★
可愛いと、そう思っていた髪飾りがあったのだ。
蛙と蛇。どうしてその二つを選んだのかは覚えていないけれど、子供の頃からのお気に入りで、ずっとそれを身につけていた。
まぁ、流石に中学生になってからは髪につけなくなったけれど……でも、大切に持ち歩いていたのだ。
お守り、だったのかもしれない。持っていれば安心出来るものだった。友達も可愛いと言ってくれていて、私にはそれが密かな自慢だった。流行に流されない自分カッコイイ、みたいな。小さな、自尊心だ。
だけど、砕かれた。
友達が、陰で私を――その髪飾りを馬鹿にしていると知ったのは、本当に偶然だった。本当に、偶然だった。
ちらりと見えた、携帯のディスプレイ。
開かれていた、ツイッターのタイムライン。
本名をちょっともじった、解りやすい名前。
別に覚えようと思った訳ではないのに、家に帰るまで覚えていて。
ちょっとした好奇心から、それを検索してみたのだ。
果たして、アカウントは見付かって――クリックした先では、笑いものにされている人がいた。
私だった。
写真が上がっていた。
私の、髪飾りだった。
古臭い。キモい。ダサい。嘲笑と共に流れる言葉。書き込んでいる本人達は、これが世界中から閲覧出来るとは気付いていないのだろう。
そうして私は、友達と思っていた相手を信用出来なくなり、自分の行動の一つ一つがネット上に曝され、誰かの笑いものになっているのでは、という強迫観念から、学校に行けなくなった。
行かなくなった。
両親はそんな私に理解を示してくれて、私は部屋に籠もり続けた。
友達だと思っていた相手からの心配メールは、一週間も続かなかった。私を馬鹿にしていなかった友達からのメールも、半月ほどで止んだ。
……私の築いてきた友人関係とは、この程度のものだったのか。そんな一方的な怒りが、更に外に出る意欲を失わせた。
唯一の例外は幼馴染で、何度も家に電話が掛かって来ていたらしい。でも、出る気にはなれず……いつしか止んだそれに、人間不信が加速した。
そうやって引き籠もり続けて、早五年。
かつての辛さからは脱却したものの、しかし無気力に日々を消費する無職が一人、出来上がっていたのだった。
★
「早苗、年末の仕事はどうするの?」
「……したくない」
リビングのコタツに入りつつ、母からの問いに答える。季節のイベント毎に聞かれるのだが、毎回同じ答えを返していた。かつては日頃から神社で働いていたのだが……今はもう、巫女服を着る気にすらならなかった。
対する母も諦め気味なようで、こちらの答えに『全く』という顔をしつつも、文句は言わず、
「じゃあ、買い物手伝って」
「えー、嫌だよ寒いし」
「文句言わないの」
「……はぁい」
脛を齧っている身の上なのは承知しているので、しぶしぶながらもコタツを出て、着替える為に部屋に戻る。
こうして母と買い物に行く事もあるが、基本的には引き籠もりだ。誰も呼ぶ相手が居ない部屋は物が多く、あまり綺麗ではなくて、いつか掃除しようと思いつつ今年も年末が来てしまった。そんな自分のダメさに溜め息が出るけれど、半ば諦めもあるのだった。
さて、外出である。
「……化粧するの面倒だな」
かといって、流石にスッピンで出ようとは思わな――あ、そうだ、マスクがあった。じゃあちょっと眉引くだけで良いや。どうせ近所のスーパーだろうし……と思ったところで、部屋の扉が開き、
「ついでにお昼も食べる?」
「……食べたい」
「じゃあ、ちゃんとお化粧もね」
「うぅ……」
面倒だが仕方がない。久々に化粧しよう。……あー、でも、髪も伸びたなぁ。いっそ切っちゃおうかなぁ。
そんな事を思いながら、寝癖の残る髪に櫛を通し……ふと、鏡越しに映る引き出しへと視線を向ける。
もう何年も開いていないそれを見る。
「……、……」
鏡に半分映っているのは、十九歳になった自分。
髪飾りをつけていた頃の――十四歳だった頃の自分がどんな風だったのか、もはや思い出す事すら出来なかった。
★
母の運転する車に乗って、近所のショッピングモールへ。
十二月に入った事もあり、どのショップもクリスマス一色だ。和服を取り扱うお店などでは、更にその先、成人式に向けてのポップが出ている。そこにディスプレイされた鮮やかな着物に目を向けつつ、私は無意識に呟いていた。
「……振袖かぁ」
「早苗も、再来年には成人式なのよねぇ。早いものだわ」
「行かないけどね」
「またそんな事言って。一生に一度だけなんだから、ちゃんと行っておきなさい。あと、家族で写真も撮るからね」
「えぇー、恥ずかしいよ」
「そう言わないの。みんな早苗の晴れ着姿を楽しみにしてるんだから」
「楽しみって言われても……」
あと一年ある、という事を差し引いても、二十歳になる実感が湧かないのだ。五年も引き籠もっていれば、そうなるのも当然なのかもしれない。
今の私にあるのは、『普通』に生きられなかった後悔と、悔しさと、憧れと……十代らしからぬ怠惰さだけだ。もはや『普通』というものが良く解らないし、私はこのまま緩やかに、何も残せずに死んでいくのだろう。
そうした達観は、けれど狭い世界しか知らない事の裏返しでしかなく、私はきっと同年代の誰よりも子供で、未熟だ。でも、どうしようもなかったのだ。どうする事も出来なかったのだ。
抗えるだけの強さがあったなら、そもそも引き籠もる選択などしなかっただろうから。
そうして買い物が終わった後、荷物をロッカーに預けてから、お昼を食べる事になった。
入ったのは、何度も利用しているパスタ屋さんだ。私が渡り蟹のトマトクリームパスタ。母がボンゴレロッソ。親子揃って魚介を選ぶところに血の流れを感じたり感じなかったりしつつ注文を待っていると、新たなお客さんが入ってくるのが見えた。
二人組みの女の子、だった。
普段は意識しないそれに目が行ったのは、女の子の片方が綺麗な金髪をしていたからだ。
外国人、だろうか。緩やかな癖のある金髪に、通った目鼻立ち。赤いポンチョタイプのダッフルコートを着ていて、黒地のタイツを履いた足は嫉妬するほどに細い。
可愛い子も居るものだ。そう思いつつ、何となしにもう片方の女の子へと目を向けると、彼女の方も可愛かった。
ブロックチェックのマフラーを外しながらやってくる彼女は、黒い中折れ帽に、同色のファーつきのモッズコートにミニスカートでニーソという、寒いのかそうじゃないのか良く解らない格好をしていた。……ああ、そういえばファッションは我慢だってどっかで聞いた事があるな……。
かくいう私は、『冬場にスカートとかお腹を冷やしたらどうするの。駄目とは言わないけど、女の子なんだから気を付けなさい』という母の躾けにより、ダウンジャケットにジーンズである――と、言葉にするとシンプルだけれど、ガーリーな感じに纏めている。外出すると決めて、ばっちり化粧もしたからには、外見にも気合を入れるのだ。
……でも、なんだろうこの負けた感じ。なんか凹むなぁ。そう思いつつ、彼女達を横目で追っていると、どうやら私の後ろにある席に通されたらしい。ピーク時間を過ぎて店内に人が少ない上に、背の低い壁で区切られているだけなので、彼女達の話し声がこちらまで届いてきていた。
「いやぁ、長野超寒いね。予想以上に寒い」
「嬉々としてミニスカ履いてきた癖に何言ってるの……?」
「だ、だって、移動は電車やバスだし大丈夫だと思って……」
「ふぅん」
「……ホテル戻ったらタイツ貸して」
「はいはい」
どうやら旅行客らしい。スキーか観光か。どちらにせよ、地元に人が来てくれるのは良い事だ。
「――にしても、何もなかったわね、守矢神社」
「そうねぇ。メリーの目で見て『何もなかった』んだから、本当に何もないんでしょうね。……でもさぁ、それって逆に怪しいと思わない?」
「どうして? 今までだって空振りはあったじゃない」
「だけど、相手は神代の時代からの歴史を持つ神社よ? それが何もない、なんて」
「じゃあ、蓮子はこう言いたいの? あの神社には何かがあって、でもそれが忽然と消えてしまった――と。まぁ、言いたい事も解るけどね」
……なんだって?
