吐息が白く、それは煙草の紫煙よりも濃い。
数日前から霧の湖には、一面に氷が張っていた。名に冠された霧も、特に今日は酷く薄く、空気はとても乾いているようだった。
一番離れた湖畔からでも、紅魔館の絢爛な赤がよく見える。その館は博麗の山から見下ろしても分かる。それほどに澄んだ空気だった。
そして、とある緑髪の彼女が居るのも、そんな紅魔館が見える湖畔だった。やや湿地になっている湖岸は、どうても人間の野営に向いているとは言いがたい。水に浸かる寸前まで大木が押し寄せており、一部の木は土ではなくて水に直接根を張り、水分と養分を得ているというところだった。
その環境から朽ち果ててしまっている大木も多く、腐葉土にまみれた地面からは、子どもの背丈くらいならすっぽりと覆ってしまうほど、元気で強いよく分からない種類の草が、ぼうぼうと生え伸びていた。そいつらがまた栄養を奪い去り、立ち枯れとなっている大木も多いらしく、人間の大人がゆうに二人は入ることが出来るくらい、豪快なうろを空けたものもあった。生命力豊かなものに囲まれる中でそれは、この世にあるものとは思えないほどに虚ろで、そこにあるのにそこにない。まるで天然の結界が張られたように、人々の目からその存在を隠している。
緑髪の少女は、そのうろの中に居た。
足元には、タライが置いてある。タライからは湯気を立ち上らせる、青く濁ったお湯が張られていた。その特異な色は薬湯のようにも見える。これが実に適度な頃合いの温度で、およそ四十度だ。冷え切った足先を浸し入れたら、思わず脱力し、全身をぶるりと振るわせてしまいそうな小さい名湯のようである。
しかし緑髪の少女はと言えば、その湯に足を浸けるまでもなく、顔を真赤にして汗を流しながら、必死にそのタライをうちわで扇いでいた。
タライの湯は延々と湯気を出し続けている。寒空の下で寒風をしつこく浴びせられたら、如何に数千度に熔けた真っ赤な鉄でも冷めきりそうだが、青色の薬湯は、今も下から焚き上げられているように湯気を出し続けていた。
緑髪の少女は、もう泣いてしまいそうだった。何の得にもならないことを続けているからではないが、この湯の温度が下がらないからという意味では、合っている。
「ねえチルノちゃん……もういい加減、お医者さんに行こうよ。やっぱり扇いでるばっかじゃ治らないよ。むしろ体を冷やすっていうのは、風邪を治すなら一番やっちゃいけないことだと思うよ。いくらチルノちゃんが氷の妖精だからって、これはきっと間違っているよ」
ついに緑髪の少女が音を上げた。この場に誰も居ないただの独り言のように見えたが、その声に答えるものがあった。
チルノと呼ばれた青色の薬湯が喋り始めた。
「ダメだよ大ちゃん……私は、私のアイデンティティに、その存在価値にかけて、決して、風邪をひいちゃダメなんだ……そして仮にどうしようもなくて、もう風邪をひいてしまったとしても、それを風邪だってことにしちゃならない。…………私は……私は馬鹿なチルノなんだよ……」
チルノが言い終える頃には、大ちゃんと呼ばれた緑髪の少女は泣いていた。その言葉には真に迫るものがあった。もう大ちゃんの両腕は疲れに震えていたが、それでも大ちゃんは、チルノを扇ぐことをやめなかった。それが、今の自分に出来るたった一つの思いやりだった。一番の親友である彼女が求めるものを、どうにかして与えてあげたいという気持ち。しかしその気持ちに反目するように、チルノのことを心配する気持ちも拭えなかった。
