がらん、がらん、がらん、がらん。
教会の鐘がお庭に響き渡る。
わたしはその重々しい音が何だか無性に気に入っていて、鐘の音を聞くたびに意味も無くお祈りの真似ごとがしたくなる。べつに、この世界に神さまがいる、なんて信じているわけでもないし、わたしのお家がキリスト教を信仰しているわけでもない。けれど、もし神さまがいて、わたしの周りのパパやママ、お友達をみんなしあわせにしてくれるのなら、少しぐらい信じてあげてもいいかな、と思っていた。
「ふふ、メリーはお祈りをするのが好きね」
目の前に座っている女の子が話しかけてくる。
教会のお庭はとても広くて、地面にはシロツメクサがひかれている。三枚に分かれた葉っぱと白いちょこんとしたまるいお花の絨毯。教会のねずみ色の壁が落とす影のせいで少し湿っているそこに、わたしは腰を下ろしていた。冷ややかでじっとりとした葉っぱの感触が脚に絡みついてきて、ちょっと気持ちが悪い。カラスの鳴き声が居心地の悪さに拍車をかける。
わたしが身体をもじもじさせていると、彼女は、ぽん、と作っていたシロツメクサの冠をわたしの頭の上にのっけて、「じゃあ行きましょうか、メリー」と言う。
首を縦にふって、こくん、とうなずくと彼女のほっぺたがほころんだ。
太陽は段々と森の方へと降りていき、空は何だか不気味な色に染まっている。
いつもの探検ごっこの時間。『不思議の国のアリス』のように兎を追い掛けて不思議な世界に迷い込む、そんな夢をみて自分たちの身近な場所を探索する他愛ない遊び。わたしと彼女はそんな遊びを繰り返して時間を過ごしていた。
差し出された手をつかんで立ち上がる。数歩よろめきながらスカートについた汚れを払って、教会の門へと向かう。
「今日はどんなところへ行くんだろう。」期待に踊る胸を押さえながら浮足立っていると、門の前に女のひとが立っているのが視えた。稲穂色の髪の毛がぬるい風に棚引いている。
ずきん。
女のひとの姿を見ると、突然、頭の中に鈍い痛みが拡がる。まるで頭の中を重たい石が跳ねまわっているようなそんな痛み。眼の奥を直接圧されるような。どこかでぎゃあ、ぎゃあとカラスの鳴く声がする。
ずきん。
女の人に近付くたびにひどくなる痛みに思わず立ち止まる。頭が重い。何だか見てはいけないものを無理やり見せつけられている感覚。二つの眼を通して流れ込んでくる光景がよく理解できないでくらりくらりと眩暈がする。脳みその中では二枚の金属板が擦り合わさって不協和音が響く。そして血を吐くようなカラスの声。
ずきん。
ひゅうひゅうと肺から空気が漏れる。立っていることができないで、その場に座り込んで眼を瞑った。靴が石畳の地面を打つかん高い音がゆっくりと確実に近づいてきて、わたしの目の前で止まる。激しい頭痛に耐えながら、精一杯の勇気を込めて鉄のように重たい瞼を持ち上げる。
見上げると、そこには一人の女性。わたしの帽子と同じようなものを被っていて、ムラサキ色のドレスの裾が風にそよいでいた。優雅に日傘をさし、ラタンのバスケットをぶら下げている。それに、どこかで見たような顔……。ひどく曖昧な雰囲気に身を包みながらも、眼を離すことを許さないような人。
「こんにちは」
その人に挨拶をされて、自分が見蕩れていたことに気付く。不思議と頭痛も身体の不調もすべて消えてしまっていた。ただ、段々と意識がぼんやりとしていって、頭の中に霧がかかっていくよう。頭を振ってみても霧は晴れないでますます深くなっていく。
ああ、わたしはだぁれ?ここはどこだろう?
