貨には二銭の価値が有る。
しかし、チルノは一厘銅貨しか使った事がなかったので、二銭が一厘よりも『強い』のか『弱い』のかが判別できない。
そうしてチルノが悩んでいると、二銭銅貨をお駄賃としてあげた人間が声をかけてきた。
「何をぼーっとしているんだ?」
声をかけてきたのは、金平糖みたいな弾幕を得意としている普通の魔法使い、霧雨魔理沙だった。魔法使いに声をかけられてチルノは、我に返って彼女を見る。
すると魔理沙は、チルノの口を指差して「口、垂れてるぜ」と指摘をしてきた。
チルノが口元に手をやると何やら濡れている。どうやら『金平糖』の事を想っていた所為で、口からよだれが垂れてしまったらしい。チルノは慌てて口を拭った。
「で、何をそんなに惚けていたんだ」
「ええとさ。この二銭銅貨について教えて欲しいんだけど」
「ふむ」
「これって、一厘銅貨よりも強いの? 弱いの?」
「大きさをみれば一目瞭然だと思うが、それは一厘よりもずっと強いぜ」
実際、二銭銅貨は一厘銅貨よりも一回りも二周りも大きかった。硬貨をおはじきにした場合、一厘硬貨を呆気なく吹き飛ばしてしまうぐらいに二銭銅貨は巨大に思える。
一厘銅貨よりも、強くて大きい。
そんな強大な銅貨を手中に収めている事に奇妙な興奮を覚えながら、チルノは霧雨魔理沙に更に問うた。
「だったらさ、だったらさ。この二銭銅貨はどれくらい強いの?」
「一厘銅貨の二十倍くらいだな」
「すげぇ!」
魔理沙の答えにチルノは声を上げる。二銭銅貨の実力は、チルノの想像を遥かに超えていたからだ。
お金に疎い氷の妖精は、二銭銅貨の強さを、一厘銅貨の二倍から三倍、多くとも五倍程度ではないかと考えていた。ガンダムだって、通常の五倍のエネルギーゲイン、赤ザクも通常の三倍のスピードでしかない。それを思えば、その程度にとどまると普通は考えるだろう。
だが、そんなチルノの予想は覆される。
なんと、そいつは二十倍だ。少年漫画もかくやというインフレ具合に氷の妖精は熱狂し、それから、我に返って困惑し始めた。
「ど、どうしようか」
チルノは、二銭銅貨の巨大さに、腰が引けてしまった。
所有するものも着ている服だけ、家は自作の氷のドームに床は草地という『足るを知る』を体現したような生活をしているチルノにとって、二銭銅貨は黒船であった。過ぎた力だった。デビルガンダムだった。D.O.M.E.だった。ターンXだったのだ。
その圧倒的力によって、我が身を滅ぼしかねないほどの強大な力を前にして、チルノは二銭銅貨を持て余してしまう。
「いや、どうもこうも無いだろう。好きに使えば良いんだぜ」
「そんな事言われても……」
チルノが使った事のあるお金の上限は、一厘銅貨四枚なのだ。つまり四厘だ。その時、チルノは金平糖を一瓶買って、更に贅沢にも五家宝ときなこ玉をいっこずつ買った。
それを買った日は、まさに至福の一日と言っても過言ではなかった。桃源郷とはこのような生活を言うのだろうと確信できる日々だった。
金平糖を一粒一粒じっくり時間をかけて舐めて空にしても、まだ五家宝やきなこ玉が残っている。その事にチルノはなんとも言えない嬉しさを覚えたものだ。
そして二銭銅貨は、その時の五倍もの喜びをもたらしてくれるのだという。
それは空恐ろしくなるほどの、幸福の予感と言えるだろう。
二銭銅貨=一厘銅貨×二十という衝撃。
それはつまり、チルノの手元にある二銭銅貨を使用すれば、駄菓子屋で金平糖が二十瓶も買えるという事に他ならない。
一日一瓶を消化したとして、二十日間も金平糖を舐め続ければ、チルノは嬉しさのあまり頭がどうにかなってしまうだろう。
「あ、あたい、どうすればいいんだろう」