母と会話しつつ、つい背後の声に意識が向いてしまう。それが自分のところの神社の話となれば尚更だ。
「古い土地にありがちな綻びはあっても、神社や湖にある結界に変化はなかった。まるで、新築されたばかりの神社みたいにね。だからまぁ、作為的なものを感じてしまうのも解るわ。でも、そんな事が出来る人なんて居るのかしら」
「神とか」
「……神様が、どうして自分の神社周りを弄るのよ。まるで、神社ごと別の土地に引っ越しでもしたかのように」
「――ッ」
「早苗? どうしたの、突然怖い顔して」
「え、あ……別に、なんでも、ない」
掴んだままだったコップを下ろして、どうにか笑ってみせる。その間にも、背後の会話は続いていく。
「あ、じゃあそれだ」
「じゃあって何よ。それに、どこに引っ越すのよ神様が」
「そりゃあ、結界の向こう側でしょ。何だかんだで私は遭遇出来てないけど、向こうには妖怪がいっぱい居るみたいだし」
「流石に神様までは見てないけどね」
「じゃあ、可能性はあるわよね」
「猫?」
「にゃーん、と」
ピンポン、とチャイムの音が鳴る。
「あ、勝手にボタン押さないでよ。私まだ何食べるか決めてないのに」
「――ご注文はお決まりですか?」
「えっと、マルゲリータとクアトロ・スタジョーニを。あと、食前にホットコーヒーを二つください」
「畏まりました」
「……ちょっと蓮子、何勝手に決めてるの」
「え、メリーが頼みそうで私が好きなものを頼んだだけですけど」
「くっ、否定出来ないのが悔しい……」
「ケーキも食べる?」
「食べてから考えるわ。……で、猫だけど」
「にゃん?」
「誰が猫を観測するの?」
「私達よ。だって秘封倶楽部は、その猫が入った箱を――結界を暴いている訳だしね」
「……でもなぁ」
「ん?」
「蓮子は、そもそも神様を信じているの?」
「んー……。正直なところ、神は許容出来ないのよねぇ。居るだろうけど、認識出来ない。その存在が大き過ぎるのよ。擬人化萌えだし」
「……タイツ貸さない」
「えー、でも事実じゃないの。妖怪と同じように、神だって基本的には概念や事象のキャラクター化だし。太陽神や月神なんてその最たるものじゃない」
「それはそうなんだろうけど……そう言われると、信仰の尊さが失われてしまう気がするわ」
「そうかしら? 確かに、人の祈りは尊いし、美しいと思うわ。でも、信仰心っていうのは自分の中で完結してしまうものなのよ。つまり、人は誰もが自分の中に神を持っていて、それはとても都合の良い存在なの。だから、苦難を与えて下さるし、救っても下さる」
「神への祈りは、全て自己へと返ると?」
「でしょうね。だから、神という存在が居るとしても、人間は許容出来ない。だって、心の中の神と現実の神は確実に食い違っている筈だもの。神に意思があるなら尚更ね」
「え? 神様に意思があったら、それこそ人々の望みは叶えられるでしょう?」
「――神がそんな事を言う筈がない。神がそんな許しを与える訳がない」
「……あぁ、そういう事、か。自分の中にある理想と現実のギャップが埋められなくなるのね」
「本物が居なくたって戦争になるくらいだもの。本物が居たら尚更でしょうね。それは多様性のあるこの国の宗教でも同様だと思うわ。数が多いからこそ、そのズレも大きくなってしまうのよ」
「じゃあ、なんでこの国の信仰心は失われたのかしら? 本物が居ない以上、信仰心は残り続けていた筈なのに」
「それは違うわ、メリー。信仰心が失われたんじゃないの。私達が科学を信奉し始めた事で、みんなの心の中から神が消えてしまったのよ。その結果、神は不要な存在になってしまって――現代人は、その存在すら忘れてしまった。
いらなくなった小物を、引き出しの奥に仕舞い込むみたいにね」
「――お待たせしました、蟹のクリームパスタとボンゴレロッソです」
「はい、ありがとう。それじゃあ、頂きましょうか――って、早苗?」
「…………」
「でも、神社に参拝している人は多いわ。守矢神社だってそうだったじゃない」
「それ、本当に参拝客だった? 指定文化財を見に来た人じゃなくて?」
「……今日の蓮子は意地悪だわ」
「ごめんごめん。でも、つまりはそういう事なのよ。本当に参拝しに来ている人はごく一部だろうし、その一部ですら科学を信じてる。初詣だって、『正月には神社に参るものだから』って理由だけで行っている人が大半でしょう? それはもうただの娯楽であって、信仰じゃないわ。
あと、私達よりも下の世代だと、その初詣すら行かないらしいからね。中には、神社という場所に一度も入った事のない子も居るって話よ」
「嘘」
「本当だって。例え目の前に建ってたって、興味がなかったら行かないものよ」
「それは、そうかもしれないけど……」
「この国は、そのくらい神様を忘れてしまっているの。でも、霊能研究は進む。何故だか解る?」
「……解らないわ」
「人は、誰もが死ぬからよ」
「……」
「死は、必ず起こる現象よ。そして避けられない。その時にどうなるのか? 所詮人間の思考など電気信号に過ぎないのか? 或いは死後の国があるのか? ……探究心と不安とが混ざり合った学問よね」
「……つまり、蓮子は神様を信じていないのね?」
「え、信じてるよ?」
「…………」
「あぁ、その顔良いわ。――愛してる」
「その一言で色々台無しになるって気付いてる?」
「一生気付かない方向で」
「あっそう」
「――ホットコーヒーをお持ちしましたー」
「はーい。っと、はいメリー」
「……」
「んで、なんだっけ」
「神様について。許容しないのに信じているってどういう事? ……というかその前に、蓮子は妖怪の存在を信じているの?」
「信じてるよ」
「どうして?」
「メリーが見たって言うから」
「……」
「あれ、ここデレるポイントなのに」
「呆れて物が言えないだけよ……」
「百聞は一見に如かず。私はメリーの眼を気持ち悪いと思ってるけど、否定した事は一度もないわ。――そして私は、誰よりもマエリベリー・ハーンを信じている」
「……ばか」
「わーい、メリーがデレたー!」
「……で?」
「えへ、上機嫌な蓮子さんは何でも答えるわよ?」
「神様」
「ああ、だから、私の許容量を越えてるって話。そもそも、神様っていうのは絶対的な姿を持てない存在なのよ。いえ、持てるけど、持ってしまうと信仰の形が狭まってしまう。人間、誰もが『自分の事を助けてくれる神様』を望んでるから――望んでたからね。だから、もし神様が実在したとしても、それは人間のキャパシティに納まらない存在だと思うのよ。だって、相手は神代からの存在よ? 人間の認識内に収まるとは思えないし、思いたくないわ。なんかこう、『GOD!』って感じであって欲しいわね。
例えば守矢の神様の場合、御柱ドーン! みたいな」
「…………で?」
