総領娘様は、私を悲しい気持ちにさせるのが恐ろしく上手い。
「私さ、昨日一日ずっと人生ゲームしてたんだけどさ」
「それはちなみに、1プレイヤー3CPですか?」
「そうだね、どっちかと言えば一人四役だったけど」
一ほろり。
「でもあまりにもつまんなくてさ、なんでこんなにつまんないのか五時間くらい考えたわけ」
その五時間をもっと有用に使おうとは思わなかったのだろうか。人生ゲームは必ず一時間前後で終わるよう設計されていると聞く。五戦はできた時間である。
しかし、五時間もうんうん唸りながら必死で頭をひねる総領娘様の姿を想像するだけでも可愛らしいので、不問としておいた。きっと畳の上でうつぶせになって、足をばたばたさせながら、ああでもないこうでもないと独り言を呟き続けていたに違いない。その上、勝手に考え始めたくせに、途中で「なんでこんな事に私が悩まなきゃいけないのよ。誰よ、人生ゲームとか作ったやつ。責任者出しなさいよ」とか逆ギレしていたに違いない。可愛い。白米三合はいける。
「やっぱり、スリルが足りない所為だと結論が出たの。だからスリル満点の人生ゲームを作ったのよ。四時間くらいかけて」
「お一人で作ったんですか」
「当たり前でしょ。私以外に誰がいるのよ、こんなつまんない事に時間費やすやつ」
三ほろり。言葉が出なかった。
総領娘様ほど、無駄でつまらない事に情熱と労力と時間をかけて接される方も、変人ばかりの幻想郷と言えども、なかなかいらっしゃらないのではないだろうか。
総領娘様自作の人生ゲームを見せてもらった。最初の職業決定のマスの中に、ひとつだけ『家が天人になりあがる。ニート決定。月々五万桃もらう』というマスがあったので、二ほろり。
しかし、どの職業よりも月給が高いニートがあって良いのだろうか。しかも通貨単位が桃なのもポイントが高い。めっちゃ可愛い。月々五万個の桃を消費する総領娘様可愛い。
置いといて。
他のマスには、『家族から嫌われてハブられる。三回休み』だの『職場で上司から虐められ、心を病む。通院費として五ターンの間毎回三千桃払う』だの『友達ができない。五千桃払う』だの、理不尽に悲しいマスしかない。払ってばっかりじゃないか。しかも微妙にリアル。他にも、結婚後のマスには『実は結婚詐欺だった。車から伴侶を下ろし、銀行に三万桃払う』とかもあった。なにこれつらい。しかも借金にはちゃんと利率があって、ターンを追えば追うほど借金が膨らむ制度だった。怖すぎる。
「このゲームつらすぎませんか」
「そう? 人生イージーモードなんかないって事よ。いつもルナティックモード」
「ゲームでくらい、現実から目を背けさせてあげて下さいよ」
「ちなみに輪廻転生制度が設けられていて、ゴール後は所持金によって転生先を選んで人生最スタートよ」
「一生終わらないじゃないですか」
「解脱したやつの勝ち」
「急に仏教臭が強くなりましたね」
「ちなみに家が天人のやつはニートだから一生解脱できないわ」
「この時点でゲーム的に負け組じゃないですか……」
「ゲームじゃなくても負け組みたいなもんでしょ」
「そんなあっさりご自身を全否定しなくても……」
総領娘様はプライドが高いのか低いのか判らない。
「で、作ったは良いけど、私って友達いないから一人でするしかなくて、結局面白くないって気付いたわ。ゲームの完成度っていうのはコンテンツとしての面白さじゃなく、感覚を共有できる存在の有無に左右されるのね」
十ほろり。
もうやめて! 衣玖のライフはとっくにゼロよ!
「作る前に気付けたら良かったんですけどね」
「ほんとにね。諸々含めて計十時間くらい無駄にしたわ」
ぱたぱたと自作人生ゲームをしまう総領娘様。この流れは完璧「そういう事だから、一緒に人生ゲームしない?」コンボが嵌ると思ったのだが、うまくいかない。総領娘様とゲームしたかったのに。
比那名居の総領様に龍神様からのお使い内容を伝えた後、総領娘様に顔を見せるのはいつもの事だが、総領娘様はいつもつまらなさそうなご様子だ。真っ当な天人と違って、俗っぽさを濃く残す総領娘様にとって、天界の生活が性に合わないのはよく判る。だからこそ、私が話し相手となって、少しでも退屈を紛らわせてくれれば、と思う。
思うのだけど。
「って、もうこんな時間だわ。衣玖、帰らなくていいの」
「うーん。丁度今、仕事帰りみたいなものですし。何をするでもなく、ぼーっとするくらいしか私にはありませんよ」
「そうなんだ。じゃあ、尚更帰らなくていいの?」
――ほら見ろ。
「そうですね。では、そろそろお暇させて頂きます」
「うん。お疲れー」
天界を抜ける。
ふわふわと、ふわふわと。何をするでもなく、雲と雲の隙間を縫ってぼんやりしていた。
時々、自分の能力が嫌になる。持って生まれたものを嘆いても仕方がないし、おおむねはもの凄く役に立つ能力ではあるのだけど。空気を読む力は、性分にも顔を出す。
だって、あんな事を言われたら。屈託のない笑顔で、なんでもない事のように、「帰れ」と暗に言われたら。
「総領娘様に悪気がないのは、判る。判る故に。うーん」
悪気も悪意もない。そこにあるのは、ただ染み付いてしまった価値観の齟齬。
総領娘様にとっての私は、単なる龍神の使いで、比那名居家と仕事上の繋がりがあって、そして、比那名居天子のただの知り合いだ。
「可愛いんだけど。可愛いんだけど、……致命的に、ちぐはぐだからなぁ、総領娘様」
仕方ないけどさ。
†
こんな事があった。
総領娘様と、人里近くの山道を歩いていたように思う。随分昔の記憶なので、何故私たちがそこにいたのか、前後はよく思い出せない。とにかく私たちは並んで歩いていて、他愛のない話をしていたのだと思う。
そこに、子どもの悲鳴が聞こえた。見れば、人間の子どもが獰猛そうな獣に襲われていた。獣と見るか妖怪と見るかも微妙な、妖気も知性もほとんど感じられない、腹を空かせただけの獣だった。
私は、仕事上龍神様や天人とよく接するけれど、根本は妖怪なのだし、人間が食われる事に関してはどうとも感想を抱かない。故に、自然の摂理だろうな、と特に何も行動はしなかった。
けれど、隣にいた総領娘様は私の隣には既におらず、獣の前にすっと手のひらを出し、手で制するようにその場に割って入った。
腐っても鯛、崩れても天人。獣はたちまち大人しくなり、踵を返して森の奥へ消えていった。人間の子どもは、総領娘様の背中に深々と頭を下げて、人里の方へ走っていった。
「お優しいのですね」
