少しだけ昔の話をしようと思う。
とはいえど、昔といっても実際それはほんの少し前、私――宇佐見蓮子が大学に入学したての頃の話なのだけれど、それでも今の私にとっては遠い昔のでき事に思えた。
私はその頃に、同じ大学に通うマエリベリー・ハーンという異国の少女と出会った。けれどそれは別に運命の出会いだとか、そういったロマンチックなものなどでは決してない。今でこそ彼女と私はいつも二人で行動を共にする親友ではあるけれど、当時の私たちからすれば現在の二人の関係は到底想像のできないものだったのだから。
――これから話すのは、二人だけのオカルトサークル《秘封倶楽部》がまだ影も形もない頃の話だ。
今年の春はどうにも薄ら寒い。ソメイヨシノが満開になる頃には、すでに四月も半ばに差し掛かっていた。
そんな寒空の下で私は早朝に一人、ゆっくりと大学の敷地内を散策していた。大学に入学してまだ一週間ということもあり、この広い大学の敷地にはまだまだ私の知らない場所がたくさんある。私はそんな知らない場所を未知から既知へ、ひとつひとつ知っている場所へと変えていく。これから四年間はここで過ごすことになるのだから、早いうちに知っておいて損はないだろう。
ただ歩くだけというのもたまにはいいけれど、今回は音楽を聴くことにした。
今となっては旧式の無線イヤホンを耳に装着し、私は携帯端末の音楽プレイヤー機能を起動させる。
端末内に保存されている楽曲の中からランダムに選ばれて流れてきたのはフランスの作曲家エリック・サティの『パラード』というバレエ音楽の中の一曲、『コーラル』だった。このバレエは台本にジャン・コクトー、美術・衣装にパブロ・ピカソという今でも名前が残っている各ジャンルの有名芸術家が結集して作り上げたものなのだけれど、初演以降バレエとして上演されることはほとんどなく、以降は管弦楽組曲として扱われることの多い不思議な楽曲である。この音源での指揮者はジェローム・カルタンバックというあまり聞きなれない名前だったけれど、この時代まで音源が残っているというのだから実力については申し分ない。
地に足がついていないような、どことなく不安になるサティ独特の旋律を聴きながらそうしてしばらくぶらぶらと歩いていると、不意に私はいくつかのベンチが置かれた広場に出る。足を止めて辺りを見渡してみると、この場所では何本もの桜の木が満開の花を咲かせていた。
ひらひらと、薄紅色の花びらが宙を舞っている。
重力、風力、空気粘性による回転運動などを考慮した花びらの落下シミュレーションは高校時代にやったけれど、やはり現実の花びらの落下軌道は単純化したモデルのそれよりも相当に複雑だった。
そうして散った桜の花びらがベンチに降り積もっている。木の枝の先で咲き誇っているときにはあんなにも綺麗だと思うのに、ベンチや地面にあるその花びらには何の価値も感じない。物質としてはどちらも同じであるはずなのだけれど、私の中ではそれらの価値には文字通り天と地の差があった。咲いているときの桜は足を止めて見上げるだけの価値を持っていたけれど、散ってしまえばそれは私にとって掃除を待つゴミに等しいのだ。
しかしそう思ってしまう私の価値観が特別におかしいというわけでもないだろう。散った花、枯れた花などよりも、満開に咲いている花にこそ価値を見出すのは言ってしまえば一般的な感覚だと思う。
けれど、その価値はいずれ失われてしまうものだ。永遠にその価値を保ち続けるものなんて、きっとこの世界には何一つとして存在しえないだろう。
しかしながらそうして価値を失っていくものは、あるいはそうであるがゆえに価値を持ちえるのではないかと、私はそんな逆説的なことを思う。
いずれ散ってしまうからこそ桜は美しい。すぐに消えてしまうからこそ花火の上がった空を私たちは見上げる。やがていつの日か死んでしまうからこそ、私たちの命は尊い。
散らない花などない。消えない花火など存在しない。死なない人間など――存在してはならない。
私は思う。価値とは儚さの中にあるのではないか。
この世の中に存在するあらゆるものは無常である。たとえば草花。たとえば命。楽しいひと時。そう思う感情。詩情。友情。あるいは、恋心。
それらは何一つとして例外なく、いずれは消えてなくなるに違いない。永遠なんてものは言葉であり、おそらくは言葉としてのみ存在しえるのだろう。
私は――そしてきっと私以外の誰もが皆――それを頭では理解している。理屈では理解をしていて、それでもなお、感情では永遠を求めてしまう。
『この楽しい時間が終わらなければいいのに』
終わらないそれは、おそらく本来の価値など失ってしまうはずなのに――。
――そう分かっていても求めてしまうものなのだ。
それはきっと、どこまでいっても単なる無いものねだりでしかないのだろう。
隣の芝生は青い。人はいつだって自分の持っていないものを欲しがるのだろう。人は自分の持っていないものにこそ価値を見出す。たとえそれが絶対に手に入らないと理解しているものだとしても――。
結局のところ、誰も本当には理解していないのだ。それこそ自分が持っているものの価値なんて、きっと自分では理解できないものなのだろう。だから――。
――自分が今、どれくらい幸せかなんて、きっと気付かないものなのだろう。
満開の桜の木と散っていく花びらをぼうっと見つめながら、気付くと私は思考の海に溺れていた。
ふわりとやってきた風に追い越されて、私の長いスカートが揺れる。それを軽く押さえようとして、ふと我に返った。
私は今の時間を確認しようとして一瞬空を見上げかけるが、朝の空に星はないと思い直して手首に巻いた小さな腕時計を見る。時計の針はそろそろ九時を指そうかというところだった。
まだ一限の講義開始時間までは少し時間があったけれど、そろそろ他の学生も登校してくるころだろう。
私は大学の敷地内の散策を切り上げて、一限の講義が行われる教室へと歩き始めた。
その講義で使われる教室は他の教室と比べるとずいぶんと小さい。
四角く置かれた八脚の長机に椅子が三脚ずつ、計二十四脚。一角には電子黒板と呼ばれるどう見ても白いボードが一台。これが何故黒板という名を冠しているのかといえば、それはただ昔の名残なのだという。そして教室の隅にはいくつかの予備の椅子が折りたたまれて壁に立てかけられていた。
そしてこの教室にはそれ以外のものは何もない。というよりも、置くスペースがそもそもないのだ。とにかくそれぐらい小さな教室でこの講義は行われる。
――この講義は基礎ゼミナールと呼ばれるものだった。大まかにいえば、今後研究室に配属されたときのための予行練習のような講義である。受講者はまず少人数のクラスに割り振られ、そのクラスの中でグループワークやディスカッション、そして発表などを行っていく。聞くところによると他にもこんなクラスが数十はあるらしい。そしてクラスの担当教員によっては、クラスの人数も使用する教室もまちまちなのだという。
この基礎ゼミナールは必修科目ではないけれど、それなりに人気のある講義らしい。この講義の本来の狙いである将来の研究室配属に対する備えとして受講する人間も確かにいるだろうが、一番の理由となるのはこの講義に試験がなく、出席さえしていれば単位がもらえる類の講義であることだろう。
私もそれを理由に受講している人間の一人だ。大学一年目、まだ大学というものに不慣れな私にとって一番の不安要素はやはり試験だった。頭脳にはそれなりに自信はあるけれど、どういった出題のされ方をするのかが全く分からないというのには少々の不安がある。それだけに勉強には充分な時間を取りたいところだった。そんな中で試験科目が実質一つ減るというこの講義の存在は私にとって実にありがたいものなのだ。
講義が始まるまではまだしばらくあった。私は四角く置かれたテーブルの角にあたる位置の椅子に座っている。がらんとした教室の中で何をするでもなく、ただ時間が過ぎるのを待つのはどうにも退屈だった。
だからだろうか、私は無意識のうちにこの教室の中にいる『もう一人』の人間に目を向けていた。
この時間なら当然教室には一番乗りだろうという私の予想に反して、私よりも先にこの教室にいた『彼女』。
先週の一回目の講義での自己紹介で聞いた名前は確か、『マエリベリー・ハーン』。
輝くようなブロンドの髪に、透き通るような白い肌。すっと通った鼻筋に、形のよい唇とあごのライン。そして吸い込まれそうなほどに大きな瞳。それは同性の私ですら一瞬見惚れてしまいそうになる、美しい異国の少女だった。外国人とは思えないくらいに日本語も流暢に話し、そしてその朗らかな雰囲気と確かな知性で彼女はあっという間にこのクラスに溶け込んで――否、彼女はすでにクラスの中心人物となっていた。
それ自体は別に不思議なことではない。あれだけ綺麗で日本語も堪能、話は面白く気立ても良いとくれば、きっと男女問わず大多数の人間が彼女と関わり合いたいと思うことだろう。
――そうだ。
だからそれは何も不自然なことなんかじゃない。
それほどにあのマエリベリー・ハーンという少女が魅力的な人間だという、至極単純な話であるはずだ。
けれど、どうしてだろう。
私にはどうしても、彼女がそこまで魅力的な人間には思えなかった。
それは決して嫉妬や羨望といった後ろ暗い感情などではなく、あくまでも第三者的な立場として私のこの『眼』で見た結果の評価である。理屈で考えれば、彼女が魅力的と断定するに足るだけの充分な要素を私は挙げることができるというのに、だ。
――それでも私の眼に、彼女は魅力的に映らない。
