※原作キャラクターをモチーフにしたオリジナルキャラクターが登場します。お読みの際は注意してください。
雲一つない天蓋に、おぼろげに地を照らす月。
薫風。穏やかな風が春の終わりを告げる。
今日も私は空を飛ぶ。
ゆらりゆらり。提篭に収まり空を行く。
街明かりも遠く、下には森が広がる。
振動。ふいに主様の動きが止まる。
とたとたとた。篭を抜け出し主様の肩へと登る。
「この周辺に、”探し物”があるはずだよ。お願いできるかい?」
いつも通りの自信に満ちた切れ長の眼。笑みに歪んだ口元。
驚くほど整った顔立ちは中性的で男にも女にも見える。
私の主にして毘沙門天の使い。ナズーリン様は、村人からの依頼で探し物に来ている。
とさり、と地面に着地する。
すとん、と私も主に続き地面に降りる。
鼻腔の奥に感じる湿り気。濃緑の生命活動の証が周囲に溢れている。
周囲の気配を探る。数多の気配に隠れて同胞の息遣いを感じる。
召集。主様の式として力を借り、周囲の同胞に協力を要請する。
かさかさと、木立をかき分ける音。
一刻程の後、数十匹の同胞が協力を申し出てくれた。
主様から伝えられた”探し物”の特徴をそれぞれの鼠たちに伝える。
散開。私が指示をすると、皆は蜘蛛の子を散らすように四方八方に探索に向かってくれた。
「ありがとう、良くやってくれた。さて、私たちも探しに行こうか」
ふわり、と体が包み込まれる感覚。主様の小さな手に掴まれる。
すとり、と肩に着地する。
彼らは無事でしょうか?と、問いかける。
「どうだろうか?行方が分からなくなってから時間が経っている。周囲はこの瘴気だ。急いだ方が良いだろう。”同胞達”が何をするかも分からん」
申し訳ありません。私がきちんと言いつけられれば良いのですが。
「いや、君が気にする事じゃない。私の力不足の問題だ。だが、今はその事を反省する時では無いな」
仰るとおりです。探索に集中しましょう。
暗黒。月明かりは木々に遮られ光は殆ど届かない。
鼠の眼を似ってしなければ一間先を見通す事も難しいだろう。
半刻程歩いた時、ふと異質の妖気を感じる。
主様。
「わかっている。野良の妖怪だな。隠れてやり過ごそう」
了解しました。周りの鼠たちにも警告を送っておきます。
鼠の単体は脆弱だ。野外で出会う殆どの妖怪は脅威になり得る。
それは主様にとっても例外ではない。探索中、話の通じぬ低級の妖怪に出会った際はこうしてやり過ごすのが常だ。
がさごそ、と近くの樹の洞に入り込み気配をひそめる。
程なくして犬の姿をした妖獣が姿を現す。
身の丈は4尺程だろうか。僅かしか届かぬ月光が眼に反射しぎらぎらと輝いている。
低級の妖獣は危険だ。知能は低いが、身体能力は獣のそれを遥かに上回る。
匂いで気取られる可能性もある。
詠唱。肩に乗る私にも聞こえぬ程の声量で主様は言葉を紡ぐ。
周りに霊的な障壁が展開される。このまま潜んでいればまず見つかる事は無いだろう。
だがしかし、犬の姿をした妖獣は先ほどまで私たちが居た所をぐるぐると徘徊し続けている。
私たちの匂いが残っているのだろう。しかし、結界があるので私たちが居る所までは辿り着けないだろう。
『”探し物”が見つかった。』
同胞からの連絡を傍受したのはその時だった。
私は主様にその事を伝える。
「こんな時に?くそっ、無理やりにでも突破するか?しかし……」
焦燥。余裕をもった表情から一変。
眼は左右へと揺れ動き、冷や汗が垂れている。こんな時こそ私が支えて差し上げねば。
主様の肩に上り、精一杯たしなめる。
「……済まない。少し取り乱した。なるべく手を出させない様に指示を出しておく。騒ぎを起こして他の妖獣までおびき寄せては厄介だ。」
間もなく妖獣は退散した。
ぐるり、と辺りを見渡す。他の脅威が無い事を確認する。
私と主様は急ぎ連絡のあった場所へ向かった。
喧騒。現場では、二人の人間の子供が同胞に襲われている所だった。
今にも飛びかからんとする同胞達。あわやその牙が付きたてられんとするその刹那。
主様は子供達を救い出し、同胞達に解散を命じた。
「……少し怪我をさせてしまったな。すまなかった」
「……」
「私は君達を探しに来た者だ。安心してくれて良い。」
「……」
恐怖。子供の眼に映る感情が一色に塗りつぶされている。
無理もないだろう。妖怪の蔓延る森に迷い込んだ挙句、鼠の大群に追い回されたのだ。
「良ければ怪我の治療をさせてもらえないかな?」
「――っ?!何をする!」
手を差し伸べようとする主様だが、二人はその手を払いのける。
主様は困惑しながらも、郷までの護衛をする事、決して危害を与えない事を説明する。
郷まで二人を連れ帰る頃には夜の終わりが近づいていた。
鼠色の空。朝日が、薄く夜空を照らす。
寺への帰路。主様の表情を伺う。何時も通りの表情を装っているが、どこか陰鬱な物が混じるように感じる。
主様を励まそうと、肩に飛び乗った。
瞬間。
全身から力が抜けていく感覚。
ぐらりと、体のバランスが大きく傾く。
まずい。そう思った次の瞬間には、体は元に戻っていた。
急にバランスを崩した私を見て、主様は声を掛けてくれた。
何でもありません。そう私は答える。
当然だ。それ以外の答えを持ち合わせていないのだから。
――少し長く働き過ぎたのだろうか?今日は早めに休む事にしよう。
◇◇◇◇◇◇
快晴の空。
朝の清々しい空気が残る人里。
今日の主様は法衣を着て街道を歩いている。
隣には主様よりも頭一つ分は背が高い人影がある。
毘沙門天の使い寅丸様である。寅丸様もまた法衣に杓杖を持ち、頭には網笠といったいでたちである。
おふたりは檀家の方々へ説法をして回っている。
今は一軒目の説法が終わり、次の家へと向かっている所だ。
「……ご主人。檀家さんを訪ねる度にお土産を置いていくのは止めにしないか?」
「えっ……あぁっ!? 取ってきて貰えたり……しますか?」
両手を合わせ、主様よりも頭一つ分は大きい背を屈めている寅丸様を主様はじとりとした眼で上目づかいに睨んでいる。
ともすれば主従が逆転して見える。
しかし紛れも無く寅丸様こそが主様の仕えている方である。
呆れた様な表情を浮かべつつも、いつも用に主様は私に指示を出す。
私は周囲の同胞達に、寅丸様の数珠を受け取りに行かせた。
「まったく。今取りに向かわせているから、次の檀家さんでは私の数珠を代わりに使ってくれ」
そう言って、寅丸様に自分の付けていた数珠を手渡す。
強烈な既視感。似たやりとりを何度見ただろうか。
寅丸様は優秀な方だが少々抜けている所がある。
特に忘れ物が多い。何かを忘れ、それを主様に探してきて貰うのが一種の定型動作となっている。
呆れつつもその度に探しだしてくるあたり、主様も大概に世話焼きだ。
「ありがとうございます。さぁ、次の家が見えてきました。この説法が終わったらひと休みしましょう」
