◆
「…ふふふ。ここなら絶対見つからないもんね!」
草木の茂っている中で、特になんら変わった所がない一本の木。
その木陰に隠れた理由はこれといってあるわけでもない。
大きい木に隠れればすぐにばれる、小さいと見えてしまう。
故にギリギリ体の大きさに合う木を選んだのだ。
「これだけいっぱい木があれば、そう簡単には見つからないよね」
「その中で一本だけ目立つ木があったらどう?」
「ひっ!うわわ!?」
突然の後ろからの声に、慌てて振り返る。
「な、なぁんだ。お姉ちゃんかぁ、あんまり驚かせないでよ~」
「…かくれんぼしようって言ったの、こいしじゃない。鬼は見つけるものなのよ」
「鬼に会ったら…まず逃げる!!」
「あっ!確かにそうは言ったけど――今度は鬼ごっこになるのかしら…苦手」
薄く緑がかった癖のある灰色のセミロングに緑の瞳、古明地こいしは駆け出した。その遊び心は追う者を遠ざけていく。
やや癖のある薄紫の髪に瞳、古明地さとりは眠そうな表情のまま後を追う…が。
「はぁ、はぁ…。こ、こいし。お姉ちゃん、もう走れない…」
「えぇー?それじゃぁまた私の勝ちね!」
走ること、というよりも運動に関してなら、さとりよりもこいしの方に分があるらしい。ようやく歩みを止めたこいしに追いついたさとりは、はぁーっと深く息をついた。
「もう、かくれんぼはどうしたのよ」
「ひとつ終わればまたひとつ!勝つためには歩みを止めてはいけないのだよ?」
「…また本のしゃべり方真似してる」
気がつけばもう夕方。夜には帰ろうとするのは人だけの習慣ではないらしい。
「そろそろ帰るわよ」
「えー!あ、」「あともうちょっと、はだーめ」
「あー!そうやってまた人の心を読むんだからー!」
既に帰路についているさとりの目の前を、騒がしく一緒に歩いていくこいし。
「むむー…。私だって読み返してやるぅ!」
「そうね。いくらでも御覧なさい。見られてやましい欠片も無いわよ」
じーーっとさとりの顔を凝視する。別にそんなことをしなくても容易に相手の考えている、すなわち心を読み取ることはできる。
「んん~…あー!凄いことが今明らかに!!」
両手を広げてぱぁっと笑顔になる。こうする時は、嬉しい楽しいといった興奮気味ということだ。
「お姉ちゃん、私のこと大好きなんだ!」
「…ええ。好きよ、こいし。ほんとにいい子ね」
灰色の髪をサラサラと撫でる。その感触は暖かい。まるでこいしの心そのものに思えた。
「私もね、お姉ちゃんのこと大好きだからね!」
「…」
はいはい、っと一緒に手を繋いで帰る。
そんなこと、心を読まなくてもお互い分かりきっている。
さとりは太陽の光が苦手だ。昔から地底に住んでいたせいか、日光に対しての耐性があまりなかった。
それに比べてこいしは明るい。さとりよりもずっと元気で、暖かい。
その上、太陽よりもよっぽど眩しい。
でも、こいしの眩しすぎるくらいの光は、さとりにとって、目を開けていられるくらい愛しい。
◆
「お姉ちゃん~。ご飯食べないのー?」
「…ん、もうそんな時間?ごめんね、気づかなかったわ。今行く」
最近妙にさとりが部屋に篭り気味になっていて、こいしと一緒にいる時間が少しだけ減っていた。
微妙に気になるこいしだが、さとりが隠し事などするわけもないのは知っている、。言い換えればできるわけもない。
「これがいわゆる…引き篭もりってやつですかい?どう思います?お隣」
「誰に話しかけてるのよ」
ズイッとさとりの目の前に黒猫を突き出す。
「お燐だよ!」
「にゃーん」
眼前に突き出されたお隣の心を読んでいく。
「…私は引き篭もりなんかじゃありません。お燐、ご飯は美味しかった?」
うん!っという風に頷いて見せるお隣。ペットの会話できるのは、彼女たちの特権ともいえる。
「でもでも、最近なんか部屋にいる時間長いよね?いつもは私と一緒にいるのに…絶対なんか隠してる!」
ぐぐぐっとお互いに見つめあう。たまに意識が集中していないと、心の奥底を読むことは難しいからだ。
「…こいし」
黙っているかと思えば、先に口を開いたのはさとりだった。なぁに?っとこいしが聞き返す。
「みかん一個多く食べたでしょ。一日二個までって約束したわよね?」
「げっ!」
ササッとお隣を手放し部屋へと流れるように退避する。その様子を見て、またさとりもため息をひとつ。
「どっちが引き篭もりなのかしら。…明日までに終わらせれればいいけど」
お燐の頭を少し撫でてから、さとりは遅めの夕食をとった。
朝、今日はみかん一個にすればいいよね?なんて考えているこいしが居間にいくと、いつもは少し遅めに起きるさとりがもう起きていた。
「お、おはようお姉ちゃん。今日はなんだか早いね?」
食べ物に関しては、さとりは少し手ごわい。だから昨晩のこともあり少し動揺していた…が。
こいしは、さとりにしては珍しい様子に気づいた。やけにそわそわしている。
「おはよう、こいし。…こ、これ。あなたにプレゼント!」
目の前に差し出されたものは、本でも見たことがある、帽子というものだった。
「こ、これって…お姉ちゃんが作ったの?」
目線を落として頷くさとり。その心は動揺、期待、不安が渦巻いていた。今までのこんなさとりの様子は見たことがなかった。
さとりから帽子を受け取った時に、ふわっとした何かを感じた。
帽子は鴉羽色で、薄い黄色のリボンをつけている。結び目は左側。
今着ているこいしの服装によく合っているデザインだった。
帽子をかぶってみる。生まれて初めての体験。
「ど、どう?似合ってる?」
おずおずと顔を上げたさとりは、真っ赤な顔で、可愛い…っと呟いた。
「とっても似合ってるよ、こいし。気に入ってくれた?」
近くの鏡を見て、自分の在る姿を確認する。
「う、うん!すごい可愛い!もしかして、ずっとこれ作ってたの?」
ちょっとこいしから顔をそらして、そうよっと言う。
「わー!すっごい嬉しいよぉ!ありがとう、お姉ちゃん!!」
ガバッとさとりに抱きつく。勢い余ってソファーに倒れこんでいく。
「こ、こいし。お姉ちゃん苦しい…」
「ふふふ~。あ、でもそういえば。なんで心を読んでも分からなかったんだろう?」
ぎゅっと抱きしめるこいしによって、やや苦しいさとりは息を吸い込む。
「そ、それは秘密」
「えー!やーだ!教えてよぉ。秘密ってことは裏があるんでしょ?」
「う、裏なんて、ないわよ。なんなら、読んでみなさい…」
「そうやっていじわるするー!読んでも分からないから教えてよー!」
「こ、こいし…そろそろほんとに苦しい。お姉ちゃん、苦しい」
「もー!だーいすき!!」
朝から何やら騒がしいと思ったお燐が、終始彼女たちのやり取りをずっと見ていた。
二本ある尻尾が絡まってしまうくらい振って。
◆
地上の光が行き届かない場所に地底は存在する。
地底にはごくつまらないありふれた景色しかない。
一面に岩や岩盤、最も深いところには溶岩さえもむき出しに流れ出ている。
