私はふと死を予感することがある。
何の前触れも無く、ただ漠然と迫る死を。
そしてその度私は死のうと考える。
だがふと桜を覗くと芽吹く前だった。
あの桜が咲いたらとても綺麗なのだろうと考えると、それまで生きていようと思った。
桜が咲くと、次は散り際を見たくなった。
散る花の雨の中にただ立ち尽くしたいと思った。
それまで生きようと思った。
そして花の雨の中、私はふと気付く。
こうして私は生きる事を続けてきた。
それは全て私の願った通りにあって、気付いた小さな幸せ。
来年の桜を待つとしよう。それまで生きていこうと思えた。
――
庭先には緑をいっぱいにした桜の木がある。
私の一日とはまずその桜を目に留める事から始まる。
昨日から今日への変化を見て、私は時間の存在を確認する。
決まった毎日を送る中で、私が時間は進んでいる事を確認する唯一の手段だからだ。
こうまで繰り返される毎日を私は寝て起きると、その日の朝に戻ってしまっているんじゃないかと、時に錯覚するほどである。
だがそんなはずも無く。
花は咲き、散り、また新しい花を咲かせた。
停滞した世界の中で、もしかしたら明日には動きだすんじゃないかと希望を持って。
既に動いているんだと知る小さな不幸。
いっそこの鳥籠のような屋敷を飛び出せば、自分の止まった世界も動き始めるんじゃないかとも考える。――そう。自らが時計の針を進めれば良い。
だがそれも無意味。
そもそも私にとって世界とはこの屋敷にある。
「おはよう」
ただ桜に向って言葉を投げかけた。
風がすっと桜を撫でて小さく顔を出した葉達が擦れ音を出す。
それはまるで桜が挨拶を返したように。
その様子に満足して、私は小さな笑みを浮かべて体を起こすのだ。
――ゴホッ
体を起こすと小さいが生々しい音をたてた。
咄嗟に押さえた手を見ると、そこには鮮やかな赤が広がっている。
――もう長くは無いだろう。
と誰かが私にそう告げたのはつい先日の事だ。
だがそれは私には衝撃的な事でも、ましてやショックや恐怖を覚える事でも無かった。
生まれた時から死んだような時間の中で生きていた私に、“死”とは余りにも理解できず、極めて現実からは遠いものだったからだ。
故に、目の前に“死”を突きつけられても、今と何が変わるだろうと、私は考えた。
広い屋敷の中、自分の為に泣いてくれる人はもう居ないだろう。
例えば今日、今ここで自分が消えたとしても、この屋敷には小さな波紋しか残せない。
きっと明日には同じように世界は廻る。
障子の向こうには、今日与えられる分の水と食料が置いてあった。
これがこの屋敷での私の存在だった。
愛されもせず、また疎まれもせず。
最低限の面倒は見るが関わることをせず。
だがそれをおかしいとは思わない。思えない。
それが私の日常なのだ。
日常に違和感など覚えるわけもなく、幽々子は一人箸を口に運んだ。
桜が風でざわめく。
「どうしたの?」
ざわざわと音を立て落ち着かない。
それはまるで何かを訴えかけるようで、幽々子を呼んでいるようだった。
思わず幽々子は立ち上がり桜に駆け寄った。
―――ただ桜が好きだった。
「幽々子、桜の花言葉は知っているか?」
ふるふると首を横に振る。
「そうか、じゃあ教えてやろう。精神美。それこそ桜の花言葉だ。」
「せいしんび?」
「美しい心を。って事だよ」
「難しくてよくわからない」
「そうか、もう少し大きくなればきっとお前にも解るよ」
「ホント?」
「あぁ本当だとも」
他愛もない親子の会話。それでも幽々子には楽しい一時であった。
大きな父の背中と、それより高く伸びた桜が幽々子は堪らなく好きだったのだ。
――願はくは 花の下にて 春死なむ
その如月の 望月の頃――