「そうかな。この辺には餌が色々あると思うし、何もあの子を取って食べる程の事じゃないと思っただけだよ」
「それがお優しい、と言うのではないでしょうか」
「判んない」
総領娘様は興味なさげに、一度も子どもの方を見ようとはしなかった。
またあくる日に、同じような事があった。
夜遅く。これも前後はあまり覚えていない。とにかく私は総領娘様と共にいて、以前と同じような状況で、今度は確か、れっきとした妖怪に、人間が食べられそうになっている光景に出くわしたのだ。
私はまた、総領娘様が人間を救うのだと思った。私は本分が妖怪なのだし、そこに手を貸すのも変だと思い、また総領娘様の力量を充分に信頼していたので、何もしないで黙っていた。
けれど、総領娘様は、今度は何もしなかった。
人間の恐怖に引き攣った顔を一瞥しておきながら、何事もなかったかのように視線を闇に移し、何程の事もせずに通り過ぎた。
私は驚いて、「良いのですか」、と思わず聞いた。私としてはどちらでも良かったのだが、腑に落ちなかったのだ。
総領娘様は、私の声に、なんでもないような顔で「可哀想だよね」、と呟いた。
「あの人間も、あと、そこの仔猫も」
猫? と私は総領娘様の視線を追った。視線の先には、見るからに衰弱した幼い猫が、確かに横たわっていた。まだ生きてはいるようだった。病気か、飢えか。どちらにせよ、程なく死ぬだろう。
「でも、あの子は助けられないし」
それぎり、総領娘様は何も言わなかった。遠くで断末魔が響いたけれど、総領娘様の顔は何一つ変わらぬ無表情だった。
†
総領娘様とは、知り合って結構長い付き合いになる。少なくとも、私の中では充分に長い方だし、誰に言うような事でもないけど、総領娘様にだったら、と話す話もままある事だ。その程度には信頼しているし、それなりに快く思っている。
私の一方通行だけど。
愛しているとか恋しているとか、そういう青臭くて可愛らしい思春期の延長線上の話をしたいのではない。あの方に対して、それらの感情は力不足であり役不足だ。
「引いてるよ」
急に降った声に、はっと我に返った。竿を見ると、言われたように、浮きがふるふると震えていた。
くん、と竿に力を入れて引いてみたが、いかんせん気付くのが遅かったか、逃げられてしまったようだった。
「惜しいね。大物っぽかったのに」
からからと笑う声の主は、鬼の伊吹萃香そのひとだった。
「これは、伊吹さん」
「萃香で良いよ」
「貴方も釣りに?」
「んにゃ。アホのお嬢様から逃げてきた」
「総領娘様が、何か?」
「それがさー。最近私がよく天界にいるからって、あいつ、毎日日にち私を追い回して弾幕勝負挑んでくるんだよ。めんどくさい。私が勝つんだし」
「それはそれは。たまには手加減してあげて下さい」
「そのつもりだったんだけどね。あいつアホだから、ちょっと更生させてやろうかと」
萃香は近くの桃の木の幹にもたれるように座り込んで、いつものように瓢箪片手に一人酒盛りを始めた。
私はまた釣竿を振り、ちゃぷんと池に投げ込んだ。
「あんまりにも毎日来るからさ、おまえどんだけ暇なんだよ、友達いないのかばかやろー、って言ったんだよ、私。そしたらあいつ、なんて答えたと思う?」
判りきった事だ。ついこの間本人から聞いた。「私って友達いないから一人でするしかなくて」、――あの時、総領娘様は私を誘ってはくれなかった。
「いないに決まってるからわざわざあんたなんかの所に来てあげてるんでしょ! ……とか、ですかね」
「凄いね。一字一句、とは言わないけど、かなり合ってるよ」
「長い付き合いですから」
「そう。だから言ったんだよ、あの竜宮の使いはどうなのって。長いんでしょって」
「それが何? と仰いませんでした?」
「あは。随分悲観的な見方するね。そこまでじゃないよ。遠からずだけど」
時間の短長はあの方にとってなんの意味も成さない。判りきった事だ。零と一の間に無数の小数点があるから、人は白と黒の間のグレーを認識する事ができる。一から百までに至る九十九を理解できる。
けれど悲しいかな、あの方は二進法で生きているのだ。零か一しかない。
私はあの方を知り合ってから一度だって、あの方の話など聞いた事がなかった。いつもいつも、他愛のない、他愛のなさ過ぎる話ばかり。
長く付き合えば、その分見えてくる物もたくさんある。一度や二度、深くてまともな話をする事だってあるだろう。相談したりされたり、笑ったり怒ったりふざけたり泣いたり、音波のように高低を繰り返し、そうやって仲を深めていく。それが関係性と言うものだ。変化するものなのだ。
けれど、何一つ変わらない。何一つ深まらない。総領娘様にとっての私はどこまでも知り合いであり、それ以上にもそれ以下にもならない。
きっと何百年、何千年経とうが変わらない。
総領娘様は、私を悲しい気持ちにさせるのが恐ろしく上手い。
「衣玖はお父様の関係で私に良くしてくれるだけだよ。友達とかそういうのじゃない、……ってさー悲しいねー」
「仕方ないですよ。総領娘様はそういう方なんです」
「そういう考え方しかできない?」
「痛い所を突いてくれますね」
あの方にとっては『知り合い』と『知らない誰か』しかいない。そこにあるのは事実関係だけで、因果も環境も、感情すら入り込む余地はない。そういう考え方しかできないのだ。
「あいつは物を知らなさすぎるよ。知識とか、そういうのを言ってるんじゃない。むしろ頭は良い方だと思うしね。でも、心の貧しいやつだな、あいつって」
「……、……総領娘様が悪いのではありません」
「確かにそうかも。環境の所為にもできるよね。悟りの一つも開いてない幼子に天人のふりさせようとするからああなるんだ。そもそもの前提が破綻してる。でも、それが何? あいつが学ぼうとしなかったからでしょ。あいつが歩み寄ろうとしなかったからでしょ。事の始まりはあいつに咎はないかもしれない。でも数百年もあけてこじらせたのはあいつの咎だ」
私は竿を見つめていた。貴方に何が判る、と怒っても良いな、とか少しだけ思った。でも、言った所で意味はないし、それで何がどうなるわけでもない。
私はあの方をずっと見てきた。だからあの方の事を誰より判っているとか、そんな腐った自己満足が欲しいんじゃない。
ただ、私以外にもたくさんの誰かが、私と同じような見方であの方を見ていてくれたらな、と、そんな事を考えずにはいられないのだ。
誰かがあの方を認めたら。誰かがあの方を理解しようとしたら。誰かがあの方を、愛したなら。
――ねぇ、衣玖?