そんな朦朧とした意識の中、その人の赤いつややかな唇と、バスケットから取り出した真っ赤に熟した苹果だけがわたしの意識を支配していく。
不意に唇のかたちがどろりと崩れて、言葉を紡いでいく。霞がかっていながらもはっきりとした声。
「ねえ、不思議の国へ行ってみたいと思わない?」
差し出された真っ赤な真っ赤な苹果(りんご)の色が心にぐるぐると渦を巻いて、わたしは溶けていった。
‡
今朝の目覚めはひどく茫洋としていて、授業が終わった今でもその感覚は尾を引いていた。見ていた夢の内容は所々おぼろ気で、眼が覚めた私に残っていたのはカーテンの隙間から差す朝日が瞼の裏に落とす強烈な赤い色と、夢の概観。仔細を把握しようと思い返してみても、掬った水は指の隙間から零れていってしまう。
夢見の悪さはいつも通りだった。思い出せないようなことに意味なく固執しても、奪われるのは時間と体力と。詮無きこと、詮無きこと。そんな無駄な努力にも飽き飽きして、自分の今の状況に思いを馳せる。
四月も一週間が過ぎたころ、構内の長椅子の上で今日も私は相方の遅刻癖の被害を被っていた。「四限が終わったら校門で待ち合わせね。今日は遅れないから!」なんて本人は言っていたけど、四限の終了を知らせるチャイムが仕事を終えたのはもう三十分前。私は宇佐見蓮子に待ちぼうけを食らっている。
夢の尾を断ち切るために本でも読もうと思い立つけど、こんな日に限って読みかけの本が手元になかったりするから困りもの。きっと寝る前に読んだ際に枕元へと置いてきてしまったのだろう。仕方なく目の前の光景を眺めると、四月の構内は雑多に行き交う人々と喧騒に包まれていて喧しい。どうやら私には優しくないようだった。
きょろきょろと辺りを見回しながら動き回る新入生に、それを狙うハイエナのようなサークル勧誘の声。数人でグループを作って歓談する者もいれば、携帯端末を相手に声を張り上げる女子学生もいる。メインストリートの奥で軽音楽サークルが流行りの失恋ソングをカヴァーする一方で、腕を組んだカップルがキャッキャウフフと鼻先をかすめる。そんな光景。目に映るすべてのものが、人形劇の一幕のようでどこかよそよそしい。
何だかメランコリックな気分。きっと今朝見た夢の影響もあるのだろう。
別に人間嫌いだとかそんな分けではないのだけれど、やっぱり人ごみの中は苦手で、どうしても孤独感、疎外感といったものを感じてしまう。普通の人には用意されている席が、自分の分だけ置かれていない。そんな居心地の悪さ。
かといって、独りでいるのがつらいかというとそうではない。むしろ独りでいた方が周りに気を使うようなこともなければ、周りに煩わされるようなこともないので気が楽だ。ただ、今感じている感傷は、おそらく「独りでいる」のと「独りになる」のは違うという陳腐な言葉を感じさせられる類のものだった。
思えばこの感覚も忘れて久しい。多分蓮子と一緒に時間を過ごすようになって以来な気がする。気持ちの悪い眼をもつ私たちは、去年ここで出会い、秘封倶楽部を結成した。部員たった二人の実践派オカルトサークル。
蓮子が月と星とを観て現を知り、私が夢と現との境界を観る。世界の周縁に腰掛ける私を蓮子が中心から繋ぎ止めて、結界を暴きながら現実を拡張していく。そんな関係。彼女には夢が足りなかったし、私には現が足りなかった。もしかしたら逆かもしれないけれど。お互いに欠損している部分を補い合う関係は心地のいいもので、これまでみたこともないような世界を見せてくれる。
単に、蓮子といると退屈しないという至極単純な理由ももちろんあるだろう。蓮子が私を孤独から救ってくれた、なんてひどく大袈裟で乙女チックな言い方もあながち間違っているとはいえないあたりなんだか悔しい。恥ずかしさのあまり死んでしまいそうでそんな台詞言いたくないけれど。
ただ、今の状況を鑑みてみると、私が孤独を感じているいっとうの原因といったら疑いようもなく蓮子の遅刻だ。そもそも彼女が時間通りに来ればこんな人ごみのなかで孤独感に苛まされるようなこともなかった。そう考えてみると、蓮子のおかげで忘れられていた孤独が皮肉にも蓮子のせいで甦ってくるなんていう今の状況が少しおかしく思えて、クスリと笑ってしまう。
何から何まで振り回されっぱなしだ。きっとそれも宇佐見蓮子の本質のようなものなのだろう。いつだって世界の中心に陣取って周囲を振り回してばかりで、その傍若無人っぷりたるや大学内でも指折りだと思う。自己中心的と言えれば簡単だけど、もし蓮子が物理学の分野で新理論なんてものを発表した暁には、本当に彼女を中心に世界が回る日が来るのかもしれない。そもそも物理学だって人間を基準にして世界を解釈しようとする試みだと思うのだけど。
