悲しみが、さっと昼空を覆いました。
りんごん、りんごん、胎児の泣き声のような重い鐘の音が響きます。それは教会のようでいて、実際はただの真似事に過ぎないのですが、心にふわりと浮かぶ感傷を攫ってゆくには充分でした。
「神綺様」
よくできた人形は、よくできた声で歌います。この世界はかくも美しく、そして不気味なほど静まり返っているのです。
声の主は、造物主を思います。目の前でぼんやりと立ちすくんでしまった造物主の顔を見やりながら、鐘の音をしばらく聞いていたのです。
それは心の音でした。この世界は、とてもよくできているのです、だって彼女が造った世界だから。
だからこそ、この世界はすべからく彼女のものであるべきなのです。
「神綺様。少し急いで帰りましょう。すぐ雨が来るでしょうから」
「ええ、そうね。帰りましょう」
帰る場所とは、どこにあるのか。非常に哲学的な問いは、しかし気にも留められませんでした。干したまんまの洗濯物が気掛かりでした。疑問は雨をやませはしないでしょう。
きっと間に合わないとはわかっているのです。だって、造物主が、とっても悲しそうな顔をしておりましたから。
この世界は造物主と共にあるのです。
造物主が笑う時、空は煌煌と太陽が照りつけるでしょう。造物主が目を伏せる時、空には暗暗と雲が垂れ下がるでしょう。造物主が怒る時、空は轟轟と雷が響くでしょう。造物主が俯く時、空は滔滔と雨が降りしきるでしょう。
もう、だから、雨音はすぐ耳音まで聴こえていたのです。
帰る場所とはどこにあるのでしょう。
よくできた人形は、しとどに濡れた洗濯物を、溜息と共に乾燥機に放り投げます。ドラムの回転を見守りながら、やはり造物主を思います。
よくできた人形は、造物主に造られました。ですからやはり、帰る場所とは、人形にとっては、造物主そのものなのでしょう。
造物主の温かい言葉の中、柔らかな微笑みの中、朗らかな視線の中、いつも人形の帰る場所はそこにあるのです。服の染み、シーツの皺、靴の泥、爪先の罅割れ、手鏡の奥、カップの内側。どこにでも、帰る場所は幾らでもありました。
人形は、踊る為にあるのです。飾る為でも、着せ替える為でもありません。ただひたすらに、よくできた人形は、造物主の為に踊ります。用意された舞台の上で、美しく踊る姿にこそ、彼女の意義が眠っているのですから。
よくできた人形は、帰る場所も、踊る場所にも困りません。けれど、造物主の帰る場所とは、一体どこにあるのか。造物主の造り上げた、ただひとつのミニチュアボックスの中で、踊る人形を眺める造物主の観客席とは、一体如何なる次元に存在するのでしょう?
真っ白の服、皺ひとつないシーツ、ぴかぴかの靴、均整な爪先、割れた手鏡、カップの外側。どこにも、造物主の瞳は映らないのでした。
昼間の鐘の音が、そっと人形の内側を撫ぜてゆきました。教会など、この世界のどこにもありはしないのです。そんなものは、造物主しか信ずるもののないこの世界において、まるで無価値なのでした。そこにおられる造物主の為に、建てるものなどありはしないのです。では、あの鐘の音は、なんだったのか。
寂しい疑惑が、ふと人形の背後を駆け、去ってゆきました。
嗚呼。造物主の帰る場所は、どこにもないのです。
乾燥機の低く鈍い音が、ごぅんごぅんと人形の内側を殴りつけます。
人形は思い出したのです。今日は、一年にたった一度の、素晴らしい記念日でありました。人形と等しく同胞にして、人形ではない彼女の、年に一度きりの誕生日なのです。
遠い近くで、雨音はさらに強くなったような気だけがしていました。今日はもうやまないでしょう。
たったひとり。
たったひとりだけ、造物主の為に踊らない人形がおりました。いいえ、それはヒトガタではあったけれど、ニンギョウではなかったように思います。金の絹のような髪をした、可愛らしい少女は、しかし造物主の造った人形ではありませんでした。
少女は、どこからともなくやってきて、ただなんとなく、そこにおりました。気付けば造物主の隣におりました。
実を言えば、人形は、それをよろしくは思っておりませんでした。だってその少女は、造物主の為に踊りませんでしたから。きらびやかな服を着せられて、素敵な舞台を用意されておきながら、あどけない笑顔をそのままに、それでも少女は踊る為に造物主の隣にいたのではないのです。
それでも世界は晴れ渡っておりました。思うに、嵐や雷は、すっかり身を隠していたような気がします。ただ軽やかな晴天と、舌を潤わす雨天だけが心地よく居座っていたのです。それが、人形には面白くなかったのでした。
少女は、微笑む為にいたのです。
飾る為でも、着せ替える為でも、ましてや踊る為でもなく。ただ静かに、造物主の為に微笑む花でありました。
しかし、その花は、一体いつの間にしおれてしまったのでしょう?
「ごめんね、夢子ちゃん」
「いえ。私を困らせたくて、雨をお降らしになったのだとすれば、ちょっと思うところはありますが」
「そんな訳ないわ」
「雨は土に潤いを与えるでしょう。民に休息を与えるでしょう。空気に安らぎを与えるでしょう。不必要なものなど、この世界には何ひとつないのですから」
「そうね、だったら素敵だわ」
不必要なものなど、何もありません。けれど、必要なものが、すべて満ち足りている訳では、ないのですとも。
雨は花に水を与え、生きる糧を与えます。けれど、雫を受ける花は、もう既にここにはいないのです。土を湿らすばかりで、しおれてしまった花の苗は、種となって、新しい地でまた花を咲かせるでしょう。きっと美しい花でしょう。何よりも美しく、どんなに濁った瞳にも清く映る花でしょう。
だって、人形の敬愛する造物主が、何より愛した花ですもの。
「元気かなぁ」
それは、造物主の心からこぼれた破片でした。人形の足元にちらばって、人形の足の裏を痛く傷つけました。それでも、その破片を蹴り飛ばす気には、どうしてもなれないのです。
だって、人形だって、その花を愛しておりましたから。
「きっと、元気ですよ」
嘘か真か、そんな事は些細な違いなのでしょう。
ただ、人形からふっとこぼれ出たものが、笑顔であったなら。その言葉がたとい嘘であろうとも、掘り出したばかりの宝石の原石くらいの価値は、あるでしょうから。
りんごん、りんごん。
胎児の泣き声のような、重い鐘の音が響きました。
胎児は生きる為に泣くのでしょう。生まれてきたその瞬間から、生の実感の為ばかりに泣いているものですから。
できればそれは、祝福であったなら。と、人形は願います。
造物主は、人形は、祝う言葉を持ちません。本当は、たくさんの、本当にたくさんの言葉が、ある筈なのです。でもきっと、顔を見たら、全部忘れてしまうでしょうから。
だからこの鐘の音が、花のような少女のもとに、届けばいいと祈ります。
花には土を選ぶ権利があるでしょう。土は待つ事しかできません。選ばれるまで、じっと耐え忍ぶしかありません。
ですから、いつか、いつだって、花がこちらを選んでくれてもいいように。人形は、今日も粛粛と踊ります。造物主は、今日も淡淡と観客席に座ります。
悲しみが、さっと夜空を覆いました。
けれど、明日はきっと、晴れるでしょう。