昔々、その昔。
あるところに、一匹(ひとり)の妖怪(しょうじょ)がいました。
その妖怪は、何処何処までも続く、まるで大海原のような草原の上で寝転んでいます。
それは、妖怪がこの世界に生まれてからずっとずっと。
それは、妖怪が自我を持ち、己が存在を理解(し)り、思考を手にしてもなお終わることなくずっとずっと。
幾千、幾万、幾億という時が過ぎ。
太陽と月が天を繰り返し駆け抜けて。
晴れの日も、雨の日も、風の日も、雪の日も経験して。
そんな永遠とも思える時間が過ぎた、ある晴れた日の昼下がり。妖怪は、空を見上げながら、生まれて初めて言葉を紡ぎます。
それは、言うなれば妖怪の産声。
誰にも祝福されず、誰にも見届けらず。世界に独り、生を享けた小さな小さな妖怪は果てなき空に向けて声を発したのです。
「……めんどくさい。立ち上がりたくない。でもお腹すいた。でも動きたくない。やっぱりめんどくさい。死にたい」
心の底からそう呟いた妖怪。世界に対する産声であらん限りの駄目っぷりをみせた妖怪。
そう、それは最早誰が見ても否定のしようがない事実で。
草原で幾年もの時を眠って過ごし続けた妖怪…彼女は根っからの駄目妖怪だったのでした。
生を受け、自我が芽生え、己として立ち、それでも彼女は草原から立ちあがろうとしませんでした。
それは何故か――答えは簡単、面倒くさいからです。
立ちあがるのがだるい。動くのがだるい。考えるのがだるい。だったら寝てていいじゃない。それが妖怪の思考でした。
そう、彼女は『面倒くさい』という唯それだけの理由で幾星霜の時間を経たのでした。ただ、そこに苦労は微塵もないのですが。
けれど、彼女は世界に生を受けた『妖怪』なのです。寝転がって過ごすはいいものの、限界は訪れるもの。
何故なら彼女は生きている。生きているなら、空腹からは避けられない。彼女が妖怪であるならば、避けようがないのです。
彼女に空腹という感覚が襲いかかってきたのは、生まれてから数カ月が過ぎた頃でしょうか。
生まれて初めて襲われた『満たされない』感覚。理解出来ずとも、本能に書き込まれている生存行動。
満たせ。満たせ。満たせ。満たせ。満たせ。身体中が『飢え』という信号を送り続け、彼女を一つの衝動へと駆り立てていきます。
どんな存在であろうと、その欲求には逆らえない。例え獣であろうと何であろうと、生きているならばその命令には反逆出来ない。
そう、少女の生まれて初めての行動となる筈でした。狩りによって飢えを満たすこと、それが妖怪として生きる者、誰もが通る原初の行動と。
ですが、彼女はその万物の始点に逆らったのです。
例えどれだけ身体が空腹を訴えようと、例えどれだけ本能を刺激されようと、彼女は指一本たりとも行動しませんでした。
それは何故か――それこそ愚問、答えは『面倒くさいから』です。
飢えを満たす何かを探すことが面倒。捕まえるのが面倒。捕食するのが面倒。だったら我慢する。それが彼女の答えでした。
そう、その妖怪は駄目妖怪。駄目妖怪なので、導きだす答えもまた破天荒。
彼女は妖怪であり、その身体能力は人や獣など比べるべくもなく。その気になれば一分と立たずに獲物を捕食出来るでしょう。
だけど、彼女は駄目妖怪。その一分の労力すら面倒だと断じ蹴飛ばしたのです。
空腹は我慢すればいいじゃない。行動するより何倍も楽じゃない。今までも我慢してきたし、だったらこれからも出来るだろう。それが彼女の答えでした。
そう決断を下した妖怪は、きっと第三者から見ればアホを通り越した何かでしかないのかもしれません。
彼女が面倒くさいと食事を諦めた時、普通の妖怪ならばここで命が終わる筈でした。当然です。特殊な術式や手段を用いず、
何も食せずに妖怪が生きてゆける道理などありません。もってあと何カ月かの命の筈でした。本来なら、ここで終わりの筈だったのです。
ですが、何の因果か運命か神様の悪戯心か。その妖怪には、恐ろしい程の力と才が在ったのでした。
妖怪は考えました。動きたくない、面倒くさい。でもこのままだと飢えて死ぬ。体内で使用するエネルギーが足りない。でも、ちょっとは在る。
ああ、少しは在るんだ。食べなくても生きていけるエネルギーが自分の体内に少しはあるんだ。そう理解したとき、妖怪の行動はとても早く。
その妖怪が取った手段は、『自身の体内の再構築』。現在の妖怪としての身体の構成要素を知り、数式として変換。その後、自身の身体を
『最小限のエネルギーで生き続けられる身体』へと作り変えたのです。言ってしまえば最適解、自身の体内をもっとも効率よく回せる構造へと変化したのでした。
妖怪が行ったこと、それは見る者が見れば言葉を失い平常心を奪う程の奇跡でした。
その妖怪は、ただ一匹の妖怪で在りながら、自身の存在を如何様にも変える程の力を持っていたのです。それは神にも等しい程の能力。
だけど、彼女の認識は『出来るからやった』。その程度です。加えて言うなら『面倒が嫌だから、楽する為にやった』でしょうか。
常人はおろか、並みの妖怪では決して辿り着けない世界の実現。それを彼女は『狩りの面倒さ>奇跡実現の面倒さ』などという実に
ふざけた理由で即座に実現してみせたのです。新たな世界へ足を踏み入れたその理由が『面倒だから』。その少女は、天蓋の存在である以前にやはりアホだったのです。
体内に在る僅かなエネルギーを最大限に活用できる身体を創造し、それからの時間を少女は相も変わらず眠って過ごしました。
それだけ永き時間を過ごしていれば、当然周囲の世界だって変わっていきます。大きなトカゲさん達が支配する世界から大きな冬を超え、
小さなネズミ達が生き残り。そんな世界の変容期に在る中でも、彼女はただ只管に眠り続けたのです。全ては面倒くさいから。
これだけ地べたで眠り続けていれば、餌を求めて野を歩きまわる動物達に捕食されてもおかしくはない…むしろ当然の成り行きだと
思われるでしょうが、そこは彼女が世界の在り方をも変えてしまうほどの大妖怪である証明。彼女の周囲に展開された、彼女の歪な妖気を
感じて、野生の生き物たちは誰一匹として彼女の傍に近づこうとしないのです。
野生であればある程に感じることの出来る、強者と弱者の境界線。そう、寝てばかりで腐りきってる彼女ですが、その身は生まれた時から
全ての生物たちの上に立つ程の妖怪(あやかし)。野生の生物達が、彼女に対し恐怖を感じ逃げ去るのは仕方のないことなのです。
ですが、それによって彼女の周囲に動物が寄ってこない為に、彼女が餌に出会えないのが全ての不幸の始まりだったのかもしれません。
もし、餌が近づいてくれたのなら、彼女がアホな理由で力を成長させることも世界を越えることもなかったのかもしれません。
最早、野生の生き物で彼女に近づけるものなど存在しない。それほどまでに少女は他者から恐れられる程の力を持っているのです。お腹はすき続けてますが。
歪かつおぞましい程の妖気を周囲に振りまく彼女に近づける者がいるとすれば、それはすなわち彼女と同質の存在だけなのです。
――大妖怪と肩を並べられる程の実力者。そんな存在だけが、ただただ地べたで眠り続ける少女に近づけるのです。
やがて、更に幾星霜の時が過ぎ。いえ、少女にとっては苦労なんて感じてないのかもしれませんが、それだけの時間が流れて。
体内のエネルギーが枯渇しかけ、『だったら空気を食べればいいじゃない』なんてぶっとんだ理由で新たなエネルギー生成機関を
身体の中に作り出し、霞どころか空気を食べて生き続けるアホっぷりを進化させ続けた少女。そんな彼女の永きに渡る怠惰人生に終わりの時が訪れたのです。
少女が永遠とも思えるほどに永き時間を過ごし続けた領域に、初めて響き渡る他者の足音。それはつまり、彼女と同質の者が来訪したということ。
その音を、少女は他人事のように耳に入れながらも、眠り続けます。そして、その足音は少女の傍で止まり、足音の代わりに放たれたのは透き通るような女性の声。
「……驚いたわね。子狐達が忌憚する地には、一体どんな醜悪な化物がいるのかと思えば」
女性の声が少女の耳に届いていますが、その声に少女は微塵も反応を示しません。
理由は簡単。反応するのが面倒だから、振り向くのが面倒だから。目を開けるのが面倒だから。何より面倒だから。
ただ、そんな少女の反応が癇に障ったのか、女性は少しだけ表情を引き攣らせながら再度言葉を紡ぎます。
「かつて、私を下等と嗤った愚者は三人いたわ。
一人はその場で首を引き千切ってやった。一人は腸の全てを抜き取ってやった。一人は妖気を中てるだけで逃げ去った。
さて、貴女は一体どんな反応を見せるのかしらね。この私を無視する程だもの、さぞや素敵な反応を見せてくれるのでしょうね?」
そう言い切り、女性は身体中から強大な妖気を放出します。その大きさは、地べたに寝転ぶ少女を遥かに凌駕するモノ。
それは当然のこと。何故なら彼女は磨き抜かれた本物の妖怪。人を喰らい妖怪を喰らい、敵を退け叩き潰し。本能のままに
他者を蹂躙して得た妖怪としての真実の力を所有しているのです。
方や少女の駄目っぷり。生まれてこの方、堕落に堕落を重ねて眠り続け、面倒だからと他を狩らず。これまでの生で空気を食べて生きてきた
少女では、圧倒的に力が不足しているのです。言ってしまえば、女性は狩る者、少女は狩られる者に他ならないのです。