「チルノちゃん……チルノちゃんは馬鹿だよ……もう、充分に馬鹿だよ。そんなに朦朧としてて…………自分の一人称も忘れちゃってるのに…………それでも、それ以上に馬鹿じゃないと、本当にダメなのかな……私には分からないよ。でも、チルノちゃんがそう言ってるんだから、きっと」
大ちゃんは顔も声もぼろぼろだった。涙と嗚咽で、悲しみの感情で溢れていた。四十度の液体と化してしまったチルノに顔はない。しかし今はチルノが喋らなくても、その沈黙がチルノの気持ちを伝えていた。申し訳なさとありがたみで一杯になって、そして同調するように悲しかった。
それでも、チルノは自分の馬鹿を貫かなければならない。
「もう放っておいていいんだよ、大ちゃん。大ちゃんまで風邪をひいちゃうよ」
「放っておくなんてダメ! 何でもない風邪だって、ちゃんと看病してあげないと簡単に死んじゃうんだよ。私なんて風邪をひいても、普通にお医者さんにかかって、普通に治せばいい。だから私は此処に居る」
「別に死んじゃっていいんだよ。きっと死んだら治る。生き返る頃には元通り。一回休みだよ。いつも通り、いつもと変わらない、妖精の自然だから」
「…………違う。死ぬっていうのは諦めだもん。チルノちゃんが此処で、風邪が原因で死んじゃったら、それは諦めたってことになる。馬鹿であることを諦めて、風邪をひいたことを認めて、風邪に負けて死んじゃうんだ。それは絶対にダメに決まってる。同じ負けなら、馬鹿であることを諦めるなら、私は無理に引っ張ってでもチルノちゃんをお医者さんに連れて行く。そしてチルノちゃんは死なないで、風邪は治る。このまますっと治ってくれるならそれが一番いいけど、死ぬのはダメだよ。此処で死んじゃダメなんだ」
朽ち果てた巨木の柔らかな壁は、その切なる声を響かせることなく、しんと染み渡らせる。
タライから、少しだけ水が漏れ始めた。
「チ、チルノちゃん! 大丈夫!?」
「あ、ああ、うん。大丈夫。大丈夫だよ大ちゃん。ごめん。こんな姿になっても……やっぱり私は、泣けるみたいだ。……分かったよ大ちゃん。私は風邪に負けない。それに、馬鹿であることも諦めない。絶対に!」
タライから漏れたのは、少しだけしょっぱくて、ぬるい水だった。
しかし決意を新たにしたところで、現状がどうにかなるわけではない。二人が立ち向かう強さを手に入れたとしても、越えるべき壁の高さも、自分たちが跳べる高さも変わらない。
その時突然、大ちゃんがはっと目を見開いた。透き通った羽根をピンと伸ばして、力強い様子で立ち上がる。薄く透明な羽根は風の妖精を象徴しており、その風の力を持ってして、遠くから近づいてくる存在の気配を察知していた。
「この感じ……魔理沙さんだ」
落ち着いた口調で大ちゃんが言うと、それを受けてチルノが言った。
「魔理沙……? 大ちゃん、どうしたの?」
「魔理沙さんは此処に来る」
「どうして?」
「分からない。多分ただの暇潰しだと思う。魔理沙さんはこっちの居場所が分かってるんだ。真っ直ぐに向かってきてる」
強い意志を感じさせる様子で、大ちゃんは言った。先ほど燃え上がらせた決意の炎が、天に届くほど高く焚かれていた。
「何するの?」
「今のチルノちゃんの姿を、魔理沙さんに見せちゃいけない。魔理沙さんはきっと、幻想郷でも一番チルノちゃんのことを馬鹿って思ってる人だもん。そんな人に今のチルノちゃんは見せられない。だから、私だけで相手をするの」
「無理だよ大ちゃん、私でも敵わないのに」
「今日は本当に謙虚だね、チルノちゃん。そんなんじゃ、折角意地張ってる馬鹿が泣いちゃうよ。平気だから。大丈夫だよ」
