●1
――やはり、最近のお嬢様はおかしい。
自室にて、咲夜は眼前に積まれた写真の山を眺めながら、改めてそう思った。
いや、レミリアがおかしいのはいつものことだが、そのベクトルが今までとは違うのである。
咲夜は銀時計を取り出し、時間を確認する。まもなくだ。
ドアの向こうでは、レミリアが待ちかまえているのだろう。
主をこれ以上待たせるわけにもいかない。速やかに支度を済ませなければ。
けれども、気が乗らないこと甚だしい。
部屋の隅に掛けられた紅いドレスを恨めしげに見やり、咲夜は溜息をつく。
ここ数日で、レミリアは変わった。
異様なまでの優しさ、配慮、そして気遣い。悪魔に相応しくないその態度。
我がままで気ままな今までのレミリアが、まるでどこかに行ってしまったかのような。
だが、と咲夜は思う。
それと引き換えのようにもたらされた、この重苦しさはどうだろう。頭も心も、まるで鉛のようであった。
優しさすらもこちらのストレスに変換するとは、まさしく悪魔の所業である。
「――今鹿(なうしか)、そろそろ時間よ」
「ええ、お嬢様。あと、私は咲夜です」
こんな風に、レミリアが妙な名前で呼びかけてくるのも、数日前からのことだ。
発作的に目の前の山へ蹴りを入れそうになり、咲夜はかろうじて思いとどまる。
こんなモノでも、お嬢様が善意で持ってきたものなのだ。乱暴に扱うわけにはいかない。
たとえ、そこに写っている益体もない男連中の笑顔が苛立たしかったとしても。
今日は、お見合いの日だ。レミリアが勧めてきたものである。
何を考えてそんなことをさせようとするのか、咲夜にはまったく理解できなかった。
お嬢様のお考えなんて自分たち使用人には窺い知れるものではない、などと適当に済ませていられるうちはいいが、それが自らの進退にダイレクトアタックを仕掛けてくるとなれば話は別である。
――まるで別人ね、あの日以来。
嫌々ながらも支度を済ませ、咲夜は心中で呟く。
そうして、重い足取りで会場へと向かったのだった。
●2
レミリアの様子がおかしくなったのは、そう、五日ほど前のことだ。
「さあ、貴方たち、ピカピカに磨くのよ」
その日の昼、ぶらりとエントランスホールにやって来たレミリアは、辺りにいた妖精メイドたちに命令を下した。
そうしておいて、ふあぁ、と小さな欠伸をすると、「じゃあ私は部屋に戻って休んでるから。あとはお願いね、咲夜」と、こちらに言い置いて歩き去ってゆく。
咲夜は「かしこまりました」と頭を下げ、主を見送る。レミリアの、こうした気まぐれな命令には慣れていた。
主の姿が消えると、咲夜はパンパンと手を叩き、改めて妖精メイドらの注意を引き付け、具体的な指示をしていったのだった。
この円形のホールには、レミリア像が輪のように並べられている。自らの館の玄関に自分の銅像を並べるそのセンス。まさしく、レミリアのレミリアたる所以であった。
そして妖精メイドたちはというと――つい先ほどレミリアから直々に下された「銅像を磨け」という命令など、すっかり忘れて鬼ごっこに興じていた。これもまた、妖精の妖精たる所以であった。
ちょっと目を離した隙にこれだ。質より量、という言葉の虚しさを知る。つまるところ、ゼロに何をかけてもゼロなのである。妖精メイドがどれだけいようとも、仕事の遂行に寄与するところはまったくなかった。
質より量などという戯れ言は、ゼロの概念を知らない古代人の妄想ね、などと思いつつ、咲夜はナイフを取り出し、メイドたちに教育的指導を与える。
それを終えると、咲夜は妖精たちに別な仕事を命じた。彼女らに同じ仕事を再び命じても、あまり意味はないことを承知していたからだ。
そうして妖精たちを追い払うと、咲夜は時計を取り出した。文字盤の長針と短針が、まもなく重なり合おうとしている。
――結局、自分自身を除けば、頼れるのはこの銀時計のみ。自らの能力を補助し、高めるこのマジックアイテムによって、彼女は時を止めた。
凍りついた時の中で、咲夜は丹念に銅像を磨く。細い指先から靴のリボンに至るまで、しっかりと。見える部分だけの汚れを拭き取っておけばいい、というようないい加減な仕事を、完全で瀟洒なメイドは好まない。
数時間にも及ぶかと思われるような刹那で、像は全て光沢を帯びるほどに磨かれた。咲夜は自らの仕事を満足げに確認すると、小さな手鏡を取り出す。仕事の合間合間に、身だしなみをこうしてチェックするのだ。いついかなる時に、誰と顔を合わせようとも、紅魔館のメイド長は完全で瀟洒でなければならない。
ところが、覗き込んだ小さな鏡の向こうの自分は――。
――少し疲れた顔をしている、ような。
思わず肌に触れてみる。どうもかさついているような気がした。お手入れの不足だろうか。
時を止めてはあくせく働いているのだ。実時間はともあれ、体感時間では他の少女よりも長い時を生きている。多少疲労が溜まるのも無理はなかった。
とはいえ、今からこんな感じでは、この先どうなることやら。少し憂鬱になる。
ふと顔を上げれば、威風堂々たる様のレミリア像と、悪戯っぽい笑顔を浮かべたレミリア像が見えた。齢五百歳を数える吸血鬼の、しかし年齢を感じさせない相貌。
手元の鏡と像を見比べ、咲夜は溜息をつく。あの恐ろしくも愛らしい主の一生の、ほんの一部にしか関われない自分が、歯痒く思えた。
もし、時を戻して、若返ることができれば……。
一瞬そんな考えが頭を過ぎり、咲夜は思わず苦笑した。自分の力をもってしても、また銀時計があっても、それが不可能だということはよくわかっていたのだ。
かつて、パチュリーに訊ねてみたこともある。
「時を戻す? そうね、ホモトピー非同値な境界条件の元で1次元の紐を使い位相欠陥を起こせば……」
知識人の言うことは意味不明だったが、要するに無理だということらしかった。
過去に戻ることはできず、過去をやり直すことはできず、因果を覆すこともできない。
だからこそ、今この瞬間を悔いのないように過ごさねばならないのだろう。咲夜はそのように自己完結し、それからいっそう仕事に励むようになったのだった。
「さて、と――」
咲夜は手鏡をしまうと、気持ちを切り替えるために深呼吸をした。そして銀時計に手をやり、止めていた時を動かす。
その時、いつもにはない、異常な感覚が咲夜を襲った。
――ああ、世界が揺れている。
そう思った時には、既に遅かった。
咲夜のよろけた体は、不夜城レッドのポーズを取るレミリア像に当たった。
運が悪かったのは、その銅像のバランスが致命的に不安定だったということである。レミリアの唐突な要求に応じて、半ば突貫作業のようにして作られたそれらの銅像は、見てくれと引き換えに安定性を犠牲にしていたのであった。
不夜城レッドレミリア像は大きく揺れると、ゆっくりと倒れ、全世界ナイトメアのポーズを取るレミリア像に当たり――轟音と共に崩れ落ちる。輪のように並べられた銅像ドミノ。その終点は咲夜であった。
ようやく気づき、銀時計に手をやるが、時既に遅し。咲夜には、しゃがみガードのレミリア像の倒れかかってくる様が、奇妙なほどにゆっくりと感じられた。
その刹那、咲夜を捉えたのは、圧倒的な「死」のイメージであった。時を戻せたら、などという想像のなんと無意味なことか。人の身で銅像に押し潰されれば、そこで全ては途切れてしまうのだ。
「く、ッ――!」
すんでのところで咲夜は身体を捻り、銅像をかわす。日頃からの弾幕を避けてきた経験が身を救った。
しかし、エントランスは惨憺たる有り様であった。連鎖的に倒れたレミリア像が完膚なきまでに砕け散り、ちょっとした廃墟の如き様相を呈している。
これは失態どころの騒ぎではあるまい。レミリア自らの命令によって設置された銅像群。それらが数瞬で燃えないゴミと化してしまったのだから。この光景を見たら、レミリアは烈火の如く怒るに違いなかった。
――お嬢様が大事にしていた銅像が……なんとお詫びすればいいのだろう……。
咲夜がそう思った時である。
「咲夜ッ!」
「お、お嬢様……」
叫びながら現れたのは、自室へ戻ったはずのレミリアだった。
思いがけない事態に、咲夜は動揺する。――銅像が片っ端から倒れてゆくほどの轟音だ。レミリアが気付かないはずもない。
ともあれ、詫びの言葉を考えるよりも早く主が登場してしまった以上、どうしようもない。後は、癇癪持ちであるレミリアの怒りを甘んじて受けるだけであった。咲夜は覚悟を決め、頭を下げる。
「申し訳――」
「大丈夫!? 怪我はないッ!?」
だが、主の発した次の言葉は、予想外のものだった。
「えっ、あ……はい」
咲夜は戸惑いつつ、顔を上げる。
そしてやけに真剣な顔をしたレミリアと、酷い有り様となったエントランスへ交互に目をやりながら、何とか続ける。
「その、私は大丈夫ですが……申し訳ありません、私の不注意で……」
「何を言ってるのよ! あんな銅像なんてどうでもいいわ! 咲夜の身体は一つしかないのよ!?」
「……は?」
咲夜は、思わずレミリアの顔を見つめてしまった。
動転したあまりに、幻聴でも聞こえているのだろうか。咲夜は、自分の耳にしたことが信じられなかった。
――お嬢様はそんなこと言わない。
確かに、レミリアの発言は実に良心的な正論である。
正論なのだが……吸血鬼は、そんな生やさしいことを言うような存在ではないのだ。
万人を見下し、孤高を貫く夜の王。永遠に赤い幼き月、それがレミリアなのだから。
咲夜は茫然として押し黙る。
銅像の後始末をどうしようかという思いと、ミスをしたことへの自責の念が混ざりあっているところへ、さらに妙な事を口走るお嬢様という存在が投下され、元々疲労の溜まっていた咲夜の思考回路はショート寸前であった。
再び、世界がぐにゃりと揺れる。
――ああ、やっぱり疲れているのかしら。後で、台所で甘いものでも失敬して……。
頭の片隅でそんなことを思いながら、そこで咲夜の意識は途切れた。
●3
意識を取り戻した咲夜は、自分がベッドに寝かされていることを知った。
上半身を起こして周囲を見回す。どうやら、自分の部屋らしい。
ベッド、机、椅子、クローゼット、そしてメイド服。それらに文房具等の細々とした物を加えれば、それが咲夜の部屋にある全てだ。
咲夜は自分の身体を探り、銀時計とナイフがあるのを確認する。
この二つさえあれば、何も心配はいらないのだと思えた。
ややあって、ドアがゆっくりと静かに開かれる。そこから顔を出したのは、レミリアだった。こちらを見て、「あら、目を覚ましたのね」と微笑する。
この部屋を彼女が訪れたのは、もしかすると初めてのことではないか。咲夜は慌ててベッドから出ようとするが、レミリアに制された。