「だから私のスタンスは、一昔前の信仰に近いわ。神様仏様、どうか私をお救い下さい――ってね」
「神様なんて居ないと思いつつも、それを否定し切っては居ない、という事ね。『神様』を意識している時点で、現代の信仰とは違っている」
「そういう事。あと、一応ちゃんと答えておくけど、妖怪の存在を信じるのは、神よりもまだ現実味があるからよ」
「そう、かしら?」
「例えば、『幽霊の正体見たり枯れ尾花』って諺があるわよね。あれって、本当にそのままの意味じゃない? 『幽霊だと思った? 残念、ススキでしたー!』っていう。でもこれ、逆に言えば誰もがススキを幽霊と認識しかねないって事よね」
「その認識が本物を生むと?」
「生んできた、と私は思ってる。そうやって妖怪や幽霊が生まれた、と。
でも、時代が下って、幽霊がススキだって事に誰もが気付いた。だからその幽霊は消えてしまったのよ。きっと、結界の向こう側に……まだ、自分を幽霊だと信じてくれる人達の居る場所に。そう考えると、世界から『幻想』と呼ばれた者達が消えてしまった理由も解ると思わない?」
「でも、どうして結界の向こうに?」
「私だったらそうするかなって。だって、死ぬのは怖いよ? 消えるのは、嫌だよ?」
「それは……」
「相手は、3Dモデルの妖怪や幽霊じゃないわ。本物の、妖怪という生き物、になってしまった者達だもの。人間の一方的な恐怖から自我を持ち、でも一方的に消されると解ったら逃げるわよね。抵抗したって敵いっこないのは、絵本を見る限り明らかだし」
「え、絵本って」
「桃太郎とか一寸法師とか、読んだ事あるでしょ? そういう風になっている、と言った方が解りやすいかな。人間の作った勝手なルール。『妖怪は人間には勝てない』」
「……」
「そうして人間は夜に打ち勝ち、明るい世界を手に入れたのよ。でもその代償に、神を忘れてしまった。ちょっと現実的になり過ぎたのかもね」
「だけど蓮子、おかしいじゃない。神は明確な姿を持たないんでしょう? だったら、妖怪ばかりの世界に行ったって、信仰の形はバラバラに……――って、もしかして、相手が妖怪なら、その信仰は人間のように多様化しないって考えてるの?」
「ご名答」
「それこそ馬鹿げてる。妖怪が生き物なら、人間のように多様性を持つ筈じゃない」
「人間のような多様性があればね」
「え……?」
「例えばさ、塗り壁とか一反木綿とかって、どうやったら多様性を持てるかな?」
「……い、色を塗る、とか」
「そうね、そうやって変化を出すのも手かもしれない。でも、彼等ってそんなに人数居るのかしら? というか、動物の妖怪以外で、何十人何百人と居る妖怪って少なくない?」
「……群ではなく個だからこそ、と?」
「そんな感じ。まぁ、こんなの全部想像だし、実際のところは解らないけどね。でも、自分という個が独立していたら、その多様性はどこまでいってもただの個性でしかないわ。だって、比べる相手が居ないんだから。でも、彼等には共通しているものがある」
「……人間を襲う」
「そういう事。まぁ、中には人間を襲わない妖怪も居るけど、襲う妖怪の方が大多数よ。つまりそれって、根本的な行動原則が似ている――多様性が低いって事よね。
そんな者達が棲む場所での信仰が、人間ほどの多様性を持つとは思えない。そして、人間の再認識からの消滅を逃れた以上、彼等に死の概念があるのかどうかも解らないから……人間が持つ生への欲求、苦しみからの脱却を神に願わない可能性が高い。となると、自然と願う事って平均化されていく気がするのよ。そして、そういう場所でなら、神も気楽に過ごせるんじゃないかなーって。あと、信仰も沢山集まりそう。妖怪は人間ほど我欲に塗れていないだろうから。
――さて、遠回りしたけど、これが結論。結界の向こう側がそういう世界なら、妖怪だけじゃなく、神も向かうと私は思うのよ」
「そうして、神様は人間を捨てたと?」
「違うわ。人間が神を捨てたのよ」
「――お待たせしましたー、マルゲリータです。もう一枚はすぐに焼きあがりますのでー」
「……」
「……ちょっと早苗、大丈夫? さっきから全然箸が進んでないけど……」
「……へ、平気」
料理を食べ始めたのか、会話の減った背後から意識を戻す。どうやらいつの間にか母はパスタを食べ終えていたようで、でも私は殆ど手付かずのままだった。
「何かあったの? ずーっと辛そうな顔してるけど」
「……ちょっと、ね」
自分でも、何をどう言葉にして良いのか解らない。でも、流石にこれ以上母に心配を掛けられなくて、パスタを口に運ぶ。
冷たいそれは、あまり美味しくなかった。
★
守矢の神様。
それを意識しなくなったのは、いつからだっただろう。
私にとっては当たり前の存在で、でも周囲の誰にも見えない神様。
そういう意味では、パスタ屋さんで聞いた、『心の中の神と現実の神は食い違っている筈だ』という話は事実であるのだろう。
風祝である私の見ている神様と、巫女である母の想像する神様は、実際に食い違い、噛み合わなかったのだから。
「……あの、さ」
家に帰り、買って来た食料品を冷蔵庫に入れる母を眺めながら呟く。それは、自分で思うよりも暗く沈んだ、小さな声だった。
「さっきの、パスタ屋でさ」
「うん」
「私達の後から、二人の女の子がやって来てたじゃない。あの二人、私の後ろに座ってて……それで、その……」
唇が震える。上手く声が出ない。鼻の奥がつんと痛み、じわりと涙が溢れ出る。
でも、言った。
「ぅ、うちの、神社に……神様が居ないって、話してた、の」
「……そう」
母の返事は、どこか諦めのある――何故か、納得のあるもので、
「そう言われてしまう気持ちも解るわ」
「え……?」
否定されると思っていた。否定して欲しいと願っていた。
でも、母が告げる言葉は、私の想いとは真逆のものだった。
「五年位前からね、神社が静かになった気がするの。風が止んでしまった感じ、かしら」
「ご、五年前って……」
「……そうよ。貴方が学校に行けなくなって、風祝を辞めた頃からね」
「……なに、それ」
無意識に、声に棘が混ざっていた。
でも、母を睨む事は出来なくて、ただ俯き、手をぎゅっと握り締める。そんな私に返って来た母の声は、申し訳無さそうで、
「早苗を責めている訳じゃないわ。ただ、時期が一致するっていうだけ」
「――い、言いたい事があるならはっきり言ってよ!」
俯きながら叫ぶ。すると、視界の外れに立つ母が動揺した様子を見せ……冷蔵庫の扉を閉めると、真っ直ぐに私へと向き直り、
「――あなたが風祝を辞めた事で、八坂様への信仰心が途絶えた可能性があります」
「ッ」
実際に言葉にされると、予想以上に辛かった。このまま、母の前から逃げ出してしまいたくなるほどに。
「早苗の信仰は、私達のそれ以上に八坂様に届くもので……でも、早苗が風祝を辞めた事で、あなたを含めた多くの信仰が失われてしまった」
