一
初恋の話は桜下に始まる。
墨染めの桜は青空に舞い、晴天に雪の舞い散るに似たり。
春の朗らかな精妙は、桜花となって冥界を染め上げ、冬の麗しき結晶は、雪の細妙となって顕界を埋め尽くす。
魂魄妖夢は、冥界より顕界を見下ろし、ただ主に仇なす敵を討たんと、八文字の構えにて賊を待ち受けていた。両刀を下段に構える八文字の構えは、眼下の敵と対峙するに不向きであるが、これは体を休め、精神の緊張を解くための構えでもあるから、その効を得んとしてのことである。しかし一度宿敵と相間見えるに至れば、たちまち剣を十字に結び、憑鬼の術を己にかける。この術は眼前に横たえた剣の腹に己が眼を映し見、乾坤一擲、必殺を誓い、死兵となって敵を討つ、魂魄流の秘術である。
才乏しく、性直きにすぐる魂魄妖夢は、祖父である師・魂魄妖忌から、弛みなき自己練磨の心こそ認められたるといえども、それ以上の高い評価を、遂に受けることができなかった。その負い目は、今日までの修練においても、また主・西行寺幽々子と、師同然に教えを請うている武の先輩・八雲藍からの薫陶によっても、覆ることがなかった。
その屈辱と葛藤とのほどは、果たして平生、血の滲むような努力をしたことがないものには、およそ想像の及ばぬものである。そうしてその懊悩のほどは、殆ど生死の未練を越えた、絶対の覚悟を彼女に与えた。血と汗との刻印が、この世界に具現したものを、魂魄妖夢と評するも可である。
なるほど、確かにこのたびの異変は、殆ど主の戯れに過ぎないのかも知れない。
しかし、西行寺幽々子より、春を悉く得て参れとの、無謀な命を受けたときの、魂魄妖夢の喜びは如何ほどであったことか。そうして、今、冥府の結界を破り来たらん敵の強大な力を感ずるに、その歓喜は衝天に至った。
神機到来。
我死地を得たり。
例え、ここで破れ死ぬことがあろうとも、僅かでも己が才を天下に示すことができるのであれば、どうして死を恐れることがあるだろうか。いや、もとより示すほどの才がないことは知っているのだ。だから、私の才能に対する評価は良い。ただ、自己の魂に対する正当な評価が欲しい。この、決して濁ることのない、純白の衷心に対する、主の正当なる評価が欲しいのだ。そうして、格別の功無かりし、この恥ずべき矮小な霊魂に、僅かばかりの慰めを与えてやりたいのだ。
それが、魂魄妖夢の全てであった。
途端の爆音が冥界にこだまする。
賊が結界を打ち破り、侵入して来たのである。
魂魄妖夢は微動だにしない。ただ極限まで集中した眼力で、遥か眼前に見下ろす敵の姿を捉える。するとたちまち、構えを十字に移す。敵は三人。同時に相手をすることはできない。
ならばただ、この身を一匹の羅刹と化し、生を捨てて一人を倒すのみである。
もし天より行幸を賜りて、首級をあげた後に命あらば、主の下に馳せ参じ、残る二人を挟撃せしめ、二首を献上して死ぬのみである。
敵は遥か間合いの外にある。
が、それが何であろうか。
破竹の勢いで駆け下りて、神速の一撃で敵を両断する。
圧倒的な勢力を借りて放つ不可避の斬撃。
これぞ、武の王道である。
それを可能とするのは憑鬼の術。肉体の限界を遥か超え、死の恐れを皆無として後に、はじめて可能になる必殺の一撃は、あらゆる守りを破り、避けることを許さぬのである。
魂魄流剣術、禁じ手の一つ。
その名も「絶命剣」。
筋肉の限界も、関節の可動限界をも超えた一撃を繰り出すため、決して五体無事に帰ることはできない。
が、それが何であろうか。
もはやこの身は、ただ一匹の修羅である。
たちまち半霊は、五つ六つとその数を増やす。そうして紅に蒼にと色を変え、輪郭は次第におぼろになって、目に捉えることができなくなった。そうして、その半霊が、妖夢の体に触れたかと思うと、彼女の体に憑依して、不気味な黒炎が立ち上るのであった。
全ての半霊を見に纏うと、そこにはもはや、一匹の鬼より他には何もいなくなっていた。
凄まじい気魄に呼応するかのように、生臭い風が何処からともなく吹き荒れて、石段の左右に咲き誇る、桜花千本が不気味にざわめく。
瞬間、鬼が駆ける!
猛る気焔は、駆けるその身に陰炎となって舞い上がる!
半人半霊の証左を纏い、化身は敵に躍りかかる!
この猛烈な突撃と凄まじい武威に、三人は度肝を抜かされた。
紅白と白黒の二人は、少なくとも一瞬間、完全に動きを止めた。それを見て取ったが故に、魂魄妖夢はこの二人を仕留めるべき敵ではないと判断した。驚嘆してなおも乱れぬ残りの一人、あの者こそが一番の強敵に違いない。
そして、この間合いにしてこの勢い。
必殺はなった!
そう、確信したとき。
眼前に敵が消えたことを、魂魄妖夢は見たのであった。
そうして、思考の余地なく、彼女は左腕に、強烈な一撃が加えられるのを感じた。
もとより保身を考えていなかった妖夢は、無防備に地面へと突撃した。ただ、石段ではなく、土の上に転げ落ちたために、辛うじて死を免れた。が、右腕と左脚は骨折して骨が飛び出ており、より悪いことに肋骨は折れて肺に刺さっていたため、殆ど瀕死の状態であった。たちまち吐血し、視界が暗転した。その上、全身に酷い傷を負っていた。死は逃れられぬ状況であった。
しかしそれを救う者があった。
何者か?
彼女が必殺の一撃を放ち、切り伏せたはずの女である。
だがその事実を知るまでもなく、魂魄妖夢は無念のままに意識を途絶えさせた。その頬を滑り落ちる一粒の涙は、海人の紅玉にも勝る、衷心の証に他ならなかった。
二
魂魄妖夢が深手を負い、生死を彷徨うこと三日が過ぎた。
彼女の体は、はじめこそ高熱を出して呻き声を上げ、生と死の狭間において、死を免れんと必死の奮闘をしていたのではあるが、次第に体は死に蝕まれ、熱は引き、段々と体は冷たくなって行った。
「あぁ、妖夢……妖夢……」
魂魄妖夢は、誰かが己が名を呼んでいることに気がついた。
「酷いわ。あんまりだわ。あぁ、妖夢。貴方のためを思ってやったことなのに。それが、貴方を死なせてしまうなんて。こんなあんまりなことがあるかしら」
その声は確かに聞き覚えがあった。
魂魄妖夢の主、西行寺幽々子である。
「ねぇ、藍。それに貴方。確か咲夜と言ったかしら。えぇ、何度も名前を聞いてごめんなさい。すっかり気が気でなくって、動転してしまっているの。許してちょうだい。それでね、妖夢を助けてくださった貴方。貴方は人間だから分かるでしょう。確かに妖夢は半分は幽霊ですけどね、半分は人間ですからね。こんなに冷たくなってしまっては、人間は生きていられないのでしょう。きっと妖夢は死んでいるのでしょう? えぇ、そうね。まだ死んではいないわね。でもきっと、死んでしまうのでしょう? ひどい血を吐いていたというではないの。肋骨が折れて内臓に刺さっていたのでしょう? 腕も、脚も、酷い折れ方をしてしまったわ。その上、全身に酷い傷と痣とができてしまっているもの。それでも、熱が出て、呻いているときは、妖夢が生きようと頑張っているのがわかったのだけれども、もう何も言わなくなってしまったわ。きっと神経がすっかり熱で死んでしまったのだわ。それくらい、私も分かってよ。きっと、妖夢は疲れきってしまったのよ。えぇ、妖夢は助からないわ。きっと死んでしまうのよ……」
暗黒に包まれていた魂魄妖夢の意識が、徐々に視覚を取り戻して行った。が、その目に映る光景は奇異なものであった。そこには主がいた。その傍らには、沈痛な面持ちの少女がいた。それはあの、賊の一人であった。何故彼女が主とともにいるのかという疑問が生じるより先に、眼前に臥している己の姿を見つけて、魂魄妖夢は驚愕した。だが、それも一瞬の後には、納得した。つまり、魂魄妖夢は死んだのである。魂となって肉体から離れたのであれば、己を眼下に捉えることに、何らの不思議もないのだから。
(そうか。私は死んだのだな。見ると酷い傷だ。顔面は蒼白だ。死体とそっくりだ。すっかりやられてしまったのだ。賊がどのような手段を用いて、あの一撃を破ったのか、それは分からぬが、とにかく、私は敗北したのだ)
そうして、彼女は心の内で深い溜息をついた。
(なんとこの身の儚く脆いものであることか。そうしてまた、貧弱なものであったことか。お爺様の教えを破り、禁じ手を用いてなおもこの様だ。死ぬことは良い。もとより恐れてはいない。だが、死と引き換えにして、何の功績も残せないとは。あぁ、幽々子様、お爺様、申し訳ございません。お父様、お母様、申し訳ございません。妖夢の才が乏しく、努力が足らぬ故に、後世に汚名を残すことになりました)
そうした暗澹たる自己否定と懺悔とは、しばしば霊魂を地に縛り付けるものだが、あまりにも深い遺恨の念は、かえって速やかに昇天を促すらしい。これ以上はただただ未練だと、彼女の魂は嘆き悲しみ、その場を去って審判の地へと赴かんとした。
そんな魂魄妖夢の沈痛を慰め、彼女の霊魂を振り向かせたのは、主である西行寺幽々子の祈りだった。
「妖夢、私が愚かでした。私は何を失ってでも、貴方を失ってはならないのでした」
望外の言葉に、魂魄妖夢ははじめ、己が耳を疑った。
「貴方のように衷心から仕えてくれる家来がある限り、誰になんと言われようとも、私は一番の果報者で、例え仮にどれほど零落しようとも、悲観することはなかったのです。そうしてどのような境地に陥ろうとも、貴方がいる限り、恐れるものはなかったのです。
そのことに、私はようやく気がつくことができました。でも、それももう、遅すぎたのです。貴方は死んでしまった! あぁ、私達は失ってから気がつくものなのですね。そうして気がついたときにはもう遅すぎるのです。
先ほどまで私は何も恐れる必要がなかった。
でも今ではもう、全てを恐れなくてはならなくなった」
そうして袖で顔を覆い、すすり泣く声が聞こえるのだった。