まあ、そんな益体のない思考はさておき、私を待たせてこんなにさびしい気持ちにさせた罪は重い。遅刻の罰としてケーキと紅茶を奢ってもらおう。
「それにしても遅いわね」
軽い溜息混じりに呟いた言葉は夕の空に消える。無為に思考を巡らせている間にどれだけの時間が経っただろう。頭上のソメイヨシノに視線を逃がすと、視界が西日に焼かれて朱に染まる。五分咲きくらいだろうか……順当にいけばあと一週間もすれば京都中の桜が見ごろを迎えるはず。そうなれば世間は一気にお花見ムードだ。
ふと、ぼやけた視界を黒と白の影が横切って近づいてくる。頭の上でゆらゆら揺れる黒い物体。
「ごめん!メリー」
「遅いわよ。蓮子」
目の靄がとれると、気まずそうな笑顔を浮かべながら宇佐見蓮子が立っていた。
‡
「いや、四限は割と直ぐ終わったんだけど教授にお呼ばれされちゃってね。それでこんなに遅れちゃったのよ。ごめんね」
「いいわよ。そんな気にしなくても。紅茶とケーキを奢ってくれれば」
「そんな……ケーキまで……」
大学の丁度西側にあたる大通りを北の方へと登りながら馴染みの喫茶店へと向かう。いつも通りのやり取りにいつも通りの安心感。財布の中身を勘定しながらげんなりと俯く蓮子を見やると不意に笑みが漏れる。
「なに笑ってるのよ、メリー。ああ今月の生活費が……」
「何となくよ。何となく。生活費がきついのなら買う本の量を減らしたら?」
「本は飲み物みたいなものよ。健康な生活には必需品なの」
何だか聴きなれない比喩が耳を襲ったが気のせいだろう。本を飲み物と呼ぶ人間など私は寡聞にして知らない。
「じゃあ蓮子は私と本とどっちが大切なのかしら」
「それは……」
気まずそうに目をそむける蓮子。遅刻の意趣返しは上手くいったらしい。
「あっ、私がメリーにお茶を奢って、その代わりにメリーのもってる本を貸してくれればいいんじゃないかしら。そんな分けで今日終わったら家にお邪魔してもいい?」
それがどうしてこういう方向に話が進むのだろう……もう随分と慣れたけど突拍子の無さと行動力は相変わらず。出会った当初は中々辟易したものだけれど、それももう昔のこと。
「仕方ないわね。じゃあ喫茶店で話が終わったら私のアパートに向かいましょう」そう言うと蓮子の顔が綻んだ。
コンクリート張りの道に人は少なく、西から差す陽の山吹色と夜前の藍色とが混ざる空から、月と星とが見下ろしていた。細く白い月が切れ込みをいれる。ぎゃあ、ぎゃあ、と喚くカラスが数羽、色に染まる空を渡った。もう日が暮れるころだろうか。
「十六時五三分三二秒よ」
こちらを見ながらレンコが言う。私のちょっとした仕草で考えていることを読みとってくれる。そんな勘の良さが蓮子にはあった。いつだか女の勘だなんていって笑いあった気もする。
「それにしても人が少ないわね。構内の騒がしさが嘘みたい。あんなに人も音も溢れていたのに」
「四月だしね。きっと誰も彼もが出会いを求めて右往左往しているんだわ。四月は出会いと別れの季節ってよく言うでしょう」
「秘封倶楽部は新規に部員を募集したりしないのかしら?」
「あら?もちろんしてるわよ?ただ入部条件がちょっときびしいかもしれないけどね」
「そんなの初めて聞いたけど……」思わず鳩が豆鉄砲を食らった様な顔をしてしまう。入部条件なんて終ぞ耳にしたことがない。
「それはね、メリー。飛び抜けて容姿が端麗で成績はもちろん主席、一つの学問を修めるのではなく数多ある学すべてに通じ、平平凡凡たる日常からこの世を跋扈する不可思議な境界に対して並々ならぬ好奇心を兼ね備えていることだわ。当然気持ちの悪い眼も持ってなくちゃだめね。あと由緒ある家系の出で親戚に石油王か何かがいたら尚いいかもしれない。人類には早すぎるような人間じゃないと我が秘封倶楽部の一員にはなれないの」
一字も途切れることなく早口に繰り出される言葉に目を丸くする。ちょっときびしいなんてレベルではなく、そんなライプニッツみたいな人間、一応最高学府と謳われる私たちの大学にだって到底居るとは思えない。まあ、次に蓮子が言うことは何となくよめているのだけど。
「そして何よりもいっとう大事なのは、私が気に入るかどうかね。これをクリアすれば他は不問よ」
予想と一字一句違わない言葉が少し乾いた唇から紡がれる。
「それで今年の合格者は?」
「もちろんゼロよ。残念ながら応募者もね。」
「まあ、それは残念だわ。今年も二人っきりで活動だなんて」
「寂しいわねぇ」