明朗な声がしんとした空間に響く。
私は主様の懐の中で説法を聞いている。
仕事中の寅丸様は本当に凛々しい。先程までとは別人のようだ。
隣に座る主様の顔もどこか誇らしげだ。
半刻程の後説法が終わり、檀家さんの家を出る。
空を見上げる。丁度日が真上に差しかかっていた。
「なぁ、ご主人!そこの通りに新しくできた茶屋の善哉がおいしいらしいんだが、食べてみたくないかい?もちろん、ご主人が他の物食べたいのなら良いのだが……」
「いえいえ。私も甘いものが食べたいと思っていた頃ですよ。」
「そ、そうかい?催促してしまったみたいですまない。だが、決まったのなら”善は急げだ”」
ご主人の眼が輝いている。
我々体の小さい鼠は食べる事に貪欲だ。常に何かを食べていなければ力尽きてしまう。
妖怪変化である主様には無関係の事の筈だが、名残という物はあるのだろう。
「ご主人。善哉を二人前頼む。」
「あいよ~。」
威勢の良い声。
机が二つに長椅子が幾つか。大きな店では無いが、その殆どには人が座り多くの人でにぎわっていた。
間もなく善哉が運ばれてくる。
ぱぁぁあ、と主様の眼が輝く。甘い匂いが鼻腔を刺激する。
早速餅に齧り付こうとしている主様には申し訳ないが、私は主の方の上で必死の抗議をした。
すまなかった。と言うと主様は懐から焼き菓子を取りだし私に与えてくれた。
熱い善哉を食べる事が出来ない私にはこれが昼食代りとなる。
はふはふと。美味しそうに餅に齧りつく主様。
ぱくりぱくりと。上品に善哉を口に運ぶ寅丸様。
「あ、ナズーリン口に餡子が付いていますよ。ほら、顔を出して下さい」
「むー。ご主人私を子供扱いしないでくれ。」
そう言いつつもされるがままに口を拭われる主様。
親子のようだ。
そんな事を考えながら、私は焼き菓子をぽりぽりと齧っていた。
甘味を十分に楽しみ満足した所で茶屋を出る。
暫く歩いた時、背後から突如怒声が響いた。
「ひったくりだ!!」
主様が振り向くと、僅か数間程の距離に此方めがけて突進してくる男の姿があった。
「どけっ!!小娘!!」
男は懐から小刀の様な物を取りだし、なおも此方に向かって来る。
鈍く煌めく凶刃。男との距離は既に一間も無い。
主様はとっさの事に頭が追い付かず無防備に立ち尽くしている。
男が目前に迫る。
もうだめだ。そう思い来る衝撃に備えて体を強張らせる。
刃が主の法衣を切り裂き、肌に触れる。
瞬間。一陣の風が吹きぬける。
気付けば眼の前に居た男が消えていた。
何が起こったのか?
それを知るのは、数秒後我に返った主様が後ろを振り向いた時だ。
寅丸様が暴漢を組み伏せていた。
「ナズーリン!怪我は無いですか?」
「あ……、あぁ大丈夫だ。ありがとうご主人」
寅丸様はあの僅かな時間で、暴漢を投げあげ、地に組み伏せたのだ。
驚愕すべき身体能力。流石は武神の代理を務める者である。
すぐに郷の自警団の者が駆け付けひったくりを引き渡した。
「本当に怪我は無いですか?見た所服も少し破れているようですが……」
「何、少し引っかけただけだ。ご主人のおかげで体には傷一つないよ」
「本当ですか?大事を取って先に戻っていても良いですよ?」
「いや、それにはおよばん――」
その時だった。
同胞達が何かを担ぎ主様に近づいてきた。数珠を取りに向かわせた者たちだ。
主様が”数珠”を受け取る。
見間違いだろうか。ほんの一瞬、主様の眼が大きく見開かれた様に感じる。
瞬きをする。再度主様の顔を見る。そこにはいつもの凛々しい表情があった。
「……いや、やはり今日は先に戻らせて貰う事にしよう。私のような美少女が肌を晒していては説法を聞く方も身が入らないだろう」
「ナズーリンなら大丈夫だと思いますが、今日は先に帰ってゆっくりと休んで下さい」
「ご主人あなたは偶に失礼だな」
それから私と主様は先に寺に戻った。
主様と自室に戻り、寝床兼居住空間である手籠に戻される。
するする、衣擦れの音が聞こえてくる。部屋着へと着替えているのだろう。
少し散歩に行こう。そう思い籠を出たその時だった。
ぶつり。
頭の中で何かが壊れる音。同時に鋭い痛みが走る。
私は思わずその場にうずくまった。
謎の浮遊感。酷く痛みとその実感が剥離して感じる。
“また”だ、一体私に何があったと言うのだろうか。
「――ッ!――!」
主様が何か声を掛けている。
しかしその声は、彼岸の彼方からの物の如く遠く、耳に届かない。
最後に私が見たのは、今にも泣きそうな顔をしている主様。
あぁ、そんな顔をしないで下さい。
あなたがそんな顔をしていると皆が不安になり――ます――――
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
――つんとする薬品の匂い。
そっと、眼を開く。見慣れない天井。
「良かった。気が付いたんだな」
誰かの声がする。
耳に優しく響くそれは、甚く心を落ち着かせる。
「どこか痛い所は無いか?」
此方を覗きこむ顔。
見慣れた美しいと言うより可愛らしいと言う表現の似合う顔。
主様だ。
体に違和感は残っていない。
あの激痛が嘘の用だ。その事を主様に伝える。
「……そうか。それは良かった」
「あら。気が付いたのね」
白衣を着た女性と主様が何かを話している。
赤と青の対比が眼に映える。
周囲を見渡せば、薬品の入った棚や白いシーツの掛かったベッド等見慣れない物がある。
どうやら私は、この場所に運び込まれた用だ。
「極度の疲労状態にあったようだから、栄養剤を打っておいたわ。後はまぁ、”いつもの”出しとくわね」
「……ありがとう。急に押し掛けてすまない」
「良いのよ。診療所に急患が来るのなんてあたりまえの事だし」
「……恩に着る。」
主様に抱きかかえられる。
からからと、引き戸を開けると板張りの長い廊下に出る。
不意に背後から声が掛かる。
その声はひどく冷たく、感情を押し殺したような物だった。
「ナズーリン。あなたは”分かっている”わよね」
「…………」
主様は振り向かない。
「私は医者よ。病人は必ず治してみせるわ」
「…………」
主様は振り向かない。
「でもね。”その先にある事”までは面倒が見れないのよ」
「…………」
主様は振り向かない。
「……今日も月が奇麗ね。でも、もうじき雨が降るわ。あなたも傘の準備は早めにして置きなさい。降られてからでは遅いのよ。――それじゃぁ、さようなら」
「…………すまない。ありがとう」
かたり、と後ろ手ドアを閉める音。
何を話していたのかは分からない。
しかし、主様の表情はまさに悲しみに満ちたそれであった。
ぴょこりと、白い耳が視界の端に映る。
妖怪兎だ。主様よりもさらに小柄である。
彼女は私たちを先導するようにすたすたと廊下を歩いて行く。
可愛らしくぴょこぴょこと跳ねる姿は、多少なりとも主様の心を癒してくれるだろうか?