理屈では理解している事柄を、感情が拒否するような感覚。それはまるでありもしない永遠を求めてしまうかのような、それこそ自分ではどうしようもない感覚だった。
けれど私には、そんな自分の感情の正体が分からないでいた。そもそも私には彼女に特別な感情を抱く理由なんて存在しないはずなのだ。
彼女が魅力的であると、そう断ずることを拒絶するだけの動機が私には存在しない。
この講義で偶然同じクラスに配属されただけの彼女。ただそれだけの彼女が、私にとって特別な感情を抱かせる存在であるはずがない。
だからこそ、私はもしかすると彼女という存在を心のどこかで疑っているのかもしれない。それは論理ではなく感覚から生まれた疑念。
しかし彼女のどこが疑わしいのか、私にはそれが全く分からないでいた。
ただ漠然とした違和感があるだけで――。
――だからこそ私はどうしようもなく、ただ彼女のことが気持ち悪く思えてしまうのだ。
そんなことを思いながら私が彼女のことを見ていると、その私の視線に気付いたらしい彼女と目があう。
――そして私は一瞬、心臓が縮み上がるような錯覚に陥った。
私の心に浮かび上がったこの感情に名前があるとするなら、それはおそらく《恐怖》なのだろう。
彼女は笑っていた。けれど、私を見つめる彼女の『眼』は、まるで凍りついたかのように冷たくて。しかし私はそんな彼女から目線を逸らすことさえできない。私はその冷たさの中に、今まで彼女が見せたことのない特別な価値があるように思えた。彼女の視線から生まれる恐怖の感情。しかし同時に私は、そんな彼女にどうしようもなく「魅せられて」いたのだ。
――ごくりと、自分の唾を飲み込む音が大きく聞こえる。
しかし次の瞬間、彼女は他のクラスメイトに対してそうするように、ニコリと私に優しく笑いかけた。
その笑顔は本当にかわいらしく、私は安堵して一瞬胸をなでおろしそうになる。
――けれど、違うのだ。
確かに彼女の笑顔は私の心に恐怖の感情を芽生えさせたりはしない。しかしその表情の中には、私が魅せられた《それ》は存在しないのだ。
私はそのことを残念に思っている自分の心に気付いて、少し驚いた。
そうしていると唐突に、この教室の一つしかないドアが開く。
「あ、ハーンさんおはよう。今日は早いね――」
教室に入ってきた女子が彼女に挨拶をして、彼女もそれに答える。そしてそれは他愛も無い世間話に発展していった。
彼女は会話の中で、必ず言葉の最初にその女子の名前をつけて話をしていた。そうすることで他人の名前を覚えやすくなるのだという話をどこかで聞いたことがある。外国人の彼女にとって日本人の名前を覚えることがどれほど難しいことなのかまでは分からないけれど、おそらくはその記憶術を実践しているのだろう。
そうこうしているうちに、次々と学生が教室にやってきてはマエリベリー・ハーンの周辺の席から埋めていく。ただでさえ狭い教室はあっという間に窮屈になった。
やがて私の隣の椅子にも一人の男子が座る。名前は確かヒラノといっただろうか。
顔を合わせるのはこれで二度目だけれど、前回のグループワークで同じグループになったことで彼の人となりは少しだけ理解しているつもりだった。基本的に寡黙だが、訊かれたことにははっきりと要点をおさえた答えを返す人間。頭はそれなりに良いが、それを饒舌に披露したりはしない。彼のそういった他人に対して干渉しない流儀は私にとって都合がよかった。そんなことを思いながら私はちらりと、この教室でもっとも騒がしい場所を見る。
そこには軽薄そうな男子や人の良さそうな女子が様々な質問を飛ばす姿があった。そしてその中心にいるのは紛れもなく、マエリベリー・ハーンだ。
彼女はニコニコと人当たりの良い笑顔を振りまきながら、彼らの質問に一つ一つ答えている。
そんな彼女の様子を見ながら、もし私が彼女の立場だったらと考えて――げんなりした。
面白くもない冗談にニコニコ笑い、意味などない質問のための質問に律儀に答えて。そんなことをやろうと思っても、きっと今の私には無理だ。
その点、私の隣に座る寡黙なヒラノ君は確かに私にとって何のプラスをもたらさないけれど、決してマイナスにもならない貴重な存在だった。
もしかすると彼の方にも私と同じような考えがあって私の隣に座ったのかもしれない。頭の良い彼なりに、彼と同じく他人に干渉をしない私という存在を利用しようとしているのかもしれない。
だが仮にそうだとしても、私にとってそんなことはどうでもいいことだった。
互いが互いの存在を自分のために利用しあうという関係には嘘がない。目的がはっきりとしていて、だからこそ分かりやすい。
私たちは相手がいるなら利用するが、もしお互いがいなくなったとしても何も困らない。それは私たちが相手に何一つ依存していないからだ。これは依存関係ではなく、そしておそらく互恵関係ですらない。
そもそも関係と呼べるものなのかさえ怪しいくらい、今ここには何もない。
何もないけれど、もとより私は他人に何かを求めたりはしていない。
それが無駄であることを、私は生まれてから今までの間に幾度となく痛感してきた。
どれだけ人当たりよく取り繕ってみても、いずれ私は他人の輪の中にいることに耐えられなくなる。どう足掻いたところで、私とそれ以外の人間ではそもそも見えているものが違うのだ。私のこの『眼』で見えているものが私以外には見えていないのだと知っているから、結局のところ私はこの広い世界で一人ぼっちなのだと否応なく痛感させられてしまう。
共感できない感情。共有できない価値観。それらを心の中に抱えながらただ自分を偽り続ける関係の中に、私はもう何も望んではいなかった。
それに、そもそもそうした関係の中で得られるものは私にとって本当に欲しいものなどではなかった。本当に欲しいものの代替として、それを求めることで私は心の渇きを癒そうとしていただけでしかない。
私は知っている。
――本当に欲しいものは、決して手に入らない。
最善が無理なら次善。そうして次善を積み重ねれば、いつか最善になると信じて。
だから私は渇きを癒そうと一つ一つ次善を積み重ねていく。そして、あるときふと酔いから醒める。
気付いてしまう。言ってしまえば最初から気付いていた、欺瞞。
――いくら次善を積み重ねたところで、決して最善になるはずはないのだ。
それは積み重ねたところで、ただ欠けているものが積み重なっていくだけでしかなく。そうしてできた歪な山を見つめて、私はただ虚しくなる。
自分に自分で嘘をついて、いつまでも騙しとおせるはずがない。
満たされないと知りつつ、満たされようとする嘘。
私と、その隣に座るヒラノ君との間にはきっと何もない。何もないということは、そんな嘘もないということだ。
きっと私たちは互いに、相手のことをいてもいなくてもいいと思っている。そしてそれは私にとって何とも楽な関係だった。
こうして私がそんな益体もないことを考えている間に、教室にはクラスの全員が揃っていたらしい。最後にやってきたのは中年の男性である担当教員だった。彼は教室内を一瞥し、「揃っていますね」とだけ言う。
それまで騒がしかったマエリベリー・ハーンの周辺も、私が気付いたときにはすでに静かになっていた。
この講義の内容については全て担当教員に任されているのだという。この教員の専門は倫理と哲学らしく、それに関した簡単な話をいくつかして、クラス内で適当に分けたグループごとに意見を出させるだけで一回目の講義は終了した。
二回目となる今日はグループワークを主体に行うと、教員は前回の終了時に宣言していた。教員が提示した命題に関して定められたグループ内で議論し、一つの結論を出して質疑応答を含めた発表を行う。
提示された命題は古くからある『トロッコ問題』、あるいは『臓器くじ』の派生にあたるものだった。
トロッコ問題というのは、まず線路上を走っていたトロッコが制御不能になるというトラブルが発生する。このまま放置していると、その進路上で作業中の五人が確実に死んでしまう。その状況を正しく認識したAという人間がいて、Aは偶然線路の分岐器のそばにいた。Aが線路の分岐を切り替えれば五人は確実に助かるが、分岐を切り替えた先にも一人が作業中で、その一人は分岐を切り替えると確実に死んでしまうとする。
この場合、Aは分岐を切り替えるべきか――という命題。
臓器くじも根本は同じような話だ。五人の患者がそれぞれ別々の臓器の移植を必要としており、それを助けるために健康な人間を一人公平なくじ引きで選んで殺し、その臓器を患者に移植して助けることは許されるか――という命題
細かい部分に違いはあるけれど、根本的には「一人を犠牲にしてより多数の人間を助けることは正しいか」という部分で繋がっている。
この命題に関して私たちはそれぞれのグループで議論し、一つの結論を出さなければならない。
そしてそのグループ分けは、教員が「ではこちらの席から四人ずつでグループになってもらいます」といったことで即座に完了した。前回は四角く置かれたテーブルの一辺ごとの六人四グループだったので、今回は一グループあたりがそれよりも少ない人数になっている。
私のグループは、まず隣に座っているヒラノ君。そしてその逆の隣側にあたる、私と同じように角の席に座っていたヤマシタさんと、その隣に座っているタキヤマ君だった。
「では始めてください」
教員のその声を合図に、それぞれのグループが騒がしくなった。
私たちのグループで最初に口を開いたのはヤマシタさんだった。
