※幻想郷にネイルアートが来た、という設定です
それはなんて、お手軽な魔法!
一抱えもある大きな籠がどすん! と勢いよく机に載せられたので、私は思わず飛び上がってしまうところだった。おやつに、と差し出された白いふるふるのブランマンジェをチョコレートソースとぐちゃぐちゃに掻き混ぜて、そのスプーンを咥えたまま、その籠に掛けられている水玉柄の大きな布をアリスが軽く鼻歌を歌いながらとても嬉しそうに外していくのをじとっと眺める。
ブラマンジェの味は上々、チョコレートの味と相まってくちのなかでとろりとろけたのも十分だったけれど、何やら得体の知れないものが目の前で広げられて行くのはなかなか不気味なものである。こんなに嬉しそうなアリスを見るのも久しぶりだった。問い詰めるのも何か違うな―と、上に乗っていたミントの葉をひと舐めして顔を顰める。
ひとり芝居を繰り返していると、籠を開ける手を止めたアリスと目があった。にこーっと微笑まれる。おう、と身体がのけぞる。
「魔理沙、手出して頂戴」「……嫌だね」「……何でよ」
ぷい、とアリスから目を背ける。絶対こいつは何か画策しているのに違いないし、それがロクな物であるという予感は、全くしない。
「ちょっとね、爪を弄らせて欲しいだけなの」
こんなににこにこしているとき、これまであったか?
まさかこのブランマンジェに毒でも入っていたのか、と慌ててスプーンを口から出して皿の上に置いた。どうにかする気じゃないだろうな。
「何だ、新しい拷問の一種?」
私が思いっきり顰めっつらをしてアリスの方にいーっとしてやると、アリスは違うってば、と溜め息を吐いて私の隣に腰掛けた。
それから手を差し出してくるので、何事だとその手を見る。
「今ね、流行っているの。ネイルアート」
聞き慣れない単語だったけれど、すぐに意味は解った。と同時に、目が離せなくなった。うお、と思わず声をあげてそのままじ、と手を見つめる。色が白くてすっと伸びたアリスの爪は一本ずつ丁寧に彩られている。落ちついた臙脂色で塗られており、薬指にだけ、きらきらとした粉のようなものが掛かっていて、藍色のリボンが掛けられている。思わず指先でつついてみると、何かが固く盛り上がっておりリボンのかたちが作られているようだった。爪のなかで収まるちっちゃなちっちゃなリボンの裾は、くるんと翻っている。
「……可愛い」
言葉が口から零れてしまった。他の爪も触るとつるつるしている。午後三時、おだやかな陽の光に照らされてぴかぴかと輝いていた。全部の爪が宝石に変わってしまったかのように、可愛らしい。
「でしょう! 可愛いでしょう、魔理沙にもやってあげる」
アリスが私の手を取ろうとするので、慌てて引っ込めて後ろに回す。
「や、やだよ! 私は見てるだけで十分だから!」
アリスの指は長く、爪の長さもほどほどにあって綺麗に整えられているからこそあのネイルアートとやらが似合うのだ。引っ込めた指をちらりと見やれば、私の指は残念ながらあまり長いとはお世辞にも言えないし、爪だってあまり長くない。丸くて小さい爪だ。これまで不自由を感じたことはなかったが、その爪にきらきらと色を施したって可愛くはならない。やりたがるアリスの気持ちが解らない。
もう、とアリスは小さく溜め息を吐いた。そのまま無言で、先程の籠の中身を取り出した。掌に乗ってしまう、黒いすべすべした蓋のついた小壜には色のついた液体が入っているようだ。まず取り出したのは、明るい緑色。若草を摘み取って来て、そのまま液体に換えてしまったような色。それを私に見せてから、次に取り出したのは濃い緑色。南瓜の皮みたいに深い色。同じ緑でも、全然違う。
よくぞまあそんなに集めたものだ、というくらいに籠からは様々な色の小瓶がやまと出て来て、目の前にとんとんとん、と置かれていく。赤、青、黄色、きらきらした粉の入ったものもある。
「魔理沙にはこの色が似合うわよ、星の色だわ」
とん、と出されたのはとろりとした黄色の小瓶。目がちかちかしない程度に明るい黄色。これが、と思わず手を後ろから前にやってじみて見るけれど、じっくりと眺めたって私の爪が綺麗に変わることはない。長さだって短いし、かたちだって不格好だ。