そんな事を考える。
玄関に着く。
案内をしてくれた兎に礼をして外に出る。
竹林を出て寺へ向かう。
終始主様の表情は浮かない物であった。
◇◇◇◇◇◇
朝の陽光が、瞳に刺さる。
黒の視界が、薄い赤へと代わる。
かさり、こそりと生活の音が耳に届く。
世は並べて事も無し。
あれ以来、体が不調を訴える事は無い。
ここ数日主様は寺を空ける事が多いが、私は大事を取って待機を命じられている。
大きく身を捩る。ぎしり、と寝床である籠が揺れた。
傍で聞こえる物音から主の起床を知る。脳はまだ覚醒には遠くまどろみの中にある。
眠気を払い、むくりと身を起こす。
体を伸ばし大きなあくびをする。小気味の良い音を立てて骨が鳴り、肺の中に冷たい空気が入り込む。
主様は化粧台に向かい癖のある髪に櫛を通していた。
今日も何処かに出かけるのだろう。普段よりも時間を掛けて身支度をしているようだ。
暫く眺めた後、今日も待機かと籠の中に身を沈めた時だった。
――どうした?今日は一緒に出かけるぞ
その刹那。耳を疑う。
主様を見れば、顔は化粧台に向けたまま”おしろい”を塗っているが、切れ長の目が鏡越しに此方を見ていた。
私は籠から飛び起き、大急ぎで身嗜み――私には毛繕い程度しかやる事は無い――を整えた。
地を照らす陽光。
薫風。爽やかな風が肌を撫ぜる。
久々の感覚。
ゆらりゆらりと、空を行く。
主と共に空を行く。
今日は特別に、主様の肩の上に乗らせて貰った。
これは少しでも主様を近くに感じていたい。そんな私の我儘だ。
とさり、と地面に着地する。
すとん、と私も主に続き地面に降りる。
空空漠漠。何もない丘が広がっていた。
無縁塚。境界の向こう側で忘れられた物が流れ着く終着地点だそうだ。
確かに、良く見れば塵としか思えない物があちらこちらに転がっていた。
「さぁて、トレジャーハントと行こうか」
主様は愛用のロッドをはじめとするダウジングの準備を始めた。
では私も同胞を呼んで手伝わせましょう。そう主に言うと、意外にも制されてしまった。
「いや、今日はお前だけで良い。リハビリだ。偶には二人で探そうじゃないか」
極めて明るい調子でそう言われてしまった。
反論する理由も無い。それに二人で居たいと言われるのは嬉しい。
こつり、と頭に何かがあたる。そんな事を考えているのがばれたのか、主様にロッドで注意されてしまったようだ。
それから数刻。
私は主様に指示された所を探しに回る。
主様の指示は的確で、幾つかの価値のありそうな物を見つける事ができた。
それから、私と主様は魔法の森にある古道具屋を訪ねた。
古道具屋の主は、主様のお得意様の一人である。こうして拾った品物を渡し、生活用品と交換して貰うのだ。
主様は、店主と二言三言交わすと、持ってきた品物を小さな木箱と交換した。
中身を訪ねても、秘密だ。であるとか、後で分かる。としか教えて貰えない。
終ぞ寺に戻るまで中身は分からなかった。
夜、何時もは寅丸様と晩酌をされている時間、私が床で眠る準備をしていると主様が至極、上機嫌な様子で酒瓶と木箱を持って自室に戻ってきた。
「まだ起きているか?」
何事でしょうかと問うと、主様は小さく微笑み木箱を開ける。
ぱかり、と木箱を開けると中には見慣れぬ白い塊が入っていた。
しかし、鼻腔を刺激する芳醇な香りは、この塊が只物ではない事を伝えている。
主様曰く、醍醐と呼ばれる食べ物だそうだ。
高級な品物であり、質素を尊ぶ仏道に居る主様も今までに食べた事が無いそうだ。
古道具屋に醍醐が入荷されたと言う噂を聞きつけたからこそ、今日無縁塚にでかけたらしい。
「ご主人に見つかるとあっという間に平らげられてしまうからな。こんな良い物を粗末に出来る物か。すまんが私に付き合ってくれるか?」
そう言って私用の猪口に日本酒を傾けると、醍醐を小さく切り分けその内の一欠けらを私に渡すと、主様もパクリと口に運んだ。
するとどうだろう。見る見るうちに主様の耳が、尻尾が、毛が、逆立ったかと思うと次の瞬間には、だらりと垂れ下がり、頬に手を当て余韻に浸るようにうっとりとした表情を浮かべた。
「……っぅん!言葉にならないなこれは。お前も早く食べてみると良い」
言われるがままに私も一口醍醐を食べる。
口の中に広がる濃厚な乳の風味。果物の様な芳醇な甘い香りが鼻に抜ける。
咀嚼するたびに、独特の風味が口に広がる。何時までも味わいたい気持ちになるが嚥下すると、先ほどまでの濃厚な味わいとは打って変わって、意外なほどに爽やかな後味が口に残る。
「……どうした? 美味しすぎて気を失ったか? なら私が全部食べてしまうぞ?」
迂闊にも暫く放心状態に陥っていた様だ。こんな美味しい物を一口で終わらせるのは余りも勿体ない。私も楽しませて貰わねば。
「まぁ待て待て、こんな部屋の中で飲むのも風情が無い。縁側に出ようじゃないか。――今日も月が奇麗なのだから」
天を見上げては十五夜が夜空を照らす。
雲が所々月を欠けさせるが、それもまた風情を醸しだていた。
それから、私と主様は夜明けまで醍醐をつまみに酒を酌み交わした。
途中からの記憶は無い。
最後に私の記憶に残っているのは
――全身から抜けていく力と、
――今にも泣き出しそうな顔の……主様。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
数日後。
ざぁざぁ、ざぁざぁと雨が降る。
寺の裏手、共同墓地には苔生した灰色の石が立ち並んでいる。
その外れ、雨に打たれるまま立ちずさむ人影があった。
頭についた大きな耳と尻尾が、彼女が妖怪である事を知らせる。
人影の前、他の墓石とは明らかに異なる小さな石を組み合わせた簡素な墓石が幾つも立ち並んでいた。
その中に一つ、汚れ一つない真新しい物があった。