「……」
「だけどね、早苗。あなたが風祝を続けていたとしても、いずれはこうなっていたわ。つまりこの状況は、かつてのような信仰心を集められなかった私達全体の責任なの。風祝として立派に仕事をしていた早苗には何の責任もないわ。……むしろお母さんは、あなたが成人する前に風祝を辞めさせるつもりでいたのよ。このまま行けば、信仰心の減少が全てあなたの責任にされかねなかったもの。お母さんは、そういう苦労を早苗にして欲しくなかったの」
「お母さん……」
「風が止んだ事に気付いているのは、ほんの一握りよ。五年も経っているのに、数えるほどの人しか気付かないの。それが、守矢神社の現状なのよ。……当然これからも神事は続いていくけれど、それに八坂様が応えて下さるのかどうか、もう解らないわ」
「……八坂様は、消えてしまわれたの」
「早苗に解らなければ、それはもう誰にも解らないわ……。私達が居ると思う限り、そこに居て下さるとは思うけれど……」
応えてくれるかどうかは、解らない。
「……ちょっと、神社行って来る」
「……解った。遅くなるようだったら、メールか電話を頂戴ね」
うん、と頷いて、脱いでいたジャケットを再び着込む。
色々な感情が渦巻いて、何も考えられなくて、でもここで逃げたら本当に駄目になってしまうような気が、したのだった。
★
坂道を進み、夕方へと向かう街を歩いていく。
かつては毎日登っていた道なのに、久し振り過ぎて少し疲れる。それが悲しくなりながらも、私は守矢神社の鳥居を抜け――
――その瞬間、母の言っていた言葉が良く理解出来た。
「……」
強い違和感に目眩すら感じる。風を感じない、などというレベルではない。空っぽだ。外側だけ残して、中身を全て抜いてしまったかのような空虚さがある。
境内の様子が五年前と変わっていないからこそ、その違和感を強く感じた。
「――、」神奈子様。
そう呼ぼうとして、慌てて言葉を飲み込む。……もし答えがなかったらと思うと、その名前を呼ぶ事すら躊躇われた。
拍手をしなくても、私の声は神様に届く――いや、届いていた。でも、かつてと今は違うのだ。声が届くかどうかも解らないし……例え届いたとしても、風祝だった頃の生活を捨てて生きている私に、二人の神様は良い顔をしないだろう。彼女達は優しく、そして厳しかったのだから。
というか、
「……二人、とか」
本来は二柱だ。でも、その存在が身近だった私にとっては、家族と同様の相手だったのだ。だから、いつしか二人と呼ぶようになっていた。
……何故、遠ざけたのだろう。忘れようとしていたのだろう。私は、友達から陰口を言われて、それで学校に行くのが嫌になって引き籠もっただけなのに――
「――あ、れ……?」
本当に、それだけだったか?
――否定されたのは、髪飾りだけだったのか?
「……」
人は、過去を忘れる生き物だ。それが辛い記憶なら尚更で……だから私は、その時の事を正確には思い出せない。
でも、想像は出来る。
蛙と蛇の髪飾り。それは私のお気に入りで――誇りで。そう考えると、それを他人から何と言われようと私は気にしなかっただろう。蛙と蛇がどれだけ偉大で素晴らしく、そして優しいか、私だけが知っているという優越すらあったのだから。
つまり、最大の切っ掛けはそこではなくて。
私が友達だと思っていた彼女達は、
誰でもない、
私の事、
を?
「あー……」
嗚呼。
忘れていた記憶を、少しだけ思い出した。
思い出してしまった。
脳内で再生されるタイムライン。
無意識に封じ込めていた記憶。
それが、心を壊した最大の原因だった。
「……」
話題の切っ掛けは、髪飾りだったように思える。如何せん、他人の会話だ。全てを把握出来た訳じゃない。そもそも、したくなかった。
でも、目は文章を追い続けて、私自身への嫌悪に繋がる流れを見続けた。
文面は、簡素だったように思う。「あいつムカつく」とか、そういう語彙の少ない、頭の悪い文章の羅列。
そこに、引用されている呟きがあったのだ。
『アイツ病気らしいぜw幻覚見えてんだってさwww』
この時点で思考は止まっていた筈だ。
確かに私は神様が――人には見えないものが見えていたけれど、それを病気だと、幻覚だと、そう言われて馬鹿にされているとは思ってもいなかったのだ。
私は凄い。みんなとは違う。そんな優越が確かにあったのだ。
でもそれは、周りからすれば妄言でしかなかった。
それだけの、話。
そこから続く文章は、ネットスラングや差別用語交じりの嘲笑で――何よりショックだったのは、私を病気だと笑いものにした相手が、私の片想い相手の男子かもしれない事だった。
確証はなかった。でも、プロフィールや、載せられていた写真、会話をしている相手から見るにそれは確かであるように感じられて……多分、それが駄目押しだったのだと思う。
だって彼は幼馴染で、幼稚園の頃から一緒で……中学に入ってからは少し疎遠になっていたけれど、でも同じクラスで、顔を合わせれば自然と話せるくらいに仲が良くて――言葉にしなくてもそうだと解るくらい、お互いを好きで、
なのに、
『アイツ、頭アレな癖に顔は良いからなー。頼んだらヤらせてくんねーかな』
『え、マジ?』
『冗談だよバーカwww俺まで頭アレになったらどーすんだよwww』
『お前は元からアレだろw』
『うるせーバカwwwつか、どうせ信者のオッサン共とヤってんだろうし、頼まれてもお断りだわwwwww』
「…………」
片想い相手からの侮辱と、友達に馬鹿にされていた苦痛。
中学生特有の潔癖さと、性に対する嫌悪感。
その他、諸々。
そうした汚いものを見てしまって、東風谷・早苗は他人が信じられなくなりました。
「……」
私は、プライドが高かった。秘術を受け継ぎ、奇跡を起こせる自分に浸っていた。何より、二人の神様と触れ合える事が、『自分は特別である』という思いを強くさせていた。
それは、現人神である上では優位に働いたのだと思う。信者の人達も、私の特別性に神を見出し、信仰してくれていたのだから。
でも、本物の神である神奈子様への信仰心が途絶えつつある、そんな状況での現人神だ。信者以外の人達から――特に、宗教に興味を持たない若者からどう思われているかなんて、想像した事もなかった。
何せ私は、神である私が貶められる訳がない、という傲慢さすら持っていたのだ。だからこそ、ショックが大きく……今も、思い出しただけで嘔吐しそうになるほどに辛かった。
……当時も何度か吐いた事があったけれど、原因はそれだったらしい。その上、侮辱されていた自分に対する自己嫌悪が起き、何も出来なくなって……
……私は、自分の見ているものが現実なのかどうかも解らなくなった。
つまり私は、風祝を辞めたのではなく、辞めるしかない精神状態に追い込まれていたのだ。だから当時は人前に出る事すら恐ろしく、母親と会話するのすら躊躇いがあった。
