「おはよー、妖夢!」
もうすっかり聞き慣れた元気な声に顔を上げると、これまた見慣れた姿がそこにある。
「ああ天子さん、おはようございます」
毎朝この時間はこうして門扉の前で掃き掃除をしているが、天子さんは週に四日、そのときにこの白玉楼を訪ねてくる。
しかも決まって落ち葉や埃を集め終わってさあ拾おうか、というタイミングで。
「今日も精が出るわね。はいどうぞ」
「ありがとうございます」
そうやって天子さんがしゃがんで差し出してくれた塵取りにゴミを箒で掃き入れる。
ここまでが最近完全に定着した感のある、私と天子さんとのやりとり。
それにしてもさっきから気になっているのだけど、天子さんの持っているあの白い包みは何だろう?
桃ならいつもは籠に入れてくるし、お酒は徳利でしか見たことないし……まあいいか、後でわかるでしょ。
「じゃあ、お邪魔するわね」
「あ、はい。いつもお手伝いさせてすみません」
「別に今更あれくらいのことで畏まらなくていいの。それよりほら、早く行きましょ」
そう言って天子さんは自分で門を開けて、屋敷の庭園へと足を踏み入れる。
私は急いでゴミの入った塵取りと箒を両手に持って後をついていく。鼻唄を歌いながら軽い足取りで前を行く天子さんを見ながら思った。
私達、そろそろ次のステップに進んでもいいんじゃないのかな。
「はぁっ!!」
「ていっ!!」
「ふんっ!」
「くっ!?」
「まだまだ!!」
道場に響くのは床板のきしむ音、木刀のぶつかる音、そして二人の声。
天子さんがわざわざ白玉楼に来るのは、もうかれこれ半年くらい続いているこの立会い稽古のため。
私は剣術の腕前にはそれなりに自負するところはあるももの、その反面実戦経験に乏しく咄嗟の融通や応用のきかないところがあると自覚していた。
天子さんは私と正反対で実戦的ではあるものの、剣術自体はとても荒削りで動作に無駄が多かった。
それならばこうして正反対な者同士でやればお互いの短所を補えるのではないかと考え、天子さんも剣術の練習がてら稽古に来ていただけないか申し出たところ快諾を得て今に至る。
「ふぅっ、次で終わりにしましょう」
「ええ、それでは私から行きますね」
「よし来い!」
「いざっ!」
床を蹴って天子さんの右手に回り込み、そしてまた後ろに回り、その動きを繰り返してとり囲むように脚を使って撹乱する。
だけど天子さんは……動かない。最初の頃はこれで結構あたふたしてくれたけど、さすがに最近通用しなくなってきた。
ならばちょっと一捻り。正面からフェイントかけて、死角に回り込んで、跳んで、上から!
「でやぁっ!」
「はっ!」
木刀のかち合う音が鳴る。完全に背後からの打ち込みだったのに何という反射速度、そして勘の良さ。ほんとにメキメキと腕を上げてるのを実感する。
「てっ!」
「甘い!」
浮いた体から半ば苦し紛れで放った蹴りは左腕一本で難なく受け止められた。こういうところの駆け引きはやはりまだまだ天子さんが一枚上手だ。
そのまま床に飛び降りて一息つく。
「むう、結局最後取れませんでしたか」
「まあ結構焦ったけどね。最近はあれから更に蹴りまで出てくるから気が抜けないもの」
「でも天子さんこそ前みたく明らかに隙らしい隙が無くなりました。いい加減次の手を考えないと」
「それ言うなら妖夢も更に速くて読みづらくなってるし、私も力押しじゃ通用しなくなってきてるわ」
「全部天子さんがこうして稽古付けてくれるおかげですよ。今まで本当に相手に困ってましたから」
「ふふ、私もどうせ暇してたからありがたかったもん。おかげで今は楽しくやってるし、来てよかったって思ってるわ」
こんな言葉が自然に出てくるあたり、初めて会った頃からかなり印象が変わったなと思う。
表情もだいぶ柔らかくなったし、何よりよく笑うようになった。宴会なんかで人の輪に入っているときには特にそう思う。
でも、私と一緒にいるときの天子さんが一番素敵な表情をしてる。
そう、今みたいに。これは自意識過剰なんかじゃない。多分、絶対。
「って、どしたの? 人の顔じっと見て」
いけない、考えごとしながらつい天子さんの顔を見つめちゃってた。
「あ、いえ、やっぱり綺麗だなー、って」
「はあ?馬鹿も休み休み言いなさいな」
そう言っても照れてる天子さん、可愛い。だけどそれ冗談じゃないですから。咄嗟に言っちゃったにせよ、本心からそう思ってます。
まあこんなことを考えるくらい、私の方こそ変わったのかな。
というわけでわたくし魂魄妖夢は、こちら比那名居天子さんのことを好きになってしまったのでした。
「すみません、つい。じゃあお昼にしましょう。用意してきますね」
「あ、ちょっと待って待って」
天子さんが少し慌てながら取り出したのは、朝持ってきた白い包み。このタイミングでこれを出すということは、これの中身はまさかあの、いやそんな。
「今日は私がお弁当作ってきたの」
そのまさかのお弁当だった! こんなことがあるなんて!
天子さんが私のためにわざわざお弁当作ってくれたなんて、それだけで嬉しさが爆発しそう。
「わあ!天子さん手作りのお弁当なんて夢みたいです」
「もう、リアクションが大袈裟なんだから。まあそこまで喜んでもらえるのは素直に嬉しいけど、肝心は味なのよのね。実は味見してないし」
味見してないとはある意味天子さんらしい……のかな?
