なぁ橋姫、明日芝居を見に行こう。
そう誘われて、わたしはらしくもなく快諾した。実に三月ぶりの地上である。
なんでも先日地上の飲み友達(鬼)を訪ねて行った帰りに、馬車がぬかるみにはまって難儀していた商人を助けたところ、お礼に貰ったのだとか。
鬼として人から恐れられながらも、些細なことなど気にせず人助けをする心の余裕には、正直妬ましいものを感じる。
折角の芝居なんで、存分に楽しもうと思ってさ。と勇儀さん。
わたしなんて連れて行っても面倒くさいだけでしょうに。と呟くと、彼女はまぁそうなんだけどねぇ。と悪びれた様子もなく返す。
この竹を割ったような正直さ、非常に妬ましい。
存分に楽しもうと思って、魔女に本を借りて予習までしてみたのだけど、どうにも私にゃ難解すぎてねぇ。どうか橋姫に解説して貰えないかと思ってお願いにきたのさ。と快活に続ける。
はて、なぜわたしが解説を?
そう首を傾げながら尋ねると、彼女は答えずに、これ、私が持っていると失くしそうだから預かっておいてくれ。と懐から封筒を取り出した。
やっぱ解説はその道に一番通じている者を選ぶべきだろ?私はこの本を読んだときに適任者がピンと浮かんだのさ。
そう、橋姫、おまえのことだよ。と自信満々の表情で差し出されたチケットには、
「劇団○○:ウィリアム・シェイクスピア『オセロ』」と緑の文字で、書かれているではないか。
じゃあなー、明日、正午になったら迎えに来るから外出の準備しといてくれよ。と手を振りながら旧地獄へ帰る彼女の背中を見送るわたしの眼は、間違いなく怨嗟の緑色に輝いていたことだろう。
◇◇◇
翌日、わたしは不機嫌に唇を尖らせながらも、橋のたもとで勇儀さんを待っていた。
芝居の内容はなんであれ、わたしは鬼と約束をしてしまったのだ。違えるわけにはいかない。ほどなくして、正午を告げる鐘とともに、彼女は現れた。
人里に出るとあって、普段の半袖ではなく和装だった。地味な浅黄色であるにもかかわらず、その着流し方たるや非常に粋。
わたしもあのような着こなしができればなぁ、と思ったところで考えるのをやめた。今日は折角のハレの日だ。嫉妬心を昂らせるのはあまり宜しくない。
また、手に妙に大きな、桜をあしらった模様の風呂敷包みを持っているのが気になる。
一体何が入っているんです?と尋ねると彼女はわたしにそれを差し出した。
里に出るのだから余り彼らを怖がらせてはいけないと思ってね。あやうく忘れるところだったよ。
そう楽しげに呟きながら、手にした風呂敷包みから紺色のキャスケットを取り出す。
これあげるから耳を隠すのにお使いよ。と差し出された帽子をわたしは一言礼を言って受け取った。丁寧な装飾と布地から良い品であることが伺える。これは嫉妬心云々を挟む余地は無く、単純に嬉しい。
しばらく歩き洞窟を間もなく抜けるころ、わたしは一つの重要な問題点に気がついた。
勇儀さん、それ、どうするんです?と指を差して尋ねる。
いくらわたしが耳を帽子で隠そうと、勇儀さんに立派な角が生えていては全く意味が無い。
おお、危ない危ない。すっかり忘れていたよ。と彼女は明るく笑い、左の指先で軽く角の先端を抓む。
何をするのかな?とよくわからないままに見ていると、なんと彼女は右手で角の根元を軽くチョップしたではないか。
ポキリ、と軽快な音を立て、角が見事にへし折れる。
折れた角を後ろに放り投げ、さあ行こうか。と何事も無かったかのように歩き始める。
角は、鬼が鬼たる所以である。折れてしまったら神通力も怪力乱神も失い、ただの人間と変わり無くなってしまう。慌てるわたしを後目に、なぁに、明日にはまた生えるさ、と気楽に笑い彼女は懐から風呂敷を取り出し、頭に巻く。
それにしてもそれまでにトラブルに巻き込まれたらどうするんですか?今日は遠出をするんですよ?とのわたしの問いに、彼女は一言こう答えた。
「今日は橋姫が一緒なんだろ?何かあったら護っておくれよ。」