父はそんな歌を詠んで、その生涯に幕を下ろした。
大きなこの桜の下で、父は息を引き取ったという。
この桜に、己の血を吸わせて。
多くの人が涙を流した。
また多くの人が父を慕い、桜に血を吸わせた。
まるで呪いだ。死が死を呼ぶ連鎖のように、桜は血を吸い続けた。
それからの事だ。
桜が騒がしく哭くようになったのは。
怪奇が始まる。屋敷を取り囲む死霊も増えた。
小さな波紋が呼んだ、大きな異変の前兆。
果たしてこの屋敷に住まうもので何人がそれに気づいただろうか。
それはきっと、誰もが気づいた事だろう。
幽々子のように死霊が見え操る力を持った人間でなくとも気づけるほどの怪異。
だが誰しもが目を背ける。
――きっと偶然だろう。
意識も思考も遥か凌駕した何処かで鳴り響くアラート音。
その音が徐々に近づいてきている事に気づけた人間はそうは居ないだろう。
ざわめく桜の下に見慣れない服装と、髪の色をした女性が立っていたのに気づいたのは程なくしてだ。
「…どちらさま?」
「御機嫌よう。私は八雲紫、境界の妖怪にして幻想郷の観測者よ」
「そう。私は西行寺幽々子」
「驚かないのね、妖怪よ私」
「私も似たようなものだし」
「なるほど。それなら驚かないのも頷ける」
「それで八雲さん。今日はどうしてこんな所に?」
「呼び捨てで構わないわ。この子に呼ばれてね。貴方も同じでしょう?」
「桜が落ち着かなくて」
「仕方ないでしょう。もうこの子は桜では無くなりかけている」
「そう」
「張り合い無いわね。もっと食いついて来なさいよ」
「気づいて居たから。これはもう桜じゃない何かになっている」
「そうね。そして貴方も」
幽々子はゆっくり頷いた。
自分自身のことなど自分が一番良く解っている。
誰も自分からは逃げられないのだから。
幽々子の体は確実に人間とは離れていく。
死期が近づくにつれその力もまた強くなっていった。
まずは見えた。
宙に浮かぶ無数の気。
むせ返る程の霊の数々。
生物のみならず無機物ですら己を気という形に変えて“生”を証明するように宙を漂っていた。
常人ならまずここで気が狂う。
霊とはそれ即ち虫に近く。
強い火差すほうへフラフラと導かれていく。
生命の火は強い。
その火の強さから生きる者はこれら無数の霊に害される事なく、またこちらから干渉すること無く生活しているのだ。
次に触れた。
霊はそれこそ気体に近いが幽々子はそれに触れてみせた。
霊の感触を問われればぬいぐるみのような弾力のあるものだった。
最後に操ってみせた。
触れた霊に力強く意識するとそのとおりに動く。
例えば霊体を集めて人間に干渉出来るレベルにまで大きくして、屋敷の人間にいたずらできたりもする。
そうして幽々子の体もまた、霊に引っ張られるように人から離れていく。
もはや幽々子の火は薄れ霊に近いと言っていいほどだった。
「それで、桜でなくなったこれをどうするの?」
幽々子は真っ直ぐに紫を見つめる。
返答に間違えればそれこそ幽々子はすぐにでも紫を襲うだろう。
だが紫自身は桜をどうこうする気もなく、ただ首を横に振ってみせた。
「残念だけど、今回の私は桜には興味を持っていないわ。むしろ私は貴方のほうが余程興味深い」
じっと、それこそ全身を舐めるように幽々子を見つめた。
足元からゆっくり視線を上に持っていく。
居心地の悪さを幽々子は感じたが、それを無視してどうして?と問いた。
「貴方の力と桜の力。何処か似ていると思わない?」
紫は一つ疑問を投げかけてから、勿体ぶるような笑みを浮かべていた。
そうして、また来るわとだけ残して、割れた空間の中に消えて行った。
――***
「ねぇ紫」
真っ直ぐに空を指さして、幽々子は何気ない質問を紫にぶつける。