そのままレミリアは近寄って来て、椅子を引き寄せ、腰を下ろす。安物の椅子は僅かに軋むような音をたてた。
レミリアは軽く眉を寄せるようにして椅子を一瞥すると、咲夜の方へ顔を向けてくる。
そして穏やかな表情で口を開いた。
「……働き過ぎなのよ。今日はゆっくり休んでいなさい」
何事か、と咲夜は思った。
紅魔館での勤務条件の三本柱といえば、昼寝・休日・有給無し。それはもう見事なブラック館なのである。
そして、それを命じているのは他ならぬレミリアなのだ。
咲夜は、もしかして自分はまだ夢の中にいるのだろうか、と思った。
「まさか、ありえないわ。疲れているのかしら。……いや、それは確かだけど」
そんなことを口の中で呟く。
確かにレミリアは気まぐれだが、自分の銅像より従者の身を案じたり、ましてや働き過ぎだからゆっくり休めと言ったりすることなど、今までになかった。
これはもう、豹変と言ってよい。一見すると良い方向への変化のようにも思えるが、果たして本当にそうなのだろうか。
咲夜はひどく落ち着かない気持ちになり、なおも幻覚や幻聴の可能性を疑った。
「ちょっと! 咲夜! 聞こえてるの!?」
そのようにぼうっとしていたからであろうか、レミリアは声を張り上げた。
それが叱責のように聞こえて、咲夜は我に返る。
「え、あ、はい。お嬢様、どうなされました?」
「どうって……だから、疲れているようなので休みなさいと言ってるのよ」
「失礼ながらお嬢様、少々頬をつねって頂けませんか」
「何を馬鹿なことを。咲夜、貴方は私にとって一番大切な存在だわ。そんなこと、できるわけないでしょう?」
真面目くさった顔で、レミリアはそんなことを言う。
咲夜は半ば確信した。これは夢に違いない。私のお嬢様がこんなに優しいわけがない、と。
念のため、自分で己が頬をつねった。痛かった。目も覚めなかった。
「失礼、少々取り乱しました。ところでお嬢様、今日は――」
「うん? 何かしら」
「……いえ、今夜のメニューは何がよろしいでしょうか?」
咲夜がそう言うなり、レミリアの眉根が寄った。
腕組みをしながら、レミリアは軽く溜息をつく。
「咲夜、貴方ねぇ……私の話を聞いてた?」
「はぁ、何でしたっけ」
「今日は、ゆっくり、休んでいってね!」
一言一言区切るようにして言われ、咲夜は目を丸くした。
そういえば、つい先ほどそんなことを言われたような気がする。その場のノリで優しげなことを言っているだけかと思っていたのだが、お嬢様は存外本気であったらしい。
だが、咲夜としても、はいそうですかと寝ているわけにはいかなかった。
「しかしながら、お料理をしませんと。おゆはんが抜きになってしまいますわ」
「ふむん、料理ねえ……」
レミリアは軽く首を傾げるようにしたが、何を思ったのか、ぱっと明るい表情になった。
「それなら、今日は私が作るわ! いつも咲夜にばかり任せたら悪いし」
「お、お嬢様……」
咲夜の冷静な面が、これはお約束だ、死亡フラグだと伝える。日頃料理をしない者が張り切って食事を作る。その結果として生じるのは、絶望と悲哀の生成物である。連綿と続く人類の歴史も語りかけてくるではないか、「そんな料理で大丈夫か」と。
だが、人は歴史に学べぬ悲しき存在である。主への忠誠心と、「一番大切な存在」――そんなレミリアの言葉が、咲夜の合理的な判断力をねじ曲げた。
「ええ、承知致しました。そういうことならば、私も手伝いますので――」
「いいから、咲夜は黙って寝てなさい。疲れているんでしょう? 咲夜はお客様気分でゆっくりする運命なの」
「……わかりました。期待しております」
幸いだったのは、咲夜に幾ばくかは冷静な面が残っていたことであろう。念のため、密かに美鈴へピザを注文するよう頼み、最悪の事態は免れた。……咲夜以外にとっては。
「オゥフ……。素晴らしいですわ、お嬢様。すぐにでもコックになれます」
「ふふん、まあ本を見れば誰でもこのくらいはね」
その夜、自室に運ばれてきたレミリア謹製の料理の数々を心ゆくまで堪能しながら、咲夜は目に涙を浮かべた。
紅魔館の図書館――そこには肉じゃがの作り方からロケットの作り方まで、あらゆる「知」が収められている、はずだった。
だが、そこにあったレシピを参照したのにも拘わらず、何故肉じゃがが≪自主規制≫と化すのかは、その「知」をもってしても不可思議であろう。
レミリアは満面の笑みを浮かべながら、咲夜の方へ食器を差し出してくる。
「もちろん、お代わりも沢山あるから――」
薄れゆく意識の中、また一つの疑問が浮かぶ。
――何故、料理下手は自分の料理の出来に疑問をいだかないのだろう……。
ふぐは自分の毒では死なない。ガキ大将は自分の歌に苦痛を感じない。それはわかっている。
けど、やっぱり、謎だ。
●4
翌日のこと。
未だ咲夜の体調は優れない。というか、胃がおかしい。
咲夜の顔を一目見たレミリアは、更なる静養を命じていた。
「もう、馬鹿ねぇ、食べ過ぎちゃって。いくらこの私が作ったからといって」
「め、面目ないことです」
目の前でレミリアが剥いたリンゴ――デコボコとした形で、皮が至るところに残っているモノ――を、もたれた胃に無理やり流し込みつつ、咲夜は応えた。
本当は食欲など全くなかったのだが、まさかレミリアに胃の不調を訴えるわけにもいかない。咲夜は気合いと根性と瀟洒パワー(女子力)で、なんとか笑顔を保つ。
そんな咲夜を見て何を思ったのか、レミリアは静かに笑う。
「まったく、しょうがないわね……爆破土騎士(ぼんばーどないと)は」
「……は?」
「あら、爆破土騎士(ぼんばーどないと)は気に入らない? しょうがないわね。やっぱり、死ノ神ノ持チシ全テヲ貫ク槍(すぴあざぐんぐにる)の方がいいかしら?」
さらりとわけのわからぬことを言い出すレミリア。
咲夜は慌ててレミリアを制する。
「あの、それは一体」
「うん? 貴方の名前よ。新しい名前。あ、ちなみに漢字だとね――」
机の上のメモ紙に爆破土騎士とペンを走らせながら、重ねて妙なことを言ってくるレミリア。NightではなくKnightだったのか、それとも今思いつきで変えたのか、新しい名前とは何だろうか。何故、今このタイミングで。咲夜は混乱した。
「ちょっと何を言っておられるのかわかりませんわ」
「簡単なことよ。今の名前は、ちょっと貴方に合わないと思うの。だからこの際、変えておきましょうっていう」
「……」
昨日から奇妙なほど優しくなったと思ったら、これである。
だいたい、「十六夜咲夜」という名のどこに問題があるのか。爆破土騎士(ぼんばーどないと)や死ノ神ノ持チシ全テヲ貫ク槍(すぴあざぐんぐにる)のほうが自分に合うとでもいうのか。というか、それらはそもそも人名ですらないだろう。
咲夜は、内心が表情に出てしまわないように必死で努力した。
だが、そのような名前を命名したがるというのは、不夜城レッドや全世界ナイトメアなど、ネーミングセンスに定評のあるレミリアにはよくあることだった。
実際、自分の人生で最大の幸運がレミリアに仕える運命であったとするなら、その次は“十六夜咲夜”の名を与えられたことだろう。
かつて、レミリアがメイドたちに命名をする現場に立ち会う機会が何度かあって、咲夜はつくづく実感した。この名を与えられたのは、一つの奇跡だったのだと。
――そうねえ、大妖精か。決めたわ。貴方は今日から「ダイバダッタ・セロニアス・時貞」と名乗りなさい。
湖畔に住まう大妖精がメイドを志望してきた時は、その名を賜った直後にメイドを辞したものだ。
――貴方は「マリ・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュ」、そっちの方は「ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール」と名乗りなさい。
また、「名前が覚えられない」という理由で辞めた妖精も数知れない。
「……咲夜でいいですよ」
咲夜は、改めて答えた。レミリアから与えられたその名には、少なくない愛着がある。悪魔の僕として紅魔館に勤めることになった運命。この名がそれを運んできてくれたと信じている。
今更、名前を変える必要性があるなどとは、咲夜には全く思えなかった。紅魔館のメイド長十六夜咲夜は、死ぬまで十六夜咲夜なのだ。
しかし、そう述べた途端、レミリアの顔から笑みが消えた。レミリアは眉間を指で揉むようにした後、咲夜の顔を見据えてくる。その表情が思いのほか真剣そうだったので、咲夜は内心で首を傾げた。
「改名した方がいいのよ、私の能力が告げているわ。新たな名が幸運をもたらすとね」
すると、レミリアはそんなことを言い出した。つい先ほどは、合わないと思うとか何とか言っていたような気がするが、どういうことなのだろうか。
レミリアのことを信じていないわけではないが、こんな風に執拗に改名を促されると、逆に胡散臭く思えてくるのも事実である。
それに、「私の能力が告げている」とレミリアは言うけれども、それもまたどこまで信じてよいものか。
彼女の持つ力とは、運命を操る程度の能力に他ならない。その有無はともかく、運命とやらをレミリアが自在に操れているかといえば、疑問符が付く。
そもそも、運命を自在に操れるならば、レミリアの辞書には文字通り敗北の文字は存在しないはずだ。「自分が絶対に負けない運命」を作り出せばいいのだから。しかし、紅霧異変や三日おきの宴会異変を見る限り、そういうことはなさそうだった。
レミリア自身は「戦略的敗北」などと称しているが、端から見れば単に力及ばず退治されただけにしか思えない。命名決闘というものがハンデになっているとしても。
だいたい、「幸運をもたらす」という言い方からして、引っかかる。
レミリアがどこまで本気なのかはわからないが、咲夜にとっては、ある意味、改名の話よりも聞き捨てならない物言いであった。
「まるで私が不幸のような言いぐさですね」
と言って、咲夜は苦笑を浮かべて見せる。
「“十六夜咲夜”の名を与えられて、お嬢様にお仕えする。私にとって、これ以上の幸運がありましょうか」
「咲夜にはまだわからないのよ、私の何十分の一しか生きていない貴方には」
幾ら幼げに見えようが、レミリアは齢五百を重ねた吸血鬼である。その言葉には、流石に年輪を積み重ねた者らしい重みがあるように思えた。
「私は運命を操る悪魔。貴方の生も死も、幸も不幸も思いのままよ」
レミリアは目を伏せ、静かな声で言う。
咲夜は主の顔を見たが、そこに籠められた感情を読みとることはできなかった。
「それはそうなのですが……」