すると、すぐにまた手を取られた。あ、と言おうと思ったがもう遅い。アリスのひんやりとした指に手を取られてしまう。
「見せるひともいないのにさ……」
と抵抗してみるけれども、アリスは既に籠から道具をあれこれ取り出しいて聞いているのかいないのか解らない。平たい板みたいなものを取り出すと、爪に斜めになるように当てるとす、と引いていく。
「紙やすりでかたちを整えているのよ」
何をしているのか良く解らないけれど、とりあえずされるに任せる。すこしずつ爪がけずれて行っているのは辛うじて解る。
そもそも、こんなオンナノコらしいことは私には無縁で良いのに。けれどもすこし心が浮足立っていることも確かだった。私の爪を整えながら、ちらちらと目に入るアリスの爪はやっぱり綺麗だ。
次は、爪の表面をなにやら磨かれている、らしい。器具が私の爪の上をいったりきたりする。段々と手が疲れてくるけれど、無心にしているアリスの姿を見ていると文句も出ない。開け放たれた窓から、弥生の柔らかな春風が、私の頬を撫でてさらりと去っていく。
さらにボウルのようなものにお湯を張られてそのなかに手を入れて! と言われたり、金属の器具で爪の付け根を押されたり、良い匂いのする液体を塗られたり、ありとあらゆることをされる。けれど、ひとつの工程を経るたびに、爪は各段に綺麗になっていった。ちいさいけれども先はつるりと丸みを帯びて、すこし大きく見えるようになった気もするし、そのうえでぴかぴかと爪が磨かれている。
「はい、いったんお終い」
アリスがぱちん、と器具を布張りの箱に仕舞った。目の前に手を翳して見れば、ちょっとの時間であっという間に綺麗になっている。
「おお……!」
手を開いて、閉じて、それからまた開いて。ぴっかぴかの爪を見る。
これまで爪なんて、割れたり引っ掛かったりしなければ良いと思ってしかいなかった。自分の指を、何だか好きになれそうだ。
「はい、じゃあ次は色塗りますよー」
先程の黄色い小壜の蓋を、アリスの指先がくるくると外していく。漆黒ですべやかな蓋の先にはこれまたちいさな刷毛が点いていて、黄色の絵の具のようなものが、つうと垂れ落ちている。
また手を取られて、まずは爪の先の方、それから付け根から先に向かって、ひんやりとした液体が塗られてゆく。一度塗られると、アリスが私の手を持ちあげてふう、と爪先に息を吹きかけた。柔らかな息が手の甲までこそばゆい。それから、もう一度、とまたも同じように色を重ねられてゆく。星をまとめてぎゅうっとしてとろけさせたような黄色。とろん、と爪に鮮やかな色がついてゆく。
「出来た。絶対に! 絶対に! 指そのままでね!」
「わ、解ったよう……」
嘗てないいきおいでアリスに怒られて、ただそのまま爪を眺める。黄色にぴかぴかと輝く十本の爪。やっぱり、宝石みたいに見える。
「別の手に変わっちゃったみたいだ……」
思わず呟くと、ふ、と噴きだされる。アリスはまたなにやら新しい器具の用意をしながら
「それじゃあ怖いじゃない、なんだか」
と言ったので、それもそうだとただただ爪を眺める。
「最後に、星をつけてあげるわ。魔理沙は、流れ星だから」
先程までの黄色の瓶よりひとまわり小さい、透明できらきら光っている瓶の刷毛で薬指にするりと塗れば、あっという間にまたさらに輝きだした。さらに、親指と人差し指で作った輪っかくらいの大きさをした器から、銀色の針のようなものでそうっとアリスが星を掬いあげる。その器には確かに星がたくさん入っていた。桃や黄や水色をした、ちいさなちいさな星が瞬いている。そのなかから、漆黒の星が、そうっと私の薬指の上で瞬き始める。その横に、もう一回りちいさな星。あっという間に私の薬指は、星空になってしまった。
「取れないように上からもう一段階塗ったら、お終い」
透明のものを上に塗られた。また、アリスにふう、と息を吹きかけられる。その間も、私はひたすらに自分の爪をじっと見つめた。
林檎をオーヴンに入れて開けたら、アップルパイになっていたような。猫を籠に入れて開けたら、ライオンになっていたような。これまですこしだって想像していなかったことが私の爪に起きていた。黄色の艶々とした爪の上には星がきらきら瞬いている。