そんな女性の怒りに触れてしまい、永きに渡る女の子の惰性人生も終わりを迎えても仕方のない状況でした。
ただ、そんな状況でも少女はマイペース。女性の声や妖気の昂ぶりを、少女はたったこの一言で片づけてしまったのです。
「……お外、うるさい」
それだけを告げ、少女は自身の周囲の世界を変容させます。
小さな女の子に向けられた敵意と殺意の塊、すなわち音声や妖気の全てを『遮断』してしまったのでした。
女の子の半径一メートル周囲をドーム状に薄膜が張り、少女が拒む全てをシャットアウトする程の凶悪な結界が突如として生まれたのです。
さて。目前で繰り広げられた光景に、女の子に対し今にも狂爪を向けんとしていた女性の手が止まります。その表情は驚愕に染められていました。
彼女が驚くのも無理無からぬことでしょう。何せ、ただの薄気味悪い幼い妖怪と思っていた女の子が、空間の改竄という
ある種において神にのみ許された領域へと簡単に踏み込んでしまっているのです。
自分を舐めてくれた愚かな妖怪を血祭りに上げる。そんな気持ちなど何処かに吹き飛ぶ程に女性にとって目の前の光景は驚くべきものだったのです。
しかし、そこは彼女も大妖。瞬時に我に返り、自分がどうするべきかを短時間にて思考します。
これほどの力を持つ者相手に、理由もなく殺し合いをするのは下策。もし勝っても、こちらも深い傷を負うばかりで何のメリットも得られない。
相手の様子を見るに、どうやら相手も自分との殺し合いなど望んでいる様子は無い。先に喧嘩を売るような真似をしたのは他ならぬこちら側、
だったらこちらが折れれば何事もなく進められるか。そう瞬時に判断し、再び少女と接触しようとした大妖怪さんでしたが、そんな彼女の判断はものの
数秒ほどで根元からへし折られることになります。
「――っっっっ!!人を、さっきから、無視するなっ!!!!」
なんせ、寝てるのです。少女は大妖怪さんを少しも視界に入れようとせずに、眠りに眠り続けているのです。
それはもう気持ち良さそうに。本当に本当に気持ち良さそうに。洒落にならないくらい幸せそうに。
そんなあまりに舐め腐った態度に、彼女の冷静な思考なんてポイーです。地べたで寝転がる少女の頭を片手でぐわしと鷲掴み、
嫌でも自分が視界に入るように少女の顔を自分側へと向けさせたのです。
大きな身長差故、少女は完全に宙吊り状態です。それはもう、今から数千年も先の未来に娯楽の一種として生まれるであろう
人形掴み遊戯の人形かというくらい空に浮かんだ状態でした。そんな状態になって、大妖怪さんはハッと自分の行動の拙さに気付きます。
幾ら腹が立ったとはいえ、幾ら舐められ過ぎたからとはいえ、恐らく自分と同等クラスの妖怪の頭を鷲掴みにするなど。どうする、
この少女の頭蓋をこのまま握り潰すべきか、一度投げ捨てて距離を置き、戦闘準備を整えるべきか。迷う大妖怪さんを余所に、
少女は身体の違和感を理由にゆっくりとその瞳を開きます。そして、その視界に大妖怪さんを捕え――
「……空の色が変なのになってる」
「……は?」
少女が取った行動は、思いっきり不思議そうに首を傾げたのでした。
そんな少女の反応に、大妖怪さんは間の抜けた返事を返してしまいます。そんな一瞬の気の緩みを生んだ瞬間でした。
少女が小さな手をそっと大妖怪さんの方へと近づけます。少女の行動に反応が遅れ、大妖怪さんはしまったと思うことしか出来ません。
この少女の目的は、呆けている自分の隙をついて、迷わずこの首を刈り取ることか。訪れるであろう痛みを覚悟し、気を入れ直す
大妖怪さんでしたが、そんなことは当然無意味な行動に終わりました。何故なら少女の取った行動は、ぺたぺたとその小さな手で
大妖怪さんの顔を触ることだけだったのだから。
「……えっと、貴女、何してるの?」
「……あったかい。柔らかい。最近のお空はこんな風になったのね。そして会話も出来る」
「空?いや、貴女の言ってる言葉の意味が全然分からないんだけど……」
「でも、私はこちらの方が好きよ。私が目を覚ますと、いつもお空が藍色に暗く染まってる。
毎日眺める藍色はつまらなくて嫌いだけど…貴女の藍色はとても明るいわね。私、貴女のような藍色の方が好きよ」
訳の分からない言葉を並べ立てる少女に、大妖怪さんは思わず頭を押さえたくなります。彼女には、女の子の言葉の意味が少しも理解できませんでした。
困り果てる大妖怪さんは、どうしたものかと困惑です。他種族より遥かに賢い彼女ですが、流石にこれほどまでに難解な言葉を
初対面で並べたてられても、理解出来る筈もありません。最早、殺す殺さないなど問題ではなく、この意味不明な生き物をどうするかに
彼女は頭を悩ませていました。そんな彼女の困惑をモノともせず、少女は…また、おねむの時間です。眠ろうとする少女に、大妖怪さんは拳を一発頭に叩き込みます。
「……何?」
「何、じゃないわよ。貴女、今、寝ようとしたでしょ?何、そんなに眠い訳?」
「……眠くは無いわ。私、今までずっと眠ってたもの」
「眠くないなら、どうして寝ようとするのよ?」
「……面倒くさいから」
「それは私の相手をするのが面倒だって言ってるの?九尾狐と恐れられているこの私を前にして?」
「違う……空の相手だけじゃなくて全部が面倒くさいの……
身体を動かすのも……口を開くのも……声を出すのも……全部、面倒……億劫……」
「……いや、全部面倒って、貴女どれだけ怠惰な妖怪なのよ?
妖怪なんだから、獲物を狩るときは動いてるんでしょう?それくらいのやる気を常に持ちなさいよ?」
「獲物なんて……狩ってないわ。私、生まれてから一度もこの場所から起き上ったことないし……
あ……今、空に起こされたから、私の初めてはこの瞬間ってことになる……」
「一度も起き上ったことがない?冗談、貴女は妖怪でしょう?それなら今までどうやって命をつないできたというの。
妖怪とは他者を襲い奪わずして生きていけない化物よ。まさか霞を食べてた訳でもないでしょうに」
「霞は食べてないけど……空気は食べてたわ……」
「……は?」
「……空気だけ食べて、生きてた。最近は……一カ月に一度くらいで、空気を食べてる……後は、寝てるわね……」
「空気を食べて生きてきたって……どのくらい?」
「沢山……お空を飛ぶ鳥が小さくなった後くらい……かな?」
「意味が分かんない……何、この娘、もしかして頭の病気か何か?」
「……もう、いい?空は好きだけど、面倒なのは嫌だから……もう、眠る……」
それだけを言い残し、少女はゆっくりと瞳を閉じて再び深い眠りにつきました。
そんな姿に、大妖怪さんは大きな溜息をつくことしか出来ません。一体何処の世界に生殺与奪の権利を相手に文字通り握らせたまま
眠ることが出来る者がいるのでしょうか。それは余程の大物か余程のバカか。
宙吊りになったままの少女を眺めながら、大妖怪さんはこの娘をどうするべきか考えます。
どうやら、この娘は生まれてあまり時間が経っていない様子。だから知識も全然持っていないのだろう。
だけど、この娘は生まれながらにして大妖怪の資質を持つ存在。先程示してみせた力の片鱗がその証拠。このまま殺し喰らい
妖力を奪うのもいいけれど、それよりこの娘には良い使い道がある。この娘、上手く教育出来れば将来自分の大きな力になる。
そう考えた大妖怪さんは、ニヤリと口元を歪めて少女を抱き抱え直します。それは実に悪い悪い笑みでした。
「――この力が在れば、私は誰が相手であろうと勝利する事が出来るわ。
ふふっ、実に良い拾い物をしたわ。良いこと?貴女は私の為に死ぬまで便利な道具として働くのよ、小娘」
本当に悪女のような笑みと台詞を見せ、大妖怪さんは自分の棲み処に少女を連れて帰るのでした。
これが面倒くさがりな女の子と苦労症の大妖怪さんの長い長い付き合いとなる最初の一歩だったのです。
少女を連れ帰り、それから大妖怪さんの少女への教育の日々が始まりました。
状況の変化を理解してるのかしてないのか、よく分からない少女相手に、大妖怪さんは容赦なく教育を押しつけ続けたのです。
その身は私の為に在る。その命は私の為に使われる。
私を敬え、私の為に研鑽しろ。私の為に何かを為すことに喜びを抱け。私の為に何かを失うことを誇りとせよ。
心構えの在り方から、この世界の基礎的な知識、そして妖怪としての力の行使の方法。その全てを大妖怪さんは
少女に惜しみなく与え続けたのです。何も知らぬ少女を相手に一年、十年、百年と教育を続けた大妖怪さん。
その時間が積み重なり、少女との出会いから百二十と六年が過ぎたある日のことでした。そのとき、大妖怪さんはようやく理解したのです。
「……教育、絶対に間違った」
「ラン……私は温かいお茶を所望しているわ……さっさとお茶を持ってきて」
座布団を枕にして、寝転がりながら木の実を齧ってる少女を眺めながら、大妖怪さんは大きな溜息をつきながら後悔の念を零すのでした。
さっさとしろとばかりに座布団を掌でパンパンと叩く少女に、無駄だとは理解しつつも、大妖怪さんは窘める言葉を紡ぎます。
「……ユカリ。私は前にも言ったと思うけれど。
『ご主人様をパシリに使わない』『お茶が呑みたいときは自分で淹れる』『ご主人様を呼び捨てにしない』、約束したわよね?