始めてあってから、そう日も経ってない頃の事だ。
「なぁに?」
「空って飛べるの?」
「その気になればねぇ」
「この塀の向こうも、飛べれば見えるよね」
「そうね。そんな高いものでもないし」
そっかぁ、と一つ聞いてから、幽々子はそれ以上聞こうとはしなかった。
一羽の鳥が飛んでくる。
桜に止まってから、幽々子は初めてあの木に鳥の巣があることを知った。
ひな鳥が顔を出して、持ってきた餌を啄む。
幽々子はただその様子を見ていた。
「ねぇ紫」
また別の日、人気のない屋敷の縁側に二人は座って話し込んでいた。
こうして話すのももう何度目だろうか。
紫は時折ふらっと現れては他愛のない話しをして去っていく。
だがそんな時間が幽々子は嫌いではなかった。
もはや人と遠く離れた幽々子は、自らの部屋に誰も立ち寄らないように屋敷の人間に伝えたのは、つい先日のことである。
内心屋敷の人間は助かった。
日に日に幽々子に取り付く違和感を、生物としての本能からか感じとっており、“何故だか彼女は危ない”と誰しもが頭の奥で警報を鳴らしていたからである。
こうして幽々子の部屋の近くに人は寄り付かなくなった。
だからこそこうして紫もまた堂々と縁側に座り込むなんてことも出来ているのである。
「なぁに?」
まるでやる気のない返事だ。
知りあって間もないが幽々子は紫という人物を多少なりとも理解している。
自分の興味のないことは全くもって感心を持たない。
ようは極度の面倒くさがりなのである。
「私をちょっと外に連れていってよ」
ピクリと、紫は反応を示した。
今の今までお茶菓子に落としていた視線を幽々子に向ける。
「なんでまた、そんな面倒な事を?」
「私、外って見たことないのよね」
「箱入りお嬢様なのね」
「鳥かごの鳥でしか無いけれど」
「貴方、自分の能力を理解している?」
頷いた。
屋敷の人間を近寄らせなくしたのもその能力のせいだ。
桜に引っ張られるように幽々子は桜と同じくして
“死を操る力”を宿した。
それは溢れる力で、死霊を操って見せる程度のものではない。
自分でコントロール出来ず、ただ周囲に“死”を撒き散らす存在。
果たしてこれを人と呼べるだろうか。
桜もまた同じだ。あれもまた“死”を操り、人や動物を黄泉の国へと誘う。
幽々子は嘆いた。
自分が死ぬのは一向に構わない。
だが、周りは違うのだ。
箱入りお嬢様といっても、人には人の思考があると幽々子は少なからず知っている。
自分より多くの未来がある子供を、自分より多くの希望を持つ同年代を、自分より多くの過去がある老人を。幽々子と桜はその存在だけで殺してしまうのだ。
なんて悲劇だ。
誰かが死ねばそれは自分のせいだ、桜のせいだと幽々子は怯える。
誰かが病にかかれば自分のせいだ桜のせいだと。
そうして遠ざけた。
誰が死ぬにしても生きるにしても、自分より遠い世界に置く事で幽々子は自分自身を守った。
そんな幽々子が突然にして外に出たいなど言うものだから、紫は少し驚いてみせたのだった。
「正気?」
「当然。ただもう私は一つ決めたから」
小さくごめんね、と幽々子は言いながら桜の木の枝をパキンと折った。
桜もまたそれを許したのか、優しくざわめく。
「そう。それで私にどうしろと?」
「旅は道連れって言うでしょう」
「なるほどつまり寂しいのね」
「どうだろう、これが寂しいっていうのなら、私はその感情を初めて知ったかも」
「なるほど、まぁ良いでしょう。だけど“向こう”にまで道連れは勘弁よ」
――幽々子は笑った。
出掛け支度の途中幽々子はふと桜に目をやると、やけに桜が落ち着かなく哭いているのに気がついた。