「魔理沙の爪は小さいから、濃い色を塗っても可愛いの」
「ありがとうアリスー!」
思わずそのまま飛びつきそうになるけれど、すぐに制止される。
「うっかりどこかにぶつけたら、すぐによれちゃうから!」
「わ、わかった!」
顔の横で手をぱっと開いて、緊張の面持ちでアリスを見詰める。けれどもすぐにその視線は、視界の隅に捉えられている黄色に目がいく。ともあれば、見てしまう。つるつるした爪。別のものみたい。
「魔法みたいだな……」
魔女が、魔法みたいだなんて言うのは変だけれど、ほかに表現のしようがなかった。あっという間に、変わってしまったのだから。
「そうよ、だって私は魔法使いだもの」
アリスが指でくるん、と空中に円を描いて見せた。魔女と魔法使いで、魔法がどうこうなんて変だーと言いながらも、どうしても目の前に起きたことが信じられないままにまたも爪を見る。きらきら。
「暫くすると禿げてきちゃうから、そしたらまた来てね」
衝撃的な言葉に、慌てて爪から視線を外す。こともなさげにアリスはさきほどの籠のなかに器具たちをふたたび仕舞っている。
「禿げちゃうの……?」「そりゃそうよ」
言われてみればそうなのだが。こんなにも可愛い爪がすぐに元に戻ってしまうなんて。椅子に座って、何とか目に焼き付けておこうと何度も何度も十本の爪を見る。すると、アリスはにっこり笑って
「そしたら次はまた違うのしてあげるし」
と私の指を撫でた。臙脂色に彩られた指先が、私の手の甲を這う。
***
「おーい、こーりん!」
香霖堂は、いつも通り人気がなくてしんと静まり返っていた。なるべく傷つけないように箒もそうっと握って、すぐに飛んできた。
箒片手に店内に入る。春だというのに、どこかじとっとした室内に店主の姿は見当たらない。大抵ここで本を読んでいるというのに。
土間から一段あがったところに腰掛けて、足をぶらぶらさせていると奥から足音が聞こえる。どうやら奥のほうにいるらしい。
「こーりーん!」
奥に向かって声を張り上げると、こうやく彼が姿を現した。といっても、はじめは脚しか見えなかった。その僅かに見える脚すら時折ふらつくのが怪しい。両手いっぱいになにやら巨大な木の箱を抱えている。おかげで、彼の目の前は全てが箱で塞がれている。
持とうか、と言いかけてアリスの言葉が頭の中で再生された。よれちゃう、ってどうなるのか予想はつかないけれどともかくこの爪が崩れてしまうことだけは解っている。
「ああ、魔理沙。悪い、珍しく忙しいんだ。また後で」
土間に脱ぎ捨ててあった草履をひっかけて、霖之助は慌ただしく家を出て行った。あとにはまた、湿気た黴臭い室内にぽつねんとひとり残される。また、膝のうえで手を開いた。ぱ、と花のように黄色が点々と黒いワンピースの上に広がる。それから、手を握ってひっくり返す。いつまで、この爪はもつのだろう。誰かに見せたくてここまでやって来たのに、見せたかった当人は見てくれない。
見せたら、可愛いと言ってくれただろうか。驚いてくれただろうか。握って、開いて、を繰り返すけれど想像は想像でしかない。ほかに見せる相手なんていなかったし。それだけで十分なのに。
「……っ、あー! もう!」
ぴょんと飛びおりて、うわーっと壁に向かって叫んだ。
爪のことひとつがなんだ。元々私にはこんな可愛らしいことなんて向いていなかったんだ。たったこのちっぽけなささやかなことだけで、気分が左右されてしまうなんて勿体ないし馬鹿らしい。
「ばかー! こーりんのばーか!」
いないひとに向かってべえ、と舌を出してやった。何故あいつに見せてやろうなどと思ったのか解らない。ふん、と箒をひっつかんでまたも跨る。気分が乗らないからすこしだけ、低空飛行。
春がそこまで訪れている。気付けば夕方になっていて、紫色を空にどおっと流して、そのうえにちらちらと桃の花をのせたようにも見える。生温い風が前から後ろから、髪をばらばらと散らしていく。
自分の髪が頬を穿つ。ええい、どうにでもなれだ。目の前にあった森に、勢いよく突っこんで降りたってみた。
