おくうの右手に握られたペンが走る。帳面に、謎の人物名が踊る。
あたいは頭を抱えた。
誰だよそれ。凛って誰だよ。霊鳥地ってどなただよ。ご存じない人たちだよ。あたいの名前はおろか、自分の名前も満足に書けてないよこの鳥頭。
「もう! 何度違うって言ったら解るんだい、この鳥頭!」
「えー?」
「えーじゃないっ」
隣でそれを覗き込んでいたあたいがすかさず口を挟んだ。おくうは帳面に走らせていたペンを止める。不満げに口を尖らせた。
「なによ、さっきからお燐は文句ばっかり」
ぷりぷり。おくうが怒る。
ああ。この様子だと何が悪いのか、この子は全く理解していないらしい。
漢字っていうのは音だけ合ってても駄目だって、何度も言ってるのに、この子は。
こつん。あたいは、彼女のちっこい頭を突いてやる。
あたいの背丈もちっこいけれど、こないだやっと人型に変身できるようになったおくうは、さらにちっこい。こうしてると本当に妹みたいだ。認めたくないけど。
そうだ。あたいはこんな手のかかる妹、欲しくなんかなかったのに。
――うふふ、お燐はこれからお姉さんね。
さとり様の言葉を思い出す。おくうが初めて人型になったときの言葉だ。
あたいの方が、おくうよりもちょっとだけ先に産まれて、おくうよりもちょっとだけ先に人型になった。だからあたいはおくうのお姉さんなんだと。さとり様はそうおっしゃってた。
さとり様はあたい達のご主人様で、ご主人様の言葉は絶対だ。だから、あたいはその言葉にうなずいた。
――早く自分の名前くらい書けるようにならないとね。お燐、おくうに漢字の読み書きを教えてあげてね。
続いて、さとり様の言葉をもう一つ思い出す。これは三日前のだ。
さとり様の言葉は絶対。だから、そう言われてあたいは元気よく「任せてください」って返事をした。さとり様は、「元気が良くてよろしい」って褒めてくれた。あたいはさとり様に褒められるのが好きで、そしてさとり様の笑顔が好きだったから、頑張ろうって思った。
だから、この三日間、おくうの隣で付きっきりで漢字の書き方を教えてやっていた。
さとり様の命令だから、仕方なくだ。本当なら、こんな鳥頭の面倒なんか見てやらないんだから。
そうだ。
本当なら、こんな子守まがいのことなんてやりたくない。
本当は、もっともっとさとり様のお仕事のお手伝いをしたいんだ。それでもっともっとさとり様に褒められて、さとり様を笑顔にしたいんだ。
早く人型になれるように頑張ったのも、本当はそのためだった。
猫の姿のままじゃさとり様の手伝いなんて出来ないから、あたいは頑張って怨霊たちを食べて、力を取り込んできた。好き嫌いせずに食べて、たくさんたくさん食べて、それでやっとさとり様と同じ人型の妖怪になった。
ようやく、ちっこいけど、便利な手足を手に入れた。
さとり様のために頑張ったんだ。それなのに。
ああ、さとり様。どうしてあたいは、こんな駄目な妹の面倒をみなきゃいけないのですか。
この手足は、もっとさとり様に褒められるようなことが出来るはずなのに。
こんな子守まがいのことよりも、ずっとすごいことが出来るはずなのに。なんで。
そうやって考えていたら、何だか無性に悔しくなった。
涙がじわっと浮かんだ。
「ん、どうしたの? お燐、泣いてるの?」
「なっ、泣いてるわけないだろ! この馬鹿おくう!」
ぐしぐし。
あわてて目元を袖でぬぐった。
気づいたら、おくうはぐっと顔を近づけてあたいの顔を覗き込んでいた。
必死になんでもないふりをして誤魔化した。でもちょっとだけ涙が流れてしまった。それが恥ずかしくて、そっぽを向いた。
誰のせいで、こんな悔しい思いをしてると思ってるのさ。
