橙が目覚めたのは、何を言っているのかわからない女性の声が耳に入ったからだ。
気持ちよく寝ていた橙は、声のような音に耳を震わせ、瞼をちょっとだけ強く瞑る。それが帰って刺激になり、目が覚めてしまったのだ。頭の耳を僅かに震わせ、目を人差し指の側面で擦りながら、うつぶせになっていた体を起こす。両足を揃えて左側に流しているのは、女の子なんだからと脚をむやみに広げないように、という教育の賜物だ。
体を起こしたときに自分がいる場所の様子が目に入る。知らない部屋だった。淡い色を使った市松模様の床は畳じゃない、布か糸を固めたような物が敷かれている。それは暖かく心地よい。だが顔に感じる空気は少しだけ冷えている。冷えた空気は寝ぼけ眼をちょうどいい目覚ましだった。
「くぁ」
小さなあくび。反射的に口の前に手を添える。
明るく、広い部屋だ。迷い家にある橙の家、橙が寝泊まりする部屋よりもかなり広い。が、走り回るには手狭だろう。壁の方には橙の膝より少し高いぐらいの何かがある。紺色で、つやつやしている。その手前には金属光沢を持つ背の低い柱が4本、立っていた。
女性の声はまだ続いている。耳を右に向けたり左に向けたり動かして他の音が聞こえないか探ると、低く唸るような音が鳴っていることに気付いた。小さく、どこか遠い音なので身構えることはしない。
二本の尻尾を動かして床を2度叩く。たしったしっ。ちいさなあくび。何となく立ち上がる。
背の低い柱の上から光の反射があることに気付いた。透明だから分からなかったのだ。誘われるように近づいて、透明の何かを触る。つやつやしてて、透明だ。触って気付く。これは背が低いけど、机だ。橙は唇の両端を少し上げ、爪を立てて天板を撫でた。だがあまりにも滑らかで引っかかりがないので、爪でひっかいても傷一つ付かない。
何度か引っ掻いていると、耳に入る女性の言葉が分かる言葉になっていた。声の出る上の方を向いて声に注意を向ける。
『今回は軌道エレベーター、テンノミハシラをご利用戴きありがとうございます。当エレベーターはおよそ8時間で静止軌道ステーション――』
言っている言葉が分かっても、橙には何を言っているかわからなかった。すぐに飽きる。天井は全体がぼんやりと光っていた。
声から注意が逸れた橙はつやつやで透明の机を回り込んで紺色の何かに手を触れる。柔らかい、布みたいだけど布じゃない物で出来ているらしく、力を入れると手が少し沈んだ。少し冷たい。橙の知らない形をしている。箱の上に座椅子を載せたような形で、両脇には丸い枕のような物が付いている。柔らかい。
すぐにそれにも飽きて、周囲を見渡す。左側が外に向かって空いていた。外は広く、青空が広がっている。直ぐそこは広場の様になっていて、短い丈の芝生になっていた。
なんだ、広いところがあるじゃないと橙は駆けだした。駆けだして、外に出る、というところで何かにぶつかった。左足と右手を思いっきり何かにぶつけて、勢いそのままに体ごとぶつける。跳ね返されて尻餅をついた。耳を頭にくっつけて、尻尾を床に垂らす。
鼻の頭とおでこが痛い。それぞれ右手と左手で摩り、右手のぶつけたところを左手で摩る。痛みが引いてきてから、外を見ると、、つやつやで透明な何かにうっすらと自分の顔が写っていた。透明な壁、があったのだ。透明な壁に、涙目の自分や部屋の中の様子が写っている。手を触れると、冷たいそれが橙を阻んでいた。
体を捻って後を見る。壁の真ん中当たりに扉のような物があるが、取っ手がなく、どうやって開ければ良いのか分からない。
橙はそのまま寝転がり、透明な壁越しに日に当たって寝ることにした。
揺れた。
「わっ!」
いや、揺れているのではない。空を飛ぶときに感じる浮遊感に似ている。しかし床に軽く押しつけられるようなそれは空を飛んでいるのではないと橙に教えていた。