こいしにとって、さとりにとっても同じありふれた景色でも地上は色鮮やかな世界に見えた。
「んふふ~。ふふふ。うふふ~」
「あら。それはなんていう曲なの?」
「え~?へへへ~分かんないやぁ。サードアイ!とか?」
さとりがくれた帽子をかぶって、いつものように地上に出てきていた。辺りは一面緑の色。
地底にももっと緑が増えればいいのに、なんて二人は思う。
見たことがあるような、ないような。気の赴くままに道をなぞっていくと、前方からにぎやかな声が聞こえてくる。
「んー?珍しいね、こんな場所に。一部の妖怪しか住んでないと思ってたけれど」
「こ、こいし。別の場所に…」
さとりがこいしに話しかけ終わる前に、前方から紅白色の服装をした者が一歩前に歩み出てくる。
さとりは瞬時にその者が何者かを見抜いた。こいしを腕で制して、一歩前に出る。
この世界には他世界との境界、いわゆる次元や結界の管理をする者がいる。
それが目の前の紅白色の巫女姿の…人間。本職は妖怪退治だ。
他の妖怪ともまるで交わりがないさとりたちは、霧のような噂でしか聞いたことのない存在。
ただ、妖怪退治が本職とあれば、戦い、力関係で見れば他よりも遥かに劣るさとりたちには万に一つの勝ち目がなかった。
そこまでの状況を一瞬で判断し、さとりは焦燥、絶望の汗を感じた。
少しでも気を許せば奥歯がガチガチと音を立ててしまいそうなくらい怖い。でも、後ろには…。
「こんにちわ。妖怪さん」
あれほどに警戒していた相手から、まるで予想もしないような言葉が出てきた。私は挨拶されたのだ、っと気づくまで二、三度息を呑んだ。
「こんにちわぁ。変わった服装だね。お姉ちゃん、知り合い?」
いたって普通の様子のこいしに気づいたさとりは、改めて目の前の巫女を確認する。
―――なぜ気づかなかったのか。心が読める妖怪である自分が、そんな余裕までも失っていたとは。
初めて出会った人間は、一点の曇り無き晴天の持ち主だった。
「へぇ。あなたさとりの妖怪だったのね。多分、あなた達しかいないわよ」
「はい。それどころか、私たち姉妹は他の妖怪ともまるで面識がなくて。ましてあなたのような人間とは生まれて初めての出会いです」
場所を移動して、さとりは巫女と座って話しをしていた。すぐ近くでは、さきほど巫女の後ろに列を作っていた人間の子供とこいしが走り回っていた。
こうして人間と遊ぶなんて、まるで夢にも思っていなかった。
「あたしが最初に来た時、やけに身構えてたね。退治されるとでも思ったのかい?」
「思いましたよ。ほとんど本当かどうかも分からないくらいの存在だったんですから」
あっはは!っと巫女が笑う。それはごめんね~っと付け足して。
「確かにあたしの本業は妖怪を退治すること。でもね、あなた達みたいなまるで害のない妖怪なら、逆にお近づきになりたいって思うわよ」
そういうものなのか、っとさとりは思う。妖怪は断固拒否、出会ったら即退治なんて考えていて、自分はまだ浅知恵だと思い知らされる。
「ここら辺、緑が多いだろう?この幻想郷って世界には、少ないけれど人間が住んでいるんだ。人里もある。昔から人間と妖怪の関係は忌み嫌われるものであり続けていた。妖怪は人を食らい、人間は小さな力で抵抗するしかない。そんなもんだったでしょ?」
「…そう、思っていました。だから我々妖怪は、人間とは交わることは決して無いと思っていました」
それがそもそもの間違いな気もする、っと巫女は言う。風通しの良さそうな腕を、空に向かって高く伸ばす。
「ルールってめんどくさいものがあってね?巫女である私には手を出してはいけない、とか。そんなのがあったらいつまで経っても妖怪と人間の関係は変わらないだろう?」
そんなルールがあったのか…っと思う。そもそも手なんて出せるわけもないのだ。
「あなたは、関係を変えたいんですか?」
先に心を読んでみようとしても、この巫女の考えていることは、楽天家のような表情からは創造もつかないほど難しい世界観で成り立っていた。
「あたしはね、妖怪も人間も仲良くなれたらって思う」
吹いている風の音。近くで遊んでいる声。流れる川の音。全てが存在するこの空間の中で、巫女の言葉は何よりも鮮明に心に響いた。
「あたしら人間は妖怪とは違ってそう長くない寿命なの。現役でいられるっていったら、もっと短い時間になる。巫女っていっても、自分が何代目かも忘れてしまうような数の巫女が代替わりしてるのよ。あたしだって、あと何年巫女をやっていられるか分からない。今は少しずつ変わってきている人間と妖怪の不条理の鎖。あたしの代で壊したかったなぁ」
巫女は、はぁっとため息をついた。長い黒髪は風に靡いて、自然一色の景色を圧倒する。
「したかった…というと?あなたはまだ現役じゃないですか」
最後の言葉。まるで無理だった、というような意味に感じられたさとりが尋ねる。
「ん~。多分あたしの代だけじゃ無理なんだよ。今こうしてこの場に人里の子供たちを連れて来て、あなた達のような妖怪に出会えたのは嬉しいよ。でもね、巫女たちが全員そんな意思を持っているとは限らないんだ。巫女に選ばれるものは、それなりに才能や特別な力を有する。一人一人の個性は一段と顕著に表れる。あたしみたいな思考の巫女は極稀らしいんだ。紫の言うにはね」
「…ゆかり?」
「あぁ、境界を操る妖怪さ。随分な長生きでねぇ。博麗神社の巫女と一緒に他世界との結界を管理してるのよ」
そんな妖怪まで存在しているとは。巫女に協力的な妖怪、っというのも気になる。
「巫女には巫女の仕事がたーっくさんあるのよ。参拝客への御持て成し、行事の運営したり、演舞を披露したり。そんなことばっかりやってたら、そりゃ先代の巫女たちが同じような色に染まっていくのは当然だよね。だからあたしは自分の心を、思いを蔑ろにしたくない、捨てたくない。だからねぇー、仕事なんてサボってやった!」
どーだ!っとさとりに向かってピースしてみせる巫女。はにかんだ笑顔は、まだ少し幼さを残しているようにも見え、こいしと重なって見えた。
「…お仕事サボってもいいんですか?」
「いーんじゃない?なんか縛られてるような気がしてさぁ。最低限のことしかやってないのよ。あ、知ってる?まず言葉使いも直されるのよ?あたしはどうしても素が強くてねぇ。気が緩むとそりゃごっちゃになるのさ」
「つまり、今は気が緩んでいるんですね」
「おー!ばれちゃしょうがない!」
はははっと笑う巫女につられて、さとりもクスクスと笑ってしまう。
自分の抱いていた偏見を払拭しなければならない、っとさとりは思う。
巫女であるに加え、人間はこんなにも暖かい。
「さて…と」
体を伸ばしながら立ち上がった巫女は、少し微笑んでいるような、切なそうな表情でさとりを見つめた。
「最後に言わせてほしい。この世の中、思い通りにならないことがたくさんある。でもね、望むべき方向に進まなかったとしても、それも必要なことなんだと思うの。あたしのこの願いが叶わなかったとしても、しょうがないんだよ。そうなったら次代の巫女に希望を託すつもりさ」