「『全ての条項はユカリの気分次第で無効』……これが勝利の鍵よ……」
「そんな約束してないわよ!!」
「いいじゃない……どうせ自分もお茶飲むんでしょ……?
だったら可愛い部下の為にお茶の一つでも淹れてあげるのが主の器の見せどころってものじゃない。
言わば私は見せ場を作ってあげてるのよ。感謝されこそすれ、怒られる理由は無いわね……」
「貴女の場合はどうせ面倒くさいだけじゃない」
「否定はしないわ……じゃ、言い直す。面倒だから私にお茶を淹れて……」
「その言い方で一体誰が『よし、淹れてあげよう』ってなると思うのよ……」
「面倒な女ね……大妖怪のくせに本当に器の小さい……だから小鬼如きにボコボコにされるのよ」
「それとこれは関係ないでしょ!?」
「いいからお茶を淹れてよ、負け狐……お茶を淹れてくれたら、愚痴に付き合ってあげるから……」
「うう……」
痛いところを突かれてしまったらしく、大妖怪さん…ランと呼ばれている女性は渋々お茶を二人分淹れ始めます。
この結果が見えていたのか、少女…今はユカリと呼ばれる少女は、当たり前のようにゴロゴロしつづけながら相変わらず
木の実をポリポリと齧り続けています。どうやら二人の上下関係はこの百数年の時間で変にねじ曲がりにねじ曲がってしまったみたいです。
淹れたてのお茶をユカリの下へ運んでくるラン。お茶を受け取ると、ユカリは億劫そうに身体を起こしながら、ランに向けて口を開きます。
「仕方ないわね……約束通り、愚痴は聞いてあげるわ。で、まだこの前小鬼に負けたことが尾を引いてるの……?」
「うう……だ、だって妖獣の中でも最強と謳われるこの私が、生まれて二百年も経たない小鬼如きに負けたのよ!?
こんなの絶対に認められないわ!私があんな小娘如きに……最強と恐れられる私があんなチビ如きに……」
「そのチビに負けたのは事実だわ……今日から胸を張って、世界で二番目に最強の妖怪を名乗るといいわ……これで全て解決よ……」
「嫌よ!?何その格好悪い微妙過ぎる称号は!?」
「この世にはナンバースリーこそ最高だと信じるモグラ妖怪だっていると言うわ……ナンバーツーも悪くないかもしれない」
「嫌!私は一番じゃなきゃ嫌!この世で一番強くて美しくて格好良いのは私なのよ!!」
「だったら一番の称号を取り戻す為に小鬼にリベンジすればいいじゃない……勝てば今日から一番たくましいのよ……お待たせしました凄い奴」
「か、勝てる自信がない……」
「……終了」
そう言い切り、ユカリは再びゴロリと床に寝転がります。
そんなユカリに情けない表情を見せながら、ランは必死に縋り付きながら言い訳を始めます。正直、このご主人様は格好悪い以外の何物でもありません。
「違うのよ!?勝てる自信が無いのには、ちゃんと理由が在るのよ!」
「そう……いいわよ、別に話さなくても。他の人がどう思おうと、私の中では貴女がナンバーワンよ、ラン……」
「そんな思ってもない慰めなんて要らないから話をちゃんと聞いてよ!?
単純な妖力なら、私はあの小鬼なんて遥かに凌駕するのよ!でも、私が勝てない理由はあの小娘の奇怪な能力よ!」
「ああ、あの身体を霧化する……攻撃が当たらずに焦るランは実に無様だったわね……
あの時点で負けを認めていれば本性晒さずに大妖怪としていられたものを……」
「う、うるさいっ!!とにかく、あの霧化さえなければアイツなんか五秒で血祭りなのよ!!」
「ふーん……悲しいわね、現実で勝てないからって仮定の妄想話で勝利するって」
「人を痛い女扱いするの止めて!?」
興味無下げに眠ろうとするユカリの身体を強制的に起こしながら、ランは話を続けます。
まだ話は終わって無いのかと面倒そうに溜息をつくユカリですが、そこからランの瞳の色が変わります。
「そこで、考えたのよ。どうすればあの霧化を防げるのか……あれさえ防げれば私の勝利は揺るがない筈なのよ!」
「そうなの……よしよし、よく頑張って答えを得たわね。
大丈夫よ、ラン。その悲しい妄想も、何万回と繰り返せば、現実になるかもしれないわ……
努力は妖怪を裏切らない……妖怪も努力を決して裏切らない……ほら、妄想を垂れ流し終えたら、さっさと夕食の準備に取り掛かって」
「貴女本当に私がご主人様って自覚あるの!?一体何様のつもりよ!?」
「悔しかったら小鬼くらい片手で捻ってみせなさいよ……負け狐」
「ぐっ……い、言われなくてもそうするわ!
だから話を戻すけれど、あいつの厄介な霧化さえ封じ込めれば私の勝ちは揺るがないのよ!」
「それはさっきも聞いたわ……だったらさっさと封じればいいじゃない」
「ええ。その為に、貴女の力を貸しなさい、ユカリ」
「……何故そこで私の名前が出るのか意味不明だわ。負けがショック過ぎてとうとう頭が壊れたのかしら……」
「本当に失礼な娘ね貴女は!?私じゃ出来ないからこうして貴女の名前を挙げてるのよ!
空間内を限定条件下に縛ることは貴女の得意分野でしょう?貴女の能力なら、空間内の書き換えが容易に行えるでしょう!?
ランの並べ立てる通り、ユカリは対象を問わず在り方を書き換えるという能力に非常に長けていました。
その力のことをランは誰よりも認めているし、ユカリの力を伸ばす努力も惜しみませんでした。ただ、対するユカリの方は
この自身の特殊能力を『面倒さを排除する為の能力』としか認識していない為、扱いも適当なのですが。本当に勿体無いとは日頃のランの言葉です。
ランの提案に、ユカリは一度目を閉じて少し考えるような仕草を見せて、そして一言返します。
「……面倒くさい。パス」
「面倒なんて理由で主人の命令を断るバカが何処にいるのよ!?貴女は私の何!?」
「そんな哲学的な質問を急にされても……それは私にとって生涯をかけて解く必要のある難題ね……」
「考える必要すらないでしょ!?貴女は私の部下だって何度も何度も何度も何度も何度も教えてきたでしょ!?
