屍体とはかわいいものである。
特に女の子の屍体は特別かわいいものである。
飾りたい。
地霊殿のエントランスホールに、綺麗に着飾って飾りたい。
そんなことを考えて、こいしはいつも墓場の周りをうろうろしている。
こいしのイドは心に対してほぼ完璧に無関心、他人に対して比較的無関心で、どちらかといえば部分的に興味を抱くという性質を持つ。
例えば目、例えば指先、例えばおっぱい。
屍体は全体が部分でお得。
意味が不明か。不明が意味か。
どうせ伝達なんてしようともしていない。
だからどうでもいい思考。
こいし考。
屍体はいいの。
ラブリーで好きなの。
余計な付属品がなくてお得なの。
なにが余計かと言えば、当然心というもの。
まあ屍体も少しは考えたりすることがあるのが幻想郷であるが、心を映し出す鏡の役割をしているのは、だいたいは脳髄であるといわれていて、屍体は脳髄が腐っているから、心の大部分も失われている……かもしれない。脳髄は考えるところにあらずなんて考えもあるので一概にはいえないのだが、例えば死についての三兆候説から言えば、脳死はその最たるものと捉えられているのであるし、脳は生と同値である。
ともかく、こいしが好きなのは全体ではなく部分なのだ。
その人物の総合的な表象にはたいして関心を抱かず、部分的な装置として興味を抱いている。
本当は例えばその人物の指先に興味を抱けば、指先だけプツっと取って、お持ち帰りしたい。
でもそうすると多くの場合、その興味がある部分についての特性が失われることを知っている。本体から切り離された部分はもはや部分ではなくなり、要するに本体だ。
したがって、こいしはしかたなく本体をくっつけたままで部分を手に入れようとする。
うん。まあそんなことはどうでもいい話かもしれない。
こいしが興味を抱くプロセスなんて、ほとんどの場合、他者にとっては意味不明であるし、べつに主体がこいしじゃなくても他者は向こう側の存在なのだから、内的なプロセス――他人がどう考えどう思ったかについて興味の対象になることはさほどないだろう。テレビデオがどうして映像を映すかということについて興味を抱くより、映されている映像に興味を抱く人のほうが圧倒的に多いのと同じだ。
中身なんてどうでもいい。
心なんてどうでもいい。
いや本当はどうでもいいわけではないのだけれど、本当のプロセスを知りたいというのではなくて、外的にあらわされる記号のやりとりにおいて、快楽主義的にコミュニケーションをとるということが好きなのだ。だから、心というものを人間はいつも知りたいと願っているが、それは自分が見たいものを見たいというだけのこと。べつに相手が人間じゃなくてペットでも会話を試みるし、極端な話、壊れかけのラジオに話しかけて満足することもある。
本当に知りたいというわけではなくて、隣家を覗き見したいのと同じ。
違うかしら?
「お?」
「お?」
こいしが墓場で発見したのは、とてもかわいらしい女の子の屍体だった。
動き回る屍体。
ぴょんぴょんとジャンプしている屍体である。
活きがよい、あるいは逝きがよい。
「屍体さん?」
「なんだ、おまえ」
「私? 私はしがない旅人よ。幻想郷を放浪しているの」
「ふーん。そーかー」
「あなたは何をしているの?」
「ここを守っているんだぞ」
「ここ? 墓場を? なんのために」
「せーががそう言ったからだぞ」
「せーがー? ゲームメイカーさんの名前?」
「ん?」
「ん?」
「おまえは誰だ?」
「私は私。幻想郷を放浪しているふわふわガール」
「ふわふわしてるのか?」
「そう、とてもふわふわしているわ。不定形生物よ」
「ふていけーってなんだ? おいてけーの仲間か?」
「形が定まらないの」
「柔らかいのか?」
「柔らかいの」
「どのくらい柔らかいんだ。せーがのおっぱいより柔らかいのか。すごいぞそれは!」
急に何かを思いついたような顔になって。
「ここから先はいかせないぞ」
「べつに行こうとしていないわ?」
「おまえは誰だ」
「あなたではない誰か」
「意味不明だぞ」
「論理的にはそうだけど、無意識的には正しいことを言ってるつもり」
「ともかく行かせないぞ」
「どこにも行くつもりはありません」
そもそものところ――
こいしはこいしであり、どこにもいけない。
【私】
がいるのは常に
【ここ】
としか言いようがない。
そんな哲学的なことを考えつつも、こいしはもう一歩だけ、かわいい屍体に近づいた。
「あなた、お名前は?」
偏執。
こいしが他人の名前を聞くのは稀で、ほとんど例外的なことだった。
それほど目の前の屍体が魅力的だったのである。
「わたしか? わたしは芳香だぞ。宮古芳香」
「芳香ちゃん?」
「そうだぞ。おまえは誰だ」
「私は誰だという質問は無限に細分化できる。となると、どこまでいっても確定的な答えはでないわ。例えば地獄の底からやってきたラブリービジターですと言っても、それは古明地こいしの一属性をあらわしているに過ぎず、私の部分に過ぎない」
「なまえ聞いてるんだぞ。おまえアホの子なのか」
「そう、名前。名前だけが私という存在の全体をあらわす表象となりうる。だから名前を他人に教えるのはとても怖いことだわ。だって、二人が知り合ってしまうのだから」
無関心。
こいしの心は偏執と無関心の二重奏だ。
どちらが選択されるかは、無意識によるといえるし、外部的にみればこいしの気まぐれによる。
今回に限って言えば、わずかながら好奇心が勝ったようだ。
「私の名前は古明地こいしって言うの」
「んーそうかー」
「一大決心が華麗にスルーされた気分!」
「おまえ、ここから先に行くつもりか?」
「いいえ。私はここから先に行くつもりはないわ」
「おまえなにしにここに来た!」
「偶然。ふわふわしてたらたどり着いたの」
「ここから先に行くつもりか?」
「特に今は行く気分じゃないわ。それよりもあなたのほうに興味があるの」
「わたしに興味があるのか? せーがが言ってたぞ。知らない人に声をかけられたらきをつけなさいって。よしかはかわいいからあぶないって」
「私はあなたと同じく連れさられるほうだと思うのだけど」
「んー」
そしてまた何かを思いついたような顔。
「おまえは誰だ」