ナズーリンは何も言わない。只、その前に立ち尽くす。
背後に黄色い髪の長身の女性が近付く。
ナズーリンはその口をゆっくりと開く。
まるで、心から感情が飛び出してしまわないようにするかのように。
「……ご主人。あいつは無事に旅立てただろうか?」
「大丈夫です。私の使い魔に冥界まで送らせています。迷う事は無いでしょう。」
「そうか……よかっ――」
そこから先に言葉は紡がれない。響く雨音から漏れ出るは小さな嗚咽のみ。
「ナズーリン。風邪を引きます。そろそろ戻りま――」
寅丸が言い終わらぬ内に、
がばり、とナズーリンは寅丸の胸に飛び込んだ。
そこには狡猾な賢将の姿は無い。
寅丸の腕の中で一人の少女のように、その瞳から止め処なく滴をこぼした。
「わたしは、なんど、こんな事を、繰り返す? なんど、無様に、死なせて、しまう……」
「……彼は悲しんでいましたか?」
少女は何も言葉を返さない。
「彼は自分の生に誇りを持っていました。魂を見ればわかります。あれ程に真っ直ぐで透き通った畜生の魂など見た事がありません。
最後まで貴女の身を案じていたのではないですか?」
「だって、私がもっときちんとした式を打てるほど強い妖怪だったら!!」
寅丸は少女の口に静かに指を当てる。
「この世界に”もしも”はありません。あなたは、力の弱い、鼠の妖怪で、賢くて、でも少しだけ、自分に自信が無い、それら全てを含めてナズーリンなのです」
「そんなあなただから、あの子たちは支えてくれたのではないですか?」
少女はもう何も言わなかった。
代わりに、寅丸を最後に力強く抱きしめると寅丸の胸から離れた。
「ご主人ありがとう。もう大丈夫だ」
寅丸の持ってきた傘を受け取り
ぐすりと、大きく鼻を鳴らすといつもの調子で話を続けた。
「えぇ。そうみたいですね」
その様子を確認し、くすりと小さな微笑みを漏らす。
「彼岸の渡し守にも、冥界の姫にも挨拶はしておいた。次はきっと位の高い生物に生まれてくるだろう。寅とか」
「いいえ。あの子は多分”また今度も”あなたの配下に戻ってきますよ」
「え?」
「ふふ。貴女も早く一人前になって彼を安心させてあげなさい」
寅丸が使い魔を通して見るは、魂となった彼の者。
冥界の管理人と親しげに茶をすする姿。
さて、彼の者の輪廻はこれから如何に巡るのか?
当人のみぞが知る所である。
雲一つない天蓋に、おぼろげに地を照らす月。
薫風。穏やかな風が春の終わりを告げる。
今日も私は空を飛ぶ。
ゆらりゆらり。提篭に収まり空を行く。
街明かりも遠く、下には森が広がる。
振動。ふいに主様の動きが止まる。
とたとたとた。篭を抜け出し主様の肩へと登る。
「この周辺に、”探し物”があるはずだよ。お願いできるかい?」
いつも通りの自信に満ちた切れ長の眼。笑みに歪んだ口元。
驚くほど整った顔立ちは中性的で男にも女にも見える。
私の主にして毘沙門天の使い。ナズーリン様は、村人からの依頼で探し物に来ている。
とさり、と地面に着地する。
すとん、と私も主に続き地面に降りる。
鼻腔の奥に感じる湿り気。濃緑の生命活動の証が周囲に溢れている。
周囲の気配を探る。数多の気配に隠れて同胞の息遣いを感じる。
召集。主様の式として力を借り、周囲の同胞に協力を要請する。
かさかさと、木立をかき分ける音。
一刻程の後、数十匹の同胞が協力を申し出てくれた。
主様から伝えられた”探し物”の特徴をそれぞれの鼠たちに伝える。
散開。私が指示をすると、皆は蜘蛛の子を散らすように四方八方に探索に向かってくれた。
「ありがとう、良くやってくれた。さて、私たちも探しに行こうか」
ふわり、と体が包み込まれる感覚。主様の小さな手に掴まれる。
すとり、と肩に着地する。
彼らは無事でしょうか?と、問いかける。
「どうだろうか?行方が分からなくなってから時間が経っている。周囲はこの瘴気だ。急いだ方が良いだろう。”同胞達”が何をするかも分からん」
申し訳ありません。私がきちんと言いつけられれば良いのですが。
「いや、君が気にする事じゃない。私の力不足の問題だ。だが、今はその事を反省する時では無いな」
仰るとおりです。探索に集中しましょう。
暗黒。月明かりは木々に遮られ光は殆ど届かない。
鼠の眼を似ってしなければ一間先を見通す事も難しいだろう。
半刻程歩いた時、ふと異質の妖気を感じる。
主様。
「わかっている。野良の妖怪だな。隠れてやり過ごそう」
了解しました。周りの鼠たちにも警告を送っておきます。
鼠の単体は脆弱だ。野外で出会う殆どの妖怪は脅威になり得る。
それは主様にとっても例外ではない。探索中、話の通じぬ低級の妖怪に出会った際はこうしてやり過ごすのが常だ。
がさごそ、と近くの樹の洞に入り込み気配をひそめる。
程なくして犬の姿をした妖獣が姿を現す。
身の丈は4尺程だろうか。僅かしか届かぬ月光が眼に反射しぎらぎらと輝いている。
低級の妖獣は危険だ。知能は低いが、身体能力は獣のそれを遥かに上回る。
匂いで気取られる可能性もある。
詠唱。肩に乗る私にも聞こえぬ程の声量で主様は言葉を紡ぐ。
周りに霊的な障壁が展開される。このまま潜んでいればまず見つかる事は無いだろう。
だがしかし、犬の姿をした妖獣は先ほどまで私たちが居た所をぐるぐると徘徊し続けている。
私たちの匂いが残っているのだろう。しかし、結界があるので私たちが居る所までは辿り着けないだろう。
『”探し物”が見つかった。』
同胞からの連絡を傍受したのはその時だった。
私は主様にその事を伝える。
「こんな時に?くそっ、無理やりにでも突破するか?しかし……」
焦燥。余裕をもった表情から一変。
眼は左右へと揺れ動き、冷や汗が垂れている。こんな時こそ私が支えて差し上げねば。
主様の肩に上り、精一杯たしなめる。