どす、と靴で地面を踏めば土の臭いがむうんと広がる。背の高い木が鬱蒼と茂り、さきほどまでの光景はなりを潜めていた。
「不気味―」
特に意味もなく土を蹴ってみれば、寝起きのようなみみずが這い出てくる。全く知らないところに来ちゃったなあ、と一歩前へ出ると
「ちょっと! ちょっと!」
かん高く、耳触りな声が聞こえて思わず背後を睨みつけた。するとその人影は若干それにたじろいたが、ふん! とこちらをにらみ返してくる。面識はないが、どうやら妖精のようだ。羽がちらちらしている。
「この森を不気味だなんて!」「……弾幕勝負、する?」
ぶっちゃけ、今はなにか気分を紛らわすものが欲しかった。
このむしゃくしゃして何かを放り投げたい気持ちの根源がなんなのか解らない。解らないから、取り除くことも出来ない。そんな自分自身に嫌気がさして、ついでにさっきまでの浮かれていた気分もあいまってぐしゃぐしゃで、めちゃくちゃだ。
***
圧勝。相変わらず、勝利のあとは気持ちが良い。
ふう、とちいさく溜め息をついて再び箒を手に取った。今日はついていない日なのかもしれない。好い加減帰ろう、とふと手を見る。
「……ない」
ぱ、と目に入ったのは左手の薬指。さっきまできらきらと輝いていたはずの星がひとつだけない。しかも落ちてしまったところは黄色もきらきらも禿げてしまって見るも無残だ。慌てて手を引き寄せて爪を十本、じっくりと眺める。左手の星が剥がれているうえに、右手の親指にはすっと傷が入って自分の爪が見えてしまっていた。
「嘘だろ……」
こんなにすぐに崩れてしまうなんて知らなかった。どうにでもなれ、と思っていたのに。からだの奥からじわじわとなにか熱いものがこみ上げてきて、こぼれそうなのを抑える。薄暗いから見間違えただけかも、と目のすぐちかくまで指を持ってきて一本ずつ見るけれど、たしかに星はどこかにいってしまっていた。この森のなか、あのちっちゃな星を探索するなんてどうしたって無理だ。見つけても、くっつける術を知らない。あんなに可愛かったのに。すこし傷が入るだけで、あっという間にこんなにも悲しい姿になってしまうなんて。
勝ったのにこんな気分になるなんて。すぐに箒に跨って飛び立つ。あたりはすっかり真っ暗になっていて、本物の星たちが瞬いていた。あのひとつの輝きでも。この爪にもう一度乗っかってくれればいいのに。けれども叶わない。ぽろぽろと涙がこぼれてしまう。
気付けば、再び香霖堂のまえに降り立っていた。真っ暗ななかに、屋内からは明かりが洩れていてひとがいることは確認出来る。
もちろん、綺麗なときの爪を見て欲しかった。ただつけただけで、こんなにも気持ちがふわふわになるなんてこれまでなくって、嬉しくって仕方なかった。けれど、今も誰かに知って欲しい。
がらりと勢いよく扉を開く。すると、なかには明かりのもとで本を開く男が目を見開いて、眼鏡をあげるとにこっと笑った。
「ああ、魔理沙。さっきは御免、珍しくね……」「爪が!」
箒を放り出して、駆け寄る。一旦落ちついた筈の涙がまたもぼろぼろと零れ出して、止まれ止まれと何度も自分に念じるのに止まらない。頬を次々滑り落ちて、差し出した手の甲の上にぽたぽた垂れる。
「どうしたの? 怪我でもしたの? ……これは」
「折角アリスにしてもらったのに……!」
何に泣いているのだろう。解らなくて、でもまだ泣き続けた。部屋の隅に置かれている火がごうごうと鳴り、春の寒夜と涙に冷えた頬を温める。すると、手を取られた。アリスの手とは違う、節のある大きな手。私の手を、一掬いしてしまうほどの手。
「可愛いね」「可愛かったの……!」
よしよし、と頭を撫でられた。その言葉をもっともっと早く聞きたかった。ちゃんと六つのお星様がちかちか、輝いているときに。
それでも嬉しくて、ふへ、と泣きながら笑っていると手ぬぐいで雑に顔を拭かれた。涙も鼻水もいっしょくたになって拭われる。
「今流行ってるんだってね、これ。なんだっけ」
霖之助が首を傾げるので、私はにっこりと笑った。
「ネイルアート!」
~period.
それはなんて、お手軽な魔法!