いつの記憶だろう。とても古い昔。総領娘様は、まだ幼い子どもだっただろう。天人になってまだそれほど経っていない、単なる子どもだった総領娘様。言葉がぽつりとこぼれた。
なんでもないような、無表情のまま。
――どうしたらみんな、私の話を聞いてくれるかしら。
私はなんと答えただろう。きっと、穏やかに微笑みながら、「私が幾らでも聞いて差し上げますよ」と、そう答えたに違いなかった。なんて軽薄な事だろう。なんて短慮な事だろう。
今なら、紛れもなく本心からそう言える。けれど当時の私は、その小さな子どもの事をよく知らなかった。もっと言えば、なんとも思わなかった。だからただ、ただ空気を読んで、その子どもを悲しませて、今後の比那名居との関係を悪くしないようにだけ考えて。上っ面の言葉を並べたのだ。
子どもは笑ってくれた。私の上っ面の言葉を上っ面だと察しながら。その賢い子どもは、私に向かって笑ってくれた。
私は笑顔を取り繕って、言葉の表面だけで返事をしながら、「誰もおまえの話など聞かない」と、そう宣告したも同義だった。
――それがおまえの咎だ、永江衣玖。
†
煌煌と炎がちらつく。ぱちぱち、小気味良い音を立てる。
「何をなさっているんですか、総領娘様」
「焚き火。ついでに、お芋焼いてる」
「良いですね。少々時期がズレている気もしますが」
「三寒四温の時期だもんね。でも、焼く物があったからしょうがないね」
「あえて聞きますけれど、その焼いてる物は?」
「こないだ作った人生ゲーム」
「良いのですか、焼いてしまって。総領娘様の十時間が」
「あれ、一応やってみたんだけど、いつまで経っても解脱できない上に借金がかさみすぎてゲーム終わんないのよ。自己破産システムを加えるべきだったわ」
「なんでことごとく夢のない設計なんですか」
「八時間くらいは楽しめたけど、ゲームとしては失敗作と言わざるを得ない。楽しめるの私だけな気もするし」
ぱちぱちと小気味良く人生ゲームが燃える。輪廻転生ゲームが燃えていく。諸行無常を感じる。
「衣玖、知ってる? 桃を焼くと不味い」
「そうなんですか? 焼くと甘みが凝縮されると聞きましたが」
「私が桃嫌いだからかな」
「焼く以前の問題ですよ」
「今度、焼き桃のお裾分けでもしに行こうかしら」
「良いと思いますよ」
火の近くで要石に座っている総領娘様の傍でふよふよと浮いていると、総領娘様がいぶかしげな表情で私に視線を向けた。
「衣玖、今日はなんかあったの?」
「いえ、何も」
「何もないのに来たの?」
「理由がないと散歩に出てはいけませんか?」
「私はいつも暇だから散歩するけど」
「暇じゃなくても散歩したい時もあります。忙しくても、総領娘様の御顔が見たくなる時もあります」
「あるんだ?」
「ありますよ、結構頻繁に」
私なりに頑張って歩み寄ってみたのだが、総領娘様は「ふぅん」と返事しただけで、特に変化はなかった。残念。
私は何がしたいのだろう。この人に何を求めているのだろう。様々な言葉が浮かんでは、ほろほろと消えていった。
誰かが、認めてあげたらとか、理解してあげたらとか、果ては愛してあげたらとか。心の底から願うけど、祈るけど、でもそれは私ではないのだ。私じゃない誰かに、放り投げて任せきり。私は、逃げているようなものだった。
物を知らなさ過ぎる、と萃香は言った。事実、私だってそう思っている。なら、教育者になりたいとでも? ありえない。それは恥知らずでおこがましい事だ、とても。
ならば、あの日の続きを、あの日の間違いを正したいのだろうか。今度こそ本心から、貴方の話を聞きたいと、伝えたいのだろうか。そんな事は、ただの自己満足だ。総領娘様だってきっともう忘れている。
ただ、私は、この方を悪く思ってはいない。今ならはっきりと断言できる。少なくとも、何百年も前の自分のたった一言を今でも後悔するくらいには、気にかけている。
……、……、……なんだ。とても簡単な話なのか。
「総領娘様は、友達とは、どういう存在だと思いますか?」
「脈絡ないなぁ」
「まぁまぁ」
「友達ねぇ。とりあえず、『私たちって友達だっけ?』っていちいち確認しなくて良い間柄じゃない?」
「私たちって友達ですっけ?」
「イヤミ」
「すみません。でも、私と総領娘様の関係って、不思議だなって」
「そうかな。普通に、家の関係でしょ。袖擦り合うも他生の縁。そういうエニシが積もり積もって、関係というものは構築されていくのよ。始まりが何にせよ、終わりが何にせよ、過程こそが物を言うの」
「おぉ。天人のありがたいお説教ですね」
「説教してるつもりはないけど」
「教えを説くと書いて説教です。叱りつけたり滔滔と怒ったりする事は、本来説教とは言いません」
「衣玖の言ってる事のがよっぽど『説教』らしいよ」
くあぁ、と欠伸混じりに総領娘様は呟く。
欠伸する顔がとても可愛らしいので加点。とか言ってる場合じゃない。
「私、あんまり友達がいないのですよ」
「そうなんだ。意外」
「意外ですか」
「なんとなくね。でも確かに、衣玖以外に竜宮の使いって見た事ないかも」
「天界って、結構友達作りにくいですからね」
「あー思う。それ凄く思う。まぁ、そういう欲は捨て払った後って事なのかもね。友達が欲しいなんて、まるで所有欲じゃない」
「そうでしょうか。誰も、その個人を自分の物にしたいわけではないと思います」
「うーん。個人っていうか、関係性っていうのかな。そういうものが欲しいんだよ、きっと。たぶん。おそらく、めいびぃ」
「総領娘様は?」
黙られた。
それまで焚き火に目を向けていた総領娘様の目が、初めてこちらに向いた。顔は、無表情だった。
「今日の衣玖は、お喋りだね?」
「今日の総領娘様は、おとなしいですね?」
総領娘様は再び黙った。何か言いかけていた。唇の形だけ、いく、と動いていた。私の名前。そうだと思いたかった。顔は無表情なのに、瞳だけが何かを言いたげだった。どこか悲しげだった。
どうしたんですか、と聞きたかった。けれど言うべきではない、とも思った。
唇はそのままきゅっと閉じられ、結局言葉は何もなかった。
芋が焼けたので、一つもらった。熱いけれど、温かかった。
総領娘様とこうして衣食住に関する某かを共にしたのは初めてだったので、それが少し嬉しかった。
けれど、「誰かとこうして何か食べたの、びっくりするくらい久しぶり」とこぼした総領娘様の横顔を見て、一瞬で酷い気分になった。
†
それから長い事、総領娘様の姿を見ていない。
これは非常に珍しい事だった。いつも暇だ暇だと愚痴を言っては家を飛び出し、その辺をうろうろとしているような人だ。同じく、仕事がなければその辺をうろうろしているような私だ。天界のどこかで、あるいは地上のどこかで、ばったり出くわす事はそこまで珍しくはなかった。けれど見ない。