「……済まない。少し取り乱した。なるべく手を出させない様に指示を出しておく。騒ぎを起こして他の妖獣までおびき寄せては厄介だ。」
間もなく妖獣は退散した。
ぐるり、と辺りを見渡す。他の脅威が無い事を確認する。
私と主様は急ぎ連絡のあった場所へ向かった。
喧騒。現場では、二人の人間の子供が同胞に襲われている所だった。
今にも飛びかからんとする同胞達。あわやその牙が付きたてられんとするその刹那。
主様は子供達を救い出し、同胞達に解散を命じた。
「……少し怪我をさせてしまったな。すまなかった」
「……」
「私は君達を探しに来た者だ。安心してくれて良い。」
「……」
恐怖。子供の眼に映る感情が一色に塗りつぶされている。
無理もないだろう。妖怪の蔓延る森に迷い込んだ挙句、鼠の大群に追い回されたのだ。
「良ければ怪我の治療をさせてもらえないかな?」
「――っ?!何をする!」
手を差し伸べようとする主様だが、二人はその手を払いのける。
主様は困惑しながらも、郷までの護衛をする事、決して危害を与えない事を説明する。
郷まで二人を連れ帰る頃には夜の終わりが近づいていた。
鼠色の空。朝日が、薄く夜空を照らす。
寺への帰路。主様の表情を伺う。何時も通りの表情を装っているが、どこか陰鬱な物が混じるように感じる。
主様を励まそうと、肩に飛び乗った。
瞬間。
全身から力が抜けていく感覚。
ぐらりと、体のバランスが大きく傾く。
まずい。そう思った次の瞬間には、体は元に戻っていた。
急にバランスを崩した私を見て、主様は声を掛けてくれた。
何でもありません。そう私は答える。
当然だ。それ以外の答えを持ち合わせていないのだから。
――少し長く働き過ぎたのだろうか?今日は早めに休む事にしよう。
◇◇◇◇◇◇
快晴の空。
朝の清々しい空気が残る人里。
今日の主様は法衣を着て街道を歩いている。
隣には主様よりも頭一つ分は背が高い人影がある。
毘沙門天の使い寅丸様である。寅丸様もまた法衣に杓杖を持ち、頭には網笠といったいでたちである。
おふたりは檀家の方々へ説法をして回っている。
今は一軒目の説法が終わり、次の家へと向かっている所だ。
「……ご主人。檀家さんを訪ねる度にお土産を置いていくのは止めにしないか?」
「えっ……あぁっ!? 取ってきて貰えたり……しますか?」
両手を合わせ、主様よりも頭一つ分は大きい背を屈めている寅丸様を主様はじとりとした眼で上目づかいに睨んでいる。
ともすれば主従が逆転して見える。
しかし紛れも無く寅丸様こそが主様の仕えている方である。
呆れた様な表情を浮かべつつも、いつも用に主様は私に指示を出す。
私は周囲の同胞達に、寅丸様の数珠を受け取りに行かせた。
「まったく。今取りに向かわせているから、次の檀家さんでは私の数珠を代わりに使ってくれ」
そう言って、寅丸様に自分の付けていた数珠を手渡す。
強烈な既視感。似たやりとりを何度見ただろうか。
寅丸様は優秀な方だが少々抜けている所がある。
特に忘れ物が多い。何かを忘れ、それを主様に探してきて貰うのが一種の定型動作となっている。
呆れつつもその度に探しだしてくるあたり、主様も大概に世話焼きだ。
「ありがとうございます。さぁ、次の家が見えてきました。この説法が終わったらひと休みしましょう」
明朗な声がしんとした空間に響く。
私は主様の懐の中で説法を聞いている。
仕事中の寅丸様は本当に凛々しい。先程までとは別人のようだ。
隣に座る主様の顔もどこか誇らしげだ。
半刻程の後説法が終わり、檀家さんの家を出る。
空を見上げる。丁度日が真上に差しかかっていた。
「なぁ、ご主人!そこの通りに新しくできた茶屋の善哉がおいしいらしいんだが、食べてみたくないかい?もちろん、ご主人が他の物食べたいのなら良いのだが……」
「いえいえ。私も甘いものが食べたいと思っていた頃ですよ。」
「そ、そうかい?催促してしまったみたいですまない。だが、決まったのなら”善は急げだ”」
ご主人の眼が輝いている。
我々体の小さい鼠は食べる事に貪欲だ。常に何かを食べていなければ力尽きてしまう。
妖怪変化である主様には無関係の事の筈だが、名残という物はあるのだろう。
「ご主人。善哉を二人前頼む。」
「あいよ~。」
威勢の良い声。
机が二つに長椅子が幾つか。大きな店では無いが、その殆どには人が座り多くの人でにぎわっていた。
間もなく善哉が運ばれてくる。
ぱぁぁあ、と主様の眼が輝く。甘い匂いが鼻腔を刺激する。
早速餅に齧り付こうとしている主様には申し訳ないが、私は主の方の上で必死の抗議をした。
すまなかった。と言うと主様は懐から焼き菓子を取りだし私に与えてくれた。
熱い善哉を食べる事が出来ない私にはこれが昼食代りとなる。
はふはふと。美味しそうに餅に齧りつく主様。
ぱくりぱくりと。上品に善哉を口に運ぶ寅丸様。
「あ、ナズーリン口に餡子が付いていますよ。ほら、顔を出して下さい」
「むー。ご主人私を子供扱いしないでくれ。」
そう言いつつもされるがままに口を拭われる主様。
親子のようだ。
そんな事を考えながら、私は焼き菓子をぽりぽりと齧っていた。
甘味を十分に楽しみ満足した所で茶屋を出る。
暫く歩いた時、背後から突如怒声が響いた。
「ひったくりだ!!」
主様が振り向くと、僅か数間程の距離に此方めがけて突進してくる男の姿があった。
「どけっ!!小娘!!」
男は懐から小刀の様な物を取りだし、なおも此方に向かって来る。
鈍く煌めく凶刃。男との距離は既に一間も無い。
主様はとっさの事に頭が追い付かず無防備に立ち尽くしている。
男が目前に迫る。
もうだめだ。そう思い来る衝撃に備えて体を強張らせる。
刃が主の法衣を切り裂き、肌に触れる。
瞬間。一陣の風が吹きぬける。
気付けば眼の前に居た男が消えていた。
何が起こったのか?