「……んー。芳香ちゃんは時間が壊れてるのかな」
「時間は夜だぞ。暗いしな!」
「芳香ちゃんは眠らないの?」
「眠る必要なんてないしな。我らは死んでるからもともと眠らない!」
「だから時間が壊れてるのかな?」
こいしはその小さな頭の中でめまぐるしく計算する。
目の前の屍体についての情報を少しでも得ようと試みる。
そうしないと、こいしは現実に触れることができないから。
いや、あるいは過剰なまでに現実に接しているせいで、現実と折り合いをつけることができないから。
情報を得なければならない。
他の人よりも多くの計算をしなければならない。
すべてこいしの属性が原因だ。
こいし自身もわかっている。
とりあえず興味にばかり計算を割いていたら、ずっと起きてたりしてお肌が荒れたり、あるいは餓死寸前にまでなったりするので、少しはこいしの肢体を生かすための計算をしなければならない。
運が良いのか、こいしの計算能力は普通よりも高いらしく、すぐにピンときた。
類似の情報を記憶の中から探ってあてはめるなんてことはよくやってることだし、経験則こそはこいしが生きていくためのフォーマットでもあるのだ。
こいしの記憶の中で屍体と一番近いのは幽霊だった。
そもそも動きまわる屍体なんてあまり見たことがないが、幽霊ならたくさん見かけたことがある。幽霊も動き回る。
幽霊と屍体は死んでいるという点で共通項があるから似ているのかもしれない。
幽霊は時間が壊れていた。
これはこいしの視点で見てという話。
幽霊は不定形で、曖昧な存在だから、時折話を聞いてみても意味が通じることはほとんどない。こいしのせいではなく、おそらくは大多数の人間が聞いても同じ反応を返すだろう。彼らは時間が経つと自然消滅する程度の存在感しかないが、その消滅過程はほとんど同じパターンをたどることが多い。
まずは時間が壊れる。
正確には時間の観念がなくなる。
同じ時間をいったりきたり。短い線分の時間をいったりきたり。物を覚えず、限られた事柄だけを繰り返す。
次の段階は論理が壊れる。
言葉のつながりをうまく出力することができなくなる。たとえれば、【今日は雨が降っていたので晴れていた】といった会話をする。その前段階として【あれ】やら【それ】といった指示語が多くなったり、あるいは小さな事柄を極端におおげさに言ったりすることもあるのだが、最終的には言葉が破綻する。
最後には感情が壊れる。
まあここまで来る前にはだいたい消滅するのだが、最後には外形的には虫のようになるという話。こういう観察結果を人間に伝えると、だいたいは嫌な顔をされる。
幽霊とは元人間だし、人間の最終過程がそういうふうだという事実に、なぜか嫌悪感を抱くのだ。
こいしにはわからない。
こいしは時間も論理も感情も壊れているわけではない。
でも、こいしは人間とうまく話すことができない。なぜだろう。考えても考えても考えても考えても答えはでない。大好きなお姉ちゃんに聞いても知らないというのだ。
そこでこいしは言葉を出力する前の、入力段階について考えてみた。
ご存知の通りと前置きをしよう。
多くの人間は考えることをやめることができるという才能を持っているから、知ってはいても考えてはいないことも多いのだが……、まあそれはともかくとして。
――情報
という言葉を人間はよく使っている。
この情報という言葉には二通りの意味がある。
ひとつはデータ。文字通りの意味で生のデータ。0と1であらわされる情報構成のこと。
ふたつめはメッセージ。ひとつめのデータを適切な過程を経て出力される情報の意味。
こいしが壊れているというか、普通の人と違うのは、一つ目から二つ目へと移る過程である。
そう、こいしは考えている。
こいしの認知する力はむしろ普通の人間や妖怪よりもずっと正確で素早い。
生のデータを受け取る能力はすさまじく高性能なのだ。
けれど。データからメッセージに変換する過程――いわゆるデコードがうまくいかない。
デコーダが壊れている?
あるいはそう言われてもしかたないのかもしれない。
少なくとも多数決的に言えば、きっとそうなのだろう。
こいしは生のデータに直接的に触ることすらできる。通常人が絶対にたどり着けない現実に到達することすらできる。
だから、こいしと普通の人とは言葉が通じない。
通じなくて当然。
どちらが良いとか悪いとかでもない。
いわばガラスを隔てて、水槽の中の魚を見ているようなもの。
魚にとってはこちらこそが囚われているのかもしれないし、あるいはそんなこと考えていないのかもしれないし、わかりあうことはないのだろう。
目に映る。
ただそれだけ。
では――。
ここにいる芳香というキョンシーはいったいどこが壊れているのだろう。
壊れているという言葉を使うと怒られるかもしれないので、不具合が出ているとか、あるいはちょっとマイルドな表現をしてみてもいいけれど。
要は普通と違うのはどこなのだろう。
こいしは数を数えるのが得意だから、多数派と違うという表現をよく使う。
だから、ここで断っておくが、普通と違うというのは、単に数が少ないという意味でしかなく、そこにはなんらかの価値が混入したりはしていない。良いも悪いもなく。善も悪もない。あるいは優越感や劣等感とも無縁。
単に事実としてそうなのだという意味しかない。
そういった意味で、単に事実としての意味で、多数派ではなく少数派であるところの芳香はいったいどのプロセスが壊れているのだろう。
こいしは、デコーダが壊れているわけではないと考えた。
データの受信装置が壊れているのだろう。
データが壊れているといってもよい。認識が壊れている。
こいしと芳香は似ているようで、壊れている部分が違うのだ。
「ん!」
芳香はビクンと反応した。
こいしは、ん? と小さく微笑みかける。
「おまえは誰だ!?」
「私はこいし。しがない一匹妖怪よ」
「知らないやつだ……、おまえはここを通る気だな!?」
「通る気はないわ」
こいしのなかに生じたのは、一種の連帯感のようなものだった。
芳香とこいしは壊れている部分が違うけれども、どちらも壊れているという意味では同じだ。
だから共感した。