巫女の言葉は、まるで何かを悟っているかのように思えた。さとりの心を読んでいるわけではない。もっと違う何かを見ている。
「どうか、人間を嫌いになったりしないでほしい。時代が向かい風になっても、きっと追い風になる時がくる。いつでも希望も捨てないでいて…ほしい。」
「……分かりました」
さとりは決して考えが浅いわけではない。常に周りのことをよく考えている優秀な頭脳を持ち合わせている。
だが、この時この巫女の言いたいことが、分かるようでよく分からなかった。
途中から、まるで未来の結末を知っているような話し方に変わっていっているように思えて、変な錯覚に陥ったからだ。
巫女は深く深呼吸をすると、またさきほどのような笑顔に戻っていた。
「そういえば言い忘れていたね。あたしの名前は霊夢。博麗神社の巫女。この名前には、何か特別な縁を感じるの。…ふふ。もし同じ名前の巫女が生まれたら……」
妖怪も人間も、誰もが笑っていられるような時代になってくれると信じているよ。
◆
あの巫女…霊夢と出会って以来、こいしは多人数で遊ぶことの楽しみを見出したようだった。この時代、人間と遊んでいる妖怪は、少なくともさとりの知る限りでは珍しい。
「こいし、人間が怖いと感じたりしない?」
「えー?今まで思ったこともなかったよ。みんなすっごい足も速いの!かくれんぼ上手でね、隠れる前に心覗いておかないと隠れ場所分からないんだよね…」
「こいし…それは反則じゃないかしら」
こらっ、っとするさとりからススッと離れ、てへへ~っと笑顔を作る。
こいしが人里の子供と遊ぶ時、大抵は霊夢が連れて来ている。そのためさとりは一緒に遊ぶことはあまりなく、霊夢と話をしている。
「こいしちゃん、人間が好きになってくれたみたいで嬉しいわ。大人たちは考えが極端すぎるのよ。多分ここに混ざって遊んでいたって、誰が人で誰が妖怪かは分からないと思わない?なのに妖怪ってだけで…酷いなぁ」
自分はまだ人には受け入れられないんだと、さとりは思う。霊夢が言った、自分の代では無理かもしれないという言葉が、徐々に身に染みて来た。
「ここに来るということは、他の所にも行っているんですか?」
「うん。一応ね。妖精はほんとに美しいよ。自然から生まれた尊い命。穢れていない純粋な心で子供たちと遊んでくれてる。…まぁ、なかにはイタズラするようなやつもいるけどさ、安心して見ていられるよ」
そういえば、妖精はちらほら見たことがある。自然から生まれているということは、この近くにも見ていないだけでたくさんいるのかもしれない。
「でもねぇ、大人たちも唯一妖精を敵視していないのはね。人間よりも力が劣っているからなのさ。妖怪の山には遊ばせないようにしてるのに、妖精の森では遊んで良いなんて、また変な話だよね。妖精の森に妖怪がいたらどーすんだって思うのよ」
「そんな時のために、あなたがいるんでしょう?」
「そうだね、妖怪退治はなーんかめんどくさいんだけど…。それとね、天狗って小さな組織を組んでるんだけど、上のやつが頭が固くてね。まだ少し羽が生えてるくらいの幼い鴉天狗が二人いたんだけど…上司ってやつが来て追い返されちゃったよ。山の入り口には小さな白狼天狗も見張りしてるし、こりゃ苦労し甲斐がある」
いろいろ歩き回っている霊夢だが、それといって大きな収穫があったわけではないらしい。
そう考えると、人を受け入れたさとりたちに出会えたことは、運がいい方だろう。
その時、突然霊夢が立ち上がった。夕焼けに染まる空の向こうを、鋭い眼光で見ている。
「…また今度来るね。みんなー!帰るよー!またね、さとり、こいしちゃん」
◆
あの日以来、霊夢たちが遊びに来る回数がめっきり減っていった。最後に見たあの表情。あの楽天家な霊夢からは想像もつかないほど厳しいものだった。
「ねぇーお姉ちゃん」
「んー、どうしたの?こいし」
「なんか最近暇だねぇ」
暇といっても、今まで過ごしてきた日常に何も変化はなく、ただのあの子たちと遊べていないだけだ。
「…大勢で遊ぶの、楽しいもんね。最近全然あの子たち、遊びに来てないわね。気になる?」
「気になる。でも…人間にもいろいろあるよね。しょうがないや。時間はまだいっぱいあるし」
そう言うこいしだったが、その心は退屈というよりは、寂しさの割合が多かった。長い間さとりやお隣としか一緒にいなかったせいかもしれない。
その日、こいしが寝静まった頃。さとりはお燐と一緒に外に出て行った。
時が過ぎて朝、寝ているこいしは自分の上に何かが乗っているように感じた。
「んん…なん……。…あ、あれ。お隣、どうしたの?」
こいしが目覚めると、自分のお腹あたりにお燐が乗っていた。心の声でこっちに来て、っと言う。
まだ目が半開きの状態で部屋を出ると、居間と自分の部屋の温度の違いに驚く。やけに温かい。
「おねえちゃ……ええっ!?」
「おはよう、こいし」
さとりはいつものように普通に座っていたが、問題はそこではない。いたるところに猫や動物の妖怪がいた。
「みーみー」「にゃー」
「ど、どうしたのこれ…」
一匹の頭を撫でていたさとりが、優しい笑みを浮かべたまま、
「遊び…この子たちも混ぜてあげない?大勢の方が楽しいでしょ?こいし」
そう言った。
こいしはその場の何十匹もの猫たちの心を読んだ。そしてお燐も。みんなさとりがお燐に案内させて…連れて来てくれたのだった。
『さとり様、本当に優しいお方です。こいし様のことをずっと考えていたんです』
しゃべれないお燐は、心でそう言っていた。
ほんの少し涙目になりそうだったこいしだが、取り払うように、隠すようにさとりに抱きついた。
◆
それから少しずつ時が過ぎていった。霊夢たちがまた来てくれた日には、何故かさとりも嬉しい気持ちになった。彼女にはどこか惹かれていたのかもしれない。
こいしは遊んで霊夢と話すこともあまりなかったが、彼女が好きだったらしい。あの日ペットになった妖怪たちも、霊夢になついていた。妖怪に好かれる体質なのかもしれない。
過ぎていく時の中で、さとりとこいしはあることを学んだ。それは当たり前のこと。誰にでもあること。ただ、それが一番恐ろしかったのかもしれない。
遊んだ後だというのに、こいしが落ち込んでいるような表情をしていた。
「こいし?どうかしたの?」
さとりに話しかけられて、一瞬送れて返事をする。何か考え事をしていたようだ。
「な、なんでもないよ…」
「嘘はだめ。お姉ちゃんに話して」
こういう時、心を読めばすぐにでも原因は分かる。でも、さとりやこいしは頻繁に能力を使おうとはしなくなっていた。信頼し合えるからこそ、打ち明けてもらいたいからだ。
「…あのね。こんなこと今更気づいたんだ。なんかね…怖いの」
お燐を撫でていたさとりの手が、今度はこいしの頭に移る。
こいしは…震えていた。目に見える何かに怯えているのではない、当たり前の真実が受け入れられないでいる。