幾ら好物である金平糖といえども、二十日も連続で食べてしまえば、きっと自分は馬鹿になる。既に馬鹿ではないかという疑問は却下するとして、困りきったチルノは霧雨魔理沙に教えを乞うた。
「いや、だったら少しずつ使えばいいだろ」
「あ、そっか」
教われば、なんと簡単な事だろうか。チルノは手を叩いて納得した。
使い切らずに食べられる分だけお菓子を買えば良いのだ。食物とは違い、お金は腐ったりしないので、幾らでも溜めておけるのである。成程、世の金持ちがお金を溜め込む筈だ。
チルノは救われたようにホッと息を吐く。
「好きに使えばいいんだぜ。それはお前の金なんだからな」
「うん!」
霧雨魔理沙に促され、チルノは大きく頷くと駄菓子屋へと向かったのだった。
この幻想郷という土地は、ある時期を境に博麗大結界により、自由に外界と行き来をする事は出来なくなった。そのために、基本的な風俗習慣は、その時期より変化していない。最近はは、里にお寺が出来たり、山に神社が出来たり、天人やら仙人やら聖人やらが幻想郷を徘徊しているけれど、根本的な庶民の生活は変わらずに、古い時代のままで保存されている。
その為、子供達の社交場たる駄菓子屋も、幻想郷が閉ざされた当時のままで、品揃えもここ百年ばかり殆ど変化が無い。せいぜい、キャベツ太郎やうまい君が店に隅っこで壁の花となっているぐらいだろう。
そんな昔ながらの行きつけの駄菓子屋に、チルノはやって来た。ここは妖精や妖怪が買い物をしても嫌な顔されないので、弾幕ごっこでひと汗流した後などに、友人と一緒に遊びに来たりするのだ。
「こんにちわー」
硝子の嵌った木の引き戸を開けると、来客を知らせるように『ガラガラ』という音が鳴る。外の世界では幻想となりつつある木造建築の駄菓子屋であった。
「いらっしゃい。ゆっくり見ていってね」
「うん!」
顔馴染みである店主に挨拶をすると、チルノは店内を見回した。店内はあまり明るくない。薄暗いといってもいいだろう。
明り取りとなる窓が少なく、壁には棚が敷き詰められて、商品が所狭しと置かれて、室内に閉塞感が漂っている所為だろうか。これだけ物が所狭しと敷き詰められては、どうやったところで店内が暗くなるのは避けられない。
普段ならチルノは、真っ先に金平糖の置いてある棚に直行し、それを一瓶買って店を出る。
だが、今日のチルノはお大尽だ。
いつもの何倍もお金を持っているので、自然と気持ちも大きくなる。ちょっと、店を見て回ってやろう。そんな心持ちになっていたので、氷精は、まるで紅魔館のご令嬢となったかのようなすまし顔をすると、店内を見て回る事にした。
駄菓子屋に入って最初に目に入るのは、きなこ玉の入った入れ物だ。ころころとしたきなこ玉が、小さな透明の瓶の中に幾つも入っている。
「きなこ玉はいっこ、一厘かぁ」
チルノは、きなこ玉を生涯に三度くらいしか食べた事がないが、その味はしっかりと覚えている。きなこ玉を口に放り込むと、きなこ独特の大豆の香りと共に水あめの甘味が口の中でぱっと弾けて、なんとも言えない幸せな気持ちに包まれるのだ。
難点は、飴類に比べると、少しコストパフォーマンスが悪いことだ。とっても美味しいのだけど、きなこ玉は口に入れてモグモグしているとあっという間に無くなってしまうのである。その辺りが、きなこ玉が金平糖の後塵に配している理由だろう。
「でも、今日は何個か買ってもいいかもしれない」
そう呟きながら、チルノは他の駄菓子に視線を移す。