比那名居の家に用事があったので、ふらりと寄った際、「総領娘様は」と尋ねた。誰も彼も、まるで私が聞いてはいけない事を聞いたかのような顔だった。私は空気を読んで、「いえ、大した用事ではありませんので。また後日」とその場を流した。
ちゃんと聞くべきだったかもしれない。こういう時の自分の事なかれ主義に腹が立つ。
する事もないので、いつぞやと同じように釣りをしていた。
そして前と同じように、萃香に声をかけられた。
「よう。今日は釣れてるかい?」
「いえ、さっぱり」
「釣れない時も含めて釣りだしね。でも、そんなぼーっとした様子じゃ、釣れるもんも釣れないと思うけど」
「総領娘様をお見かけしませんでした?」
萃香は、怪訝そうな顔をした。そして少し、悲しそうな顔をした。
「知らされてないんだ? あいつ、しばらく出てこないよ」
「どういう事です?」
「簡単に言えば謹慎ってこった。表向きは、ね。事実上の幽閉だね。今までが軽い軟禁みたいなものだったし。気付かなかった? あいつ、そこそこ前から、天界の限られた区域の活動しか認められてなかったんだよ。最近あいつが地上に行ったか?」
言葉が出ない。
比那名居の家で一日人生ゲームを作っていた総領娘様。毎日追いかけ回されている萃香。作った人生ゲーム一式を一人で火にくべていた総領娘様。
あんなに暇そうにしながら、地上に行こうとは言わなかった総領娘様。
「どう、して」
「ちょっと前、あいつ緋想の剣持ち出して、異変起こしたりしたろ」
「たった、それだけの事で」
「うーん。単なるきっかけだと思うけどね。きっかけ。比那名居の連中だってずっと判ってたし、理由を付けてどうにかしたかったんだよ、あいつを。おまえだって気付いてたんだろ。その上で、知らないふりをしてたんだろ」
竿を握る手が震えそうになった。手に汗がじわりと滲む。手だけじゃなく、全身から嫌な汗がどっと噴き出しそうだった。やめて。言わないで。
そんな風にみんなして遠ざけるから、あの方はああなってしまったんじゃないか。
……やめろ。何を知ったような口を利く? 残酷な嘘で傷付けたくせに。あんな子どもを、同じように傷付けた癖に、また『私だけがあの方を判っている』? そんな優越感に浸って、所有したいのか。
違う。違うちがうちがうちがう。私はただ、あの方と。
総領娘様と、友達に、なりた――。
「あいつは異常だよ。他人をなんとも思ってない。思えない。あいつの心は、それぞれの個体を区別も判別もできないんだ。価値を割り振る事も、その重きを計る事もできない。そこに一の犠牲があり十が助かるのなら、あいつはその一がなんであろうが迷う事なく切り捨てられるだろうね。価値が判らないから。数量でしか判断できない。その恐ろしさが判らないおまえでもあるまい?」
遠い昔。獣に襲われた子どもを助けた総領娘様が、妖怪に襲われる人間を助けなかった理由。
――でも、あの子は助けられないし。
あれは、あそこに猫がいたからだ。同じく死に瀕する人と猫、どちらかの命を選ぶ事ができなかったからだ。あれがどちらか一方であれば、救ったろう。しかしあの場において、総領娘様は猫と人の命を同等と見た。優劣を付けられなかった。妖怪ならばまだしも、元は人間の身であるのに。
否、例えばそれが見ず知らずの人間ではなく、見知った者だったら? もっと言えば、私や、家族であったら?
……総領娘様は、変わらず無表情で、「可哀想だね」と呟いただけに違いなかった。
優しいのではない。あれは断じて優しさなどではない。天人らしく振舞えと、幼きより施されたたくさんの教えが、価値観を構成しているのだ。
可哀想だから助けるんじゃない。『困ってる人は助けねばならないから』助けるのだ。そんなの、まるでマニュアルじゃないか。
そしてそのマニュアルには、『猫より人を優先しなさい』なんて物はない。だから選べない。二つ同時に助ける事ができないのだから、結果として、どちらも見捨てる。
どこまでも平等に。どこまでも公平に。
でも、そんなの、平等じゃない。そんなものじゃあ、決してない。ただ選べなくなっただけだ。選ぶ為の指針をすべて取り上げられただけじゃないか。総領娘様は、全部か零しか選択できないし、一と一しか交換できない。
仕方ないじゃないか。取り巻く環境が悪かったのだ。運が悪かったのだ。すべての結び合わせが、エニシが、総領娘様をああしてしまったのだ。仕方ないじゃないか。
「でも、そんなの、あんまりです」
泣き出しそうになった。とても身勝手な涙だった。勝手に同情して勝手に憐れんで、酷い冒涜だと思う。けれど、あんまりだ。あんなのは、あんまりだ。
「あの方たちが愛してこなかったから。認めてこなかったから。理解しようとも、しなかったから。だから判らなくなったんじゃないですか」
だって私はずっと、見てきたのだ。何も、しないで。
「あんなにも努力して、あんなにも頑張ってる子どもを、誰が、誰が、――誰が否定し続けたんです!」
竿がへし折れるくらい、強く握った。頭を抱えたくなった。
「それ、比那名居の全員に言うかい? いや、あいつを馬鹿にし続けた天人全員に、言うかい?」
萃香の声はどこまでも冷たい。そんな事はできない。私にも立場がある。あぁ、私は今、総領娘様より自分の立場を取った。最悪だ。
「あんた、どうしたいのさ」
そんなの、私だって知りたいよ。
†
総領娘様は、もとはただの人間であり、天人になる為の修行や教育など、一切されてこなかった。けれど、名居家と共に神格が上がり、天人へと召し上げられたのが、そもそもの発端。
結果的にそれは、総領娘様にとって、何も良いように働かなかった。
なんの苦労もなく天人となった不良天人。他の天人にはそう映った。陰で方々に言われていた。
精神的に成熟していた総領様は、それを笑顔で流す術を知っていた。けれど、総領娘様は、幼かった。
馬鹿にされる度泣いて。怒られる度泣いて。説教される度泣いて。嘲笑われる度に泣いて。仲間はずれにされる度泣いて。泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて――、泣くのをやめた。
総領娘様は立派だった。馬鹿にされる事、怒られる事、説教される事、嘲笑われる事、仲間はずれにされる事、すべてから逃げなかった。逃げずに、毎日本を読み身体を鍛え、他の天人にも認められるように努力していた。
けれど、誰も認めなかった。生まれですべてを決め付けて、彼女の努力を嘲笑った。所詮は徳のない天人くずれ風情が、と罵った。そして総領様も、総領娘様の事を顧みなかった。
その果てが、あの一言だったのだ。
どうしたら言葉を聞いてもらえるか、と。心は折れず、まだ対話を望んでいた。まだ、判ってもらおうとしていた。まだ、努力しようとしていた。
けれど、それを砕いたのだ、私が。
私が幾らでも聞いて差し上げますよ、と、何程も聞く耳のない顔で、そんな事を嘯いたのだ、私が!