二人で声を上げて笑い合う。蓮子との倶楽部活動で一番楽しいのはこんなやり取りをしているときかもしれない。私がこう言えば蓮子はああ返し、蓮子にああ言われたら私はこう返す。予定調和じみた会話は、お互いを理解できているような安心感をもたらしてくれる。
誰もいない道の中、背を曲げ、かがみこむ形で笑っていると、地面に十字架の影が横たわっていて、咄嗟に息がつまった。
がらん、がらん。
鐘が鳴る。
「あら、こんなところに教会なんてあったのね」
蓮子に言われて西に目をやると、古めかしい教会が在る。風雨にさらされて斑模様の薄灰色の壁。鼓膜をじくじくと圧す重い音。僅かに錆の浮いた門は幾重にもツタが絡みついていて荘厳に構えている。天窓に嵌められたステンドグラスには聖母がキリストを抱く絵が描かれていて、哀れみとも慈しみとも言えない視線を投げている。その表情を見ていると次第に胸が締め付けられてくる。カラスが屋根に停まって羽を繕う。
ああ、何だか気分が悪い。頭が痛い。大きな境界を見てしまったようなそんな痛み。さっきまであんなに笑って幸せだったのに。次第に鮮明になっていく朝の夢。
「メリー?どうかしたの?」
蓮子の声で意識がはっきりする。重心を失った体躯をかろうじて保つことができた。
「ごめん……大丈夫よ。」
陽は山の端からきつく射していて、濃く冥い影が足元に生い茂る。足は動いてくれない。影に縫いつけられたようだった。
「メリー?」
不意に眩暈が走る。
地面が音も立てず、私の歩みを妨げる。
くるりくるり。地面が廻る。夕空が廻る。蓮子が廻る。天と地も逆さになって重力も逆さ。何もかも逆さになる世界で逆さ十字は象徴的に笑う。
まるで空に落ちていってしまうような錯覚は脳を満たし、上は真っ黒な影、下は宵の極彩色。お気に入りの色をすべて混ぜた醜悪な色。天も地も空虚が口を開ける。そんな光景の中で、やけに蓮子が目についた。真っ暗な水底から記憶が引き上げられる感覚に吐き気がする。
増していく眩暈。地面はついに私の足から手を離す。
つま先を離す意識の中、最後に見たのは門前に立つ女のひと。日傘をさして微笑む。我が子を哀れむ聖母の笑み。
くるりくるりと日傘が廻る。
‡
その日わたしは六歳の誕生日を迎えた。
「おめでとう。マエリベリィ」
パパやママ、お友達たちが口ぐちにお祝いをしてくれる。机の上には大きなケーキにごちそうがずらり。色とりどりのお菓子もたくさんあって目移りしてしまう。鳴り響くクラッカーの明るい音。みんなを明るく照らす電気式のランプ。
パパは誕生日プレゼントにロザリオを首にかけてくれた。ぴかぴかと妖しく光る紫水晶が、銀で作られた枠に縁取られている。銀の鎖が首筋に冷やりと触れてむず痒い。裏を見てみるとわたしの名前が彫られている。
「まあ!ありがとう、パパ、ママ」
そういってほっぺたにキスをすると、パパの顔は少し赤く染まって崩れていた。
そのロザリオはもちろんすぐにわたしのお気に入りへの仲間入りを果たして、肌身離さず付けていた。学校に通うときも友達と遊ぶ時もミサに行くときも。もちろんお風呂に入る時も寝るときだって。
けれど、彼女に頼まれたときだけは別だった。
「まあ、綺麗な首飾りね、メリー。色合いがあなたにピッタリだわ。ちょっと見せてみてよ」
そう笑顔でいう彼女にわたしはロザリオを渡した。彼女にならちょっとぐらい貸してあげてもいいかなと思った。
わたしたちは真っ暗な森のなかを歩いている。前方にはさっき話しかけてきた女のひと。不思議の国への旅の途中。頭痛は嘘のようにどこかへ消えてしまって、むしろ体が軽いくらいだった。
地面は慣れない天然の土で、木の根っこが地面を這いつくばっている。土の放つ柔らかい香りと、木々が吐き出す透き通った空気で肺をいっぱいにして足を地面に下ろす。しむ、と土が少し音を立てて凹む。慣れないその感触が何だか楽しい。ときどきバランスを崩して転びそうになったけど、彼女が手を引いてくれるから大丈夫だった。ぎゃあぎゃあと鳥が鳴いている。
「何だか楽しいわ」
高まっていく胸の鼓動と反対に、段々と周りの空気が冷たくなっていった。森の色はどんどん深くなって、おとぎ話の妖精や怪物がどこかに潜んでいそうな雰囲気をもっていた。少し怖いけど、それ以上に胸が躍る。
そうしてしばらく歩いたあと、ふと、前を見やると女のひとがいつの間にかいなくなっていた。辺りには暗闇が降りていて一寸先しか見えず、後ろを振り向いても来た道が分からない。その場に立ち止まり、途方に暮れる。高まっていた心臓の鼓動はいつのまにか静かになっていた。どうしよう。どうしよう。すぐに焦り始める心の一方で、わたしの目はそれを捉えた。
黒い裂け目。女の人が消えた場所にぽっかりと、その暗がりが落ちている。