すると、きなこ玉の隣には、塩釜や落雁、有平糖、金平糖、花林糖、五家宝などの駄菓子が目に付いた。この辺りのお菓子は、この幻想郷が博麗大結界に包まれる以前から、駄菓子屋に並んでいる定番の駄菓子である。特に、一部の菓子などは、駄菓子屋の元祖である木戸番小屋でも売られていた程、由緒ある駄菓子達だ。
この辺は鉄板である。
しかし、くどいようであるが、今日のチルノはお大尽だ。
お金があると、どうしても人というのは気が大きくなるもの。そんな金平糖やきなこ玉といった定番のお菓子は当然として、たまには他のものにでも手を出してみようかと、チルノは普段は買わない駄菓子をじっくり見てみる。
「……落雁は食べた事あるけど、いまいち好きになれないからなぁ」
米、麦、栗、大豆、小豆といった澱粉質の粉に、砂糖や水あめを加えて甘味をつけて、型に押し固めた菓子が落雁である。特に、綺麗に着色され、形が整えられたお高いものは、茶の湯に於ける定番の茶菓子としても、仏事における供え物としても良く使用される大変由緒正しいお菓子だ。
しかし、そうした歴史的背景と味の好みは別である。
チルノは、落雁がどうにも苦手なのだ。パサパサしてて、食べにくくて、いまいち好きになれない。
これが飴の類なら舐めていれば良い。餅の類なら噛めばよい。あられや煎餅ならバリバリと音を立てて齧ればよい。
だが、落雁は硬いにも関わらず舐めもあんまり無くならず、地道にポリポリと齧るしかないのだ。その辺りの『どちらにも付かず』なあたりが、チルノが落雁を苦手としている理由だろうか。
「まあ、他だね……っと」
とりあえず、金平糖にきなこ玉、それに有平糖をいっこずつ買うことを決めて、チルノは他の棚を見て回ることにする。黒糖で覆われた麩菓子、様々な煎餅類、砂糖をまぶしたパン、丸いカステラ、薄荷糖などの菓子に加えて、お手玉にベエ独楽、めんこに盤双六、更には凧に羽子板といった玩具も、駄菓子屋の店先に並んでいた。
普段であれば、こうした玩具などチルノの眼中には無い。玩具というのは、駄菓子に比べて値が張るからだ。
詳しい値段は分からないけど、親友である大妖精曰く、
『駄菓子屋の玩具って、本当にお高いね……』
と、いう事らしい。
人間の里で『ブラウニー』の真似事をして、副収入を稼いでいる大妖精をして『お高い』と言わしめる物が、駄菓子屋の玩具である。
いつものチルノなら、どうせ手が届かないと眼中に無かった。
けれど、今のチルノはお大尽、お金様を沢山持っていている。今までの何倍ものお金を保有しているのだ。
チルノの興味は、駄菓子から玩具に移った。
「色々なおもちゃがあるんだなぁ」
そうした人間が作り出した玩具を眺めながら、チルノは感心したように呟きながら、棚を彩っている玩具を取って、弄繰り回してみる。
ちょっと、玩具の一個ぐらい買ってみようか。
少しチルノは考えた。
そもそも、こうした駄菓子は食べてしまえばそれで終わりである。けれども、玩具は壊れてしまうまでは何度でも遊ぶ事ができるではないか。それはお菓子を買うよりもよっぽどコストパフォーマンスが良いように思える。
だが、玩具を買うにしても何を買うべきだろうか。
「凧なんて空を飛ぶだけでちっとも面白くないし、ベエ独楽は妖怪の山の回っている人を見てれば十分楽しい。お手玉や羽子板するなら弾幕ごっこの方が面白いし……」
玩具に次々と駄目出しをしていくと、残ったのはめんこと盤双六の二つだった。
そしてめんこと盤双六を比べた場合、厚紙に絵が描いてあるだけのめんこよりも、白黒あわせて三十の駒に加えて、遊戯盤とさいころが付いてくる盤双六の方が見た目にも凄そうに思える。
それに盤双六というのは、なかなか知的な遊びではないか。
前々から、チルノは妖怪の山で河童や天狗がやっている将棋、あるいは紅魔館の吸血鬼がしているチェスといった盤遊戯に一種の憧憬のようなものを抱いていた。