何となく気圧されて咲夜が口籠もると、レミリアはパッと顔を上げ、ニヤリと笑う。
「じゃあ決まりね! あ、いい名前を思いついたわ。今鹿(なうしか)よ。紅色今鹿。うん、いいわね。ナウい感じで」
やはり気のせいだったか、と咲夜は思う。
何となくカリスマがあるように見えても、お嬢様はお嬢様なのだ。
そしてネーミングセンスのほうも相変わらずである。
「……前向きに検討しておきます」
もし、それがもう少し真っ当な名前であったなら。
――いや、それでも咲夜は、名前を変える気になどならなかっただろう。何しろ、この運命を一番気に入っていたのは、他でもない咲夜自身だったのだから。
●5
咲夜が回復した後も、レミリアの奇妙な様子は続いていた。咲夜の仕事は、一見すると楽なものとなった。むしろ皆無になったといっていい。
初めのうちは、咲夜もレミリアに見つからないようにして掃除や料理作りを試みた。自分抜きではこの館の日常雑務が立ちゆかないことを十分に承知していたからだ。
しかし、それらの試みは悉く防がれた。レミリアの監視体制がただごとではなかったのだ。仕事をしているところを見つかったら最後、「休んでなさいと命じたでしょ!」とデーモンロードウォークで駆けつけてくる。咲夜がいくら「元気になりましたので」と言おうが、まるで聞く耳を持たない。
実際、レミリアの過保護ぶりは徹底していた。
咲夜が「料理がダメなら、せめてお紅茶くらいは」と申し出ようとも、頑として首を縦に振らない。「貴方にそんなことはさせられない」の一点張りである。
挙句の果てには、「二度と貴方の紅茶は飲まないと決めた!」とか何とか、癇癪を起こす始末であった。あの紅茶ジャンキーのレミリアはどこへ行ってしまったのだろうか。
いや、今までの紅魔館での雑務が咲夜ひとりに集中し過ぎていたのだ。客観的に見れば、レミリアは雇い主として良心的になったともいえるのだが……。
咲夜はそれとなくパチュリーなどにも、レミリアの変化をどう思うか尋ねてみたが、「ふーん、レミィのことだからね。どうせいつもの気まぐれか、そうじゃなきゃ悪いモノでも食べたんじゃないの」などという言葉が返ってくるだけだった。
いまいち納得できない咲夜だったが、お嬢様の日頃の行いを思えば無理もない。訝しみながらも、ひとまずは受け入れるしかなかった。
そうして二日ばかり経った日のこと。
レミリアに呼びつけられた咲夜が見たものは、山のように積まれた写真だった。
そして、レミリアはまたしても唐突に言い出したのだ。「今鹿っ、お見合いをしなさい、お見合い! 生涯のハンリョというのを見つけるのよ!」と――。
お見合いより足取り重く戻った咲夜の顔には、倦怠感が浮かんでいた。ドレスを脱ぎ捨て、仕事もないままにメイド服を纏う。
「はあ……」
そのまま転がるようにベッドに身を投げ、深々と溜息をつく。瀟洒という仮面を纏い続けるのが嫌になるほど、精神が疲弊しているような気がする。
世界は広い、と咲夜は思った。なるほど、自分は井の中の蛙である、と。
お見合いは、実に果てしなかった。ありとあらゆる男たち。“仏の顔も三度まで”と言うが、咲夜は生きた人間だ。いくらレミリアの命令とはいえ、幾度も幾度も作り笑いを浮かべては、結婚を前提にした交際を前向きに検討するにも限度というものがある。
レミリアは言っていた。「人間は人間らしく、結婚でもしてのんびりするのが一番いいのよ」と。
そんな考えがあってもいいとは思うけれど、自分には当てはまらない。そう咲夜は思う。
だいたい、「人間らしく」というのはどういうことなのだろうか。それがわかっていたら、きっと自分は最初から吸血鬼のところへなど来なかった。お嬢様風に言うのなら、運命は決したのだ。この“咲夜”という名を与えられたあの時に。
「何を考えているのかしらね」
咲夜は呟いた。
お見合い相手の男連中もそうだが、何と言ってもレミリアだ。お嬢様が何を考えているのか、ここ数日、咲夜にはよくわからなくなっていた。
主人が白と言えば、黒い物でも白く見えるようにするのが訓練されたメイドである。
しかしだ。お見合いして結婚しろというのは、流石に受け入れられることではない。要するに、紅魔館を寿退館しろということなのだから。
いや、結婚しても働き続ける、という選択肢も可能性としてはあり得るだろうが、レミリアの言い様からすれば、それを許すことは考えられなさそうだった。
あの優しさ、執拗に迫る改名、そしてお見合い。
やはり、何かがおかしい気がする……。
考えかけて、咲夜は首を軽く振った。こうして思い悩んでみたところで、何がわかるというわけでもない。
紅茶でも飲んで気を休めようと思い、咲夜はベッドから起き上がった。
鈴を鳴らせば、メイド妖精が運んできてくれるのだが、とても味に期待できたものではない。やっぱり紅茶は自分で淹れるに限る――そう思いながら、部屋を出る。
「……これはひどいわね」
咲夜は思わず眉をひそめた。日に日に館が埃っぽくなっていっているのは実感していたけれど、改めて見直せば、どこもかしかも埃だらけ。掃除がまともに行き届いていない。
妖精メイドの手腕に期待できないことなどわかってはいたが、ここまで酷いとは。この調子では、相当仕事が溜まっていることだろう。咲夜は嘆息した。
「“四角い部屋を丸く掃く”どころじゃないわよ……あの子たちは本当に」
「まったくね」
すると、後ろから同意の声がする。
「あら、パチュリー様」
「やれやれ、この埃っぽさ、レミィはよく耐えられるわね。彼女、意外と細かいタイプだったのに。これじゃあ、うちの図書館並みじゃないの」
「私も、早いところ大掃除をしたいんですけど……」
咲夜はパチュリーと顔を見合わせる。
「メイド長が細々とした仕事をする方が間違っている」というレミリアの言い分は、必ずしも間違ってはいないのかも知れない。
しかし、それが当てはまるのは、平メイドたちがちゃんと役に立ってくれる場合の話である。残念ながら、メイド長が仕事をしなければ掃除すら満足に行われないのが、現在の紅魔館の実情であった。
「レミィの気まぐれが済むまではしょうがないわね」
「気まぐれとは言いますがねぇ」
確かに、レミリアが気まぐれで突飛な行動をするのも、咲夜たちがそれに振り回されるのも珍しいことではない。
しかし、すっかり咲夜は疲れていた。仕事もなく、改名やお見合いを勧められ……紅魔館はゴミ屋敷への道を着々と歩んでいる。
「まったく、どうするんでしょうね、私がいなくなったら」
「まあ、なるようになるだけじゃないかしら。レミィはああ見えてそれなりに長いこと生きている。ここがこんなに広くなったのもほんの最近だし、そんなに長く続くことではないわ」
どことなく眠たそうな顔をしながら、パチュリーは呟くように言う。
咲夜は肩をすくめた。当たり前の事だから、何も言うことはなかった。
すると、パチュリーが「そういえば」と口を開く。
「レミィが言ってたんだけど、お見合いをしたんだって?」
「まあ、はい。ですが、結婚なんて性に合いませんよ。お嬢様の思いつきにも困ったものです」
冗談めかした口調で言いはしたが、それは咲夜の本心でもあった。
自分に、結婚など合うはずもないだろう。
パチュリーは、微かに苦笑したように見えた。
「貴方は結婚してのんびりってタイプではないわね、確かに……。レミィもそれはよくわかっているだろうに、何を考えているのかしら」
「まったくですよ」
咲夜もまた苦笑を返す。
パチュリーはレミリアの友として遇されていたはずだが、その彼女にもレミリアの考えはわからないようだった。
パチュリーは視線を転じると、下を指さすようにする。
「廊下なんかはどうでもいいけど、閲覧室がごちゃごちゃなのよ。どうもレミィが漁っていたみたい」
「お嬢様が、ですか? ……ああ、なるほど」
「読書なんて柄じゃないのに、珍しいわよね」
などとパチュリーはクスクスと笑うが、咲夜としては笑えない。
奇妙奇天烈な料理モドキを食べさせられる経験は、一度で十分だった。
「……整理しますよ、妖精には勤まりませんからね」
紅茶を飲むのもいいけれど、仕事をしている方がよほど気は紛れる。我ながらワーカホリックだこと、とも咲夜は思ったが、性分なのだから仕方がない。
そのまま、咲夜はパチュリーと共に図書館へ向かった。
途中、レミリアと出くわす。いや、偶然を装いつつも、こちらを見張っていたのかも知れないが。
「あら今鹿、それにパチェも。ふたり揃ってどうしたの?」
「ああ、お嬢様。先ほどたまたま廊下で。そして私は咲夜です」
もう珍名を否定するのも面倒になってきていた咲夜だったが、ここで妥協してしまうと本当に名前を変えられてしまいそうだったので、頑なに否定する。それでレミリアの機嫌を損ねようとも、譲れない部分というのはあるのだ。
果たしてレミリアは若干不機嫌そうな顔つきをしたが、ふと小首を傾げると、何かを思い出したように身を乗り出してくる。
「そうそう、お見合いはどうだったかしら? あの中に気に入る男はいた? なんなら、まだまだ相手は――」
「その件についての話は後ほど伺いますわ、お嬢様。少々、図書館の方に用事がありますので」
不躾なのは承知で、咲夜はレミリアの話を遮る。あれは、お見合いという名の拷問だ。何度も何度もやらされるというのはぞっとしない。
すると、レミリアは眉根を寄せた。
「図書館? 何の用事で?」
「私が本の整理を頼んだのよ、レミィ」
パチュリーが、咲夜をフォローするようにそう答えた。
その途端に、レミリアは厳しい表情を浮かべる。
「ねえ咲、じゃなくて今鹿。私の言うことがわからないの?」
このところすっかり穏やかになっていただけに、険のある声を聞いて、咲夜は少したじろいだ。
「銅像の事もそうだけど……いい? 貴方はメイド長で人間なの。逐一細かい整理なんてしないこと!」
「それはそうですが……働かないでいると体が鈍ってしまいそうですよ」
「まあまあ、レミィもそんな怒鳴ることはないでしょう」
ところが、レミリアにはパチュリーの取りなしの言葉が余計癇に障ったようで、
「あのね、紅魔館は私の家なの。パチェにだって貴方にだって、何かを言われる理由も筋合いもないのよ。私の行動はみんな貴方のため。なのに、咲夜は……!」
と腹立たしげに言った。
そこで売り言葉に買い言葉――とはならないのがメイド長ではあっても、頼んでもいないことを押しつけられても困るわ、と内心感じるのも確かであった。
「とにかく、図書館でそんなことやってる暇があったら、将来のことでも考えてなさい。私は知っている。いや、見えるのよ、貴方のろくでもない未来がね」