「みんな…みんなみんな、私と一緒くらいの背丈だったのに…みんなに越されちゃった。声だってみんなの方が低くてかっこいいよね。顔も凛々しくなって…もう惚れ惚れしちゃう…よね」
こいしの膝の上にいたお燐が、少しだけ顔をあげた。額に暖かい何かが零れ落ちてきたから。
「…怖い。変わらず遊んでくれるのに…みんな先にいっちゃうの。私を置いていっちゃうの。どうなるか…分かってたのに。分からない、知らない振りしてたの。ほんとに…私ってバカだね…」
ぽたぽたと悲しみが零れていく。周りにいたペットたちが、身を寄せ合うように集まってくる。
「…いい子。こいしはいい子。お姉ちゃんはずっと一緒だよ。この手はずっとあなたと繋がってるから。離したりしないから…。ずっとずっと、こいしが大好き」
さとりは、泣いたりはしなかった。こいしの悲しみを、包み込んでいられるように。ぎゅっと手を握った。
「そっかぁ。つらい思いをしたね」
こいしとペットたちを家に残して、さとりはいつもの場所で霊夢と話していた。
見慣れすぎた景色。なのに、最初に出会った新鮮さがまだ残っている。不思議な場所だった。
「私たち妖怪は何千年も生きるんですから、当然のことでした。目の前の楽しさ、こいしの喜ぶ顔が見たくて…それだけを考えてました」
霊夢の顔を見て話す。巫女は特別なのか、他の人間よりも老化が遅いように感じた。ただ、幼さを宿した表情ではなくなっており、大人らしさを感じる堂々とした表情だった。
「…妖怪と人間が交わるなら避けては通れない道。あたしはこうなることは分かってた。それでね、こいしちゃんが泣いてくれて、嬉しかったよ」
「……」
「人間と交わった妖怪が、人間のために泣いてくれたんだ。それだけでも…あたしのしてきたこと、間違ってなかったって胸張って言える。人の身であるあたしにとって、長い時間かけて…ようやく出た小さな芽かな」
黙って霊夢の話を聞いていたさとりは、自分の中に渦巻く不安を押しぬけるように言葉を紡ぐ。
「…もう、ここには来ないんですか?」
「……あぁ。あたしの仕事はもう、お終いなの。この幻想郷を出て行く。これが最後の役目。次代の巫女に伝えられるだけのことは伝えた。ちゃんと鍛えてあげたし、中々生意気なやつだったけど、相応の実力だってある。仕事を忠実にこなすような子」
『あたしと同じような志は、持ってなかったんだけどね』
霊夢の心に残った言葉を、さとりは聞いた。悲しい、何より、もう終わりなんだと思うと、目頭が熱くなっていく。
「さとり。あなたは、あたしのために泣いてくれなくていい。あなたには、何よりも守るべきものがあるから」
霊夢は立ち上がって、そっと正面からさとりを抱きしめた。
「あたしは絶対に忘れたりしない。この幻想郷でのこと。死ぬ時まで、死んでも心に刻み込むよ。忘れない、絶対に。絶対に忘れたりしないから!ありがとう、さとり…ありがとう」
『…また、会いましょう。いつの日か』
◆
最後の晩、霊夢は一人暗い道を歩いていた。そこはさとりたちが住んでいる少し近く、何百年か前まで盛んな活動場所だった、地獄の地表。今は無き鬼たちの都。
「…おーい、もう一本取っておくれよ、お酒」
「これは私の分だ。それに、あんたは自家製の無限酒があるだろう?」
「違うよ。お客さん用」
「客だぁ?こんなとこに……へぇ」
二つの影が揺らめいている明るい場所に、霊夢は歩み近寄った。
「…鬼はあなたたちだけかしら?」
「おうよ。他は退屈に痺れて地獄の奥底に行っちまった。地上にもまだ捨てたもんじゃない景色があると思うだけどねぇ。まぁ、そう感じたのは私とこっちのちっこいのだけだったみたいだ」
「ちっこい言うな。それなら妖怪山よりでかくなってみせようか?」
二人の会話を、霊夢は気にとめたりしない。
「…星熊勇儀、伊吹萃香。あなたたち鬼に、頼みがあってきたの」
「ほぉ、私たちの名前知ってるのかい。そういうあんたは、神社の巫女さんのようだけど。退治されてくださいって言いに来たのかい?」
「違うわよ。あたしは今日限りで今までの役目を終えて、外の世界でごく普通の人間になる。最後に…最後にあたしの願いを聞いて欲しい」
「ふぅん…。あんた、鬼を何だと思っているんだい?希望を叶える神様とでも?」
「萃香、ほらほら落ち着きなって。わざわざ私らに持ちかけた話だ。何か面白いことかもしれない」
勇儀の方は興味を持ってくれたらしい。だが、萃香の方はプライドを刺激してしまったのかもしれない。目を合わせただけで、一瞬体にビリッという感覚が走るほどの圧力がかかった。
「…地底に住む、妖怪のことについてお願いがあるの」
◆
数十年、いやもっと多くの時が流れた。
最後に霊夢と分かれて以来、さとりとこいしは人間と交わることはなかった。新しい巫女の顔を見ることもなく、穏やかといえば安定した日常が、寂しいといえば不安な日常が過ぎていた。
それでも、こいしは立ち直ったようにさとりは思う。最近は特に、忙しくペットにかまっている。
「噂に聞いたんだけど、妖獣も人型になれるみたいだよ?」
『そうなんですか。でもあたいには無理ですよ、きっと』
「んー…お燐は中でも力があるから、頑張ればできると思うんだけどなぁ」
『さとり様は何かご存知ですか?』
「私もよくは知らないけれど…吸血鬼や天狗はね、自身の姿をコウモリやカラスに変えることができるらしいの。人型から妖獣に姿を変えてるけど、逆もできなきゃ元に戻れないよね?だから、私はできると思うよ」
「凄い…。やったね!!お燐も立って歩けるよー!」
『気が早いですよ。でも、頑張ってみたいです』
こんな話が出るものだから、ペットの間で我先に人型へ、なんて意識が高まっていた。その中でも、最近ペットになった小さな八咫烏も人型へ思いを馳せた。
「ねぇ、こいし」
お燐の尻尾を触っていたこいしが、さとりの方を向く。
「…久々に、散歩でも行かない?」
久しぶりともいえる地上は、相変わらず色鮮やかで賑やかな世界だった。
さとりがこいしを誘った理由は他でもない、人間に会いたくなったからだ。
それはこいしも同じ。お互いに心の内が分かっているからこそ、何も言わずただ歩いていた。
「…ここら辺にも妖怪が増えたんだね。気配が多い」
「そうね。こんな綺麗な場所だもの。住んでしまいたくなるのも分かるわ」
それでも彼女たちが地底に住み続けるのは、生まれながらの習性なのかもしれない。
その時、遠くの方で何かの音が聞こえた。確かにそれは彼女たちの耳に届いた。懐かしい響き。
「…!」
二人は何も言わず、賑やかな方へと駆けていく。次第にはっきりしていく音。紛れも無い、声。
そっと草陰から覗くと、二人の人間の子供が木に登っていた。
「…小さいのに元気だね。でも人里の子供がこんな場所まで来てるんだ。巫女が一緒なのかな?」
こいしがそういうと、さとりは考える。確かにここはそこまで人里からは離れていない。だが、子供二人で来るには遠いように思える。それなのに、周りにはあの子たちしかいない。
バキッ!!