こいしが誰かに共感するなんて、亀が逆立ちして歩くようなものなのだが、たまにはそういったことが奇跡的に起こる可能性だって存在する。こいしはちゃんと心があり感情もあるのだし。
ただ、少なくとも普通のデコードとは異なるから、誤解が生じやすい。
それをこいしもよく理解していて、だから経験則で補っている。
説明を過剰に加えてみたり、時には比喩表現を用いたりもする。
こんなにもコミュニケーションを取ろうとしている個体もいないのではないかと思うぐらい。
「ねえ。芳香ちゃん。おうちに来る?」
「ん? うちか。わたしのおうちはここだぞ」
「でも墓場でひとりきりなんて寂しいわ。地霊殿ならたくさんのペットがいるし、お姉ちゃんもいるし、寂しくないと思うんだけど」
「わたしはせーががいるから寂しくないぞ!」
「ゲームメイカーさんがいるから寂しくないの?」
「よくわかんないけど寂しくないぞ」
「時間が壊れているあなたにとっては、三分前の出来事が無限に感じられるんじゃないかしら。永遠の一秒に閉じこめられているのなら、お姉ちゃんや周りのペットがずっとそばにいてくれる地霊殿のほうがあなたにとっての幸せなんじゃないかしら」
「しあーせってなんだ?」
「考えないことかしら?」
「じゃあ、わたしはしあーせだぞ。なにしろほとんど何も考えてないからな!」
「でもあなたのように時間が壊れた存在をこんなにひとりで放っておくなんて、よくない飼い主だわ。お姉ちゃんが知ったらきっと怒るに違いないわ」
「べつにいいんじゃないかー?」
「そう……」
時間は壊れているけれど、芳香のほうが会話する能力という意味ではずっと正常に機能しているように思う。
ずっと壊れっぱなしというわけでもないのだ。
少しは正常と呼ばれる方向に近づいていく。
正常と異常をいったりきたりしながらも方向性としては訓練が可能だ。
例えばこいしはずっと前に幽霊の一匹を無理やり地獄の釜から引っ張ってきて、しばらく飼ってみたことがあるのだが、時間が壊れたその幽霊も二週間もすれば場に慣れていた。あいかわらず会話はむちゃくちゃで、通じているとは言いがたかったが、なんとなくこいしの意図を察して、行動することができていたように思う。
例えば、ご飯時はテーブルに着席すること。
そういうふうに何度も何度も教えれば、時間が壊れていても、いずれはスムーズに行動するようになる。
12時になりました。席に座りましょう。
幽霊はふわふわとした調子で着席する。
デコードが正常に機能しているから、そうすることができる。データは壊れているから、12時が12時であると認識されるまでに何度も何度もインプットしないといけないけれど、12時であれば食事をするのだなという解釈はこいしよりもずっとうまいのだ。
こいしの場合は、12時になれば食事をするというのを無限に思えるデータの中から検索し、そして最善と思える行動を出力しているのである。デコーダが壊れているのでしかたない。最善と思える行動をその場その場で計算するか検索するかしかない。
こいしと芳香と正常人という三つのカテゴリがあるとすれば、芳香のほうがずいぶんと正常に近い。
こいしが正常という軸に戻ることは至難だ。そもそもそういうフォーマットが存在しない。けれど芳香のほうはデータが壊れていることを除けばデコード自体は正常なのだから、感情や言葉もずっと正常人に近い。
こいしにとってはひどく羨ましくて、そしてズルいという感覚。
いつかの時に飼っていた幽霊は飽きて潰した。
「ん。おまえ誰だ!?」
「私はあなたではない者。そして今はあなたを殺したいと思っている者よ」
「わたしは既に死んでいるから、これ以上死なないぞ」
「もっともな話だわ。でもそれなら無言のままがいいと思うのだけど。おしゃべりな屍体さんなんて無粋だし。せっかくのかわいい顔が台無しだと思わないかしら。芳香ちゃん」
「む。わたしの名前がよしかだとどこで知ったのだ! おまえはもしかしてスパイだな!?」
「自分、草いいですか?」
スパイのことを古い言葉では草と呼んでいたので、ちょっと高等な冗談を言ってみたのである。
後悔はしていないし、後悔する心ももちあわせていないが、恥ずかしくはあった。
こいしはデコーダが壊れているけれど、外形的には普通に美少女なのだ。内的世界もそこそこ少女っぽさが見受けられる。
だからくだらないジョークはそこそこ恥ずかしいのである。
「ここは通さないぞ。せーがが通しちゃダメって言ってるからな」
「通る気なんてないわ。私はあなたが欲しいのよ。エントランスホールに飾りたいの」
「わたしはどこにも行かない。だってせーがは来てくれるからな。いつかはわからないけど、ぜったいきてくれるからな」
「ゲームメイカーさんを信頼しているの?」
「しんらいってなんだ」
「対象となる人物がどういうふうに動くかを予測できるってこと」
「よくわかんないぞ! おまえはわたしを撹乱させようとしているな! わかったぞ。おまえは敵だな!」
「攻撃する意図はないわ。さっきはちょっぴり殺したいと思ってしまったけど、よく考えたらキョンシーって誰かのモノってことなのよね。人のモノを壊してはいけないってお姉ちゃんが言ってたわ。ふぅ……危なかった。もう少しでお姉ちゃんに怒られるところだった」
こいしは胸をなでおろす。
お姉ちゃんが悲しもうが、泣こうが、わめこうが、あまり心苦しくなったりはしないこいしだが、なんとなく避けたい気分が働くことも多いこいしである。快楽原則が壊れているこいしでも比較的正常なデコードが可能な部分が残されているのかもしれない。
それが、姉、古明地さとりに関する事柄だ。
こいしが生きていくための雛形として、さとりの規範はフォーマットになりうる。
まったく理解できないし知りもしない外国語をそのままそっくり書き写す作業に似ている。
デコーダが壊れていても、そうやって普通らしさを装うことで生きていくことはできる。
「普通らしく好きなものを手に入れる方法って何かしら……」
そもそも好きって何かしら。
恋ってなにかしら。
恋は来いを語源として、こいしから湧き上がるものではなく、埃のように空中に散布されているものじゃないかしら。
それでそれをたまたま吸いこんだら花粉症みたいに発症する。
私の中のデコーダが震えてる。