‡
乾いた音。かさり、かさりと紙の擦れる、そんな音。風と共に耳を掠めては去っていく。
夢の残滓が渦巻く中、意識を凝らす。今度は夢の内容がはっきり残っている。六歳のころの、忘れるはずが無いのに何故だか忘れてしまっていた記憶だった。
瞼の裏にはひどく見慣れた色が付いている。じっとり纏わりついてくるそれが嫌で、私は目を開いた。薄い涙が膜を張って、ぼやける視界。映るのは、いつもの照明、いつものベッド、いつもの窓、そしていつもの相方。
「あら、メリー、起きた?」
変わらない声が響く。
「私の家……?」
「そうよ」
「……レンコ?」
「そうね。私は宇佐見蓮子で、あなたはマエリベリー・ハーン。いやあ、びっくりしちゃったわよ。教会の前で突然倒れたんだから。体調でも悪かった?私を置いて夢に召されちゃったのかと思ったわ」
蓮子はベッドに凭れて本を片手に持っている。私が読みかけていたその本。夢に召される、だなんて中々笑えない表現だ。
「ああ、これ読ませてもらったの、暇だったからね。まったく『百年の孤独』だなんて随分と寂しがり屋ね、メリー。ああ、ちなみにもう九時を回ってるわよ、おはよう」
「もしかして、運んでくれた?」
「柔らかかったわ」
「何がよ……」
蓮子は薄く笑っている。かた、と水の入ったグラスをサイドテーブルに置いてくれた。身体を起こすと掛けられていた布団が音も無く落ちる。グラスに手をやって、一口含む。先ほどの体調の悪さはなりを潜め、起き抜けに水が効く。
「ごめんね……」
「思ってたより軽かったから大丈夫よ」
「ううん、それもそうだけど、心配させちゃって」
「まあ、慣れてるといえば慣れてるしね。それにこっちもちょっと申し訳ないもの。人でいっぱいの構内で待たせちゃって。人ごみが苦手なのよね、メリーは」
普段は遅刻ばかりで、一見するとがさつにも思えるけど、こういう状況になると蓮子はとことん気が利いた。持ち前の器量のよさに鋭い勘。テキパキと動く手足は効率よく物事をすすめる。そもそも彼女が学ぶ物理学なんてものは、直観的に物事を把握する力と、論理的に理論を組み立てていく力、その両方を同時に必要とするものだ。整然とした思考と整然とした行動。その二つを兼ねそろえていた。ただ、何故か時々ひどく不器用になることがある……あれはなんなのだろう。
はた、と鼻を刺激する匂いがあるのに気付いた。視線を丸机の上に延ばすと、そこには瑞々しいレタスが盛られたサラダと多分、冷蔵庫にあったカラスミを使ったパスタ。それに玉ねぎのスープ。
「ご飯にする?冷蔵庫にあったもので簡単にあしらえたものだけど」
その言葉にうなずくことしかできない。冷めてはいたけれど、温かい味だった。
蓮子の手ずからのご馳走を堪能したあとは、お茶の時間だった。今度は私が紅茶をいれようと台所に立つ。
「ねえ、結局、さっきはどうして倒れちゃったの?境界でも見えちゃった?」
「天窓に嵌められていたステンドグラスにびっしりとね……それに、最近夢見が悪いのよ。まあいつものことだけど」
「うわぁ……随分とおしゃれなステンドグラスね、それ。ってまた夢の話?」
「今度は正真正銘ただの夢ね。随分と昔の話」
「あら、メリーの子供のころの話だなんて楽しそうね」
蓮子が猫のように瞳を輝かせている。私の気持ち悪い眼の存在を知っていながら、こんな風に無邪気な顔で訊いてこれるのは、彼女自身も同じようなものだからだろう。それがありがたかったりする。
「聞きたい?」
「よければ」
薬缶が音を立てている。十分に熱せられた湯をポットへ。国で習った作法をきちんと守る。カミツレの薄茶色の葉がひらき、湯は段々と染まってゆく。カップを二人分、机にのせる。陶器が少し音を立てて空気が震えた。ゆっくりと香りが拡がる。仄かに甘い、苹果(りんご)の香り。
「私が六歳の誕生日を迎えたころの話よ。多分、生まれて初めて境界を越えたときの。そんな話」
「へぇ、やっぱり生まれつき見えてたんだ」
「まあ、ね。ただはっきりと違和感をもって見るようになったのはその事件がきっかけなの。私が結界暴きを禁止しているのもきっとそれがあったからだと思う。
当時の私にはいつも一緒に遊んでいる女の子がいたわ。私もその子もやっぱり不思議なものが大好きで、『不思議の国のアリス』みたいな世界にあこがれてたの。丁度、蓮子と倶楽部活動をしているようなものよ。私より二つ年上で気が強くて、私の手を引っ張ってくれるような人。何だか蓮子みたいね。きっと記憶が上書きされているのかも。