正直私としては天子さんお手製のお弁当というだけで味は二の次なのだけど、天子さんは以前料理したことないって言ってたし不安になるのも当たり前か。
「いや、絶対美味しいに決まってます。そうに違いありません。と言うか少しでも早くいただきたいです」
「うーん、でも不味かったら不味いってはっきり言ってね?」
と言われても、そうやって天子さんの気持ちを台無しにすることなんてできるわけがない。仮に多少おかしくたって何でも美味しいと言って食べることができる自信が、今の私にはある。
まあ、形だけでも肯定はしておくけど。
「わかりました。では、せっかくのお弁当なので中庭でいただきましょう」
道場を出て中庭までの長い廊下を二人で歩く間、自然と足どりも軽くなる。
とても触り心地のいい、触れただけで上質だとわかる布に包まれたお弁当の入った包みは天子さんから受け取って大事に胸に抱えている。
だけど私は知っている。どんなに上質な生地だろうと、天子さんの髪や肌の手触りには及ばないことを。
こうしているとつい、顔がにやけそうになる。まあでもこの状況なら別に我慢しなくてもいいんじゃないかな。
むしろ思いっきりにやけてみようかしら、こんなふうに。
そしたらきっと天子さんは。
「ちょっと妖夢、顔がだらしないわよ?」
ほら気付いてくれた。
「えへへ、なんだかつい嬉しくなっちゃってですね」
「妖夢ったら変なのー。もしかしてそんなにお弁当が楽しみ?」
「ええ、それはもう」
「うー、そんな満面の笑みで返されるとなんか照れるわ……でもまいっか、無感動より」
「そういうことですよ。さ、着きましたー」
枯山水の中庭に面した縁側に、二人並んで腰を降ろした。
気持ちいいな、と思ったのは、新緑の匂いを運ぶ少し暖かな風が吹いたから。
「それでは、只今より私、不肖魂魄妖夢めが、誠に僭越ではございますが、この場におきまして、比那名居天子様がお作りになられましたお弁当の開封の儀を執り行わせていただきます」
目を瞑ってお辞儀しながら、お弁当箱を頭上に掲げて冗談めかした口上を述べる。
天子さんにだからできる、ちょっとした悪ふざけ。
「何やってるんだか……。あー、でもいざ開けるとなると緊張しちゃう。ほんとにあまり期待しちゃ駄目よ? 初めてなんだから」
まず呆れた様子を見せたあと、急に慌てだす天子さん。日頃の堂々とした態度とのギャップに何だかぐっと来るものがある。
まあそれでも、実は割と完璧主義的な天子さんの性格からして少なくとも見た目はそんなに変なものを作っているはずはないと思うんだけど。
結び目をほどいて包みを開けて、綺麗な蒔絵が施された朱塗りのお弁当箱の蓋を外すと。
「わあ!」
予想以上の出来映えに、目が点になって感嘆の声が出る。
とても初めて作ったなんて思えないほど綺麗に盛りつけられたお弁当。早く食べたいのに、食べてしまうのが勿体なく感じちゃうくらい。
中が四つに仕切られた弁当箱には、俵むすびと卵焼きと鮎の甘露煮と鶏の唐揚げとほうれん草のおひたしと切った桃と里芋の煮っころがしと、そして煮豆が行儀よく詰めてある。
「どうしたの妖夢、固まっちゃって……?」
膝の上にお弁当を置いたまましばし感慨にふけっていたら、天子さんが心配げに私の顔を覗き込んでいた。
「あ、いや、すみません、つい見とれちゃって」
「ほんと? 何かおかしいとこなかった?」
「そんなの全然ないですよ。おかしくないどころかすごく美味しそうで」
「そっか、ならよかった。じゃあ食べて食べて」
「はい、天子さんも」
二人の間にお弁当箱を置いて、包みの中に入っていた箸を一膳天子さんに渡す。
というわけで、いよいよ。
「「いただきまーす」」
さて何からいただいたものか。迷い箸は行儀悪いし、ならば私の好物の卵焼きから!
外側にはきつね色の焼き色がついていて、中はほんのちょっとだけ半熟気味。形もきれいにできている。
天子さんに見守られながら一切れ頬張ると……。
「美味しい!」
私が自分で作るよりかなり甘い味付け。ふんわりとした食感とあいまって、実に舌に優しくて心地よい。
そりゃ身も蓋もない言い方をすれば何の変哲もない甘い卵焼きだけど、天子さんが私のために初めて作ってくれたお弁当っていう事実が最高の隠し味だ。
このぶんなら、他のおかずもあまり心配するは必要は無いのかもしれない。
けど油断は禁物。せっかく天子さんが作ってくれたのだから、その気持ちを無駄にするようなことだけはしたくない。
「ほんと? どれどれ……うん、大丈夫だわ」
恐る恐る卵焼きを一口食べた天子さんの表情から緊張の色が薄れる。とりあえず最初が肝心だからよかった。
「じゃあ、次はこれをいただきますね」
と、次は鮎の甘露煮に箸を伸ばす。
いい照りが乗っていてこれも見た目に美味しそう。まるごと頭から齧りつくと、程良い甘辛さとわずかな香りの刺激が口の中に広がっていく。
ちょっと私の甘露煮とひと味違うのは、なるほど山椒を加えてあるからか。
とにかく、これも文句なしに……。
「いや、ほんとに美味しいですよ。山椒がいい味出してます。作るのが初めてだなんてとっても思えないです」
多分、多分だけど誰かから教わってはいるはずだ。だけどそれを聞くのは野暮というもの。天子さんが話したいのであれば話してくれるだろうし、今はその方に感謝しておこう。
「そう言ってもらえてよかった。ほら私、ずっと天界にいたでしよ? だからこっちの料理とか味付けとか全然知らなかったから自信がなくて」
「いや、それでこれはすごいです。ほら天子さんも食べてみてください」
「言われなくても食べるわよ自分で作ったんだから」
そんな言葉を口にしながら、照れを隠しきれなくて実はとっても嬉しそうなのが丸わかり。こういうところは本当にわかりやすい。
私がまず箸をつけて、それから続けて天子さんが食べる形でお弁当は減っていく。
唐揚げも、おひたしも、里芋も、おむすびも、どれもなかなかの出来で、それどころか冗談抜きで今まで食べた食事の中で一番美味しくさえ感じられて、すっかり幸せな気持ち。
「妖夢ったらよく食べるわねぇ。貴方の主人を思い出すわ」
「だって全部美味しいんですもん。でもさすがにあそこまではちょっと」
「確かにそれもそうね。まあ、そう言ってもらえると頑張った甲斐があったわ。好きなだけ食べてね」
嬉しそうにしてる私を見て、天子さんも嬉しそう。そして私もそんな天子さんを見てますます嬉しくなる。
こうやって天子さんと隣どうしで一緒に楽しくお弁当を食べてる、この喜びをいつも味わえたら、なんて。
「じゃあ次は煮豆を」
昆布と一緒に炊きあげてある煮豆を一粒、箸で掴んで口に運ぶと。
おおう…………これは…………!!
「うん、煮豆も柔らかく仕上がってて美味しいです!」
「それなら良かったわ。これ、私は食べるのからして初めてだったから」
良かった、何とか天子さんに気取られずに済んだ。やっぱり気を抜かずにいて正解だった。
この煮豆、なぜかしょっぱいです。
本当は甘いものが塩辛い、想定していたものと真逆の味覚を味わったこの感覚。
驚きを表に出さずに済んだのは、剣の修行による精神鍛錬の賜物に違いない。私が剣の道を歩いている意味はきっとこの瞬間のためにあった。
……とまあ冗談は程々にしておいて、実のところしょっぱい煮豆もそういうものだと思って食べていると悪くない。
これはこれで塩味がご飯に合うし、豆自体は型崩れもせずにほっくりと柔らかくできている。
「へえ、こんな味なんだ。まさにご飯のおかずじゃない」
天子さんだって何の疑問も持たずに食べている。
ただ、初めて食べるものを味見もせずに作るとは一体……?