レミリアは、吐き捨てるようにそう言い残して去っていった。
その場に残された咲夜とパチュリーは、レミリアの後ろ姿を見送り、首を捻る。
「どうなさってしまったんでしょうねぇ、お嬢様は……」
「さあ……」
ややあって、パチュリーはぼそりと呟く。
「ま、気にしなくていいんじゃないの。それに、あの子の予言が当たったところなんて、みたことないし」
咲夜は言葉を返すことなく、そこに佇む。
うっすらと埃の積もった廊下の絨毯の上には、レミリアの足跡だけが、点々と続いていた。
●6
独りだった。酷い倦怠感を覚えた。限界が近いと思ったが、時を動かしたくはなかった。
まだ、彼女は紅魔館のメイド長だった。時が動けば、程なくして辞すことになるだろう。
この部屋で、咲夜だけが息をしている。久しぶりの止まった時の中。
――貴方に暇を与えるわ。
口早に、そうレミリアは言った。今朝方のことである。
レミリアは、咲夜と目を合わせようともしなかった。
――二度とその顔を見せるな。
傍から見れば唐突な通告のように思えたかも知れないが、咲夜は、存外驚いていない自分に気づいていた。何となく予兆のようなものを感じていたのだろう。ただ覚えたのは、全身の重苦しい疲労だった。
つまるところ、自分は反抗的だったのかも知れない、と咲夜は思う。あれからまた改名もお見合いも幾度となく勧められたが、その悉くを断っていたのだ。
……だが、もし問題が自分のほうにあるのではなかったとしたら。
確かめねばならない、と咲夜は思った。お嬢様に何があったのか――いや、お嬢様を称する彼女が、一体何者なのかを。
今から思えば、全ての発端となったあの日――銅像に押し潰されそうになった日から数えて、ちょうど六日が過ぎた。
相も変わらず、レミリアは異様だった。当初は、単に心配症になっただけかとも思えたが、それだけでは説明のつかないような奇異な行動が目立つ。
それに、パチュリーと共に図書室へ向かおうとしたときのように、不機嫌な色を見せることも増えていた。
些細な事で機嫌を損ねるというのは、ある意味レミリアらしくはあるのだけれども、機嫌を損ねる理由が、どうも咲夜には掴めない。
かつては、主との間で意が通じ合っているのだと、そう思えた。常に傍らで仕え、口に出されるよりも早く主の機微を察する。それができるということに、ささやかな誇りと喜びをいだいていたのだ。
だが今では、レミリアの心情というものが、咲夜にはすっかりわからなくなっていた。まるで、レミリアの中身が別人とすげ変わったように。
彼女が変わって以来、傍らにいることは殆どない。何せ咲夜が近寄るだけでレミリアは顔をしかめ、改名やら見合い結婚やらを促してくるのだ。
もしかして自分と距離を置こうとしているのか、とも咲夜は思ったが、密かに館の仕事を始めるや否や、レミリアはどこからともなく姿を現し、「休め、休め」と言ってくるのである。その様は、もはや労わりなどを通り越し、不気味ですらあった。
この一週間で、そうしたことが積み重なり、咲夜は次第に疑念を深めていった。
――あのお嬢様は、本物なのだろうか。
突飛な発想だとは自覚している。だが、そうだとすると、万事が腑に落ちるように感じられた。
ここ、幻想郷にいると、平和呆けしたような感覚に囚われるけれど……元来、吸血鬼の屋敷などというものは、外敵にとって格好の標的だった。吸血鬼ハンターなどといった仕事も、その筋では珍しくなかったのだ。
そんな敵が幻想郷にもいて、密かに紅魔館を、あるいはレミリアたちを狙っているとは考えられないだろうか。その手段として、レミリアになり済ますという大胆な方法を採る可能性は。
改名、お見合い、不便になっていく紅魔館――。それは、吸血鬼レミリアのテリトリーが弱々しくなっていくということだ。昨今では、聖人の復活等々、この郷もきな臭い。
咲夜は、次第に“レミリア”を猜疑的な目で見るようになっていた。そうすると、やはりレミリアがレミリアに見えない。
ちょっとした振る舞いなどが、レミリアのそれよりも洗練されているように思える。お嬢様は、もう少し愛らしいというか……抜けているところがあったはずだ。これならば、老獪な化け狸と思う方がまだ納得できる。
そんな中でのクビの宣告は、咲夜の疑念を決定的なものにしたのだった。
……もう、散々考えた。決めた。これ以上迷うまい。
ベッドへ仰向けに横たわっていた咲夜は、勢いをつけて起き上がりながら銀時計に手をやり、時を動かした。
身支度を整えつつ、今後の手順を考えていると、大きなノックの音がした。勢いよくドアを開けて入って来たのは、美鈴だった。
「――あのっ、どういうことですか!? クビになったって……!」
咲夜の顔を見るなり、美鈴はそう言ってきた。
メイドと門番。人間と妖怪。職種も種族も違えど、この館の同僚であることには変わりない。咲夜の解雇の話は、既に伝わっていたのだろう。
美鈴は慌てたような、戸惑ったような顔つきをしている。その様子を見て、咲夜は思わず苦笑してしまった。
「言葉通りよ。今朝、ね」
「なっ……!」
絶句する美鈴を、咲夜はちょっとした驚きと共に眺めた。自分が解雇されることが、そんなにショックだというのだろうか。別に美鈴と仲が悪かったということではないが、この館での職を辞することで、驚かれたり慌てられたりするような関係でもないと思っていた。
美鈴はしばらく目を白黒させていたが、
「正直、いきなりのことで、私には何が何だか……」
と呟くように言った。
外勤の美鈴には、ここ一週間ほどのレミリアの変化も、よくわからなかったに違いない。外見上、レミリアは全く変わらないように見えたのだから。
咲夜も、美鈴との雑談の中で「お嬢様が変だ」というような話を出したことはあったが、お嬢様が変なのはわりといつものことだったので、気に留めるようなものでもなかったのだろう。
「まあ、私にもよくわからないわ、お嬢様のお考えはね」
「……咲夜さん」
真っ直ぐな視線で、美鈴は咲夜を見てきた。
「何かしら?」
「よろしいのですか?」
何が、とは言わない。
だから、咲夜も軽く笑う。今羽織っているコートは、古い物だ。吸血鬼と出会った日に、運命が変わったあの日に、身に纏っていた物。その内側に潜ませている物まであの日とほぼ同じだった。
「よろしくないわね。だから……お嬢様のところへ、挨拶に伺うわ」
「――咲夜さん自身でケリを付けるべきでしょうね」
美鈴はそれ以上、何も言いはしなかった。部屋を出ようとする咲夜を止めるわけもない。
レミリアの命令は紅魔館の全てだ。そのことは、美鈴とて承知している。
「ねぇ、美鈴。貴方と共にお嬢様に仕え続ける。そんな運命だといいわね」
そう言い残すと、咲夜は美鈴に笑顔を投げかけた。感謝の印に。
部屋を出て、後ろ手でドアを閉める。その顔をすっと引き締め、咲夜は廊下の奥を見据えた。その先、館の深奥には、レミリアの部屋がある。
今は狭く短くなった廊下を、咲夜は静かに歩いていった。
●7
「失礼致します、お嬢様」
ノックをして、返事を待たずに主の部屋へ入る。
一瞬だけこちらへ視線を向けてきたレミリアは、すぐに目を逸らし、吐き捨てるように言った。
「……どうしてここに来た。二度と顔を見せるな、と申し付けたはずよ」
「あまりに急な事でしたので、せめて最後のご挨拶くらいは、と思いまして。……どうなさったのですか? 最近のお嬢様は――」
「どうもこうもないわ。私の言うことが不満ならそれでいいじゃない。ここを辞めてどこへなりとも行けばいいだけよ」
咲夜の言葉を途中で斬り伏せるようにして、レミリアは言った。
聞く耳持たず、という態度ではあったけれど、確かに不満ならやめろという言は理に適っている。
もっとも、それで大人しく引き下がるような者に、吸血鬼の従者は勤まらない。
「ええ、そうですね。それが真にお嬢様の言葉というのなら、私も考えます。……本当に、そうだというのならね」
「ハッ、下らない。私が別人だとでも言うの? 狸か狐か、それとも怨霊憑きかしら? だったら確認してみればいい」
咲夜は、レミリアの傍に寄る。レミリアの姿を、じっと見つめる。無論、パッと見てわかるような違いなどあるわけもない。
行動や言動こそおかしかったが、外見上は、まさしくレミリアそのものであった。その姿で目を逸らされるということが、ここまで心に来るものだったとは……。咲夜は、唇を噛んだ。
目を伏せて、主に訊ねる。
「……お嬢様にとって、私はもう不要な存在だということですか」
次の瞬間、咲夜は高く、高く蹴り上げられた。
「あんたに説明する義理なんて無いわよッ!」
叫び声が下から聞こえてきた。痛みと衝撃で息が詰まる。何とか空中で体勢を立て直した咲夜は、よろけながらも降り立った。
しかし、レミリアはその足を払うように蹴り付け、咲夜は床に倒れる。
「どうして、って顔ね」
身体が鈍く痛む。
立つのもままならず、咲夜はうずくまるような姿勢でレミリアを見上げた。
「私が別人だと思った? なるほど、そうね。その通りだわ。貴方の知ってるレミリアほど私は甘くないわよ。お嬢様ごっこをして、人間と仲良くすることにも飽きてきたの。これからは好き放題やってやるわ!」
「……なるほど、恐怖の悪魔を目指されていましたものね」
「減らず口を……せっかく貴方には穏当に辞めて貰おうと思ったのに。なんだかんだで、多少は世話になったから。ああ、もう要らないけどね。人間なんて飼ってても邪魔で足手まといになるだけ」
「世話になった、ですか。そのような感謝の言葉を頂けるだけで、感無量ですよ」
「ふん! もう遅いわよ、気が変わったもの。とことん痛めつけてあげるわ。それとも、血を吸って心亡きゾンビにしてあげようかしら。ククク……震えながら逃げ出すんなら今のうちよ」
痛みを堪えながら、咲夜は微かに笑みを浮かべる。
まさに三文漫画の台詞じゃないか、と思った。
「……成長なさいましたね、あの小食なお嬢様が、そうおっしゃるとは」
レミリアの、ギリリと歯を噛み締める音が聞こえた。そう思った途端、腹を蹴り上げられる。胃の内容物を吐き出しそうになるような衝撃を、咲夜は必死に堪えた。
そうしながらも、咲夜の頬は緩んでいた。
まったく、ふざけた話だった。筋道も通っていないし、説明にもなっていない話。
どこの世界に、目の前の敵へベラベラと自分の目的を話すヤツがいるのだろう。そんなのは作り話の中にしかいない。そう、作り話の中にしか。
二、三度咳き込みながら、咲夜は再度顔を上げ、レミリアの顔を見つめる。
「ところで、せっかくだからお訊ねしておきたいのですが、どのような心境の変化があってそう思われたのですか? お嬢様でないとしたら、貴方は何者なのです?」
