おそいおそいと、文句を言っても何も解決しないのは分かり切ったことでして
ただ、まるで危篤の母の手術が終わるのを待っているかのような、友人の大袈裟な顔が、少しだけおかしく思えたのです。付き従う入道も、同じように葬儀場の沈痛さでいたものですから、なおさら滑稽で、思わず笑いを圧し殺します。
几帳面な彼女の性格そのままに並べられた何人分かの夕ご飯が、ちゃぶ台に並べられています
天井からぶらさがった明りに、さっきから羽虫がぴしぴしとぶつかって離れないのです。しょうこりもなく。
恐れないのは、盲目である者だけの特権でしょう。無謀ですらないのです。生まれたその時より、言葉をひとつもかけられず育った赤子に言語を解す道理がないように。
嵐に災害の自覚はないのだと思います。紳士気取りなのかもしれません。でも木靴が踏みつけて殺した子猫には鈍感です。
天と地がひっくりかえったような、彼の木靴の底を、そう言えば私は見た事があったのでした。どこかしらの南の海だった気がします。
羽虫の。静寂をかすかにざわつかせる羽音は、世界に何も残す事ができないでしょう。それは思いあがりです。あなたは無力でちっぽけでつまらない。でも無自覚なところだけは、よく似ていました。
あの夜、嵐の前には本当に静寂がありました。静寂が耳ざわりである事を、コンパスが指し示す南南西の黒雲から私は学んだのでしょうか。
「だいじょうぶだって。そんな顔しなくても。すぐ帰って来るって。べつに戦争に行ってるわけでもないんだし」
「分かっちゃいるけどさ。やっぱ心配しちゃうじゃない」
「ごはん冷めちゃうよ」
「姐さんはともかくさ、他の連中はどうしてるんだろうね。暗くなる前に帰って来いって言ったのに」
「先に食べる?」
「そういうわけにもいかないじゃない。いや、村紗。あんたが腹すかしてるのはよくわかってるけど」
「けど?」
「けど……こう、ほら、さびしいじゃない……?」
「あらかわいい。このかわいさは一輪らしくなくて、ちょっと事件ですよ奥さん」
「誰が奥さんよ。年増扱いは地味に傷つくんだけど」
「無駄に長く生きてる癖に、変なとこで繊細な一輪にムラサ船長胸キュンですよ。あーもう、かわいいなぁ。でも、真面目な話、一輪ならいい奥さんになれると思うよ。気立てもいいし、ご飯おいしいし」
「はいはい取ってつけたようなフォローどうも。仏門の身で結婚もないと思うけどね」
「内縁の妻ってルートがあるよ! っていうか私が立候補していい? 見た目によらず尽くすタイプだよ。私と一緒に、月夜の霧の湖でスワンボートを漕ぎませんか!?」
「そのプロポーズはちょっとないなぁ。将来、素敵な誰かさん相手に、本気で使うかもしれないんだから、それまでにセンスを磨いておきなよ。あと、内縁だろうが宗教上の理由で遠慮させていただきますわ」
「わぁ、つれない。ムラサ船長しょんぼりですよ」
「よだれ垂れそうな顔しながら、ご飯を凝視してるのを、しょんぼりとは一般的には呼ばないわね」
結構、わたしはまんざらでもなかったんですけどね。
羽虫は燃え尽きてしまったのでしょうか。静寂は耳ざわりの度合いを増していました。
彼はなり代われない事すら分かってはいなかったでしょう。水滴は最後に大海へ呑まれるためだけに存在します。
しかし、結果として静寂が、呼び水が、私たちの隙間をぬって潜伏をはじめたのかもしれません。
あれは、イルカが人懐っこく擦り寄って来る東シナ海の、あるいは極寒の流氷漂うオホーツク海で、もしかしたら犬吠埼沖の親潮黒潮邂逅地点において。荒天の中傍受するモールス信号のようにおぼつかないながらも、タイプライターで打ちこまれた黒インクの文字のように錯誤なく、あの日はありましたし、この日も季節をすり替えただけの同じ日に思えます。
深い海には朝も夜もありません。皮肉にも。母なる太陽は、いつだって大海から頭をのぞかせるというのにです。
凍死も水死も苦痛ではないのです。眠るのとだいたい同じです。ベッドと毛布があるかないか、それだけです。
鎖で縛り、氷河から汲みあげた水と極地の風を永遠に渡って浴びせ続け、でも、背筋が凍りついてしまう前に、かすかなあたたかさを押しつけ、こと切れるのをゆるさない善意。それらにくらべれば、大概のものごとに寛容になれるのではないでしょうか。我々は。