慌てて体を起こして外を見ると、芝生の広場は見えなくなっていた。透明な壁に手を当てて下を覗くと、芝生の広場が見えず、灰色の街がどんどん小さくなっていくところだった。灰色の街は箱を整然と置いた形をしていて、橙がいる場所の地上を囲むように広がっていて、少し遠くをみると大きな湖が広がっていた。部屋ごと、上昇しているのだ。
速い。自分が幻想郷の空を飛ぶときはこんなに速く飛べなかった。少しだけなら、もっと速く上に行けたけど、ちょっとがんばるとすぐに疲れてしまう。この速さそのままに、上昇し続けていることが橙には信じられなかった。
大きな湖は深く碧く堂々としており、大きかった。世界の果ての向こうまで湖が広がっていた。端の方など霞んで見えない。橙が初めて見た世界の果ては、緩くカーブしていた。
「わあぁ」
思わず感嘆の声が漏れる。口を緩くあけ、耳を立てて。尻尾をゆるゆると振って空の向こうを見る。
聞こえていた低いうなり声が、高くなっている事に気付いて後を向く。橙はすぐに無理矢理抑えた好奇心を大きくして、外を見る。広い湖は幻想郷の湖とは比べものにならない程美しく、勇壮だ。この深い藍に比べれば、淀みに近い。緩く波打つ水面に吸い込まれそうになる。けれど、自分とあの水たまりの間には透明な壁と、開いていく距離がある。そう考えて橙の尻尾は床にたらんと垂れた。だけど橙は見るのをやめない。初めて見るこの大きな湖は、それほど橙の心を震わせた。
長い間、湖を見ていた。
高くなっているのに、耳の奥がつーんとしない。寒くない。このままどこまでも高く昇っていくのかも知れない。橙は急に不安に駆られる。
何時まで見てても飽きないと、最初は思った湖も、遠くなるだけで代わり映えがないのだ。橙は退屈を感じてしまう。あれから扉に触ったりしたが、やっぱりどうやっても開かなかった。お腹も空いてきたし、自分しかいないこの部屋が寂しくなってきた。
ちぇんは後ろ向きに寝転がると、ぼんやり光る天井を見ながら少しずつ、眠りに落ちていった。
気持ちよく寝ていた橙は、声のような音に耳を震わせ、瞼をちょっとだけ強く瞑る。それが帰って刺激になり、目が覚めてしまったのだ。頭の耳を僅かに震わせ、目を人差し指の側面で擦りながら、うつぶせになっていた体を起こす。両足を揃えて左側に流しているのは、女の子なんだからと脚をむやみに広げないように、という教育の賜物だ。
体を起こしたときに自分がいる場所の様子が目に入る。知らない部屋だった。淡い色を使った市松模様の床は畳じゃない、布か糸を固めたような物が敷かれている。それは暖かく心地よい。だが顔に感じる空気は少しだけ冷えている。冷えた空気は寝ぼけ眼をちょうどいい目覚ましだった。
「くぁ」
小さなあくび。反射的に口の前に手を添える。
明るく、広い部屋だ。迷い家にある橙の家、橙が寝泊まりする部屋よりもかなり広い。が、走り回るには手狭だろう。壁の方には橙の膝より少し高いぐらいの何かがある。紺色で、つやつやしている。その手前には金属光沢を持つ背の低い柱が4本、立っていた。
女性の声はまだ続いている。耳を右に向けたり左に向けたり動かして他の音が聞こえないか探ると、低く唸るような音が鳴っていることに気付いた。小さく、どこか遠い音なので身構えることはしない。
二本の尻尾を動かして床を2度叩く。たしったしっ。ちいさなあくび。何となく立ち上がる。
背の低い柱の上から光の反射があることに気付いた。透明だから分からなかったのだ。誘われるように近づいて、透明の何かを触る。つやつやしてて、透明だ。触って気付く。これは背が低いけど、机だ。橙は唇の両端を少し上げ、爪を立てて天板を撫でた。だがあまりにも滑らかで引っかかりがないので、爪でひっかいても傷一つ付かない。
何度か引っ掻いていると、耳に入る女性の言葉が分かる言葉になっていた。声の出る上の方を向いて声に注意を向ける。