それから二人は、もう何も言わなかった。魔理沙は星の速度で近づいてくる。大ちゃんはうろを出た。迷わずに太陽の方向を見ると、はっきりとした黒い点があった。もちろんそれは魔理沙だ。魔理沙も大ちゃんの姿を確認出来たようで、徐々に減速していく。大ちゃんはゆっくりとうろを離れて、魔理沙に近づく。二人は無言のまま近づいて、最後には何の支障もなく会話出来るほどの距離まで、近づいた。
「よう、珍しい出迎えだな。いや、別にそうでもないか。しかし最近だと珍しい。特に一人でお前に会うとは、思わなかった」
「今日は紅魔館にご用件ですか?」
大ちゃんは会話をしようとしていない。魔理沙はただの通りすがりで、自分たちに何も興味を持たずに過ぎ去っていくと、そう前提にして言った。しかし、その口ぶりと挙動はどうしても下手で、特に魔理沙のような好奇心の高い者には、強く興味を惹かせるような風だった。
「まあ、それも半分。門番が寝る時間まで、チルノ辺りで暇を潰そうとしてるのが半分だ」
「申し訳ないですが、今日はチルノちゃん、誰とも遊べないんです。たまには堂々と門番が起きている中、やぁと片手を上げて入って行ってはどうでしょう」
「忍びこむのが盗人の矜持だぜ。しかしチルノが誰とも遊べない? そりゃ珍しい。そっちのほうが珍しい。何かあったのか」
「いいえ、何でもないですよ」
「なるほど。何かあったんだな」
既に魔理沙の興味は、この近くで隠れているらしいチルノ、それへと向いていた。大ちゃんの拙い交渉術は見事な誤算を生んだ。どうやらチルノを探し出そう、と思っているらしい魔理沙の様子を見て、大ちゃんは慌てて制する。
「何もないから、楽しくもないですよ」
「楽しくなくても暇が潰せればいいのさ」
「折角なら楽しく暇を潰したいと思いませんか?」
「そりゃそうだが。門番と侃々諤々やるのもあんまり好きじゃない。いや、楽しくないたぁ言わないが。今は『宝探し』のほうが楽しそうだ」
魔理沙は大ちゃんと対照的に、余裕のある笑顔を見せていた。此処に何が隠れているのか、暴き出そうと意地の悪い笑顔を浮かべていた。
大ちゃんはもう何も考えずに、両手と両足を大きく広げて、通せんぼを表す。魔理沙は箒に横座りのまま、少し首を傾げた。
「暇を潰してくれるなら、そりゃ誰だって構わない」
「私が遊びますよ。実は私もチルノちゃんを探せてなくて、遊び相手に困っていたんです」
取って付けたような言い訳だった。魔理沙は何もかも分かりきったような顔をしていた。
「なるほどなるほど。幻想郷的でいいじゃないか」
今度は大ちゃんが首を傾げて、魔理沙が悪役じみた演技臭い言い方で。
「正解を導くために代入する『エックス』の値は――」
片足を振り上げるとスカートが翻る。下着を隠すパニエにドロワーズが豪快に捲れ上がった。そのまま横座りから魔理沙は箒に跨るようにして、ふわりと浮いているスカートを左手で押さえつけた。
右手には、ミニ八卦炉が握られていた。
「『弾幕』だぜッ!」
そのままミニ八卦炉から、蒼白色の強い光が放射された。大ちゃんの瞳孔がぎゅっと萎縮するのよりも早く、その光が大ちゃんの居るところを貫いた。
魔理沙のレーザービームはたっぷり五秒に渡って放たれた。そして息を切らすように急停止させられる。空気を押し分けた光は、唸るような音を残して遠く向こうに消えていった。元居た場所から少しだけ後ろに下がった魔理沙は、自信満々に呟いた。
「おや? しまったな、最近はずっと霊夢やフランと『ごっこ』してたから、全く、ついうっかり」
その言葉は、魔理沙が脇腹に感じたちくりとした痛みで途切れる。
次に迷わず正面へと発進した。それこそ、大体だが大ちゃんが居たくらいのところへ、おおよそ数メートル進んで、そこで振り返る。