「まずはみんなの立場を明確にしておかない? とりあえず私は、多数の人間が助かるなら一人の犠牲はやむをえないと思うんだけど」
高い位置で髪をポニーテールにした彼女はそう言った。
確かにその意見は、ベンサムの功利主義に則れば正しい。量としての幸福・利益を最大化しようとする考え。『最大多数の最大幸福』。
けれど、その考え方が必ずしも絶対の真理ではないこともまた事実だった。
「だったらヤマシタさんは、自分にとって見ず知らずの人間が多数助かるというなら、自分の親とか恋人を殺せるの?」
髪を赤く染めた、見るからにやんちゃそうなタキヤマ君がそう尋ねた。
――そうなのだ。
功利主義とは、何一つとして特別なものはないとした上でのみ成り立つ。それは世界中の全員を平等に扱わなければならない。それだけを言えば聞こえはいいけれど、それはつまり自分も、自分の家族も、赤の他人も、犯罪者も、果てには死刑囚さえも、その全てを同列に扱うということに他ならない。
本質的に人間の命とは、たとえ犯罪者であろうと平等に扱われるべきものなのかもしれない。だからこそ人権というものは尊重されるのだけれど、それでも――。
――個人の感情として、何一つ特別扱いしないなんてことは本当にできるのだろうか。
ヤマシタさんはタキヤマ君の言葉に少し眉をひそめながらも、冷静に答える。
「……その質問には後で答えるわ。じゃあとりあえずタキヤマ君は、五人を見殺しにする立場ってことでいいのね?」
「いや、そうは言ってない。俺はただ起きてしまったトラブルとその結果に関して、誰かが恣意的な自分の意思を反映させることに反対してるだけだよ。もし俺が選択する立場なら確かに何もしない。けど、だからといってそれが五人を見殺しにしたことにはならない」
「……どういう意味?」
「だから、言ってしまえば五人は最初から死ぬ運命だったってことさ。五人が死んでしまう状況っていうのは誰かが意図的に生み出したものじゃない。強いて言うなら神様、かな? けど一人を殺して五人を助けるというのは、明らかにそうじゃない。それは運命を個人的な感情で捻じ曲げようとしているにすぎないんだ。他人を殺して自分の目的を為すなんて、それは許されないことだろ?」
そんなことをタキヤマ君は隣のヤマシタさんの顔を見ながら言った。私の位置からではヤマシタさんの表情はほとんど窺えないけれど、タキヤマ君の表情は何やらいきいきとしているように見える。どうやら彼はこういった話を好んでいるようだ。
彼は今、大筋に関してカントの義務論に即した話をした。
義務論。自分が為そうとすることについて、誰が、いつ、どこで、なぜ、どのように行為しても文句なしと自分が意欲できるならば、それを道徳規則として定め、その規則に従って行為する。
ここではその規則に従う理由に、「規則だから」という以外の理由を持ち込まない。そしてそこに例外を設けてはならない。
功利主義のような帰結主義とは異なり、義務論ではその行為の結果を考慮しない。
ただひとえに、基本的規則として「他人を傷つけない義務」が定義されているからこそ、自らの目的のためにその行為によって一人の人間を殺すことを認めない。たとえそれによって五人が救えるとしても、そのような結果は最初から考慮しない。
五人は誰かが殺そうとしたわけではない。けれどその五人を救うために、誰かを傷つけるということは規則に反する。だから何もしない。するべきではないのだと、そうタキヤマ君は言った。
「……タキヤマ君の意見についてはとりあえず後で議論することにするわ」
ヤマシタさんはそういって、少し先走ったタキヤマ君を一旦制止した。
今はあくまでもそれぞれの立場を明確にするときだとヤマシタさんは思っているようだ。
「ねえ、宇佐見さんはどう思う?」
そうして私に話を振られた。
ベンサムの功利主義と、カントの義務論。
もし私が選択する立場なら、一体どちらの立場を選ぶのだろうか。
たとえば何一つ特別なものなんてないとして、いつだって量としての幸福の最大化に努めることが私にできるだろうか。
――少なくとも私には、そんなことはできないと断言できる。
私にとって「私や私の家族の命」と「見ず知らずの人間の命」は等価ではない。たとえ天災によって世界のどこかで何万という命が失われたとしても、結局のところ私にとってそれは数字でしかない。一人の命が失われたという事件が何万件も起きたのだとは、きっと私は考えることができないだろう。
ならば逆に、私はあらかじめ定めた規則を絶対のものとし、いついかなる場合もその規則から逸れることなく行動できるだろうか。
――きっとそれも、私にはできないに違いない。
私にとってかけがえのない大切な人がもし五人の中に含まれるのであれば、私は悩みながらも結局は一人を殺して五人を助けるに違いない。
けれど逆に、大切な人がもし一人の方だったなら――おそらく私は五人を見殺しにしてしまうのだろう。
決して一貫した論理に全てをゆだねることができない。普段は理屈で物事を考えているのに、いつだってここぞというときには感情で判断をする。私の理性は、いつだって利己的な欲求の前に力を失ってしまう。
つまるところ、私はそういう人間なのだ。
功利主義や義務論を学び、そうして理解をしたところで私はそれ自体の持つ深淵な意味を決して生かすことはできない。
私はそれらを、ただ自らの選択を正当化するためだけに持ち出してしまうだろう。
感情に流されて判断したという事実から目を背け、私はそれらの論理によって理性的に判断したのだと自分に言い聞かせようとする。
欺瞞。
自分に自分で嘘をついて。そんな風に楽になろうとして、気付けばもっと苦しくなっている。
――そうして嘘ばかりを重ねて、私は一人で一体どこへ行こうというのだろう?
「……宇佐見さん?」
ヤマシタさんが私にもう一度呼びかける。
「ああ、ごめんなさい。そうね……私は、やっぱりどっちも選べないかな。これはわがままだけど、そうなったときにどちらか助けたい方を助けると思う」
我ながらばかばかしい答えだと思う。個人の感情に流される倫理なんて存在するはずがない。論理的な意見を戦わせてこその議論なのに、そこに個人の感情や信条を持ち込むなんて。
けれどヤマシタさんはそんなことを気にする風もなく続けた。
「なら宇佐見さんは中立ということで……ヒラノ君は?」
「そうだな……理屈の上では五人を助けるべきだとは思うが、だからといって自分がその立場になって本当にその理屈に従えるかと言われたら、その自信はないな」
ヒラノ君はそんな風に答えた。
それで一応は四人の立場が明確になり、さて議論を開始しようかといったとき、ふとその言葉が耳に入った。
「ねえ、ハーンさんはどう思う?」
別のグループで一人の女子がそんなことを尋ねる。
そして、美しい金髪の彼女はそれに答えた。
「そうね……私はやっぱり、五人を見殺しにするかな」
「それは、どうして?」
少し複雑そうな顔をしてその女子がまた尋ねる。どうやら彼女は五人を助ける側の論者らしい。マエリベリー・ハーンと意見が分かれたことを、どこか残念に思っているようだ。
マエリベリー・ハーンもそのことに気付いたのか、少しフォローを入れるようにする。
「別にそれが私の信念とか流儀とか生き方っていうわけじゃないんだけど――」
そう前置きをしてから、そして彼女はその言葉を口に出した。
「――だって、一人で死ぬのは寂しいじゃない」
それからいくもの議論を交わし、時間になったところで各グループが発表を行って今回の講義は終了した。
それは覚えているのだけれど、実際私がグループの議論の中でどんな意見を出したのか。私はそれをはっきりとは覚えていなかった。
それがどうしてなのかといえば、私の中にはずっと一つの言葉がぐるぐると回っていたからだ。
それはマエリベリー・ハーンの言った言葉――「一人で死ぬのは寂しい」。
もしかすると彼女にとってそれは、特別な意味を持った言葉ではないのかもしれない。ただ何となく口を出しただけの、あるいはそんな言葉だったのかもしれない。
実際、彼女がそれを口に出したあとには彼女のグループで笑いが起きていた。それはマエリベリー・ハーンが冗談めかして笑ったから、それに周囲が釣られて笑ったものだ。
だから、その言葉がマエリベリー・ハーンなりの冗談だったと考えることもできる。むしろそう考えた方が自然でさえあった。
けれど、私は疑ってしまう。
その言葉こそがマエリベリー・ハーンという人間の本質を示していて、それを彼女は必死に冗談として取り繕ったのではないか。
私にはどうしてか、そう思えてならなかった。
「一人で死ぬのは寂しい……か」
私は過去に、それと同じことを言った人間を一人だけ知っている。
もしかすると、マエリベリー・ハーンもその人間と同種の人間なのかもしれない。
そんな疑い――あるいは、それは期待なのか。
自分でもはっきりとしないそんな思いを胸に私が廊下を歩いていると、突然後ろから声をかけられる。
「宇佐見さん」
「ひゃ」
私は驚きのあまり、素っ頓狂な声をあげてしまった。思考の世界に埋没していると周囲が見えなくなるのは私の悪い癖だ。
私はなるべく平静を装いながら声のした方を振り向く。
――そこに立っていたのは他ならぬマエリベリー・ハーン本人だった。
「……何か用かしら、ハーンさん」
どうして彼女が私に声をかけたのかは分からない。分からないのだけれど、それでも何となく今まで考えていたことが彼女に見透かされているような気がして、気付くとどことなく不機嫌そうな口調になってしまっていた。