知っていたのに。
よく頑張る子だと、思っていた。私だったら馬鹿にされた時点で、家の名前にふんぞり返って、父親に『何故人のままでいさせてくれなかったのだ、私は天人になどなりたくなかった』、などと喚き散らしただろうな、と思っていた。泣き顔ではあったけれど、泣き言一つこぼさず、黙々と研鑽を積む姿は、純粋に尊敬に値した。
何も言わない子だった。黙って歯を食いしばって、やる事をやってから幾らでも怒鳴り散らしてやるぞという顔で、握り拳を作っているような子だった。
ずっと知っていたのに、私は放置した。関われば面倒な事になると思った。私の立場だって、あまり良いようには働かないと思った。比那名居には、仕事で必要に迫られる時だけ行った。できるだけ個人としては、関わりを持たないようにしていた。
そんな風に、事なかれ主義で生きてきた。そんな私にとって、総領娘様は、とても眩しかった。自分で自分の困難を切り開こうとする姿は、どんな悟った風な顔の天人よりも潔かった。
思っていたのに、何もしてこなかった。
知っていたのに。
自分のつらい事、悲しい事、苦しい事、それらを誰にも漏らさない子だった。言っても無駄だと思ったのかもしれない。自分を顧みない父、自分をいない事にする侍従、そんな物に囲まれて生きれば道理かもしれない。
私には、言ってくれたのだ。誰にも頼る事を良しとしない子が、初めて頼った大人が、私だったのだ。
何が、『私はあの方を知り合ってから一度だって、あの方の話など聞いた事がなかった』、だ。何が、『友達になりたかった』、だ。先に裏切ったのはおまえじゃないか。先に切り捨てたのはおまえじゃないか。そんなのは、エゴだ。
最後に頼った私に全否定されて、あの子どもの心は、どんな風に砕け散っただろう? それなのに、そんな事を棚に上げて、今更何を仲良しごっこに興じようと言うのだ? 人生ゲームに誘ってもらえなかったのは、私が相応しくないからだ。
言葉で綺麗に裏切った私を、それでも「衣玖は私に良くしてくれる」などと言って、傍に置いてくれたのに。
私に、ひいては大人というものに裏切られた総領娘様。
愛される事を知らない、理解された事がない、存在も認められなかった総領娘様。
誰も愛せず、理解できず、認められなくなった総領娘様。
あぁ、エゴなのに。自己満足に過ぎないのに。こんなの、絶対に間違ってるのに。
でも、愛したい。理解する努力をさせて欲しい。私に認められたって嬉しくないだろうけど、認めさせて欲しい。
言いたい。全力で言いたい。
今の貴方が好きですと、心から言いたい。
「なら、やる事は一つしかないわ」
仕方なくなんか、ない。
†
端的に言えば、比那名居家に乗り込んでやった。いわゆる不法侵入であり、いわゆる犯罪である。
空気を読み続け、事なかれ主義を貫き続けて幾星霜、こんな思い切った事は初めてなので、全身から放電しそうだった。流石に放電すると即刻バレて追い出されるし、最悪一生出入り禁止にされる可能性もあるので、できるだけ放電は我慢した。
真夜中。できるだけ音は立てないように。天人は基本的に無用心だ。鍵という存在の意味など知らない。そう、一つの異様を抱えるこの比那名居家を除いては。
とはいえ、流石に敷地の玄関には鍵はなく、あけすけだった。こっそり音を立てないように入り込む。おそらく、鍵がかけられているのは、総領娘様の居住区のみだろう。
中から忍び込むのはリスクが高過ぎるので、外から庭を通ってそろりそろりと忍び込む。
知っている。総領娘様の部屋は、一番玄関から遠く、奥まった裏の方にある。まるで牢屋だ、と思った。
何度この中で息詰まり、行き詰ってきた事だろう。
しかし広い。とにかく広い。玄関から庭を通って奥まで忍び込むのに、大分かかった。私は久しぶりに、自分の能力を褒めてあげたくなった。空気を読む能力は、周囲に溶け込んで暗躍するにはぴったりだ。
忍び込んで三十分、ようやっと、総領娘様の部屋の窓を見つけた。ご丁寧に、鉄格子付きだ。
問題は、ここからどう気付いてもらうかである。多分、中にいると思うのだけど。ぼんやりと立ち尽くす。
「てれれってれーん。桃ー」
桃を取り出した。そして焼いた。
とりあえず焼いた。
天界はどこにでも桃の木がなっているので、比那名居家の敷地内でも木が植えられ放題だ。適当に一つもぎ取って、電気でぶすぶすと焼いてみた。ちょっと焼き加減がおかしい気がするけど、良いにおいがする。難点としては、ちょっと桃を持つ手がべちゃべちゃする点である。
かろかろかろ。
「何してんの、衣玖……」
呆れたような総領娘様が、窓を開け、鉄格子の向こうから顔を覗かせた。
「流石、総領娘様。桃のにおいで気付いてくれましたか」
「いや、窓完全に閉めてたのににおいとか判るわけないでしょ」
確かに。盲点だった。
「あのね。うちんちの土地はまるっと全部私の管轄内なの。誰か変な人が一瞬でも歩いたら判るの」
「大地を操る能力、超便利ですね」
「飛んで入ってこられたら判んないんだけどね」
「案外穴があった」
「てかさ、何しに来たの? 用事あるなら、お父様呼んでくるけど」
「こんな真夜中に、比那名居の方々に用向きがある筈ありません。私は貴方に用があるのです、総領娘様」
「うーん。それはとっても、私には困る状況なんだけどー」
「幽閉されていると聞きました」
「ぎゃっ。なんで知ってんの」
「萃香さんから」
「あー……。そういえばこないだ来てたなぁ」
「来たんですか。鬼なのに。そういえば詳しいなぁと思ってたんですよ」
久しぶりに会話ができて、心が踊るようだった。嬉しい。でも、あまりここに長居はしない方が良い。
「色々と、後で聞きますね」
「あ、あのさ、衣玖。今んとこ、私に『後で』は通用しないんだけど」
「通用します。だって、その為に来たのですから」
「うん?」
「閉じ込められているお姫様を、悪い竜宮の使いが攫いに来ました」
総領娘様は「は?」と言って、「ちょっと待って、それってどういう」、まで言いかけたけど、聞いてあげません。
「あの、そろそろ良いんじゃありませんか、萃香さん」
「ほいほい」
ひょこっ、と私の胸のポッケから萃香(小)が顔を覗かせた。本体は今頃お酒でべろんべろんになっているだろうが、ちょっとばかしお借りした分身である。
「あっ、ちっちゃい萃香」
「よう、アホのお嬢様。狭苦しい世界で何もかも諦めた気になってるアホに、広い世界を教えてやるよ。部屋の鍵、開けておいたから早く出てきな」
「えっ」
「説明は後です。勝手口で待ってますから、早く出てきて下さい、総領娘様。あぁ、私と一緒に行くのは嫌で、そちらのお部屋が好きなのでしたら、私は帰るしかないですけれど」
「えっちょ、ちょっと待ってね! ってか今パジャマなんだけど!」
「しーっ。静かに。あと、パジャマ姿の総領娘様とか見たくて見たくてしょうがないのでそのまま出てきて下さいお願いします」
できればオプションのぼさぼさ頭と間に合わせのスリッパもお願いしたい。
勝手口からは、ぼさぼさ頭で間に合わせのスリッパをはいた総領娘様が出てきた。期待を裏切らな過ぎて抱きしめたい。
あぁああぁ赤いパジャマがいつもの雰囲気と違って可愛いぃぃぃぃ更に上からカーディガン羽織ってるところも加点ポイント。
駄目だ、真面目にやろう。
「え、えーと。何がなんだか判んないんだけど、『後で』全部説明してくれる?」