何かが折れたような音が聞こえた瞬間、悲鳴にも似たような叫び声が一瞬だけ聞こえ、地面に横たわる子供の姿があった。
「ば、ばか!気をつけろって言っただろ!お、おい…しっかりしてよ!」
木に登っていた一人が落ちたのは明らか。ピクリとも動いていない。
「お、お姉ちゃん…どうしよう」
「うっ…」
内心では助けたいという気持ち。だが、人間の問題に安易に妖怪が足を踏み入れていいのかという壁がある。今度は…霊夢もいない。
そうこう考えていると、向こう側から足音が聞こえてくる。もしかしたら、大人たちが来てくれたのかもしれない、っと二人は考えた。
しかし、違った。その姿は獣のような体つきで、鋭い爪が光っている。
「…偶然だな。こんなところに人間がいるとは。最近は巫女の取り締まりが厳しくなったおかげで食事もできやしない。悪いが…運がなかったな」
その妖怪が、子供たちに近づいていく。
「う…う、うわぁああああああ!!」
気を失っている子供を残して、草むらへと逃げ込んでいく。
さとりとこいしも、あの逃げていった子供と同じように叫びだしそうになっていた。自分たちの目の前で今から起こりうる光景に恐怖した。
「ふん…。それじゃぁ……っ!?」
倒れている子供の目の前に、妖怪の目の前に二人は飛び出した。何も考えず、無意識の行動だった。
「おまえら…妖怪だな。なんのつもりだ」
鋭く睨みつける目。さとりたちに注がれた敵意。
「や、やめて。この子が可愛そう!」
背中にぞわっと何かが這うような感覚に襲われながらも、相手に言葉をぶつける。精一杯出した声。
「可愛そう?何言ってんだよ。妖怪が人間を食らう。当たり前のことだろ!邪魔するならまずおまえらから…」
「…巫女に片腕を落とされて、命からがら逃げ帰ったあげく、仲間には獲物も満足に狩れないのかと罵られ…そう、あなた焦っているのね」
一歩前に出たさとりが、向かい合う妖怪と対峙する。その目は決して誰にも見せることのなかった、冷たく青い目。
「な…なんで。おまえ、俺の心を…」
一歩出るさとりに対して、一歩後ろに下がっていく。戸惑い、恐怖。あらゆる感情が心を支配していく。
「まだ受けた傷も癒えていない。…そう、足首も怪我しているのね。最近歩けるようになったばかり。目も左がよく見えていないのね。…次は何を聞きたい?」
心を読まれていると分かってしまっても、分かってしまったからこそ、考えてはいけないようなことを考えてしまう。読まれる不満から読み取ってほしくない情報が、惜しげもなく彼女たちに把握されていく。
「…この子も同じ力を持ってる。あなたの心を、全てを読むわ。いくらでも弱点を晒しなさい。やりあうというなら、かかってきなさい」
「…ち、ちくしょう!!!」
もはや息も絶え絶えだった妖怪は、背を向け消えて行った。
「は、はっ。こ、怖かった…。お姉ちゃん、凄いね…」
こいしが話しかけると、その場に座り込むさとり。首筋や額に汗をかいている。
「…何言ってるのよ。私も怖かった。それよりその子…大丈夫?」
見たところ、息はしているようだった。目立った外傷はない。
「ここに居ても何だし…行きましょう」
まだ二人よりも小さい子供を抱えながら、人里の方へ向かう。その途中も目を覚ます様子はなく、次第に不安になっていく。あの逃げた子供も来る様子はない。
歩き出して少し経ったころ、向こうに人里らしき場所が見えてくる。
「あれかな?」
「…多分」
今まで見たことがなかったが、人間がいるところを見るとそうらしい。初めて来た、人里。
里の中央に、何やら人だかりができている。大勢の大人たちが集まって何かを話している。
「多分この子のことだね。どうする?」
茂みに隠れながら、二人は考える。助けたとはいえ、人前に出て行くのは少し抵抗がある。
ドサッという音が後ろから聞こえる。振り返ると、後ろに倒れこんでいる人間がいた。
「で、ででででたぁああああ!!!!」
「ちょ、ちょっと!?」
いきなり大声をあげられて驚くやすぐに、駆けつけた大人たちが口々に悲鳴をあげる。
「う、うわぁ!!ほんとに出やがった!」
「こんな場所にまで…最近は減ったはずなのに」
なぜ自分たちがこの言われようなのか、二人は理解できなかった。自分たちがしたことを一瞬のうちに何度も考えた。
「そ、その子を返して!!」
目に涙を浮かべた女性が叫ぶ。こいしは抱きかかえている子供をその場にそっと寝かせた。
「こ、この子、気を失って…」
「し、死んでる!!」
大人たちが子供にかけより、向こう側へと運んでいく。残った二人は、未だに人間に睨まれている。
「貴様ら…よくも!!」
「ち、違う!私たちはただあの子を――」
さとりは、そう言いかけたこいしの前に一歩踏み出す。
「…私たちはあの子に何の危害も加えていません。そこのあなた、私たちは妖怪の山に住んでいるのでもなければ、他の妖怪の回し者でも何でもありません」
さとりはこの場にいる大人たち全員に聞こえるように、はっきりと言った。握っている拳が震える。心臓の音がはっきりと聞こえる。
「…こ、こいつ…心を読みやがった!!」
その場にいた者、二人を残して後ろに下がっていく。敵意を持った表情が、一転して恐怖を浮かべていく。
「気味の悪い妖怪だ」
「人を惑わし陥れる気だ」
「相手の考えていることを逆手にとって」
心を読まれるという抵抗の及ばない部分に、人間は恐怖した。目に見えるよりも、得たいの知れないものに恐怖を抱くのと同じように。
その時、空から何者かが降りてきた。ふわっと地面に足をつけると、大人たちは助けて下さいと頭を下げる。
「…あ、あなた」
さとりはその者を見た瞬間、こみ上げてくる何かに期待した。
紅白色の巫女姿をしたその人物を、さとりは一人しか知らなかった。
「…あなたたちね。子供を襲ったっていう妖怪は」
さとりの期待したような言葉を聞くことはできなかった。そもそもいるわけがないのだ。何十年も前のあの日に、別れを告げた相手。霊夢はもうここにはいなかった。
それでも信じていた。最後に彼女の心から聞こえた言葉。心に繋がった言葉。その言葉を今でも信じ続けていた。
裏切られるような思いと、残酷な現実を前に、さとりはただこいしの手を握ることしかできなかった。怖くて怖くて、どうにもできなかった。
「そ、そいつらは人の心を読むんだ!」