少し彼女には悪いことをしたと思う。別に私は彼女のことが嫌いなわけではないのだから。
かといって今彼女に謝るのもおかしい気がして、だから彼女の返事を静かに待つ。
彼女は私の態度を気にした風もなく、なごやかな調子で口を開いた。
「んー、別に用ってほどのことはないけど、そういえばまだ宇佐見さんとはちゃんとお話をしたことがなかったから」
確かに私と彼女はちゃんと話をしたことがない。けれど、それは別におかしなことではないはずだ。
「別に、それはおかしくないでしょ? あの講義は学部も学科もランダムな学生が各クラスに配属されているわけだし、あの講義以外で接点なんてない相手の方が圧倒的に多いのだから――」
――だから、あの講義が終わればそこで切れてしまう程度の関係なのだ。
「でもせっかく同じクラスになったのだから、宇佐見さんともちゃんと交流したいなって私は思ったの」
そういって彼女は私に微笑みかける。
――なるほど。
あの講義のクラスメイトは、この笑顔に『やられた』のか。
今こうして面と向かってみて、ようやく私は彼女というものを理解した。彼女の持つその武器は、なるほど確かに強力だった。
相手の緊張をほぐして安心感を与える彼女の微笑には、他人を無自覚の内に惹きつける魔性めいた魅力がある。
その魅力はこの私でさえ、それこそ他のクラスメイトのように彼女の虜になってもおかしくないほどで――。
――だからもし私が『それ』に気付いていなければ、あるいは私も彼女の魔法にかかっていたのかもしれない。
しかし私は気付いていた。私が彼女に持っていた疑念、そして違和感の正体。それがどういったもので、そして彼女がどういった目的を持った人間なのかを理解して、だから私は言いようのない吐き気を覚えていた。
――気持ちが悪かった。
「宇佐見さん、次の時間って講義入れてる?」
マエリベリー・ハーンが尋ねる。
私に今から時間があるかどうか、それを知りたがっている。
「……ごめんなさい。講義は入れてないのだけど、これから少し用事があって――」
――嘘だ。
私に用事なんてものはない。今から二限目の講義と昼休みが終わるまでのおよそ三時間を、私は手持ち無沙汰な時間として過ごす予定だった。
そんな暇を持て余した私と、その退屈な時間を多かれ少なかれ共に過ごそうとしてくれた彼女を、しかし私は明確に拒絶した。
そこに他人を納得させられるような理屈なんてものはない。理由があるとしてもそれは感情的なもので、そしてそれはきっと誰にも共感されるはずのないものだ。
――理屈はきっと、感情には勝てない。
私は自分にそう言い聞かせて、感情に流された弱い自分を正当化する。
「そう、残念。それじゃあまた今度、機会があればお話しましょうね――宇佐見さん」
彼女はそういってにこりと笑うと、控えめに手を振った。
私もそんな彼女に手を振りかえす。そうして彼女が立ち去ろうとしたのを確認してから私も踵を返してそこから立ち去った。
そのまま私は、近くの女子トイレに駆け込む。
もう二限目の講義が始まっている時間だからだろうか、幸いそこには誰もいなかった。
私は一番奥の個室に入って鍵をかける。手に持ったかばんを荷台に置き、便器の蓋を上げた。
「…………うぅ――――――」
まるで体中の血液が逆流したような錯覚。頭は真っ白になり、何も考えることはできなかった。胃から逆流した胃酸が食道を焼き、そしてそのまま私の口から体外へと排出される。
「――――…………はぁ……はぁ………………」
胃の中のものを一通り吐き出して、吐き気がおさまったところで私は呼吸を整えようと大きく息をする。
体中が熱を持ち、心臓は激しく脈打っているのが分かった。けだるい頭の中を、脈絡のない様々な事柄が渦巻いていく。
「……はぁ……はぁ…………ふぅ……」
私は意図して大きく息を吐く。息が苦しいときは無意識の内に呼吸が浅く早くなっているので、一度息を吐き切った方がいいのだという。
そうして深く大きな呼吸を何度か繰り返すと、ようやく呼吸が整ってきた。あいかわらず心臓は大きな音を響かせていたけれど、それもいずれ収まるだろう。
私は便器洗浄のセンサーに手をかざす。
渦を巻くように流れていく水と吐瀉物。私はそれをぼんやりと眺めた。
「――全く、何だっていうのよ…………」
それはあまりにも今更な言葉だった。私は気付くのが遅すぎたのだ。
――おそらく彼女は、『最初』から気付いていたというのに。
「どうして『それ』に、もっと早く気付けなかったのよ……っ!」
私は苛立ちを隠さずに便座を叩きながら言った。
『それ』は私がずっと探していたものだった。欲して止まない、けれどそれは絶対に手に入らない永遠のようなもので――だから私は、本当に欲しいものは決して手に入らないと、どこか冷めた目をして悟った気になっていた。
けれど、ああ――それが、こんなにも近くにあったなんて。
これでは私はただの莫迦か、そうでなければ阿呆だ。
私はトイレの個室から出ると、まず水道で口をすすいだ。
何度うがいをしても嘔吐したあとの、のどが焼け付いたような独特の感覚は取れない。けれどそれは仕方がないと思うことにして、私は火照った顔を水で洗った。
顔を包み込むひんやりとした感覚が気持ちいい。
私はカバンからあらかじめ取り出しておいた小さなタオルで顔を拭うと、目の前にある鏡を見た。
鏡の中の私は笑っていた。
けれど。
その『眼』は。
どうしてだろう。
凍りついたように冷たくて。
私はふと、あの講義前に見たマエリベリー・ハーンの眼を思い出した。
――ああ、一緒だ。
私に恐怖という感情を呼び起こさせたあのときのマエリベリー・ハーンの眼と、今の私の眼は同じだった。
だから、あのときの彼女の心と、今の私の心は、きっと同じなのだ。
今なら分かる。あのときのマエリベリー・ハーンが何を思い、そして何故私がそれに魅せられたのか。
「……そう。あなたは、歓喜していたのね」
歓喜に震えそうな心を、必死に抑え付けて。
それはまるで、獲物を前にした獅子が舌なめずりをするように。
今なら私にも、そんなあのときの彼女の気持ちが分かる。
そして、だからこそ思う――。
「――けどね、マエリベリー・ハーン。あなた、勘違いをしているわ」
そう呟くように言った私は鏡の中で笑っている。
冷たい眼をして、静かに笑っている。
私は昼食のために食堂へ行く。注文した定食の載ったトレーを持ちながら窓際の席に向かって歩いていると、唐突に目に入ってきたのは特徴的な金髪だった。
背中を向けていても誰だか分かる彼女――マエリベリー・ハーン。
だがそれ自体は特別に気にするようなことでもない。彼女も人間なのだから昼食くらいは食べるだろう。
だから私が驚いたのは彼女の存在ではなく、その隣にいた人物――ヒラノ君だ。
そうしてよく見てみると、さらに向かい側にはタキヤマ君とヤマシタさんの姿もあった。
そこには私を除く、あの講義のグループの人間が揃っていた。
――なるほど。
私は一人心の中で納得し、彼女たちから近くも遠くもない席にトレーを置いた。そこは彼女たちの声は聞こえないが、しかし様子は窺えるような、そんな場所だった。
彼女たちの中で饒舌に喋っているのはタキヤマ君だった。講義のグループワークでも彼は誰よりも多くの言葉を発していた。
そんな彼がきっかけとなった話題を、さらに広げていくのがヤマシタさんの役割だ。行くところは行き、抑えるところは抑える。そうしたバランスを取るのが彼女は上手い。
そしてここからでは顔が見えないマエリベリー・ハーンと、ヒラノ君。
基本的に寡黙なヒラノ君はここでもやはり自分から何かを話すということはないらしい。訊かれたことには答えるが、それだけだった。
しかしそんな彼を上手く喋らせているのが、どうやらマエリベリー・ハーンらしいのだ。
表情が窺えないのではっきりとしたことは分からないが、マエリベリー・ハーンはこの場ではヒラノ君を会話の前面に引き出そうとしているらしい。
そうして引き出されたヒラノ君の要点をおさえた言葉によって、さらに会話が弾んでいるようだ。
それが第三者として外から見ている私には、どうしても彼らがマエリベリー・ハーンのいいように操られているようにしか思えなかった。
彼らだって、決して頭が悪いわけではない。三人ともそれなりには知性を感じさせる人間だった。
けれどそんな彼らでさえ、マエリベリー・ハーンの思うままに、その手のひらの上で踊らされているようにしか見えないのだ。マエリベリー・ハーンの発した質問に、彼らはそれぞれ答えを返す。
しかしそれはきっと、マエリベリー・ハーンが望んだ答えを返しているにすぎないのだ。
そもそもマエリベリー・ハーンの質問は、彼女が知りたいことを尋ねているわけではないのだろう。その質問によって発展する場と、その空気。彼女が望んでいるのはそれなのだ。
彼女が会話の中で望んでいるのは、ただ「楽しいひとときを過ごした」という事実でさえない。楽しく会話することを目的とせず、それさえもただの手段として扱い、彼女はただ「マエリベリー・ハーンは楽しい会話ができる人間」なのだという、そうした印象を他人に植え付けようとしているだけなのだ。
そうして彼女は積み上げていく。
一つ一つ、何かが欠けているものを、ただ積み上げていく。
そうしてでき上がる、歪な城壁。
どこか歪でありながら、しかし何よりも堅牢なそれは確かに彼女を守る城塞でありうるのだろう。しかし同時にそれは、彼女自身を束縛する牢獄でもあるのだ。
――ねえ、マエリベリー・ハーン。
――頭のいいあなたなら、本当は気付いているのでしょう?