そんな状況だ。神様、なんて意識出来る訳がなく、掛けて貰っただろう声も全て無視した。反応したら、それこそ自分が『病気』であるかのように思えて、恐ろしかったのだ。
だから私は、信じていたものを全て否定し……
……心を護る為、大切なものまでも忘れ去って、今に到る。
「……」
思い返してみると、五年前……心が壊れる前、神奈子様から何か言われたような気がする。重要な、とても大切な話を聞いた気がする。
私はそれが悲しかった……? 或いは、何かで怒られたのかも。
何にせよ、凹んでいたのは確かで、だから尚更にダメージを受けてしまったのだろう。
「…………ッ」
駄目だ。
立っていられなくて、蹲る。
「……」
信仰されなくなった神様は忘れ去られ、人知れず消えてしまうという。
現人神、東風谷・早苗。
風を呼ぶ巫女。
奇跡の子。
そんな風に呼ばれていたのも昔の事で、そこにあった信仰は失われている。
つまり私は、五年前に一度死んだのだ。
「……でも、殺したのは私なんだろうな」
当時の自分を否定したのは、誰でもない私自身だ。当時はそれ以外に方法がなかったのだと解っていても、どうしてあんな事をしてしまったのかと、そう後悔してしまうのを止められない。
涙が溢れて止まらない。
この場から動き出す事も出来ず、私は泣き続けた。
……どのくらい時間が経っただろう。
冬の日は短く、あっという間に暗くなってしまった境内の中で、私はゆっくりと立ち上がる。寒さで体が固まってしまって、少しよろけてしまった。
「……」
空っぽだ。境内以上に、心ががらんどうになってしまって、頭が上手く動かない。
自分の足では家に帰れそうになく、私はのろのろとした動きで携帯を取り出そうとし……そこで、背後から音が来た。
それは、二人分の声と足音で、
「……ねぇ、メリー。ホテル出る前からずっと気になってたんだけど、どうして私がタイツ履いてる間に、メリーはジーンズに着替えてるの? いじめ? サディズム?」
「蓮子、夜っていうのは寒いものなの。知らなかった?」
「知ってるよ!」
「知っているなら厚着しなさいな」
「し、したつもりよ! なのにホテル出たらこの寒さとか! 鼻痛い!」
「『坂道歩くんだし、少しくらい薄着でも大丈夫だよねー』とか言ってたのはどこの誰だったかしら」
「うぅ……」
楽しげなその響きに、私は驚く以外のアクションを取れなかった。何故ってそこには、ショッピングモールで見かけた二人の女の子がやってきていたのだから。
彼女達はきゃいきゃい話をしながら鳥居を潜り、そして何気ない様子で顔を上げて――私の姿に気付いた途端、同時に驚いた。
この時間の神社に人が居るとは思っていなかったのだろう。彼女達は驚きから一変、すぐに気まずそうな、悪戯の見付かった子供のような様子で、
「「こ、こんばんは」」
「……こんばんは」
他人相手と会話するのは久しぶりだが、最近は母に連れられて外に出る事も多くなっていたからか、素直に言葉が出てきていた。ある意味、昔取った杵柄――なのかもしれない。
風祝として――巫女として、老若男女関わらず、多くの人と接していたのだから。
……といっても、今の精神状態では営業トークもままならない。というか、ここには何もないと気付いていた彼女達に対しては、説明も何もないだろう。
なので私は逃げるように、
「夜の境内は暗いですから、参拝には気を付けてくださいね」
それだけ言って、去ろうとする。まさか悪戯をしに来た訳ではないだろうし……例えそうだったとしても、私には止められる力がない。だから私は、彼女達から逃げるようにふらふらと歩き出して――でも、引き止められた。
声を掛けてきたのは、帽子姿の方だった。
「あの、すみません。もしかして、神社の関係者の方ですか?」
「……まぁ、一応、そうですけど」
「そうでしたか。……どうしようか、メリー」
と、彼女は隣に立つ少女へと話を降る。どうやら衝動的に私を引き止めただけで、何か用があった訳ではなかったらしい。現に、金髪の少女の方は少々呆れ顔で、
「どうするつもりなのよ、蓮子。まぁ、私も引き止めようか悩んでいたところだったけれど」
「いや、現地の人の意見も聞きたいなぁって」
「でも、その結果怒られた事が何回かあったわよね」
「そ、それはそのぅ」
……昼間の会話内容から考えるに、霊能関係の人達なのだろうか。もしかしたら京都の出身なのかもしれない。
神様を始め、幻想、と呼ばれていた存在が消え失せたこの世界において、京都だけはそうしたオカルティックな研究が盛んであるらしいから。
だから、だろうか。縋るように、声が出ていた。
「……あの、人違いだったらすみません。今日の昼間、近くのショッピングセンターにいらっしゃいませんでしたか? そこにあるパスタ屋で、私、貴女達をお見かけしているんです」
「わお、世間て狭いわね」
「そりゃあ、地元の人が使うような店に入れば、そういう事もあるわよね」
「……メリーには夢がない」
「あら、いつもカラフルよ?」
こうして会話を聞いているに、本音を言い合える間柄であるらしい。それに羨ましさを感じつつ、私は少しの緊張を……いや、恐怖にも似たものを感じながら言葉を作る。
「あの時、少し、お二人の会話が聞こえていまして。……この神社から、何もなくなってしまったかのようだと」
「「……」」
「きっと、その通りだと思います。ここはもう、かつてとは大きく変わってしまいました」
「貴女は、何か知っているの?」
金髪の少女からの問い掛けに、私は緩く首を振る。
「……何も知りません。知らない内に、すべて終わっていました。……私に解るのは、違う、という事だけです」
「――何も知らない?」
「何、どうしたのメリー」
「んー……」
何か気になる事でもあるのか、少女がじっと私を見つめてくる。暗い境内の中だというのに、その紫色の瞳ははっきりと私を捉えているようだった。
それは、風祝でなくなった今ですら感じられる、不気味さ。それに無意識に警戒し始めたところで、ふと彼女が何かに気付いた様子で、
「そういえば、自己紹介がまだだったわね。私の名前はマエリベリー・ハーン。そして彼女が、」
「宇佐美・蓮子です。二人で秘封倶楽部という霊能サークルをやっています」
「あ、えっと、東風谷・早苗といいます。……霊能サークル、ですか」
「えぇ、そうなの。それを踏まえて、ちょっと今から失礼かもしれない事を聞くわ」
そう言って、マエリベリーさんは真っ直ぐに私を見つめ、
「――貴女は、神様を信じる?」
★
世に存在する結界を暴く霊能者サークル、秘封倶楽部。
荒唐無稽だと、そう切り捨てられてもおかしくない話だった。いくら京都で霊能研究が盛んだと言っても、心霊が実在すると立証された訳じゃないのだ。……でも、私はそれを否定出来ない。彼女達を疑う事は、つまり私自身を疑う事になるのだから。