「…さとりの妖怪ね。こんな場所にはいないはず。人間に飢えて出張してきたわけ?」
何も答えないさとりの手を握り返してこいしが言葉を返す。
「そんなことない!!私たちは人間を食べたこともない、襲ったこともない!」
こいしが目から涙をこぼしても、巫女の表情は何一つ変わらない。まるで軽蔑しているかのように二人を見る。
「妖怪の言うことなんて信じられないわ。スキマのあいつも信じられないってのに。最近は人を襲う妖怪は全部退治させてもらってるの。あなたたちも例外じゃない。覚悟してもらうわよ」
どうしてこうなってしまったのか。自分たちのしたことは、それほど罪深いものだったのか。二人はいくら考えても、答えなんて見つかるわけも無かった。
「…っと思ったけど、子供は無事みたいだし。もうここに近寄らないって誓うならこの場は見逃すわ」
そう言う巫女に対して、大人たちは反論する。
「な、何言ってるんですか!妖怪はみんな人間を襲うんですよ!?」
「そうです!いつまた私たちや子供たちに危害が出るのか…」
「人の心を読んで利用するたちの悪い妖怪ですよ!」
声を荒立てる人々を、まぁまぁっとなだめる。
「確かに妖怪は天敵よ。でもこの妖怪はこんな場所にはめったにこない。各地に自然の景色が存在しているのは、そこに住む妖怪や妖精がいるからなの。この場でこの妖怪たちを退治したら、人里の周りが枯れ果ててしまうかもしれない」
巫女の言う言葉を黙って聞いている大人たち。その厳しい目は変わらず二人に注がれていた。
「…そういうことよ。あなたたち、もうここには来ないと誓いなさい。分かったら、さっさと消えなさい」
◆
こいしはずっと泣いていた。集まり慰めてくれるペットたちも虚しく、泣き続けた。声が枯れてしまう位、涙が枯れてしまうくらい。
さとりは何も考えていなかった。頭の中には、ただ一人、愛しい人間の名前があった。
霊夢。もし会えるなら会いたい。どうしていいか、助けてほしい。
自分たちのしたことは間違っているのだろうか。
その答えは彼女たちが決めることは叶わない。明らかに人間たちの態度が物語っていた。
隣で泣いているこいしの手が、やけに冷たく感じた。あんなにも暖かかった手が、こんなにも悲しみに溢れている。
「…」
こいし、っと言おうとした瞬間、ズゥン!!という地震のような物凄い音がした。
「っ!?な、何?」
こいしを残して、音のした地上付近まで走っていく。
そこには信じられない光景があった。地上への入り口の半分ほどが、瓦礫の山になっていた。
「な、何なのこれ…」
そこに、地上からさとりを見下ろす影がいくつもあることに気づく。
「…おまえがさとりの妖怪だな。うちの者が世話になったらしいな」
見ると、子供を助けた時に対峙した妖怪と、同じような姿の妖怪が何人もいた。
「…心を読むんだろ?言わなくても分かるよなぁ?別におまえらとやり合おうなんて考えてねえ。ただ、俺らにとってあんたらはちょいと邪魔なんだよ。数いる妖怪の中でも特に厄介なさとりとなるとな。一日待ってやる。ここから出て行け」
そう言い残すと、月明かりで伸びていた影が消えて行った。
ひたすら唇を噛み締めた。強く拳を握った。肩が震えてしまいそうなのを、無理やりにでも押さえつけようとした。
「…お姉ちゃん」
後ろから掛けられた声に、さとりは血の気が引いていくのを感じた。
振り返ると、目が赤く腫れているこいしがいた。夕方に帰ってきてから、ずっと流していた涙の跡がはっきりと残っている。
「こいし…」
「ねぇ、お姉ちゃん。私たち―」
「いいから、帰ろう?」
こいしの手を取って連れて行く。一緒に歩いている足取りは重い。
「帰るって…どこへ?」
「どこって…私たちの家はあそこでしょ?」
「…明日にはいなくならなきゃいけない。もう…帰る場所も無くなっちゃうんだよ…?」
「……」
さとりは足を止めなかった。だが、内心ではこいしに聞かれていたことに動揺を隠せないでいた。その心を、こいしが読んだかどうかは分からない。
こいしを部屋に連れて行き、すぐに寝かせた。寒くならないようにそっと布団をもう一枚掛けた。
「お燐、お空。それにみんな…こいしの傍に居てあげて」
その場にいたペットたちにそう告げると、さとりは静かに自室に入っていった。
多くの出来事が重なった今日という一日が、終わろうとしていた。
夜を美しく照らす月明かりは地底には届かず、さとりの薄暗い水の底にいるかのような心は、ただ静かに、静かにさらに奥へと沈んでいった。
月が隠れて太陽が地上に顔を出す。朝が過ぎて昼を過ぎても、さとりは一睡もすることができなかった。
もう何を考えていたのかも、今も何を考えているのかも分からない。自分が何をしてきたのか、自分が何をすべきなのか、何も考えられないでいた。
そんな時、ドアからカリカリという音がした。
無気力なままドアを開けると、お燐が足元に駆け寄ってくる。
『さとり様!!こいし様が…」
何かに怯えているような様子のお燐を見て、さとりは向かい側のこいしの部屋に入っていく。
こいしはベッドから体を半分だけ起こして起きていた。そのこいしと、目が合った。
さとりは、何も見えなくなった。
例えるなら黒。ひたすら奈落の底へと続く道のように、闇に引き込まれていくような真っ黒な景色がさとりの視界を奪った。
この一瞬の出来事を理解する前に、現実へと引き戻される。
「…お姉ちゃん。おはよう。今日は寝ぼすけさんだね…」
こいしの瞳には、何の輝きもなかった。まるで人形のように魂だけが抜け出してしまったように、心の中も表情も。何もかもが空っぽで、暖かさを感じない。
さとりはこいしから何も読み取ることができなかった。こいしが死んでいるのではないかとさえ思えた。
「…こ、こいし……。どうしたの…?」
こいしの傍に近寄り、真っ直ぐ見つめる。されども、何も感じない。
「…もうね。いいの。何でもいいの。どうでもよくなっちゃったの。全部ね…私が悪かったんだよ。人間からも…他の妖怪からでさえ、私は嫌われちゃってたんだよね。この力があるがために。もう…ね、嫌になっちゃった…」
枯れてしまったように思えたこいしの色の無い瞳から、一筋の涙が頬をつたっていく。