『今回は軌道エレベーター、テンノミハシラをご利用戴きありがとうございます。当エレベーターはおよそ8時間で静止軌道ステーション――』
言っている言葉が分かっても、橙には何を言っているかわからなかった。すぐに飽きる。天井は全体がぼんやりと光っていた。
声から注意が逸れた橙はつやつやで透明の机を回り込んで紺色の何かに手を触れる。柔らかい、布みたいだけど布じゃない物で出来ているらしく、力を入れると手が少し沈んだ。少し冷たい。橙の知らない形をしている。箱の上に座椅子を載せたような形で、両脇には丸い枕のような物が付いている。柔らかい。
すぐにそれにも飽きて、周囲を見渡す。左側が外に向かって空いていた。外は広く、青空が広がっている。直ぐそこは広場の様になっていて、短い丈の芝生になっていた。
なんだ、広いところがあるじゃないと橙は駆けだした。駆けだして、外に出る、というところで何かにぶつかった。左足と右手を思いっきり何かにぶつけて、勢いそのままに体ごとぶつける。跳ね返されて尻餅をついた。耳を頭にくっつけて、尻尾を床に垂らす。
鼻の頭とおでこが痛い。それぞれ右手と左手で摩り、右手のぶつけたところを左手で摩る。痛みが引いてきてから、外を見ると、、つやつやで透明な何かにうっすらと自分の顔が写っていた。透明な壁、があったのだ。透明な壁に、涙目の自分や部屋の中の様子が写っている。手を触れると、冷たいそれが橙を阻んでいた。
体を捻って後を見る。壁の真ん中当たりに扉のような物があるが、取っ手がなく、どうやって開ければ良いのか分からない。
橙はそのまま寝転がり、透明な壁越しに日に当たって寝ることにした。
揺れた。
「わっ!」
いや、揺れているのではない。空を飛ぶときに感じる浮遊感に似ている。しかし床に軽く押しつけられるようなそれは空を飛んでいるのではないと橙に教えていた。
慌てて体を起こして外を見ると、芝生の広場は見えなくなっていた。透明な壁に手を当てて下を覗くと、芝生の広場が見えず、灰色の街がどんどん小さくなっていくところだった。灰色の街は箱を整然と置いた形をしていて、橙がいる場所の地上を囲むように広がっていて、少し遠くをみると大きな湖が広がっていた。部屋ごと、上昇しているのだ。
速い。自分が幻想郷の空を飛ぶときはこんなに速く飛べなかった。少しだけなら、もっと速く上に行けたけど、ちょっとがんばるとすぐに疲れてしまう。この速さそのままに、上昇し続けていることが橙には信じられなかった。
大きな湖は深く碧く堂々としており、大きかった。世界の果ての向こうまで湖が広がっていた。端の方など霞んで見えない。橙が初めて見た世界の果ては、緩くカーブしていた。
「わあぁ」
思わず感嘆の声が漏れる。口を緩くあけ、耳を立てて。尻尾をゆるゆると振って空の向こうを見る。
聞こえていた低いうなり声が、高くなっている事に気付いて後を向く。橙はすぐに無理矢理抑えた好奇心を大きくして、外を見る。広い湖は幻想郷の湖とは比べものにならない程美しく、勇壮だ。この深い藍に比べれば、淀みに近い。緩く波打つ水面に吸い込まれそうになる。けれど、自分とあの水たまりの間には透明な壁と、開いていく距離がある。そう考えて橙の尻尾は床にたらんと垂れた。だけど橙は見るのをやめない。初めて見るこの大きな湖は、それほど橙の心を震わせた。
長い間、湖を見ていた。
高くなっているのに、耳の奥がつーんとしない。寒くない。このままどこまでも高く昇っていくのかも知れない。橙は急に不安に駆られる。
何時まで見てても飽きないと、最初は思った湖も、遠くなるだけで代わり映えがないのだ。橙は退屈を感じてしまう。あれから扉に触ったりしたが、やっぱりどうやっても開かなかった。お腹も空いてきたし、自分しかいないこの部屋が寂しくなってきた。
ちぇんは後ろ向きに寝転がると、ぼんやり光る天井を見ながら少しずつ、眠りに落ちていった。
いや 情景は目に浮かぶけど
えっこれで終わり?