魔理沙が居た場所を、あまり速くない弾幕が通過していた。そのまた少し先に、少しだけ髪を乱した大ちゃんの姿があって、魔理沙と目が合った瞬間に、すぐ消えた。
大ちゃんが残した弾は円錐状になっていて、地面と水平に、半円を広げながら人が歩くくらいの速度で動いていた。二重構造になっていて、先に進むのは青色の円錐。そして移動距離が増えれば増えるほど、弾と弾の空間は広くなっていき、その広がった空間を埋めるように、少し遅れて赤色の円錐が迫っていた。そこにあるだけで邪魔なタイプの弾幕だった。
魔理沙は軽く逡巡すると、ミニ八卦炉から火力を弱めたレーザーを出しつつ、正面を払うようにして腕を振るった。円錐の弾幕はレーザーにかき消されてしまう。
同時に、大ちゃんの弾幕とその姿を察知すべく、辺り一帯に魔力のセンサーを働かせる。魔法と言えるほど立派なものではないが、パチュリーの魔力レーダーから何とか逃れよう、と日々努力を繰り返している内に、いつの間にか出来るようになったことである。ピンとその神経を張り詰めさせた。
左、やや後ろ、八時の方角に気配を感じる。最短距離で振り向いた魔理沙は、大ちゃんの姿を視認するよりも速やかに、高速のマジックミサイルを放った。
マジックミサイルは何かに触れて、そこで破裂する。
魔理沙は小さく舌打ちした。そこにあったのは、さっきと同じように迫ってくる大ちゃんの弾幕だった。但し、マジックミサイルが破裂したその周辺の弾は、誘爆によって消されて、ぽっかりと空間が出来ている。
「なるほど――」
喋る暇はない。その場から少しだけ右に移動しようと思った魔理沙の横を、緑色の円錐が過ぎ去った。
慌てて魔理沙は振り返る。一瞬だけ、少し惜しんだ顔をする大ちゃんの姿が見えて、すぐに消えた。
魔理沙は魔力センサーを展開する。ヒットしたのは真後ろから。また初撃を避けた時のように全身して、割と近いところでくるりと振り返った。
まだ弾幕を放っていない大ちゃんが、そこには居た。両手を左右に拡げている。どうやらまた、例のゆっくりとした半円に拡散する弾幕を撃つ寸前だった。
「本気が窺えるぜ。こんなにポンポンと瞬間移動が出来たんだな。知らなかったぜ。流石は風の大妖精ってところか」
魔理沙は素直に賞賛する。大ちゃんは拡げていた両手を体の中央に寄せると、そこから高速の弾丸を放った。先ほど魔理沙の脇を通過していった、緑色の円錐だった。それは少しだけ体を動かせば簡単にグレイズ出来る。その弾丸で一瞬だけ魔理沙に出来る隙を狙って、大ちゃんは瞬間移動をしていた。
魔理沙がセンサーで消えた大ちゃんを感知し、振り返ると大ちゃんが赤青二重の弾幕を張っている。それを横薙ぎのレーザーでかき消す。大ちゃんが消えた瞬間に感知。振り返り、レーザーでかき消す。不意の緑色の弾丸を注意して、振り返る時はその場でターンするのではなく、少しだけ左右どちらかに動きながら振り返る。
「決してこっちに攻撃させることなく、一方的に攻撃し続ける。範囲が広く遅い弾幕で行動を制しながら、隙を狙って速い弾丸で相手を狙う。中々の戦略で、中々こっちには集中力が要されるな。――だが。だがな。とても惜しかった」
大ちゃんが消える。魔理沙はすぐに感知して、大ちゃんが現れた方向を見る。
「もし、お前がしっかりと気配を隠せるほど、自身の扱いに長けていたら!」
大ちゃんが赤色と青色の弾幕を放って消える。魔理沙は、ミニ八卦炉からのレーザーでそれをかき消す。
「もし、お前が私の単なるレーザーじゃ消えないくらい強い弾幕を張れることが出来たなら!」