その笑顔のなんと眩しいこと。わたしは彼女に顔を見られないように、無言で先だち歩きだした。
◇◇◇
劇の内容は、特に複雑なことはない。同僚の昇進に嫉妬を燃やす旗手が、主の将軍を唆す。
姦計に陥り副官と妻の浮気を疑い、嫉妬に駆られた将軍が純真な妻を縊り殺す。
最後に悪事は全て露見して旗手は捕まり、将軍は自刃する。
同僚に対する妬み、妻に対する妬みに加え、婿に対する妬み、恋敵に対する妬み、と至るところで緑の目の怪物は牙を剥き、あらゆるものを破滅させる、非常に人間臭い悲劇である。
わたしには慣れたあの感情を、役者たちは精一杯演じていた。一点気になったのは、将軍役の役者の演技が、非常に堂に入っていたことである。
もしかしたら彼は、本当に妻の浮気を疑っているのかもしれないわね、などとどうでもよいことを考えながら、わたしたちは席を立ち、帰路に着いた。
◇◇◇
駄目だ、結局よくわからなかった。
洞窟に着き、彼女に感想を尋ねたところ、返ってきたのはこの一言だった。
ハムレットの憤怒も、リア王の傲慢も、マクベスの強欲も解るのだけど、どうにもこの嫉妬というのは、理解が難しくてねぇ…。
そういえば予習のために魔女から本を借りた、と言っていたっけ。関連作品まで手を伸ばして予習をしていたとは思っていたより生真面目な。
まぁ、仕方のないことなのかもしれない。嫉妬とは、手に入らぬものを羨み続ける弱者の持つ感情。強者である鬼として生を受け、永く山に君臨していた彼女には理解しがたいのだろう。
もちろん、わたしの能力を使えば、煽ることも可能なのだがそんなことをしても誰の幸福にもならない。
まあ、いずれ勇儀さんにも解るときが来ますよ、そのときに今日の劇を思い出せばいいんじゃないですか?
曖昧にそうごまかすと、ああ、そうするよ。と今一つ歯切れの悪い返事を返す。
そうこうしているうちに、橋に到着した。
◇◇◇
今日は楽しかったです。また連れて行って下さいね。と頭を下げると、ああ、また誘うから楽しみに待ってておくれ。と彼女は橋を渡ろうとし、一瞬何かに躊躇った様であるが、意を決した表情でこちらに向き直った。
「パルスィさ、もしお前が嫉妬に駆られても、私は簡単に縊られたりしないからさ。いずれ一緒に暮らすなら私がいいぞ。」
完全に不意を突かれ、わたしはとても間の抜けた顔をしていたことだろう。
真っ白な頭をフル稼働させ出てきた言葉は、あまのじゃくなわたしらしいものであった。
「何を言っているんですか?わたしに、あなた以外のお相手がいないとでも?」
彼女はむ、と眉を顰め、そうか、と一言だけ呟く。その胸中に、わたしのなじみ深い感情が動くのを感じる。
わたしが一言、うそですよ。と微笑むと、彼女は破顔し、あー、あー、あー、なるほどね。これか、この感覚か。と得心したように頷く。
今日はありがとな、と残し橋の中ほどまで進んで、勇儀さんは再度こちらを振り向いた。
曰く、さっきの話、本気だから考えておいておくれよ。とのこと。わたしは柄にも無く笑顔で手を振り、彼女を見送った。
桜のつぼみ綻ぶ、春先の夜の出来事である。
おしまい。
そう誘われて、わたしはらしくもなく快諾した。実に三月ぶりの地上である。
なんでも先日地上の飲み友達(鬼)を訪ねて行った帰りに、馬車がぬかるみにはまって難儀していた商人を助けたところ、お礼に貰ったのだとか。
鬼として人から恐れられながらも、些細なことなど気にせず人助けをする心の余裕には、正直妬ましいものを感じる。
折角の芝居なんで、存分に楽しもうと思ってさ。と勇儀さん。
わたしなんて連れて行っても面倒くさいだけでしょうに。と呟くと、彼女はまぁそうなんだけどねぇ。と悪びれた様子もなく返す。
この竹を割ったような正直さ、非常に妬ましい。
存分に楽しもうと思って、魔女に本を借りて予習までしてみたのだけど、どうにも私にゃ難解すぎてねぇ。どうか橋姫に解説して貰えないかと思ってお願いにきたのさ。と快活に続ける。
はて、なぜわたしが解説を?