どうしたのだろうと近寄ってみると、ひな鳥が一羽、桜の木の下で動かなくなっていた。
優しくそれを取り上げる。この鳥は、桜のせいで死んだのかもしれない。
それとも幽々子のせいで死んだのか。
もしかしたら全く関係ないのかも知れない。
だがそれでも、関係ないのだと誰にも証明など出来ない。
自分のその不確かな能力を幽々子は呪った。鳥を目の前にして何もできないまま、動けなくなってしまった。桜がざわめく。
「そう、貴方も悲しいのね」
優しい風が吹いて、桜は答えた。
その鳥は桜の下に埋めることにした。
それが一番だと勝手ながらに幽々子は思うのだ。
もしかしたら自分が、桜が、殺したかも知れないそれを優しく埋めてやった。
優しい風が一つ吹いた。
――***
人はなるべく避けた。
例え一瞬でも影響を与えるのなら、なるべく小さな影響でありたいと幽々子は思ったからだ。
「凄いわね。こんなに人が溢れてるのは初めて見たわ」
遠く高台から人で溢れ、活気に満ちた市場を見て幽々子は心底驚き、また感動を浮かべていた。
「もっと近くに寄ったらどうなの?」
紫は言う。だが幽々子は首を縦に振ろうとは決してしなかった。
「貴方がいいならそれで良いけれど」
ただ真っ直ぐに市場を見つめていた。
憧れと童心をその目に宿しながら、行っては行けないと自分に枷をした結果、幽々子はただ見つめるしか出来なかった。
「ねぇ紫」
「なぁに?」
「私は、どうしてあそこに行けないのかしらね」
「行けるわ、貴方が勇気さえ持てば」
「無理だわ、私はとても怖がりだと、これを見て知ったから」
「そう。でも知れただけ前進だと私は思うわよ」
「もう少し早く気づけてたら何か変わったかな」
「いいえ、これが貴方にとっての最速だった、だからその仮定は無意味だわ」
「そういうものかしら」
「そういうものなのよ」
歩を進める。病に侵された幽々子にとって、少しの距離を歩くにしてもかなりの重労働であった。その上山道をただ登っていくのである。常人でも些か辛い道のりであろう。
「スキマで移動してあげようか?」
「自分で行かなきゃ意味がないのよ」
「そういうものかしら」
「そういうものなのよ」
息を切らして、一歩一歩踏みしめるように幽々子は歩を進めた。
向かう先は父の墓だ。
生まれてこのかた屋敷を出たことのなかった幽々子は、体が弱いからという理由で今までこの山の上にある父の墓に行く事は叶わなかった。
そうして言い訳を通しながらも、ついには行くことを決めたのは幽々子自身長くないと悟った上での事だった。
――せめてこの足で小さな世界を飛び出そう
募る思いは沢山ある。父に言いたい文句も、父に報告したい事も、他愛の無い話しも。
そうして足を向けた父の墓に常人の2倍や3倍の時間をかけてやっと辿り着いた。
父の墓を見る。大きな墓石に父の名が刻まれていた。
いろんな思いがごちゃ混ぜになって、代わりに涙としてあふれた。
崩れる体をただ支えてくれたのは紫だった。今はただ紫に甘えて、幽々子はただ涙を流すのだった。
心を落ち着かせてから幽々子は両の手を合わせた。
募る思いを全て乗せてただ祈る。
――どうか安らかに。
ただ、祈る。
それだけで時間は過ぎていった。
辺りは宵闇を招き、空は朱色に染まっていた。
振り返って紫を見る。
満足した?なんて肩を竦めているから、一回だけウンと頷いた。
去り際に折って持ってきた桜の枝を父の墓前に供えた。
それだけ済ませて、もう振り返りはしない。
帰りは下り道。山から見下ろす山はもう所々色を変え、秋の到来を二人に教えてるようだった。
少し肌寒い中、二人は歩く。
そうして山の中腹の辺りで幽々子の意識は途切れたのだった。
――***
もしも生まれ変われるのなら、何になりたい?