彼女を取り巻く沈痛は、万人の頬を涙に濡らし、目を背けさせるほどのものであったから、この主従の深い絆にひかれて集まった若く優しい霊魂もまた、深い感動に大粒の涙をこぼしたのであった。
(このように主に思われて死ぬことができるのは、従者としては最高の誉れだ)
それは魂魄妖夢にとって聞き馴染みのある声で、彼女が最も尊敬する人物の一人であって、祖父が旅立った後は、殆ど彼女が師同然として教えを請うている八雲藍のものであった。
(風が……哭いているぜ)
その声の主には聞き覚えがなかった。が、恐らくそこにいる少女のうちの一人の言葉であることは察せられた。そうしてきっと、黒いドレスを着ている少女の言葉であるに違いないと思った。どうしてということもないが、直感的にそう思われたのである。
(この主従の情愛の深さは、天地を震わせ、鬼神も泣かせるほどだわ)
この声もまた、聞き覚えのないものであった。だが不思議と、巫女装束を着た少女の言葉であるように思われた。
これらの言葉は、彼女達の心音であったが、その想いの強さと清らかさのために、魂魄妖夢の魂にまで届いたのであった。そうして、これらの言葉のために、彼女の霊は非常に慰められた。というのも、これで彼女の望んだとおり、彼女は自己の魂に対する正当な評価を受けることができたのであるし、しかも彼女の忠誠が主の評価を高めることにもつながっており、主に貢献することができたからである。
そのため、何らの未練も彼女には残らなかった。このまま、天へと昇る準備がすっかり整ったのである。霊魂への最大の手向けは、賞賛より他にないものである。
すっかり魂魄妖夢が穏やかな気持ちになって少女たちに感謝していると、魂魄妖夢は昇天の翼が背に開くのを感じた。既に述べたとおり、彼女の心には微塵も悔いがなかったので、非常に満足して逝くことができたのである。
しかしそのとき、ある一人の少女が次のような言葉を胸のうちに浮かべたのであった。
(これほどまでに主に必要とされて死ぬことは、従者として許されないことです)
その言葉は、魂魄妖夢の一番近くで、純真の涙を目尻に浮かべながら、真剣にまた慈愛に満ちた様子で彼女を見守っている女性のものであった。
彼女の名前は、十六夜咲夜である。そうして、諸君らは、彼女が魂魄妖夢の標的になった人物であり、魂魄妖夢を打ち倒した人物であることを既に察していることであろう。また、この言葉が彼女の心中に浮かんだことも、必然であると了解されることであろう。
何故なら彼女もまた、主に仕える者だからである。
同じ境遇にあるものの、偽り無くまた強く念じられた言葉は、必ず人の心を打つものである。
(貴方は生きてなさねばならぬことがあるのですよ)
十六夜咲夜が胸中深く呟いたこの言葉は、魂魄妖夢の心気をして洞越たらしめた。
そして、魂魄妖夢はハッと雷鳴に打たれた如く、昔、祖父より聞かされた口伝を思い出したのである。
祖父はかつて、妖夢にこう説いて聞かせた。
「人は死ぬべきときに生き、生きるべきときに死なねばならぬものだ」
今までこの口伝の意味を理解しなかった妖夢であるが、このとき、卒然とこの言葉の意味を了解したのであった。
(私は命を捨てて忠義の心を全うしようとしていたが、それは死ぬべきときにあって、ただ命を捨てようと考えたに過ぎない。むしろそのようなときには、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、他日の再興を期し、己の不徳を深く天下に恥じてなおも、激情を堪え、精進を積み重ね、何としても生き延び、汚名を晴らさねばならないのではなかろうか。いや、きっとそうだ。お爺様の口伝は、そういうことを私に伝えんとして行われたのだ。
死ぬことは易い。如何にも易い。むしろ、生きることのなんと難いことか。
あぁ、私は愚かであった。
これより先、誰が幽々子様をお守りするのか。
お爺様が帰って来てくださると言うのか。
なるほど、そうかも知れない。が、お爺様は既にご高齢であらせられる。今になって思えば、お爺様の深慮は明らかではないか。私の才乏しきを知り、敢えて早くに独り立ちをさせ、百倍する努力で才能の不足を補わせようとお考えになったに違いないのだ。そうしてそれは、お爺様の死後を慮ってのことであったにも違いない。だからこそ、お爺様は死ぬべきときに生きろと口伝を授けられたのだ。だから秘術「憑鬼の術」を私に禁じられ、「絶命剣」を禁じ手の中に加えられたのだ。
あぁ、私は本当に愚か者だ。
もう既に、私は死んでしまった。
何もかもが、遅すぎたのだ。
もう幽々子様をお守りすることはできない……)
肉体は涙を流すが、魂もまた涙を流すものである。
肉体が溢す涙は、友と家族とによって慰安される。
そうして魂の流す涙は、天によって祝福される。
昇天の翼を開き、光明を纏い、顔を落とし、涙に濡れる一人の少女に微笑みかける者があった。
それは何者であろうか?
吾人はその正体を知らない。
が、それが女神であったことは事実である。
そうして、この女神は、彼女の額に祝福の口付けをした。
魂魄妖夢は、何か温かいものが額に触れたことに気がつくや否や、視界が暗転したことに驚いた。しかしその驚きが実感を伴うよりも先に、全ての感覚がすっかりぼやけてしまって何も感じられなくなった。ただ僅かに視界が開けるのを感じた。その先に先ほどの女神を見ると、すっかり心が穏やかになるのを覚えた。そうして、その直後に、「妖夢!」と叫ぶ声が聞こえた。それは主の声であった。それに微笑で応えた後は、すぐに意識が無くなってしまった。
三
魂魄妖夢が意識を取り戻すのには、それからさらに十日必要であった。
その間、彼女は眠ったきりで、全く目を覚まさなかったのである。
そうしてようやく目を覚ますと、はじめは夢と現との区別ができないほどに意識は霞がかっていた。が、次第に意識が明瞭になっていくにつれて、魂魄妖夢は傍らに彼女を見守る主の姿があることに気がつき、驚いた。
主は、座りながら眠っていた。
日はようやく明けたばかりのようで、うっすらと暁の光りが部屋の中に差し込んでいた。その光りを背に受けて、こくり、こくりと穏やかな表情で眠っている西行寺幽々子の姿を見ているうちに、どこか懐かしい心地になって、魂魄妖夢は、主のその姿をずっと見ていたいような気持ちになった。そのとき彼女の心は、かつてないほどに穏やかで澄み切っていたため、これは現実ではないに違いないと思ったのである。
さて、この広い世界には死に瀕して魂の記憶を持ち帰り、克明に語る人があるが、殆どの場合は生に帰らんとする深い眠りの中で、臨死の記憶は失われるものである。が、それは記憶を全く喪失したわけではなく、心の深いところに刻み込まれ、無意識に人生の糧となっているのである。
魂魄妖夢は、魂の記憶を持ち帰ることはできかった。だが、その霊魂が体験した先ほどの事柄は、明瞭な記憶としては残らなかったものの、彼女の心中の深いところで、永遠の痕跡を残したのである。
魂魄妖夢は、そのまましばらく見呆けていた。が、次第にこれが現実であることに気がつくにつれ、
(あぁ、先ずは幽々子様に謝らねばならない)
と思いはじめるのであった。
前述した通り彼女の記憶は全く曖昧だったが、直感的に自らが敗北したことと、その役目を果たせなかったことは了解せられたのである。
そうして声を発しようとすると、胸の辺りが酷く痛んだ。そのため、思わず苦悶の声が漏れてしまい、それが主の目を覚まさせたのであった。
「まぁ! 妖夢が生き返った!」
主はすぐさま彼女の傍に寄り添い、非常に穏やかで歓喜の溢れた優美な笑顔で諭すようにして言った。
「無理をしてはいけないわ」
そうして優しくその体を抱擁してやり、しばらくは他に何も話さなかった。
妖夢はまさか主がこのように彼女を労わってくれるなどとは、まるで想定しなかったことであるし、さらには望外の幸福であったから、彼女はすっかり驚いた。だが、あらゆる論理的思考を凌駕する絶対の幸福を前にして、人は従順になるより他にはないものである。魂魄妖夢も、その自然の法則に従うのみであった。
そうして幸福の導に従い、穏やかに安息を楽しむことにした彼女の判断は非常に賢明なものであった。というのは、実際のところ、一命を取り留めたといっても、彼女は二箇所の複雑骨折と肋骨を折って肺を傷つけていたのであるし、高熱が続いたために神経が酷く乱れていたのであるし、その他様々な注意すべき事柄があったので、絶対の安静が必要であったからである。
そうして、妖夢を床に寝かし付けた後、西行寺幽々子は一切の事情を説明し、深々と自らの不徳を詫びたのであった。
「全ては、私の不徳のなすところです。妖夢には、大変な苦労をかけました。どうか、許してちょうだい」
主のその言葉を聞くや否や、魂魄妖夢はどっと涙が堪えきれなくなった。その目つきは非常に厳しいものであって、平生彼女を知るものには、ほとんど想像できないほどであった。
そうして、決然としてこう言ったのであった。
「貴方に罪があるとすれば、それはすべてこの魂魄妖夢の罪です!」
忠義の士として知られる魂魄家の当代師範、魂魄妖夢の面目躍如である。
「例え私は腹を切ったとしても、幽々子様の命に服する身であらば、決して他者に頭を垂れることはありません。また、幽々子様の命であれば、私はいつでも、潔くこの命を差し出します。それもすべて、幽々子様に、このような不名誉な真似をさせることがないようにです。どうか、その気持ちを分かってください。あろうことか、私に頭を下げるなど……妖夢の忠義を、無碍になさる行いです」
この言葉は真なる武士の心意気であったから、強く西行寺幽々子の心を揺れ動かした。
しかしながら、西行寺家の当主として、彼女にも面目一新の覚悟があった。