何かを形にしようと。
ひとつの巨大な隠喩。
たぶんそれが何なのか苦労もしないでわかっているのが、いや、わからずとも、自分という存在を確定させることができるのが、正常な装置。
言葉としては知っている。
実体としては知らない。
――愛
というもの。
同一のデコーダを持つものどうしが、データを共有しあうことを、そう呼んでいるらしい。
こいしは異なるデコーダを持つから、共有なんかできるわけがない。
まだ、腐った屍体のほうが共有しあえる可能性がある。
データは壊れているけれどデコーダは壊れていないから。共有しあえる部分がある。
だから、こいしが目の前にいる芳香に殺意を抱いたとしても、それは至極まっとうな理論であり、なにも異常なところはない。
嘘つきは死ねばいいのにと思うのと極端な話、同じだ。
「芳香ちゃんはどちらかといえば、私が知らないことを知ってるんだね」
「んー。おまえは誰だ」
「私は私。こいしはこいし。そうとしか答えようがないわ」
違う。
それは嘘。
本当は、こいしは【私】を知らない。
私というのは象徴的な記号、φのこと。
一枚の大きな鏡。
だとすれば、こいしの鏡はひび割れていて、時々ゆがんでいたりするのだ。
φは壊れたねって、砕け散った鏡が、主張している。
こいしは、自我と他我の区別がよくつかなかったりするけれど、空中に散布された鏡を拾い集めるようにして、そうやって無限に思える努力を経て、【私】という言葉を使うのだ。
こいしは努力家ですから。
「そうか。ここから先は行かせないぞ」
「古明地こいし、どこから来てどこへ行く」
「てつがくだな!」
「そんな大仰なものじゃないよ。単に今日はどこにお散歩しにいこうかしら程度の意味しかないわ」
こいしはそういって帽子の位置を自分の良い具合になおした。
「少しは期待していたところもあるのかもしれないわ。あなたは壊れているから、もしかしたらあなたとなら言葉を交わせるのかもしれないって。もしかしたら共有できるかもしれないって。それは多数決的に言えば、少数派ではあるけれども、それでも擬似的に正常人の気持ちを味わえるんじゃないかって」
データ共有による快楽を。
わかりあえたって気持ちを。
「でも、無理みたい。あなたはあなたで壊れているようだけれども、私とは違う壊れ方だもの」
「よくわからないことを言ってるな! ここは通さないぞ」
「通るつもりなんかないわ」
この会話を傍から見ていたら正常人は面倒だなと思う確率が高そうだ。
こいしは、そもそもそんな会話を四六時中おこなっているようなものだ。
あなたたちの会話は嘘だらけ。
幻想を真実としている。
デコーダによる情報共有を真実と誤解している。
そうじゃない。
それはみんなでつくりあげた幻想に過ぎない。
現実は、データは、あなたたちには決して到達しえない彼岸に存在する。
なぜなら、あなたたちの超自我は自動的にデコードしてしまうから。
デコードを意図的に停止できるのは、ここにいるこいしだけ。
「ん。あ、せーがだ!」
墓場の向こう側から、ふわふわと空を飛んでやってきたのは、何度も芳香の話にでているゲームメイカーさんだった。
こいしは急いでその場から離れ、木の陰からこっそり覗く。
もちろん他人から認識されない能力を駆使して、全力で隠れている。
他人が怖いわけではない。
ただ、ゲームメイカーさんはこいしとは違うルールを持っていて、違う演劇をしているようだから、その演劇を邪魔したらいけないと思って隠れたのだ。
こいしもたまには演劇に参加することはあるけれど、ゼロから覚えていくのは大変で、だからよく観察しようとする。
結果として覗き見していることが多い。
「今日はちゃんとここにいたようね」
「当然だぞ。せーがが守れって言ったからな。覚えてたぞ!」
「うん。いーこいーこ」
青娥に優しく頭を撫でられて、芳香は本当に嬉しそうだった。
その頭を撫でられているという時間も、瞬間的に生滅しているのかもしれないが、ともかくこいしの目の前で繰り広げられている映像は、こいしの長年の観察結果に基づけば、デコードの共有状態であろうと推測できた。
いずれは芳香もさらにデータの崩壊が進んで、青娥のこともわからなくなってしまうのかもしれないが、それでも停止する最後の瞬間まで、芳香はデコードされたデータを共有しようとするだろう。
こいしはその外形を繕うことしかできないのに。
こいしはふわりと飛び上がり、地霊殿に帰ることにする。
もはやここにこいしの居場所はない。
地霊殿に帰ると大好きなお姉ちゃんが待っていた。
いや、べつに好きとか嫌いとかそういうことを思わないわけではないよ。
わざとそう思いこんでいるというか、演技しているとか、そういったところもあるけれど、これは嘘に対する受容だ。
あなたたちが無意識の裏側に押しこめて隠したものを、気づかないフリしてあげてるだけ。
「おかえりなさい、こいし」
「ただいまお姉ちゃん」
抱擁して。
意味もわからず頭を撫でられて。
こいしはいつものシークエンスに従って、えへへとはにかんだ。
そうすると、さとりは安心したのか、ほっとした表情になった。
古明地さとりは正常人で、デコードを共有しようとするのだから、こいしを放っておけないのは当然だし、こいしと話をしたいと思うのも当然だ。
置き換えは可能だろう。
こいしが芳香と同じようにデータが壊れているタイプだったとしても、さとりは抱き寄せて、頭を撫でようとするだろう。
嫌いじゃないよ。
嘘つきだらけのこの世界で、そういう幻想があふれているのは知っているから。
けれど、古明地さとりにだけは気づいて欲しいと思っているのかもしれない。
だから、こんなにも殺意が膨らんでくるのかもしれない。
本当に瞳を閉じているのは、お姉ちゃんのほうだって。
その日、こいしはペットの一匹を無意識に殺した。
特に女の子の屍体は特別かわいいものである。
飾りたい。
地霊殿のエントランスホールに、綺麗に着飾って飾りたい。
そんなことを考えて、こいしはいつも墓場の周りをうろうろしている。
こいしのイドは心に対してほぼ完璧に無関心、他人に対して比較的無関心で、どちらかといえば部分的に興味を抱くという性質を持つ。
例えば目、例えば指先、例えばおっぱい。