「みんなみんな、人間も妖怪も私を…恨んで罵倒して遠ざけていく。でもね、心は嘘をつかないの。あの人たちはみんな、私に怯えてた。恐怖を抱いてた。何で?心を読まれてしまうから。なんで私が恐れられるの…?こんな力を持ってしまったから…だよね」
力無く、こいしはベッドに仰向けに倒れこんだ。光のない瞳は、どこを見ているのかわからない。今こいしが何を思っているか、分からない。
「みんなと…一緒に遊びたいよぉ…。もう、心なんて読めなくていい。もう嫌だよぉ…」
何も言わず、さとりはこいしの手を握った。ごめんね、ごめんね。何度もそう心で思った。
さとりが悲しみをいくら心で嘆こうとも、もうこいしはさとりの心を読むことはなかった。
こいしは心を読む力を、心に封じ込めてしまった。その心を、もうさとりにも読むことはできなかった。
◆
日が沈む夕暮れ。さとりは地上に出てきていた。向かい側には妖怪が何人か待機していた。
「よぉ。出て行く決心はついたか?」
「出ていくのはあなたたちの方。ここにはもう近寄らないで」
「…なんだと?」
ぞろぞろとさとりの前に集まってくる。取り囲まれても、さとりの表情は何ひとつ変わらなかった。
「痛い目に遭わないと分から――」
ドッと話していた妖怪の片腕が吹っ飛ぶ。傷口からは少なくない量の血があふれ出てくる。
「な…ぐあああ!!て、てめえ…!!」
後ろから斬りかかってきた攻撃をかわして距離をとる。
「…ここは私たちの場所よ!誰にも邪魔させない。人間にも妖怪にも!!」
腕や足から血を流しながら、それでもしっかりとした足取りで進んでいく。
先ほどの妖怪たちとの一戦で、服のいたるところに切り傷ができており、赤く滲んでいた。
ぽたぽたと歩く道に血の跡を残しながら、たどり着いた場所は人里。もう近づくことはないと思っていた場所。
「う、うわあああああああ!!!!」
血だらけのさとりを見て、悲鳴をあげる人間。その声を聞いて、辺りにいた人間が何十人も集まってくる。
「よ、妖怪…」
「また来やがったのか!何しに来た!!」
「…もう、あなたたち人間と会うことはない。だから最後に、言いたいことがあって来たのよ」
目の前がかすんでフラフラしてしまうのを堪える。
「こ、心を読む化け物め…」
化け物。さとりの心を深く抉った一言だった。
「私が…こいしが何をしたって言うのよ!!あなたたちに何をしたっていうのよ!!心を読むだけで…そんな理由であなたたちはこいしを傷つけた!心を読めるからって何なのよ!あなたたち人間の中に心が読める人がいたら、その人を化け物扱いするの!?私たちが…どんな気持ちで今日まで生きて来たと思ってるの…!」
『人間を嫌いにならないでほしい』
自分の愛しい人間からの言葉。さとりの心はぐしゃぐしゃになっていく。
「私たちはただ…ただ!私から言えば心が読めない方が恐ろしいとさえも思えるわよ!!相手がどんな気持ちか分からない、だから平気で…こいしがどんな思いだったか分かる?あなたたちに分かる!?読んでほしいわよ…もし心が読めるんだったら読んでほしいわよ!!もう…私たちには関わらないで!!もしも地底の近くまで来たら、子供でも容赦しない…。殺すわ」
グッと足に力を入れると、おぼつかなくなった足取りで家へと向かった。
人間がどう思っていたのかなんて知らない。心を読むまでも無かった。必要もなかった。どうせ一緒なんだ。みんな同じことを思っている。それで傷つく。なら読むことはない。
そうだ。こいしは人の心を読むが故に傷つくことを恐れて、その心を閉ざした。
自分もこの力を、心を閉ざすことによって…救われるのではないか。さとりはそう考えた。
急に足の力が抜けていき、地底への入り口付近で膝が地面についた。さきほどやり合った形跡が地の跡となって残っている。
「…ふ、ふふ。あはは……」
一点の曇りもない空に浮かぶ月を見る。何を思うのか。何も思わない。さとりは何を考えるのもどうでもよくなってしまいそうだった。
「ふ…ふふ。は、は…。こいし…ごめんね。お姉ちゃんがしっかりしないから…。あなたは絶対に守って見せるって…ずっとそう誓ってきたのに。ごめんなさい、ごめんなさい、こいし」
さとりは今まで泣いたりはしなかった。こいしは優しい子。だからすぐに泣いてしまう。さとりにとって、たった一人の妹。血の繋がった愛しい存在。
こいしが泣いている時に、自分が泣いていては悲しさがあふれるだけだ。だから、こいしの悲しみは、いつもさとりが包み込んでいた。
強くあるために。愛しい妹が全てだった。
「…………ぅ…うぅ…」
今まで堪えていた悲しみの何もかもが、心にあふれ出した。
「ふ…うぅ……ぅわぁぁああああ……ごめん…ごめんねこいし…。ひっぐ…う…うぅううう……」
月明かりで照らし出された、動物の鳴き声さえも聞こえない静かな空間で、さとりの泣き声だけが辺りに響いた。
ずっと、ずっと泣き続けた。袖や胸元が涙を吸って重くなってしまうくらい。
「よぉ。さとりの妖怪さん」
前にある岩の上に、人影がひとつ見えた。ぼやけた視界を擦ると、頭に一本角を持つ者が座っていた。
「…あなたは誰」
未だに流れる涙を拭いながら、さとりは尋ねる。
「私は星熊勇儀。今はこの地上に無き鬼だ。いや正確にはもう一人いるけど、今はここにはいない」
鬼っという言葉を聞いても、何とも思わなかった。圧倒的な力を持つその存在ゆえ、もし出遭ったらすぐに逃げるようにとこいしには教えていた。
しかし、今はそんなことさえもどうでもよかった。
「鬼が何のようなの」
「人間が、妖怪が憎いかい?」
どうして鬼がそんなことを聞くのか、なぜここにいるのか。考えている余裕はなかった。
「さぁ」
「妖怪と戦い、人間に想いをぶつけてきた。憎いんだろう?」
「…見てたのね。別にもうなんとも思わないわ」
「なぁに、そんな遠慮することはないよ。私がここいらの人間も妖怪も、全部殺してきてあげるよ」
「…え?」
「憎いんだろ?やりきれないだろ?妹まで傷つけられて、何者にも遠ざけられて。全部ぶっ壊してやりたいって思うだろ?私は今日機嫌が良いんだ。すぐに――」
「や、やめて。そんなこと望んでない!」
へぇっと言う勇儀は、片手に持つ酒瓢箪を一口飲む。岩の上から降りて、さとりのすぐ近くまで歩み寄る。
「恨んでないわけない。多分スッキリするよ?自分たちを蔑む奴らがみんな消えるんだ。きっと―」
バチンッ!!!