そう首を傾げながら尋ねると、彼女は答えずに、これ、私が持っていると失くしそうだから預かっておいてくれ。と懐から封筒を取り出した。
やっぱ解説はその道に一番通じている者を選ぶべきだろ?私はこの本を読んだときに適任者がピンと浮かんだのさ。
そう、橋姫、おまえのことだよ。と自信満々の表情で差し出されたチケットには、
「劇団○○:ウィリアム・シェイクスピア『オセロ』」と緑の文字で、書かれているではないか。
じゃあなー、明日、正午になったら迎えに来るから外出の準備しといてくれよ。と手を振りながら旧地獄へ帰る彼女の背中を見送るわたしの眼は、間違いなく怨嗟の緑色に輝いていたことだろう。
◇◇◇
翌日、わたしは不機嫌に唇を尖らせながらも、橋のたもとで勇儀さんを待っていた。
芝居の内容はなんであれ、わたしは鬼と約束をしてしまったのだ。違えるわけにはいかない。ほどなくして、正午を告げる鐘とともに、彼女は現れた。
人里に出るとあって、普段の半袖ではなく和装だった。地味な浅黄色であるにもかかわらず、その着流し方たるや非常に粋。
わたしもあのような着こなしができればなぁ、と思ったところで考えるのをやめた。今日は折角のハレの日だ。嫉妬心を昂らせるのはあまり宜しくない。
また、手に妙に大きな、桜をあしらった模様の風呂敷包みを持っているのが気になる。
一体何が入っているんです?と尋ねると彼女はわたしにそれを差し出した。
里に出るのだから余り彼らを怖がらせてはいけないと思ってね。あやうく忘れるところだったよ。
そう楽しげに呟きながら、手にした風呂敷包みから紺色のキャスケットを取り出す。
これあげるから耳を隠すのにお使いよ。と差し出された帽子をわたしは一言礼を言って受け取った。丁寧な装飾と布地から良い品であることが伺える。これは嫉妬心云々を挟む余地は無く、単純に嬉しい。
しばらく歩き洞窟を間もなく抜けるころ、わたしは一つの重要な問題点に気がついた。
勇儀さん、それ、どうするんです?と指を差して尋ねる。
いくらわたしが耳を帽子で隠そうと、勇儀さんに立派な角が生えていては全く意味が無い。
おお、危ない危ない。すっかり忘れていたよ。と彼女は明るく笑い、左の指先で軽く角の先端を抓む。
何をするのかな?とよくわからないままに見ていると、なんと彼女は右手で角の根元を軽くチョップしたではないか。
ポキリ、と軽快な音を立て、角が見事にへし折れる。
折れた角を後ろに放り投げ、さあ行こうか。と何事も無かったかのように歩き始める。
角は、鬼が鬼たる所以である。折れてしまったら神通力も怪力乱神も失い、ただの人間と変わり無くなってしまう。慌てるわたしを後目に、なぁに、明日にはまた生えるさ、と気楽に笑い彼女は懐から風呂敷を取り出し、頭に巻く。
それにしてもそれまでにトラブルに巻き込まれたらどうするんですか?今日は遠出をするんですよ?とのわたしの問いに、彼女は一言こう答えた。
「今日は橋姫が一緒なんだろ?何かあったら護っておくれよ。」
その笑顔のなんと眩しいこと。わたしは彼女に顔を見られないように、無言で先だち歩きだした。
◇◇◇
劇の内容は、特に複雑なことはない。同僚の昇進に嫉妬を燃やす旗手が、主の将軍を唆す。