屍体は全体が部分でお得。
意味が不明か。不明が意味か。
どうせ伝達なんてしようともしていない。
だからどうでもいい思考。
こいし考。
屍体はいいの。
ラブリーで好きなの。
余計な付属品がなくてお得なの。
なにが余計かと言えば、当然心というもの。
まあ屍体も少しは考えたりすることがあるのが幻想郷であるが、心を映し出す鏡の役割をしているのは、だいたいは脳髄であるといわれていて、屍体は脳髄が腐っているから、心の大部分も失われている……かもしれない。脳髄は考えるところにあらずなんて考えもあるので一概にはいえないのだが、例えば死についての三兆候説から言えば、脳死はその最たるものと捉えられているのであるし、脳は生と同値である。
ともかく、こいしが好きなのは全体ではなく部分なのだ。
その人物の総合的な表象にはたいして関心を抱かず、部分的な装置として興味を抱いている。
本当は例えばその人物の指先に興味を抱けば、指先だけプツっと取って、お持ち帰りしたい。
でもそうすると多くの場合、その興味がある部分についての特性が失われることを知っている。本体から切り離された部分はもはや部分ではなくなり、要するに本体だ。
したがって、こいしはしかたなく本体をくっつけたままで部分を手に入れようとする。
うん。まあそんなことはどうでもいい話かもしれない。
こいしが興味を抱くプロセスなんて、ほとんどの場合、他者にとっては意味不明であるし、べつに主体がこいしじゃなくても他者は向こう側の存在なのだから、内的なプロセス――他人がどう考えどう思ったかについて興味の対象になることはさほどないだろう。テレビデオがどうして映像を映すかということについて興味を抱くより、映されている映像に興味を抱く人のほうが圧倒的に多いのと同じだ。
中身なんてどうでもいい。
心なんてどうでもいい。
いや本当はどうでもいいわけではないのだけれど、本当のプロセスを知りたいというのではなくて、外的にあらわされる記号のやりとりにおいて、快楽主義的にコミュニケーションをとるということが好きなのだ。だから、心というものを人間はいつも知りたいと願っているが、それは自分が見たいものを見たいというだけのこと。べつに相手が人間じゃなくてペットでも会話を試みるし、極端な話、壊れかけのラジオに話しかけて満足することもある。
本当に知りたいというわけではなくて、隣家を覗き見したいのと同じ。
違うかしら?
「お?」
「お?」
こいしが墓場で発見したのは、とてもかわいらしい女の子の屍体だった。
動き回る屍体。
ぴょんぴょんとジャンプしている屍体である。
活きがよい、あるいは逝きがよい。
「屍体さん?」
「なんだ、おまえ」
「私? 私はしがない旅人よ。幻想郷を放浪しているの」
「ふーん。そーかー」
「あなたは何をしているの?」
「ここを守っているんだぞ」
「ここ? 墓場を? なんのために」
「せーががそう言ったからだぞ」
「せーがー? ゲームメイカーさんの名前?」
「ん?」
「ん?」
「おまえは誰だ?」
「私は私。幻想郷を放浪しているふわふわガール」
「ふわふわしてるのか?」
「そう、とてもふわふわしているわ。不定形生物よ」
「ふていけーってなんだ? おいてけーの仲間か?」
「形が定まらないの」
「柔らかいのか?」
「柔らかいの」
「どのくらい柔らかいんだ。せーがのおっぱいより柔らかいのか。すごいぞそれは!」
急に何かを思いついたような顔になって。
「ここから先はいかせないぞ」
「べつに行こうとしていないわ?」
「おまえは誰だ」
「あなたではない誰か」
「意味不明だぞ」
「論理的にはそうだけど、無意識的には正しいことを言ってるつもり」
「ともかく行かせないぞ」
「どこにも行くつもりはありません」
そもそものところ――
こいしはこいしであり、どこにもいけない。
【私】
がいるのは常に
【ここ】
としか言いようがない。
そんな哲学的なことを考えつつも、こいしはもう一歩だけ、かわいい屍体に近づいた。
「あなた、お名前は?」
偏執。
こいしが他人の名前を聞くのは稀で、ほとんど例外的なことだった。
それほど目の前の屍体が魅力的だったのである。
「わたしか? わたしは芳香だぞ。宮古芳香」
「芳香ちゃん?」
「そうだぞ。おまえは誰だ」
「私は誰だという質問は無限に細分化できる。となると、どこまでいっても確定的な答えはでないわ。例えば地獄の底からやってきたラブリービジターですと言っても、それは古明地こいしの一属性をあらわしているに過ぎず、私の部分に過ぎない」
「なまえ聞いてるんだぞ。おまえアホの子なのか」
「そう、名前。名前だけが私という存在の全体をあらわす表象となりうる。だから名前を他人に教えるのはとても怖いことだわ。だって、二人が知り合ってしまうのだから」
無関心。
こいしの心は偏執と無関心の二重奏だ。
どちらが選択されるかは、無意識によるといえるし、外部的にみればこいしの気まぐれによる。
今回に限って言えば、わずかながら好奇心が勝ったようだ。
「私の名前は古明地こいしって言うの」
「んーそうかー」
「一大決心が華麗にスルーされた気分!」
「おまえ、ここから先に行くつもりか?」
「いいえ。私はここから先に行くつもりはないわ」
「おまえなにしにここに来た!」
「偶然。ふわふわしてたらたどり着いたの」
「ここから先に行くつもりか?」
「特に今は行く気分じゃないわ。それよりもあなたのほうに興味があるの」
「わたしに興味があるのか? せーがが言ってたぞ。知らない人に声をかけられたらきをつけなさいって。よしかはかわいいからあぶないって」
「私はあなたと同じく連れさられるほうだと思うのだけど」
「んー」
そしてまた何かを思いついたような顔。
「おまえは誰だ」
「……んー。芳香ちゃんは時間が壊れてるのかな」
「時間は夜だぞ。暗いしな!」
「芳香ちゃんは眠らないの?」
「眠る必要なんてないしな。我らは死んでるからもともと眠らない!」
「だから時間が壊れてるのかな?」
こいしはその小さな頭の中でめまぐるしく計算する。
目の前の屍体についての情報を少しでも得ようと試みる。
そうしないと、こいしは現実に触れることができないから。