あのように盤を挟んで、
「ああ、そのチェックメイト、飛車取りだね。それに、まだあたいのバトルフェイズはまだ終わってない!」
などと、ほうじ茶でも飲みながら気取った事を言ってみたかったのである。
実際の盤双六というものの実体すら知らないままに、チルノは盤双六の夢を見た。それはルール無用の荒唐無稽な光景だったが、それでもチルノの心を熱くするには十分だった。
「うん。盤双六に加えて、金平糖と有平糖、そしてきなこ玉を買おう」
そうと決まれば行動は早い。
チルノは、小さな竹で編まれた買い物籠に、金平糖の入った小瓶を一つ、きなこ玉いっこ、それに有平糖を一包みを入れて、駄菓子屋の棚のいっとう上に飾ってあった盤双六を指差して『くださいな』と、二銭銅貨を差し出した。
すると、眠たげにしている店主曰く。
「全部買うのに、二銭じゃ足りないわね」
その言葉にチルノは衝撃を受ける。
チルノには、最強の味方であるはずの二銭銅貨が付いている筈なのだ。それは一厘の二十倍も強く、向かうところ敵なしであったはず。
それなのに、二銭銅貨は今回の買い物に歯が立たないのだと言う。
それほどなのか。
今回の買い物とは、それほどにも強敵なのだろうか。
駄菓子屋店主の重い一撃を受けて、チルノの目の前は暗くなる。二銭銅貨が通用しなかった衝撃によって、脳震盪を起こしかけたのだろう。
チルノの身体がぐらりと揺れて、倒れ掛かるがどうにか踏みとどまる。意識を保つ事ができたのは、毎日、夜の八時には就寝しているという健康優良児的な生活を送っていた賜物だろう。己の生活態度の良さを感謝しながら、駄菓子屋の『足りないわね』攻撃を耐え切ったチルノは、反撃の狼煙を上げた。
「ま、まからへん?」
「無理やね」
起死回生を狙って、つたない関西弁で値切り交渉をしてみたが、それも一蹴されてしまう。
だが、それは当然と言えるだろう。駄菓子屋とは根本的に原価ギリギリの商売をしている修羅の国。そこで値切りなど、どだい無理な話である。
駄菓子屋の値切り耐性は鉄壁で、チルノの付け焼刃の買い物技術では突破する事は出来ない。
絶望の刃が、氷精を刺し貫こうとしていた。
その手には、じっとりとした汗が滲んでいるのは、勝機が欠片も見えない所為だ。それに、物を買おうとして、お金が足りないと気が付いた時というのは、どうにもじっとりとした嫌な汗を掻いてしまうモノである。二銭銅貨という切り札を叩きのめされ、チルノは決断を迫られていた。
どう動きべきか。
盤双六を諦めて、すごすごと帰るか。あるいは、みっともなく盤双六に拘泥するか。
諦めるなら、話は早い。
『べ、別に本当に欲しいと思ったんじゃないんだからね! ちょっと買ってみようかを思っただけなんだから、勘違いしないでよね!』と顔を赤くしながら呟けば、多少の羞恥心を犠牲にするだけで、事を丸く納める事ができるだろう。
だが、もしそれを諦めないのなら。
あくまでも諦観を拒絶して、前に進む事を決断するというのなら、チルノは代償を支払わなければならない。
勝利とは、数多の犠牲を積み上げた者だけが手にすることが出来る血塗られた王冠だ。この戦いに勝利する事を望むならば、それに相応する代価がいる。等価交換は世界の原則、勝利を欲するのならば、まず代価を払わねばならない。歴史の勝者たちは、そうして数え切れないほどの屍を積み上げてきたのだ。
だが、そのような代価を――盤双六に相当するような代償を、チルノは持っているのだろうか。