その子は教会の神父様の娘だったの。どれくらい仲が良かったかっていうと……そうね、誕生日に親からもらったロザリオを貸してあげるくらい。六歳の私には宝物でね。肌身離さず身に着けていたそれを離すのは彼女に見せるときくらいなものだった。
事件があったのも彼女にロザリオを預けていたときだったわ。ミサが終わって二人で遊んでいたとき。確かミサの内容はアダムとイブの話だった。ありきたりだけど、蛇にそそのかされて楽園を追われてしまう、そんな話」
「あら、メリーの家ってキリスト教徒だったの?」
蓮子がず、と紅茶を啜って尋ねてくる。私もカップを口元に運び乾いた唇を湿らす。
「違うわよ。ただ、欧州の方ではやっぱり根強くて、友達にも何人かいたの。彼女もそうだったし、それにミサが終わった後のお勉強会は楽しいのよ?みんなで賛美歌を歌ったり、終わった後にはお菓子でパーティーが開かれることもあったわ。」
「それになにより」私は続ける。「信じるだけでみんなが幸福になれたなら、それよりいいことはないでしょう?」
「随分と平和主義的というか楽観主義的だったのね。六歳のころからのんびり屋さんだったなんて東北人みたい」
「ただの子供ですわ。」
乾いた笑い声が部屋に響く。
「まあ、そんな分けで私たちは教会の庭で遊んでいたの。シロツメクサの冠を作ったりして。彼女は冠を作るのがすごい上手で憧れていたわ。私は上手く作れないから四つ葉のクローバーを探してばかりだった。
直ぐに日が落ちてきて、私たちは日課の探検ごっこに出ることにしたのよ。そこまではいつも通りだった。毎日毎日くりかえしていること。ただその日のおかしいところは門の前に一人の女のひとが立っていたの。私と似た髪に眼。洋服もそっくりな人。
その人を見るとすごい頭痛に襲われて立っていることもままならない。それなのに、一度直視するとそんな痛みはどこかへ吹き飛んで、代わりに不思議な感覚を覚えたわ。視えているのに、何故だか視えていないような感覚。
そしてバスケットから苹果をとりだしてこう言うの。
『不思議の国に行ってみたいと思わない?』って。
何だか不思議な声だった……嘘の香りがするのに信じずにはいられないような声。唇をちろりと舐める舌が蛇みたいだった……。私たちはうなずいたの。もちろん最初は疑ったし、危ないとも思ったわ。けれどその人は私の叔母だっていうの。一度も見かけた覚えなんてなかった上に、そもそも叔母がいるのかどうかすらも分からない。けれど、確かに外見は似ているし、私が生まれたときの話やら何やらつらつらと話し続けていて、まるで私より私のことに詳しいみたいだった。
それで結局着いていくことにしたの。『不思議の国』がもつ甘美さに抗うのは難しかった。アリスの物語は私たちにとって聖書以上に聖書だったわ。こんなこと言ったら怒られてしまいそうだけどね。
つまらない合成品に溢れた街から逃げ出したかったの。
彼女が目指したのは教会の裏にあった森。親や近所の人からは危険だから立ち入るな、って釘を刺されている場所だったわ。ほら、どんな街にだって一つくらいあるでしょう、そんなところ。禁止されるものってやっぱり惹かれるのよね。さっきまでの不安は吹き飛んで、もう胸は期待でいっぱいだった。子供は単純だわ。
森の中は暗かった。それまでに経験したのとは全く違う暗さ。暗闇が手をのばして、こうひっそりと肌を掴んでくるの。じっとりとねっとりと。自分の輪郭が段々とぼやけていって混ざっていくような、そんな感じ。多分、陽は出ていたはずだけれど、頭の上には楡の葉が格子を作っていて夕の弱い光は届くことができなかった。
地面は慣れない天然の土だったの。普段コンクリートしか踏んでいない足が驚いていた。歩くたびにしむ、しむって音を立てて土が凹んで何だか楽しくなったのを覚えている。
そうして歩いていたらね、前を案内していた女のひとが突然姿を消したの。それこそ音もなく、一瞬で。何が起こったのか理解できなかったわ。けれど頭が理解する前に私の眼は異変に気付いたの。さっきまでその人がいた場所に大きな大きなスキマが口を開いていたの。私たちに選択肢はなかった。後ろを向いても来た道は分からないし、辺りを見回しても、同じような樹がつらつらとどこまでも続くだけ。正直怖かったけれど勇気を振り絞って飛び込んだわ。その中へ。」
そこまで語り終えると、紅茶のポットが空になっていた。再び湯で満たして葉を蒸す。蓮子はカップを両手で押さえ、私の眼を覗き込みながら聞いていた。持て余した視線を窓の外へやると、月には薄雲が掛かりその位置を特定できない。仄かな光をはなっている。