いや、あるいは過剰なまでに現実に接しているせいで、現実と折り合いをつけることができないから。
情報を得なければならない。
他の人よりも多くの計算をしなければならない。
すべてこいしの属性が原因だ。
こいし自身もわかっている。
とりあえず興味にばかり計算を割いていたら、ずっと起きてたりしてお肌が荒れたり、あるいは餓死寸前にまでなったりするので、少しはこいしの肢体を生かすための計算をしなければならない。
運が良いのか、こいしの計算能力は普通よりも高いらしく、すぐにピンときた。
類似の情報を記憶の中から探ってあてはめるなんてことはよくやってることだし、経験則こそはこいしが生きていくためのフォーマットでもあるのだ。
こいしの記憶の中で屍体と一番近いのは幽霊だった。
そもそも動きまわる屍体なんてあまり見たことがないが、幽霊ならたくさん見かけたことがある。幽霊も動き回る。
幽霊と屍体は死んでいるという点で共通項があるから似ているのかもしれない。
幽霊は時間が壊れていた。
これはこいしの視点で見てという話。
幽霊は不定形で、曖昧な存在だから、時折話を聞いてみても意味が通じることはほとんどない。こいしのせいではなく、おそらくは大多数の人間が聞いても同じ反応を返すだろう。彼らは時間が経つと自然消滅する程度の存在感しかないが、その消滅過程はほとんど同じパターンをたどることが多い。
まずは時間が壊れる。
正確には時間の観念がなくなる。
同じ時間をいったりきたり。短い線分の時間をいったりきたり。物を覚えず、限られた事柄だけを繰り返す。
次の段階は論理が壊れる。
言葉のつながりをうまく出力することができなくなる。たとえれば、【今日は雨が降っていたので晴れていた】といった会話をする。その前段階として【あれ】やら【それ】といった指示語が多くなったり、あるいは小さな事柄を極端におおげさに言ったりすることもあるのだが、最終的には言葉が破綻する。
最後には感情が壊れる。
まあここまで来る前にはだいたい消滅するのだが、最後には外形的には虫のようになるという話。こういう観察結果を人間に伝えると、だいたいは嫌な顔をされる。
幽霊とは元人間だし、人間の最終過程がそういうふうだという事実に、なぜか嫌悪感を抱くのだ。
こいしにはわからない。
こいしは時間も論理も感情も壊れているわけではない。
でも、こいしは人間とうまく話すことができない。なぜだろう。考えても考えても考えても考えても答えはでない。大好きなお姉ちゃんに聞いても知らないというのだ。
そこでこいしは言葉を出力する前の、入力段階について考えてみた。
ご存知の通りと前置きをしよう。
多くの人間は考えることをやめることができるという才能を持っているから、知ってはいても考えてはいないことも多いのだが……、まあそれはともかくとして。
――情報
という言葉を人間はよく使っている。
この情報という言葉には二通りの意味がある。
ひとつはデータ。文字通りの意味で生のデータ。0と1であらわされる情報構成のこと。
ふたつめはメッセージ。ひとつめのデータを適切な過程を経て出力される情報の意味。
こいしが壊れているというか、普通の人と違うのは、一つ目から二つ目へと移る過程である。
そう、こいしは考えている。
こいしの認知する力はむしろ普通の人間や妖怪よりもずっと正確で素早い。
生のデータを受け取る能力はすさまじく高性能なのだ。
けれど。データからメッセージに変換する過程――いわゆるデコードがうまくいかない。
デコーダが壊れている?
あるいはそう言われてもしかたないのかもしれない。
少なくとも多数決的に言えば、きっとそうなのだろう。
こいしは生のデータに直接的に触ることすらできる。通常人が絶対にたどり着けない現実に到達することすらできる。
だから、こいしと普通の人とは言葉が通じない。
通じなくて当然。
どちらが良いとか悪いとかでもない。
いわばガラスを隔てて、水槽の中の魚を見ているようなもの。
魚にとってはこちらこそが囚われているのかもしれないし、あるいはそんなこと考えていないのかもしれないし、わかりあうことはないのだろう。
目に映る。
ただそれだけ。
では――。
ここにいる芳香というキョンシーはいったいどこが壊れているのだろう。
壊れているという言葉を使うと怒られるかもしれないので、不具合が出ているとか、あるいはちょっとマイルドな表現をしてみてもいいけれど。
要は普通と違うのはどこなのだろう。
こいしは数を数えるのが得意だから、多数派と違うという表現をよく使う。
だから、ここで断っておくが、普通と違うというのは、単に数が少ないという意味でしかなく、そこにはなんらかの価値が混入したりはしていない。良いも悪いもなく。善も悪もない。あるいは優越感や劣等感とも無縁。
単に事実としてそうなのだという意味しかない。
そういった意味で、単に事実としての意味で、多数派ではなく少数派であるところの芳香はいったいどのプロセスが壊れているのだろう。
こいしは、デコーダが壊れているわけではないと考えた。
データの受信装置が壊れているのだろう。
データが壊れているといってもよい。認識が壊れている。
こいしと芳香は似ているようで、壊れている部分が違うのだ。
「ん!」
芳香はビクンと反応した。
こいしは、ん? と小さく微笑みかける。
「おまえは誰だ!?」
「私はこいし。しがない一匹妖怪よ」
「知らないやつだ……、おまえはここを通る気だな!?」
「通る気はないわ」
こいしのなかに生じたのは、一種の連帯感のようなものだった。
芳香とこいしは壊れている部分が違うけれども、どちらも壊れているという意味では同じだ。
だから共感した。
こいしが誰かに共感するなんて、亀が逆立ちして歩くようなものなのだが、たまにはそういったことが奇跡的に起こる可能性だって存在する。こいしはちゃんと心があり感情もあるのだし。
ただ、少なくとも普通のデコードとは異なるから、誤解が生じやすい。
それをこいしもよく理解していて、だから経験則で補っている。
説明を過剰に加えてみたり、時には比喩表現を用いたりもする。
こんなにもコミュニケーションを取ろうとしている個体もいないのではないかと思うぐらい。