そうあたいは思いっきり文句を言ってやりたかったけど、堪えた。喧嘩をすると、さとり様が悲しむ。さとり様の悲しむ顔は見たくない。
それに、一応あたいはおくうのお姉さんだから、このぐらいで怒っちゃいけない。
椅子を引き直して居住まいを正す。
とにかく、この子が漢字を覚えるまで頑張らないと。
あたいの名前は別にいいけど、自分の名前くらいしっかり書けるようにさせないと。それから、次にさとり様とこいし様の名前。
他の漢字が書けなくとも、最低限それくらい書いてほしい。そうすれば、さとり様はきっと喜んでくれる。
よし。気合を入れなおす。と言ってもあたいは隣で見ているだけ。一番頑張らなきゃいけないのはおくう、あんたなんだ。頑張っとくれよ。
「うにゅ、大丈夫もう覚えた」
本当かい。その台詞、七度目だけど。
不安に思いつつも、あたいは見守る。そんなあたいの気持ちを知ってか知らずか、おくうはすらすらと筆を滑らせていく。あたいは帳面を覗き込む。
火炎猫隣、火炎猫隣、火炎猫隣、火炎猫隣……。
またもや紙面に踊る、謎の人物の名。
惜しいけどさ。それあたいじゃないよ。ただのお隣さんになっちゃってるよ。
「だぁかぁらぁ! あたいの名前はこーう!」
おくうのペンをひったくってお手本を書いてやる。火焔猫燐。さとり様からもらった仰々しい名前。
「同じじゃん」
「違うの! 『焔』の字は意味が同じだからいいけど、名前は『燐』ってちゃんと書いてよ! ほら、いい? ここの部分。よく見て!」
あたいは、お手本の『燐』の字の左側を丸く囲って見せる。
おくうは、眉根を寄せて首をひねって見せた。駄目だこの子、自分で書いたのと区別が出来てないよ。
あたいは、壁に掛けられた時計を見る。ああ、もうこんな時間じゃないか。そろそろ寝ないと、さとり様に怒られちゃう。
でも、あたいは漢字を覚えるまで寝たくなかった。今日中に、こんな下らないお勉強なんて終わりにしたかった。
本当は、こんな簡単な言いつけなんて一日で済ませてしまいたかったんだ。そうしてさとり様を驚かせたかった。役に立つペットなんだって、認めてもらいたかった。
でも、気が付けばもう三日目。そしてそれだけ経ったって言うのに、おくうはまだ自分の名前さえも満足に書けるようになっていないありさま。
どうしてうまくいかないんだろう。はやる気持ちを抑えきれず、心の中で、早く早くと急かした。早く早く。
でも、おくうは相変わらずのマイペースで、十回書いた漢字のうちの八回は間違った。
このままじゃ、さとり様に愛想を尽かされてしまう。役に立たないペットだって思われてしまう。もしかしたら、さとり様は役に立たないペットなんていらない、って言うかもしれない。それで、もしかしたらあたいを処分してしまうかもしれない。
いやだ。そんなのいやだ。
恐ろしい考えが、あたいの頭の中をぐるぐる回った。ぐるぐる。
訳が分からなくなって、無性に怖くなった。それから悲しくなった。
さっきこらえた涙が、またあふれて来そうになった。
「おりん、だいじょうぶ? どこか痛いの?」
「っ! なんでもない!」
あたいは、ぐしぐしと乱暴に目元をこすった。
おくうの前でみっともなく泣きたくなかった。止まれ涙、って念じながら目をぎゅうっとつむった。二本の尻尾がぷるぷる震えた。鼻水が出そうになって、あわてて啜りこんだ。
こうなったら、なんとしても今日中にこの鳥頭に、漢字を仕込まないと。
よし。あたいはまた気合を入れた。
「おくう、自分たちの名前を書けるようになるまで、今日は寝させないからね!」
「うにゅ、だいじょうぶ。もう覚えたから」
本当に本当かい。それ、八度目だよ。