乾いた音が、静かな空間に響いた。
「はぁ…はぁ」
さとりは、精一杯の力で勇儀の頬を打った。打たれた頬は少し赤くなる。
「…それがあんたの答えかい?」
鋭く見つめられ、全身の血の気が失われそうになるほどの緊張感が体に走る。この場で、瞬きをする間もなく殺されてしまう。そのくらいの力が勇儀にはあった。
最後の力を振り絞って、さとりは勇儀を睨み返す。
「…そんなことをしても意味なんてない。私は自分自身で決着をつけた。全てをぶつけてきた。私にはもう…他のことなんて何も要らないの。こいしが…こいしがいてくれれば!私にとって…あの子は全てなの…」
その言葉を聞き終えると、勇儀は表情を変えた。いつもさとりがこいしに向けているような、優しさに満ちているような。
そっとさとりを抱き寄せる。
「あんたの心はよく分かった。最初から何もする気なんてなかったさ。ただあんたのこと、ある人に昔頼まれたんだよ。もしこんな日が来てしまったら、よろしくお願いってさ」
「…ある人?お願い?」
「あぁ。霊夢っていう巫女。今はもういないけど、あんたと仲良かったんだろう?いつかさとりの妖怪は良い歴史がないことをあいつは知っていたんだ。いつか訪れる人間や妖怪との諍いが生まれた時…きっと悲しい思いをするって。あの巫女はね、まだ地上にいる力のある私たち鬼に頭を下げたんだ。」
霊夢、という言葉。なんて安心できる言葉なんだろうとさとりは思った。
「たった一人の妹のために、あんたは今までよく頑張ってきたよ。甘えたい、泣きつきたい時だって何度もあったのに、あんたはよく頑張った。今だけは、いくらでも私に泣きついてもいいよ。胸貸してやる」
霊夢は、最後まで私たちのことを気に掛けてくれて、未来に起こる出来事まで予期して、こんなことまでしてくれた。
目の前の鬼、勇儀は、今まで誰にも明かしたことのないさとりの心の内を…理解してくれた。
何の悲しみなのか。どうして涙が出るのか。何も分からないまま、ただただ涙があふれ出た。
「うぅ…ぅわぁぁあああああ……」
さとりは、生まれて初めて誰かに受け止めてもらえる涙を流した。
さとりが泣き終えて、少しの時間が経った。
勇儀はさとりが落ち着くまで、何も言わず黙っていた。
「…ありがとう、勇儀」
「いやいや。私は約束は守るからね。まだ仕事は残ってるけど…その前に、そこの嬢ちゃん。いつまでそこにいるんだい?」
「…え?」
勇儀が岩陰に目をやると、そこから出てくる者が一人。
「…こ、こいし」
いつからいたのか、服の裾をぎゅっと握っているこいしがこっちに歩み寄ってくる。
「ずっと聞いてたんだろう?言いたいことがあるなら、さっさと言っちまいな。私は先に地底に向かってるよ」
そう言い残すと、さとりとこいしを残して勇儀は地底へと歩いて行った。
「…お姉ちゃん、傷だらけ。顔も、すんごく泣いた跡ある」
「…うん。お姉ちゃん、いっぱい泣いちゃった。喧嘩もしちゃった」
「私ね、お姉ちゃんにどうしても言わなくちゃいけないことがあるの」
「うん。言ってみて?」
「今まで、ごめんなさい」
「…あなたは謝るようなこと、ひとつもしてないわよ」
「お姉ちゃんが私のためにずっと頑張ってきてくれたこと、知ってた。でも、甘えずにはいられなかった」
「うん」
「私がお姉ちゃんにばっかり頼って、負担ばっかり―」
「こいし」
こいしの言葉を遮るように、ぎゅっと抱きしめる。
「…私が弱いから、甘えちゃうからお姉ちゃんが…」
「お姉ちゃんもね、こいしに甘えられることに甘えてたの。あなたが私を頼ってくれる。だからあなたをいつまでも幼い妹扱いして、あなたをいつまでも成長させないようにしてたの」
「お姉ちゃん…」
さとりは、優しくこいしに微笑みかけた。
「こいしが甘えちゃってたように、私もこいしに甘えてたのよ。…お互い様ね」
「…うん。もう私、弱いままでいたくない。もっと、もっと強くありたい。もっとお姉ちゃんが安心していられるくらい」
「私も、もっと強くなるわ。この心を大切にする」
さとりはこいしの瞳をじっと見つめた。
第三の眼は閉ざしてしまっていたけれど、その瞳には輝きが戻っていた。
「…最後に言わせて、お姉ちゃん。この力のこと…ごめんなさい」
「ねぇ、こいし。もしあなたのどちらかひとつの目が見えなくなったら、あなたはもう何もできないかしら?」
「え?もう片方が見えるなら大丈夫だよ」
「でしょう?私たち姉妹は、二人でひとつの心。あなたが目を閉じていても、私があなたの代わりに光を見ていくわ。私たちはね、こいし」
『いつまでも、どこにいても、ずっと一緒だよ』
◆
あれから何日か後、鬼が紫という妖怪と何やら約束事をしたらしく、地底に旧地獄を構えることによって、地上の者は地底に、地底の者は地上に行かないことを取り決めたらしい。
勇儀の案もあって、私たちの唯一の居場所を指定深くに築くことに決めた。
名は『地霊殿』。そこの地力エネルギーが強くなってきているとかで、ペットたちと共に地霊殿の管理を任されることになった。
あれからお燐とお空が人型への変身ができるようになった。お燐は主に死体を運んで管理。お空は持っている力から溶岩の調整などの管理を任せた。まだ力は弱いけれど、本人の意思を尊重した。
たまに遊びにくる勇儀の他のも、地底にはいろんな妖怪が住み始めたらしい。
地上の景色を見ることがなくなってしまったが、それほど暗い気持ちではない。
いつかきっと、時代が変わる時がくる。私は、霊夢の言った言葉をずっと信じている。
「お姉ちゃん」
そして、もうひとつ。
「明日…行くのね」
「うん。行っちゃうよ」
こいしは外の世界をもっと見たいらしい。もっと強くなるために。最初は危ないからっと思ったが、新たに身についた力では、そんな心配もしなくていい。地底から地上に出ても、バレなければ別にいい。
「今夜が最後だね」
「お姉ちゃん、寂しい?」
「うん、凄く寂しいよ。こいしのこと、大好きだもの」
「…私も寂しい。大好きだもん」
寂しい気持ちはあったが、悲しい気持ちはなかった。もう悲しさは、過去に全て置いて来た。
「お姉ちゃん、今日は一緒に寝たい」
「うん、いいよ。おいで」
こいしを迎え入れて、その愛しい存在を抱きしめる。きっと恋しくなってしまうだろうこの感触を、心に残しておきたくて。
「ねぇ、お姉ちゃん」
「…なぁに?」
唇に、温かい何かを感じた。少し照れくさくなった。こいしもそうらしい。隠すように、えへへっと微笑む。
「…ありがと。大好きだよ」
「…ありがとう。大好きよ。」
『おやすみなさい』
お燐
素晴らしいお話でした。
てっきり勇儀達は戦いのときに参加するのかと思いましたw
上の方も書いてらっしゃいますが、「おとなり」だけは直してもらえないでしょうか……