一抱えもある大きな籠がどすん! と勢いよく机に載せられたので、私は思わず飛び上がってしまうところだった。おやつに、と差し出された白いふるふるのブランマンジェをチョコレートソースとぐちゃぐちゃに掻き混ぜて、そのスプーンを咥えたまま、その籠に掛けられている水玉柄の大きな布をアリスが軽く鼻歌を歌いながらとても嬉しそうに外していくのをじとっと眺める。
ブラマンジェの味は上々、チョコレートの味と相まってくちのなかでとろりとろけたのも十分だったけれど、何やら得体の知れないものが目の前で広げられて行くのはなかなか不気味なものである。こんなに嬉しそうなアリスを見るのも久しぶりだった。問い詰めるのも何か違うな―と、上に乗っていたミントの葉をひと舐めして顔を顰める。
ひとり芝居を繰り返していると、籠を開ける手を止めたアリスと目があった。にこーっと微笑まれる。おう、と身体がのけぞる。
「魔理沙、手出して頂戴」「……嫌だね」「……何でよ」
ぷい、とアリスから目を背ける。絶対こいつは何か画策しているのに違いないし、それがロクな物であるという予感は、全くしない。
「ちょっとね、爪を弄らせて欲しいだけなの」
こんなににこにこしているとき、これまであったか?
まさかこのブランマンジェに毒でも入っていたのか、と慌ててスプーンを口から出して皿の上に置いた。どうにかする気じゃないだろうな。
「何だ、新しい拷問の一種?」
私が思いっきり顰めっつらをしてアリスの方にいーっとしてやると、アリスは違うってば、と溜め息を吐いて私の隣に腰掛けた。
それから手を差し出してくるので、何事だとその手を見る。
「今ね、流行っているの。ネイルアート」
聞き慣れない単語だったけれど、すぐに意味は解った。と同時に、目が離せなくなった。うお、と思わず声をあげてそのままじ、と手を見つめる。色が白くてすっと伸びたアリスの爪は一本ずつ丁寧に彩られている。落ちついた臙脂色で塗られており、薬指にだけ、きらきらとした粉のようなものが掛かっていて、藍色のリボンが掛けられている。思わず指先でつついてみると、何かが固く盛り上がっておりリボンのかたちが作られているようだった。爪のなかで収まるちっちゃなちっちゃなリボンの裾は、くるんと翻っている。
「……可愛い」
言葉が口から零れてしまった。他の爪も触るとつるつるしている。午後三時、おだやかな陽の光に照らされてぴかぴかと輝いていた。全部の爪が宝石に変わってしまったかのように、可愛らしい。
「でしょう! 可愛いでしょう、魔理沙にもやってあげる」
アリスが私の手を取ろうとするので、慌てて引っ込めて後ろに回す。
「や、やだよ! 私は見てるだけで十分だから!」
アリスの指は長く、爪の長さもほどほどにあって綺麗に整えられているからこそあのネイルアートとやらが似合うのだ。引っ込めた指をちらりと見やれば、私の指は残念ながらあまり長いとはお世辞にも言えないし、爪だってあまり長くない。丸くて小さい爪だ。これまで不自由を感じたことはなかったが、その爪にきらきらと色を施したって可愛くはならない。やりたがるアリスの気持ちが解らない。
もう、とアリスは小さく溜め息を吐いた。そのまま無言で、先程の籠の中身を取り出した。掌に乗ってしまう、黒いすべすべした蓋のついた小壜には色のついた液体が入っているようだ。まず取り出したのは、明るい緑色。若草を摘み取って来て、そのまま液体に換えてしまったような色。それを私に見せてから、次に取り出したのは濃い緑色。南瓜の皮みたいに深い色。同じ緑でも、全然違う。
よくぞまあそんなに集めたものだ、というくらいに籠からは様々な色の小瓶がやまと出て来て、目の前にとんとんとん、と置かれていく。赤、青、黄色、きらきらした粉の入ったものもある。
「魔理沙にはこの色が似合うわよ、星の色だわ」
とん、と出されたのはとろりとした黄色の小瓶。目がちかちかしない程度に明るい黄色。これが、と思わず手を後ろから前にやってじみて見るけれど、じっくりと眺めたって私の爪が綺麗に変わることはない。長さだって短いし、かたちだって不格好だ。
すると、すぐにまた手を取られた。あ、と言おうと思ったがもう遅い。アリスのひんやりとした指に手を取られてしまう。