弾幕をかき消すことで、魔理沙は少し振り返るのが遅れるも、そこを狙って大ちゃんが放った緑色の弾丸は、ほんのちょっと魔理沙が右に動くだけで外れた。
「もし、お前が弾の速さを保持したまま、厚い弾幕を張ることが出来たなら!」
感知、レーザー、回避。感知。レーザー、回避。
「私を追い詰めることが出来たかもしれない」
完全にパターンが構築されていた。大ちゃんが同じ行動を取り続ける限り、魔理沙も同じ行動でそれを回避し続ける。不意を打って違うアクションを起こそうにも、今、この行動が大ちゃんにとっての最善手なのである。もし不意を打ったとしても、それは相手に隙を見せるだけの結果となるのが明白だった。
そして、終わりが見えてきた。
魔理沙はパターンに慣れていくことで、行動が最適化されていき、少しずつだが感知の速度が早くなっていく。大ちゃんのほうは徐々に消耗していき、ワープをしてから弾を撃つまでの時間、弾を撃ってからワープをするまでの時間が、次第に長くなっていった。
大ちゃんが最初にワープをしてから、丁度百回目のワープであった。
ワープ後に弾幕を張るより早く、魔理沙の照準が大ちゃんの姿を捉えた。大ちゃんがワープをしたのとほとんど同時に、大ちゃんの出現場所へ魔理沙がミニ八卦炉を向けたのだった。
「お前が弾を撃つより早く、私はレーザーを撃つ。そしてお前が何もせずワープをしたとしても、すぐに照準を合わせ直して、撃つ」
魔理沙は、汗一つかいていなかった。
「チェックメイトだ。まー人間様に弾幕を撃ってきた妖精なんでな。一応、『一回休み』にしといてやるぜ。――惜しかったな。最初の自機狙い。アレを避け切れたのは偶然だ。油断大敵って奴だった。ひやっとしたぜ。だが」
魔理沙の魔力が、ミニ八卦炉に流れる。そしてミニ八卦炉はその魔力を一気に増幅させる。
「これが結果だ!」
肩で息をする大ちゃんは、その様子をただ、ぼうっと見ていた。やっぱり無理だったんだと。きっとこの後、魔理沙はチルノを探し出すのだろう。もしかして何も言わなければ、紅魔館にそのまま向かっていたんだろうか。もしかしてとっても無駄なことをしたんじゃないか。大ちゃんは、ただ自分が情けなくて、もう何も出来ないでいた。
蒼白色のレーザーがミニ八卦炉から放たれようとする。
そして。
「――大ちゃん!」
その声は響き渡った。
魔理沙は少しだけ気を取られ、それによってレーザーの発射が一瞬だけ遅れた。それは、我に返った大ちゃんがワープするのに充分な時間だった。
「今の声は、チルノか」
大ちゃんがワープをした瞬間、魔理沙は反射的にセンサーを展開した。
その場所にあったのは、根っこが地盤から水中へと足を踏み出していて、木の色合いに生気はなく、立ち枯れしてしまった大木だった。近づけば巨大なうろがぽっかりと口を開けているのが分かった。そこから何か音がしなければ、あるいは魔理沙のような自然の気配に敏感な者でなければ、まるで立っていることにすら気づかないくらい虚ろな大木だった。
魔理沙は高度を下げて、滑るようにその木へと向かっていく。足場が少々悪そうだったので、空中に箒で留まることにした。
大ちゃんが居た。湯気を立てているお湯の入ったタライを持っていた。
「それがチルノなのか? なんだ、隠してたのか」
魔理沙が素っ気なく言った。するとチルノが、すぐに違うよと否定した。
「私が、隠れてたんだ」
「そうか。それで、どうしてチルノはそんな姿になってるんだ?」
魔理沙は首を傾げて問いかけた。大ちゃんが答えようとしたのを遮って、チルノが喋り続けた。
「風邪をひいたんだよ」
「風邪……?」