「勿論。なんでもお話ししますよ、スリーサイズから今日の下着の柄まで」
「えー。知りたくない。私は何を話せば良いの?」
「そりゃあ勿論、今日の下着の柄から、貴方の話したい事すべてまで」
「下着の柄は教えねーよ」
「残念。でも知ってます、黒のレース超可愛いです」
「ちょおま」
「ズボン、急いで来たからズレてて見えちゃってますよ」
「早く言え! あぁもう、なんかよく判んないけど、攫いに来たならさっさとスマートに攫ってよ」
「はい、喜んで」
空気なんか、もう読まない。
†
お姫様を攫う間、私はお姫様から質問攻めにあった……かと思いきや、一つしか聞かれなかった。
「どうして来たの?」
「飛んで、気配隠して、忍び込んで」
「手段を聞いてるんじゃない。目的」
「それしか聞かないのですか?」
「だって、あとは判るし。部屋開けたのって、萃香でしょ。さしずめ、衣玖が裏から入ってきてる間に、ちょっとした隙間から萃香が鍵を取りに行ってたって所かな」
「ご明察。例え私がバレてつまみ出されても、萃香さんがバレなきゃ総領娘様を外に連れ出す事はできますしね」
「変なとこでしたたかだなー」
「こんな自分がいるんだなって、脱皮した気分です」
「それは生まれ変わった気分って言うんだよ。やめてよ脱皮とかキモい」
「総領娘様にキモいなんて……本望です……」
「おいおまえ、キャラ変わってんぞ」
「萃香さん、空気読んで下さいよ……今私が仲睦まじく総領娘様との会話を楽しんでるっていうのに……」
「おまえそんなキャラだったっけ?」
「こういうキャラで生きる事にしたんです。空気なんかクソ喰らえです。空気は壊す物です」
「あーはいはい。じゃあ邪魔者はもうこの辺でおいとまするよ」
ぴょこん、と顔を出した萃香はポッケから地面に飛び降りた。
「協力して頂いて、ありがとうございました」
「んーん。おまえがこういう答えを出した、それを私は尊重したいと思っただけ。永江衣玖。こんな事したって何も変わらないし、そこのすっとぼけた顔のお嬢様は変わらず頭トンでるままなんだろうけどさ、でも、何もしない昨日よりは、ずっと良い明日がある。おまえは選んだんだ。空気に流されず、周りに溶け込まず、自分を通したんだ。だったら最後まで筋を通せ。エゴでも腹から笑え。自己満足でも心底満足しろ。自分のやりたい事、やりたいようにやれよ」
私はその場で、頭を下げた。深く。形式ではなく、心からの敬意を持って頭を下げるなんて、龍神様くらいにしかないと思ってたけど、考えを改めよう。
「おい、そこのアホ面したお嬢様」
「なんでさっきからちょいちょい私を悪く言うわけ」
「アホにアホって言って何が悪いんだよアーホ」
「自分のが強いと思って……。今度会ったら今までの借りまとめて三乗返しにしてやるからね」
「はいはい。あのね、比那名居天子。おまえは生き物としての大切な物が欠けてるし、大切な事を知らないし、大切な物を失ってる。おまえは異常だし異様だけど、でも、幻想郷はおまえみたいなのでもちゃんと掬ってくれるんだ。なんせ、私の友人が丁寧に丁寧に作った幻想郷だからね。だから、不貞腐れずに尚励めよ。もしおまえが大切なたくさんの何かに気付いて、もう一度やり直せるなら、おまえはきっと素晴らしい天人になる」
「天人に説教なんて、一億年早いっつーの。あんたなんかに言われなくても、拝み伏したくなるような崇高な存在になるわよ、すぐに」
「へへ。じゃーね、ご両人。精々ラブコメしてろや」
少し照れた私と、首をかしげる総領娘様を置いて、萃香は笑って、そのまま夜の陰に消えていった。
「じゃあ、邪魔者もいなくなったので、行きましょう」
「どこへ? っていうか、質問に答えてもらってないし」
「全部、着いたら答えます。ほら、行きますよ!」
総領娘様をお姫様抱っこした。やってみたかった。感無量。
総領娘様の肌が恐ろしく柔らかくて良いにおいがする。超感無量。
総領娘様の肌の感触を身に刻み込みながら飛びに飛んで、着いたのは、私の家。総領娘様を呼ぶのは、勿論初めてだった。
「我が家へようこそ」
「せンまッ、ちっちゃッ」
「贅沢はいけません。さぁ、どうぞどうぞ。人を招くに相応しいような家ではないんですけどね、散らかってるし汚いし」
玄関の扉の鍵を開ける。
「衣玖も閉じ込められてんの?」
「そういうわけではないですが……確かに、どうなんでしょう。みんな、自分とか、見えない誰かに閉じ込められているのかもしれないですね」
「わけわからん」
「まぁまぁ。どうぞ、どうぞ」
「お邪魔します」
総領娘様はおそるおそるという様子で玄関に入る。こんなに狭い玄関に入ったのは初めてかもしれない。さらっとスリッパを揃える仕草がお上品キュート過ぎて死にそうになった。具体的には、髪を耳にかけた時の仕草が最高に素晴らしかった。
六畳一間の我が家は、総領娘様にとっては犬小屋に近かったかもしれないけど、それはそれで。
きょろきょろと見渡してから、所在なさげに総領娘様は何もない畳の上に座り込んだ。三角座りで。私の理性を殺す気だろうか。なにそれかわいすぎる。
パジャマ姿の女の子がきょどきょどしながら自分の部屋で三角座りしてこっち見てたらどうします? 何もしない自信あります? 私はない。
とはいえここでは流石に空気を読んで、何もしないでおいた。空気は壊す物だとさっき言ったけど、時々、と付け足しておく。
「質問が一個増えた」
「でしょうね」
「なんで私んちまで来たのかっていうのと、なんで衣玖んちに連れて来られたのかっていうの」
「先に、後者からお答えしましょう。知って欲しかったからです。私はこういう所に住むこういう妖怪なんです。ちょっとでも、私の事を知って欲しかった」
「なんで?」
「私は貴方の事をよく知っているから。それに、……」
言い淀んだ。今から言おうとする言葉は、正真正銘初めての言葉だった。誰にも言った事のない、私の口から初めて産まれる言葉なのだ。
「総領娘様の事が、好きだから」
「『すき』?」
それは、まるで、今まで聞いた事もない異国の言葉であるかのような発音だった。
私がおかしな事を言ったかのように、総領娘様は首をかしげている。
「衣玖が? 私を? なんで?」
「謝らなければ、いけないですよね。私は貴方を一度、こっぴどく裏切ったのに。今更好きだなんて、虫の良い話だって思います。謝って許されるとは思っていないけれど、ごめんなさい。本当に、すみませんでした」
「え、え? ちょっと待って、裏切ったって何が?」
なんて優しい方だろう。
私の裏切りを、記憶のカウントにも入れていないのだ。
「かなり昔の事ですが、総領娘様が、どうしたらみんなが私の話を聞いてくれるか、と私に尋ねられた時です」
「あー。衣玖が話聞いてくれるって言ってくれたやつでしょ?」
「はい。けれどあの時、私は……」
「なんで裏切った事になるの? だって私、衣玖がああ言ってくれたから、あぁもう頑張らなくて良いんだ、って思ったのに」
「すみません! 私は酷い事を……って、え?」
「え?」
「え、お、怒ってないのですか」
「怒るって、何を? だって、あれからちゃんと、衣玖は私の話、聞いてくれたじゃん」
「そ、そうでしたっけ……」
「まぁ、下んない事しか喋ってないけど。でも私、そういう下んない事喋る相手いないし」
「え、え、え?」
やべぇ。
もしかして、私の勘違いなの?