チルノに限らず妖精というものは、さして物持ちではない。立って半畳、寝て一畳を地でいく、その日暮しの生き物だ。江戸っ子は宵越しの銭を持たぬが、妖精は根本的に銭すら持たない。そんな持たざる者であるチルノに、どうやって駄菓子屋の納得できる代価を払うことが出来ようか。どこをどう叩けば、氷の妖精から盤将棋の代価が出てくるというのだろうか。
「か、身体で払うってのは?」
「妖精を雇うのは、色々と面倒なのよねぇ。物覚え悪いし」
己自身を代償に差し出したら、呆気なく断られた。まさか、自分を売ろうとしたら売れなかったなどとは、情けないにも程がある。
チルノは、落胆から、視線を落とした。
すると、手に持っていた小さな買い物籠に入る。
そこで目があったのは、綺麗な星屑の如き砂糖菓子だった。いつも買っている定番の金平糖である。
この砂糖菓子は、いつもチルノの心を慰めてくれた。弾幕ごっこで見るも無残な負け方をした時も、大蛙に飲み込まれて一回休みに鳴りかけた時も、お店のカートで激走した時も、成層圏から地上にダイブした時も、この金平糖は、チルノを甘味という側面から全力でバックアップしてくれた。
そうした金平糖であるなら、代償と成り得るのではないだろうか。
この相棒とすら呼べる金平糖を犠牲とすれば、その分、お金が浮いて盤双六に手が届くのではないか。
それは、極めて現実的な考え方だった。
もう一つの砂糖菓子である有平糖は、まだ食べた事のないお菓子で、きなこ玉は安定感を出すために確保しておきたい。そうなると、切り捨てる余地があるのは、金平糖しかない。
それこそが最善の選択と言えるだろう。
「……でも」
だが、チルノは金平糖を手放す決断が出来なかった。
ここで平然と金平糖を切り捨てる程、チルノは冷酷ではない。彼女は、車寅次郎や山下清にも引けを取らない人情家である。困っている人がいれば、とりあえず氷のドームなマイハウスに泊めて、晩御飯にかき氷(ブルーハワイ味)をご馳走するお人よしなのだ。
だから、最善と知りながらもチルノは金平糖を犠牲とする事が出来なかった。何よりも、金平糖は甘くて美味しいのだ。
そうしてチルノが決断を下せないでいると、金平糖のはっきりとした幻聴(CV:大塚○夫)がチルノの耳朶を貫く。
『私に構うな!』
それはチルノの背中を押すための一言だ。
自分を捨ててでも先に進めという、砂糖菓子の魂の叫びだった。
「でも、あたいは、金平糖を……」
捨てられない。
捨てられるはずが無い。
紅霧異変の折、弾幕ごっこに初めて挑み、霊夢、魔理沙らに負けてしまい、心が折れそうになった時も、金平糖はチルノを甘味で励ましてくれた。
六十年周期の大結界異変の折も、幻想郷の閻魔によって『死』という物を意識させられ、恐怖を覚えていた時、それをかき消してくれたのは砂糖菓子の甘味だった。
この砂糖菓子が居なければ、今のチルノは無いだろう。
それなのに、捨てられるはずが無いではないか。
「そんな事出来ないよ……」
『ならば、貴様はずっとそこで足踏みをし続けるのか。それが最強を標榜する妖精の選択か! そこに大儀があるのか!』
「それは……」
『最強たる事を目指すなら、私のような砂糖菓子などに構わず、前に進め! 後ろを見るな! それこそが我ら金平糖への手向けとなる!』
「……………………分かった」
金平糖の言葉にチルノは決意する。
この砂糖菓子を犠牲として、前に進もう。
そうすると、妖精は決めた。
チルノは、金平糖をそっと脇にどけると、駄菓子屋の店主に向かってこう言い放った。
「じゃあ、これで」
「いや、金平糖を一つどけても全然足りないから」
「え?」
まるで萃鬼「天手力男投げ」でも喰らったかのような衝撃である。断腸の思いで金平糖を切り捨てたというのに、それでも足りないとはどういう事だろう。