氷の妖精と風邪がいまいち結びつかずに、魔理沙は一瞬だけ深く悩むような顔をした。チルノの表情は分からないが、どうやら自嘲するように笑っているらしかった。
「馬鹿な私が風邪をひいたんだ。馬鹿は風邪をひかないはずなのにね。それが恥ずかしくて私は隠れてたんだよ。せめてこの風邪が治るまでは、大ちゃん以外の誰にも風邪がバレないように、必死になって隠れて、風邪を治そうとしていた。もちろん医者にだってかからなかったから、風邪は全然よくならなかったけど。それでも私は意地を張って、馬鹿みたいに……はは、そうだよ、私は馬鹿みたいに馬鹿な真似をしてたんだ。風邪をひいていても馬鹿であり続けるために。そのために大ちゃんにはずっと迷惑かけてたし、大ちゃんに風邪が移らなかったのが驚きね。こんな姿だから、くしゃみもせきも出なかったし。喋ることは出来るけど。どうだい、魔理沙。私は、風邪をひいてても馬鹿でしょ」
「んー、妖精の感覚は分からないが、死ねば健康になったんじゃないか?」
「私もそれを勧めましたけど、チルノちゃんは断ったんです。それは、矜持に反すること」
大ちゃんは言った。あの時、チルノに力説した台詞を、そのまま魔理沙に伝える。
「そうか……アイデンティティの保持ってやつだな」
すると魔理沙は少し考え込んだ。そして、割とすぐに一つの答えを出した。
「分かった。じゃあ私がマスタースパークで撃つ」
「なっ、そ、それじゃチルノちゃんが死んじゃうじゃないですか!」
その提案に、大ちゃんは思わず声を荒げる。魔理沙は、そうか? と答えた。
「別に、風邪にやられたわけじゃないからいいと思うんだ」
「それじゃあダメだよ」
チルノが言葉を遮って、力強く言った。
「私は……風邪さえひいていなければ魔理沙に負けないから、それじゃあ遠回しだけど風邪に負けたことになるじゃないか」
「…………おう、そうか」
ほとんど魔理沙は呆れていた。
それじゃあ、と一呼吸置いて告げる。
「だったら賭けだ。お前たちはもうすぐ、『あっ』と言ってしまう。いいか、『あっ』だ。この予言通りお前たちが『あっ』と言ってしまったら、問答無用でお前たちを撃つ。言わなければ私は此処で見たことを一切忘れて紅魔館にでも行こう。チルノはただの馬鹿のまま。風邪なんてひいてない。要するにお前たちが『あっ』とさえ言わなければいいんだが、どうだ?」
魔理沙が言った突然の申し出に、二人は顔を見合わせた。正確に言えば、大ちゃんがお湯の水面を見下ろしただけだった。すぐにチルノが言った。
「いいよ」
「よし。じゃあ交渉成立だがその前に、一つ二人に、というかチルノに言いたいことがある」
「何?」
「お前は馬鹿である前に、氷の妖精だと思うんだよ」
そう言われて、チルノは不思議そうな声でそうだよ、と返した。
そして。
「だったらそもそも、馬鹿が風邪ひいてること以上に、氷の妖精がお湯になってるってことのほうがおかしいと思うんだが、違うか?」
魔理沙の言葉に、二人はどちらともなく呟いた。
「……あっ」
「安心しろ。妖精はやっぱり、ただの馬鹿だぜ」
魔理沙は満足そうに、にんまりと笑う。
辺りは、虹色の強い光に、包まれた。
いい話だった。感動的だ。
壮大な話のような、馬鹿馬鹿しいの話ような、妙な強い引力を感じました。
ツッコミ不在の恐怖、かと思いきや、魔理沙が言いたいことを全て冷静に処理してくれたオチには、正直少しぞくりときた。
そして私は、あとがきに笑わされた。
バカって愛おしいよね
感動すべきなのか、若しくは笑えばいいのか。
>>喧々諤々
侃々諤々
それ以外は面白かった。
内容のシュールさと描写のシリアスさのギャップが凄まじかったです