ていうか総領娘様が馬鹿なの? いやいや。
「……き、杞憂だったのか……」
「え、なんなの」
いや、でも、良かった。総領娘様が私の所為で傷付いていないなら、私にとっては虫が良過ぎる話だけど、本当に良かった。
「んー。でも、駄目ですよ。やっぱり。下らない話以外にも、もっと総領娘様の話が聞きたいです、私」
「下らない話以外って?」
「悩みとか。つらい事とか。相談とか。将来の夢とか。なんでも良いんですけど、他愛のない話以外と言いますか」
「それって人に言うもんなんだ?」
あ、やっぱりそういう意味じゃ駄目だこの子。
「言うものです。特に大切な人に言うものです。貴方が衣玖に話して下さらないから、とても悲しい思いをしておりました。うわーん」
「え、え、ごめん。ごめんって。人に頼る癖があんまなくて。いやごめんって」
「頭なでなでしてくれます?」
「するする」
「今日の下着見せてくれます?」
「え……」
「うわーん」
「い、一瞬だけなら!」
「総領娘様大好き」
同性なのに下着姿見せるだけでも恥ずかしがる総領娘様マジ可愛い。
一瞬の『チラッ』を堪能したあと、今度こそ真面目にシリアスに喋る為に、真面目に総領娘様の前に座り直した。
「色々な事は、私の独り合点だったのですが、それならそれで、曇りなくはっきりと、晴れ晴れとした気持ちで言えます。貴方の事が好きです、総領娘様。どれくらい好きかっていうと、もう天子様って呼びたいくらい好きです」
「う、うん? 名前くらい好きに呼んだら良いと思うけどね?」
「天子好きだ」
「呼び捨てになったッ」
「調子に乗りました。ごめんなさい。天子様好きです。超好きです。会えないとつらいくらい好きです。さっきお姫様抱っこした時ちょっと興奮したくらい好きです。押し倒したい申し上げております。間違えました、お慕い申し上げております」
「最後ワザとだろ」
「バレちゃった」
真面目に、真面目に喋る……筈……。
「すき、って、あの本によく出てくる懸想ってやつ?」
「そうです。大懸想です。超懸想です。好きの意味がいまいち判ってないのに歩み寄ってくれてる天子様マジ可愛いです」
「その凄い勢いで可愛いって捲し立てるのが『好き』って事?」
「半分くらいは正しいですが半分くらい間違ってますね」
「むずい」
「今すぐ私の気持ちに応えようなんて、お思いにならないで。たぶん無理だし。ただ、知っていて欲しかったんです。貴方はちゃんと、愛されてるんだって」
天子様は、黙ってしまった。わけの判らない事を言われている気分なのだろう。それで良い。今は充分だ。
いつか、遠くても、いつか、判ってくれたら嬉しい。そしてできたら、天子様も同じ事を、私に思ってくれたら、地上に五千発くらい落雷したいくらい嬉しい。
「天子様」
「う、うん」
「私は、天子様といる時、もっと話がしたいとか、もっと一緒に色んな事がしたいとか、たくさんの色々な事を思います。そして最終的に、もっと長く一緒にいたい、と思うんです」
「うん」
「天子様は、私といても、なんとも思いませんか?」
「衣玖は……、衣玖は、私の我侭に付き合ってくれるし」
「えぇ、幾らでも仰って下さい」
「私の事、心配してくれるし」
「えぇ、気になって気になってしょうがないんです」
「でも、ずっとただの知り合いだと思ってた」
「そうですよね」
「だから、なんて言うのかな、難しいけど」
「はい」
「これからも私の話、聞いてくれると、嬉しいなって、……そう思う。ごめん、これくらいしか言えなくて」
あぁ、あぁ、あぁ。充分だ。充分が過ぎる!
私はなんて、幸せだろう!