「それでね。そのスキマの中に足を踏み入れると、一瞬にして視界が変わったの。蓮台野で桜を見たときのように。それまで肌に染みていた暗闇が晴れて春らしい陽光に包みこまれたわ。赤や白の見たこともない花びらが咲き乱れていて、空気は透き通っていた。根本的にさっきまでいた場所とは違うって直ぐ分かった。今思い返してみると、あの夢の世界と同じ世界だったのかもしれない。合成品の無機質な感じは全く感じられなかったわ。きっとすべてが天然ものね。
私たちは直ぐに遊ぶのに夢中になった。立派に咲き誇る花を摘みあったり、近くを流れる小川で水を掛け合ったり……まさか本当に『不思議の国』にやってこれるなんて思わなかったからすっかりはしゃいでしまっていた。女のひとのことなんてもう微塵も考えていなかったわ。そうして時間はあっというまに過ぎていった。
時間の流れに漸く気がついたころには、もう夜が降りてくる寸前で、藍色の空には数えきれないほどの星と丸く輝く妖しい月。流石の私たちも段々怖くなってね。そのときになって初めてどうやって帰るのか分からないことに気付いたわ。
けど、そうして考えていると、視界の奥の方に球状の影のようなものがふわふわと近づいてきて、突然中から女の子が現れたの。黒いワンピースに身を包んで、頭には赤いリボンを結わえていた。綺麗な金髪が爛々と光を放ちながら、こちらへと寄ってくる。両手を広げていて、なんだか磔刑にされたキリストを連想したわ。なんとなしに違和感を感じて足元を見てみると、その子、宙に浮いているの。顔は笑ってはいたけれどまるで能面がのっぺりと貼り付けられたような顔で、真っ赤な瞳はどこにも焦点を当てず、ただ漠然とこちらを見ているってことしか分からない。野生の動物が捕食本能にしたがって獲物をとらえようとするような……。
白く鋭い犬歯が月の光に反射して、私たちは逃げだしたの。だってアレは人間じゃないんだもの。姿形だけみれば確かに人間に違いないけど中身は全く別の生き物だわ。人間を食べる生き物。大昔の物語の中にしか存在しないもの。
私たちは必死に逃げたわ。小さいからだが出せるだけの力を振り絞って走った。追いつかれたら死んでしまう。けれど足元は整備もされてないし、道だなんて言えるものじゃなかった。木の根っこは蛇のように地面を這っていて、一緒に逃げていた子がそれに引っかかって転んでしまったの。すぐに振り返って手を伸ばしたわ。彼女も泣きじゃくりながら必死に手を伸ばしていた……けどその子の前にはもうアレがいて……熟した鬼灯のような口が信じられないほど大きく拡がって……。
次に覚えているのは教会の門の冷たい感触。どういうわけだか、私たちはもとの場所に戻って、門に凭れかかっていたの。何事もなかったかのように。隣には彼女もいたわ。どうして?彼女はアレに食べられて……。
目覚めた彼女に訊いても何も覚えてないっていうの。何回聞いても何回聞いても分からないって。人形みたいに。私もさっきまで自分が眠ってたんじゃないかって疑ったわ。けど靴にはこの辺のものじゃない泥がついているし……それになにより彼女に預けてたロザリオがないの。私が失くすなんてことは多分ないと思う。夢だったのか現だったのか……私には分からない。
けれど、次の日、教会に行くとね、今まで見えなかったものが見えるようになってたの。磔になったキリストや我が子を抱く聖母に黒い罅が無数に走っているのよ。昨日のこともあって吐きそうだった。急いで私は外に出たわ。逃げるように。
それで子供心なりに覚ったの。多分アレは見えてはいけないものなんだって。越えてはいけないの。『不思議の国』と現実が分けられているのには理由があるのよ。二つのものが境界をもっているのには理由があるの。両者が無差別に干渉しあったら均衡が崩れてしまう。差異が消えてしまったら世界は何も生成しなくなってしまうの。けど私にとっては夢と現の区別なんてなくて……ああ、頭が痛くなってきた……」
「メリー落ち着いて。ほら、お水」
「ありがとう……蓮子」
コップ一杯分の水分を補給する。ずっと話していたせいで口の中はからからだった。どこか熱っぽい気もする。
「メリーは少し考え過ぎなのよ、変なところで。物理屋の私がこんなこというのも変だけど、夢と現を分ける最終的な要因っていうのは意志なのよ。それとも信仰って言ってもいいかもしれない。
物理学なんかは観測に対する信仰ね。どんなに実験をしても、その結果を全く信じなければただのおままごとにすぎない。主体にまず、信じる意志があってこそ客観的なデータは意味を持ち始めるの。物理屋らしからぬ発言で申し訳ないけどね。でも実際、私が研究データを信じない限り、私は考えをすすめられない。