私は心の中で彼女に問いかける。
私は知っている。そしておそらく、彼女だって知っているのだ。
――次善はいくら積み上げても、最善には成りえない。
「ねえ……あなたの本当に欲しいものはどこにあるの?」
それは答えの分かりきっている問いかけだ。
私には一切のことが分かっていた。
彼女が欲しがっているものがどこにあるのか。それが一体、何であるのか。それを目の前にして歓喜に震えた彼女が、果たしてどんな目をしていたのか――。
――――――。
――――。
――。
食事を終えて、私は早めに講義室に入る。次の時間の講義は基礎的な経済学を扱ったものだった。
私は理系ではあるのだけれど、卒業までには人文社会系の単位もいくつか取らなくてはいけない。この講義もそうした中の一つだった。
がらんとした大きな講義室に、段々と並んだ長机。まだ人もそれほどいない中で、私は中央の一番後ろの席に座った。
私は音楽を聴いて時間を潰す。ランダム再生で流れてきたのは今流行りのポップスだった。今どきの音楽はどれも代わり映えしないフラクタル図形のような自己相似の曲調ばかりだったが、その事実自体が何らかの価値や意味を持つわけではないだろう。実際、私はそれらが嫌いではないのだ。そもそもいつの時代であれ、芸術というジャンルはそうした似たり寄ったりの作品ばかりだという批判を受けてきた。どの時代にも必ず流行があり、それぞれの作者たちは同じ時代の中で共通の価値観を持っていたのだから、完全なるオリジナリティなどというものはそれこそ空想の存在に過ぎない。
事実、現在まで残る過去の名画や名曲などといったものでさえ、その当時はオリジナリティの希薄さを指摘する声はあったのだ。だから特別に現代だけが似たり寄ったりな作品に溢れているわけではない。遠い過去の時代から変わらず芸術作品が他人の目に触れるものである以上、時代背景、社会風土、時事流行などを無視して通ることなど叶わない。
言ってしまえばオリジナリティやマニアックな趣向性などというものは作品が生まれて、ずいぶんと後になってから無闇やたらと強調されたものにすぎないのだ。
ただ、そうした批判がどうして繰り返されるのか、私には分からないでもない。
何故なら私は思うのだ――価値とは儚さの中に存在する。
桜は散るからこそ美しく、人の命は限りあるからこそ尊い。
ありふれたものに価値がないとは言わないけれど、それが唯一無二の、かけがえのない存在になりえるかといえば、きっとそうではない。
だからこそそうした批判を行う者というのは、そこにかけがえのない価値を求めてしまい、その時代ごとのありふれた流行に価値を見出すことのできなかった、「孤独な少数派」なのだろう。理屈ではなく感情として、それはどうしようもないことだった。周囲が良いと褒めるものを自分だけが良いと思えない孤独。周囲の人間に見えているものが自分には見えない、あるいは自分にだけしか見えないものを持つという孤独。
流行が生んだ作品の持つ価値。それはある意味で最大多数の最大幸福のように、孤独な少数派を犠牲にして生まれた価値なのかもしれない。
――全員を喜ばせることができないなら、かわりに一人でも多くを喜ばせるものを創る。
それが正しいことなのかは私には分からないけれど、行き過ぎた商業主義の支配する現代社会では、最大の利益をもたらすその考え方こそが正義なのだろう。そしてそんな社会が求めた使命と、自分が心から為したいと思う理念が一致した人間というのは、きっとこの世界で一番幸せな人間に違いないのだ。
私が音楽を聴きながらそんなことを考えていると、がらんとしていたはずの講義室も徐々に席が埋まり始める。
五曲ほど聴いたところでちょうど講義の始まる時間になったので、私は講義に備えて音楽プレイヤーを停止した。
年を取った教授が来たのはそれからさらに一曲くらいは聴ける程度の時間が経ってからだった。教員はそのまま何事もなかったかのように講義を開始する。
初回の講義はこの講義の方針や内容、試験についての説明と質疑応答だけで終わってしまったので実質今日が最初の講義だった。
超小型の指向性マイクを襟元につけて教員が喋り出すと、講義室のあちこちに備え付けられたスピーカーから大きな音が出る。ハウリングも雑音も一切無しの最高音質で、まるですぐそばで話しかけられているような気がして、少しだけむずがゆかった。
「さて、みなさんにはこれから経済について勉強してもらうわけですが――」
教授はそう前置きをしてから、まず学生たちに対して経済に関する質問を募集した。
しかしそれは突然のことで、何の準備もない学生たちは誰も積極的に手を上げようとしない。すると教授は適当に目に付いた学生を当てた。
当てられた男子学生は少し困ったような雰囲気で立ち上がり、経済に関する質問をその場で考え始める。そうして発せられた質問――。
「――そもそも経済って何ですか?」
他の学生の間で小さく笑い声が漏れた。
あまりにも単純で基本的な質問。それを聞いた教授はどんな反応をするだろうか。
そんなことを思いながら皆が教授の様子を窺っていると、意外にも教授は何やら頭を悩ませていた。
「うーん……そうですね――」
それは別に彼の発した質問が良い質問だったというわけではない。
むしろ質問としては、幼児が母親に「これなぁに?」と訊くのと大差ないレベルだっただろう。しかしそんなレベルの質問であるがゆえに教授は頭を悩ませていた。
基本的であるからこそ難しい質問というものがある。普段から専門的に知識を深めている人間にとって、基本的過ぎる事柄こそが盲点となることだってあるのだ。
それは有名な数学者に「数とは何か?」とか「どうして一の次は二なのか?」と訊くようなものだった。
教授は少し考えてから口を開く。
「――経済とは、人間が生きていく上で必要なものを手に入れようとする活動全てのこと、でしょうか。しかしそうなると困りましたね……我々は本来必要のないものまで、ずいぶんと欲しがってしまっているようです――」
しんと静まり返る学生たち。
教授は決して難しいことを言ったわけではない。ただ、それを今、この場で、この段階で発言すること。それがとても不思議なことに思えたのだろう。
――必要のないものまで欲しがる私たち。
それは過去の私であり、今のマエリベリー・ハーンでもあるのだろう。もしくは、それは誰も彼もが持つ欲求なのかもしれない。
しかしそれを求めるのは何故だろう。
強欲ゆえ、だろうか。
――違う。
私たちはただ、どうしようもなく不安なのだ。『持たざる』という恐怖を、その心が知ってしまっているだけなのだ。
たとえば何一つとして物がない部屋を「生活感のない部屋」と言ったりするけれど、それはまさしく物を持つということが生活するということに繋がり、つまりは人として存在するということになる。何も持たないということは死んでいることと同義だ。
「その人を知りたかったらまず本棚を見ろ」というのも、つまりは同じことでしかない。どんな本を読み、どんな知識を得て、どんな主義主張を持っているのか。それこそがその人を形作り、その人をその人足らしめる要素となる。
持たざるという恐怖。捨てるという恐怖。
それを知っているからこそ、私たちは本来必要のないものまで欲してしまう。
――だからきっと、マエリベリー・ハーンも同じだったのだろう。
おそらくマエリベリー・ハーンは不安だった。誰とも繋がれず、一人で死ぬことを寂しいと思った。誰にも理解されず、何も持たずに死んでいくことを恐怖した。
だからこそ欲しかった。だからこそ欲しがった。
強欲だからではなく、ただひとえに不安だったから――。
だから私たちは――。
――――――。
――――。
――。
今日の講義が全て終わる頃には、夕日もそろそろ沈もうかという時分だった。
さて、これからどうしようかと、私はそんなことを考えながら、ただあてどもなく大学の敷地内を歩いていた。
やりたいことは確かにあった。
――マエリベリー・ハーン。
私は彼女と話がしたかった。それは決して彼女のため、などという偽善ではなく。あくまでも私自身のための、利己的な動機だった。
確かに私は彼女が誤った道を歩んでいることを知っている。
そしてその道の先には、どこまでいこうと結局は絶望しか存在しないことも知っている。
しかし私は、それを彼女に教えて救おうなどとは思っていなかった。
何故なら、そんなことはとうに彼女自身、気付いていることなのだから。
気付いていて、それでもなお彼女は自分自身を騙し続ける。
それは本当に欲しいものではないと、彼女は気付いている。
次善はいくら積み重ねても最善にはならないのだと、彼女は最初から知っていたのだ。
欺瞞を抱えて、虚しさを抱えて、それでもなお進み続ける。
彼女は、その絶望さえ飼いならそうとしているのだ。
――そしてそれが、どれほどに無謀で絶望的なことなのかを正しく理解している。
私にはそんな彼女が異常に思えて仕方がなかった。
気持ち悪くて、吐き気がして――。
それでもそんな彼女が、私には――。
「宇佐見さん……?」
ふいに名前を呼ばれて思考が遮断される。
――それは全くの偶然だった。
ただふらふらとあてどなく歩いていただけの私の前に現れたのは正真正銘、マエリベリー・ハーンだったのだから。
もしこの世界に神様がいるのだとしたら、それはどこまでも底意地の悪い存在なのだろうかと私は思った。
世界の鍵を握って、私たちを弄んで、それは随分と悪趣味な暇潰しだ。
けれど、だからこそ私は――最後の最後に、こうしてチャンスをくれる神様のことが、どうにも嫌いになれないのだ。
私はマエリベリー・ハーンに、これから少しだけ話をしないかと誘った。そして彼女はそれを了承し、今は場所を変えようと二人で歩いているところだ。
今、私と彼女の間に会話はない。
彼女がどう思っているのかは分からないが、私は移動が終わるまで何も話すつもりはなかった。
だから私はふと、ここではないどこかに思いを馳せる。
今のままのこの世界では、私はきっとトロッコに轢かれて、一人で死んでしまうのだろう。
――一人で死ぬのは寂しい。
いつだったか、私はそんなことを思った。
けれど、どんなに取り繕ったところで私は一人にしかなれなかった。
何故なら私には、この『眼』があったから。
私のこの眼に映る世界は言いようもなく陳腐だった。私の眼にはこの世界の法則が、式が、あらゆる仕掛けが、それこそ隠されているはずのものまでが全て見えてしまっていた。