うううーーー!!!私は大妖怪なのよ!?この地域一帯で最強と恐れられる九尾狐なのよ!?私は偉いのよ!?もー!!もー!!もー!!」
「いい歳した大妖怪が泣かないでよ……これだから番いの一匹も捕まらないんだ、へっぽこ狐め。力もあって家事も出来て器量も良いのにヘタレ女だから駄目なんだ……
仕方ないわね……他の誰でも無いランの頼みだもの。面倒くさいけど、協力してあげるわ……」
「ぐすっ……ホント?」
「ええ……この私が力を貸してあげるんだから、咽び泣いて感謝するといいわ……ほら、遠慮なく私に頭を下げなさい」
「うん……ありがとう、ユカリ」
「よしよし……最初からそうやって素直に出ていればいいのよ……さあ、行くわよ」
ユカリに指示されるがままに、ランはユカリを抱きあげて目的の地まで飛んでいきます。
ただ、今のランは小鬼退治で頭がいっぱいになっていて、最後の最後まで先程の会話で主従関係が逆転していたことに気付くことはありませんでしたが。
飛行すること数十分。開けた草原の地に、目的の人物は寝転がってのんびり昼寝と洒落込んでいました。
そんな姿を見て、ランは余裕ぶってと苛立ち、ユカリは羨ましいなと思い。主従関係でありながら、これほどまでに
考えがバラバラなのは本当に希有なのかもしれません。ユカリがどこまでもマイペース過ぎるだけなのですが。
二人の来訪に気付いたのか、小鬼はニヤリと口元を笑みに歪めて、その場で飛び上がるように一回転して立ち上がります。
首の骨の音を鳴らし、右肩を二回転、三回転と回しながら、地に着地したラン達に向けて言葉を紡ぎます。
「また来たのかい、狐。いやいや、実に良い根性をしているじゃないか。あれだけ見事に負けたくせに、また私に挑むのかい」
「本当……私もそう思うわ。あれだけ見事な負け狐っぷりを晒したくせに、こうして臆面もなく顔を晒せるところには賞賛を贈りたい程……」
「貴女は一体どっちの味方なのよ!?それに私は負けてないもの!!」
「ほう……それじゃ、先日ずっと布団にもぐってメソメソ泣いてたのも負けたことに起因するものではない、と」
「ありゃ、泣かしちゃったか。悪いね、別にそこまで心を折ったつもりはなかったんだけどね」
「ば、ばらすなあああ!!というか、お前も敵にフォローなんか入れるなああ!!!
とにかく、小鬼!ちょっと先日調子の悪い私に勝ったからといって、いい気になるのもそこまでよ!
この地は私の治める領地、お前のような新参の小鬼にいつまでも好き勝手させると思って!?」
「負けたのは認めるのね……」
「あのときは調子が悪かっただけって言ってんでしょ!?」
「吠えるのは私にじゃなくてあっちでしょ……敵は眼前に在りでしょ……」
「そ、そうだった……という訳で小鬼!お前の狼藉も今日でお終いよ!今まで調子に乗ってくれた代価、その命で贖って貰うわ!」
「ふふっ、いいねいいね。その大妖怪の殺気、実に心地いいわ!
確か九尾のランとか言ったっけ。前にお前と戦って以来、私はこの瞬間を待ち侘びていたよ。何故だか分かるかい?」
「ふん……そんなこと考えたくもないわね。何、お前もしかして自殺願望でもあるのかしら?
私と次にお前が相対するときはお前の死ぬときだって前に言った筈だけど?」
「理由は簡単、お前が私のこれまで出会ってきた妖怪の中で一番強いからさ。
お前と殺し合う時間は私の中で何よりも得難き最高の時間だったんだ。お前と拳を交わしてから、幾人もの妖怪達と戦ってみたが……」
そう一度言葉を切って、小鬼さんは軽く草原を蹴りあげます。
軽く……本当に彼女にとっては軽くだったのですが、彼女の蹴りのあまりの威力に草原には大きな大きな穴が抉られてしまいました。
舞踊る砂埃を気にする事も無く、小鬼さんはつまらなさげに息を吐きながら言葉を続けるのです。
「どいつもこいつも駄目駄目だ。全然歯応えというものが感じられないんだよ。
折角山から抜け出して大陸まで足を運んでみたのに、これじゃ何の意味もない。お前以外の連中は本当につまらないんだ」
「……そりゃ、この辺の強い妖怪は全部ランが追いだしたしねえ。
この周辺に残ってる妖怪なんて、ランが相手にするのも億劫で放置してる妖怪暗いでしょ……残念無念お疲れ様」
「ああ、そういうことか……くふふ、やっぱり私はお前じゃないと駄目なんだよ、狐。
お前と三日三晩殺し合った日々は実に満たされていた。刹那の時が死を運ぶ、そんな濃密に圧縮された時間が本当に最高だったんだ」
「戦闘中毒者ね……ま、そんな減らず口を叩けるのも今日までよ。
今日の私は本気も本気、大本気。調子に乗った小鬼を本気で狩りに来たんだから。お前の命もここまでよ――小鬼萃香」
「んんっ、実に良い殺気だ。あまり私を興奮させてくれないでよ。一瞬で決着ではあまりに面白くないだろう――九尾ラン」
相対し恐ろしい程の妖気を放ちあうランと小鬼さん改め萃香。
そんな二人の戦闘意志高揚など、ユカリにはどこ吹く風。あくまで他人事のように、テクテクと二人から距離を取るように離れていきます。
そして、被害の及ばない場所へ寝転がり、二人に対して声をかけます。
「争え……もっと争え……」
「って、何離れて傍観決め込んでるのよ!?今日は貴女も戦う約束でしょうが!?」
「バカか……私が貴女達みたいな戦闘馬鹿達とどうして一緒に踊らなきゃならないのよ……痛いのはゴメンよ……
心配せずとも、例のサポートは約束通り発動させてあげるわ……だから存分に潰し合うと良い……」
「あー……とりあえずお前は前回同様不参加ってことでいいのか?」
「参加はするわ……そこのヘッポコ主人たっての願いだし……
ただ、先に言っておくわ……もし、貴女が間違って私に攻撃をしかけたら……」
「しかけたら?」
「……貴女の身体の構成を弄って一生幼女のまま成長しないように固定にしてやる。
一万年を過ぎても幼女鬼……一部のマニアックな鬼達には大好評ね。将来、どんな素敵な番いを見つけても、そいつはロリコンなのよ……
うふふ……どんなに格好良くても、どんなに誠実でも、どんな偉業を打ち立てても、お前の番いはロリコンなのよ……」
「……お前、部下に一体どんな教育を施してるんだい」
「は、反論出来ない……と、とにかくいくわよ!!ユカリ、さっさとコイツの力を封印なさい!!」
「……してもいいけどランの態度が気に食わないわ。貴女は何様のつもりよ……神様か」
「ご主人様よっ!!って、あああああ!!は、早くお願いします!!封印して下さい早く早く早く!!」
「出来るなら最初からそうしなさい……ふぁぁ」
ランの指示に、ユカリは大あくびをしながら、瞬時に領域内を操作します。
少女が世界に触れた刹那、ランと萃香の周囲を取り巻く気配が一変してしまいます。
その異変に気付き、萃香は驚き目を見開きます。それもその筈、何故なら、彼女が在る世界は先程までとは大きく変わり果ててしまったのですから。
例えるなら海の底。今まで陸上で過ごしていたモノが、突如として海の底に連れてこられたように、身体中が重い空気に纏わりつかれます。
いいえ、これは空気が纏わりついているのではありません。そのことに気付いた萃香はしまったと表情を歪めますが、時既に遅し。
萃香の前で、ランが高笑いをしながら萃香に向けて勝ち誇った笑みを浮かべます。
「どうやら自分が罠にかかったことを今更気付いたようね、この戦闘猪!」
「これは……そうかい、これが今回のお前の切り札か。やるじゃないか、してやられたよ。
まさか大妖怪とあろうものが、あんな小娘の力を借りるとは思ってもいなかった」
「ふふん、負け犬の遠吠えは心地いいわね。あの娘は私の部下よ?それを使って何が悪いの?
まさかこの場で卑怯などと言うつもりかしら?ああ、それはそれで構わないわよ?言えば言うだけ貴女の恥になるわ」
「おー……何と言う悪女。普段はヘタレのくせに、こういう役は似合うのね」
「うっさいそこ!とにかく、これで貴女の厄介な霧化は封じたわ。この空間内では妖気の精密なコントロールすらままならないでしょう?