それを知るのは、数秒後我に返った主様が後ろを振り向いた時だ。
寅丸様が暴漢を組み伏せていた。
「ナズーリン!怪我は無いですか?」
「あ……、あぁ大丈夫だ。ありがとうご主人」
寅丸様はあの僅かな時間で、暴漢を投げあげ、地に組み伏せたのだ。
驚愕すべき身体能力。流石は武神の代理を務める者である。
すぐに郷の自警団の者が駆け付けひったくりを引き渡した。
「本当に怪我は無いですか?見た所服も少し破れているようですが……」
「何、少し引っかけただけだ。ご主人のおかげで体には傷一つないよ」
「本当ですか?大事を取って先に戻っていても良いですよ?」
「いや、それにはおよばん――」
その時だった。
同胞達が何かを担ぎ主様に近づいてきた。数珠を取りに向かわせた者たちだ。
主様が”数珠”を受け取る。
見間違いだろうか。ほんの一瞬、主様の眼が大きく見開かれた様に感じる。
瞬きをする。再度主様の顔を見る。そこにはいつもの凛々しい表情があった。
「……いや、やはり今日は先に戻らせて貰う事にしよう。私のような美少女が肌を晒していては説法を聞く方も身が入らないだろう」
「ナズーリンなら大丈夫だと思いますが、今日は先に帰ってゆっくりと休んで下さい」
「ご主人あなたは偶に失礼だな」
それから私と主様は先に寺に戻った。
主様と自室に戻り、寝床兼居住空間である手籠に戻される。
するする、衣擦れの音が聞こえてくる。部屋着へと着替えているのだろう。
少し散歩に行こう。そう思い籠を出たその時だった。
ぶつり。
頭の中で何かが壊れる音。同時に鋭い痛みが走る。
私は思わずその場にうずくまった。
謎の浮遊感。酷く痛みとその実感が剥離して感じる。
“また”だ、一体私に何があったと言うのだろうか。
「――ッ!――!」
主様が何か声を掛けている。
しかしその声は、彼岸の彼方からの物の如く遠く、耳に届かない。
最後に私が見たのは、今にも泣きそうな顔をしている主様。
あぁ、そんな顔をしないで下さい。
あなたがそんな顔をしていると皆が不安になり――ます――――
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
――つんとする薬品の匂い。
そっと、眼を開く。見慣れない天井。
「良かった。気が付いたんだな」
誰かの声がする。
耳に優しく響くそれは、甚く心を落ち着かせる。
「どこか痛い所は無いか?」
此方を覗きこむ顔。
見慣れた美しいと言うより可愛らしいと言う表現の似合う顔。
主様だ。
体に違和感は残っていない。
あの激痛が嘘の用だ。その事を主様に伝える。
「……そうか。それは良かった」
「あら。気が付いたのね」
白衣を着た女性と主様が何かを話している。
赤と青の対比が眼に映える。
周囲を見渡せば、薬品の入った棚や白いシーツの掛かったベッド等見慣れない物がある。
どうやら私は、この場所に運び込まれた用だ。
「極度の疲労状態にあったようだから、栄養剤を打っておいたわ。後はまぁ、”いつもの”出しとくわね」
「……ありがとう。急に押し掛けてすまない」
「良いのよ。診療所に急患が来るのなんてあたりまえの事だし」
「……恩に着る。」
主様に抱きかかえられる。
からからと、引き戸を開けると板張りの長い廊下に出る。
不意に背後から声が掛かる。
その声はひどく冷たく、感情を押し殺したような物だった。
「ナズーリン。あなたは”分かっている”わよね」
「…………」
主様は振り向かない。
「私は医者よ。病人は必ず治してみせるわ」
「…………」
主様は振り向かない。
「でもね。”その先にある事”までは面倒が見れないのよ」
「…………」
主様は振り向かない。
「……今日も月が奇麗ね。でも、もうじき雨が降るわ。あなたも傘の準備は早めにして置きなさい。降られてからでは遅いのよ。――それじゃぁ、さようなら」
「…………すまない。ありがとう」
かたり、と後ろ手ドアを閉める音。
何を話していたのかは分からない。
しかし、主様の表情はまさに悲しみに満ちたそれであった。
ぴょこりと、白い耳が視界の端に映る。
妖怪兎だ。主様よりもさらに小柄である。
彼女は私たちを先導するようにすたすたと廊下を歩いて行く。
可愛らしくぴょこぴょこと跳ねる姿は、多少なりとも主様の心を癒してくれるだろうか?