*
火焔廟麟、霊鳥路空、小明治さとり、小明治こいし。
私の右手に握られたペンが走る。帳面に、謎の人物名が踊る。
そろそろまたツッコミが来る頃かなあ、と思ってちらっと隣を見た。お燐は、机に突っ伏して眠ってしまっていた。怒りつかれてしまったらしい。頬には涙の跡が浮かんでいた。
お燐は、泣き虫だ。
私よりもお姉さんなのに、頑張りすぎて気持ちが空回りして、感情が高ぶって泣いてしまう。本当に泣き虫。私はそんな泣き虫なお燐が可愛らしくて好き。
ごめんね、お燐。
涙の跡を、そっと指でなぞる。お燐は、うにゃ、とうめき声を上げたけど起きなかった。
「馬鹿、おくう……」
寝言を言って、また寝息を立て始める。夢の中でも、まだ出来の悪い妹に悪戦苦闘しているらしい。悪いと思いながらも、私はつい笑ってしまった。
ごめんね、お燐。
私はそっと寄りかかる。お燐の体は私よりもちょっとおっきいけど、大人の妖怪たちに比べたらまだまだちっこい。
その肩に頭を預けてみた。暖かい温もりが、じわっと伝わってきて、なんだか嬉しくなる。
私は、そのままそっと目を閉じた。
だって、私が漢字を書けるようになったら、お燐はさとり様の隣に戻っちゃうんでしょ?
私と一緒にいるのはさとり様に言いつけられたからなんでしょ?
私は、もうちょっとお燐と一緒に居たいな。
お燐にそばにいて欲しいな。
私は体を起こして、再びペンを握った。帳面を捲る。新しいまっさらなページ。そこに、手に持ったペンで字を書きつける。
古明地さとり、古明地こいし、霊烏路空、火焔猫燐。
下手な字で、私と、私の大切な人たちの名前が紙の上に踊る。
ね、お燐。気づいてる?
お燐は私よりも頭がいいけど、どこか抜けてるんだよ。
漢字が書けない人が、凛とか麟とか、書けるわけないじゃん。それが燐の字と音が同じだって、気づくわけがないじゃん。
本当は、三日間もいらなかったんだ。一日くらいですぐに、自分の名前くらい書けるようになったんだよ。
でも。でもね。
もう少しだけ、一緒にいて欲しかった。さとり様にお燐をとられちゃう前に、ちょっと意地悪してでも少しでも長く、そばにいて欲しかった。
だからね。
私は、ペンを握りなおす。さっき書いた字を、ぐしゃぐしゃとペン先で黒く塗りつぶす。正しく書かれた名前たちが、黒の海に沈んでいく。
それから、余白の小さいところに、さらさらと文字を書きつける。
火焔猫『隣』。
私はそれだけ書いて満足すると、また頭を小さなお姉ちゃんの肩にそっと預けた。
――もう少しだけ、馬鹿な私の『隣』に居てください。
あとちょっと、私のわがままに付き合ってね。
私はそのまま、そっと目を閉じる。お燐が「馬鹿おくう」って寝言を言うのが聞こえた。
ろりんいいな。ろりん。いじらしいくて可愛い。
おくうも立派な鴉なんだし、そりゃあ賢い一面もあるよねと
何としても自分が字を覚えさせるんだと付きっきりで頑張るお燐かわかわ
凛ちゃんにはお鼻チーンも追加だ。
さとり様から立ち昇る、強大なる母オーラも無視できない。
大いに悶えさせて頂きました。
さとり様もニヤニヤが止まらないに違いない
大好きなお姉ちゃんに少しでも傍に居て欲しいから おバカなふりをする妹なお空
いいですね ふたりを見守るおかあさんなさとりんもいいですね いい話をありがとうです
空もいじらしくていいですね。
この話にたどり着けない人がいるかと思うともどかしいです
かわいいおりんくうでした。
傍目からは微笑ましくそれでいて本人的には深刻な問題で、ついつい必死になってしまったりちょっとズルい手を使ってしまったり、子供らしいいじらしさがよく出ておりました。