少し気になるけど、とにかくこれは決して失敗じゃない。ただ私が何も言わずにいればいいのだから。
というわけでお弁当、そのまま二人で完食させていただきました。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさま」
「ふう、とっても美味しかったです」
「うん、我ながら初めてにしてはよくできた……と思っていいのかしら。妖夢の食べっぷり見てたらちょっと自信ついたかも」
「確かにそれが何よりの証拠と思っていただければ。思わず夢中で食べちゃいましたもん。今日はまさかこんな僥倖があるなんて思わなかったです」
私が知る限り大抵のことは卒無くこなしちゃう天子さんだから料理だって例外じゃないんだろうけど、私も負けてられないなぁ。
「考えてみたら、私って人のために何かするなんて今までなかったのよね」
両手に顔を乗せて正面を向きながら、独り言のように天子さんはそうこぼした。
いつも見せてくれるどの表情とも違う、何となく寂しそうな顔。庭園を眺めているように見えたその目は、もしかしたらもっと遠くを見ているのかもしれない。
言葉にしたらたった四文字しかないのだけど、その『今まで』 はきっと天子さんにとってすごく長くて、そして重いものなのだろう。
もっともっと天子さんのことを知りたい。どんなに小さなことでも一つ残らず記憶の中に置いておきたい。
「私は逆に、人から何かしてもらうことがほとんどなかった気がします」
ようやく捻り出したその言葉は我ながらすごく空々しい。似ているようで、本当は全く違うなんてことくらいよくわかってるから。
だけど私が天子さんのことを知りたいと思うのと同じくらい、天子さんにも私のことを知ってほしい。
天子さんを好きな、私のことを。
「あはは、何それ」
一転して見慣れた笑顔で笑う天子さん。屈託のない、という言葉がよく似合う。
「だって、だだっ広い屋敷の手入れとやたら手のかかる方のお世話で終始してましたから」
まあ実際私の日常生活なんてそんなものだと、こうやって初めて気が付いた。当たり前のように過ごしていた、割と変化の無い毎日の連続。そういう意味ではひょっしたら天子さんが退屈だと愚痴る天界もそう変わらないんじゃないだろうか。いややっぱり違うか。
でもそんな日々は、もう天子さんによって遥か彼方に放り投げられたから。
「うわー、確かにそれは私には到底無理だわ」
「まあ私はもう慣れてますから。あ、でも天子さん」
「なに?」
「今はそんなことないですよ」
「え?」
天子さんのおかげで、と心の中で続けた。
同じ時間を一緒に過ごすことがどれ程私の生活に彩りを添えているか、天子さんはまだ知らないだろう。
願わくば、私の存在が天子さんにとってもそうであってほしい。
「何でもないです。あ、お弁当、よかったらまた作って下さいね」
「え、また食べたい?」
「ええ。是非お願いします」
「いいけど、なら次は妖夢が作ってね。とびきり美味しいの」
「とびきり……ですか。わかりました。それで天子さんのお弁当がまた食べられるなら腕によりをかけてお作りします」
「やった、じゃあお願い…………ふぁあああ……」
口に手を当てて大あくびする天子さん。これは滅多に見られない光景だ。眼福。
「クスッ」
私が思わずこぼした含み笑いに、天子さんは目の縁に溜まった涙をぬぐいながら頬を膨らます。
「いや妖夢これはね、しょうがないのよ。だって今朝はお弁当作らなきゃだから早起きだったんだもん。お腹いっぱいになったのと安心して気が抜けたもんだから眠くなっちゃって」
そうか、私としたことが考えが至らなかった。私のためにわざわざ早起きしてお弁当を作ってくれたんだ。
「すみません、つい……」
「いいの。今日はちゃんとその甲斐があったから。ふぁあ……ちょっとここで寝ていい?」
「あ、じゃあ枕……」
枕を取りに行こうと立ち上がりかけてふと閃いた。いい機会だから、ほんの少しだけ大胆になってみよう。
「どしたの?」
「えーっと天子さん、せっかくならここで」
そう言って縁側に座り直し、両手で軽く自分の太腿を二回叩く。
私の膝枕、使ってもらおう。
「えー、本当に?」
「嫌ですか?」
口を開けてぽかんとする天子さん。みるみると頬がピンクに染まっていく。
うん、やっぱり照れてる天子さんは可愛い。
「嫌ってわけじゃないけど……」
「恥ずかしい、ですか?」
「う、うん。ちょっとだけど。ほんのちょっと」
「奇遇ですね、私もです」
「そっか、なら仕方ないわね」
眠気が勝ったのか、意外と素直に天子さんはふぅっ、と息を吐き出して観念したように帽子を外す。
「じゃあ、よろしくね」
「はいはい、どうぞ」
ゆっくりと天子さんが私の膝に頭を乗せた。
感じる重さは想像してたよりもずっと少ないけど、天子さんをすごく近くに感じられる気がする。
「ちょっと硬かったりしないですか?」
「大丈夫。妖夢の膝、あったかくて気持ちいい」
早くも天子さんの声はとろーんとして、今にも眠りに落ちてしまいそう。
こうしていると天人様とはいえ、普通の女の子と何ら変わりないように思う。以前あんなに大規模な異変を起こしたなんて嘘みたいだ。
何だか今なら、思い切っていろいろやってみてもいい気がしてくる。
手持ち無沙汰だった右手を天子さんの頭にそっと添えて、できるだけ優しく、と思いながらゆっくりと撫でてみた。
つやつやと潤いを湛えた蒼髪の手触りは、その見た目以上に滑らかで柔らかい。
「ん……」
天子さんがそれに軽く声だけの反応を返す。
このままで大丈夫……ですよね。
「どうですか?」
「うん……なんか安心する……」
半分寝息が混ざったような、吐息にも似た声が私の心をくすぐる。
もしかしてこれが母性ってやつなのかな。でも、胸の鼓動が速いのは、こんなにもどきどきしてるのは、きっとそれとは違うものだろう。
「すー……、すー……」
やがて完全に眠りに落ちた天子さんの口元から、小さな寝息が聞こえてくる。
右手はずっと頭を撫で続けながら、私の視線は天子さんの横顔を見つめる。
透き通るようなきめ細かいその肌にはできものや肌荒れなんてどこにも無くて、同じ女として少し嫉妬してしまいそうなくらい 。
すっかり無防備になったその寝顔を見ているうちに、私の中にある衝動がふつふつと沸いてくる。
「んん……」
そんな私のことなんて知りようもない天子さんは、喉の奥でくぐもった声を出しながら寝返りを打って仰向けになった。
私の目の前に曝された天子さんの少し薄くて血色のいい桃色の唇が、さっきから燻っている衝動をさらに揺さぶる。
この唇を奪ってしまえば、天子さんを私だけのものにできるだろうか。
せめて、今だけでも。
そうだ、どう考えても天子さんだって私に好意を持ってくれているんだ。
私のためにお弁当だって作ってくれたし、今だってこんな姿を私に見せてくれているのはきっとそういうことだ。
これくらいのことは許される。そう思うとこれ以上自分を抑えることができそうにない。
高く波打つ感情に比例して心臓は鼓動を速めていく。
天子さんの唇が執拗に私を誘う。まるで花の匂いに引き寄せられる虫にでもなった気分。
背中を丸めて顔を天子さんの唇へと更に近づける。
なんて可愛い寝顔だろう。こんな顔見せられたら、私じゃなくても魅かれてしまうんじゃないかな。
少しだけ口から漏れる寝息が私の肌を包む。
あと少しだけ顔を落とせば、私たちの唇は重なり合える。
目を閉じて……ほんの少し、距離を縮めて……ゆっくり、このまま……これで……。
「ん、よう……む……?」
へっ!? 天子さん……起きて……ええっ!?
「ひゃぁあああああああああああっ!」
「ひ、ひぇ?」
あまりの出来事にびっくりして、大声を出してのけぞったあと一瞬で我に帰った。
だけど行き場を失った今までの衝動と緊張が私の中で弾け飛んでもう心の収拾がつけられそうにない。
「あ、違うんです!これは……」
慌てふためく私と、状況が理解できてない天子さん。何か言わなきゃだけど、一体何を言えばいいか全然わからない。
こうなったらままよ、流れに身を任せて勢いで押し切ってやる。もう何も怖くない!