そんな事を考える。
玄関に着く。
案内をしてくれた兎に礼をして外に出る。
竹林を出て寺へ向かう。
終始主様の表情は浮かない物であった。
◇◇◇◇◇◇
朝の陽光が、瞳に刺さる。
黒の視界が、薄い赤へと代わる。
かさり、こそりと生活の音が耳に届く。
世は並べて事も無し。
あれ以来、体が不調を訴える事は無い。
ここ数日主様は寺を空ける事が多いが、私は大事を取って待機を命じられている。
大きく身を捩る。ぎしり、と寝床である籠が揺れた。
傍で聞こえる物音から主の起床を知る。脳はまだ覚醒には遠くまどろみの中にある。
眠気を払い、むくりと身を起こす。
体を伸ばし大きなあくびをする。小気味の良い音を立てて骨が鳴り、肺の中に冷たい空気が入り込む。
主様は化粧台に向かい癖のある髪に櫛を通していた。
今日も何処かに出かけるのだろう。普段よりも時間を掛けて身支度をしているようだ。
暫く眺めた後、今日も待機かと籠の中に身を沈めた時だった。
――どうした?今日は一緒に出かけるぞ
その刹那。耳を疑う。
主様を見れば、顔は化粧台に向けたまま”おしろい”を塗っているが、切れ長の目が鏡越しに此方を見ていた。
私は籠から飛び起き、大急ぎで身嗜み――私には毛繕い程度しかやる事は無い――を整えた。
地を照らす陽光。
薫風。爽やかな風が肌を撫ぜる。
久々の感覚。
ゆらりゆらりと、空を行く。
主と共に空を行く。
今日は特別に、主様の肩の上に乗らせて貰った。
これは少しでも主様を近くに感じていたい。そんな私の我儘だ。
とさり、と地面に着地する。
すとん、と私も主に続き地面に降りる。
空空漠漠。何もない丘が広がっていた。
無縁塚。境界の向こう側で忘れられた物が流れ着く終着地点だそうだ。
確かに、良く見れば塵としか思えない物があちらこちらに転がっていた。
「さぁて、トレジャーハントと行こうか」
主様は愛用のロッドをはじめとするダウジングの準備を始めた。
では私も同胞を呼んで手伝わせましょう。そう主に言うと、意外にも制されてしまった。
「いや、今日はお前だけで良い。リハビリだ。偶には二人で探そうじゃないか」
極めて明るい調子でそう言われてしまった。
反論する理由も無い。それに二人で居たいと言われるのは嬉しい。
こつり、と頭に何かがあたる。そんな事を考えているのがばれたのか、主様にロッドで注意されてしまったようだ。
それから数刻。
私は主様に指示された所を探しに回る。
主様の指示は的確で、幾つかの価値のありそうな物を見つける事ができた。
それから、私と主様は魔法の森にある古道具屋を訪ねた。
古道具屋の主は、主様のお得意様の一人である。こうして拾った品物を渡し、生活用品と交換して貰うのだ。
主様は、店主と二言三言交わすと、持ってきた品物を小さな木箱と交換した。
中身を訪ねても、秘密だ。であるとか、後で分かる。としか教えて貰えない。
終ぞ寺に戻るまで中身は分からなかった。
夜、何時もは寅丸様と晩酌をされている時間、私が床で眠る準備をしていると主様が至極、上機嫌な様子で酒瓶と木箱を持って自室に戻ってきた。
「まだ起きているか?」
何事でしょうかと問うと、主様は小さく微笑み木箱を開ける。
ぱかり、と木箱を開けると中には見慣れぬ白い塊が入っていた。
しかし、鼻腔を刺激する芳醇な香りは、この塊が只物ではない事を伝えている。
主様曰く、醍醐と呼ばれる食べ物だそうだ。
高級な品物であり、質素を尊ぶ仏道に居る主様も今までに食べた事が無いそうだ。
古道具屋に醍醐が入荷されたと言う噂を聞きつけたからこそ、今日無縁塚にでかけたらしい。
「ご主人に見つかるとあっという間に平らげられてしまうからな。こんな良い物を粗末に出来る物か。すまんが私に付き合ってくれるか?」
そう言って私用の猪口に日本酒を傾けると、醍醐を小さく切り分けその内の一欠けらを私に渡すと、主様もパクリと口に運んだ。
するとどうだろう。見る見るうちに主様の耳が、尻尾が、毛が、逆立ったかと思うと次の瞬間には、だらりと垂れ下がり、頬に手を当て余韻に浸るようにうっとりとした表情を浮かべた。
「……っぅん!言葉にならないなこれは。お前も早く食べてみると良い」
言われるがままに私も一口醍醐を食べる。
口の中に広がる濃厚な乳の風味。果物の様な芳醇な甘い香りが鼻に抜ける。
咀嚼するたびに、独特の風味が口に広がる。何時までも味わいたい気持ちになるが嚥下すると、先ほどまでの濃厚な味わいとは打って変わって、意外なほどに爽やかな後味が口に残る。
「……どうした? 美味しすぎて気を失ったか? なら私が全部食べてしまうぞ?」
迂闊にも暫く放心状態に陥っていた様だ。こんな美味しい物を一口で終わらせるのは余りも勿体ない。私も楽しませて貰わねば。
「まぁ待て待て、こんな部屋の中で飲むのも風情が無い。縁側に出ようじゃないか。――今日も月が奇麗なのだから」
天を見上げては十五夜が夜空を照らす。
雲が所々月を欠けさせるが、それもまた風情を醸しだていた。
それから、私と主様は夜明けまで醍醐をつまみに酒を酌み交わした。
途中からの記憶は無い。
最後に私の記憶に残っているのは
――全身から抜けていく力と、
――今にも泣き出しそうな顔の……主様。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
数日後。
ざぁざぁ、ざぁざぁと雨が降る。
寺の裏手、共同墓地には苔生した灰色の石が立ち並んでいる。
その外れ、雨に打たれるまま立ちずさむ人影があった。
頭についた大きな耳と尻尾が、彼女が妖怪である事を知らせる。
人影の前、他の墓石とは明らかに異なる小さな石を組み合わせた簡素な墓石が幾つも立ち並んでいた。
その中に一つ、汚れ一つない真新しい物があった。
ナズーリンは何も言わない。只、その前に立ち尽くす。
背後に黄色い髪の長身の女性が近付く。
ナズーリンはその口をゆっくりと開く。
まるで、心から感情が飛び出してしまわないようにするかのように。
「……ご主人。あいつは無事に旅立てただろうか?」
「大丈夫です。私の使い魔に冥界まで送らせています。迷う事は無いでしょう。」
「そうか……よかっ――」
そこから先に言葉は紡がれない。響く雨音から漏れ出るは小さな嗚咽のみ。
「ナズーリン。風邪を引きます。そろそろ戻りま――」
寅丸が言い終わらぬ内に、
がばり、とナズーリンは寅丸の胸に飛び込んだ。
そこには狡猾な賢将の姿は無い。
寅丸の腕の中で一人の少女のように、その瞳から止め処なく滴をこぼした。
「わたしは、なんど、こんな事を、繰り返す? なんど、無様に、死なせて、しまう……」
「……彼は悲しんでいましたか?」
少女は何も言葉を返さない。
「彼は自分の生に誇りを持っていました。魂を見ればわかります。あれ程に真っ直ぐで透き通った畜生の魂など見た事がありません。
最後まで貴女の身を案じていたのではないですか?」
「だって、私がもっときちんとした式を打てるほど強い妖怪だったら!!」
寅丸は少女の口に静かに指を当てる。
「この世界に”もしも”はありません。あなたは、力の弱い、鼠の妖怪で、賢くて、でも少しだけ、自分に自信が無い、それら全てを含めてナズーリンなのです」
「そんなあなただから、あの子たちは支えてくれたのではないですか?」
少女はもう何も言わなかった。
代わりに、寅丸を最後に力強く抱きしめると寅丸の胸から離れた。
「ご主人ありがとう。もう大丈夫だ」
寅丸の持ってきた傘を受け取り
ぐすりと、大きく鼻を鳴らすといつもの調子で話を続けた。
「えぇ。そうみたいですね」
その様子を確認し、くすりと小さな微笑みを漏らす。
「彼岸の渡し守にも、冥界の姫にも挨拶はしておいた。次はきっと位の高い生物に生まれてくるだろう。寅とか」
「いいえ。あの子は多分”また今度も”あなたの配下に戻ってきますよ」
「え?」
「ふふ。貴女も早く一人前になって彼を安心させてあげなさい」
寅丸が使い魔を通して見るは、魂となった彼の者。
冥界の管理人と親しげに茶をすする姿。
さて、彼の者の輪廻はこれから如何に巡るのか?