「妖夢、貴方の言葉は、真に忠義の誉れです。しかし、私にも考えがあるのです。決して、貴方の心意気を無碍にしたのではありません。
私は主として不完全です。ですから、その不完全さに、向き合って生きて行かねばならないのです。しかし、現実として、西行寺家の主である私は、やはりその威厳を保たねばなりません。ですから、対外的には、どうしても失敗が許されません。
だから、妖夢。貴方にだけは、私の過ちを認めさせてちょうだい。ただ一人、絶対の信頼を置いている貴方にだけは、謝らせてちょうだい。そうして、もっとも心の奥深いところで、私を支えて欲しいの。ダメかしら、妖夢? これは、貴方にしかできないことなの」
慎ましくまた穏やかな物言いにして振る舞いが、時には一番人を感動させ、時には畏怖を覚えさせるものである。誠実さを国家戦略の最高位においた人物は、歴史上少なくない。それに通じるものがあろう。もはや魂魄妖夢には、ただ主の言葉に従い、最大の栄誉を受け取るより他に考えを及ぼすことができなくなっていた。
魂魄妖夢が意識を失っている間に、あらゆることが進んでおり、あらゆる誤解は解けており、全てのものが、あるべきところに収まっていたのだった。その結果として、ほとんど現実は、魂魄妖夢の予想がつかないところに行き着いていたのであった。しかしその現実は、必然的に収まるべき、しかも最高の状況であったから、魂魄妖夢は、ただただ、事実を受け入れたのであった。
簡単に、これまでの事態の変化を述べれば、西行寺幽々子は己の軽薄を恥じ、同時に妖夢の忠誠がどれほど真面目で大切なものであるかを知り、その思いを受け取るに相応しい主振りを発揮したのであった。そうして妖夢も、無意識に多大なる成長を遂げていたのであった。
このような簡単な説明では、充分に事態の推移を了解し得ないと、諸君らは首をかしげるかも知れない。しかし、しばし吾人にこの従者たちへの愛を語る猶予を与えて欲しい。吾人は後に、詳細に事態の経緯を語るつもりだから。
また、ここで西行寺幽々子の軽慮浅謀に対して、多少の弁明を行うことを許して欲しい。それは確かに、正当なことであるから。
或いは諸君らも了解し得ないことであるのかも知れないが、若く生真面目で、一途な心というものは、その純真を経験したことのないものには、全く想像し得ないほどに情熱的で献身的なものなのである。それ故、魂魄妖夢の忠誠心の強さを、西行寺幽々子が完全に理解できていなかったとしても、彼女を責めることはできないのである。
また、主として、厚き忠誠を抱く従者に勝る財産がないということを、充分に理解することができていなかったとしても、それもまた責めることはできないものである。何故なら我々は不完全な存在であるから。故に、失ってはじめて気がつくものだから。
しかし、全てはそこからはじまるのである。西行寺幽々子は深く悔いたのである。そうして主としての道を確かにしたのである。それで我々は、充分満足すべきであろう。言葉として学んだことも、実体験として経験しなくては、本当の知識として身につかないものなのである。
そうして魂魄妖夢としても、彼女が意識を失っていた間、常に主は傍らにあったのである。そうして、主は立派な人物として、大きく成長していたのである。それでもう充分であった。
魂魄妖夢はもう、己の命を捨てることはできなくなってしまったし、西行寺幽々子としても、そのような命を出すことはし得なくなった。それは武士道・帝王学を極めるためには退歩にあたるかもしれない。だが、吾人はむしろその退歩を喜ぶ者である。何故なら純白の花が散るのは悲しいことであるから。そうして、美しく咲く花を見ることは何よりも幸せなことであるから。
その後、この二人の従者がどれほど打ち解け合って幸福に語り合っていたのかを記すことを、吾人にはできかねることを、諸君らには了承していただきたい。あまりにも尊く神聖な地上の楽園を垣間見ることは、ただ天上におわする神にのみ許されることであって、しかもその権利を、神はただ一握りの天使と女神とに授けられているのであるから、吾人もその神の深慮に倣って、神聖すぎる間柄には立ち入らないことと決めているからである。
それが白塔のように何色にも染まらぬ純白なる想いに対する最大限の敬意であることを、諸君らが了解されたことを、吾人はここで深く感謝する。
さて、そうしてしばし、白百合は楽園で語らった。その談笑の中でふと、魂魄妖夢は、日頃の習慣に端を発する、次のような然るべき疑問を感じたのであった。
「ところで、幽々子様の身の回りのことは誰がしたのでしょうか?」
西行寺幽々子は、平生身の回りのことを、妖夢以外の者にさせることを非常に嫌がっていたので、この疑問はいっそう自然なものであった。
西行寺幽々子のこのこだわりは、非常に簡単な理由によるものであったが、それ故に強いこだわりとなっており、冥界の者の間では有名なことであった。ただ八雲藍のように、お互いに見知った間柄で、しかも非常に洗練されて有能な人物であれば、西行寺幽々子も妖夢の代わりとするのに不満はないのであったが、それが非常に稀有な存在であることは諸君らにも了解されよう。それで西行寺幽々子のこだわりとは何かと言うと、ただ大好きな妖夢に身の回りのお世話をして欲しいというそれだけのことなのであった。
しかし西行寺幽々子は、このようなこだわりを持っていることを、決して妖夢に伝えようとはしなかった。何故なら、それが帝王学の教えだったから。実際のところ、二人の間を裂いていたものは、ただそれだけのことであって、何かといえば、西行寺幽々子は主らしくあろうとし過ぎたし、魂魄妖夢は家臣らしくあろうとし過ぎたのであった。だがそのあろうとした姿というものが、あまりにも模範的な姿であり過ぎたし、模範的な人物になろうとするには、あまりにも二人の生来の個性は、情緒的に過ぎたがために失敗したのであった。
この二人の個性が情緒的であることを示すのに、彼女たちがしばしば見ることのあった、不思議に同一の夢の中身を、ここで暴くに如くはあるまい。
ふたりはしばしば次のような夢を見たのであった。
その夢は決まって、場所は清らかな湖の畔で、その湖はかつて妖夢が幼い頃に、二人で妖忌の目を盗んで遊びに行った泉であり、醴泉(れいせん)という名の付けられた非常に強い霊力の宿る地であり、豊かな出水が枯れることなく湧き出ているために、湖となっているという場所であった。そうしてそのような有難い地であったために、霊界と現世との境界が曖昧になりやすい場所であって、また幻想郷との境界も曖昧な場所でもあって、その上現実世界とこの醴泉との境界も曖昧になっているという、真の秘境であるのだった。そこで二人穏やかに、しかし特別言葉を交わらすこともなく、不思議に意を通じ合わせて風のざわめきと湖畔のせせらぎに耳を傾かせている光景から、その夢ははじまるのが常であった。
そうしてしばらくすると、ふと西行寺幽々子が、
「貴方は、私の特別な従者ですよ」
と言って、優しく魂魄妖夢に語りかけるのであった。
そうして、魂魄妖夢は、
「貴方のために、死ぬことは恐ろしくありません」
と毅然として答えるのであった。
その答えを聞くと、西行寺幽々子はよよよとその場に崩れ落ち、
「あぁ! なんて恐ろしい!」
と言って、袖で顔を覆い隠し、沈痛な声で泣くのであった。
そうして、ひとしきり泣いた後、妖夢の手を取り、真っ直ぐに目を見詰め合って、
「決して、そんなことは言わないでちょうだい」
と涙ながらに懇願し、その後は二人、かたく抱擁して涙を流し合うのであった。
そうしてこのような夢を見た後は、二人とも小首を傾げて、「これは彼女の方が私を思ってくださったからなのだろうか? それとも私の思いからなのだろうか?」と考え込むのであった。結論はいつも同じで、「いや、私の未練だろう。きっと、私は彼女からは好かれていないから。」となるのであった。
さて、魂魄妖夢の「ところで、幽々子様の身の回りのことは誰がしたのでしょうか?」という問いに対して、西行寺幽々子はどのように答えたのだろうか。
それは次の通りである。
「えぇ、それはすっかり、瀟洒なメイドさんがしてくれましたよ」
その瀟洒なメイドさんは、そのとき、丁度食事を作って持って来たところであった。
「まぁ、良かった! 貴方、目を覚ましたのね」
そうして、魂魄妖夢の方を見て、にっこりと微笑みかけてこう問いかけた。
「貴方、少しは何か食べられそうかしら?」
魂魄妖夢は、ぼうっとしてしまって、うまく言葉が出てこなかった。そうしてなんとなく、はいと答えたように思われた。
さて、諸君。諸君らは一目惚れということがあるということを、果たして了解するであろうか。このようなほとんど説明不能な事柄を、語るということは非常に難しいことである。というのは、諸君らは尤もな理由を求めるから。しかし次の説明によって、諸君らが一目惚れのあることを了解され、魂魄妖夢が思わずときめいてしまったのも仕方のないことだと了承されることを期待している。
というのも、彼女(十六夜咲夜)は、素晴らしく整った顔立ちをしており、また機才に溢れた目の麗しい美人であったし、その立ち振る舞いの一つ一つから、上品で洗練された女性特有の気品を感じさせる人であったから。さらには、最も魔性と神性とを併せ持った、絶妙な年頃の女性であったし、大きな瞳が不思議な小悪魔性を感じさせるため、恐るべきギャップから来る天性の魅了の魔術(いや呪いと言うべきかも知れない)を会得している事実もまた、吾人はあわせて申し上げねばならない。
果たしてこのような女性に微笑まれて恋に落ちないことがあろうか!
魂魄妖夢は不幸である。
何故か?
それは不可避の一撃だったから。
しかし彼女は仕合せだった。
何故か?
それは最も麗しい女性に対する恋だったから。
その上、あぁ!