この重苦しさ、妖気がほとんど失われている脱力感、次々と押し寄せる疲労感……って、ちょっと待ちなさい!?なんで私まで力を奪われてるのよ!?」
萃香の状況がイコール自分であることに気付き、ランは慌ててユカリの方へ視線を送ります。
そんなランに、紫はブイサインを作りながら、淡々と説明をします。本当に淡々と。
「二人の周囲に妖気を完全に抑圧する世界を創り上げたわ……その中ではどんな上級妖怪だろうと、自分の能力なんて発揮出来ない……
我ながら見事過ぎる手際……さあ、この私の仕事を褒めなさい……」
「このおバカ娘っ!!!見事過ぎて私の力まで奪われてるじゃない!?一体誰が私の力まで奪えなんて言ったのよ!?」
「何を訳の分からないことを……私に命じられたのは、そこの小鬼の厄介な能力を封じることだけでしょう……
ランの望みは十二分に果たしてる筈よ……この現状の一体何処に怒られる理由があると言うの……」
「あるわよっ!!私まで妖力を奪われちゃ、小鬼をボッコボコに出来ないじゃない!?いいから私の封印を解きなさいっ!!」
「それ無理……」
「んなっ!?」
「自分で制御するのが面倒だから、結界の制御を二人の意識に連結させた……
結界が解いて欲しければ、ランか小鬼のどちらかが気を失うしかない……」
「ばっ、ばかばかばかばかばかばか!このおバカ娘っ!!貴女はどうしていつもいつもいつもいつもっ!!」
「――長話してるところ悪いんだけど、いいかい?」
「ひっ!?」
涙目で喚き散らすランの肩に、そっと小さな手が載せられます。
恐る恐る振り向くと、そこにはとびっきりの良い笑顔を見せる萃香の姿がありました。怖いくらいに澄んだ笑顔を見せて、
萃香は寝転がって成り行きを適当に見守ってる(眺めてる)ユカリに質問します。
「つまり、だ。お前さんの作った結界内は、妖力が上手くコントロール出来ない訳だ」
「そう……」
「すなわち、この結界内で闘う手段は、純粋な身体能力のみである、と」
「そう……」
「加えて、これを解除するには、私かランのどちらかが気を失うしかない、と」
「そう……」
「そっか……ああ、九尾狐。私は今、心の底から感動しているよ。何故だか分かるかい?」
「さ、さあ……」
クククと楽しそうに笑う萃香に、ランは思いっきり恐怖を感じつつ後ずさりします。
だけど、萃香は一歩、また一歩とランの方へと近づきながら話を続けていきます。ユカリ?ユカリは完全傍観を決め込んでます。
「私はお前を妖術奇術に長け、その狡賢さ狡猾さで他者を葬る妖怪だと思っていたんだ。
そのことに私は否定もしないし、それこそがお前の強さだと認識している。
だけど、どうだい?そんな手前勝手な思い込みが今、こうして呆気なく打ち砕かれてしまってるじゃないか?
一体誰が鬼を前にしてこんな行動に出ると考えられる?下らぬ小細工の全てを捨てて、この鬼である私相手に肉弾戦のみで挑もうだなんて誰が出来る?」
「……ほう。まさかランにそんな勇猛さがあったとはね……これは少しだけ見直さざるを得ないわ……」
「む、無理!!私肉弾戦不得意なのよ!?鬼相手に妖術無しの殴り合いなんて絶対無理!!」
「泣くほど嬉しいの……身体も思いっきり震えて、これが所謂武者震いというヤツね……
ヘタレ狐が大妖怪の顔になったわ……まさに戦人よ……」
「た、助けてユカリ!!お願いだから、本当に無理だからこの結界を早く……あああああっ!?」
ランのヘルプの声もそこまででした。喜びに満ち溢れた萃香の鉄拳がランの頬を掠め、慌ててランは回避行動へと移ります。
右に左に荒れ狂う拳の雨を、必死に避けながら悲鳴をあげ続けるご主人様を、ユカリは寝転がって観戦します。半分眠りながら適当に。
それから三日三晩、萃香の拳を避け続け、疲労の限界の余りランが気を失ってようやく勝負は決着するのでした。その頃ユカリは既に
棲み処に帰って木の実を食べながらダラダラ過ごしていたそうです。
「本当にこのポンコツ娘はっ!ポンコツ娘はっ!ポンコツ娘はっ!」
「訳が分からないわ……ご主人様の命令を忠実に遂行したのに、
褒められるどころか頭を叩かれるこの身の理不尽さ……有り得ない……こんな滅茶苦茶が私のご主人様の訳が無い……」
「ほらほら、ユカリに八つ当たりするんじゃないよ、みっともない」
萃香とランの戦い……もとい、追いかけっこ終結から一夜明け、目を覚ましたユカリを待っていたのは、ランの涙目のお説教でした。
ぽこんぽこんとユカリの頭を叩き続けるランに、隣でお酒を呑みながら萃香はやれやれと肩を竦めて指摘します。そんな姿を横目で見ながら、
ユカリは当然のように疑問を口にします。
「どうして小鬼がここにいるの……何、貴女に負けたランは今日から貴女の下僕になった訳……?」
「なってない!というか負けてない!引き分けよ、今回の勝負はあくまで引き分けなのよ!」
「またみっともない嘘を平然と並べる……どうせ力尽きるまで小鬼から逃げ回ってたんでしょう……?」
「……見てたの?」
「見てないけど分かるわよ……それで、小鬼」
「萃香。私の名前は萃香って言うんだよ。ユカリ」
「……これはあれかしら。自分のことは名前で呼べってことかしら……嫌よ、面倒くさい……小鬼で十分でしょ……
私が名前を呼ぶのはランだけでいいわ……他の連中なんてどうでもいいし……ランだけ傍にいればそれでいい……
どうしても名前で呼ばれたかったら、ランくらい私に興味を持たれるような面白い特徴を持ってみなさい……」
「例えば?」
「大妖怪なのにビビりでヘタレで臆病で泣き虫……笑えるわよね……これでもこの地域一帯を治める破格の妖怪なのよ、コレ」
「アンタって娘は!本当にアンタって娘はあああ!!!ご主人様にコレとか言うなあああ!!!」
「あっはっは!本当にお前達は面白いねえ。
まあ、私はランと友の誓いを交わした仲だ。おいおいでいいから名前くらいは覚えといて欲しいね」
「友達……?ランと……?趣味悪……苦労するわよ、絶対……」
「どういう意味よ!?とにかく、この三日三晩で延々拳と言葉を交わし続けてたら、意外と馬が合うことに気付いてね。
これから萃香は私の友人として何度も遊びに来ることになると思うから、客人としてしっかり持て成すように」
「そう言うことよ、小鬼……分かったら私に茶を出しなさい……あと木の実」
「どうして貴女が持て成されようとしてるのよ!?貴女が用意するのよ貴女が!」
「うるさいわね……私は今、どこぞの誰かさんの無茶ぶりのせいで体内の妖力が枯渇寸前なのよ……
三日三晩世界に干渉し続けるだけの力を一体誰が展開し続けたと思ってるの……それだけ苦労を重ねたのに、肝心の主は勝利を手にして帰ってこないし……」
「う……」
「分かったらさっさとお茶の用意をして……私と小鬼の分を適温で……」
「~~~~!!分かったわよ!私が淹れればいいんでしょ、淹れれば!!」
そう言い放ち、ランは肩を怒らせながら室内から出て行きました。
それを笑って見届けて、萃香は軽く息をついてユカリへと訊ねかけます。
「随分とご主人様を適当にあしらうんだね、お前は」
「これはただの愛情表現だと百年近く言い続けてるのに、ランは少しも理解しようとしない……理解力の悪い主人はこれだから困るわ」
「まあ、ランも満更でもないようだし別にそのことに口を挟むつもりはないけどね。
それよりもユカリ。この前お前が私に示してみせた能力のことなんだけど……」
「説明はしないわよ……面倒くさいから……そしてランに他の奴に自分の力のことは話しちゃ駄目って言われてるし……」
「ランの命令は二番目なんだねえ……そうか、それなら仕方ない。あれだけ化物染みたことを容易にやってのけたんだ。
お前もかなりの大妖怪なんだと思うし、それ故に一度やりあってみたいところなんだけどね……」
「……一生ロリでい続ける覚悟を決めたなら、いつでもかかってきなさい……鬼の中で生涯チビロリ鬼として笑われて生き続けると良いわ……」
「……こう返されると思ったよ。全く、お前はご主人様より性質が悪い妖怪だね」
「ふぁぁ……眠い。疲れたから寝る……」
小さな可愛らしい欠伸を一つして、ユカリは再び眠りへとつきます。あまりの自由自適自分勝手奔放さには流石の萃香も
笑うことしか出来ません。ユカリが眠りについてから少し経ち、お茶を持ってきたランが室内に戻ってきます。
そして、眠りこけるユカリを見て大きな溜息一つ。持ってきた二つのお茶のうち一つを萃香へと渡します。
「どうせこんなことだろうと思ったわよ……よかったわ、ユカリの分のお茶を淹れなくて」
「へえ、よく理解してるんだね、この娘のことを」
「当たり前でしょ。一体何年の付き合いだと思ってるのよ……私のこの百年余りの生は常にこの娘に振り回されっぱなしよ」