けどその一方で客観が主体を規定する側面っていうのも無視はできないの。物理的にみれば人間存在だって一つの現象にすぎない。そして現象っていうのは周囲からの、観測者からの干渉行為があって初めて存在論的にも意味論的にも同定され得るのよ。つまり観測者たる存在がなかった場合、主体は主体として成立しない。
結局、世界っていうのは主観だとか客観だとかそんな一義的には表せないの。主観は客観を規定せざるを得ないし、その逆もまた然り。独我論だなんて今更流行らないのよ。だからね、メリー。何かあったら私に相談するといいわ。いつでもカウンセリングしてあげるから、もちろん物理的にね。ああ、喉渇いた」
「はい、お水」
「ありがとう、メリー」
蓮子のいっていることはとことん要約すると「私を信じろ」ということだろう。相変わらず豪快だなぁと思う。少し豪快すぎて笑ってしまう。そもそも秘封倶楽部は私と蓮子、二人で一つのサークルだ。もしかしたら私が独りでうじうじと悩んでいるのを見るのは彼女としても寂しいのかもしれない。そう考えると少し申し訳ないようにも思える。
「あと、メリーの話を聞いてて思ったんだけど、その叔母さんはどうしたの?」
「それが……叔母さんなんて私にはいないらしいの。両親は二人とも一人っ子だし……」
「あら、ミステリーね。夢の世界のメリーだったりして」
「もう、やめてよ。ただでさえ混乱してるのに」
蓮子は「あはは、ごめんごめん」といっておどけてみせた。けれど、あれだけ似ているのだから私に関係があるのは間違いないだろう。
「でもなんでいきなりこんなこと思い出したのかしら。すっかり忘れていたのに。」
「それもそうだけど、今の今まで忘れていたっていうのも中々凄いと思う。私だったら絶対忘れないわ。記憶障害?」
確かになんで忘れていたのだろう。不思議でならない。今はこんなに鮮明に思い出せるというのに……。痴呆にはいくらなんでも早すぎる。記憶障害だとしても私はなんて厄介な人間なんだろう……。もしかしたら、エイリアンか何かに記憶を改竄されてるのかもしれない。そう考えると気がめいる。
時計を見るともう深夜の一時を廻っていた。どのくらいの間話していたのだろう。この時間なら蓮子の宿泊は決定事項だ。それにいい加減、瞼も重くなってきた。
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四月の気温は、掛け布団で寝るのには熱く、かといって毛布で寝るのは寒かったので、二人で毛布にくるまることにした。
「今日のことって、もしかしたらメリーが夢の世界に行けるようになったことと関係があるのかもね。」
蓮子が天井を見上げながら言う。
「うーん。そうなのかな。確かに時期的にはぴったりだけど」
「それに記憶っていうのも引っかかるのよね。夢や幻想がこの時代に失われたものなら記憶とも関わって来るし」
なにやら考え事をしているらしい。かくいう私の意識は次第に薄らぎ始めている。
「メリーの故郷ってギリシャよね?」
「うん……京都へ引っ越す前まではね。」
「いつかいってみたいなぁ」
「いきなりどうしたの?」
「いや、なんとなく……メリーの昔話聞いてたら何だか気になっちゃって。メリーの記憶を辿る旅とか楽しそうじゃない」
「私は東京へ行きたいわ」
「夏に一緒に行くんでしょう?」
「行くべきところは山ほどあるわね」
「まあ、ゴールはメリーの故郷、ギリシャね」
「なんでよ」と答えると「なんでも」と返される。全く卑怯だ。けれど、きっと蓮子と行く場所はどこも楽しいことだろう。
ああ、いつまでもこんな関係が続いてくれればいいのに。
そんなことを考えながら落ちていく意識の中、繋いだ手の温かさが、ただ、心地よかった。
作中で何度も出てくる「リンゴ」が印象的。ゆかりんが差し出したのもリンゴ、ミサの内容であるアダムとイブが楽園を追い出された原因もリンゴ、カミツレ(カモミール)の語源は「大地のリンゴ」を意味するギリシア語(しかもちゃんとメリーの故郷がギリシャだし)。
ミサの内容が伏線だったとするならば、ゆかりんのリンゴを差し出す行為というのは「楽園から足を踏み外して見ない?」てな感じでしょうか。
リンゴという小道具を始めとして、細かいところまでよく練られている印象を受けました。とてもよかったです。
って……
え?え!?
何のゴールですか!
絵的には凄いいい。想像すると綺麗、そんな感じでした。
最後のニ行が作品の全てを物語っていますね。
優しくも暖かな不思議さに満ちた作品だと思います。
知的だが嫌味でない秘封倶楽部の会話が見れて良かったです
続編があってもおかしくない終わり方にみえたのですが期待してもいいのでしょうか?
続きが読みたいなあ。