「見せるひともいないのにさ……」
と抵抗してみるけれども、アリスは既に籠から道具をあれこれ取り出しいて聞いているのかいないのか解らない。平たい板みたいなものを取り出すと、爪に斜めになるように当てるとす、と引いていく。
「紙やすりでかたちを整えているのよ」
何をしているのか良く解らないけれど、とりあえずされるに任せる。すこしずつ爪がけずれて行っているのは辛うじて解る。
そもそも、こんなオンナノコらしいことは私には無縁で良いのに。けれどもすこし心が浮足立っていることも確かだった。私の爪を整えながら、ちらちらと目に入るアリスの爪はやっぱり綺麗だ。
次は、爪の表面をなにやら磨かれている、らしい。器具が私の爪の上をいったりきたりする。段々と手が疲れてくるけれど、無心にしているアリスの姿を見ていると文句も出ない。開け放たれた窓から、弥生の柔らかな春風が、私の頬を撫でてさらりと去っていく。
さらにボウルのようなものにお湯を張られてそのなかに手を入れて! と言われたり、金属の器具で爪の付け根を押されたり、良い匂いのする液体を塗られたり、ありとあらゆることをされる。けれど、ひとつの工程を経るたびに、爪は各段に綺麗になっていった。ちいさいけれども先はつるりと丸みを帯びて、すこし大きく見えるようになった気もするし、そのうえでぴかぴかと爪が磨かれている。
「はい、いったんお終い」
アリスがぱちん、と器具を布張りの箱に仕舞った。目の前に手を翳して見れば、ちょっとの時間であっという間に綺麗になっている。
「おお……!」
手を開いて、閉じて、それからまた開いて。ぴっかぴかの爪を見る。
これまで爪なんて、割れたり引っ掛かったりしなければ良いと思ってしかいなかった。自分の指を、何だか好きになれそうだ。
「はい、じゃあ次は色塗りますよー」
先程の黄色い小壜の蓋を、アリスの指先がくるくると外していく。漆黒ですべやかな蓋の先にはこれまたちいさな刷毛が点いていて、黄色の絵の具のようなものが、つうと垂れ落ちている。
また手を取られて、まずは爪の先の方、それから付け根から先に向かって、ひんやりとした液体が塗られてゆく。一度塗られると、アリスが私の手を持ちあげてふう、と爪先に息を吹きかけた。柔らかな息が手の甲までこそばゆい。それから、もう一度、とまたも同じように色を重ねられてゆく。星をまとめてぎゅうっとしてとろけさせたような黄色。とろん、と爪に鮮やかな色がついてゆく。
「出来た。絶対に! 絶対に! 指そのままでね!」
「わ、解ったよう……」
嘗てないいきおいでアリスに怒られて、ただそのまま爪を眺める。黄色にぴかぴかと輝く十本の爪。やっぱり、宝石みたいに見える。
「別の手に変わっちゃったみたいだ……」
思わず呟くと、ふ、と噴きだされる。アリスはまたなにやら新しい器具の用意をしながら
「それじゃあ怖いじゃない、なんだか」
と言ったので、それもそうだとただただ爪を眺める。
「最後に、星をつけてあげるわ。魔理沙は、流れ星だから」
先程までの黄色の瓶よりひとまわり小さい、透明できらきら光っている瓶の刷毛で薬指にするりと塗れば、あっという間にまたさらに輝きだした。さらに、親指と人差し指で作った輪っかくらいの大きさをした器から、銀色の針のようなものでそうっとアリスが星を掬いあげる。その器には確かに星がたくさん入っていた。桃や黄や水色をした、ちいさなちいさな星が瞬いている。そのなかから、漆黒の星が、そうっと私の薬指の上で瞬き始める。その横に、もう一回りちいさな星。あっという間に私の薬指は、星空になってしまった。
「取れないように上からもう一段階塗ったら、お終い」
透明のものを上に塗られた。また、アリスにふう、と息を吹きかけられる。その間も、私はひたすらに自分の爪をじっと見つめた。
林檎をオーヴンに入れて開けたら、アップルパイになっていたような。猫を籠に入れて開けたら、ライオンになっていたような。これまですこしだって想像していなかったことが私の爪に起きていた。黄色の艶々とした爪の上には星がきらきら瞬いている。
「魔理沙の爪は小さいから、濃い色を塗っても可愛いの」
「ありがとうアリスー!」
思わずそのまま飛びつきそうになるけれど、すぐに制止される。