嵐はやはり紳士なのでしょう。彼が履いていたのは、粗野な木靴では無く丁寧になめした皮のブーツだったような気がします。あれを私は果てなき海の底から、他人事として見ていました。
接吻。そう、接吻があったと思うのです。ほの暗い寝室の、季節は……無理矢理だったのか、偶然だったのか、なりゆきだったのか……どうも思い出せません。
夢の中で見る深海は、いつだって、古今東西の栄華の限りをつめ込んだ極彩色です。金銀を身にまとい暴君として振る舞う私は、妃を欲して世界中の魚の首をはねたのでした。現実を血液で知る私がそれを見たのです。
単純な話をしたいのです。彼女は綺麗なのです。
他人事だと思っていたのは、私だけだったのかもしれません。嵐は無自覚ですが、尊大な事に思慮深かったはずです。
海の底ならまぜこぜにならないだなんて、彼をみくびっているとしか言いようがないのでしょう。
そうでなければ、私の有り方はこれほど支離滅裂でなかったはずです。妃は私の方でしたし、首だってあの時はねられたはずです。嘆く理由なら、それこそ、いくらだってあるのです、私には。
照明の影から、羽虫が飛び立ちました。静寂は無自覚のうちにやぶられました。
「あ、生きてたんだ」「みたいだね」
目で追っていると。玄関から、ただいまと声が聞こえました。一輪はやっぱり大袈裟に安心をしていました。
出迎えようとした彼女よりもはやく、私は彼女の唇にひとさし指でふれて立ち上がるのを阻止します。赤面しているのが、かわいらしいと思いました。
羽虫は迷わずたくましく堂々と玄関より世界へ解き放たれました。
ええ、分かっていますよ、彼は傲慢にも思慮深いですから。
海路が晴れ渡っているなら、それは、いかなる時でも喜ばないといけないのです。私は、たぶん、そういう風にして今まで有ってきたのだと思います。
空には雲ひとつなく、陳腐な表現でしたが宝石箱をひっくりかえしたような一面の星空です。嵐の到来を拒絶するには十分なかがやきでした。
ただ、まるで危篤の母の手術が終わるのを待っているかのような、友人の大袈裟な顔が、少しだけおかしく思えたのです。付き従う入道も、同じように葬儀場の沈痛さでいたものですから、なおさら滑稽で、思わず笑いを圧し殺します。
几帳面な彼女の性格そのままに並べられた何人分かの夕ご飯が、ちゃぶ台に並べられています
天井からぶらさがった明りに、さっきから羽虫がぴしぴしとぶつかって離れないのです。しょうこりもなく。
恐れないのは、盲目である者だけの特権でしょう。無謀ですらないのです。生まれたその時より、言葉をひとつもかけられず育った赤子に言語を解す道理がないように。
嵐に災害の自覚はないのだと思います。紳士気取りなのかもしれません。でも木靴が踏みつけて殺した子猫には鈍感です。
天と地がひっくりかえったような、彼の木靴の底を、そう言えば私は見た事があったのでした。どこかしらの南の海だった気がします。
羽虫の。静寂をかすかにざわつかせる羽音は、世界に何も残す事ができないでしょう。それは思いあがりです。あなたは無力でちっぽけでつまらない。でも無自覚なところだけは、よく似ていました。
あの夜、嵐の前には本当に静寂がありました。静寂が耳ざわりである事を、コンパスが指し示す南南西の黒雲から私は学んだのでしょうか。
「だいじょうぶだって。そんな顔しなくても。すぐ帰って来るって。べつに戦争に行ってるわけでもないんだし」
「分かっちゃいるけどさ。やっぱ心配しちゃうじゃない」
「ごはん冷めちゃうよ」
「姐さんはともかくさ、他の連中はどうしてるんだろうね。暗くなる前に帰って来いって言ったのに」
「先に食べる?」
「そういうわけにもいかないじゃない。いや、村紗。あんたが腹すかしてるのはよくわかってるけど」
「けど?」
「けど……こう、ほら、さびしいじゃない……?」
「あらかわいい。このかわいさは一輪らしくなくて、ちょっと事件ですよ奥さん」
「誰が奥さんよ。年増扱いは地味に傷つくんだけど」
「無駄に長く生きてる癖に、変なとこで繊細な一輪にムラサ船長胸キュンですよ。あーもう、かわいいなぁ。でも、真面目な話、一輪ならいい奥さんになれると思うよ。気立てもいいし、ご飯おいしいし」