「なんでもいいでしょう? そうね、私はタイムマシンで未来から来たの。過去の運命を変えて私好みの世界を作るために」
「タイムマシンですか、それはすごいですね。仕組みが気になりますよ、どこにあるのかも」
「タイムマシンは引き出しの中で、持ってきたのは猫型ロボットよ。仕組みは猫にでも聞けば?」
ますます、漫画じみてふざけた話だった。彼女がまともに話そうとしていないことは、咲夜にもわかった。目を逸らしながら話す、その表情を見れば。
そんな仕草だけは、咲夜にも見覚えのあるものだった。……何か取り返しのつかない失敗を仕出かして、それがバレて叱られることに怯える子供のような表情。
「ああ、そんな漫画を読んでいらっしゃいましたね」
「……こんなのは全て戯言。でも貴方には関係ないでしょう? 貴方には確認する機会も時間もないわよ。そうね、これだけ忠告してやっても逃げ出さない愚か者は、地下室で死ぬまで痛めつけてやるわ」
「それはこわいですね。ですが、お嬢様ならこんなとき、相手から目を逸らすなんてことはなさいませんでしたよ。誇り高い方ですから」
「……虫けらなんていちいち見てられないってことよ。だけど、敢えて貴方のその下らない挑発に乗ってやろうじゃないの」
レミリアの視線が、咲夜の顔に向いた。
「ほら、ちゃんと見てあげたわ」
咲夜は、じっとその目を見た。レミリアの瞳に映る己の姿まで見えそうな距離で……その目を見て、心に僅かに残っていた疑念すらも霧散した。
そこにあったのは、ただ、苦しそうで、寂しそうで、諦観に満ちた目。怒りも敵意も、微塵も存在しなかった。
……それだけ、レミリアのことを見続けてきたという思いがあった。それが、例え吸血鬼の生から見れば塵芥の時間でしかなくても。何よりも濃密だという自負もあった。
だから咲夜のやるべきことは、あと一つだけだった。
足に力を入れるだけで鈍痛が響く。それでも、咲夜は全力で時を操った。時が、加速する。時を止めるには至らないが、レミリアの目にすら映らない速さは生み出せた。
そう、レミリアの後ろに回り込み、羽交い締めにするのに十分なほどには。
「……馬鹿馬鹿しい。こんなの振りほどくまでもないわ。何、もしかしてまだ信じられないの? 自分がお払い箱にされたってことを」
「ええ、疑いで一杯です」
片手でレミリアの身体を押さえ付け、もう片方の手でナイフを振り上げながら、静かな声で咲夜は言った。
「ふん、それで脅しているつもりかしら。……言っておくけれど。私が一度身体を霧と化せば、貴方のナイフが突き殺すのは貴方自身よ。下らないことは止めたら? そして大人しく出て行くがいいわ」
「まだ時間は操れますよ、数秒くらいなら。そこでなんとか、と言いたいところですね」
言い終えると同時に、咲夜はナイフを振り上げた。獲物の前でベラベラと話すなんていうのは、性に合わないのだ。これでも話し過ぎている。
そして、ナイフを腹に向けて勢いよく振り下ろす。結局のところ、こうして示す方が余程わかりやすいのだ。
●8
ナイフは、レミリアの体に深々と突き刺さる。己の身を霧に変えることはなかった。ナイフの軌道を見やりつつも、微塵も体を動かすことはなかった。
「……。失礼しました」
ナイフを抜くと、刃先が元に戻った。手品用のダミーナイフ。バネ仕込みの紛い物。
あの日と同じコートを羽織り、あの日と同じようにレミリアと対峙した。そして、それは唯一あの日と違う物。
「やはり、貴方は私の知っているお嬢様です」
腕をほどき、咲夜はゆっくりと膝をついた。レミリアは何も言わずに、咲夜を持ち上げると……今度はそっと運んで椅子に座らせた。
咲夜は、そんなレミリアを静かに見る。
「偽物の刃とはいえ、主に向けたわけで、これこそ暇を出されて、いや……八つ裂きにされても文句は言えないわけですが」
椅子に座った咲夜と、立ちすくむレミリア。咲夜の視線の高さに、レミリアの顔がある。
ややあってレミリアが激高した声を出した。
「――何を考えているの!? 私が避けていたら、貴方、死んでいたわよ!」
「あら? だから言っているじゃないですか、手品用のナイフだと」
「ふざけないで。私を誰だと思っているの? そんな紛い物と本物の区別くらい付くわよ! すり替えたわね? 刺す直前に」
咲夜は天を仰いで、観念した様子で、
「流石ですね。……ええ、本物でしたよ。お嬢様に刺す寸前までは」
「どうしてそんな馬鹿な事を……!」
「ふふふ、どうしてでしょうね。まあ、お嬢様が私を心底不要と思われるなら死んでもいい、という程度の忠義はあるのですよ、これでも」
レミリアは深い溜息をついた。それから微かに恥ずかしげな様子で。
「……ごめん、さっきのは嘘。本当はチクっとしたからわかったの。貴方も疲れてたのか慌ててたのか。まだまだね」
それを聞いて、咲夜はクスクスと笑った。
先ほどまでこの場に満ちていた緊張感が、融けるように薄れてゆく。
その空気に滑り込ませるようにして、咲夜は言った。
「もう、いいでしょう? お嬢様」
「……何が」
「――本当の、理由を」
彼女の深紅の瞳を見つめた時点で、咲夜は僅かに残っていたレミリアへの疑いを霧散させていた。
それにも関らず、ナイフで突き刺すギリギリの芝居を打ったのは、ひとえに素直じゃないお嬢様の誤魔化しや言い逃れを封じるため。
本当に咲夜が邪魔ならば、最初の一蹴りで咲夜を殺せばよかった。本当に咲夜が目障りならば、身に迫るナイフを避ければよかった。
彼女は自らの行動によって、その本心を自白したのだ。
咲夜の言わんとすることに気付いたのだろう、レミリアは深い溜息をついた。
そして、哀しげな笑みでこちらを見てくる。
「北風と太陽とは言うけれど」
彼女は肩を落とし、呟いた。
「私は、やっぱり太陽にはなれなかった。ならばと思い、北風になっても駄目。ねえ咲夜。どうすれば貴方はここから離れてくれるの?」
どうやっても無理です、と咲夜は言いかけた。
それを飲み込み、代わりに訊ね返す。
「そもそも、何故お嬢様は、いきなり私を不要だと思われたのですか?」
一瞬目を逸らしたように見えたレミリアは、しかし壁に掛けられている時計に視線を向けただけだった。
つられて、咲夜も自分の銀時計を見る。時刻は十一時前。本当ならば、食事の支度に勤しんでいる頃合いだ。
時計の文字盤へ視線を落とす咲夜の耳に、主の声が入ってきた。
「……私はあと一時間いられるかどうかわからないの。だから、全ての質問に答えるのは無理。それと、これから言うことは、今度こそ本当よ」
「すると、今までおっしゃったことは全部嘘だと? ……そうですね、改名やらお見合いやら、果てはクビだなんて。それで私が幸せになるだとか、おかしいとは思いましたが」
「いいえ。貴方にはうちを出て、幸せになってほしい。その気持ちだけは、嘘じゃない」
苦しげな表情に、懇願するような目つき。間違いなく主は真実を語っている。
だからこそ、咲夜にはわからなかった。何故紅魔館を出ることが、自分の幸せに繋がるのか。
レミリアはなお逡巡している様子だったが、咲夜の持つ銀時計にチラリと目を向けてくると、意を決したように口を開いた。
「実はね、さっき言ったことだけど。一つだけ、本当のことがあったの」
咲夜の瞳を正面から見つめてくる。
「私は――未来から来た」
●9
働き続けていた咲夜が動かなくなったのは、突然のことだった。
糸が切れたように、という言葉が相応しかった。
確かに外見は老いてはいたけれども、動きは数十年間変わらずにキビキビとしていて優雅だったし、何より彼女が身に纏う雰囲気は若いころより一層瀟洒だった。
だからこそ、信じられなかった。あの咲夜が、いなくなってしまうだなんて。
いつでも傍にいて、そうでない時も呼べばすぐに現れる。従者とはそういうものだったし、そういうもので在り続けるのだと思っていた。
――でも、だからどうしたの? たかが人間の従者ひとり、いなくなったくらいで。
当然のことだ。自分は吸血鬼、誇り高き夜の王なのだ。人間の一人や二人、消えて無くなったところで、どうということもない。
そんなことをいちいち気にする方が女々しいし、みっともないではないか。
ただ、それを口に出して言った時に周囲の向けてくる視線が、苛立たしくて堪らなかった。
気持ちを落ちつけようと、紅茶を飲もうとしても、かつて安らぎをもたらしてくれたあの味は、もう二度と手に入らないのだった。
苛立ちに任せて振るった手が、お気に入りのティーカップに触れた。床に落ちたカップは粉々に砕け散り――それから、紅茶を飲まなくなった。
廊下の片隅の埃。窓の汚れ。お気に入りの服は着たい時に洗濯されておらず、テーブルクロスには染みが残っている。
そんな日常の……些細な引っかかりを覚えるたびに、苛立ちは募った。
――どうしたの、レミィ。ピリピリして。
――ふん、いつもあんなとこで本に齧りついてるパチェにはわからないかも知れないけどね。ほら、あそこが汚れてる。ここも、そっちも。まったく、仕事がいい加減だわ!
すると彼女は、また例の気に食わない目付きでこちらを見てくる。
そして溜息をつくと、
――あのメイドたちはそれなりにやっているのよ。客も気にしないだろうし、問題もない。汚れなんて……私には、見えないわ。
――いよいよ目が悪くなったようね。駄目よ、薄暗いところに引き籠もってばかりいちゃ。
つまらないことを言う。パチェにはわからないのだ。この館が、どれだけちぐはぐなことになっているかなんて。
メイドたちがそれなりにやっている? 来客だって気にしない? だからどうした。「それなり」じゃ駄目なのだ。来客が気にしなくとも、このレミリアが気にするのだ。
だって――「完全」じゃない仕事に満足するだなんて、身を削ってまでこの館を完璧に保っていてくれたあいつへの、侮辱じゃないか。
こうして咲夜のいない日々が音もなく降り積もり、やがて気付いた。……気付かざるを得なかった。
彼女の死そのものというより、それによって喪われたものの大きさに。
ショックだった。今ごろそんなことに気付くだなんて。
人間だから、吸血鬼じゃないから――そんなことは、どうでもよいことだった。
もっと早く知るべきだったのだ。大切なものを大切だと認めることは、何も恥ずかしいことではないのだと。むしろ、喪失の苦しみから逃れるために、大切であったものを貶めようとする行いのほうが、余程恥ずべきことだったのだと。
――あっ、お嬢様。ど、どちらへ?
――咲夜を取り戻す。明け方まで戻らない。しっかり見張っておきなさい、門番。
――えっ!? 咲夜さんを! ……えっ?