そしてそれは、五年前に既に行った事だ。同じ轍は、踏みたくなかった。
「でも、どうしてお二人はここに? 昼間の時点で、神社には何もないと解っていたのでは?」
「昼間には何もなくても、夜には何かあるかもしれない。そう思ってやってきたんだけど、やっぱりここには何もないみたいね」
「というか、私達の事は信じて貰えたって考えて良いのかしら?」
蓮子さんの問い掛けに、私は頷き、
「むしろ、驚きました。……私の周りでは、神様や妖怪は、もう失われたものになっていましたから」
「確かに、どんどんと遠い存在になっているのが現状だわ」
だからこそ、私達は自由に活動出来るんだけどね。そう、蓮子さんは悪戯に笑う。
でも、その隣に立つマエリベ……メリーさんは、真剣な様子で、
「私は、世に存在する結界の境目――境界を見る事が出来るの。だから、この神社には何もないと解る。……だけど、早苗さん、貴女の周りには小さな歪みが見えるのよ。パスタ屋さんで一緒になっていたなら、どうして気付かなかったのか解らなかったくらい。些細だからこそ、気になってしまう。……何もないとはいえここが神社で、早苗さんがその関係者だからなのかしら」
「「歪み?」」
蓮子さんと声がハモった。そんな私達を前に、メリーさんは、空色のパズルを組み立てようとするかのような表情で、
「んー、なんて言えば良いのかしら。陽炎、というかなんというか」
「トンボ?」
「違うわ、蓮子。そっちじゃなくて、湯気みたいにユラユラしている方。ピントのボケた写真みたい」
彼女も、上手い例えが見付からないのだろう。うんうん唸りながら、私を片目で見たり、数歩移動した位置から見てみたりしつつ、
「私達は色々なものを見てきたわ。特に私は夢も見てきた。
一面の桜花。
蝉時雨に染まる森。
燃えるような紅葉の山。
銀世界に沈む里。
夢は現実になり、けれど現実は夢に変わらなかった。そこには、明確な境界が存在する。
早苗さんの周囲は、その境界がほんの少しだけ波打っている感じなの。紙に水滴が落ちて、乾くと、そこが少しだけ波打つでしょう? あんな感じ」
「つまりどんな感じなのよ」
「解らないわ。ここが『入口』なら話は別だけれど、ここには結界の境目が存在しない。でも、早苗さんには何かがある。……もしかして、巫女さんだったりするのかしら? 神様と繋がりのある相手なら、立っているだけで結界に干渉しそうだし」
「そう、ですね。私は以前まで巫女をやっていました」
メリーさんの告げる『入口』というのがどんな意味を持つのか、私には良く解らない。
でも、私は結界の向こう側を――妖怪達が暮らす世界の事を知っている。以前、神奈子様から教えられていたのだ。
それを、メリーさんの話を聞きながら思い出した。
その場所の名は、幻想郷。
幻を想う郷。幻想と呼ばれる者達の郷。
嗚呼、そうだ、神奈子様はそこに行くと言っていたのだ。
それなのに、私の周囲に何かがあるとするのなら、
「……マエリベリーさんが見ているのは、きっと残滓です。私が仕えていた神様は、五年前まで、私のすぐ側に居てくださったのですから。
とはいえ、神様が消えてしまわれた訳ではありません。信仰心が減って、その神徳が失われてしまっただけです。だから、ここからは何も感じられないのでしょう」
「という事は……かつての信仰が復活すれば、ここに御座す神様も力を取り戻すと?」
「はい。私はそう思っています」
だから、風祝をやっていた。
やっていたのだ。
信仰を失わせない為に。
人々の心から、神様が消えないように。
★
それから三十分ほどしてから、秘封倶楽部の二人とは別れた。
どうやら二人は私個人に――神様を見る事の出来た私に興味が出たようで、また後日話を聞きたいと言われて、メールアドレスの交換などもした。といっても、メルアドの交換なんて久しぶりで……というか、五年前に携帯を買い換えてからは始めてのメルアド交換だったので、ちょっと梃子摺った。それでも、私の電話帳は二人分のメモリーが増えたのだった。
でも、やっぱり辛さはあって、母に迎えに来て貰って……夕飯を食べたあと、私はよたよたと自室に戻った。
暖房を切っていた部屋は冷たく凍えるようで、同じくらい、私の心の中は冷え切っている。それでも、無意識に――引き寄せられるように、私は部屋の奥にある引き出しの前へとやって来ていた。
「……」
拭き掃除はしていたものの、五年間空けていなかった引き出した。どうしても緊張し、鼓動が早くなる。でも、今開けなかったら、もう二度と開けられないような気がして……私は目を瞑ると、えい、と勢い良く引き出しを開けた。
中身が揺れ、かしゃり、と音を上げる。
そして、ゆっくりと、恐る恐る目を開け――果たしてそこには、蛙と蛇の髪飾りがあったのだった。
「……良かった、あった」
もしかしたら、無意識に壊していたり、捨てていたりしたのではないかと……いや、そうじゃない。
もし神奈子様達が幻想郷に行ってしまわれたなら、これも一緒に持っていきそうだったのだ。理由は解らないけれど、でも、そんな気がして、だからこの引き出しを開けるのが怖かった。
でも、髪飾りはここにあって、そんな当たり前の事実に安堵し、涙が出てきた。
だけど、それ以上に申し訳ない。
その気持ちに従うように、私は髪飾りを手に取り……ぼろぼろと溢れ出す涙を止められぬまま、それを胸に抱き締める。
「ごめっ、なさい……ごめん、なさいっ……」
大切にして貰ったのに、私は何も返せなかった。神奈子様達の意思を伝え、信仰を集めるのが私の役目だったのに、それから逃げ出してしまった。
嗚呼、どうして私は誰かに相談しなかったのだろう。幼馴染に、事の真意を確認しなかったのだろう。当時の精神状態を思えば、それが出来なかったのは解るけれど……例えば母に確認して貰うとか、恥ずかしいけれど、そういう方法だってあった筈なのだ。
それなのに、私は全部抱え込んで、否定されるのを恐れて、自分を構成していた多くのものを――大切な人達を否定した。それどころか、忘れ去った。忘れられる訳ないのに、ぽっかりと私の中から『風祝である私』が消えてなくなっていた。
落ち着いた今だからこそ解るけれど、それはとても大きな喪失であり……私を信じてくれていた人達に対する裏切りだ。信者の人達に顔向け出来ない。
私は辛かった。でも、同じように彼等も辛かっただろう。それに五年も向き合ってこなかったのだから、私は責められてしかるべきだ。
……そんな私に愛想をつかして、神奈子様達は出て行ってしまったのだろう。もっと信仰が集められる場所へ、行ってしまわれたのだろう。
あの人達は優しいけれど、厳しかったから。
嗚呼、
嗚呼!