これは語るにも憚られることであるから、諸君らは威儀を正して傾聴して頂きたい。
魂魄妖夢は、十六夜咲夜に食事をさせてもらったのである。
このときの食事は、片栗粉をお湯で溶かしたものであって、古くから流動食として病中の患者に食されているものであり、ほのかに甘みがあるものである。で、その流動食を魂魄妖夢が食べている間中、十六夜咲夜は、胸と腕とで優しく抱き支えて上げてやっていたのである。
吾人はよく彼女が心臓を破裂させずに生き延びることができたものだと賞賛してやりたい。迅雷の凄まじい一撃は、かえって直撃を疑わしめるものらしい。その無感知が、ショック死を免れさせた理由であろう。
その上妖夢にとっては初めての恋であったから、彼女が自分の感情に気がつかないのも仕方のないことだったのかも知れない。さらに言えば、妖夢は鍛錬より他に何も知らないような人間であったから、情事に疎く、その上相手が同性であったから、なおさらそのようなことは、考えも及ばないことであったのである。
そのため魂魄妖夢は、妙にドキドキするなぁっと思ったが、あまりよく知らない相手に抱擁されて緊張しているのだと考え納得したのであった。そうして、緊張はするものの、不快なことはなく、むしろどこか心が弾んで嬉しい気持ちがするので、強いて断る必要もないと考えたのである。また、そもそも相手をあまりよく知らないのはこちらだけで、相手はずっと自分を看病してくれていたのだから、今更こちらが遠慮をするのも可笑しな話であるという結論に至り、言われるがままに看病されたのであった。
そうしてその間、妖夢が思ったことといえば、
(オレンジの良い香りのする香水だなぁ。なんだろう? この匂いは、不思議と覚えがあるように思えるなぁ)
とか、
(この人のことを、どこかで見た記憶があるぞ。あぁ、それもそうか。一度戦ってるのだもの。でも、こんな間近で見たことってあったかな? 何でだろう? 以前にも一度、こんな近くで、この人のことを見たことがあるような気がする)
といったことであった。
そうして何だか妙な既視感を彼女が覚えるのは不思議なことではない。というのも、彼女が楽園からの祝福を受けるのは、何もこれがはじめてのことではないのだから。
四
魂魄妖夢の人生は、この異変を境にしてすっかり変わってしまった。
それまでは、まるで霧中を行くような、先の見えない・報われない、修練の無間地獄であったのだが、途端に居場所は定まって、ただ充実した日常を楽しめばそれでよい毎日になったのである。
それもただ、西行寺幽々子が西行寺幽々子らしくあり、魂魄妖夢が魂魄妖夢らしくあり、そうしてお互いに自然な状態で接することにしただけなのであった。
どうして今まで、妖夢は苦しまねばならなかったのだろうか。
それはひとえに、勘違いの故にである。あるいはすれ違いである。そうして、それらのものが、お互いに分を守り、あるべき姿であろうとしたというその一事によってもたらされたのであることは、吾人が既に述べたところである。そうしてまた、吾人が事の顛末をより詳しく述べる必要があることを認めたことを、諸君らは覚えていることと思う。
しかるにここで、吾人は果たしてどれほどこの主従が苦しんだのかということと、またどうして西行寺幽々子が異変を起こすに至ったのかということについて述べたいと思う。
さて、この二人の間に生じた勘違いやすれ違いは、生まれ持って定められた身分の違いと、そこから生じる義務によって生み出されたのであった。諸君らが知っている通り、西行寺幽々子は冥界にて確固たる地位を有する名家・西行寺の当主である。また、魂魄妖夢は西行寺家に長く仕えて功績の多い忠臣・魂魄妖忌の孫娘であり、祖父の後を継いで西行寺家を守護する使命を、幼くして与えられた者である。というのも、魂魄妖夢の両親は、西行寺家の名代として、魂魄妖忌ともども冥界にて生じたある争いを治めるべく赴き、戦場の華と散ったからである。
この一事が幽々子と妖忌の、妖夢に対する憐憫と情愛とを深めることになった反面、どこか彼女に対して負い目を感じる理由にもなった。その負い目を、妖夢に対する甘えとすることが許されない立場にあったところに、三人の悲劇はあるのだった。幽々子は妖夢に対して冷淡に接することで、主として毅然とした態度を示さねばならないと考え、また妖忌は厳格に修練を与えることで、師として武人の本道を行かせてやらねばならないと考えたのである。そうしてこの二人の深慮は、その背後に、海よりも深く・山よりも高い、真の愛情があってのことである。主と師との、それは等しく姉と祖父との、何と不器用な優しさであろうか。
だがその不器用な優しさは、魂魄妖夢には伝わらなかった。もとより、その優しさが甘えとならないように、二人は強いて厳しくしていたのであるから、それも当然の話なのであるが、この非常な冷厳が、どこまでも直い若武者の魂に如何なる影響を与えたであろうかは、想像に難くない。また、どのように彼女の目からは、二人の姿が映ったであろうかを考えると、吾人は胸が押しつぶされるような心地がする。あぁ、もし彼女に、僅かでも不遜なところがあったり、或いは横着なところがあれば、ここまで思いつめることはなかったに違いないのであるが、純真潔白、微塵にも濁りなき稀有な魂を持つ若人である魂魄妖夢は、どこまでも自己を責めることしか知らなかったのである。
彼女はただただ己の不才を恥じて、一心に切磋琢磨した。彼女は常に、彼女が想い得る最高の理想と格闘した。僅か一片でも、その理想より欠けたところが己にあれば、自らを認めることができなかったのである。そうして彼女が画き続けた理想というのは、およそ彼女が生涯を賭してようやく到達し得るところの存在であって、即ち師である祖父・魂魄妖忌の後姿に他ならなかったのである。
故に、魂魄妖夢は幼少のみぎりより、ただただ一途に、祖父に認められたいと願って努力をして来た。祖父のほうでも、その努力は認めていたが、非才なる彼女は、褒めて伸ばすよりは叩いて伸ばすべき器であると考え、更なる修練を与えたのであった。
もっとも、妖夢の才能に関しては、妖忌が過小評価していた可能性も高い。というのは、そもそも妖忌が知る才能というのは、己と息子と、同門の兄弟のみであって、それらが皆、稀有な才能を有した剣士たちであったからである。
そうして、孫娘の才能の限界と、自己の死期を悟った祖父は、熟考の末、二人をおいて旅立つことを決意した。これは、妖夢を早く一人立ちさせることで、孫娘の更なる奮起と、才能の開花とを期待してのことであった。このような荒療治に出たことは、あるいは意外に思われるかも知れないが、魂魄妖忌が生涯に知る人物は、どれも傑物ばかりであって、それらの存在が持つ可能性に立脚しての決断であったことを了解されたい。むしろ妖忌の頭にあったのは、一念発起して、見違えるように成長する英傑の姿なのであった。
そうして、後に残されたのは、半人前の妖夢と、その主である西行寺幽々子であった。
もともと西行寺幽々子は、全く穏和な性格の人で、毎日をただただ鳥や蝶を追い、歌を詠み、花草を摘み、舞を踊るためだけに費やしたいと切に願っているような女性であった。そうして自分より幼い人を見れば、全て弟か妹のようにかわいく見えて仕方がなかったし、暇ができれば、ただただお菓子とご飯のことを考えているような人であった。そのため、甚だ主人としては貫禄が不足しており、それを妖忌に毎日叱責されていたものである。
そのような女性であったから、妖夢がまだ幼い頃は、二人は殆ど姉妹同然に付き合っていたものである。そうして、妖夢の父母が他界した後も、祖父の厳しい修練に必死になってついていこうとする妖夢の健気さに胸打たれ、折を見ては菓子を与えて、労ってやる姿がしばしば見られた。
妖忌ははじめ、幽々子が妖夢に甘いことを、仕方の無いことだと黙認していた。そこに、少なからぬ孫娘への憐憫と、姉代わりとなってくれる主に対する感謝の情とがあったことを述べるのは、決して意味の無いことではあるまい。だが、負わねばならぬ宿命というものが、魂魄の家にはあったのである。またそれは、幽々子とて同様である。祖父・妖忌は心を鬼にして、妖夢を叱った。それを知った幽々子は、己の甘さが妖夢を苦しめたことを知り、その後は努めて、妖夢に対し、厳しい態度を取るようになった。そうしてその厳しさと、その厳しさに応えるべく努力する妖夢の尽力が無駄にならないように、妖夢の主として、相応しい主ぶりを示そうと努力したのであった。
そうしてまた、妖夢のほうでも、その主の厳しさに応えようとして、さらなる努力をしたのであった。さらにその妖夢の直向さに応えるために、幽々子も努力をしたのであった。主が努めて妖夢に厳しくすればするほど、妖夢は主の厳しさに応えようとして修練に励み、その頑張りに応えるべく、主は心を鬼にして、魂魄妖夢に冷厳として接したのである。
このすれ違った努力の行く末にあるのが、魂魄妖夢の決死の覚悟であり、彼女の悲劇であり、そうして今回の異変なのであった。
五