「あの、天子さん、お尋ねします!」
「え、え、え? 一体何なのこれ?」
「教えて下さい! 天子さんにとって、私はどんな存在なんですか?」
「え、ちょ、何それ?」
「ぜひ今それを聞きたいんです。さあ、どうなんです?」
呆気にとられている天子さんの顔を膝の上にのせたまま、何も考えずにそのまま思いついたことを口に出す。
こういう感情を垂れ流すような、やっちゃいけないことをやっているような、言っちゃいけないことを言っているようなのって、背徳的なカタルシスとか言ったら大げさだろうけど、どこか気持ち良さすら感じる。
今の私は果たしてどんな顔を天子さんに向けているのだろうか。怒ってるような顔なのか、それとも泣いてるような顔なのか。
「………………いきなりそんなこと聞くなんて、ずるい」
「わかってます。でも、聞きたいんです」
「もう……」
少し呆れたように一言つぶやいた後、天子さんは私の膝から頭を浮かせて隣に座り直す。
「まずちょっと落ち着いてね」
「あ、はい……」
そう言って天子さんは私の頭をポンポンと軽く叩いて微笑んでくれた。
「最初はね、正直言って貴方のこと、どっか頼りなくてちょっと抜けた奴だと思ってた。しばらくの間は、そう。でもね、こうやって稽古に誘ってもらって剣を教えてもらってるときもそうだけど、毎日てきぱき掃除とか料理とかこなしてるの見てるとなんだか格好いいななんて思うようになって、そう思ったら何故か妖夢のことばかり見るようになって、気付いたらいつも妖夢のこと考えるようになってて、ここに稽古に来るのがすごく楽しくて。でも私、妖夢に毎回何かしてもらってばかりだったから、何か妖夢のためにしたいなって、喜んでほしいなって思って、お弁当作ったら喜んでもらえるかななんて思ったりして、そんなの妖夢以外の相手には考えたことなくて……ああもう、何言ってるかわかんない。ええと、…………、だからそう、特別……うん、私にとって、妖夢は特別な人なの。言ったわよ。言ったからね。これでいい?」
ああなんてことだろう。今の言葉を私は一字一句違わず覚えていたいのに、こんな舞い上がった精神状態じゃ記憶が十分に働きそうにない。熱に浮かれて思考がぼんやりしている。
だけどたった一つだけ、天子さんが私のことを特別な人と言ってくれた。その言葉だけは絶対に忘れない。
「じゃあ次は妖夢の番だから」
「えっ?」
「当り前じゃない。私だけ言いっ放しってことはないでしょう」
それもそうだ。そんな当たり前のことさえ考えられなかった自分に自分で驚いてしまう。
うん、勢いでいくって決めたんだ。天子さんにちゃんと私の気持ちを伝えよう。
「わかりました。それじゃ、言います」
「うん」
一発でビシッと決める!
「………………」
「妖夢?」
「あ、ああはい天子さん、え、え、ええと、私は、その」
今が勝負のときだ。気合入れて!
「んと、んと、だから、あの、私は」
ここで絶対にかっこいいとこ見せるんだ!
「その、あの、で、あの、んと」
あともう一息だ魂魄妖夢、大丈夫だ頑張れ頑張れできるできる絶対にできる!
「だからですね、えーっと、それで……」
「ねえ妖夢、顔真っ赤だけど大丈夫?!」
え、天子さん何を言って私は別に正常ですけど……って、あれ? ひょっとして私、おかしかったですか?
気付いたら天子さんの両手が私の顔に伸びてきてる。
確信めいた直感が頭の中を駆け抜けた。今これされるとヤバい。
そう思ったときにはもう遅い。私の両頬が天子さんの掌に触れられた瞬間、張り詰めた糸が切れるようにして目の前が暗くなると共に気が遠くなっていくのがはっきりとわかった。
「ちょっと妖夢?!妖夢ってば!」
薄れゆく意識と共に、天子さんの声も段々小さくなってゆく。
「…………あれ、私は……」
「やっと起きたわね」
目を開けると、青空と見間違うような天子さんの顔が私を覗き込んでいた。
頭の下には肌触りのいい布地の感触と暖かな体温。
ああそうか、今度は天子さんに膝枕してもらってるのか……まだ頭がぼーっとしてる。
「天子さん、聞いてほしいことがあるんです」
「ん、どうしたの?」
まるで夢みたいな気分の中で、天子さんの顔を見てたら自分の意思と無関係に口が動いた。まあいいんだきっと、このままで。 熱に浮かれてつぶやくように口から転がり出る声から、さっきみたいなカタルシスとは全然違う類の気持ちよさを感じる。
「私、好きなんです。天子さんのこと」
「っ……!」
言っちゃった。ついに、私の気持ち。天子さんのこと好きだって。言ってしまえばこんなに簡単なことだったなんて馬鹿みたい。
「自分でもちょっと変だなとは思いますけど、でもやっと言えました。私もここ最近はずっとずっと天子さんのことばかり考えてます。どうやったら喜んでくれるかとか、何が好きなんだろうとか。もっと天子さんのことをいろいろ知りたいし、私のことも知ってほしいんです」
よくもまあこんなに歯の浮くような恥ずかしい台詞を落ち着いて言えたものだと自分で感心する。
天子さんもさすがにびっくりした表情……だろうか。次の言葉が待ち遠しい。
「うん、私も妖夢のこと……好きだよ」
少し考えるような仕草のあと、そう言って天子さんは私の額に優しく手を乗せてくれた。
その上に私も手を重ねると、自然とお互いの指が絡み合った。それがまるで二人の想いのように感じられて、胸の奥が暖かくなってくる。
絡んだ指に、更にもう片方の手を重ねた。
「嬉しいです……」
やっとそれだけ絞り出すことができた。他にも伝えたい気持ちがあるのに、それを乗せる言葉が出てこない。
まあいいか、これから先、いくらでも時間はあるんだ。その中でちゃんと伝えていけばいい。
「ねえ妖夢」
「はい?」
「さっきの続き、しよ」
「あっ……」
「初めて?」
「……はい」
「私も」
天子さんがそれを言い終わるときには、既にお互いの指が離れた代わりに顔が、いや唇が近づいていた。
それが何を意味するかなんて考えるまでもなくわかる。
やっぱりバレてたとか唐突すぎるとか、そんなことが一瞬頭の中をよぎってすぐに消えていった。
「目、閉じて」
吐息がかかるくらいの距離から聞こえた天子さんのその声は『甘い』としか形容できないほど甘くて、それだけで私の心は溶かされそうになる。言われるがままに瞼を落とすしか私に取れる行動があろうはずもない。
それにしても、私のさっきの衝動や葛藤は一体何だったんだろう。いつだってそうだ。私が想いを寄せるこの人は、私がなかなか越えることのできない見えない線をいとも簡単に越えてみせる。
それこそがきっと、彼女が私を惹きつけて止まない一番の理由。
「んっ……」
その瞬間、思わずくぐもった声が喉から出た。
軽く触れているだけなはずの天子さんの唇は、びっくりするくらい柔らかな感触を伝えてくる。
それなのに、それなのに
せっかく私の初めてのキスなのに、どうしてあのしょっぱい煮豆の味を思い出すんだろう。
こんなに舞い上がっているのになのか、こんなに舞い上がっているからなのか、もっと甘いものだと勝手に想像していたその味は何とも言えない違和感で。
ちゃんと集中したいのに、どうしても気になって……まあ、天子さんがよければ、それで、いいや……。
とにかく今日のこのときを境に私達は新しいステップに踏み出して、そして私にとって煮豆はしょっぱいものになった。
あの煮豆の味、ちゃんと作れるように練習しておかなきゃ。
そんなことを考えながら、こんなに頓珍漢な私の思考なんて知る由も無い天子さんの背中にそっと腕を回してみた。
かくして仲睦まじい二人の姿が幻想郷で見かけられるようになる少し前、「あの庭師上手くやりやがって」と悔しそうに呟きながら歩く永江衣玖の姿が天界某所にて目撃された。
もうすっかり聞き慣れた元気な声に顔を上げると、これまた見慣れた姿がそこにある。
「ああ天子さん、おはようございます」
毎朝この時間はこうして門扉の前で掃き掃除をしているが、天子さんは週に四日、そのときにこの白玉楼を訪ねてくる。
しかも決まって落ち葉や埃を集め終わってさあ拾おうか、というタイミングで。
「今日も精が出るわね。はいどうぞ」
「ありがとうございます」
そうやって天子さんがしゃがんで差し出してくれた塵取りにゴミを箒で掃き入れる。
ここまでが最近完全に定着した感のある、私と天子さんとのやりとり。
それにしてもさっきから気になっているのだけど、天子さんの持っているあの白い包みは何だろう?