そうとわかったのならば、ここは幻想郷だ、まだ打てる手はあるのかも知れない。遅きに失した感はあるけれども、動けるだけ動いてみよう。
まずは冥界だ。人間にとって肉体の死は、魂の死とは違うらしいのだから。
それで駄目なら、彼岸だってどこだって行ってやるつもりだった。
……結論から言えば、咲夜を取り戻す手掛かりを得ることはできなかった。
亡霊も、死神も、月人も、僧侶も、仙人も。
自分は生き続け、あるいは死してなお蘇っておきながら、メイドひとり生き返すことはできないのだという。
ある者は憐みの混じった視線を、また別の者は皮肉気な笑みを、さらに別の者は同情的な言葉を、それぞれ差し向け、あるいは投げかけてきた。
だが、求めていたものは、誰も与えてはくれなかった。
実に滑稽なことじゃないか。今こうしてみると、いくらでも咲夜を手放さないで済んだ方法はありそうに思えるのに。
事が起きてしまってからでは、取り返しがつかないのだ。
――私は一生死ぬ人間ですよ。大丈夫、生きている間は一緒に居ますから。
そんな言葉を笑顔で聞いて、彼女の意思を尊重してやるのが、寛容な主としての務めなのだと思っていた。
何という道化だろう。喪う辛さを想像してみようともせず、物分かりのいい振りをして、莫迦みたいに頷いて見せて。
そして取り返しがつかなくなってから、こうして悔やんでいる。
恥も外聞も、どうでもよかった。不老不死になれ、と命令すればよかった。それで駄目なら、泣いて喚いて縋りついてでも、頼むべきだった。
本当に失いたくないものが何かということを、かつての自分は、まったくわかってはいなかったのだ。
幻想郷中を駆けずりまわり、何も得られないまま紅魔館へ戻った。そしてまた日々が積もりゆく。決定的に変わってしまった、代わり映えのしない日々が。
こうして、喪われてしまった彼女のことを折に触れて想い続ける時間を過ごすうち、ふと思ったのだ。
――果たして、咲夜は幸せだったのだろうか。
この疑問は、まるで羽毛のようにそっと、静かに滑り落ちてきたものだから、始めのうちはそんな疑問が存在したこと自体に戸惑いを覚えたものだった。
だが、その問いが思考の大部分を占めるまで、さほどの時間はかからなかった。
そういえば、自分が急に予定を変えて外出することを決めた時、咲夜は不機嫌そうな顔をしていはしなかっただろうか。
また、自分が夕食のメニューを気に食わないとして作り直しを命じた時、悲しそうな顔をしていはしなかっただろうか。
あるいは、月ごとのパーティーの準備をさせていた時、彼女は疲れたような顔を垣間見せてはいなかっただろうか。
カーテンの色が好みでないから今すぐ全て変えろだとか、里で人気だという菓子を食べてみたくなっただとか、月に行きたいから幻想郷で最も縁起の良い物を持ってこいだとか……色々と無茶な要求もしたような気がする。
そうした時、咲夜は何を思い、何を感じていたのだろうか。
彼女がこの世界にいれば、話はもっと簡単だっただろう。呼びつけて、問えばいい。「貴方は今、幸せかしら?」と。
けれども、その真意を確かめることはできないのだ。もう、二度と。
だから気分は晴れることなく、決まって後味の悪くなるような思考を反芻せざるを得なかった。何故、あんな子供じみた我が儘ばかり言っていたのだろう? 何故、咲夜の気持ちを少しでも思いやろうとしなかったのだろう? と。
……考えてみれば、人間が、このような悪魔の館に半ば囚われのような形で勤めていて、幸せなわけがない。人間には人間なりの幸福というものがあるはずだった。
ならば自分は我が儘ゆえに、彼女を不幸にしてしまったのではないか。
喪ってから大切な存在だったということに気付いた、なんて真っ赤な嘘だ。本当に大切なら、彼女に人間的な生活を送らせるべきだった。それなのに、自分は未だ彼女に傍にいてほしいと思っていたのだ。なんたる欺瞞か。
やはり、咲夜は不幸だったのだろう。誤りだったのだ。あの日、名を与え、彼女の運命を正反対のものに変えたのは。
「そんなことはありませんわ、お嬢様」――そんな一言が聞けたら、どれほど気が楽になることだろうか。
「もう、耐えきれません。悪魔の奴隷として生きる日々なんて!」――そんな言葉を聞けるだけでも、救いに思える。それならそれで、彼女を解放してあげられるのだから……。
恨み言を聞くことすらも、もはや不可能だ。死別とは、そういうものだった。
そんなある日のことだった。
――相変わらずの暗い顔ね。
――ああ……パチェか。
何故だか、こうして言葉を交わしたのが久しぶりのことのように思えた。
前に話をしたのがいつのことなのかも覚えていないのだ。
それほどまで自分の記憶が茫漠としていることに、改めてショックを受けた。
――ふふ、無様なものでしょう。吸血鬼だ、夜の王だと威張っていても、所詮はこの程度だったのよ。従者のひとりがいなくなったくらいで……いえ、こんな言い方はもう止めるべきね。咲夜は、私にとって――。
――そう……。貴方の心が彼女に囚われているということは、よくわかったわ。
――笑って頂戴。どうやっても、もう二度と会えないというのに。わかっているのに、頭から離れないのよ。
――会えるとしたら?
その言葉は、ゆっくりと、しかし鋭く胸を貫いた。
友の顔を見た。真剣な眼差しだった。
張り詰めた時間が場に留まる。
数瞬の後、彼女は細く溜息をつき、口を開いた。
――正直、迷っていたのよ。貴方に教えるべきかどうか。済んだことは済んだことだと割り切って、今を生きてくれればよかったんだけど。
――それは……ごめん、無理みたい。
――わかっているわよ。まあ、こうして方法を調べていた私も、大概お人好しなのかしらね。亡霊が闊歩し、冥界がすぐそこにあるこの世界といえども、彼岸を越えた者とは永遠に別れる定め。それが当然のはずなのに。
――パチェ……。
――とにかく、ついて来て。あっちで説明するから。
そう言うと、彼女は歩きだした。
地下図書館で、向かい合って座る。
咲夜がいなくなってから大分経つのに、ここの埃っぽさは相変わらずだった。
以前と比べて、綺麗にもなっていないが、汚くもなっていない。それが不思議だった。
――掃除、させているから。少し狭くなったしね、何とか間に合っているのよ。
こちらの疑問に気付いたのか、そんなことを言ってくる。
どうしようもなく胸が苦しくなった。
依然と変わらぬ状態が保たれている。掃除をきちんとこなす人間がいなくなったのに。
それは、きっとそうなる時を見据えて、準備していたからだ。
それだけのことが、無性にやるせなかった。
――さて、レミィ。これを見て。
――これは……。
ゴトリ、と重い音を立てて目の前の机に置かれたのは。
――あいつの……咲夜の、形見、の。
――そうよ、銀時計。これが、貴方が彼女に再び会うための、最後に残った道しるべ。
方法は、ないはずだった。
幻想郷中をまわって確かめたのだ。
――でも、これでどうやって……?
――過去へ、遡る。あの子が生きていた時間まで。原理的には難しいけれども、シンプルな話よ。
理屈としては単純らしい。
彼女は淡々と説明をする。咲夜の銀時計はマジックアイテムであり、ある種の指向性を持った力が籠められているということ。生前の咲夜の力の使われ方は、もっぱら「時を押し止める」ものであったが、押し止めていた時が再び流れるときに生ずる反動を吸収する役割を、この銀時計は果たしていたのだということ。ゆえに、その吸収した時の反動エネルギーが、この時計には蓄えられているのだということ。
――あとは、それを逆向きに開放してやればいい。私の魔力である七曜の力は既に籠めてあるわ。あとは、レミィの運命操作能力を添えてやるだけで、この銀時計は即席の航時機と化す。
――うー……。
――まあ、とは言っても、時の流れに逆らおうというからには、当然幾つもの制約がある。例えば……って、レミィ大丈夫? ついて来てる?
――うー……え、あ、た、たぶん?
反射的に相づちを打って、考えるより先に「たぶん」と口から出た。多分? 違う。駄目だ、これでは。また後悔をする羽目に陥ってしまう。
――いえ、ごめんなさい。よくわからなかったわ。パチェ、お願い。もう一度……私にもわかるように説明してくれないかしら。
「こんな事もわからないの?」というような目で見られるのかも知れないと思った。
けれど、そんなちっぽけなプライドなんてどうでもいい。……そんなものを後生大事に抱えていたから、咲夜に直接聞くこともできなかったんだ。
――私の悪い癖ね。ごめん、レミィ。
でも、彼女の言葉も、仕草も、想像とは違っていて。
――そうね、この際、理屈はどうでもいいわ。改めて結論から言うけど……この銀時計を使えば、貴方は過去に戻ることができるのよ。
――ええ。
――そして、もう一つ大事な事がある。過去に戻れるといっても、決して無制限なわけではない。制約はあるの。
彼女はその制約について説明をしてくれた。
曰く、戻る時期の指定はできないということ。
曰く、戻すことのできるのは、肉体ではなく意識のみであるということ。
そして。
――戻れるのは一度きり、しかも最長で七日間よ。こればかりは、七曜の繰り返しを拒む反作用があるため、どうしようもない。
――たった、七日間……?
それはそうだ。永遠に過去へ戻り続けているわけにもいかない。
だけど、それはあまりにも短過ぎる。七日間なんか、瞬きのうちに過ぎ去ってゆくではないか。
――だからね、レミィは――
もう一度よく考えなければならない、何のために戻りたいのかということを。
そう、彼女は静かに言った。
咲夜に、人間的な幸せを贈る。
数日間考えに考えた、それが結論だった。
やはり、あの疑問をいだいてから、どうにも信じることができなかった。咲夜が、本当にここで働いていて幸せだったのか。
人間にとって、この館を取り巻く環境というのは、決して真っ当なものとは言えなかったはずだ。そんな中で、生涯を働き続けることに費やして――そのことに疑問も後悔もいだかなかったと言えるだろうか。
あるいは、こうして疑うこと自体が、咲夜の尽くしてくれた忠誠への裏切りになる、と言う者もいるかも知れない。
しかし、それは自分にとって都合のいい言い訳だ。何かを疑うことなく信じるということは、確かに美しい響きを持つだろう。けれども、それが時として無上の罪悪となることを、悪魔たる自分は知っていたのだから。
それに自分自身、老いてゆく咲夜を見ながら、時に何か曰く言い表わし難い思いをいだいたことがあったのではなかったか。
それでも、目を逸らした。目の前の現実から。どうにかなるはずのないことを、どうにでもなると思い込んで、考えないようにしていた。
その挙句がこのザマだ。自分は彼女の死に目にもあえなかった。何を言い遺すでもなく、咲夜は永遠に失われてしまったのだ。
過去に戻れるのなら、彼女の運命を変えることもできるはずだ。名前を変えてやるなり、紅魔館から追い出すなりして。
しかし、意気揚々とそんな考えを述べた自分に、図書館の片隅に埋もれるようにして座る友は口を開く。
――予め言っておくとね……因果は覆せない。起きたことは、無かったことにはできない。例え過去に戻ったとしても、結果は変わらないわ。
――普通の者ならね。けれど、私はレミリア・スカーレット。運命を操る力を持つ。この力を使えば、きっと。
――無理よ。甘く見てはいけないわ、この世界を。
――いや、それでもやってみせる。……そうしなければならないのよ。私はあまりにも無自覚過ぎたのだから。最悪、咲夜に全てを話して頼み込んででも――
――無理ね。頼み込んでも、力尽くでも。因果――即ち世界の根本を支配する法則は、それほどに強力で、絶対的なものだから。
素っ気ないほどの口調で淡々と言い、彼女は軽く息を吐く。
――率直に言いましょう。貴方は過去を変えようなどと無駄なことをせず、諦めるべきよ。幻想郷中を走り回って、見つからないとなればふさぎ込んで。ねぇ、レミィ。いつまで過去を見続けるつもり? 素直に、咲夜とお別れするだけで満足したらどうかしら。
彼女の言葉は、残酷で、絶対的に思える。
だけど、その視線はどこか、こちらを試しているようにも感じられた。
無駄だ、諦めるべきだ――そう言われると、逆に自信が湧いてくる。過去も未来も、運命は全てこの手の中にあるのだから。
――ふん、確かに、私は咲夜のいない人生を歩んでいくわ。だからこそ乗り越えないと駄目なのよ。私は、絶対に咲夜を幸せにしてみせる。このレミリア様の輝かしい未来に、後悔なんていらない。無理なんて言葉もいらない。当たって吹き飛ばしてやるわ、そんな戯言はね!