諸君らは西行寺幽々子と魂魄妖夢との間には長く隔たりがあったことと、その溝は思わぬ不幸によって生じたものであり、その溝はお互いを思いやる気持ちの強さと人生に対する真摯さとが人一倍であったがために非常な深さとなったことを了解されたと思う。
しかしながら、なおも諸君らが感じるであろう次の疑問に吾人は答えていないから、その求めに応じようと思う。つまり、西行寺幽々子はどうして今回の異変を引き起こすことになったのかという、その経緯である。そうして、この経緯を説明することで、一見解きほぐすことが不可能に思えるほど幾重にも結び目を重ねた縄が、実のところ簡単に解けてしまうような、そんな行き違いが、妖夢と幽々子とにあったことを、諸君らは了解されるはずである。
これは西行寺幽々子が異変を起こし始める二月前のことである。
彼女はマヨヒガへ、そこには彼女の親友である八雲紫の式の式である猫又の橙(ちぇん)が住んでおり、数多の猫が集う猫屋敷であり、彼女が心を和ませたいと思うときには決まって訪れることにしている場所なのであるが、この日も前日、些細な失敗から妖夢に冷たい態度を取らざるを得なかった立場上の責任から、大変な苦悩を感じ、その心労を癒すために、平生と同じようにこの地を訪れていた。
「ちぇんちゃん、こんにちは」
「あ、ゆゆ様! こんにちは!」
「はい、こんにちは。今日もちぇんちゃんは、元気が良いわね」
「えへへ、はい、ちぇんは今日も元気です!」
「よしよし。元気な子は、お姉ちゃん大好きよ。でも、遊んでばっかりじゃ、ダメだからね? ちゃんと、お勉強や修練を、サボらないでやっているかなぁ~?」
「はい、ちゃんとやってます! 昨日も、元気に、ハキハキと音読をするって、藍様から褒められました!」
「まぁ、すごいわね! ちぇんちゃん、えらいえらい」
「えへへへ~。ありがとうございます、ゆゆ様」
「それじゃ、毎日頑張ってるちぇんちゃんに、お姉ちゃん、ご褒美をあげちゃおうかしら?」
「え、本当ですか! わ~い!」
「今日は、老舗伊勢屋の金平糖を持って来たわよ」
「やったぁ! ゆゆ様大好き!」
「よしよし、いい子ねちぇんちゃん」
このようなやり取りは既に何百回と繰り返されて来たことであって、橙が金平糖を食べている間は(彼女は必ずすぐに与えられたお菓子を食べつくす。何故なら、彼女の主である八雲藍に見つかると没収されてしまうから)、幽々子が橙の耳を親指と人差し指で撫でたり挟んだりして楽しんでも、橙は嫌がらないので、幽々子は思いのままに橙の耳たぶを(人化した猫又の耳は猫の耳であるためどこまでを耳たぶと呼んで良いのかは微妙なところではあるが)いじって遊ぶのであった。
で、すっかり金平糖を食べ終わった橙が、非常に洗練された猫特有のしなやかな腕の運動によって、金平糖の入っていた袋を幽々子の巾着の中に入れ終わると、橙は幽々子の顔を見上げ、いつもより五分ほど長くじっとしていた後に、おもむろに口を開いて言うのであった。
「……あのね、ゆゆ様」
「なぁに、どうしたの? あ、頭なでなでして欲しいの? よしよし」
このようなやり取りもほとんどお決まりとなっており、橙は必ず、「頭を撫でて欲しいです、ゆゆ様♪」と答えることにしていた。というのは、こうすることによって、耳たぶをこねくり回すという、橙からすればやや不快な幽々子の癖を、両者にとって心地良い行動へと穏便に移行させることができるからである。
「えへへ、ありがとう、ゆゆ様。でもね、違うの。ねぇ、ゆゆ様?」
「なぁに、ちぇんちゃん?」
「あのね、実はね、ちぇんね、どうしても欲しいものがあるの」
「あら、なにかしら?」
「この前ね、ゆゆ様の御家に、藍様とお使いで行ったときに、ゆゆ様が髪をといであげてた、お人形さんがあるでしょう? あの子のことがね、ずっと気になってるの」
「まぁ、ちぇんちゃん! 見る目があるわね。あの子はね、ずっと昔、日の国中で一番と言われた、人形作りの匠が作った、大変な傑作なのよ。お姉ちゃんが小さいときから大事にしている、宝物でね、思い出が沢山詰まった、大事な大事なお人形さんなのよ」
「へぇ、すごい!」
「ね、すごいでしょう」
「うん、私、欲しいな!」
「う、うん。そうね、欲しくなるのも仕方ないわよね。すごく良いお人形さんだものね。でもね、お姉ちゃんの、大事な宝物だからね、大切にしておきたいの」
「私、大切にするよ!」
「そ、そうね。ちぇんちゃんはきっと、お人形さんを大事にするに違いないよね。えぇ、そうよね。でもね、やっぱりお姉ちゃん、あのお人形さんは手放したくないの」
「え~! どうしてもダメかなぁ?」
「ごめんね、どうしてもダメなんだ」
「だめ? お姉ちゃん?」
このときの、「だめ? お姉ちゃん?」は、ごく打ち解けた様で言われたので、この言葉は幽々子の胸の内で何度も木魂して響き渡った。
「う! だ、だめよぉ、ちぇんちゃん」
「でもね、お姉ちゃんのお人形さん、私大事にするよ?」
「そ、そうだと思うけど、でもぉ」
「お姉ちゃん! お願い! ちぇん、何でもお姉ちゃんの言うことを聞くから!」
「ん? 今、何でも言うことを聞くって言ったかしら?」
この幽々子の反応に対して、一瞬、橙は戸惑ったような仕草を見せた。そこから不安の色を見て取った幽々子は、(あ、しまった。私ったら、意地悪い……)と思い、反省した。
だが、別に橙は少しも戸惑ってなどいなかった。
そうして、幽々子が一瞬反省する心から逡巡したことを確認すると、橙はいつも通りの元気な表情に戻ったのであった。
「うん、私、何でも言うこと聞くって言ったよ!」
「……分かったわ。ちぇんちゃん、貴方は今、四回私のことをお姉ちゃんって言ったわね。それもごく打ち解けた様子で。それに免じて、お姉ちゃんはちぇんちゃんのお願いを叶えてあげることにするわ」
「本当、お姉ちゃん! やったぁ! お姉ちゃん大好き!」
「これで六回目! ま、まぁ、分かったわ。ちぇんちゃんがあのお人形さんのことを、どれだけ大切に思っているのか。えぇ、きっと大切にするのよ」
「えへへ。うん、きっと大切にするね。でもね、私ね、お姉ちゃんのほうがもっと大切だよ?」
「ステキ!」
思わず幽々子は橙を胸に抱きしめて叫んだ。
「ステキ! ステキ!」と繰り返し叫んでしまった。
それほど彼女は、嬉しかったのである。
そうしてその至福に酔いしれることしばし、狂乱する親友の姿を見るに耐えかねて、橙の主である八雲藍と、藍の主である八雲紫が、空間をつなぐスキマを通じて、幽々子と橙の背後に現れたのであった。
「ステキ! じゃないわよアンタ!」
「いたぁ! な、なに? ゆ、紫? や、やだ。見てたの?」
「見てたわよ。ばっちり。何よアンタ。でっれでれじゃないの。しかもよその子にさ。威厳もへったくれもないじゃないの」
八雲紫は、愕然として溜息をついた。
「はぁ、これじゃ妖忌の心配した通りだわ。最近は、主らしくなって来たなと思って感心してたのに、ナニコレ。ただの人のいいお姉ちゃんじゃないの、幽々子……」
その目には落胆のあまり涙が浮かんでいた。
「うぅ。酷いわ紫。人のことを覗き見するなんて……」
「そ、そりゃ、私だって気が引けたわよ、こんなまね。でも、ホラ、やっぱり幽々子のことも心配だし、貴方たちのことを妖忌に頼まれた身の上だし、というか貴方、いつまで経ってもどこかしっかりしたようで、妙にほんわりしたところもあるし。仕方なかったのよぉ」
「で、でも! それでも、酷いわよ。私、紫のことは、一番の親友だと思って、信頼してるのに……」
「う! そ、そう言われると、私も立つ瀬がなくなってしまうわ……」
八雲紫は、シュンとしてうなだれてしまった。
で、それを見かねた彼女の式が、その容貌を獣化するほどの剣幕で(諸君らも知っての通り彼女は妖狐である)ギロリと目を開いて言うのであった。
「紫様!」
「な、何よ藍」
「貴方様まで、そんな調子でどうなされますか!」
「わ、わかってるわよ。そんなに怒鳴らなくてもいいじゃないの。ね、幽々子。覗き見をするような真似をして、悪かったわ。でも、それはそれ。これはこれよ。どうなの? 白玉楼の主として。あんまりにも、威厳の無い姿だったとは思わない?」
「な、なによぅ。いいじゃないのよ。気晴らしにちぇんちゃんのところに来たときぐらいはさ。ね、ちぇんちゃんも喜んでるしさ」
「はい! ちぇんは……」
「がるるるるる!」
「にゃぁ! ゆ、ゆゆさまぁ……」
このようなときには、紫に飛びつくよりも幽々子に飛びつくほうが有益であることを橙は知っていたので、幽々子の背中に隠れるように飛び退いたのであった。
「ちょ、ちょっと。そんな威嚇しないであげてよ、藍。ちぇんちゃんが可哀想じゃないの」
橙は幽々子がこのように、必ず彼女のことを擁護してくれることを知っているのである。
だが、この日ばかりはその効果がなかったようで、藍の剣幕はいっそう激昂の色を強めるのであった。
「お言葉ですが、幽々子様」
「な、なによぉ。やるの? 私、ちぇんちゃんのためなら、頑張っちゃうわよ?」