「ごめん、なさい……!」
ごめんなさい、ごめんなさい。
今すぐは無理でも、少しずつ、また風祝として……もしそれが無理なら、神社の巫女として頑張ります。だから、どうかお願いします。
「神奈子様、諏訪子様……」
私の――私達のところへ、帰ってきて下さい。お願いします……。
二人の名を無意識に呼びながら、私は涙する。
辛くて、苦しくて、何よりも悲しい。
それなのに、何故だろう。
冷え切っていた部屋が、少し、暖かく感じる。
それはかつての頃のようで――ふと、頭を撫でられる感触があって、
「――よしよし、もう泣くんじゃないよ」
「私達はいつだって、早苗の側に居るんだからね」
「…………」
「お、泣き止んだ泣き止んだ」
「全く、早苗は泣き虫なんだから」
「…………嘘、」
顔を上げて、恐る恐る振り返る。
ああ、でも、嘘でもいい。
そこに立っているのは、優しく笑う二人の神様――!
「――ッ!!」
「おおう?!」「わぁ!」
後先考えずに飛びつくと、受け止められた。受け止められた! それに対する疑問よりも、嬉しさが溢れ出して、私は必死に二人に抱き付き、
「神奈子様、諏訪子様ぁ……!」
「大丈夫だよ、早苗」「私達はここに居る」
「ッ、あ――!!」
声にならない声を上げて、私は、ただ嬉しさに泣いた。
★
散々泣いて、慰められて、どうにか落ち着きを取り戻して。
最初に出た言葉は、疑問だった。
「どうして、お二人がここに? だってお二人は……」
「消えてないよ?」
そう当たり前のように笑って、諏訪子様が私のベッドに腰掛け、
「取り敢えず、早苗も座りなよ。色々説明するからさ」
「わ、解りました……」
ふらふらする体を神奈子様に支えて貰って、私は諏訪子様の隣に腰掛ける。でも、流石に三人で座ると狭いので、神奈子様は私の勉強机に収められた椅子に座り、
「神社から『何もない』ように感じたのは、当然だろうね。私達は神社や湖ごと幻想郷に引っ越したんだから」
「その時に、神奈子がこの土地に残ってた信仰を全部使っちゃったんだよね。だから、ここには何もなくなっちゃった」
「あ、あの時はそうするしか方法がないと思ったのよ。でも、幻想郷では多くの信仰を得られたわ」
そう胸を張る神奈子様の言葉に頷きつつ、私は首を傾げ、
「神社ごと引っ越したなら、どうして神社が残っているんです?」
「神社を物理的に移動させた訳じゃないんだ。幻想郷は失われた幻想が集う場所だからね。つまり、私が移動させたのは、『かつて多くの信仰を集めていた守矢神社』という幻想なんだ。だから神社は当然ここに残っているし、湖もある」
「本物も幻想も、どっちも本物の守矢神社なのよ。ある意味、分社みたいなものね」
神様は幾らでも体を分ける事が出来、そしてその一人一人が本物なのだ。つまり、幻想郷に向かわれた後も、私の側にはずっと神奈子様達が居てくれた事になる。
「でも、じゃあ、どうしてお二人の姿が見えなくなったんです? ……私が、否定したから?」
「違う違う、そうじゃないよ」
特徴的な帽子を膝の上に載せつつ、諏訪子様は神奈子様を見やり、
「神奈子がやらかしてね」
「神奈子様が……?」
その言葉に神奈子様を見ると、彼女は申し訳無さそうに目を伏せ、
「神社を移動させる為には、私と諏訪子への信仰心だけじゃ足りなかったんだ。だから、神である早苗の信仰心も使わせて貰って――神である早苗を、幻想郷に連れて行ったんだ」
「私を?」
「最初からそのつもりではあったんだけど……思っていた以上に消耗が強くてね。人間である早苗には、何の神徳も残せなかったんだ」
「私達の声が聞こえなくなったのはそのせい。早苗が悪いんじゃないよ。全部神奈子が悪い」
「うぅ……」
神奈子様が反論出来ないという事は、事実なのだろう。そして、そこまでの焦りが生まれるほど、彼女達への信仰心は下がっていたのだ。
「そうして神奈子は、私にも早苗にも何も言わずに神社を移動させたんだ。でも、神社自体は残ってるし……早苗がまた頑張って信仰を集めてくれれば、私達はこっちでも元の力を取り戻すだろうね」
「でも、じゃあ、どうして今はお二人の姿が見えているんでしょう」
「早苗が私達を思い出したから、かな。その信仰心のお陰だよ」
「それに私達は、早苗を自分達の巫女だと認識し続けているからね。巫女から呼ばれれば応える。そういうものさ」
「まぁ、呼ばれないと応えられないくらい、こっちじゃ弱ってたんだけどね。――神奈子のせいで」
「で、でも、幻想郷じゃ凄いのよ? 核融合を実用化したりもしたし、他にも……」
そう幻想郷での実績を話す神奈子様の様子を見るに、本当に幻想郷での生活は上手く行っているのだろう。
それが自分の事のように嬉しくなる私の隣で、諏訪子様がベッドに寝転がり、
「正直こっちに未練はなかったけど、まさか早苗を置いてくとは思わなかったからね。最初はちょっと喧嘩したよ」
「早苗は私達の巫女であると同時に、現人神として、人間よりも神に近い側面を持っていたんだ。つまりそれは、私達と同じように消滅しかねない可能性を孕む事でもあった。
早苗にはその話をしていたんだけれど……まぁ、私の言い方が不味くて、勘違いさせていたみたいだね」
「あ……」
そうか。五年前に聞いた話は、私を置いていくのではなく……人間である私を護る為に、神である私を連れて行く、という事だったのか。だけど私は置いていかれると思い、そして二人が消えてしまうのだと思い込んだ。そのショックを引き摺っていた中で無自覚の悪意を見てしまって、心を壊してしまったのだ。
私は馬鹿だ。そう思うこちらの手を、諏訪子様が握り、
「ごめんね、早苗。辛い時に声を掛けてあげられなくて」
「……本当に、ごめん」
椅子を立った神奈子様に抱き締められた。でも、見えなくなっていただけで、二人の神様は私を支えてくれていたのだ。メリーさんが言っていた歪みとは、つまりそれで――二人に感謝せど、文句などある訳がない。
「私こそ、ごめんなさい……。…………あと、その、幻想郷に居る私はどんな感じなんでしょうか」
調子と図に乗っていた記憶がある分、とても気になる。そして不安になるのだが、
「あはははは」
「はっはっは」
「いや、ちょっと、笑って誤魔化すところじゃないですよ?!」
ああもう、『いつもの』空気だ。そう自然と思えた事が嬉しくて、また涙が浮かびそうになる。そんな私を、諏訪子様が後ろから抱き締めてくれながら、