「それでもしっかり面倒を見てる辺り、嫌いにはならないんだねえ」
「馬鹿な娘ほど情が移りやすいものよ。この娘、私がいなかったら絶対また空気だけ食べて寝るだけの人生過ごすだろうし……」
「は?」
「何でも無いわ、忘れて頂戴。
とにかくこのグータラめんどくさがり娘は絶対に私が更生させてみせるわ。
そして何時の日かは何処に出しても恥ずかしくない程に立派な大妖怪へと生まれ変わるのよ」
「大妖怪……か。確かにその娘には資質がありそうだね。世界のルールを局地的にでも改竄するっていうのは余程のことでしょ?」
「……萃香、分かってると思うけれどこのことは」
「他言無用、でしょ?分かってるって。それにしても何だい何だい、適当な扱いばかりされてても、しっかり親馬鹿してるじゃない」
「親馬鹿でも何でもないわよ。何なら私の代わりに一週間この娘の面倒を見てみなさいよ。私の気持ちがものの三日で分かるでしょうよ」
「いんにゃ、それは止めとくよ。だって私、既にこの娘から断言されちゃってるしね」
「何て?」
「おんや?この娘の台詞はお前も聞いてる筈だよ?さっきまでの私達の会話を思い出してみなよ」
そう萃香に促され、ランは先程までの会話の内容を思い返します。
散々ユカリから一方的な罵倒を浴びせられただけのような気がしてならないランですが、それらの台詞の中に萃香の言う言葉が見つかりました。
それは、面倒くさそうに語る少女から告げられた本当の気持ち。いつもいつも適当な女の子が言った何よりの本音。
『私が名前を呼ぶのはランだけでいいわ……他の連中なんてどうでもいいし……ランだけ傍にいればそれでいい……』
ユカリの本心に気付いた時、ランはああ、と小さく納得し思わず笑ってしまいます。
いつもいつもいつもいつも小憎たらしいことばかり言うものぐさ娘ですが、どうやらランの気持ちはちゃんとユカリにも伝わっていて。
軽く溜息一つついて、ランはそっと掌をユカリの頭に載せて優しく撫でます。その姿は部下とご主人様というよりは、幼い娘と母親で。
「本当にこの娘はもう……」
「……人が寝てるのに邪魔をするヘタレ狐は死ねばいいと思うわ……」
「本当にこの娘はもうっ!本当にこの娘はもうっ!もおおおおおおお!!!!」
「やれやれ、本当に面白い連中だねえ」
寝ても覚めても騒がしい二人を眺めながら、萃香もまた愉しげに笑みを零すのです。
この後、色々と心が折れてユカリの隣でメソメソしていたランに、少女から再び『うるさい』の追い打ちが掛かったりしたとか何とか。
さて、月日は再び流れましてとある晴れの日。
いつものように棲み処で木の実を齧りながら惰眠を貪っていたユカリですが、ふと違和感を感じて億劫そうに目を覚ましました。
そして、視界に入った光景に小さく首を傾げます。
右を見れば狼妖怪、左を見れば熊妖怪。先程まで眠っていたランの棲み処は何処にも無く、眼前に広がるのは見知らぬ妖怪の群れ群れそのまた群れです。
その光景を眺めてユカリは何が起こったのか思考しようとして……面倒なので止めて寝直すことにしました。
こんな状況でもなお眠ろうとする姿勢は最早大したものだと言えますが、今は状況が状況です。ユカリが目覚めたことに気付いた
狼妖怪さんが、ユカリに対して言葉を紡ぎます。
「目覚めたか、九尾の娘よ。どうだ気分は」
「……寝起きとしては最低ね。獣臭くて最低……ランは一体何をしてるのよ……」
「お前、自分の状況を理解してるのか?」
「……どうせラン達が棲み処から出払ってる間に寝てる私を攫ったんでしょ?
それで私を人質にとって、ランを殺そうって算段かしら……毎回毎回同じ手口で飽きないことで……」
「毎回とは?」
「私がこうして攫われるのは五回目なのよね……ランはそのことを知らないでしょうけれど……
私、面倒なのは嫌いなのよね……一、二、三……六匹も妖怪殺すなんて本当に面倒くさい……」
「成程、つまりお前は攫われる度に九尾の力を借りずに独力で打破してみせた……と」
「そういうこと……だからもういいでしょう?面倒だから、お前達もさっさと死んで……」
そうやって、力を行使しようとしたユカリでしたが、その行動は不発に終わりました。
何故なら、どんなに力を込めても、ユカリの身体からは妖力が少しも発揮出来ません。
不思議に思い、首を傾げるユカリに対し、狼妖怪さんは落ち着いた声で言葉を紡ぎます。
「無駄なことだ。今、お前に掛けられているのは妖しを封じる為の秘術。
ちょっとやそっとの力では、この封印を内側からは決して破れんよ」
「……ランではなく、私の力を警戒する奴なんて初めてね……」
「あの九尾の娘なのだ。これくらい当然の警戒だと思うが」
「……私、別にランの娘でも何でもないけど。まあ、いいわ……今日は力を使うのも面倒だし、お姫様役に徹してあげる……」
「それが賢明だ。何、私達が興味あるのはあくまで九尾の命だ。お前の命などどうでもいい。
九尾の命が潰えた後はどことなり行くが良い」
「ヘタレ狐のくせに、妖怪に恨まれることだけは一人前ね……まあ、いいわ……お前達如きにランが負けるとも思えないし……」
それだけを言い残し、ユカリは再び眠りにつきます。
どうせ目覚めればランが適当に連中を殺し尽してるだろうと考えて。
こっくり、こっくり、こっくり、こっくり。気持ちよく眠り続けていたユカリですが、ふと漂う血の匂いを感じ取ります。
それを感じて、ユカリはランが連中を殺し尽したものと判断して億劫そうに目を覚まします。これだけの面倒に
振り回してくれたんだから、ランには山ほど愚痴を零さなければならないと思いながら。
ゆっくりと瞳を開いていくユカリでしたが、目に映し出された光景に、ユカリにしては珍しい程に表情を固まらせます。
そこに広がっていたのは、少女が想像していた光景とは全く正反対の光景で。
「――ラ、ン?」
ユカリの眼前に広がっていたのは血溜まりで。何処までも紅に染められた大地が在って。
その中心部に、少女が求めていた女性がいたのでした。ただ、その姿は少女の知っている姿とはあまりにかけ離れていて。
「ユカ……リ……」
震えるようなか細い声を紡ぎながら、その女性は必死にユカリに向けて手を伸ばします。
身体中から血を流し、左腕は無残にも千切れ落ち。それでも女性はユカリに向けて手を伸ばし続けるのです。
その女性は誰?――そんなことは考えるまでもありません。こんな場所までユカリを助けにくる人なんて、この世にたった一人しか存在しないから。
どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。混乱するユカリに、傍にいた狼妖怪さんが言葉を紡ぎます。
「ああ、お前は実に役に立ってくれた。心から感謝しているよ。
少しでも私達に刃を向ければ、お前の命を奪うと脅したら、九尾狐は微塵も抵抗しなくなったのだからね」
「……嘘」
「これが虚言ならば、お前の目前で虫の息となっている女は一体誰だ?
しかし、大妖怪と謳われる九尾狐も墜ちたものよ。たった一人の娘の為に命を捨てるか。娘などまた作れば良いものを」
狼妖怪さんの台詞に、ユカリは今度こそ全てを理解しました。ああ、そういうこと。そういうことなのか、と。
少女はつまらなさげに大きな溜息を一つついて、横たわり死に瀕している女性――ランに向けて口を開きます。
「……ラン、貴女、本当に馬鹿なのね。
救えない……こんな下らぬ連中の見え透いた安い手に乗って死ぬなんて、本当に愚か過ぎるわね……本当、無様」
「そうね……自分でもそう思うわ……
どうして最強の大妖怪であるこの私が……こんな連中如きに殺されてやらなきゃいけないのかって思うわ……」
「だったら……」
自分を見捨てて連中を殺せば良かった――そう続けようとしたユカリに、ランは笑って首を振り言葉を続けます。
その笑顔は何処までも優しく、何処までも温かくて。それは少女が――ユカリがこの世で何より好きなランの表情でした。
「でもね……私は後悔なんてしてないわ……
例えこの身が滅びることになっても……死につながる結果になろうとしても……それでも、貴女を捨てる選択なんて考えられない……
そんな少しも望まない選択を保身の為にするなんて……この私の誇りが許さないわ……」
「そのヘタレ妖怪の無駄な誇りが貴女の夢を終わらせるのよ……どうするのよ、世界で一番最強の妖怪になる夢は……」
「そうね……それが夢半ばで終わってしまうことは少しだけ心残りかな……
でも、不幸中の幸いか……私の夢が終わることはないみたいだから……それで十分だと思っているわ……私の夢の続きは……貴女がいるから……」
「……呆れた。私に面倒な夢なんて押しつけないでくれる……?