「……いいですか? 橙の教育は私の役目です。また、私にも私の考えがあって教育をしております。そうやって、幽々子様が甘やかされては、思うとおりに教育の成果が出ず、延いては橙のためになりません。そのことをわかってください」
このとき、野獣の鋭い眼光が橙に向けられたので、橙はすっかり縮こまってしまった。
「あと、何ですか。『な、なによぉ。やるの?』って。子供ですか? 『私、ちぇんちゃんのためなら、頑張っちゃうわよ?』って、こんなことのために、頑張らないでください。もう少し、西行寺家の主として、頑張る方向ってものがあるでしょうに」
「だ、だってぇ……」
「だってぇ、じゃありません! 全く、これじゃ、毎日一生懸命鍛錬している妖夢がかわいそうです」
「う、うぅ。そ、それを言われると……」
「先日だって、稽古をつけてほしいと言われましてですね、相手をしましたけれども、我武者羅に向かってくるものですから、見てられません。こっちも、死ぬ気で来られたら、手加減もし難いですから、何度か本気で当てましたよ。まぁ、素手で相手をしましたから、死ぬようなことはありませんですけど、服に隠れたところに、どれだけの打ち身ができたことやら。お腹のところなんて、きっと青痣だらけですよ。そのあたりのですね、妖夢の懸命の努力も、認めてやって欲しいところでしてね」
「そ、そんなの、とっくに認めてるわよぉ。妖夢は、一生懸命な頑張り屋で、正直で、決してウソをつかなくて、武道も学問も修身も、真髄を会得して抜かりないわ! その上、家のことは何でもできるから、いつお嫁に出しても恥ずかしくないくらいだわ。まぁ、歌や舞のほうは、あれね、雅を解さないところがあるけど、でも、声はすごく良いものがあってね、歌謡なんかを歌わせると、すごく光るのよ! あとね、笑顔がすごく魅力的なの! でも、最近ずっと妖夢の笑顔なんて見てないけど……」
「幽々子様がしっかりなさっていれば、妖夢も自然と心が落ち着きます。そうして、本当の実力が発揮できるようになりますし、段々と貫禄がついてきたら、笑う余裕も出てまいります。従者にとって、何が困るかといって、主が堂々としてないことが一番困るのです。この前も、映姫様がお越しになった時に、幽々子様が主として毅然としていないのが良くないって、お叱りを受けたのでしょう? 妖夢がそう言ってましたよ。それは、きっと私の努力が足りないから、実力が足りないから、閻魔様にそう思われてしまうんだって、泣いてましたよ? もうですね、いっそのこと、異変でも何でも良いですから、西行寺の名を幻想郷中に轟かせるような、大きなことをしてみてください。そうすれば、妖夢だって、西行寺家の従者として、鼻を高くしていられるというものです。そういう誇り高い気持ちが、しばらくすると、自然に矜持となっていくのです。その矜持が、安心になります。すると、鷹揚の気を得て、剣も伸びやかになって、今より一段階上に行けます。全く、妖夢の何が良くないって、余りにも懸命に過ぎて、後が無いのが分かりきってるところです。力量が簡単に把握できてしまうのです。油断はないですけれども、あれでは格上の相手や相性の悪い敵に対して、逃げることもできず、不意をつくこともできず、必ず敗北するしかありません。つまり、死にます。それでは、全くの噛ませ犬、無駄死にですよ。それでは、幽々子様にとっても不本意でしょう」
「いやぁ! そんな怖いことを言わないで! 妖夢が死んでしまうなんて! あぁ!」
「じゃぁ、もっとしっかりしてください。全く、私にこうまで言われて、幽々子様は悔しくないんですか?」
「べ、別に、藍の言うことはもっともだと思うし、私も全然ダメだから、悔しくなんてないけど……」
「そこは悔しさのあまり発憤するところでしょう!」
「うぅ……そ、そうかしら?」
「そうなんですよ! あと、幽々子様。貴方は橙に何をさせるつもりだったのですか? 橙が何でも言うことを聞くって言ったら、目の色が変わりましたよね。え、どうなんですか?」
「う、そ、それは……ごにょごにょ……ね? そんな、悪いことしようと思ってなんてなかったわよ? ははは……」
「本当ですか?」
「な、何よ。本当よ。疑わないでよ……」
「ふぅん? まぁ、分かりました。えぇ、この件はひとまず良しとしましょう。それよりも、どうなんですか? これからは、もっとしっかりと主らしく振舞ってくださいますか?」
「えぇ。わかったわよ。こうまで言われたら、私にだって考えがあるわ」
「へぇ? 何をなさるのですか?」
「わ、私。異変を起こすわ!」
「異変! 言いましたね? 今、異変を起こすって、確かに仰いましたよね?」
「い、言ったわよぉ。女に二言はないわ」
「紫様! 聞きましたね! 幽々子様が、異変を起こされるそうですよ! うわぁ、スゴイナー。タノシミダナー」
この幽々子と藍とのやり取りは、嵐の如く激しい調子で行われたものであったので、紫は話についていけず、内心はおどおどして困っていたが、何とか表面を繕って調子を合わせてこう答えた。
「そ、そう。ちょっと私としては、そんなことを堂々と言われると困るんだけど、ま、まぁ、いいんじゃないの? 幽々子が主としての威厳を獲得するには、それっくらいのことをする必要があるかも知れないわね」
そのため、平生は幻想郷の秩序に関わること、つまりは異変に関しては、極めて厳格な彼女も、ついつい甘くなってしまった。
もっとも、「まぁ、幽々子なら大したことはできないでしょう。」とたかをくくっていたのも事実であったのだが。
「えぇ、そうですとも。よく仰ってくださいました、紫様。幽々子様にはちょっとした荒療治が必要なのです。さぁ、幽々子様、頑張って下さい。我々は応援しておりますから。で、とりあえず異変が終わるまで、幽々子様は橙と会うの禁止です。良いですね? これも全て幽々子様のことを慮っての処置です。納得してください。
では、私たちは帰りますので。さぁ、こっちに来なさい! 橙! ぐずってもダメ!
さぁ、紫様。スキマを出してください!」
藍は橙をヒョイと持ち上げて、肩に担いでスキマに乗り込んだ。
「ちぇ、ちぇえええええええええん!」
「おねえええええちゃあああああん!」
半ばスキマの中に入ると、藍は振り向いて幽々子にこう言い残した。
「しばらく、橙は本家で生活をさせますから。そうですね、とりあえず異変がはじまるまでは、マヨヒガには行かせませんので、諦めてください。それでは」
そうして、すっかりスキマに入り込んで、藍と橙の姿は見えなくなった。
「そ、それじゃ幽々子、頑張ってね。私、陰ながら応援してるからね! また、異変が終わったら、一緒にご飯を食べましょうね? 橙も、妖夢も一緒にね。頑張って。それじゃぁね!」
そうして、八雲紫もスキマの向こうに消えてしまった。
「うぅぅ。ゆかりぃ……うぅぅ……」
後には、一人泣く西行寺幽々子が取り残されたのであった。
六
諸君らはすでに充分事情を理解したものと思う。
が、最後に次の一事を、魂魄妖夢が十六夜咲夜に敗北した後のことを、説明しておこうと思う。
まず魂魄妖夢が瀕死の重傷を負ったため、八雲紫は、すぐさま藍に治療の準備をするように命じた。本当はすぐさまにでも飛び出して行きたいくらいであったのだが、まだ異変は解決しておらず、しかも霊夢と魔理沙とがその場に留まっていたので、面に出るわけにはいかなかったのである。
そうして、咲夜が妖夢の手当てのために残る意思を表明し、二人は異変解決のために先へと進むように提案することで、ようやく霊夢と魔理沙とがいなくなったのを見計らい、紫は藍を引き連れて、咲夜の前に姿を現し、スキマを用いて、すぐさま八雲紫の邸宅へと三人を運び、処置をさせたのであった。
諸君らは、八雲紫が今回の異変発生から終結の過程において、容易に関与することが許される立場の人物ではなかったことを了解されたい。八雲紫は、一人の妖怪としてはあまりにも強力すぎるし、あまりにも有名すぎるし、また八雲紫と西行寺幽々子との関係はあまりにも親密すぎたのである。
さて、妖夢の強襲が失敗に終わり、瀕死の重傷を負うや否や、西行寺幽々子は、顔色を失い、その場に崩れ落ちて言った。
「妖夢の霊圧が……消えた……?」
そうしてすぐさま、妖夢のもとへ駆けつけようかと思ったが、しかし今回の異変は、何のために起こしたものであったのかということと、この異変を引き起こすために尽くした妖夢の献身を慮るに、そのような振る舞いは、むしろもっとも妖夢を裏切る行為になるのだということに気がついて、押し留まったのであった。
そうして、二つの巨大な力が近づいてくるのを感じて、幽々子はこのように考えたのである。
即ち、「この二人の猛者が、妖夢を殺したに違いない」ということである。
このとき幽々子は、怒髪天を衝くが如く激情を昂ぶらせていたので、「この二人は必ず殺す」と心に誓ったのであった。
しかしそのとき、馴染み深い強大な妖力が妖夢に急接近し、瞬間的に消えたのを感じて、幽々子は僅かに理性を取り戻した。
(紫が妖夢を助けてくれたに違いない!)