誰かが妄想事のように呟いたのはいつだったか。幽々子の答えは当然
「私以外」なんていうものだった。
彼女は退屈だったのだ。
屋敷の中でただ毎日同じ天井で目を覚まして、義務のように用意されたご飯を食べて、何をするわけでも無く終わる毎日がただひたすらに退屈だった。
だが周りは幽々子を幸せだという。
なるほど、確かに幸せだろう。
何もしなくても出てくる食事に、何をしていても許される空間に。何時寝てもいい寝床に。
なんて怠惰な日々。
意味のない時間。これはきっと幸せなんだ。
食べるのに困る人間が、寝る場所が毎日変わる人間が、ただ毎日を労働に追われる人間が、居ることを幽々子は知っているから。
でもそれでも。幽々子は幽々子以外の何かになりたかった。
それは例えば道端に転がる石でもいい。
誰かに蹴飛ばされても、誰かに拾われて投げられても。
自分以外の何者になりたかった。
そうしているうちに時間は流れて、幽々子は死を誘う存在となった。
今もう一度、生まれ変われるなら?なんて聞かれたらきっとこういうだろう
「何にもなりたくない」と。
彼女の思考はそれほどまでに絶望に満ちていた。
目が覚めれば、そこは見慣れた天井が広がる部屋だった。
記憶が飛んでいる。少し肌寒いが、体が萎えていて上手く動かない。
どうやら少し長い間眠りに着いていたらしい。
「あぁ、目が覚めたの」
縁側に通じる戸をあけて、紫は部屋へと入ってきた。
「面白い部屋ね。まるで安否を確認しようとしない。ご飯は私が食べておけば、次の日にはまた出てくる。貴方の口に運ばれることなくね」
「美味しかった?」
「えぇ、とても」
「それは残念なことをしたわ」
少し残しておいた、と紫は幽々子に食事をみせる。
見た瞬間幽々子のお腹はくぅと鳴って生きている事を実感した。
「はいどうぞ。あーん」
「…」
「どうしたの?」
「何でも無いわ」
萎えた体では上手く動かない。
少し屈辱に思いながらも仕方なく運ばれる食事をひな鳥のように摘んだ。
何日かぶりの食事は体の隅々に行き渡るようで、堪らなく美味しく感じた。
ふと外に目をやれば、木々はすっかり色を変え、秋の真っ盛りだ。
屋敷の向こう側、丁度父の墓の方は赤よ黄よと色鮮やかに山を染めている。
桜もまた同じで、葉を赤く染めて桜紅葉を彩ってみせている――。
はずだった。思わず二度見する。桜は満開だ。
秋の到来もこれから来る冬も、何もかも無視して、桜は花を咲かせている。
「四人――。」
紫は小さく呟いた。
もはや桜では無いそれは目を離せないほど鮮やかな魔力に包まれている。
魅惑の呪いのようなものだ。
視線をそのままに、紫の話しに耳を傾けた。
「今月に入って四人があれに導かれた」
つまり、死んだと。紫は告げた。
「それは、あの桜なの?それとも…」
「それは判らない。でも、あれはもう妖怪の一つだわ」
もうあの桜は春を告げやしないのだ。
延々と生き物の生をエサとして咲き続ける立派な妖怪と化している。
そう、栄養は生き物の生を吸って得ているのだ。
「ねぇ紫。私はどのくらい寝ていたの?」
「もう2ヶ月ほどかしら」
そっか、と零した。
確かにあの桜は生を栄養とし咲き誇っているのだろう。
だが――。
自分もまた―――。
「はは…そっか…」
乾いた笑いを浮かべた。
少なからず私もまた、誰かを導いたのだろう。
そう結論づけて幽々子はただ笑った。
壊れないように、自分を守るように。笑う―。泣く―。嗤う―。啼く―。
「紫ももう、危ないんじゃないの?」
ひとしきり涙を流しきって、声は枯れるほど笑ってから桜からようやく視線を外して紫に向き直る。
「まぁ、多少はね。でも私、そこらへんの妖怪じゃないし」
「紫なら、どう終わらせる?」
「どうでしょうね、私は幽々子じゃないから解らない」
「冷たいのね」
「えぇ、そうよ。だから貴方が決めなさい。結末がどうであろうと、私は貴方を見守るわ」
「どうして?」
「さぁどうしてかしらね。ただ放っておくのも違うと思うのよ」
「そういうものかしら」
「そういうものなのよ」
風が吹いた。
桜が哭いている。いつもより高く。いつもより大きな声で哭いている。