この世界はつまらなかった。何一つとして不思議の存在しないこの世界が私は嫌いだった。あるとき、私は隣にいた友達にこの眼のことを正直に話した。
するとその友達は言った――「羨ましい」と。
それを聞いて私は諦めた。諦めるしかなかった。
そして私は一人になった。
きっと誰も、私の気持ちなんて理解できないのだ。それでは意味がない。それでは結局隣に何人いたって、私は一人ぼっちなのだ。
けれど今、もしかしたら私は、そんな世界から抜け出すことができるのかもしれない。
ここではないどこかへ、私はたどり着けるのかもしれない。
そんな希望が今、私の隣には存在している。
――マエリベリー・ハーン。
私にとって、彼女こそが最後の希望だった。
そして、その希望を掴むために――。
――私は、彼女の全てを壊さなければならない。
しばらく無言で歩いていると、噴水のある大きな広場に出た。
そこではいつもどおり、コーヒーの移動販売車が店を出していた。私はマエリベリー・ハーンに空いているベンチを探しておくように言い残し、歩いてその店の前まで行ってホットコーヒーを二つ注文する。私はいつもどおりブラックで、彼女の好みは知らないのでミルクと砂糖を一つずつ取っていく。
そうして両手にコーヒーを持って彼女の元へと戻る。彼女は自分の分の代金を払おうとしたが、ここは私のおごりだと頑なに押し付けるとしぶしぶ引き下がってお礼を言った。
受け取ったコーヒーの蓋を開けて、ミルクと砂糖を入れる彼女。それを付属のスプーンでくるくるとかき混ぜると、すぐにコーヒーとミルクの境界は分からなくなっていく。
寒空の下、私たちは熱い液体を冷えた身体に流し込む。喉を通り、胃の中で熱く自己主張をするコーヒーが、次第に身体中へと熱を運んでいった。
ほっ、と、一息つく。春先なのに、吐いた息は白かった。
「宇佐見さん……それで、私に話って?」
彼女の方から先にそう尋ねてきた。
私には話したいことがたくさんあった。その中で最初に気になったことから口に出す。
「まず、その『宇佐見さん』っていちいち相手の名前を呼ぶのを、今この場だけは止めてくれないかしら? それ、別に癖ってわけじゃ、ないんでしょ?」
それを私は最初に、相手の名前を覚えるためにそうしているのだろうと、ただ何となくそう思っていた。
「でも、それは――」
けれど、それは間違いだった。
そんなことをしなくても、彼女は他人の名前を覚えることに苦労なんてしたことはないはずなのだ。
――自分と、それ以外の境界。
他人というものを、彼女ほど明確に認識している存在なんているはずがないのだから。
私には分かる。私もかつてそうだったからこそ、分かるのだ。
「――それは、相手の名前を覚えるため? ……違うわよね。あなたは、あなたの狙いはそんなことではなくて、もっと別の所にあるのでしょう?」
「………………」
無言。
私はそれを肯定と見る。
「あなたの専攻は、確か《相対性精神学》だったわね。さすがに私もその分野の専門的な知識はないけれど、それがどういったことを研究する分野なのかくらいは、知っているつもりよ」
――相対性精神学。
夢と現を区別はしても同じ物として扱う。夢は脳が見せる虚像で、現実はただの生理現象。この分野においては主観こそが真実とされる。そして夢も現も、個人の主観において差異なんてものは存在しない。夢を現実だと思い込めば、夢と現は容易く反転する。
独我論の最果て――それこそが相対性精神学だった。
それは客観性を第一に置く科学分野とは対極に位置する学問である。
「だからあなたは昔でいうところの社会学、心理学、神経科学、そうした認知科学領域の総合的な知識を持っていると仮定できる。そうして仮定を元に検証すると、あなたの言動には一貫した意図が見えてくる。それが――《印象操作》」
それは本来誰もが無意識のうちの行っていることだ。自分という人間を変えることは難しくても、自分が他人に与える印象を変えることは思いの外簡単なことである。
「ハーンさん、あなたは自分のことをよく知っていると思うわ。美人で、性格もよくて、ユーモアもある。そう自覚しているからこそ、あなたは他人に好かれることを当たり前のように思っている。けれどそれを自覚している人間は鼻につくものだから、いつも無自覚な振りをしている。他人に好かれるということについては、あなた以上に上手な人間もそうはいないでしょうね。本当は何でも完璧にこなせるくせに、完璧であり過ぎると好かれるためには不都合があるから、必ず少しの失敗を傍らに置いている」
マエリベリー・ハーンは静かに私の話を聞いていた。
私は気付いていた。彼女が毎回他人の名前を呼ぶのは、決して他人の名前を覚えるためではないのだと。
それはただ他人の名前を呼ぶだけのことでありながら、しかしそれだけのことで、彼女の立場では充分な印象操作の手段足りえるのだ。
マエリベリー・ハーンに名前を呼ばれると、その人間は「マエリベリー・ハーンから一個人として認識されている」と思ってしまう。総理大臣などの要人に名前を覚えてもらえたら、一般の人間は心のどこかで喜びを感じるのと同じ心理。
それはマエリベリー・ハーンが自身を《高嶺の花》と自覚しているからこその手法だった。決して過剰な自意識を持っているのではなく、周囲から見た自身への正当な評価を持つが故に手に入れた、彼女だけの武器。
ささいな言葉も、ふとした笑顔も、さりげない優しさも、それらは全てマエリベリー・ハーンの計算から生まれていた。
――そしてその計算どおり、周囲の人間は『やられた』のだ。
「そうしたことは古くから恋愛心理学なんかでも重視されてきたことだし、それも人間関係における重要な技術なのかもしれないから、悪いとは言わない。ただ、今の私にはそんなことをしても無駄だから、止めてくれるかしら? ……正直、今のあなたは鼻について仕方がない。どうしようもなく――気持ちが悪いのよ」
私は彼女のことが嫌いなわけではなかったけれど、それも少しだけ前の話だった。
少なくとも今は、隣にいる彼女のことが嫌いだと断言できる。彼女のやっている印象操作を悪いことだとは言わないけれど、私にとって決して好ましくないことも事実なのだ。
――私が魅せられた彼女は、まだここにはいない。
「……言いたいことは、それだけ? それだけのために、私をこんなところまで呼び出したの?」
静かに、冷たく、彼女は言った。
「まさか。この程度で腹を立ててもらっても困るわよ」
そうだ。こんな表面的な話が、それこそ特別な意味を持つはずもない。野球なら様子見のボール球のようなものだ。そんな本来は意味のないはずの話に、しかし彼女は確かに反応を示した。
私は続ける。
「私はね、最初からあなたのことがどうにも不思議に思えて仕方がなかった。理屈で考えればあなたはこの上なく魅力的だというのに、私にはどうしてもあなたが魅力的な人間だとは思えなかった。……今思えば、どうしてすぐに気付かなかったのかという話なのよね。だって、あなたのその笑顔も、優しさも、ユーモアさえも、所詮はあなたが意図的に作り出した虚像なんだから」
――虚像。
夢と現を同じ物として認識する彼女にとって、あるいはそれこそが実像であり得たのかもしれない。主観こそが真実ならば、自分自身を騙し続ければそれで全てが上手くいく。
けれど私の眼に、それはあくまでも虚偽として映る。この世界の法則に、彼女のような存在はあり得ない。
彼女は私の眼を射抜くように見て、ゆっくりと口を開く。
「そうね。確かにあなたの言うとおり、普段の私の振る舞いは本来の私のものではないわ。……それで? それが何か問題なのかしら?」
ようやくマエリベリー・ハーンの本性が顔を覗かせ始めた。
――もう少しだ。
私はそう思って、心にもないことを言う。
「かわいそうよね、あなたに騙されている人たちって」
「どこがよ。主観こそが真実。彼らだって騙されている間は、少なくとも幸せに違いないわ。それに、もし仮に騙されることがかわいそうなのだとしても、それは騙される方が悪いでしょう?」
――騙される方が悪い。
私はずっと、その言葉が聞きたかったのだ。
「ふーん。騙しているって自覚はあるのね。……それで? その場合あなた自身はどうなるの?」
「…………?」
意味が分からないといった雰囲気で沈黙を返す彼女。あるいは、ただ分からない振りをしているのか。
「だって、騙しているとあなたの主観が認識しているなら、あなたにとっては偽りこそが真実になってしまうのでしょ? 虚偽の人格で作り上げた、虚構の世界――あなた、それを馬鹿馬鹿しいとは思わないの?」
「っ……!」
彼女は私を睨みつける。
何かを言いたそうにしながら、けれど何も言わず。静かに、まっすぐ、ただこちらを射抜くように、その眼で。
――一瞬、息が止まりそうになった。
「……こんなつまらない嘘に騙される人間を、あなたは騙される方が悪いといって馬鹿にしているけど、それならあなた自身はどうなのよ? 馬鹿を手のひらの上で踊らせて、そうして見下している相手に持ち上げられていい気になるなんて、それこそ馬鹿のすることじゃない。……あなた、馬鹿の王国の女王様にでもなりたいの?」
「うるさい!」
彼女は大声を上げて私の言葉を遮る。
その少し震えた声を聞いて、私はふと安堵する。
「さっきから大人しく聞いてれば、何を偉そうに。だったら何、あなたみたいに冷めた目をして虚無主義気取って、自分の心に鈍感な振りをしているのは馬鹿じゃないとでも言うの? ――ふざけないでよ!」
そんな彼女の感情をあらわにした声。
そこで初めて、私は彼女の本当の声を聞いたような気がした。
「……そうね。確かに私は大馬鹿者でしょう。本当に欲しいものは決して手に入らないと、そんなことばかり言って諦めて、ね。あなたの眼に映った私はどこまでも愚かでしょう。……でも、それも少しばかり前の話よ」
「……?」
「馬鹿なままの私だったら、こうしてあなたを呼び出して、こんな馬鹿みたいなことをするはずがないってこと。別に、あなたがこのまま自分を騙し続けて、本当に一生何不自由なく過ごせるというなら、私の話はここでおしまい。……どうする? このまま帰る?」
あくまでも自信満々な態度を崩さずに、私は彼女に問いかける。
私にとってこれは賭けだった。
上手くいく保証なんてない。もしかしたら彼女は私に腹を立てて、次の瞬間にはこのまま帰ってしまうかもしれない。