ただでさえ私は面倒事が嫌いなのよ……最強の妖怪なんて面倒なモノは貴女が目指せばいいのよ。
……本当に最低ね。勝手な都合で人に手を差し伸べて……勝手な都合で温かさを与えて……勝手な都合で夢を押しつけて……そして勝手な都合で去ろうと言うのね……」
「知らなかったの……?私は九尾のラン……何処までも自分勝手な妖怪なのよ……
だから、私は全てを自分勝手に振る舞うわ……ええ、私は全てを自分の望むままに生き続けた……
夢半ばに倒れることも……悪くは無いわ……ユカリという女の子に……貴女というかけがえのない娘に出会えたのだから……」
「気持ち悪い……らしくないことを言うわね……」
「自分でもそう思うわ……でも、本当に悪くないわ……
随分捻くれていたけれど、それでも大切な可愛い娘に見送られる生涯……本当に悪くなかったわ……ありがとうね、ユカリ……」
「……さようなら、『お母様』」
その言葉を最後に、ランが伸ばして続けていた手はそっと血溜まりの中へと落ちていきました。
それはきっと一つの終わり。何かが終わって何かが始まる、長い長い人生の中の一つの出来事に過ぎません。
だけど、それでも思うのです。全てにおいて面倒で無感動で億劫だった女の子が、この光景を見て頬を伝わせる雫。
彼女が見せた涙は、その永き生涯に渡る出来事の中でも、決して失ってはならない大事な大事な出来事だったのだと。
ユカリという女の子が初めて見せた涙は誰が為に。それはきっと愛する母の為だけでは終わらないでしょう。
何故なら彼女は知ってしまったから。大切な人が失われる気持ちが、とてもとても悲しくてつらいということを理解してしまったから。
彼女に沢山のことを与えてくれた、たった一人の掛け替えのない人を失って少女は知ったのです。ああ、これが失うということ。ああ、
これが悲しいということ。ああ、これが寂しいということ。ああ、これが二度と繰り返したくないということ。
ただただ立ちつくす少女に、その光景を眺めていた狼妖怪さんが言葉を紡ぎます。
「さて、これで俺達の目的である九尾の命は取った訳だ。
約束通りお前は解放してやる。後は好きに生きると――」
狼妖怪さんが言葉を紡げたのはそれまででした。何故なら、狼妖怪さんの首から先は既に無く、話す舌すら存在しなかったから。
狼妖怪さんの死と、ユカリの身体から膨れ上がる膨大な妖力。そのどちらに周囲の妖怪達は気付いたのでしょうか。
気付いた時には既に遅く。ユカリに襲いかかる前に一人、また一人と妖怪達の首が消失してゆきます。
それは力の指向性の開花。今まで面倒故におぼろげにだけ使っていた力の本当の意味を、ユカリは妖怪としての目覚めを経て理解したのです。
その力は境界を操る力。妖怪として生まれて初めて抱く殺意と飢えの衝動が、ユカリの殻を突き破らせたのです。
面倒故に全てを忌避し避け続けた少女が、愛する者を失って生まれ変わったのです。
――ここに初めて、後に世界に名を知らしめる程の大妖怪が真実の産声をあげたのでした。
後の歴史は語るまでも有りません。
それは一人の大妖怪の見た夢の光景。
ランを失ったユカリは、妖怪としての自覚に芽生え、面倒さや億劫さを感じる自分を捨てました。
そして、愛する人の残した『最強の妖怪』という夢。この夢を少女は逃げたり投げ出すことなく受け止め、
たった数百年の時を経て実現してみせます。誰も彼もが名を聞けば恐れ震えるほどの大妖怪へとユカリは成ったのです。
歳月を重ね、知性も熟成させ、最早そこには面倒だと全てを投げ捨てていた少女の姿は何処にもいません。
そこにいたのは、凛として幻想郷という密閉された世界を管理する大妖怪の姿。新たに得た式達に指示を出しながら、
世界の行く末を見守る程の女性に成長したユカリ。それが悲しみを経験して成長した少女の姿でした。
もし、ランが生きていたら、そんなユカリを見てどう思うのでしょうか。
もしかしたら笑うのかもしれません。『そんな真面目な姿はユカリには似合わない』と茶化しながら。
もしかしたら泣くのかもしれません。『こんなに立派に成長して』と喜びながら。
その答えは、最早何処を探しても決して見つかることはないでしょう。
何故ならそれはイフの未来。何故ならそれは有り得なかった未来。
そう、ランが立派に成長したユカリを雲の上から見守ることなど決してないのです。
何故ならユカリは――ランの夢見た未来すらも容易にねじ曲げてへし折ってしまうほどに、どうしようもないアホ妖怪だったのですから。
そう、後の歴史は語るまでもありません。面倒くさがりでどうしようもなく怠惰な少女が選ぶ未来など、たった一つしかないのです。
「……ん……私は……」
「……やっと目を覚ましたわね、この駄目狐め」
重い瞼をゆっくりと開き、ランは目の前に広がる光景に言葉を失います。
それは、彼女が二度と会うことの無いと思っていた少女の実に気だるそうな表情。
それは、彼女が最後の別れを告げた筈の、全てを面倒だと蹴り飛ばす少女の顔。
その少女――ユカリを見て、ランは自分がまだ生きていることをゆっくりとですが把握する事が出来ました。
「一体どうして……私は死んだ筈じゃ……」
「ああ、本当なら死んでたところだよ。全く、ランも無茶をする」
「萃香……」
横から聞こえてきた友人の声に、ランは視線をそちらに向けます。
そこには、実に不機嫌そうに腕を組んでいる萃香が居て、今にもランに怒鳴り散らさんという気配に溢れていました。
少しばかり怯えるランに、萃香は怒りを必死に抑えながら、淡々と言葉を紡ぎます。
「人に何の連絡もなく、勝手に死のうとするなんてどういうつもりだい。
しかも下らない三下連中相手に命を差し出すなんて馬鹿にするなと言いたいね」
「萃香……どうして私は生きているの……?」
「そんなの助けたからに決まってるでしょ。感謝しなよ、アンタの愛娘にさ」
そう言って、萃香はユカリへ向け顎でそっと指し示します。
そんな萃香のバトンを受け取ったように、ユカリは面倒そうに実に億劫そうにランへ向かって説明を始めます。
「ランが死ぬ刹那、ランの周囲の世界を全ての世界から完全に隔離したわ……
この世ともあの世とも異なる私だけの世界……そこに魂ごと閉じ込めてやった……」
「な……」
「後は簡単……身体を適当に修復させてから、魂に『まだこの身体は大丈夫』だと誤認させてやればいい……
そうすれば、ランの蘇生の出来上がり……ただそれだけのこと……」
「そ、それが一体どれだけの奇跡か貴女分かってるの!?魂の輪廻を遮断して世界ごと封鎖だなんて……」
「奇跡も魔法もあるんだよ……」
「ないわよ!?そんな滅茶苦茶な奇跡も魔法も聞いたことないわよ!?」
「うるさいわね……その粗末な命を私が助けてあげたのよ……他に言葉があるでしょう……?」
「あ、そ、そうね……ありがとう、貴女のおかげで助かっ……」
「……違う!」
感謝の言葉を述べようとしたランにユカリにしては珍しい程に強い口調で遮って否定します。
言葉を遮られ、驚き反論の声をあげようとしたランですが、彼女がその行動に移ることは出来ませんでした。
――何故なら、ユカリが泣いていたから。ポロポロと、年相応の少女のように、まるで子供のように、泣いていたから。
「……謝ってよ……私をおいて、勝手に死のうとしたことを、謝ってよ……」
「あ……」
「ランが死ぬなんて……そんなの絶対嫌よ……私はランと一緒じゃないと嫌よ……
ばか……ばかばかばかばか……ランのばか……私をおいて死ぬなんて……絶対に許さないわ……」
「ユカリ……ごめんね。そうね……私は本当に自分勝手ね……残される者のことなんて何も考えないで……」
「全くよ……次は絶対に許さないから……ランはいつまでも私の傍にいなきゃ駄目よ……ランが……ランが居ないと……」
「うん……うん……」
「一体誰が私にお茶を淹れると言うのよ……あとご飯の用意も……」
「……って、結局そこに落ち着くの!?雰囲気台無しよ、このポンコツ娘っ!!」
立ち上がり、ユカリの頭を叩こうとしたランだが、その時初めて自分の身体の異変に気付きます。
すっと立ち上がったは良いモノの、何か自分の身体が色々と足りてません。具体的に言うと、身長とか胸とか尻尾とか全然足りてません。
これまでのランは、それはもう絶世の美女と評しても良い程で、スタイルもぼんきゅっぼん、尻尾も九つでふさふさという様相だったのですが、
今のランはユカリと並んで立っても同じくらいのちんちくりん幼女です。幼女ですから胸も全然ありません。加えていうなら、尻尾の数なんて
二本まで減少しています。その変化に気付き、ランはこれ以上ない程の悲鳴を空に轟かせます。
「な、な、な、何よこれえええええええええええ!!!!!?」
「ん?何だい、今更自分の身体の変化に気付いたのかい?」
「私の自慢の胸は!?身長は!?九つの尻尾は!?」
「……蘇生の邪魔だから、全部リセットした」
「な、な、な、何でよ!?」
「……身体を修復する為には、一度その身の全ての妖力を満たしてあげないといけない……
でも、ランは九尾狐……それこそ恐ろしいくらいの妖力がないと満たしてあげられないから……一度子供に戻した……」
「いやいやいやいやいや!!おかしいから!!全部おかしいから!!