その一事が深い安堵を彼女に与えたために、一時は白玉楼をすっかり覆い尽くしてしまった彼女の力(それは量としても質としても稀有な霊力と妖力とが完全に融合した解除不可能な結界であり、その力には強力な魅了の呪いが付与されているために、人間が目視した場合には抗い得ぬ力で結界に引き込まれるというものであり、しかもその効果は即死という最強最悪の呪詛である)も、次第にその範囲を狭めていった。そうして、この異変解決を行っているのが、博麗の巫女であるということと、このような忌まわしい力を用いたのであっては、主としての格を疑われかねないということへの配慮から、西行寺幽々子は、力を抑えることに成功したのであった。
もっとも、だからといって幽々子の激情が治まったわけではなく、「息さえしていれば良いのよね……」くらいに考えていたし、「事故なら仕方ないわよね……」とも考えていたくらいであるから、この異変のグランド・フィナーレが、如何に盛大な(殺伐とした)弾幕ゴッコ(死闘)であったことかは、推して知るべき(即ちLunatic)である。
西行寺幽々子の凄まじい気魄は、博麗霊夢と霧雨魔理沙に、単独での戦いを諦めさせた。その判断は賢明であって、共闘していなければ、二人は間違いなく事故で死んでいたことであろう。
そうして例え共闘しても、霊夢が「夢想天生」を発動させて、紙一重で勝利を得たに過ぎず、この戦いを通じて二人は心に、深く深く西行寺家の当主の威厳(人外の本気)を刻み込まされた(トラウマになった)のであった。
それ故に後々まで、西行寺幽々子との弾幕勝負は、二人の語り草となるのであったが、それはまた別の話である。
ともかく、西行寺幽々子はそれほどの威厳(一生残るトラウマ)を二人に見せ付けた(刻み込んだ)のであったし、また、彼女が用いたのは大変美麗な弾幕(臨死の恍惚:走馬灯)であったために、見るものを魅了した(「おばあちゃんが向こうで手を振ってたのが見えたわ」霊夢談)。
このことは、彼女の主としての評判を高めることに大変効果的であった。
つまり、結果として、異変の目的は達成されたのであったから、この異変が解決されたとしても、西行寺幽々子と魂魄妖夢は満足であった。
そうして、西行寺幽々子が敗北を認め(「もう私もカァってなっちゃって、霊夢の魂抜いちゃおうと思ったんだけど、効かないのね。ダメだったわぁ。テヘ♪」幽々子談)、異変が解決されると、スキマを通じて遣わされた橙が事の顛末を三人に説明したのであった。そうして、幽々子は事情をすっかり了解し、霊夢と魔理沙、橙と一緒に、スキマを通って妖夢の下へ駆け寄ったのである。
そして幽々子はその場で涙を流し、妖夢の傍らで懺悔した。
それとともに、どれほど彼女のことを大切に思っているのかを、切々と語るのであった。
それは大変な感動をもたらした。
特に、若い女性である霊夢と魔理沙と咲夜とは、涙を堪えることができなかった。そうして、この一事は幽々子の威厳に、親しみと温かみとを加えることになったので、いっそう彼女の評価は高まった(「この姉ちゃんは怖いだけじゃないと思った」魔理沙談)。
つまり、今回の異変によって、西行寺幽々子は威厳を獲得し、その威厳は優雅にあやどられたものであり、しかも親しみと温かみとが加えられており、さらに彼女は容貌美麗で振る舞いは洗練されて理想的な女性としての条件を揃えていて完璧に見えるのであった。
そうして、事実完璧な主と言っても良くなった。
ただ一度の異変が、全てを完全に調和させたのである。
七
魂魄妖夢が意識を取り戻してしばらくすると、十六夜咲夜は紅魔館へと戻った。それを押し留める理由も無かったから、西行寺幽々子は厚く謝意を呈し、紅魔の主へと土産を持たせてやった。その後は、幽々子と八雲藍が、妖夢の世話をすることになった。
病床に臥している間、魂魄妖夢は所在無く困っていた。
ただ、橙と一緒に、あやとりをしたり、お話をしたりしている間は、戸惑いを忘れて楽しい一時を過ごすことができた。そのため、橙はずっと、西行寺に屋敷で寝泊りをしていた。その間に彼女の人形コレクションは五つほど数を増やした。
妖夢の回復は早いものであったが、万事快調とはならなかった。もとより体の傷は重いものであったが、なんともいえない空虚さや後ろめたさを感じてしまい、それがどこか尾を引いているようであった。
そのことが幽々子も、また八雲藍も気にはなっていたが、これは時間より他に解決するものもないと思い、詮無き体であった。
そうして、妖夢が意識を取り戻してから二週間ほど経ったときである。
急な来客があった。それは十六夜咲夜であった。彼女は、妖夢の病中見舞いと、主からの返礼のために来たのであった。返礼の品は舶来品であったために、西行寺幽々子は大変喜んだ。特にワインとチーズとは、幽々子に一種の感銘を与えたらしかった。
古来、我国にも蘇というチーズもどきがあるのだが、吾人の食したところによると、決して美味とは言えないものである。かろうじてジャムなどと一緒に食し、味を誤魔化すことで食するに値するものであって、それはどことなく美食に乏しかった時代がしのばれるものである。
で、その舶来品の恩恵に預かって、妖夢は十六夜咲夜の作るクリームシチューを食べさせてもらうことになった。胃腸は回復していたのだから、滋養物としてクリームシチューを食べることは、尤もなことであった。妖夢としても、やや淡泊に過ぎる病人食に飽きていたし、舶来の品には興味があったから、大変な喜びとなった。
諸君らは既に知っている通り、これで魂魄妖夢と十六夜咲夜とが顔を会わせるのは三度目である。一度目は殺し合いの時に。二度目は意識を取り戻した直後に。病人食を手ずから食べさせたのは、彼女であった。で、今回で三度目である。腕がまだ完全に治っておらず、大きく動くと胸が痛むから、食事は誰かに与えてもらう必要があった。その役目は、十六夜咲夜が引き受けた。今回もまた、手ずから食を与えてもらったのである。
ここで諸君らに、吾人は次の事柄を述べておく必要がある。
即ち、魂魄妖夢から見た十六夜咲夜の印象と、十六夜咲夜から見た魂魄妖夢の印象である。何故なら、この物語は二人の初恋の物語だから。
また、吾人がこれまで長きに渡って二人の馴れ初めを述べてきたことについても説明せねばなるまい。
それは、この恋物語の神聖な故である。あまりに神聖であるから、吾人は愛し合う二人の姿を深く立ち入って描写することは許されていないのである。それほどまでに、二人の愛は尊く純粋な存在であるから。ただ吾人は過去に遡って、祝福を受けた二人がお互いの気持ちに気がつくまでの間のことを描写することは許されているから、僭越ながら吾人がそれを行うというのが、この物語の目的である。
魂魄妖夢から見た十六夜咲夜は、ごくステキな人であるとの印象より他に語り得ないものであった。というのも、まだこれが三度目の出会いであるし、殆ど言葉を交わしたことはなかったし、彼女のことについては全く知るところではなかったからである。ただ、大変麗しい美貌であるということと、洗練された作法を心得ていることと、穏和で優しい言葉遣いと声色をしているということと、オレンジの上品ながらかわいらしい香水をしているということと、華奢ながらもしなやかな肉付きをしているということとは既に了解していた。そのために、どことなくこんなお姉様がいてくれたら嬉しいのにという夢想を少女に与えていた。
少女の夢想は二つあった。
一つは十六夜咲夜に対して理想の姉を見る夢であり、もう一つは西行寺幽々子に母を見る夢であった。
彼女が咲夜に対して姉を想うのは至極当然なことであった。
それは諸君らも了解されるだろう。
事実、こんなお姉さんを吾人も欲しい。
しかし幽々子に対して母を想うことについては、諸君らは奇異に思うかも知れない。だが、それも仕方の無いことで、実に道理に沿ったことなのであった。
そのことは、次の事実を思い出していただければ、諸君らも得心がいくことだと思う。
魂魄妖夢の母は、妖夢がまだ幼い時分に、彼女を残して死去したのである。
そのとき、もっとも身近にいた女性は幽々子であり、幼い妖夢からすれば、彼女は充分母を思い起こすだけの母性を持った女性だったのである。
さて、吾人は実に憚られることであるが、いよいよ十六夜咲夜の神聖な内面を覗き見て、その麗しい心象世界を披歴せねばならない。このようなことは最も恐れ多いことであって、神に対すると同じように敬虔なる精神で臨まねばならない。というのもこれから語ることは、乙女の初恋のことであり、しかも永遠の愛に他ならないからである。
純白にして永久の愛があることを、多くの現代人は忘れてしまったのかも知れない。が、幸いにして我々はその存在があることを知っている。そしてそれは我々の愛する人々の間で交わされるものである。
その愛は、神に祝福されたものである。
吾人は既に充分紳士として礼節に適う振る舞いをした。
さぁ、それでは愛の扉を開くとしようではないか!
八
愛が本能的な存在であることを、吾人は否定しない。が、本質的に愛とは、本能的な存在ではなく、理性的な存在である。もし愛が、本能的な存在であるならば、永遠の愛などは存在しないことになるではないか。確かにこの世界には、永遠の愛が存在するものである。その永遠の愛を約束するのは、即ち永遠の意志である。
十六夜咲夜は、類稀なる、他者を愛する能力を有した人間であった。彼女は本能的に、何者かを愛でるということを知っていたが、それ以上に、愛すべき対象を愛することができる人間であった。その彼女にとって、性別や種族の違いというものは、愛を妨げる存在には成り得ないのであった。彼女が吸血鬼の従者としているのは、ただ簡単な理由によるものだった。彼女は、レミリア・スカーレットが、愛すべき存在であることを了解したのである。
十六夜咲夜は、愛の天才であった。それ故に、常に彼女は他者への祝福を願う神聖にして無限の加護を受け取ることができるのであった。これが瀟洒の所以である。
愛の天才である彼女は、偉大なる愛の力によって、黄金の人生が約束された存在である。しかし、それ故に、一つの大きな、埋まることのないワンピースが、人生の中に存在するのであった。
それは恋である。
彼女は愛を知っていた。主従としての永遠の愛を知っていたし、かつてあった家族への愛も知っていたのである。また、友人や先輩・後輩への親愛も知っていたし、見知らぬ不幸な誰かに対する惻隠の情と呼ばれる深遠なる愛情もまた知っていた。そうして、一度見知った相手に対して、お互いに不快のないように振舞うことのできる、フレンドリーシップと呼ばれる愛情も知っていた。
だが、ただ恋人への愛情は知らなかったのである。
何故か?
不幸なるかな!
彼女は完璧な存在であったが故に、他者から愛されることを必要としなかったのである。それ故に、恋人から寄せられる愛情の価値を了解し得なかったのである。また同時に、恋を除く他のあらゆる愛情を知る彼女は、恋人としての愛情を高めるよりも先に、他の愛情を他者に寄せてしまうからである。その結果として、恋愛感情が醸成される余地が残されなくなってしまうのであった。
しかし諸君!
このような女性が、恋人からの深い愛情を寄せられることなく生きていてよいものであろうか? それは公平性の観点からいって、正当であろうか?
否! 断じて、否!
そうして諸君!
全知全能なる神は、このような不公平を許されるものであろうか?
決して、そのようなことはないものである。
十六夜咲夜は、上述したように、愛の天才である。
それ故に、彼女の眼には、全て存在の本質のみが映るのであった。
諸君らは思い出して欲しい。猛然たる勢いで迫り来る、怪奇を極限まで開放した魂魄妖夢の姿があったことを。それは万人を恐怖に陥れる羅刹の形相であった。だがその姿は、十六夜咲夜には、価も知れぬほどに貴く見えたのであった。
九
今日短所とされる幾らかの性質は、過日においては一つの徳性として数えられていた。
その最大のものを吾人は知っている。
それは「愚直さ」である。
「愚直」とはどのように言い換えられるべきであろうか。
吾人はこれを、「幼くも愚か」と言い換えるべきだと考えている。そうしてそれは、「純真で一途」ということなのである。
十六夜咲夜が見た魂魄妖夢の姿は、まさしく「純真で一途」な若者の姿であった。あまりにも「純真で一途」過ぎるが故に、鬼子となった、哀れなる姿が偲ばれたのである。その燃え上がるような純然さに、彼女は一目で心を奪われたのであった。
そうして彼女は、直感的に次の事実を了解したのであった。
即ち、「この人の傍にいることが、私を完全に満たすことに違いない」ということと、「この人は、傍に私の様な人間をおいておかなくてはならない」ということである。
そうして、それらの事実を了解したときには、既に彼女は行動していた。
彼女は、魂魄妖夢の死への突撃を止めた。
そうして、彼女を死の淵から救うために尽力した。
彼女の代わりを勤め、西行寺家にしばし仕えた。
そうして今、休暇を用いて病中見舞いに冥界を訪れた。
何故にか?