今の自分を絵画に表わしたならば、さしずめ「尊大」というタイトルでも付けられるのだろう。そして咲夜が一番好きなのは、きっとこんな自信に溢れた様だった。
パチュリーも一瞬呆気に取られたような顔つきになったが、やがて苦笑しながら、
――……そうね、それがレミィだもの。うん、その行動力はちょっと羨ましいかもね。
小さく頷き、それから真顔になって言う。
――私が考えた理屈だと、過去の因果は覆せないはず。でも、それは仮説に過ぎないというのも確かよ。
――ふふん、私の行動力とパチェの頭脳。二つを合わせれば無敵よ。任せておいて、私はやるわ。土産話を楽しみにしていなさい。そうと決まれば善は急げ。さっさと過去に飛ぶよ! 貸して、銀時計を!
彼女はこくり頷き、銀時計を渡してこようとする。その瞬間、顔をしかめ、軽く首を振った。
――どうしたの?
――折角のところ悪いけど……言い忘れていたわ。戻れるのは最長七日間。けれど、貴方が未来から来たということが露呈したら、その時点で歴史の修正力が働き始める。
――修正力? つまり……?
――たとえば戻ったその日にバレたら、そうね、誤差はあるだろうけれども……その日が終わるくらいには現在へと強制送還されると思うわ。
――なん、だと……。
それでは、誰に知られてもいけないということか。自分が未来吸血鬼だということを。
だとすれば、咲夜に全てを話して和やかに用件を済ませる、というわけにはいかない。わざわざ咲夜と再会できる時間を減らすようなことなど、できるはずがなかった。
――さて、お芝居の下手なレミィにできるかしらね。誰にも、もちろん咲夜自身にも気付かれることなく、彼女の運命を変えてみせることが。
クスクス、と彼女は笑う。なかなかひどい言い草ではあるけれど、きっと彼女なりのエールなのだろう。
全身に満ちるのは力だけではなく、緊張、だろうか。……これは、最後のチャンスなのだから。制限だらけの、最後の希望なのだから。
――ふ、フゥーハハハハッ! 『ガラスの鉄仮面』と呼ばれたこのレミリア・スカーレットの演技力に、不可能などない!
だから、敢えてふざけた調子で言った。……すっと、体が軽くなる。
――ガラスで出来ているのは貴方のメンタルじゃないの? ……伝えることは全て伝えたから。あとはレミィ次第……何にしても、これは最後のチャンスよ。どうか、後悔はないように。
――ええ。
自分次第。それは、きっといつだってそうだったのだ。
道は示された。ならば後は切り拓いて進むのみ。
そうして、私は銀時計を手に取った――。
●10
「――こうして、私は戻って来たの」
語り終えたレミリアが、じっとこちらのほうを見てくる。
先ほどまでと違って、彼女は真顔で、真摯に述べていた。とはいえ、全幅の信頼を置く主の言葉でも、やはり半信半疑になってしまう。
ここは幻想郷で、何でも起こり得るのだとは承知していた。しかし、咲夜自身が時間を操る程度の能力を持つからこそ信じられないということはある。過去へ戻るなどというのは、まさにそれだった。
「漫画ですね。まさしく」
「現実よ。貴方は知らないでしょうけど、私は知っているわ。“レミリア”がどれだけ貴方に迷惑をかけ続けてきたか。そして、私はそんな運命を変えたいの」
咲夜はしばし考え込んだ。
話の内容に、おかしな点はないようだった。
「そこまでの力があるというのは正直信じがたいところです……それと、戻れる時期の指定はできない、とのことでしたが。そもそも、私とお嬢様とが出会う前の時点に戻ってしまったらどうなさるおつもりだったのですか?」
「ああ、それはパチェから聞いたわ。少なくともこの館に銀時計が存在する時期、という範囲でしか戻ることはできないから、そんな心配はいらないんだって」
咲夜の投げかける質問に――未来から来たという――レミリアは、一つずつ答えを返す。
おかしな点はない。そうすると、過去へと戻ることは可能なのかも知れなかった。
「しかし、不便なことですね。本当に過去を変えたいなら、あの日に戻るのが一番だったでしょう。私がお嬢様と初めて会った日。あの時の私は、お嬢様に親しみも情も感じていません。そこで追い払えば済んだのですから」
それは、レミリアとの出会い、過ごした時間。全てが消えてしまうことにもなるけれど。
微かに覚えた、胸へ差し込むような痛みに、咲夜はこの館で過ごした日々の長さを感じた。
「最初に戻れば、貴方と過ごした思い出が微塵も残らないわ。それは耐えられない」
レミリアはそう言ったが、咲夜にはわかった。
あそこまでして自分を憎ませようとしていたお嬢様ならば、自分との出会いを無かったことにもするだろう、と。
大切なもののためを思って、別の大切なものを犠牲にする。――そんな、どうしようもないほど不器用な在り方が、誰かに似ているような気もした。
「……それにしても、よくもまあ、私も面倒なものを遺しましたねぇ」
しんみりした空気を打ち払うようなつもりで、咲夜は殊更に明るく言ってみた。
いや、咲夜にとっては、過去形ではなくて未来形で言うべきことだったのだろうか。ともあれ未来の自分を思い、咲夜は半ば呆れたような心持ちになる。
するとレミリアは、細く、長く息を吐いた。
「……これで、全てを話したわ。私の居られる時間は、あと僅か。もう後がないの」
確か、レミリアが未来から来たということが知られたら、この時代に長くは留まれないのだったか。
いや――と咲夜は考える。思えば、レミリアの様子に異変を感じたのは七日前、銅像の事故があった後ではなかったか。ちょうどその時に、時計の針が重なろうとしていたことを覚えている。そして、時を戻したタイミングで世界に揺れを感じたことも。
ならば、レミリアが来たというその日は、その時間は。
咲夜は時計の文字盤に目をやる。今日最後の、そしてレミリアの言葉を信じるならふたりで過ごす最後の瞬間が、目の前に迫っていた。
「ねえ咲夜、貴方とまた逢えて本当に嬉しかったわ。おまけに、まだ若くて元気いっぱい。未来の可能性もきっと無限大よ。私の付けた名前なんて捨てて、外を知りなさい。絶対に戻ってくる気はなくなるわ」
「お嬢様……」
「ねえ、お願い。咲夜。わかって。私が消えても、確かにレミリアはいる。無知でいい加減で我が儘放題の馬鹿お嬢様はね。馬鹿は死ななきゃ治らない、ってのはこの事よ。貴方が死んで、全てが消えて。ようやく私はわかったの。貴方にどれだけ苦労をかけ続けたのか」
「――その点についてですが」
我慢の限界だった。
そもそも先ほどの話の時から、どうしても許容できないことが、咲夜にはあったのだ。
「取り消して頂きたい。私は、不幸ではありません。ここで働いて、お嬢様にお仕えして、幸せです」
改めて言うのも、気恥ずかしいことではあったけれど。
咲夜としては、それを否定されるのだけは我慢ならなかった。他ならぬお嬢様に、そんな風に思われては立ち行かないではないか。
己自身を無知だ、馬鹿だと責める主を見たい従者が、いったいどこの世界にいるだろうか。
だが、レミリアは哀しげに微笑って言った。
「……貴方が生きていた頃の私なら、その言葉を何も疑わずに受け容れられたかも知れないわ。けれど、ダメなのよ。もう私にはわからないの。何が正しくて、何が間違っているのか」
その感覚は、咲夜にも覚えがある。
吸血鬼の館を訪れ、銀のナイフを振るいながら――あの日の自分は、きっと何もわかっていなかった。過去は澱み、未来は見えず、緩やかに擦り切れるようにしながら、一瞬の無数に連なる現在を生きていた。
そして、そんな無明の闇に手を差し伸べ、引き上げてくれたのが、目の前の
咲夜は手を差し伸べてレミリアの手を取り、柔らかく微笑む。
「結局、私は死んでも馬鹿なのでしょうね。これはもう、お嬢様に見る目がなかったと思って頂くしかありません。ええ、私は悪魔に馬車馬のように使われるのが好みの変人ですし、付きまとってでも仕えようとする変質者なのですよ」
レミリアは目を丸くして――それから溜息を漏らした。
「……馬鹿」
「有難うございます」
咲夜は主の手を取ったまま、微かに残る痛みを堪えて立ち上がり、恭しく一礼したのであった。
「……まもなく、ですね」
「そうよ。シンデレラの魔法が解けるみたいに私はいなくなって、残された貴方は灰を被って働き続けるの」
そんな物言いをするレミリアの目からは、しかし先ほどまでの苦悩や諦観がほとんど失われているように思えた。
残された想いは、ただ――哀しみ。
「そういえば、今の記憶はどうなるのですか?」
「……多分、元のレミリアの記憶が戻るんでしょうね。何も知らずにお気楽な」
「そうするとですよ。仮に私をどうにかなさるおつもりだったにしても、何もご存知ないお嬢様がひとり取り残されて……困惑なさったと思うのですが」
咲夜がそう言ってやると、レミリアは急に真顔に戻り、押し黙ってしまった。
やっと口を開いても、
「パチェに言付けしたり……手紙書いておいたり……何かあるわよ」
「つまり、何もなさっていなかった。すっかり忘れていたということですか?」
またすぐに閉じてしまう。その恥ずかしげな表情を見て、咲夜は久しぶりに、そして心から思った。ああ、これが私の知っているお嬢様なのだと。
レミリアは、苦笑混じりに言った。
「……やっぱり、何をしても無駄だったのね。脅しても、なだめすかせても同じ事。真実を言っても嘘を言っても、過去を刻む時計には触れられない。過去の運命は、結局何一つ変えられなかった」
そうして、俯く。
彼女の小さな肩が震えていることに、咲夜は気づいた。
「ねえ咲夜。もう時間がないの。貴方と本当にお別れするまで」
改めてそう言われて、咲夜にも何も言えなかった。咲夜の消えた後の世界、レミリアの送ってきた時間は、想像はできても実感ができない。知ることのできない世界。人間の寿命では、妖怪の時間は計れない。
咲夜は目を強く閉じ、そしてゆっくりと開いた。
「――お嬢様は、過去を変えられない、とおっしゃいました。ですが、過去とはなんなのでしょう?」
「言葉遊び? ……過去は過去よ、終わったこと、過ぎたこと。私の居る今は過去。……せめて、最後にお礼を言わせて。貴方の一生に、忠勤に」
しかし、咲夜はレミリアの言葉を制して、続けた。