「ねえ。芳香ちゃん。おうちに来る?」
「ん? うちか。わたしのおうちはここだぞ」
「でも墓場でひとりきりなんて寂しいわ。地霊殿ならたくさんのペットがいるし、お姉ちゃんもいるし、寂しくないと思うんだけど」
「わたしはせーががいるから寂しくないぞ!」
「ゲームメイカーさんがいるから寂しくないの?」
「よくわかんないけど寂しくないぞ」
「時間が壊れているあなたにとっては、三分前の出来事が無限に感じられるんじゃないかしら。永遠の一秒に閉じこめられているのなら、お姉ちゃんや周りのペットがずっとそばにいてくれる地霊殿のほうがあなたにとっての幸せなんじゃないかしら」
「しあーせってなんだ?」
「考えないことかしら?」
「じゃあ、わたしはしあーせだぞ。なにしろほとんど何も考えてないからな!」
「でもあなたのように時間が壊れた存在をこんなにひとりで放っておくなんて、よくない飼い主だわ。お姉ちゃんが知ったらきっと怒るに違いないわ」
「べつにいいんじゃないかー?」
「そう……」
時間は壊れているけれど、芳香のほうが会話する能力という意味ではずっと正常に機能しているように思う。
ずっと壊れっぱなしというわけでもないのだ。
少しは正常と呼ばれる方向に近づいていく。
正常と異常をいったりきたりしながらも方向性としては訓練が可能だ。
例えばこいしはずっと前に幽霊の一匹を無理やり地獄の釜から引っ張ってきて、しばらく飼ってみたことがあるのだが、時間が壊れたその幽霊も二週間もすれば場に慣れていた。あいかわらず会話はむちゃくちゃで、通じているとは言いがたかったが、なんとなくこいしの意図を察して、行動することができていたように思う。
例えば、ご飯時はテーブルに着席すること。
そういうふうに何度も何度も教えれば、時間が壊れていても、いずれはスムーズに行動するようになる。
12時になりました。席に座りましょう。
幽霊はふわふわとした調子で着席する。
デコードが正常に機能しているから、そうすることができる。データは壊れているから、12時が12時であると認識されるまでに何度も何度もインプットしないといけないけれど、12時であれば食事をするのだなという解釈はこいしよりもずっとうまいのだ。
こいしの場合は、12時になれば食事をするというのを無限に思えるデータの中から検索し、そして最善と思える行動を出力しているのである。デコーダが壊れているのでしかたない。最善と思える行動をその場その場で計算するか検索するかしかない。
こいしと芳香と正常人という三つのカテゴリがあるとすれば、芳香のほうがずいぶんと正常に近い。
こいしが正常という軸に戻ることは至難だ。そもそもそういうフォーマットが存在しない。けれど芳香のほうはデータが壊れていることを除けばデコード自体は正常なのだから、感情や言葉もずっと正常人に近い。
こいしにとってはひどく羨ましくて、そしてズルいという感覚。
いつかの時に飼っていた幽霊は飽きて潰した。
「ん。おまえ誰だ!?」
「私はあなたではない者。そして今はあなたを殺したいと思っている者よ」
「わたしは既に死んでいるから、これ以上死なないぞ」
「もっともな話だわ。でもそれなら無言のままがいいと思うのだけど。おしゃべりな屍体さんなんて無粋だし。せっかくのかわいい顔が台無しだと思わないかしら。芳香ちゃん」
「む。わたしの名前がよしかだとどこで知ったのだ! おまえはもしかしてスパイだな!?」
「自分、草いいですか?」
スパイのことを古い言葉では草と呼んでいたので、ちょっと高等な冗談を言ってみたのである。
後悔はしていないし、後悔する心ももちあわせていないが、恥ずかしくはあった。
こいしはデコーダが壊れているけれど、外形的には普通に美少女なのだ。内的世界もそこそこ少女っぽさが見受けられる。
だからくだらないジョークはそこそこ恥ずかしいのである。
「ここは通さないぞ。せーがが通しちゃダメって言ってるからな」
「通る気なんてないわ。私はあなたが欲しいのよ。エントランスホールに飾りたいの」
「わたしはどこにも行かない。だってせーがは来てくれるからな。いつかはわからないけど、ぜったいきてくれるからな」
「ゲームメイカーさんを信頼しているの?」
「しんらいってなんだ」
「対象となる人物がどういうふうに動くかを予測できるってこと」
「よくわかんないぞ! おまえはわたしを撹乱させようとしているな! わかったぞ。おまえは敵だな!」
「攻撃する意図はないわ。さっきはちょっぴり殺したいと思ってしまったけど、よく考えたらキョンシーって誰かのモノってことなのよね。人のモノを壊してはいけないってお姉ちゃんが言ってたわ。ふぅ……危なかった。もう少しでお姉ちゃんに怒られるところだった」
こいしは胸をなでおろす。
お姉ちゃんが悲しもうが、泣こうが、わめこうが、あまり心苦しくなったりはしないこいしだが、なんとなく避けたい気分が働くことも多いこいしである。快楽原則が壊れているこいしでも比較的正常なデコードが可能な部分が残されているのかもしれない。
それが、姉、古明地さとりに関する事柄だ。
こいしが生きていくための雛形として、さとりの規範はフォーマットになりうる。
まったく理解できないし知りもしない外国語をそのままそっくり書き写す作業に似ている。
デコーダが壊れていても、そうやって普通らしさを装うことで生きていくことはできる。
「普通らしく好きなものを手に入れる方法って何かしら……」
そもそも好きって何かしら。
恋ってなにかしら。
恋は来いを語源として、こいしから湧き上がるものではなく、埃のように空中に散布されているものじゃないかしら。
それでそれをたまたま吸いこんだら花粉症みたいに発症する。
私の中のデコーダが震えてる。
何かを形にしようと。
ひとつの巨大な隠喩。
たぶんそれが何なのか苦労もしないでわかっているのが、いや、わからずとも、自分という存在を確定させることができるのが、正常な装置。
言葉としては知っている。
実体としては知らない。
――愛
というもの。
同一のデコーダを持つものどうしが、データを共有しあうことを、そう呼んでいるらしい。