「向こうとこっちじゃ時間の流れが違うからね。向こうの早苗に逢ったら驚くと思うよ? 外見の違いもそうだけど、常識に囚われるの辞めたし」
「ちょ、え、常識?! それは止めて下さいよ!」
「いやいや、元気で楽しそうなんだって。あそこまで元気になれとは言わないけど、早苗にも元気に笑って欲しいんだ。ずっとそれが言いたかった」
「……諏訪子様」
「――だからまぁ、引き籠もるとか許さないよ?」
「え、」
ぎゅっと、抱き締める力が強くなり……その小さな手がお腹に下りてきたと思ったら、そこをにぐにと抓まれて、
「まずは体力作りからかなー。この浮き輪を取っ払って、軽くお山を制覇するくらいの体力をさぁ」
「やめてくださいしんでしまいます」
ああ、そういえば諏訪子様はちょっとスパルタなんだった……。そう思う顔がおっぱいに挟まれた。
「ちょっと諏訪子。早苗は大変な思いをしたんだから、ゆっくり頑張ればいいんだ」
「そういうのが駄目なんだって。応援するのと甘やかすのは違うんだよ?」
「支えるのと無茶をさせるのも違うだろう?」
と、私を挟んで口論を始めてしまった。
ああ、懐かしい。何よりも、嬉しい。
嬉し涙をまた流し始めてしまうくらい、私は幸せなのだと知った。
★
半年後。
何だかんだありつつも、私は本格的に巫女の仕事を再開していた。本来ならば風祝として働くべきなのだが、今はまだ秘術を用いても風を起こせないくらい、神奈子様の力が弱っている。なのでまずは、根本である神奈子様への信仰心を取り戻そうと頑張る事にしたのだった。
といっても、仕事を再開した当初は失敗も多く、親族から嫌味を言われまくり、凹みまくり、かつての頃に近いくらい辛い日々が続いた。でも、私には支えてくれる人達が居るのだ。それが解っているから、どうにか頑張ってこれて……五年前ほど完璧ではないにしろ、一人前の巫女として働けるようになっていた。
そんな私からの信仰心を取り戻した事で、神奈子様達はこちら側での顕現を安定して行えるようになった。それは私の心にとても大きな安定と、日々への前向きさを与えてくれる。
まるで新しい自分に生まれ変わったかのような、輝ける毎日だ。
過去は消えないし、時折苦しくなる時もあるけれど……もう大丈夫だろうと、そう思えた。
「……よし、これで準備完了っと」
とある金曜日。私は、秘封倶楽部の二人と小旅行に出かける為、旅行鞄を手に家を出ようとしていた。
彼女達との付き合いは今も続いていて……メールしたり電話したり、ボイスチャットで会話したりしている内にどんどんと仲良くなり、月に一度はこうして『入口』探しの旅に付き合うほどになっていた。
旅費はそれなりに掛かるけれど、ここ十年電車にすら乗っていなかった私にしてみると、その旅費分以上の思い出が得られる旅になっている。何より、秘封倶楽部の二人と逢うのが楽しいし、彼女達と色々な場所に出向くのは刺激的だった。
その上、集合場所は京都とは限らない。日本全国、曰くのありそうな場所にならどこにでも出没するのが秘封倶楽部なのだ。彼女達のアクティブさを前にすると、自分がどれだけ狭い世界に生きていたのかを思い知らされる。だから尚更に、多くのものを知りたいと思えるのだ。
今日の待ち合わせ場所は東京駅。神社から遠く離れる為、二人の神様はついて来れないけれど……でも、『入口』の向こう、幻想郷にも彼女達は居るのだ。心配だけれど、不安ではないらしい。
そしてそこには、神様になった私が居るのだ。彼女と出逢うのが楽しみなようで、でもちょっと怖い毎日でもあるのだった。
「それじゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃい」「気を付けるんだよ」「お土産よろしくねー」
母と、神奈子様と、諏訪子様と。三者三様の笑みに見送られて、私は家を出る。
さぁ、旅に出かけよう。
蛙と蛇のお守りと、弾む心を携えて。
そうだった、そうだった。風神録が出た頃の早苗さんは、確かにこんな感じだったよなぁと。
いやもちろん、今の常識に囚われなくなった早苗さんも可愛くて好きですよ?
でも時々は、こういうごく普通の女の子な、人間らしい早苗さんも良いなって。
なんか変な感想ですみません。でも、そんな昔を思い出せたことがとても嬉しかった。文句なしの100点満点!
だけど早苗さんとの交際は認めん
こっちのダウナーな早苗さんもキャラが立ってて良し。
設定はおもしろいとは感じた。ただ未来と言うわりにはアイフォンだとかツイッターなんかの現代ド真ん中を感じさせるワードが作中に出てきて、イマイチ世界感覚が掴みづらい。秘封の二人が存在する世界は、幻想郷時間から確か百年くらい未来に進んでいる設定のはず。身近にあるものから作中で使うギミックの活用法を思い付いてしまうのも分かりますが、今回の使い方は個人的にマイナスポイント。現代ワードを作中で出しておきながら「実は未来でした!」と言われてもずるさを感じちゃうね。色々な意味で。
そこは描写をぼかし、読者に「ああ、あれのことか」と連想させる工夫が欲しい。アイフォンはともかくツイッターのようなものなら百年後にもあるでしょう。それに要は「見えないところで陰口を叩かれ、幼なじみにも陰口言われてると勘違いする」描写が欲しい訳だから、別にツイッターにこだわる必要もないですし、携帯なんかのギミックを使わなくても上手くそういった描写は書けると思います。
あとは内省する早苗の内面描写をもう少し踏み込んで掘り下げて欲しかったかな。言い方が悪い気はしますが、まだまだ上っ面を舐めたような感じで、筆者の喘ぎ声が聞こえてきませんでした。これは怖いし痛いし勇気がいることですが、自らの身を切る鮮血の描写がどこかに一つにでもあれば、作品の評価はぐっと上がった思います。ダウナーな内容を含むSSは特にそこが重要だと個人的には考えていますので。
総評すると「もったいない」。良い方向へ修正が出来るところが沢山あって、更にもう一押しザクッと心を抉る描写があれば5000はイケるポテンシャルを秘めていた内容、そんな風に思いました。
ありがとうございました。
秘封とも絡む事もしやすいし。
ちょっと暗めで綺麗な作品に乾杯
最後の会話は蛇足かな?と思いつつも、劇中の早苗を救われた存在にする為には必要でしたね