「えぇ、勿論です。勿論です、天子様。私が幾らでも、幾らでも、聞いて差し上げます」
天子様は、私を嬉しい気持ちにさせるのが恐ろしく、それはもう本当に、上手いのです。
†
結局。あのあと天子様を一晩うちで寝かせてから(襲わなかった私は本当に偉いと思う。あまりのストレスに地上に雷の一つや二つデカイのを落としたけど、この偉大なる功績の前には許されるだろう)、天子様がいなくなったのが判明して大わらわになった比那名居家に土下座しに行った。勿論もの凄く怒られた。龍神様のおやつのプリンをうっかり買い忘れた時と同じくらい、しこたま怒られた。
攫うなんてカッコつけといておいて、結局私は、何もできていない。結局天子様は比那名居家に直帰させられたし、私が何を言おうと右から左。所詮は竜宮の使い、まともに取り合ってもらえなかった。
けれど、天子様が総領様に、こんな事を言った。
「お父様が、私の存在が面白くないのは判る。だから、私をあと一度だけ許して。私、貴方の望む娘になれるよう、努力する。完璧には、無理だと思うけど。でも、努力する」
まさかそんな事を天子様が、と私も総領様も目を剥いた。一生言わない言葉だと思っていた。だってあの天子様が、自ら自分を変えると折れたのだ。
「嫌な事はあるだろうし、ムカつく事もあるだろうし、泣きたくなる事もあるだろうけど。でも、衣玖が全部聞いてくれるって、約束したから」
「て、……総領娘様……(天子様って呼ぶのはおいしいから二人っきりの時だけにしよう)」
天子様が折れたおかげか、事実上の幽閉は事実上なくなった。門限も行動範囲も思いっきり明言されてしまったけれど、それでも、その限りはどこへ行っても良い、と総領様が仰ったのだ。
一生、この想いが報われなくても仕方ないと思っていた。以前は諦めだったけど、今はもっと前向きな気持ちだ。
この想いが報われないなら、報わせてやる。エゴでも腹から笑う。自己満足でも心底満足する。やりたい事を、やりたいようにやるんだ。
「いーくーいーくー」
でも、休日の朝早くから玄関をドンドンされるのはちょっとやだ……。
これが天子様じゃなく新聞の売り込みだったら、十発は雷を落とす勢いである。
でも現実は天子様なので、落とすのは雷ではなく笑顔である。
「はいはい、今開けます。はぁ、もう少し遅い時間でも良いのに」
「何言ってんの。門限決まってるんだから、来るのはちょっとでも早い方が良いでしょ。愚痴が溜まってんのよ、愚痴が。……衣玖? なんで頭抱えて悶絶してんの?」
ちょっとでも貴方と長くいたい発言されて悶絶で済んでる私は表彰モノだと思う。
天子様マジ天使過ぎて今日も生きるのが幸せ。
「ていうかさ、人生ゲーム改作ったのよ」
「また作ったんですか」
「前回の反省点を生かして、自己破産システムと弁護士雇用システムを加えたの」
「だからなんでそんなとこがリアルに……」
「まぁでも、一人でやってもびっくりするくらいつまんないのよね」
両手にかかえた人生ゲーム一式を、畳の上に広げながら。
「だから一緒にやろう、衣玖」
満面の、私の愛する笑顔がそこにあった。
「はい、喜んで」
まずは友達ごっこから、始めましょう。
おわり
きゅんきゅんきゅん!
でも萃香がとてもらしかったのが何よりも嬉しかったです!!
なんと素敵ないくてんか! あとがきのてんこちゃんだけでごはん三杯いけます
一カ所誤用?
天子が「うちの敷地はすべからく私の管轄~」と言っていましたが、「すべからく」は「当然のこととして」の意味なのでちょっと違うかと
なにより萃香が原作っぽくて感心しましたわw
タイトルで釣られて途中で真剣に読み始めた結果がこれだよ!
不意打ちすぎたwww
心にグッと来ました
天子ちゃんまじ天子。
「袖擦り合うも多少の縁」は間違い(勘違いか誤字)で一般には「袖擦り合うも他生(または多生)の縁」です。
多少の縁があることを意味するのでなく、ちょっとした関わりも生まれる前からのめぐり合わせ、前世からの生まれ変わってくなかでの出会いですよってことを意味する少し神秘的なことわざなんです。
天子ちゃんかわいい
いくてんもいいっすね
天衣無縫
『頭領』『首領』などのような言葉とは何の関係もありません
当然、「父親」やその類の意味も含まれていません
コメントは必要無いですね!
誤用は作品を歪ませて、誤字は推敲の不足を浮かび上がらせる。せっかくの良い料理を、悪い道具で調理したせいで雑味を加えてしまっては台無しだ。
控えめな天子と押しの衣久さん超最高です!
後日談で、衣久さんの事が気になって仕方ない初々しい天子とそれ見て悶える衣久さんの話とか無いでしょうか?(チラッ
悶えましたw
天子が父に向けた言葉が、あまりに健気で、それだけで十分です。
天子ちゃんマジ天使、そういうことだろう?
そんな衣玖をも理解しようとする天子が可愛すぎて…
とても面白かったです
面白いのがイクという大人の立場から判定された、天子という子供への保護欲が、強いコンセントレーションが生んでいること。
徹底した教育者、ないしは天子の家族以上の拘束者、それがイクさん。拘束からの開放の結果が別の拘束である事からも、明らかだ。
拘束の連鎖によって、天子は折れてしまう。もとい、すり抜ける術を見つける。
天子を大人にしたのは大人で、大人の求めているものが組織や社会へ溶け込むものである、とするならば天子の作る人生ゲームはどんどんエグみを失うだろう。
なかなかに深いメッセージ性が見え隠れする物語であったが、しかし私は天子よりもイクさんの下着が見たいんですよ。
黒はイクさんやろ。黒いのはイクさんや。
そして天使。
素直じゃないようで素直な二人がよかったです。ありがとうございました。
これからこの二人がよい感じになれるとよいです。
つまり、何が言いたかったかというと可愛いよコンチクショウ。
ひぃい可愛い
いいじゃないか
ちょっと読みにくかったので-5点。四捨五入して100点。
こういう天子ちゃん好き。
衣玖さんもいいキャラだった。
って心がなりました。
自分のSSを軽く全消ししたくなったぜちくしょう!100点100点100点!!!
純粋に続きを読みたいと思わせる文章力、構成力を尊敬します。
私の言っている事分かりませんね、私ちょっと混乱しています。
とても、丁寧に作られた芸術品の様な文章でした。深刻な話を扱っているのに読後感が実にさわやかです。ありがとうございました。
それにしてもこの衣玖さんは自覚が無い、いや自覚しているが故かと思うくらい変態過ぎな気もしますがw
天子の可愛さもさることながら、KYに進化した衣玖さんマジ王子様。
正しい答えなんてものは誰にも分かりはしないもの。それなら自己満足に走るのもひとつの答えなのでしょう。
そしてその自己満足を共有出来る間柄、それもまた一つの絆の形なのかもしれませんね
それでいてあっさりと読ませてしまうのですから恐れ入ります
若干変態気味の衣玖さんも許せる…というか好きですっ!
天子ちゃんマジ天使。
衣玖さん可愛いよ衣玖さん。
You、もう押し倒しちゃいなYO!
今後のふたりに幸あれ。
作者様、あんたは最高だぜ!!
というわけで下着は黒から白に(ry
そしてここから甘々な展開に…、というのを勝手に期待
ここで終わるからいいんだって気持ちが混ざって不思議な事になっています
主役2人の話に鬼がいいアクセントになっていました
なんにしてもこの穏やかだけど動きたくなるような空気は
あなたにしか作れないので、次もその次も期待しています
どうしても楽しく愉快な感じになっちまう
そんな二人が大好きです!
≫パジャマ姿の女の子がきょどきょどしながら自分の部屋で三角座りしてこっち見てたらどうします? 何もしない自信あります? 私はない。 私もないです