愛故にである。
十六夜咲夜は、魂魄妖夢に対してどのような印象を抱いていたのであろうか。
それはただ、愛すべき人という言葉以外には表現しようがないものである。彼女の胸中は、ただ愛のみがあった。その胸の中には、ただ楽園がうち広がっているのみである。
その楽園で遊ぶ幾人かの中にあって、一組の抱擁せし恋人たちがある。その恋人たちを、全て楽園の住人たちは、祝福の眼差しで見守っているのである。その恋人たちは何者だろうか。十六夜咲夜と、魂魄妖夢である。
何と楽園の昼下がりは甘美なる情景を映し出すことだろうか!
十
吾人はこれ以上言葉を費やすまい。
その後どれほどの幸福なる逢瀬を重ね、若い一組の恋人たちが、この世界にて愛を語り合うに至ったのかを、言葉にしてしまうような、そんな愚行を、吾人はし得ない。ただその一つ一つを、簡単に挙げるのみに止めよう。吾人は諸君らの、白塔を愛する衷心が生み出す数多の幻想に期待する。それがきっと、世界で一番麗しい物語なのだから。
その後足繁く、十六夜咲夜は白玉楼を訪れた。その意は、西行寺幽々子には分かっていた。しかるに、できるだけ二人の時間が取れるように慮った。それを咲夜は、心から感謝した。
咲夜は決して焦ることがなかった。ただ、この純真で一途な人が、自分の気持ちを分かることができるようになるまで、傍で歩むだけと決めているのだった。愛は、相手を思い・慕い・尽くす気持ちから構成されるのである。しかしこの愛情は恋慕であったから、できるかぎり、一緒にいたいと思ったのである。しかしただ、それだけのことであった。
魂魄妖夢は、彼女自身の気持ちに気がつけないでいた。当然、咲夜の気持ちにも気がつけないでいた。しかしただ、彼女は咲夜と一緒にいたいと思っているということは了解できた。それ故に、しばしば紅魔館を訪れた。幸いに、西行寺幽々子は、返礼として、魂魄妖夢を名代に、紅魔館へと遣ることが多かった。その篤く礼節を重んじる西行寺家の振る舞いに、レミリア・スカーレットは大変気を良くした。その返礼に、また十六夜咲夜は白玉楼を訪れることになった。
魂魄妖夢の幸いは、レミリア・スカーレットが、彼女のことをひどく気に入ったところである。レミリア・スカーレットには、一つ悩みがあった。それは、妹の教育である。ただ、良い人格と出会うことが、教育のためには必要であると、レミリアは考えていた。魂魄妖夢は、実に良い人格を持っていたので、しばし妹と、咲夜と、妖夢の三人で、庭園に遊ばせることにしたのであった。
紅魔館の主と、白玉楼の主は、互いに意を通じ合わせた。
勢力旺盛、英邁なる西欧貴族の末裔と、温厚篤実、優美なる東洋の淑女とは、互いに気質を争わせることなく、不快のない打ち解けた交友関係を築くことができたのである。それ故に、しばしばレミリアは、西行寺幽々子を館に招いた。
そのような関係が、一年ほど続いた。
日本の四季の楽しみ方を、淑やかに教授する西行寺幽々子は、レミリア・スカーレットという我の強い好事家にとっては、最高の師であったし、西行寺幽々子にとっては、この喜怒哀楽と好悪の感情が激しく、それに応じた豊かで鋭敏な感性を持った西欧の少女は、誰よりも教え甲斐のある可愛い愛弟子であった。
そうして翌年の春が来た。
穏やかな昼下がり、花園に遊ぶ三人の少女。
咲夜と、妖夢と、フランドールが、桜花舞い散る花園にて、各々麗しく着飾り、花の精妙を慕い愛でる。それを遠目に窺う、レミリアと幽々子は、優しく穏やに、春の新茶を楽しむ。その周りには、彼女たちの友人が集い、打ち解け穏やかに歓談の花を咲かせる。
これらは全て、かつて少女が夢想したる楽園の光景に他ならなかった。
すべて楽園の情景は、風に乗りて薫り来る。
申し訳ない。
自分の為に書いてもいいじゃない
ならば、汝の為したいように為せばよろしい。点数は付けません。
読み終えて「ウム」と頷くことしかできないこの感覚、なんと言い表せばよいのでしょう。
実に潔い作品でした
まず、妖夢の一目惚れの場面がちょっと気に入りません。
と言うのも、それ以前に妖夢が咲夜に一目惚れしたと分かるような描写が見当たらないのに、いきなり「さて、諸君。諸君らは一目惚れということがあるということを~」となっていて、些か唐突に過ぎる。一応探してみたところ、多分、「ぼうっとしてしまって~」の件が、妖夢が恋に落ちた描写に相当するのだと思いますが、この一文だと一目惚れであることが分かり難く、従って「さて、諸君~」のところが性急に感じてしまった。「魂魄妖夢は、ぼうっとしてしまって、うまく言葉が出てこなかった」の一文は、「ぼうっとしてしまって」では無く、「彼女の笑顔に見惚れて(見入って)」などの方が分かりやすかったと思います。
次は、藍と幽々子が売り言葉に買い言葉で異変を起こすことを決める場面で、紫に威厳が無く、堂々としていない辺りに違和感を覚えます。出過ぎた式を嗜め、威厳をもって堂々と振舞うことの重要さを自ら幽々子に諭すくらいしても良いんじゃないの、と。
それから、硬派な文体の中にポン、とユーモア的な文章が置いてあって、そこが文体とのギャップでどうにも引っかかる。具体的には「妖夢の霊圧が……消えた……?」や「事実、こんなお姉さんを吾人も欲しい。」など。「このような人が己の姉であったらと吾人も思う(ほど、十六夜咲夜は良く出来た人物であった)」みたいな具合に、もう少し迂遠な言い回しにしたら、他の文章とも馴染むかと。
最後は、文体が説明的に過ぎるのが頂けない。
まるで演説でも打っているような、読者に強く訴えかける文章では、少女たちの初恋を描写するには向いていない。要するに情緒が感じられない。
とまあ、自分は読んでいてこのように思いましたので、少々低めの評価にさせて頂きます。
以下、誤字などと思しきところを。
>>どうして死を恐れることがあらだろうか。
あるだろうか
>>、そうして、妖夢を床に寝かし付けた後、
文頭の読点が余計かと。
>>「いや、私の未練だろう。きっと、私は彼女からは好かれていないから。」となるのであった。
鉤括弧の最後の句点が余計かと。
>>この前も、映姫様が起こしになった時に、
お越しに
>>怒髪天を突く
衝く
それから、はっきりと配意されたコミカルなやりとり。
笑わせたいのかな? と思いました。けっして嫌な笑いじゃない、むしろ朗らかに口元がほころぶような楽しみでしたけれども。
語り口の割に、柔軟なものを感じるSSでしたね。
欲をいうと、恋のよろめき、戸惑いみたいなものをもうちょい味わいたかったですね。
全力投球な姿勢を見るのはいつだって清々しいものだ。
に、しても、
>事実、こんなお姉さんを吾人も欲しい。
アナタ、これが言いたかっただけちゃうんかと。そして妖夢は妹か? 妹ちゃんポジションなのか?
徹頭徹尾己のための創作。それでも結果的に他者のプラスになるのだとしたら、
それはやっぱり幸せなことだと俺なんかは思います。
賞すべし、軒昂たるその自意識。
完成した嬉しさですぐ投稿したのでしょうか?
良いストーリーなのにもったいない。
己のための小説ここに極まれり。
しかし己の小説だからこそ、咲夜と妖夢のあれこれは書いてないわけで、こちらからしたらそこが気になるんですよね。
ですがそれが作者様の方針ならそれで完結してるわけです。
うん、気になる。
愚迂多良童子さん
誤字報告ありがとうございます。修正しました。
>>「いや、私の未練だろう。きっと、私は彼女からは好かれていないから。」となるのであった。
に関しては、文中の括弧内においては、こういった使い方をするほうが人物の台詞や思考との区別が明瞭になって良いと考えていますし、芥川龍之介などにもこの使用例がありますから、このままにしておきます。
コチドリさん
誤字報告ありがとうございます。修正しました。
>素晴らしく整った顔立ちをしており、また機才に溢れた目の麗しい美人であったし
の部分については、『「機才に溢れた目」の麗しい美人』となりますので、このままに致します。
あと、コメントのNo.18の方。
その通りで、これは一種の喜劇です。
ただし、誰かを笑わせようと思った作品ではなく、笑える感性を持った人には笑える作品です。
例えば、久生十蘭の『海難記』や『新・西遊記』を読んで笑える人は、あれらの作品は笑える作品です。しかし、ほとんどの人は笑えません。むしろ、怖いとか、悪趣味とか、あるいは久生十蘭が何らかの報道を目的にしてこの作品を書いたに違いないと感じるでしょう。
でもそれは間違いです。
映画の『ミスト』も同様です。
笑える人には笑える作品です。
もちろん、この『白塔の歌』には、笑う以外に良い読み方がないということではありません。ただ、これを読んで笑える人には、大分興味を引くものがあったろうとは思います。そういう、自己の感性と近い人との出会いを通じて、人生を味わうために創作をし、投稿をするという方法は、人間として当然なあり方でもあり、またそもそも、同人というのはそういうものだろうと思います。
そういう意味で、貴方との出会いは、私にとって愉快なものでした。
こういう言い方をすると、自分にとって不都合な指摘は排除して都合が良いとか、妙なことを言われかねないので先にことわっておくと、愚迂多良童子さんのように、堂々たるご指摘をいただけるのは、実に愉快です。
ただ、それに対する回答は、少なくともこの作品においては明快であって、「だから、私はこの作品を愛して止みません」となるのです。