そう考えると少しの不安が頭によぎる。けれどそれを、決して表に出してはいけない。少しでも揺らげば、その瞬間に終わってしまう。この世界はいつだって狡猾に、私が弱みを見せる瞬間を待っているのだから。
そしておそらく今回を逃せば、彼女は今後一切私の言葉に耳を貸したりはしないだろう。
――最初で、けれど正真正銘最後のチャンス。
私の望んだものは目の前にあった。
彼女は私の眼をまっすぐに見つめる。
私の心を見透かそうと、その眼は深淵を覗きこむ。
凍ったように冷たい視線。時間さえも凍り付いてしまったかのような錯覚。
普段なら目をそらして逃げだしてしまいたくなっただろう。
けれど私はそんな彼女の視線を正面から受け止める。
「………………」
「………………」
彼女は何を考えているのだろうか。それを知るのは彼女だけで、私には分かるはずもない。もしかすると彼女は、次の瞬間には帰ろうとするかもしれない。
けれど――もし彼女が私の思っている通りの人間だとしたら、少なくともこのまま帰ったりするはずはない。私なんかに自身の企みの全てを見抜かれて、好き放題に言われたまま逃げ帰るようなことをするはずがない。
――そんなことを、彼女のプライドが許すはずはない。
少なくとも私の眼に、彼女はそう映っている。
彼女と見つめ合う、永遠にも似た一瞬――。
――彼女の眼に、私は何色に映っただろうか。
「……全く、理解に苦しむわ。あなたの目的は、一体何だっていうのよ?」
彼女はそう言った。
彼女のリスクをコントロールしようとする思考に、私への好奇心が勝ったのだ。
リスク――不確実性。
不確実なものを排除すれば安定と平穏が手に入る。
だから彼女は自分のコントロールできるものだけで世界を創ろうとしていた。そうして欲しくもないものを集めて、積み上げて――いつしか城塞ができていた。
「そんなの簡単なことよ。私は今あなたが必死に作っているそのお城を、他でもないあなた自身の手で壊してもらいたいの」
「……馬鹿馬鹿しい。私がそんなことをするはずがないでしょう? そんなことをして、一体何のメリットが――」
「――メリットならあるわよ、マエリベリー・ハーン」
呼びづらい彼女の名前を呼んで、私は続ける。
「そうすれば、少なくともあなたは隠し事をしなくてすむようになるわ」
「………………」
沈黙。
しかし、彼女が思わず息を呑んだことを、私は見逃さなかった。
「さっき私が暴いたような些細な秘密なんかじゃなくて、あなたはもっと大きな秘密を隠し持っている……違うかしら?」
「……何を根拠に。大体さっきからあなたの言っていることはおかしいわ。前提がごっそり抜け落ちているのよ。あなたはまるで、何もかも知っているみたいな口ぶりじゃない。……あなたこそ、一体何を隠しているの?」
彼女は私に問いかける。
確かに彼女の言うとおり、私の言っていることはおかしい。完全に破綻しているといってもいい、まるで馬鹿みたいな論理だ。
私は彼女が作り上げた人間関係を壊すように要求した。これだけでも充分に無茶苦茶な要求だというのに、そのメリットを語る際に、彼女の「隠しているはずの何か」が存在することを前提にしていた。彼女からすれば、私の正気を疑っても不思議ではないだろう。
そんな風に互いの認識が完全に食い違ったまま、二人の歩調はちぐはぐで、けれど私はあえて彼女を一人置き去りにしたまま話を進めている。
――それが何故かというならば、私には確信があるからだ。
「今日の講義が始まる前、一瞬だけあなた、凄い眼で私を見ていたでしょう?」
「ちょっと、話を逸らさないでよ!」
「別に逸らしてなんかないわよ。……あなた、あの時私を見て、何を思っていたのかしら?」
「………………」
「言いづらい? それなら私が言ってあげるわ。あなたは私を見て、『安心』したのでしょう? 孤独なあなたよりも、もっと孤独に死んでいくだろう私を見下して――」
「――違う! 勝手なことを言わないで。私はそこまで醜い人間なんかじゃない。安く見られるのは心外だわ!」
彼女は激昂して言った。
――うん、知っているわ。
私は心の中でそう呟く。
「……ええ、そうね。あなたはそんな下らない人間なんかじゃない。……ごめん」
「…………あなたは本当に何がしたいのよ? 回りくどいことしてないで、はっきり言ってくれないかしら?」
さすがの彼女もとうとうしびれを切らしたらしい。それは彼女からの最後通告だった。
可能ならばもう少しだけ彼女が持つ現状への不満を、他ならぬ彼女自身に自覚してもらいたかったけれど、こうなってしまっては仕方がない。
――私はぼんやりと、夜空を見上げる。
そうしてから私はその手にあるジョーカーを切り出した。
「北緯三十五度一分四十三秒八三、東経百三十五度四十六分二十一秒五六」
「…………何?」
「今私たちがいる、この場所の座標よ。……私はね、星を見ただけで時間を、月を見ただけで今いる場所を知ることができる……そういう『眼』を持っているの」
「何よそれ……ただこの広場の座標をあらかじめ覚えていただけじゃないの?」
「そうね、確かに今はその可能性を否定できない。本当は写真に写った月でもいいから、それで証明した方が早かったんだけど、ね」
「……いや、その必要はないわ。ちょっと待ってて――」
彼女はそう言うと、カバンから携帯端末を取り出した。
手早くいくつか操作をして、何やら独り言を呟く。
「ご丁寧に小数点以下まで、ね」
「……?」
「あなた、さっき座標の秒以下の小数第二位まで言ったわよね」
「うん、確かに言ったわ」
「今この端末のGPS機能でこの場所の座標を調べたけど、あなたの言った座標と完全に一致したわ」
「……それで?」
「あなただって知らないわけじゃないんでしょ? 座標の秒以下の少数第二位っていったら、『三十センチ四方』を表しているのよ。そして今私たちが座っているこのベンチは、空いているベンチの中から私が適当に選んだってこと、覚えているわよね? ……全く、何が『今はその可能性を否定できない』よ。あなたは人のことを、どこまで馬鹿にすれば気が済むのかしら」
不機嫌そうに、私に端末に表示された座標を見せながら、彼女はそんなことを言った。
――見事だった。
どうやら彼女は私が思っていた以上に頭が切れるらしい。もしかすると、私よりも頭が良いのかもしれない。
「……ごめんなさい、別に馬鹿にする意図はなかったわ。ただ、それで私の眼が本物だと気付いてもらえなかったら、私は手詰まりだったのも事実なのよ」
「……そうね。これはすぐに気付かなかった私の落ち度だわ。私の方こそごめんなさい、言い過ぎたわ」
彼女がそう言ったのを最後に、しばらく沈黙が場を支配した。
さて、私はもう切り札を切ってしまった。
それを見て、あとは彼女がどんな答えを出すのか、私には待つ他ない。
胸の内では、様々な思いがぐるぐると楕円軌道を描いていた。
そうして心の中で、私は彼女に問いかける。
――私の眼では不服かしら?
――私ではあなたの相棒に不足?
――あなたは言ったわよね、「一人で死ぬのは寂しい」って。
――だから一人のために、五人を見殺しにするって。
――だったらその城塞を壊して、あなたの周りにいる大勢を見放して、たった一人、私だけを救ってくれないかしら?
それが自分勝手な願いだと、私は理解している。
利己的で、どこまでも醜い願い。
昨日までの私なら、きっとこんな馬鹿なことは言わなかっただろう。
そんな醜態を晒してまで、何を欲しがることがあろうか――。
――私は今まで、そんなことを思って格好つけて生きてきた。
欲しいものを欲しいと言わず、虚無主義を気取って、冷めた目をしていた。
本当に欲しいものは、決して手に入らない。
そして、次善はいくら積み重ねても最善にはなりえない。
それなら――私はもう、何も要らない。
そんな強がりをいつしか本心だとして、私は自分を騙し続けた。
けれど、そんな欺瞞ばかりの世界は何も面白くはなかった。
そしてそれは、きっと彼女だって同じはずなのだ。
嘘で積み上げた城塞。偽りの女王。孤独の王国。その中で、いくつもの虚構の夜を越えてきた。
彼女だって、虚しさを感じているに違いないのだ。
私なら、彼女の心を理解できる。私が、私だけが――。
――それを証明するために、だからこそ私は自分の持っている手札の全てをさらけ出した。
あとはそれを見た彼女が、私をどう思うか――。
「――宇佐見蓮子。あなたの目的はよく分かったわ。……そうね、あなたになら、イーブンかもしれないわね」
「………………?」
「ちょっとついて来てくれるかしら?」
そういって彼女は一人で広場の隅の方へと歩いてゆく。
わけの分からないまま、私は彼女の後を追った。
「ここ、何か見える?」
「ここ? ……ってどこよ?」
「そう、見えないならいいわ……少し待ってね」
そういうと彼女は木と木の間の空間に手をかざす。
刹那――。
――ぐにゃりと、世界が歪む感覚。
三半規管が掻き回されたように、私は一瞬ふらつく。
「こうしたら、あなたにも見えるかしら?」
「……何よ、これ」
「結界――世界と世界を分けている境界が、私の眼には見えてしまうの……ほら、向こう側に、ここではないどこかが見えるでしょう?」
――ここではないどこか。
世界中に張り巡らされた結界が一体何を守っているのか。それは私たち一般人には知る由もないことだ。
――結界を暴くことを禁ず。
ただそれだけが現代を生きる私たちにとっての約束事であり、絶対的な正しさだった。
しかし彼女は、そんな約束事をいとも容易く破ってしまう。破棄してしまう。破綻させてしまう。
彼女の持つ『眼』はつまり、そうした性質を持っていた。
それは私の持つ眼とは明確に違う。私の眼は、言ってしまえばこの世界をつまらなくさせる眼だ。この世界で生きる私たちにとって、最もスリリングな『謎』という要素を排除してしまう眼だ。
けれど彼女の眼は、その反対だった。
彼女の眼には、きっとこの世界は魅力的な謎に満ちて見えるのだろう。濃厚で芳醇な香りに満ちた謎に包まれて彼女は日々過ごしているのだ。
――ずるい。
――羨ましい。
私はそう思った。心の底から、一切の偽りなく、私はマエリベリー・ハーンが羨ましかった。
「……これが私の隠し事よ。――ねえ、あなたの眼に私は、どう映ったかしら?」
彼女は私の目を見ながらそう尋ねてくる。
私の目に、彼女はどう映ったのか、なんて――。
――そんなの、羨ましいに決まっているじゃない!