妖力を下げたいだけなら尻尾落とすだけでいいでしょう!?なんで私の自慢の身体まで小さく……」
「……私がこんな貧相な身体なのに、ランだけ大人なのは不公平だ、もげろ……と前から思っていたという理由も無きにしもあらずかもしれない」
「絶対そっちがメインの理由でしょ!?こここ、このポンコツ娘!!返せ!私の男共を魅了したプロポーションを返せ!!」
「大妖怪としての妖力よりもそっちを返せって言ってる時点で色々とおかしいと私は思うんだけどねえ……」
「安心して……胸や妖力は無くても、私にお茶とご飯を用意する事は出来る……ランの仕事の九割はカバーできる……」
「私の役割はユカリに奉仕することだけだったの!?うーー!!泣かす!!今日という今日は絶対に泣かす!!」
「いや、さっきランはユカリをしっかり泣かしてるじゃんか……」
わーわーと怒鳴りながら暴れるランを抑えて、萃香は大きな溜息をつきます。
ただでさえ騒がしかったランが、小さくなった為か精神的にも一回り幼くなったように感じられるのは彼女の気のせいでしょうか。
そんなランの気持ちもどこ吹く風。ユカリはやれやれと肩を竦めながら、ランに向かって言葉を紡ぎます。
「ほら……日も落ちてきたしそろそろ棲み処に戻りましょう……
貴女の重要な仕事を果たす時でしょう……ご主人様の為に、しっかり美味しいご飯を作りなさい……」
「ご主人様は私だって言ってるでしょ!?」
「果たしてそうかしら……今の私とランでは、妖力に絶対的な差があるわよ……
尻尾が二本しかないちんちくりんな狐娘をご主人様だなんて呼べないわ……外で人に訊かれたら、変な趣味を持つ妖怪だと勘違いされるかもしれない……」
「うぐっ……よ、妖力なんてすぐに取り戻してあげるわよ!」
「そう……それじゃ、それまでは私が暫定的にご主人様ね……
ほら、さっさとご主人様にご飯を用意しなさい駄狐……今のお前にはそれくらいしか取り柄がないんだから……」
「あるわよ!?他にもっと沢山取り柄くらいあるわよ!?
うぎぎ……お、覚えてなさいよ!?すぐに力を取り戻して主人の座を取り戻してみせるんだから!」
「覚えてて下さい、ユカリ様……はい、もう一度」
「お、覚えてて下さいユカリ様!!うわあああん!!力取り戻したら絶対に再教育してあげるんだからあああ!!」
「……まあ、何だかんだで仲良いし、これはこれでいいのかねえ?」
そんなことを呟きながら、萃香は二人を追うようにしてランの棲み処へと足を進めていきます。
今となっては大妖怪としての影も形も残らない、あまりに不憫極まりない友人の負け惜しみの声を聞きながら。
そして、ランや萃香には聞こえないように、ユカリはくすりと優しく微笑みながらそっと言葉を紡ぐのです。
それは、どこまでも面倒くさがりで怠惰な少女が送る、愛しき人への大切な言葉。
どれだけ面倒でも、どれだけ大変でも、今この瞬間だけは紡ぎたいと願う、大好きなご主人様(はは)へ送るメッセージ。
「……いつまでも、いつまでも傍にいてね。私の愛した明るい藍色(おそら)。
貴女と一緒なら、私はどんな時でも幸せだから……ずっと一緒に、歩いていきましょうね……」
そう告げて、一度言葉を切って。
ユカリは改めて笑顔を作って最後の一言を紡ぐのです。その一言は、少女にとって絶対に譲れない想い。
「――でも、面倒なのは勘弁よ」
その笑顔を、その言葉を。もし、少女の大切な人が見聞きしていたならば、きっと彼女はこう言うでしょうね。
少女に負けないくらい素敵な笑顔を見せて。少女に負けないくらいとびっきりの想いを乗せて。
心をこめて、たった一言――この娘の教育、やっぱり絶対間違った、と。
これは昔々、本当に昔のお話でした。
ですが、物語は終わりません。何故ならこれは昔々のお話で、彼女達の未来はこれから先に続いていったのですから。
では、彼女達の今は一体どうなっているのか。それは恐らく誰もが想像する通りの未来でしょう。
きっと、怠惰な妖怪は大きく成長してもきっと怠惰なままで。
きっと、苦労性で泣き虫な大妖怪は、改めて成長した今も愛する少女に振り回されていて。
彼女達の未来は、きっとそんな何の変わり映えのない日常なのだと思います。何故ならそれが彼女達の望む幸福な日常なのですから。
今日も、明日も、明後日も。
例えどれだけ月日が流れても、きっと二人の絆は何も変わらないのでしょう。
いつものように、少女がこう呟いては温かな風が世界を優しく撫でていくのです。
嗚呼――この世は兎にも角にも面倒(シアワセ)に溢れている、と。
ギャグとシリアスの調和ぶりも良い感じでした。
くらい?
とても素晴らしかったです!!!!
読み終わった後、鳥肌が治まらなかった…
これからも主従関係はかわらないんだろうなあ
二匹の妖怪の不思議でかわいいやり取りに悶え苦しめられました
ってことを再確認しました
おもしろすぎる
藍様可愛い
長文でも』スラスラ読めました
だがそれ故にとても面白かったです。
この後、幻想郷を作り、そこで最高の吸血鬼と出会うんですね、分かります♪
>>空間内の書き換えが容易に行えるでしょう!?
括弧の閉じ忘れ
大変面白かったです。
あの作品の続きも期待しています。勿論「彼女の目指したぽk
こんな切り口から…違和感が無い(笑)
説得力がありました。
連打されるボケとツッコミ、オラわくわくしてきたゾ的精神に則ったバトル、聖なる道化と涙腺への執拗なアタック。
いうなれば、磨き抜かれた強力ブローによる最強のワンパターン。マックノウチ! マックノウチ!
ちょっと失礼な表現かもしれませんが、俺が作者様の作品に抱くイメージはこんな感じ。今回も足にきたぜ。
ユカリ様。この作品に限っては紫より縁が似合いそう。ロリ一号。
体は怠惰で出来ている。アンリミテッドな惰眠を貪るヒュプノスの娘に乾杯。固有結界はなんかグンニョリしてそう。
木の実好きの所が妙にポイント高し。作中で描かれたポリポリと齧る描写に頬が緩む。個人的にはモムモムも捨てがたし。
ラン様。圧倒的なヘタレ臭&小物臭で全身を包み込む実力者。
きれいだろ、これ…死んでるんだぜ。と思いきや逆転大復活、しかもロリボディのおまけつき。
ご都合主義など知らない。圧倒的な正義でロリ二号襲名。
小鬼。
我慢できずにバトっちゃうんだろうなぁ、ユカリ様と。
万年幼女の未来しか思い浮かばないロリ三号に敬礼。
笑いと感動とむせかえる幼女臭。
俺はとても満足だ。作者様に感謝。
>その気になれば一分と立たずに獲物を捕食出来るでしょう →一分と経たずに
>彼女が驚くのも無理無からぬことでしょう →単純に〝無理からぬ〟でもよろしいかと
>興味無下げに眠ろうとするユカリの身体を強制的に起こしながら →興味無さげ
>それは、どこまでも面倒くさがりで怠惰な少女が送る、愛しき人への大切な言葉 →ニュアンス的に〝少女が贈る〟かな?
やっぱハッピーエンドって(・∀・)イイ!!
ダルデレ最高
そこはかとなく小物臭溢れかえるラン様もいい
……かどうかは分かりませんが、2人のラブラブっぷりが最高でした。
流行らないかなぁw
どっちも新しくて良かったです!
いろいろ長々と感想を書きたいところだけど……面倒だから……
その後、ささやかなリベンジのため
橙の教育に燃える藍様であった
(かもしれない)
にしても、にゃおさんの書く翠香はぶれないなぁ…
無粋ではありますが、おぜうの続きも待ってます。
畜生!明日は寝不足だ!100点持っていけぇい!
永夜でゆかりんが出てきた経緯とか、
裏で藍様との壮絶な仕事のおし付け合いや駆引きがあったんだろうな、と妄想するとすごく楽しいw
うまいなあ。うまいなあ。
新しい紫像を作った友人と作者をたたえよう
最後のおそらの部分が大好きです。ありがとうございました。
しかも今度は間違えてることに気づかないとみた
誰の話だろうと読み始めて惹き込まれ、一気に読んでしまいました。
オリジナル過去話なのに違和感なくスッと読めました。
それはひとえにユカリの信念がぶれなかったからな、とw
これから二人が本編の二人になるまでにどのような日々を送るのか想像するととてもほっこりします。
この設定でまた何か書いてくれたら嬉しいです。
要所要所のギャグもいい感じにテンポをとってて飽きさせないあたりに作者様のセンスを感じました。
でもぬ~べ~ネタを分かる人は果たしてどれくらいいたのだろうか?(笑)
とても斬新な視点と、それを不自然とさせない構成、
何よりもとことん救えないダメ人間(妖怪)なのに、それが味として完成されている名作でした。
その発想はありませんでしたwww
ああ、馬鹿な子ほど可愛い……
ここでの更新は止まっているようですが、今は何処かで東方の二次創作を続けているのですか?
ここでの更新は止まっているようですが、今は何処かで東方の二次創作を続けているのですか?
いつかまた、東方で活動していただければ嬉しいです。
とても良い関係です