当人のみぞが知る所である。
(全く個人的な好みとして)ほんのちょっと情動的な要素を抑えて、その分説明的であってもよかったかな、と思います。
でも、優しい作品ですね。
誠実な文章は好感度大です。鼠君とナズが最後の杯を交わすシーンは良いですね、こう、しっとり静かで。
私見ではあるのですがちょっと気になった所をいくつか。
まずは同胞ネズミ達の動かし方なのですが、鼠君経由が基本みたいですけれどナズが直接命令を出している時もある。
命令の難易度によって指揮系統が異なるのかな? ちょっと説明が欲しかった所です。
次いきます。
>主様が”数珠”を受け取る。
>見間違いだろうか。ほんの一瞬、主様の眼が大きく見開かれた様に感じる
どうなんだろう? 一応自分は受け取った数珠が星のものではなくて、それによってナズが
誤った指示を出した鼠君の衰えを実感する、みたいな解釈をしたのですが、
俺が見落としをしているのでなければ、作品のどこかでこの伏線を回収して欲しかったかな、と。
最後。これはほとんど言い掛かりみたいなもの。
仏門においても般若湯は切っても切れない関係なのかもしれず、ましてや幻想郷であれば尚更とは思うのですが、
この作品から受けるナズーリンや星のイメージにおいては、
>夜、何時もは寅丸様と晩酌をされている時間
のような描写はなんとなく合わないと思えるのです。敬虔な仏教徒というのが彼女達の印象なので。
感想の冒頭で述べた、最後の杯のように特別な状況であればまた別なんですけどね。
長々とケチをつけて申し訳ありません。
可愛いナズはいつだって正義だ。さらに魅力的な彼女を描けるよう、陰ながら応援しております。
追伸。
ペンネームで笑かしてどないすんねん! 好きだけどさ!
評価ありがとうございます。
ほんの少しでも、何かしらの雰囲気の様な物を感じて頂けたのならとても嬉しく感じます。
やはり奇麗な情景描写をしたいなぁと言う思いが先行し過ぎた結果、説明描写が疎かになっていたようです。
反省を生かして次作では両者のバランスを取りたいと思います。
>7,8様
率直な感想ありがとう御座います。
アクションシーンではもっと躍動感あふれる文章に。日常のシーンではもっと軽快な文章に、
クライマックスではもっと情動的な文章にと、起伏に飛んだ文章にする事ができたと思うのですがいかんせん経験知不足でした。これは次作への課題にしたいと思います。
ストレートな言葉と具体的な指摘はどちらも同程度に為になる物だと考えているので、どちらも喜んでお受けします。
>まずは同胞ネズミ達の動かし方なのですが、鼠君経由が基本みたいですけれどナズが直接命令を出している時もある。
>命令の難易度によって指揮系統が異なるのかな? ちょっと説明が欲しかった所です。
私の中では紫が藍を使役するように、自分の負担を減らす為に、鼠の彼に式を打っていると言う設定でした。
配下の鼠の使役はナズーリンにも出来る物の、ダウジングが疎かになってしまう為普段は式=鼠の彼にやらせてると言うイメージです。何処かでそれとなく伝えようと考えている内に、抜けてしまっていました。
>>主様が”数珠”を受け取る。
>>見間違いだろうか。ほんの一瞬、主様の眼が大きく見開かれた様に感じる
>どうなんだろう? 一応自分は受け取った数珠が星のものではなくて、それによってナズが
>誤った指示を出した鼠君の衰えを実感する、みたいな解釈をしたのですが、
>俺が見落としをしているのでなければ、作品のどこかでこの伏線を回収して欲しかったかな、と。
私の中では、数珠とは全く異なる物。(檀家の私物の何か、具体的には考えていませんでした。)を持ってきてしまった事から、肉体の老化に起因する式のバグが致命的な域に入っている事を悟ると言うシーンでした。
文章の流れ、雰囲気を優先した結果説明するシーンを挟む事が出来ずに、匂わせるに留まってしまっています。
それとなく伝わる文章を入れられれば良かったのですが、力不足でした。
>最後。これはほとんど言い掛かりみたいなもの。
>仏門においても般若湯は切っても切れない関係なのかもしれず、ましてや幻想郷であれば尚更とは思うのですが、
>この作品から受けるナズーリンや星のイメージにおいては、
>>夜、何時もは寅丸様と晩酌をされている時間
>のような描写はなんとなく合わないと思えるのです。敬虔な仏教徒というのが彼女達の印象なので。
>感想の冒頭で述べた、最後の杯のように特別な状況であればまた別なんですけどね。
此方に関しては、私に仏教関係の知識が乏しい為、星蓮船以降の幻想今日における彼女らのイメージを先行させたと言う答えになります。
ナズ寅は毎晩静かに日本酒を酌み交わしてたら良いなぁ、と思っていた位で深くは考えていませんでした。
少し前から彼岸組のSSをボチボチと書いている関係で仏教関係の資料を集めているので、私に知識が付けばまた考えは変わると思います。
>8
修正しました。ご指摘ありがとうございます。
横書き=アラビア数字と頭にあったのでアラビア数字となっている部分と、文章としての見栄えから漢数字になっている部分が混在して居たようです。
やはり、日本語の文章には漢数字が似合うなあと思いました。
改めて作者様においては実りある創作活動が為されんことを祈願致します。