けれど、そんな私に、ふと過去の記憶が流れてくる。
それは、私の眼の話を聞いて、「羨ましい」といった、昔の友達。
そう言われて、私は一人になった。そんな気がしていた。けれど――。
「――はぁ……なるほど、ね……」
私はそんな独り言を呟く。
結局は、「そういうこと」なのだ。
結局、私たちはどこまでいっても、自分の持っていないものだけを欲しがるのだろう。
手に入らないものだからこそ、それらはどこまでも魅力的に映る。
隣の芝生は確かに青いのかもしれないけれど――本当は、自分の芝生だって青いに違いないのだ。
私たちはいつだって、そのことに気付けない。
――自分たちが今、どれくらい幸せかなんて。
何が主観こそが真実だ。何が相対性精神学だ。
いつだって間違うのは主観なのだ。
だからおそらくは私と同じで、彼女だって間違っているに違いない。
私は、問いかける彼女の目を見て、そして答えた。
「何よその『眼』……気持ち悪いったら、ありゃしないわ」
私はどこか呆れた口調でそんなことを言う。
――気付いてしまえば、こんな茶番もないのだろうけれど。
だから彼女も、どこか自嘲めいた雰囲気で、言った。
「あなたほどじゃ、ないわよ」
そうしてどちらから、というのでもなく、気付けば相手に手を差し出して――それにもう一方も答えて、私たちはその手を重ねていた。
マエリベリー・ハーンの手は、温かくも冷たくもなかった。
同じ寒空の下、同じ店のコーヒーを飲んでいた私たちの体温は、きっと同じで、だから――。
――今このとき、私たち二人は、その胸で同じものを感じていたのだろう。
それからしばらくの間、私たちの関係というものは、どうにもぎこちないものだった。
何故なら私たちは、お互いの『眼』という最大の秘密以外、何も知らないに等しかったのだ。言うなれば、「最大の秘密だけを共有している他人」というのが最も的確な表現だったのかもしれない。
友達同士なら当然のように知っていることを、私たちは何も知らないでいた。
というよりも、そもそも私は彼女に友達のような当たり前な関係を望んでいるわけでもないのだ。
私が彼女に、そして彼女が私に求めたのは他ならぬ「理解」なのだから。
私たちの、はたから見ればちっぽけで些細な憂鬱を、等身大で理解してくれる人間。
私にとってそれがマエリベリー・ハーンだった。
誰からも共感されなかった思いを。誰とも共有できなかった価値観を。誰よりも正確に理解してくれる人間。
彼女にとってそれが宇佐見蓮子だった。
――かけがえのない、決して代替の利かない存在。
私はそんなもの、巷で女子高生に持てはやされるような甘いラブソングの中にしか存在しないと思っていた。
価値は儚さの中にあるとして、最も価値のあるものは存在しないものと、自分の心から意図的に遠ざけていた。
だから私たちの関係がぎこちないのも、あるいは突然手に入った宝物を、どう扱っていいのか分からないだけなのかもしれない。
大切で、絶対に無くしたくないものだからこそ、臆病になる。
それはどうにも本末転倒で、だから私はある日、一つの決意を胸に彼女に切り出した。
「ねえメリー」
「何よ蓮子……というかメリーって?」
「愛称よ愛称、ニックネーム。ほら、いいじゃないメリーって三文字で。文字数が減って写植屋さんも大助かりよ!」
「……まあ私のことは好きに呼んでくれたらいいけど、それで?」
「そうそう、せっかく私たちみたいにヘンテコな眼を持った人間が一緒にいるのに、何もしないのはもったいないって思ったのよ」
「はあ……まあ何か提案があるっていうなら、聞くだけ聞いてあげるけど」
「二人でオカルトサークル始めない?」
「それはまた突然ね……で、活動内容は?」
「メリーの眼を使って日本全国の結界を暴きまくるの」
「……あの、蓮子さん?」
「はい」
「それ、禁じられているのは知ってるわよね?」
「そりゃもう。でも私たちには見えちゃうんだから不可抗力でしょう?」
「けど……」
「名前ならもう決めてあるのよ」
「あれ、まだ私、やるとは言ってないわよね?」
「『秘封倶楽部』っていうの、どう?」
「どうって、いいと思うけど……って、そうじゃなくてね?」
戸惑う彼女の意見をことごとく排斥して、私は半ば強引に二人のサークル活動の開始を宣言した。
メリーには「蓮子って、ときどき私を置いてきぼりにするよね」と恨み言を言われたけれど、私のそれは自覚ある悪意なので救いようはないだろう。
それもまあ、何だかんだと言いながら、彼女なら私についてきてくれると信じているからこそ、だ。
関係を結んだ当初に想定していた関係とは、気付けば大きく異なっていたけれど。予想ができないからこそ世界は面白いのだろう。
リスクばかりで、たとえ安定や平穏とは縁遠い世界だとしても、それでも私は未知の謎を追う探求者として生きていたいのだ。
メリーが私に謎を提供し、私がメリーに解決を提供する。
それは見事なまでの利害の一致だった。
――こうして二人で一つの秘封倶楽部は誕生した。
「――今思えば、最初から蓮子は滅茶苦茶だったわよね」
「ん、そう?」
「……無自覚の悪と、自覚ある悪なら、どちらの方がより悪質なのかしらね」
メリーはため息をついてから、ストローでアイスコーヒーを一口飲む。
「まあ、どっちも迷惑よね」
「……あなたのことよ」
「それよりメリー、今日は珍しくブラックなのね」
私は彼女のコーヒーを見ながら尋ねる。
普段ならそのコーヒーにミルクと砂糖をいれて、それらの境界が分からなくなるようにじっくりとかき混ぜているはずだった。
あるときそれを見て、「そうして混ざり合ったコーヒーとミルクは決して自然なままに分離されることはない」という話を、エントロピーという単語を使ってメリーに説明したとき、明らかに私の話を聞き流していたメリーは「つまり、私と蓮子みたいなもの?」と、とんでもなく恥ずかしいことを言って自爆したことを覚えている。
そんなわけで、普段のメリーはブラックコーヒーを飲むことはほとんどないので、少しだけ気になったのだ。
「べ、別にそんなのどうだっていいでしょう?」
「……?」
少しだけ、違和感。
このメリーは、きっと何かを隠しているメリーだ。
だから私はメリーを、よく観察してみる。
普段とは、特に外見的な変化は見当たらない。
確かに見当たらないのだけれど、もしかしたら――。
「――ははーん、もしかしてメリー」
「……何でしょう?」
「……少し太った?」
「………………」
どうやら図星らしい。
とは言うものの、メリーは普段どおりかわいらしいのだから、体重なんていう数値の誤差はあまり気にする必要はないと思うのだけれど、本人的にはそうもいかないものなのだろう。
――自分が今、どれくらいかわいいかなんて、きっとメリー自身には分からないのだ。
――なんちゃって。
「でも、そうか……もうすぐ夏休みなのよね」
コーヒーをブラックに変えるという、かわいらしいダイエットを目撃して、私はその事実に今更ながら気付く。
もうすぐ大学は長い休みに入るのだ。
「ねえメリー、どこか行きたいところない? ……月面以外で」
「そんなの、急に言われても……そうねぇ――」
メリーはコーヒーを飲みながら少し考える。
そして何やら思いついたらしく、おもむろに口を開いた。
「そういえば私、ずっとオキナワに行ってみたいと思ってたのよね」
「……オキナワ?」
「そうだけど……何か問題があるの?」
「いや、メリーがそういうなら、私から特に言うことはないわ。……そう、オキナワね。あそこも色々と面白いスポットあるから、サークル活動のしがいがありそうね」
「……?」
少し不安そうな目をして、首をかしげるメリー。
――そう、メリーは知らないのだ。
真夏のオキナワが、いかに過酷な世界であるのか、を。
オキナワの紫外線量は、本州の倍以上だといわれる。
日本人に比べてメラニン色素の少ないメリーは、きっと日焼け止めを塗っても茹蛸のように真っ赤になってしまうだろうけど、それもメリーの希望なら仕方がない。
「ねえ蓮子……さっきから目が怖いんだけど?」
「そう? ……ふふ、楽しい旅行になりそうね」
と、まあこんな風に、適当に二人で毎日を過ごしているけれど、それでも私たちは理解しているのだ。
私たちはお互いにかけがえのない存在ではあるけれど、それでも決して二人は交わることのない異質な存在同士であるのだと。
たとえるなら、私たちはコインの裏表なのだ。
何よりも近いけれど、二人は決して同じものを見ることはできない。
どれだけ二人で一緒にサークル活動をしても、見えるものはそれぞれ違ってしまう。
こんなにも近くて、けれど遠くて。
でもそれは、言ってしまえば私たちにとっては必然だったのかもしれない。
――だってコインも、裏がなければ表だって存在しないのだから。
同じものが見られないのなら、それでもいい。
ただあなたが見たものを、あとで私に教えてくれればそれでいい。
かわりに私が見たものは、あなたにも教えてあげるから――。
――そう。
だから私たちは――二人で一つの、秘封倶楽部なのだ。
こんな素晴らしい物語をありがとうございました。
こういうメリーも好きですねえ。
上の方達もおっしゃってるように、メリー視点の
ものも読みたいですね。