桃ならいつもは籠に入れてくるし、お酒は徳利でしか見たことないし……まあいいか、後でわかるでしょ。
「じゃあ、お邪魔するわね」
「あ、はい。いつもお手伝いさせてすみません」
「別に今更あれくらいのことで畏まらなくていいの。それよりほら、早く行きましょ」
そう言って天子さんは自分で門を開けて、屋敷の庭園へと足を踏み入れる。
私は急いでゴミの入った塵取りと箒を両手に持って後をついていく。鼻唄を歌いながら軽い足取りで前を行く天子さんを見ながら思った。
私達、そろそろ次のステップに進んでもいいんじゃないのかな。
「はぁっ!!」
「ていっ!!」
「ふんっ!」
「くっ!?」
「まだまだ!!」
道場に響くのは床板のきしむ音、木刀のぶつかる音、そして二人の声。
天子さんがわざわざ白玉楼に来るのは、もうかれこれ半年くらい続いているこの立会い稽古のため。
私は剣術の腕前にはそれなりに自負するところはあるももの、その反面実戦経験に乏しく咄嗟の融通や応用のきかないところがあると自覚していた。
天子さんは私と正反対で実戦的ではあるものの、剣術自体はとても荒削りで動作に無駄が多かった。
それならばこうして正反対な者同士でやればお互いの短所を補えるのではないかと考え、天子さんも剣術の練習がてら稽古に来ていただけないか申し出たところ快諾を得て今に至る。
「ふぅっ、次で終わりにしましょう」
「ええ、それでは私から行きますね」
「よし来い!」
「いざっ!」
床を蹴って天子さんの右手に回り込み、そしてまた後ろに回り、その動きを繰り返してとり囲むように脚を使って撹乱する。
だけど天子さんは……動かない。最初の頃はこれで結構あたふたしてくれたけど、さすがに最近通用しなくなってきた。
ならばちょっと一捻り。正面からフェイントかけて、死角に回り込んで、跳んで、上から!
「でやぁっ!」
「はっ!」
木刀のかち合う音が鳴る。完全に背後からの打ち込みだったのに何という反射速度、そして勘の良さ。ほんとにメキメキと腕を上げてるのを実感する。
「てっ!」
「甘い!」
浮いた体から半ば苦し紛れで放った蹴りは左腕一本で難なく受け止められた。こういうところの駆け引きはやはりまだまだ天子さんが一枚上手だ。
そのまま床に飛び降りて一息つく。
「むう、結局最後取れませんでしたか」
「まあ結構焦ったけどね。最近はあれから更に蹴りまで出てくるから気が抜けないもの」
「でも天子さんこそ前みたく明らかに隙らしい隙が無くなりました。いい加減次の手を考えないと」
「それ言うなら妖夢も更に速くて読みづらくなってるし、私も力押しじゃ通用しなくなってきてるわ」
「全部天子さんがこうして稽古付けてくれるおかげですよ。今まで本当に相手に困ってましたから」
「ふふ、私もどうせ暇してたからありがたかったもん。おかげで今は楽しくやってるし、来てよかったって思ってるわ」
こんな言葉が自然に出てくるあたり、初めて会った頃からかなり印象が変わったなと思う。
表情もだいぶ柔らかくなったし、何よりよく笑うようになった。宴会なんかで人の輪に入っているときには特にそう思う。
でも、私と一緒にいるときの天子さんが一番素敵な表情をしてる。
そう、今みたいに。これは自意識過剰なんかじゃない。多分、絶対。
「って、どしたの? 人の顔じっと見て」
いけない、考えごとしながらつい天子さんの顔を見つめちゃってた。
「あ、いえ、やっぱり綺麗だなー、って」
「はあ?馬鹿も休み休み言いなさいな」
そう言っても照れてる天子さん、可愛い。だけどそれ冗談じゃないですから。咄嗟に言っちゃったにせよ、本心からそう思ってます。
まあこんなことを考えるくらい、私の方こそ変わったのかな。
というわけでわたくし魂魄妖夢は、こちら比那名居天子さんのことを好きになってしまったのでした。
「すみません、つい。じゃあお昼にしましょう。用意してきますね」
「あ、ちょっと待って待って」
天子さんが少し慌てながら取り出したのは、朝持ってきた白い包み。このタイミングでこれを出すということは、これの中身はまさかあの、いやそんな。
「今日は私がお弁当作ってきたの」
そのまさかのお弁当だった! こんなことがあるなんて!
天子さんが私のためにわざわざお弁当作ってくれたなんて、それだけで嬉しさが爆発しそう。
「わあ!天子さん手作りのお弁当なんて夢みたいです」
「もう、リアクションが大袈裟なんだから。まあそこまで喜んでもらえるのは素直に嬉しいけど、肝心は味なのよのね。実は味見してないし」
味見してないとはある意味天子さんらしい……のかな?