「はいはい取ってつけたようなフォローどうも。仏門の身で結婚もないと思うけどね」
「内縁の妻ってルートがあるよ! っていうか私が立候補していい? 見た目によらず尽くすタイプだよ。私と一緒に、月夜の霧の湖でスワンボートを漕ぎませんか!?」
「そのプロポーズはちょっとないなぁ。将来、素敵な誰かさん相手に、本気で使うかもしれないんだから、それまでにセンスを磨いておきなよ。あと、内縁だろうが宗教上の理由で遠慮させていただきますわ」
「わぁ、つれない。ムラサ船長しょんぼりですよ」
「よだれ垂れそうな顔しながら、ご飯を凝視してるのを、しょんぼりとは一般的には呼ばないわね」
結構、わたしはまんざらでもなかったんですけどね。
羽虫は燃え尽きてしまったのでしょうか。静寂は耳ざわりの度合いを増していました。
彼はなり代われない事すら分かってはいなかったでしょう。水滴は最後に大海へ呑まれるためだけに存在します。
しかし、結果として静寂が、呼び水が、私たちの隙間をぬって潜伏をはじめたのかもしれません。
あれは、イルカが人懐っこく擦り寄って来る東シナ海の、あるいは極寒の流氷漂うオホーツク海で、もしかしたら犬吠埼沖の親潮黒潮邂逅地点において。荒天の中傍受するモールス信号のようにおぼつかないながらも、タイプライターで打ちこまれた黒インクの文字のように錯誤なく、あの日はありましたし、この日も季節をすり替えただけの同じ日に思えます。
深い海には朝も夜もありません。皮肉にも。母なる太陽は、いつだって大海から頭をのぞかせるというのにです。
凍死も水死も苦痛ではないのです。眠るのとだいたい同じです。ベッドと毛布があるかないか、それだけです。
鎖で縛り、氷河から汲みあげた水と極地の風を永遠に渡って浴びせ続け、でも、背筋が凍りついてしまう前に、かすかなあたたかさを押しつけ、こと切れるのをゆるさない善意。それらにくらべれば、大概のものごとに寛容になれるのではないでしょうか。我々は。
嵐はやはり紳士なのでしょう。彼が履いていたのは、粗野な木靴では無く丁寧になめした皮のブーツだったような気がします。あれを私は果てなき海の底から、他人事として見ていました。
接吻。そう、接吻があったと思うのです。ほの暗い寝室の、季節は……無理矢理だったのか、偶然だったのか、なりゆきだったのか……どうも思い出せません。
夢の中で見る深海は、いつだって、古今東西の栄華の限りをつめ込んだ極彩色です。金銀を身にまとい暴君として振る舞う私は、妃を欲して世界中の魚の首をはねたのでした。現実を血液で知る私がそれを見たのです。
単純な話をしたいのです。彼女は綺麗なのです。
他人事だと思っていたのは、私だけだったのかもしれません。嵐は無自覚ですが、尊大な事に思慮深かったはずです。
海の底ならまぜこぜにならないだなんて、彼をみくびっているとしか言いようがないのでしょう。
そうでなければ、私の有り方はこれほど支離滅裂でなかったはずです。妃は私の方でしたし、首だってあの時はねられたはずです。嘆く理由なら、それこそ、いくらだってあるのです、私には。
照明の影から、羽虫が飛び立ちました。静寂は無自覚のうちにやぶられました。
「あ、生きてたんだ」「みたいだね」
目で追っていると。玄関から、ただいまと声が聞こえました。一輪はやっぱり大袈裟に安心をしていました。
出迎えようとした彼女よりもはやく、私は彼女の唇にひとさし指でふれて立ち上がるのを阻止します。赤面しているのが、かわいらしいと思いました。
羽虫は迷わずたくましく堂々と玄関より世界へ解き放たれました。
ええ、分かっていますよ、彼は傲慢にも思慮深いですから。
海路が晴れ渡っているなら、それは、いかなる時でも喜ばないといけないのです。私は、たぶん、そういう風にして今まで有ってきたのだと思います。
空には雲ひとつなく、陳腐な表現でしたが宝石箱をひっくりかえしたような一面の星空です。嵐の到来を拒絶するには十分なかがやきでした。
オセアニアじゃあ常識なんだよ!
ならさ、大仰な目標やらテーマを持ってもっと気取ってみないか?きっと面白いことになる!
何が起こっているのか気になってしかたなかった
不安、をテーマに書いているのならきっと大成功です