その様子をただ見つめた。見つめるしか出来ない自分が歯痒くて、悔しくて。それでも萎えた体を動かすことが出来ず、拳を打ち付けることも出来ないのだった。
「何にするにしても、まずは体を動かす練習をしなくてはね」
紫は優しく幽々子に言った。
――***
萎えた体を戻すには、多少時間が掛かった。
時間はゆっくり過ぎて庭先は雪で白く染まる寒い季節がやってきていた。
「ねぇ紫」
「どうしたの?雪だるまでも作る?」
「それも良いかもね」
「どうしたの?」
「私を殺してよ」
「嫌よ、そんなの」
「良いじゃない、誰にでも言うわけじゃないのよこんなの」
「誰にでも言ってたら神経疑っちゃうわ」
雪の降る庭先に幽々子は傘も差さず外に出た。
怪しく咲き誇る桜と雪と。今にも消えそうな少女と。
それはなんて美しい光景だろうか。
降る雪を手のひらで捕まえた。じわっと手のひらの上で溶けたそれを握った。
「ねぇ紫」
「嫌よ、私は」
「ケチ」
「どうしてそんな事を私にお願いするのかしら」
「自分で死んでしまうのが一番なんだろうけど、ほら私怖がりだからさ」
「だからって私なの?」
「良いじゃないちょっとグサっと刺す程度」
「何を言ってるんだか」
「えぇ本当にね」
本当にね…ともう一度だけ、幽々子は呟くのだった。
部屋に戻って幽々子は布団の中に潜り込む。
それから少しして寝息が紫の耳に聞こえてきた。
どうやら眠ってしまったらしい。
――私を殺してよ
それが幽々子の願いだと言うなら、私は何をするのが正解だろう。
気付けば紫は殺意を持って眠る少女の前に居た。
体が震えるのは多分、寒さのせいでは無い。
一瞬だ。たった一瞬。
その一瞬さえあれば跡形もなく出来る。
それで終わり。
でも違うそうじゃない。
――何が違うの?殺してって言ってたのは彼女なのに。
怖いんだ。
何が?
殺す事?
彼女がいなくなること?
確認すればいいじゃないか
今此処で。殺してしまえば全て解る。
――全て、解る
「そういう事じゃない…でしょう」
無意識に。吐き捨てるように言葉を零した。
すると――
「あれ?殺してくれるんじゃなかったの?」
ドクンと心臓を鷲掴みにされる思いだった。
見ればぱっちりと目を開けた幽々子がそこに居た。
「別に良いのに」
「気の迷いよ。忘れて頂戴」
「殺してよ」
「五月蝿いわね…」
「殺して」
「ホントに殺すわよ、少し黙って」
「うん、良いよ」
「はぁ…ねぇ。幽々子はどうして自分で死ねないの?」
「怖いから、かな」
「私も同じよ」
「え?」
「だってそうでしょう。例えば貴方が貴方以外なら、私も踏み込めたかも知れない。けど違うでしょう。貴方は幽々子で、私は八雲紫。この関係で私は貴方を殺せない。怖いわ。怖くて堪らない。貴方が死ぬのも、貴方を殺すのも。堪らなく怖い」
「ごめんね」
「謝らないでよ」
「それでも、ごめん」
幽々子は背中を向けていた紫にそっと腕を廻す。抱きつくと言うより、子供をあやす母親のように抱きしめた。
「ねぇ紫」
「何よ」
「私が死んだら何か変わるかな」
「少なくとも私の日常は変わるかもね」
幽々子の腕に力がこもった。
「これじゃ、余計に怖くなっちゃう」
「居れば良いじゃない。石ころですら存在の認められた世界で、貴方が居てはいけないなんて事は無いわ」
「じゃあ私は石ころでも良いな」
「それって面白い?」
「今とそう大差ないんじゃない?一日をボーっと過ごすわけだし」
「子供に蹴られるかも」
「それも良いわね」
幽々子は笑った。今まで紫が一緒に居た中で、一番の笑顔を浮かべて。
嬉しそうに笑うものだから、釣られて紫も笑ってみせた。
「ねぇ紫」
「なによ」
「私、貴方の事嫌いじゃないわ」
「……そう」
「むしろ好きかも」
「……もう、とっとと寝なさいよ」
「うん、おやすみ」
「おやすみ」
私もよ。なんて呟いて、紫もまた眠るのだった。
――***
目が覚めると、幽々子の姿は無かった。
だがそれもすぐに見つかる。一面の銀世界の中、足あとを真っ直ぐに桜に向かわせていた。
真っ白の世界に、真っ白の服を来て、幽々子は一人桜の前で目を閉じていた。