正直私としては天子さんお手製のお弁当というだけで味は二の次なのだけど、天子さんは以前料理したことないって言ってたし不安になるのも当たり前か。
「いや、絶対美味しいに決まってます。そうに違いありません。と言うか少しでも早くいただきたいです」
「うーん、でも不味かったら不味いってはっきり言ってね?」
と言われても、そうやって天子さんの気持ちを台無しにすることなんてできるわけがない。仮に多少おかしくたって何でも美味しいと言って食べることができる自信が、今の私にはある。
まあ、形だけでも肯定はしておくけど。
「わかりました。では、せっかくのお弁当なので中庭でいただきましょう」
道場を出て中庭までの長い廊下を二人で歩く間、自然と足どりも軽くなる。
とても触り心地のいい、触れただけで上質だとわかる布に包まれたお弁当の入った包みは天子さんから受け取って大事に胸に抱えている。
だけど私は知っている。どんなに上質な生地だろうと、天子さんの髪や肌の手触りには及ばないことを。
こうしているとつい、顔がにやけそうになる。まあでもこの状況なら別に我慢しなくてもいいんじゃないかな。
むしろ思いっきりにやけてみようかしら、こんなふうに。
そしたらきっと天子さんは。
「ちょっと妖夢、顔がだらしないわよ?」
ほら気付いてくれた。
「えへへ、なんだかつい嬉しくなっちゃってですね」
「妖夢ったら変なのー。もしかしてそんなにお弁当が楽しみ?」
「ええ、それはもう」
「うー、そんな満面の笑みで返されるとなんか照れるわ……でもまいっか、無感動より」
「そういうことですよ。さ、着きましたー」
枯山水の中庭に面した縁側に、二人並んで腰を降ろした。
気持ちいいな、と思ったのは、新緑の匂いを運ぶ少し暖かな風が吹いたから。
「それでは、只今より私、不肖魂魄妖夢めが、誠に僭越ではございますが、この場におきまして、比那名居天子様がお作りになられましたお弁当の開封の儀を執り行わせていただきます」
目を瞑ってお辞儀しながら、お弁当箱を頭上に掲げて冗談めかした口上を述べる。
天子さんにだからできる、ちょっとした悪ふざけ。
「何やってるんだか……。あー、でもいざ開けるとなると緊張しちゃう。ほんとにあまり期待しちゃ駄目よ? 初めてなんだから」
まず呆れた様子を見せたあと、急に慌てだす天子さん。日頃の堂々とした態度とのギャップに何だかぐっと来るものがある。
まあそれでも、実は割と完璧主義的な天子さんの性格からして少なくとも見た目はそんなに変なものを作っているはずはないと思うんだけど。
結び目をほどいて包みを開けて、綺麗な蒔絵が施された朱塗りのお弁当箱の蓋を外すと。
「わあ!」
予想以上の出来映えに、目が点になって感嘆の声が出る。
とても初めて作ったなんて思えないほど綺麗に盛りつけられたお弁当。早く食べたいのに、食べてしまうのが勿体なく感じちゃうくらい。
中が四つに仕切られた弁当箱には、俵むすびと卵焼きと鮎の甘露煮と鶏の唐揚げとほうれん草のおひたしと切った桃と里芋の煮っころがしと、そして煮豆が行儀よく詰めてある。
「どうしたの妖夢、固まっちゃって……?」
膝の上にお弁当を置いたまましばし感慨にふけっていたら、天子さんが心配げに私の顔を覗き込んでいた。
「あ、いや、すみません、つい見とれちゃって」
「ほんと? 何かおかしいとこなかった?」
「そんなの全然ないですよ。おかしくないどころかすごく美味しそうで」
「そっか、ならよかった。じゃあ食べて食べて」
「はい、天子さんも」
二人の間にお弁当箱を置いて、包みの中に入っていた箸を一膳天子さんに渡す。
というわけで、いよいよ。
「「いただきまーす」」
さて何からいただいたものか。迷い箸は行儀悪いし、ならば私の好物の卵焼きから!
外側にはきつね色の焼き色がついていて、中はほんのちょっとだけ半熟気味。形もきれいにできている。
天子さんに見守られながら一切れ頬張ると……。
「美味しい!」
私が自分で作るよりかなり甘い味付け。ふんわりとした食感とあいまって、実に舌に優しくて心地よい。
そりゃ身も蓋もない言い方をすれば何の変哲もない甘い卵焼きだけど、天子さんが私のために初めて作ってくれたお弁当っていう事実が最高の隠し味だ。
このぶんなら、他のおかずもあまり心配するは必要は無いのかもしれない。
けど油断は禁物。せっかく天子さんが作ってくれたのだから、その気持ちを無駄にするようなことだけはしたくない。
「ほんと? どれどれ……うん、大丈夫だわ」
恐る恐る卵焼きを一口食べた天子さんの表情から緊張の色が薄れる。とりあえず最初が肝心だからよかった。
「じゃあ、次はこれをいただきますね」
と、次は鮎の甘露煮に箸を伸ばす。
いい照りが乗っていてこれも見た目に美味しそう。まるごと頭から齧りつくと、程良い甘辛さとわずかな香りの刺激が口の中に広がっていく。
ちょっと私の甘露煮とひと味違うのは、なるほど山椒を加えてあるからか。
とにかく、これも文句なしに……。
「いや、ほんとに美味しいですよ。山椒がいい味出してます。作るのが初めてだなんてとっても思えないです」
多分、多分だけど誰かから教わってはいるはずだ。だけどそれを聞くのは野暮というもの。天子さんが話したいのであれば話してくれるだろうし、今はその方に感謝しておこう。
「そう言ってもらえてよかった。ほら私、ずっと天界にいたでしよ? だからこっちの料理とか味付けとか全然知らなかったから自信がなくて」
「いや、それでこれはすごいです。ほら天子さんも食べてみてください」
「言われなくても食べるわよ自分で作ったんだから」
そんな言葉を口にしながら、照れを隠しきれなくて実はとっても嬉しそうなのが丸わかり。こういうところは本当にわかりやすい。
私がまず箸をつけて、それから続けて天子さんが食べる形でお弁当は減っていく。
唐揚げも、おひたしも、里芋も、おむすびも、どれもなかなかの出来で、それどころか冗談抜きで今まで食べた食事の中で一番美味しくさえ感じられて、すっかり幸せな気持ち。
「妖夢ったらよく食べるわねぇ。貴方の主人を思い出すわ」
「だって全部美味しいんですもん。でもさすがにあそこまではちょっと」
「確かにそれもそうね。まあ、そう言ってもらえると頑張った甲斐があったわ。好きなだけ食べてね」
嬉しそうにしてる私を見て、天子さんも嬉しそう。そして私もそんな天子さんを見てますます嬉しくなる。
こうやって天子さんと隣どうしで一緒に楽しくお弁当を食べてる、この喜びをいつも味わえたら、なんて。
「じゃあ次は煮豆を」
昆布と一緒に炊きあげてある煮豆を一粒、箸で掴んで口に運ぶと。
おおう…………これは…………!!
「うん、煮豆も柔らかく仕上がってて美味しいです!」
「それなら良かったわ。これ、私は食べるのからして初めてだったから」
良かった、何とか天子さんに気取られずに済んだ。やっぱり気を抜かずにいて正解だった。
この煮豆、なぜかしょっぱいです。
本当は甘いものが塩辛い、想定していたものと真逆の味覚を味わったこの感覚。
驚きを表に出さずに済んだのは、剣の修行による精神鍛錬の賜物に違いない。私が剣の道を歩いている意味はきっとこの瞬間のためにあった。
……とまあ冗談は程々にしておいて、実のところしょっぱい煮豆もそういうものだと思って食べていると悪くない。
これはこれで塩味がご飯に合うし、豆自体は型崩れもせずにほっくりと柔らかくできている。
「へえ、こんな味なんだ。まさにご飯のおかずじゃない」
天子さんだって何の疑問も持たずに食べている。
ただ、初めて食べるものを味見もせずに作るとは一体……?