姦計に陥り副官と妻の浮気を疑い、嫉妬に駆られた将軍が純真な妻を縊り殺す。
最後に悪事は全て露見して旗手は捕まり、将軍は自刃する。
同僚に対する妬み、妻に対する妬みに加え、婿に対する妬み、恋敵に対する妬み、と至るところで緑の目の怪物は牙を剥き、あらゆるものを破滅させる、非常に人間臭い悲劇である。
わたしには慣れたあの感情を、役者たちは精一杯演じていた。一点気になったのは、将軍役の役者の演技が、非常に堂に入っていたことである。
もしかしたら彼は、本当に妻の浮気を疑っているのかもしれないわね、などとどうでもよいことを考えながら、わたしたちは席を立ち、帰路に着いた。
◇◇◇
駄目だ、結局よくわからなかった。
洞窟に着き、彼女に感想を尋ねたところ、返ってきたのはこの一言だった。
ハムレットの憤怒も、リア王の傲慢も、マクベスの強欲も解るのだけど、どうにもこの嫉妬というのは、理解が難しくてねぇ…。
そういえば予習のために魔女から本を借りた、と言っていたっけ。関連作品まで手を伸ばして予習をしていたとは思っていたより生真面目な。
まぁ、仕方のないことなのかもしれない。嫉妬とは、手に入らぬものを羨み続ける弱者の持つ感情。強者である鬼として生を受け、永く山に君臨していた彼女には理解しがたいのだろう。
もちろん、わたしの能力を使えば、煽ることも可能なのだがそんなことをしても誰の幸福にもならない。
まあ、いずれ勇儀さんにも解るときが来ますよ、そのときに今日の劇を思い出せばいいんじゃないですか?
曖昧にそうごまかすと、ああ、そうするよ。と今一つ歯切れの悪い返事を返す。
そうこうしているうちに、橋に到着した。
◇◇◇
今日は楽しかったです。また連れて行って下さいね。と頭を下げると、ああ、また誘うから楽しみに待ってておくれ。と彼女は橋を渡ろうとし、一瞬何かに躊躇った様であるが、意を決した表情でこちらに向き直った。
「パルスィさ、もしお前が嫉妬に駆られても、私は簡単に縊られたりしないからさ。いずれ一緒に暮らすなら私がいいぞ。」
完全に不意を突かれ、わたしはとても間の抜けた顔をしていたことだろう。
真っ白な頭をフル稼働させ出てきた言葉は、あまのじゃくなわたしらしいものであった。
「何を言っているんですか?わたしに、あなた以外のお相手がいないとでも?」
彼女はむ、と眉を顰め、そうか、と一言だけ呟く。その胸中に、わたしのなじみ深い感情が動くのを感じる。
わたしが一言、うそですよ。と微笑むと、彼女は破顔し、あー、あー、あー、なるほどね。これか、この感覚か。と得心したように頷く。
今日はありがとな、と残し橋の中ほどまで進んで、勇儀さんは再度こちらを振り向いた。
曰く、さっきの話、本気だから考えておいておくれよ。とのこと。わたしは柄にも無く笑顔で手を振り、彼女を見送った。
桜のつぼみ綻ぶ、春先の夜の出来事である。
おしまい。
今後とも、特に読みやすさには力を注ぎ精進いたしますので、気が向かれた方は是非とも次回作も宜しくお願い致します。
四苦八苦してイメージしたCP物は、馬脚を顕さぬ様、出来るだけシンプルにする必要があるのです。