「うっかりどこかにぶつけたら、すぐによれちゃうから!」
「わ、わかった!」
顔の横で手をぱっと開いて、緊張の面持ちでアリスを見詰める。けれどもすぐにその視線は、視界の隅に捉えられている黄色に目がいく。ともあれば、見てしまう。つるつるした爪。別のものみたい。
「魔法みたいだな……」
魔女が、魔法みたいだなんて言うのは変だけれど、ほかに表現のしようがなかった。あっという間に、変わってしまったのだから。
「そうよ、だって私は魔法使いだもの」
アリスが指でくるん、と空中に円を描いて見せた。魔女と魔法使いで、魔法がどうこうなんて変だーと言いながらも、どうしても目の前に起きたことが信じられないままにまたも爪を見る。きらきら。
「暫くすると禿げてきちゃうから、そしたらまた来てね」
衝撃的な言葉に、慌てて爪から視線を外す。こともなさげにアリスはさきほどの籠のなかに器具たちをふたたび仕舞っている。
「禿げちゃうの……?」「そりゃそうよ」
言われてみればそうなのだが。こんなにも可愛い爪がすぐに元に戻ってしまうなんて。椅子に座って、何とか目に焼き付けておこうと何度も何度も十本の爪を見る。すると、アリスはにっこり笑って
「そしたら次はまた違うのしてあげるし」
と私の指を撫でた。臙脂色に彩られた指先が、私の手の甲を這う。
***
「おーい、こーりん!」
香霖堂は、いつも通り人気がなくてしんと静まり返っていた。なるべく傷つけないように箒もそうっと握って、すぐに飛んできた。
箒片手に店内に入る。春だというのに、どこかじとっとした室内に店主の姿は見当たらない。大抵ここで本を読んでいるというのに。
土間から一段あがったところに腰掛けて、足をぶらぶらさせていると奥から足音が聞こえる。どうやら奥のほうにいるらしい。
「こーりーん!」
奥に向かって声を張り上げると、こうやく彼が姿を現した。といっても、はじめは脚しか見えなかった。その僅かに見える脚すら時折ふらつくのが怪しい。両手いっぱいになにやら巨大な木の箱を抱えている。おかげで、彼の目の前は全てが箱で塞がれている。
持とうか、と言いかけてアリスの言葉が頭の中で再生された。よれちゃう、ってどうなるのか予想はつかないけれどともかくこの爪が崩れてしまうことだけは解っている。
「ああ、魔理沙。悪い、珍しく忙しいんだ。また後で」
土間に脱ぎ捨ててあった草履をひっかけて、霖之助は慌ただしく家を出て行った。あとにはまた、湿気た黴臭い室内にぽつねんとひとり残される。また、膝のうえで手を開いた。ぱ、と花のように黄色が点々と黒いワンピースの上に広がる。それから、手を握ってひっくり返す。いつまで、この爪はもつのだろう。誰かに見せたくてここまでやって来たのに、見せたかった当人は見てくれない。
見せたら、可愛いと言ってくれただろうか。驚いてくれただろうか。握って、開いて、を繰り返すけれど想像は想像でしかない。ほかに見せる相手なんていなかったし。それだけで十分なのに。
「……っ、あー! もう!」
ぴょんと飛びおりて、うわーっと壁に向かって叫んだ。
爪のことひとつがなんだ。元々私にはこんな可愛らしいことなんて向いていなかったんだ。たったこのちっぽけなささやかなことだけで、気分が左右されてしまうなんて勿体ないし馬鹿らしい。
「ばかー! こーりんのばーか!」
いないひとに向かってべえ、と舌を出してやった。何故あいつに見せてやろうなどと思ったのか解らない。ふん、と箒をひっつかんでまたも跨る。気分が乗らないからすこしだけ、低空飛行。
春がそこまで訪れている。気付けば夕方になっていて、紫色を空にどおっと流して、そのうえにちらちらと桃の花をのせたようにも見える。生温い風が前から後ろから、髪をばらばらと散らしていく。
自分の髪が頬を穿つ。ええい、どうにでもなれだ。目の前にあった森に、勢いよく突っこんで降りたってみた。
どす、と靴で地面を踏めば土の臭いがむうんと広がる。背の高い木が鬱蒼と茂り、さきほどまでの光景はなりを潜めていた。
「不気味―」
特に意味もなく土を蹴ってみれば、寝起きのようなみみずが這い出てくる。全く知らないところに来ちゃったなあ、と一歩前へ出ると
「ちょっと! ちょっと!」