少し気になるけど、とにかくこれは決して失敗じゃない。ただ私が何も言わずにいればいいのだから。
というわけでお弁当、そのまま二人で完食させていただきました。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさま」
「ふう、とっても美味しかったです」
「うん、我ながら初めてにしてはよくできた……と思っていいのかしら。妖夢の食べっぷり見てたらちょっと自信ついたかも」
「確かにそれが何よりの証拠と思っていただければ。思わず夢中で食べちゃいましたもん。今日はまさかこんな僥倖があるなんて思わなかったです」
私が知る限り大抵のことは卒無くこなしちゃう天子さんだから料理だって例外じゃないんだろうけど、私も負けてられないなぁ。
「考えてみたら、私って人のために何かするなんて今までなかったのよね」
両手に顔を乗せて正面を向きながら、独り言のように天子さんはそうこぼした。
いつも見せてくれるどの表情とも違う、何となく寂しそうな顔。庭園を眺めているように見えたその目は、もしかしたらもっと遠くを見ているのかもしれない。
言葉にしたらたった四文字しかないのだけど、その『今まで』 はきっと天子さんにとってすごく長くて、そして重いものなのだろう。
もっともっと天子さんのことを知りたい。どんなに小さなことでも一つ残らず記憶の中に置いておきたい。
「私は逆に、人から何かしてもらうことがほとんどなかった気がします」
ようやく捻り出したその言葉は我ながらすごく空々しい。似ているようで、本当は全く違うなんてことくらいよくわかってるから。
だけど私が天子さんのことを知りたいと思うのと同じくらい、天子さんにも私のことを知ってほしい。
天子さんを好きな、私のことを。
「あはは、何それ」
一転して見慣れた笑顔で笑う天子さん。屈託のない、という言葉がよく似合う。
「だって、だだっ広い屋敷の手入れとやたら手のかかる方のお世話で終始してましたから」
まあ実際私の日常生活なんてそんなものだと、こうやって初めて気が付いた。当たり前のように過ごしていた、割と変化の無い毎日の連続。そういう意味ではひょっしたら天子さんが退屈だと愚痴る天界もそう変わらないんじゃないだろうか。いややっぱり違うか。
でもそんな日々は、もう天子さんによって遥か彼方に放り投げられたから。
「うわー、確かにそれは私には到底無理だわ」
「まあ私はもう慣れてますから。あ、でも天子さん」
「なに?」
「今はそんなことないですよ」
「え?」
天子さんのおかげで、と心の中で続けた。
同じ時間を一緒に過ごすことがどれ程私の生活に彩りを添えているか、天子さんはまだ知らないだろう。
願わくば、私の存在が天子さんにとってもそうであってほしい。
「何でもないです。あ、お弁当、よかったらまた作って下さいね」
「え、また食べたい?」
「ええ。是非お願いします」
「いいけど、なら次は妖夢が作ってね。とびきり美味しいの」
「とびきり……ですか。わかりました。それで天子さんのお弁当がまた食べられるなら腕によりをかけてお作りします」
「やった、じゃあお願い…………ふぁあああ……」
口に手を当てて大あくびする天子さん。これは滅多に見られない光景だ。眼福。
「クスッ」
私が思わずこぼした含み笑いに、天子さんは目の縁に溜まった涙をぬぐいながら頬を膨らます。
「いや妖夢これはね、しょうがないのよ。だって今朝はお弁当作らなきゃだから早起きだったんだもん。お腹いっぱいになったのと安心して気が抜けたもんだから眠くなっちゃって」
そうか、私としたことが考えが至らなかった。私のためにわざわざ早起きしてお弁当を作ってくれたんだ。
「すみません、つい……」
「いいの。今日はちゃんとその甲斐があったから。ふぁあ……ちょっとここで寝ていい?」
「あ、じゃあ枕……」
枕を取りに行こうと立ち上がりかけてふと閃いた。いい機会だから、ほんの少しだけ大胆になってみよう。
「どしたの?」
「えーっと天子さん、せっかくならここで」
そう言って縁側に座り直し、両手で軽く自分の太腿を二回叩く。
私の膝枕、使ってもらおう。
「えー、本当に?」
「嫌ですか?」
口を開けてぽかんとする天子さん。みるみると頬がピンクに染まっていく。
うん、やっぱり照れてる天子さんは可愛い。
「嫌ってわけじゃないけど……」
「恥ずかしい、ですか?」
「う、うん。ちょっとだけど。ほんのちょっと」
「奇遇ですね、私もです」
「そっか、なら仕方ないわね」
眠気が勝ったのか、意外と素直に天子さんはふぅっ、と息を吐き出して観念したように帽子を外す。
「じゃあ、よろしくね」
「はいはい、どうぞ」
ゆっくりと天子さんが私の膝に頭を乗せた。
感じる重さは想像してたよりもずっと少ないけど、天子さんをすごく近くに感じられる気がする。
「ちょっと硬かったりしないですか?」
「大丈夫。妖夢の膝、あったかくて気持ちいい」
早くも天子さんの声はとろーんとして、今にも眠りに落ちてしまいそう。
こうしていると天人様とはいえ、普通の女の子と何ら変わりないように思う。以前あんなに大規模な異変を起こしたなんて嘘みたいだ。
何だか今なら、思い切っていろいろやってみてもいい気がしてくる。
手持ち無沙汰だった右手を天子さんの頭にそっと添えて、できるだけ優しく、と思いながらゆっくりと撫でてみた。
つやつやと潤いを湛えた蒼髪の手触りは、その見た目以上に滑らかで柔らかい。
「ん……」
天子さんがそれに軽く声だけの反応を返す。
このままで大丈夫……ですよね。
「どうですか?」
「うん……なんか安心する……」
半分寝息が混ざったような、吐息にも似た声が私の心をくすぐる。
もしかしてこれが母性ってやつなのかな。でも、胸の鼓動が速いのは、こんなにもどきどきしてるのは、きっとそれとは違うものだろう。
「すー……、すー……」
やがて完全に眠りに落ちた天子さんの口元から、小さな寝息が聞こえてくる。
右手はずっと頭を撫で続けながら、私の視線は天子さんの横顔を見つめる。
透き通るようなきめ細かいその肌にはできものや肌荒れなんてどこにも無くて、同じ女として少し嫉妬してしまいそうなくらい 。
すっかり無防備になったその寝顔を見ているうちに、私の中にある衝動がふつふつと沸いてくる。
「んん……」
そんな私のことなんて知りようもない天子さんは、喉の奥でくぐもった声を出しながら寝返りを打って仰向けになった。
私の目の前に曝された天子さんの少し薄くて血色のいい桃色の唇が、さっきから燻っている衝動をさらに揺さぶる。
この唇を奪ってしまえば、天子さんを私だけのものにできるだろうか。
せめて、今だけでも。
そうだ、どう考えても天子さんだって私に好意を持ってくれているんだ。
私のためにお弁当だって作ってくれたし、今だってこんな姿を私に見せてくれているのはきっとそういうことだ。
これくらいのことは許される。そう思うとこれ以上自分を抑えることができそうにない。
高く波打つ感情に比例して心臓は鼓動を速めていく。
天子さんの唇が執拗に私を誘う。まるで花の匂いに引き寄せられる虫にでもなった気分。
背中を丸めて顔を天子さんの唇へと更に近づける。
なんて可愛い寝顔だろう。こんな顔見せられたら、私じゃなくても魅かれてしまうんじゃないかな。
少しだけ口から漏れる寝息が私の肌を包む。
あと少しだけ顔を落とせば、私たちの唇は重なり合える。
目を閉じて……ほんの少し、距離を縮めて……ゆっくり、このまま……これで……。
「ん、よう……む……?」
へっ!? 天子さん……起きて……ええっ!?
「ひゃぁあああああああああああっ!」
「ひ、ひぇ?」
あまりの出来事にびっくりして、大声を出してのけぞったあと一瞬で我に帰った。
だけど行き場を失った今までの衝動と緊張が私の中で弾け飛んでもう心の収拾がつけられそうにない。
「あ、違うんです!これは……」
慌てふためく私と、状況が理解できてない天子さん。何か言わなきゃだけど、一体何を言えばいいか全然わからない。
こうなったらままよ、流れに身を任せて勢いで押し切ってやる。もう何も怖くない!