「お嬢様は過去を悔いていたそうですね。……私のために。そのために過去を変えたいと」
「貴方は幸せだと言ってくれた。けれど、ああいう生活がね、貴方の幸福だとは思えないのよ」
「ふむ……では」
咲夜はナイフを取り出し、くるりと回してみせる。
「……確かに、事実は変わらないのかもしれません。たとえば、私が今ここでナイフを壁に向けて投げたとしましょう。すると、壁にナイフが刺さり、穴が開くという事実は、お嬢様の力でも私の力でも、変えようがないのでしょうね」
「そうね。貴方は老いて、惨めに無様に死ぬのよ」
――トスッ
咲夜の投げたナイフは、軽やかな音を立ててレミリアの部屋の壁に突き立った。
「失礼。傷を付けてしまいました」
そう言いながら、ゆっくりとナイフのところまで歩いてゆき、それを引き抜く。
「ですが……これは本当に『傷』なのでしょうか」
咲夜は、悪戯っぽい笑顔を浮かべながら指を鳴らす。
次の瞬間には、その両手に金具と額縁に収められた絵があった。久々のタネ無し手品である。
その金具をナイフの刺さった跡にねじ込み、咲夜は絵を掛ける。
「――ちょうど、お嬢様のお部屋に絵を飾ろうと思っていたのですよ」
「……」
レミリアは無言で咲夜のほうに視線を向けてくる。
咲夜は肩を軽くすくめた。
「つまり、そういうことです。私は認めませんよ、そんなつまらない人生も未来も」
カチ、カチ、と時計の針は回り続けて、十二時へと近づいていく。
「……なんでしょう、色々と申し上げたいことはあったはずなのですが、すっかり忘れてしまいました。いや……言えないのですね。お嬢様の知っている私を、私は知りませんから。私の言葉など、全て軽すぎるのでしょう。だから、一つだけ約束をしたいと思います」
「ふん、今はまだ若くて元気だから理解できないのよ」
「ええ、その通りです。だから、約束をするのですよ。お嬢様は私の銀時計を使ってここに来られたそうですね。ならば、こうしましょう。私が時計を遺したのなら、それは人生に満足した証です。……もしそうでなければ、粉々に打ち砕きましょう、その瞬間に」
――過去の事実は変わらない。それが正しいのならば、銀時計が壊されても、レミリアが過去に戻ってくるという、その事実は変えられないのかも知れない。だけど、事実の裏に潜んだ想いは、きっと変わるはずだ。
咲夜は、きっと自分が壊すことはないだろうと思った。
話す間にも、時計は止まらない。時を止めてもそこにレミリアはいない。咲夜にだって、時計の針は戻せない。
「お嬢様、確かに過去の事実は変わらないのかも知れません。でも、お嬢様の中にある過去は変えられるのではないですか。ずっといだいてきた諦念、それを払うことはできるのではないですか」
「咲夜……」
ほんの少し先に待つ、永遠の別れを目指して、時計の針は歩み続ける。
咲夜は口を開いた。この七日間の、いつよりも清々しい顔で。
「お嬢様の記憶の中で生きる私、どうせなら笑顔で楽しんでいて欲しいものです。そして、もしお嬢様が戻った先に時計があれば、それは私が笑顔で生きた証です」
レミリアは何も答えなかった。必死に笑みを作ろうとしていた、それだけだった。
「……不思議な気分ですね。お嬢様はきっと、これで私と今生の別れなのでしょう。でも、私はずっとお嬢様と過ごしていくのです」
「ええ、我が儘なお子様に、死ぬまで馬車馬のように尽くすのよ」
「だから、私にはわからないのです。今なんと言っていいか。だから、これからの何十年か……百年くらいあれば理想ですけど、とにかく死ぬまではずっと一緒にいますよ。私のために、私の望みで」
「笑ってる、といいわね。私の知ってる貴方が。私の知ってた貴方は――」
咲夜はレミリアを抱き寄せた。もう表情は見えない。咲夜の顔もたぶん潤んでいたけれど、レミリアの見た最後は笑顔のままで――
「私ももう、何も言わないわ。どうか私をよろしくね」
「はい」
抱き合って、その温もりはしっかりと。
そして、時計の鐘が鳴った。
「さよなら、咲夜」
「はい、お嬢様」
それを言い終えられただろうか。レミリアはくたり、と崩れ込んだ。
●11
「あら今鹿。珍しいわね。貴方が本を読みに来るなんて」
「パチュリー様。少し、調べ物がありましてね……それと、今鹿っていつの話ですか」
「貴方の名前でしょう? そう言わないとレミィがまたカリカリするから、私も合わせることにしたわ」
うちの知識人は、いつもこうだ。三日くらい遅れて、紅魔館の流れに乗っていく。
「あの気まぐれは終わりました。だから私は咲夜ですし、この図書館も埃一つないんですよ」
「なるほど、言われてみれば。ここ何日か調べ物で忙しかったから、ちっとも気がつかなかったわ」
「となると、私が一旦クビにされた事もご存じないのでしょうか?」
「そうなの? ……そう言えばレミィがなんか騒いでいたっけ。貴方も大変ね、あの子の気まぐれに振り回されて」
咲夜は苦笑した。死ぬまでお嬢様の気まぐれと我が儘に付き合わされていく。そんな運命を選び取ったのは、自分自身だけれど。
「ところで、何を調べていたんですか?」
「タイムマシンよ。調べ始めると面白いわね。存外、実現できそうに思える」
「無理ですよ。時を操る私が言うんですから間違いありません」
「そうねえ。過去を変えても、結果は変わらないと思うわ。今のところ。でも、過去に行くだけならひょっとすれば、って思うの。そうだ、咲夜、貴方の銀時計を見せなさい。何かのヒントがあるかもしれないわ」
咲夜は一瞬だけ考えて、パチュリーに銀時計を手渡した。おそらく……と思った。
「ええ。貸すだけでしたら。壊さないで下さいね?」
「もちろんよ」
ここで渡そうが渡すまいが、いつか、何かの形でパチュリーは銀時計の事を――過去へ戻る方法を――知るのだろう。銀時計、パチュリーの調べ物、レミリアの後悔。それが遠い未来に繋がって、過去へと繋がっていく。
だから、咲夜は銀時計を渡した。
「代わりと言っては何ですが、教えていただきたいことがあるのですよ。それを調べようとここに来たのですが」
「何かしら?」
「お嬢様が『先週、急に物忘れが酷くなった時があったわ。今後ああならないように頭によい食事を作りなさい』などと仰っていまして、ですので記憶力の上がる食事を作ろうと思っているのですが……何がいいのでしょうかね?」
もちろん、レミリアは記憶を失っていたわけではない。あの一週間、彼女は存在していなかったのだから。
それでも、主の命には黙って従うのが正しいメイドだ。
「あの子の事だからお酒でも飲み過ぎたんじゃないかしら?」
「当たらずとも遠からずかも知れませんね」
「うーん、記憶力ねえ。鰯でも食べればいいんじゃないかしら。DHAたっぷりの」
「鰯……ですか。吸血鬼とはいえ、鬼は鬼。あの臭いは大丈夫なんですかね? ……そもそも、幻想郷の何処に海魚がいるのかとなりますが」
パチュリーは既に銀時計に夢中なようで、気もそぞろな様子で答えた。
「ふむ……なるほど……こういう理屈なのね。ああ、鰯が何処にいるかって? さあね。探したりするのは咲夜に任せるわ。頑張って」
知識人様はいつもこうだ、と咲夜は肩をすくめた。
そんな姿の欠片も、パチュリーの目には映っていない。
ふう、とついた溜息は、ちょうどその時に上の方から響いた何かが砕け散るような音に紛れた。
気にする様子も見せずに本を読み耽るパチュリーを置いて、音の出元に向かえば、
「ああ、咲夜さん……すいません」
申し訳ないような様子の美鈴と、おろおろとするメイド妖精の姿が見えた。
「妖精たちに気の使い方を教えていたのですが……メイドの手が滑ったようで」
「……また仕事を増やしてくれたわけね」
辺りには、ガラスが散乱していた。
そして聞こえてくる、ばたばた、という足音。それは聞き慣れたものであり、死ぬまで聞いていくだろう――レミリアの足音であった。
「……とりあえず、後片付けしておいて。お嬢様が怒らないようになだめておくから。そのあとでちゃんと謝るのよ?」
「はい……申し訳ないことです」
「……まあ、命までは取られないわよ、元気を出して」
そう言い残して、ガラスの破片を見られないように、咲夜は小走りで駆けていく。今日も賑やかで忙しい一日だ、と思った。死ぬまで続いていく、紅魔館の一日。
「咲夜! 音がしたけど何? もしや賊が侵入したのかしら……ふん、面白いわね。うちに忍び込んだのが運の尽きよ! 死ぬより恐ろしい目に遭わせてやるわ」
「いえ、今日も紅魔館は平和ですよ。それより、素晴らしい紅茶が手に入ったのですが、いかがでしょう?」
「あら、そうなの? 言うまでもないと思うけど、私は紅茶にはうるさいのよ」
「ええ、承知しております」
面倒事を撒き散らす住人と、我が儘が服を着て歩いているようなお嬢様、そして一人の人間で紡いでいく、紅魔館の運命。
「それでも飲ませるというならいいわ。飲んであげる。でも、ろくでもないお茶だったら承知しないわよ?」
「ええ、楽しみに待っていて下さい。お部屋で、ゆっくりと」
咲夜はレミリアを笑顔で見送った。
とりあえずお嬢様の気を逸らすことができたけれども、さて、どんなお茶にしようかしら? と考える。お嬢様は美味しいだけの紅茶では満足しない。斜め上の発想を持ち込まないと……そう、青い紅茶のような。
遠い先の未来の事は知っている。でも、少し後のことはわからない。どんな紅茶をレミリアが飲んで、どんな表情をするかなんて。
わかるのは、どう転んだって咲夜には愉快だということだけだ。レミリアも愉快なはずだ。
なんと言ったって、それが彼女たちの運命なのだから。
読み終わったあと、ほっこりした気持ちになれて良かったです。
ただタイムトラベルの性質上、やっぱり説明が長いなあと。そのせいでレミリアの感情の起伏だとか緩急つけるべき部分がやたら緩慢になってしまっている気がします。
だから完全に読み入ったかと言われると厳しいかな……。
あと私の無知かもしれませんが銅像って粉々になるんでしょうか?石像なら想像できるのですが。ちょっと違和感
何はともあれ話はよかったです。次回作、楽しみに待たせていただきます
全般シリアスなのに、ギャグも忘れない姿には敬意を覚えます
結構長い作品でしたが、所々の小ネタのお陰で、飽きずに読めました。
みんな優しいな