かん高く、耳触りな声が聞こえて思わず背後を睨みつけた。するとその人影は若干それにたじろいたが、ふん! とこちらをにらみ返してくる。面識はないが、どうやら妖精のようだ。羽がちらちらしている。
「この森を不気味だなんて!」「……弾幕勝負、する?」
ぶっちゃけ、今はなにか気分を紛らわすものが欲しかった。
このむしゃくしゃして何かを放り投げたい気持ちの根源がなんなのか解らない。解らないから、取り除くことも出来ない。そんな自分自身に嫌気がさして、ついでにさっきまでの浮かれていた気分もあいまってぐしゃぐしゃで、めちゃくちゃだ。
***
圧勝。相変わらず、勝利のあとは気持ちが良い。
ふう、とちいさく溜め息をついて再び箒を手に取った。今日はついていない日なのかもしれない。好い加減帰ろう、とふと手を見る。
「……ない」
ぱ、と目に入ったのは左手の薬指。さっきまできらきらと輝いていたはずの星がひとつだけない。しかも落ちてしまったところは黄色もきらきらも禿げてしまって見るも無残だ。慌てて手を引き寄せて爪を十本、じっくりと眺める。左手の星が剥がれているうえに、右手の親指にはすっと傷が入って自分の爪が見えてしまっていた。
「嘘だろ……」
こんなにすぐに崩れてしまうなんて知らなかった。どうにでもなれ、と思っていたのに。からだの奥からじわじわとなにか熱いものがこみ上げてきて、こぼれそうなのを抑える。薄暗いから見間違えただけかも、と目のすぐちかくまで指を持ってきて一本ずつ見るけれど、たしかに星はどこかにいってしまっていた。この森のなか、あのちっちゃな星を探索するなんてどうしたって無理だ。見つけても、くっつける術を知らない。あんなに可愛かったのに。すこし傷が入るだけで、あっという間にこんなにも悲しい姿になってしまうなんて。
勝ったのにこんな気分になるなんて。すぐに箒に跨って飛び立つ。あたりはすっかり真っ暗になっていて、本物の星たちが瞬いていた。あのひとつの輝きでも。この爪にもう一度乗っかってくれればいいのに。けれども叶わない。ぽろぽろと涙がこぼれてしまう。
気付けば、再び香霖堂のまえに降り立っていた。真っ暗ななかに、屋内からは明かりが洩れていてひとがいることは確認出来る。
もちろん、綺麗なときの爪を見て欲しかった。ただつけただけで、こんなにも気持ちがふわふわになるなんてこれまでなくって、嬉しくって仕方なかった。けれど、今も誰かに知って欲しい。
がらりと勢いよく扉を開く。すると、なかには明かりのもとで本を開く男が目を見開いて、眼鏡をあげるとにこっと笑った。
「ああ、魔理沙。さっきは御免、珍しくね……」「爪が!」
箒を放り出して、駆け寄る。一旦落ちついた筈の涙がまたもぼろぼろと零れ出して、止まれ止まれと何度も自分に念じるのに止まらない。頬を次々滑り落ちて、差し出した手の甲の上にぽたぽた垂れる。
「どうしたの? 怪我でもしたの? ……これは」
「折角アリスにしてもらったのに……!」
何に泣いているのだろう。解らなくて、でもまだ泣き続けた。部屋の隅に置かれている火がごうごうと鳴り、春の寒夜と涙に冷えた頬を温める。すると、手を取られた。アリスの手とは違う、節のある大きな手。私の手を、一掬いしてしまうほどの手。
「可愛いね」「可愛かったの……!」
よしよし、と頭を撫でられた。その言葉をもっともっと早く聞きたかった。ちゃんと六つのお星様がちかちか、輝いているときに。
それでも嬉しくて、ふへ、と泣きながら笑っていると手ぬぐいで雑に顔を拭かれた。涙も鼻水もいっしょくたになって拭われる。
「今流行ってるんだってね、これ。なんだっけ」
霖之助が首を傾げるので、私はにっこりと笑った。
「ネイルアート!」
~period.
もうちょっと最後辺りをしっかり書いて欲しかったです。
ただ香霖堂に訪れるシーン辺りからの展開が急過ぎると思います。もう少し綿密に描写して、香霖に対する魔理沙の感情だとか、弾幕勝負でネイルを剥がしてしまった落ち込み具合だとか、落ちに対する伏線だとかを表現して欲しいなあ、と。
次回作楽しみにしています。
シリーズ化期待してますよw
でも香霖堂から出た後くらいから駆け足すぎて雑だったから次は丁寧にやってほしい