「あの、天子さん、お尋ねします!」
「え、え、え? 一体何なのこれ?」
「教えて下さい! 天子さんにとって、私はどんな存在なんですか?」
「え、ちょ、何それ?」
「ぜひ今それを聞きたいんです。さあ、どうなんです?」
呆気にとられている天子さんの顔を膝の上にのせたまま、何も考えずにそのまま思いついたことを口に出す。
こういう感情を垂れ流すような、やっちゃいけないことをやっているような、言っちゃいけないことを言っているようなのって、背徳的なカタルシスとか言ったら大げさだろうけど、どこか気持ち良さすら感じる。
今の私は果たしてどんな顔を天子さんに向けているのだろうか。怒ってるような顔なのか、それとも泣いてるような顔なのか。
「………………いきなりそんなこと聞くなんて、ずるい」
「わかってます。でも、聞きたいんです」
「もう……」
少し呆れたように一言つぶやいた後、天子さんは私の膝から頭を浮かせて隣に座り直す。
「まずちょっと落ち着いてね」
「あ、はい……」
そう言って天子さんは私の頭をポンポンと軽く叩いて微笑んでくれた。
「最初はね、正直言って貴方のこと、どっか頼りなくてちょっと抜けた奴だと思ってた。しばらくの間は、そう。でもね、こうやって稽古に誘ってもらって剣を教えてもらってるときもそうだけど、毎日てきぱき掃除とか料理とかこなしてるの見てるとなんだか格好いいななんて思うようになって、そう思ったら何故か妖夢のことばかり見るようになって、気付いたらいつも妖夢のこと考えるようになってて、ここに稽古に来るのがすごく楽しくて。でも私、妖夢に毎回何かしてもらってばかりだったから、何か妖夢のためにしたいなって、喜んでほしいなって思って、お弁当作ったら喜んでもらえるかななんて思ったりして、そんなの妖夢以外の相手には考えたことなくて……ああもう、何言ってるかわかんない。ええと、…………、だからそう、特別……うん、私にとって、妖夢は特別な人なの。言ったわよ。言ったからね。これでいい?」
ああなんてことだろう。今の言葉を私は一字一句違わず覚えていたいのに、こんな舞い上がった精神状態じゃ記憶が十分に働きそうにない。熱に浮かれて思考がぼんやりしている。
だけどたった一つだけ、天子さんが私のことを特別な人と言ってくれた。その言葉だけは絶対に忘れない。
「じゃあ次は妖夢の番だから」
「えっ?」
「当り前じゃない。私だけ言いっ放しってことはないでしょう」
それもそうだ。そんな当たり前のことさえ考えられなかった自分に自分で驚いてしまう。
うん、勢いでいくって決めたんだ。天子さんにちゃんと私の気持ちを伝えよう。
「わかりました。それじゃ、言います」
「うん」
一発でビシッと決める!
「………………」
「妖夢?」
「あ、ああはい天子さん、え、え、ええと、私は、その」
今が勝負のときだ。気合入れて!
「んと、んと、だから、あの、私は」
ここで絶対にかっこいいとこ見せるんだ!
「その、あの、で、あの、んと」
あともう一息だ魂魄妖夢、大丈夫だ頑張れ頑張れできるできる絶対にできる!
「だからですね、えーっと、それで……」
「ねえ妖夢、顔真っ赤だけど大丈夫?!」
え、天子さん何を言って私は別に正常ですけど……って、あれ? ひょっとして私、おかしかったですか?
気付いたら天子さんの両手が私の顔に伸びてきてる。
確信めいた直感が頭の中を駆け抜けた。今これされるとヤバい。
そう思ったときにはもう遅い。私の両頬が天子さんの掌に触れられた瞬間、張り詰めた糸が切れるようにして目の前が暗くなると共に気が遠くなっていくのがはっきりとわかった。
「ちょっと妖夢?!妖夢ってば!」
薄れゆく意識と共に、天子さんの声も段々小さくなってゆく。
「…………あれ、私は……」
「やっと起きたわね」
目を開けると、青空と見間違うような天子さんの顔が私を覗き込んでいた。
頭の下には肌触りのいい布地の感触と暖かな体温。
ああそうか、今度は天子さんに膝枕してもらってるのか……まだ頭がぼーっとしてる。
「天子さん、聞いてほしいことがあるんです」
「ん、どうしたの?」
まるで夢みたいな気分の中で、天子さんの顔を見てたら自分の意思と無関係に口が動いた。まあいいんだきっと、このままで。 熱に浮かれてつぶやくように口から転がり出る声から、さっきみたいなカタルシスとは全然違う類の気持ちよさを感じる。
「私、好きなんです。天子さんのこと」
「っ……!」
言っちゃった。ついに、私の気持ち。天子さんのこと好きだって。言ってしまえばこんなに簡単なことだったなんて馬鹿みたい。
「自分でもちょっと変だなとは思いますけど、でもやっと言えました。私もここ最近はずっとずっと天子さんのことばかり考えてます。どうやったら喜んでくれるかとか、何が好きなんだろうとか。もっと天子さんのことをいろいろ知りたいし、私のことも知ってほしいんです」
よくもまあこんなに歯の浮くような恥ずかしい台詞を落ち着いて言えたものだと自分で感心する。
天子さんもさすがにびっくりした表情……だろうか。次の言葉が待ち遠しい。
「うん、私も妖夢のこと……好きだよ」
少し考えるような仕草のあと、そう言って天子さんは私の額に優しく手を乗せてくれた。
その上に私も手を重ねると、自然とお互いの指が絡み合った。それがまるで二人の想いのように感じられて、胸の奥が暖かくなってくる。
絡んだ指に、更にもう片方の手を重ねた。
「嬉しいです……」
やっとそれだけ絞り出すことができた。他にも伝えたい気持ちがあるのに、それを乗せる言葉が出てこない。
まあいいか、これから先、いくらでも時間はあるんだ。その中でちゃんと伝えていけばいい。
「ねえ妖夢」
「はい?」
「さっきの続き、しよ」
「あっ……」
「初めて?」
「……はい」
「私も」
天子さんがそれを言い終わるときには、既にお互いの指が離れた代わりに顔が、いや唇が近づいていた。
それが何を意味するかなんて考えるまでもなくわかる。
やっぱりバレてたとか唐突すぎるとか、そんなことが一瞬頭の中をよぎってすぐに消えていった。
「目、閉じて」
吐息がかかるくらいの距離から聞こえた天子さんのその声は『甘い』としか形容できないほど甘くて、それだけで私の心は溶かされそうになる。言われるがままに瞼を落とすしか私に取れる行動があろうはずもない。
それにしても、私のさっきの衝動や葛藤は一体何だったんだろう。いつだってそうだ。私が想いを寄せるこの人は、私がなかなか越えることのできない見えない線をいとも簡単に越えてみせる。
それこそがきっと、彼女が私を惹きつけて止まない一番の理由。
「んっ……」
その瞬間、思わずくぐもった声が喉から出た。
軽く触れているだけなはずの天子さんの唇は、びっくりするくらい柔らかな感触を伝えてくる。
それなのに、それなのに
せっかく私の初めてのキスなのに、どうしてあのしょっぱい煮豆の味を思い出すんだろう。
こんなに舞い上がっているのになのか、こんなに舞い上がっているからなのか、もっと甘いものだと勝手に想像していたその味は何とも言えない違和感で。
ちゃんと集中したいのに、どうしても気になって……まあ、天子さんがよければ、それで、いいや……。
とにかく今日のこのときを境に私達は新しいステップに踏み出して、そして私にとって煮豆はしょっぱいものになった。
あの煮豆の味、ちゃんと作れるように練習しておかなきゃ。
そんなことを考えながら、こんなに頓珍漢な私の思考なんて知る由も無い天子さんの背中にそっと腕を回してみた。
かくして仲睦まじい二人の姿が幻想郷で見かけられるようになる少し前、「あの庭師上手くやりやがって」と悔しそうに呟きながら歩く永江衣玖の姿が天界某所にて目撃された。
はじめててんみょん見ましたけど