こいしは異なるデコーダを持つから、共有なんかできるわけがない。
まだ、腐った屍体のほうが共有しあえる可能性がある。
データは壊れているけれどデコーダは壊れていないから。共有しあえる部分がある。
だから、こいしが目の前にいる芳香に殺意を抱いたとしても、それは至極まっとうな理論であり、なにも異常なところはない。
嘘つきは死ねばいいのにと思うのと極端な話、同じだ。
「芳香ちゃんはどちらかといえば、私が知らないことを知ってるんだね」
「んー。おまえは誰だ」
「私は私。こいしはこいし。そうとしか答えようがないわ」
違う。
それは嘘。
本当は、こいしは【私】を知らない。
私というのは象徴的な記号、φのこと。
一枚の大きな鏡。
だとすれば、こいしの鏡はひび割れていて、時々ゆがんでいたりするのだ。
φは壊れたねって、砕け散った鏡が、主張している。
こいしは、自我と他我の区別がよくつかなかったりするけれど、空中に散布された鏡を拾い集めるようにして、そうやって無限に思える努力を経て、【私】という言葉を使うのだ。
こいしは努力家ですから。
「そうか。ここから先は行かせないぞ」
「古明地こいし、どこから来てどこへ行く」
「てつがくだな!」
「そんな大仰なものじゃないよ。単に今日はどこにお散歩しにいこうかしら程度の意味しかないわ」
こいしはそういって帽子の位置を自分の良い具合になおした。
「少しは期待していたところもあるのかもしれないわ。あなたは壊れているから、もしかしたらあなたとなら言葉を交わせるのかもしれないって。もしかしたら共有できるかもしれないって。それは多数決的に言えば、少数派ではあるけれども、それでも擬似的に正常人の気持ちを味わえるんじゃないかって」
データ共有による快楽を。
わかりあえたって気持ちを。
「でも、無理みたい。あなたはあなたで壊れているようだけれども、私とは違う壊れ方だもの」
「よくわからないことを言ってるな! ここは通さないぞ」
「通るつもりなんかないわ」
この会話を傍から見ていたら正常人は面倒だなと思う確率が高そうだ。
こいしは、そもそもそんな会話を四六時中おこなっているようなものだ。
あなたたちの会話は嘘だらけ。
幻想を真実としている。
デコーダによる情報共有を真実と誤解している。
そうじゃない。
それはみんなでつくりあげた幻想に過ぎない。
現実は、データは、あなたたちには決して到達しえない彼岸に存在する。
なぜなら、あなたたちの超自我は自動的にデコードしてしまうから。
デコードを意図的に停止できるのは、ここにいるこいしだけ。
「ん。あ、せーがだ!」
墓場の向こう側から、ふわふわと空を飛んでやってきたのは、何度も芳香の話にでているゲームメイカーさんだった。
こいしは急いでその場から離れ、木の陰からこっそり覗く。
もちろん他人から認識されない能力を駆使して、全力で隠れている。
他人が怖いわけではない。
ただ、ゲームメイカーさんはこいしとは違うルールを持っていて、違う演劇をしているようだから、その演劇を邪魔したらいけないと思って隠れたのだ。
こいしもたまには演劇に参加することはあるけれど、ゼロから覚えていくのは大変で、だからよく観察しようとする。
結果として覗き見していることが多い。
「今日はちゃんとここにいたようね」
「当然だぞ。せーがが守れって言ったからな。覚えてたぞ!」
「うん。いーこいーこ」
青娥に優しく頭を撫でられて、芳香は本当に嬉しそうだった。
その頭を撫でられているという時間も、瞬間的に生滅しているのかもしれないが、ともかくこいしの目の前で繰り広げられている映像は、こいしの長年の観察結果に基づけば、デコードの共有状態であろうと推測できた。
いずれは芳香もさらにデータの崩壊が進んで、青娥のこともわからなくなってしまうのかもしれないが、それでも停止する最後の瞬間まで、芳香はデコードされたデータを共有しようとするだろう。
こいしはその外形を繕うことしかできないのに。
こいしはふわりと飛び上がり、地霊殿に帰ることにする。
もはやここにこいしの居場所はない。
地霊殿に帰ると大好きなお姉ちゃんが待っていた。
いや、べつに好きとか嫌いとかそういうことを思わないわけではないよ。
わざとそう思いこんでいるというか、演技しているとか、そういったところもあるけれど、これは嘘に対する受容だ。
あなたたちが無意識の裏側に押しこめて隠したものを、気づかないフリしてあげてるだけ。
「おかえりなさい、こいし」
「ただいまお姉ちゃん」
抱擁して。
意味もわからず頭を撫でられて。
こいしはいつものシークエンスに従って、えへへとはにかんだ。
そうすると、さとりは安心したのか、ほっとした表情になった。
古明地さとりは正常人で、デコードを共有しようとするのだから、こいしを放っておけないのは当然だし、こいしと話をしたいと思うのも当然だ。
置き換えは可能だろう。
こいしが芳香と同じようにデータが壊れているタイプだったとしても、さとりは抱き寄せて、頭を撫でようとするだろう。
嫌いじゃないよ。
嘘つきだらけのこの世界で、そういう幻想があふれているのは知っているから。
けれど、古明地さとりにだけは気づいて欲しいと思っているのかもしれない。
だから、こんなにも殺意が膨らんでくるのかもしれない。
本当に瞳を閉じているのは、お姉ちゃんのほうだって。
その日、こいしはペットの一匹を無意識に殺した。
すばらしい文章でした。ありがとうございます。
最後の一文がなんとも
生物同士の違いと、その類似点という観測? こいしほど、無意識に意識的に書いてしまうキャラクターもそうそういないのかもしれない。
がの描くこいしの無意識の世界の一端を垣間見た気がします。
あなたの作品が大好きです!
けれども、まるきゅーさんならばもっと凄いこいしが書けると、個人的には思います。理解しえぬものを理解するような。
そもそもこいしちゃんが可愛いいんなら何だっていい気がしてきた。
まるきゅーさんの書くこいしには会って見たいものです。
理系少女なこいしちゃん可愛いよ、くらいしか・・・
同じく、こいしがさとりに殺意を抱かなくなる日が来るのだろうか?
頭がグルグルするような作品で、読んでいて楽しかったです。