それほどに、盤双六というのは強いのか。
「これなら、どう?」
ならばと、チルノは慌てて他の菓子もどけてみる。しかし、店主は変わらずに首を振るだけだ。
「あのさ、これって幾ら?」
「二十銭」
次元が違った。
チルノは金平糖一瓶と有平糖にきなこ玉、それにでっかい麩菓子に煎餅を買って店を出た。
全部で、八厘だった。
店を出ると世界は金色に染め上げられていた。店に入ったのは昼過ぎであったのに、いつの間にか黄昏時になっていたようだ。
斜陽を背にしながら、チルノは袋に入っている駄菓子をいっこ手に取った。それは、断腸の別れをしたはずの金平糖の小瓶だ。
「盤双六って高いね」
『盤将棋の価格を見誤るとは、この金平糖、一生の不覚!』
妖精と菓子は、なんとも情けなそうに溜め息を吐いた。
魔理沙よりお駄賃を貰い、それが一厘銅貨の二十倍と浮かれていたら、それよりも十倍も強い奴がやってきた。少年漫画よりも酷いインフレの起こし方だ。
「まあ、でも、これでよかったんだよ」
力及ばずと口惜しげに呟くお菓子とは裏腹に、チルノは少し残念そうではあるけれど、妙にさっぱりとしていた。
確かに盤遊戯で理知的な女を演出するのも魅力的だけど、そいつが金平糖の二百倍も魅力的かと言われれば、それは違うような気もする。せいぜい二十一倍がいいところだろう。だったら、それに二銭以上を払う価値は無かった。
別に、二十銭という値段に心を折られて撤退したわけではない。よくよく考えてみたら、いらないと、チルノは気が付いたのだ。負け惜しみではないので、その辺りを勘違いをしてはいけない。
『本当に、良かったのか?』
問い掛けられて、チルノは金平糖の小瓶をじっと見た。
そして、苦いもの少しだけ混じった笑みを浮かべると、瓶から星屑のようなそれを一粒取り出して、ポンと口の中に入れる。
金平糖は、とても甘くて美味しかったけれど、どういうわけか少しだけ苦く感じた。
それは、ちょっとだけ大人の味だった。
了
チルノからすれば非常に真面目に思考しているのでしょうが、端から見ると何とも楽しい。
そして相も変わらず魔理沙は妖精と仲がよろしいですなぁ。
いやあ、可愛いなこのチルノ。
小学校低学年のころの気持ちを思い出しました。
500円を持っていれば敵なし、紙のお金ともなればどれだけの贅沢ができるのやら。
しかしその場で食べて終わりにならないおもちゃやゲームを手に入れるにはその何倍ものお金が必要…。
今となっては生活する上でそんな金額は普通に消費し、金銭感覚は十倍や百倍もインフレを起こしていますが、かつて500円玉や千円札に持っていた畏敬の念を思い出すと不思議な気分になりますね。いやあ、懐かしい。
大妖精には是非、家に付く妖精になっていただきたい。
あと、金平糖がかっこよすぎる。
だけど金平糖、コストパフォーマンスじゃお前がナンバーワンだ!
なんと言うか、お小遣いを握って駄菓子屋に行きたくなるようなお話ですね。
食べ物の名前しかでてこないや
ごちそうさま
やはり、双六は格が違った。
やりおるな
とても温かく楽しませていただきました
久々に、駄菓子屋に行きたくなった。でも、自分が好きだった、青くてでかい錠剤みたいなラムネはもう無いんだよなあ・・・なんで製造中止になっちゃったんだろう。
そんな郷愁が去来しました。
邪推の入り込む余地もなく一緒になってドキドキ、わくわくしつつ…。
わかりやすく教えてやる優しい魔理沙も一喜一憂が激しいチルノも皆かわいい。
素敵なお話を読めてよかったです。
チルノと店主の掛け合いでいつもの様子なんだろうなあとほっこりしました