それだけで、紫は全て悟ってしまった。
言葉を失ってしまう。
振り返る幽々子がスローモーションに見えて、生々しくて。
振り返って欲しくて。
振り返って欲しくなくて。
幽々子と紫の目が合う。
「ねぇ紫」
「何よ、そんな似合わない格好して」
「もしさ、私が道端の石だったら、貴方は拾い上げてくれたりするかしら?」
「…どうかしらね」
「嘘でも気の利いた言葉は無いのかしら」
「蹴り飛ばしてやろうか、迷っちゃってね」
「そっか、それは怖いなぁ」
永遠とも一瞬とも取れる沈黙が、二人の間を過ぎる。
紫は言葉が出なかった。幽々子はただ笑って、震えてるだけだった。
震えてるのはきっと、寒さのせいじゃないだろう。
――ほとけには 桜の花を たてまつれ
我が後の世を 人とぶらはば――
「なぁに、歌なんて洒落た物読んじゃって」
幽々子はただ笑っていた。
儚げに笑う少女と雪と、満開の桜がとても美しくて。
――そうして幽々子は忍ばせていた懐刀を己の体に突き立てた。
彼女が余りに自然に。余りにスムーズに行うものだから。
思わず見とれて、紫は何も出来ずに立っていた。
数瞬遅れて、紫は幽々子のもとに駆け寄る。
寒い日の事だ。積もった雪の上に幽々子は力無く倒れた。
「ねぇ…紫…」
――赤く
「何よ、バカ」
――赤く
「桜を…宜しくね…」
――雪を染めて
「そうやってお願いばっかりして」
――赤く
「ごめん…私…少しワガママだったみたい」
――赤く
「良いわよもう。貴方のそういう所が嫌いじゃなかったから」
――広がる
「…そっか…」
――赤く
「むしろ好きかも」
――雪を染めて
「…それは嬉しいなぁ…」
――私もよなんて呟いてから、幽々子はまた眠るのだ。
彼女は笑って、眠るのだ。
優しい風が吹いた。
今なら何も聞こえないように、桜は高く大きくざわめいて。
ざわめきの中、ただ幽々子の胸に顔を押し付けて、紫は声をあげた。
――***
抱き上げると、驚くほど幽々子の体は軽かった。
その軽さに、戸惑いを覚えながらも紫は約束を果たすべく桜と向き合う。
「ねぇ桜さん」
「貴方の下に、この子を埋めるわ」
「それと同時に、封印を施す」
「貴方も、この子も、もう苦しまないように」
「転生はできなくなるでしょうね」
「でも、この力はきっと、不幸しか招けないから」
「大丈夫よ、生前の記憶は多分無いわ」
「この子は生まれ変わる。そのための封印だから」
「私?…悲しいのかな。うん、多分悲しいけど」
「大丈夫よ、私と幽々子と言う事は変わり無いから」
「うん、私は大丈夫だから――」
「サヨナラね、桜さん」
「サヨナラ、幽々子――」
――***
「紫様、どうしました?」
白玉楼の縁側で、紫は一人ボーッと桜を見つめていた。
ボーッとしているだけなら普段から気にも止めないのだが、余りに生気を感じられず、よもや亡霊にでもなってしまうんじゃないかと勘違いしてしまうほどだった為、思わず妖夢が声をかけたのだった。
「ん、ちょっと昔のことを思い出してね」
「そうですか、それはお邪魔しましたね」
「気にしないで良いわ」
それでは、と妖夢は屋敷の奥へ消えてった。
「あら?紫じゃない、来てたのなら呼んでくれればお茶くらい付き合ったわよ」
入れ替わりにフワフワと浮いた幽々子がやってくる。
「ねぇ紫」
「なぁに?」
「一体どうしたっていうのよ、ボーッとしちゃって」
「…ちょっとね」
「なぁに?感傷に浸っちゃって。面白くないわねぇ?一体何があったの」
「私だって、昔を思い出す事くらいあるわ」
「嫌だわ~、昔話を始めると老けるわよ」
「良いじゃないたまには」
「あ、そっか。もう何千年も生きてるし、立派なお婆ちゃんねぇ」
「ちょっと表に出なさい」
「怒らないでよ~、冗談、冗談よ。あ、妖夢ー、私の分のお茶もよろしく」
待ちなさいと追いかける紫と、逃げる幽々子。
桜を前にして二人は騒がしくしていた。
封印をしたことで幽々子はもはや転生をすることも無い亡霊となった。
その事に紫は正しかったのかと時折思う事もある。
でも、それでも。
――優しい風が吹いた。