――地の底はひどく、暗い。
緑の光に背中を刺されながら、旧都を結ぶ橋を渡る。二人、身を寄せ合って。
――妬ましい。
……何かを妬んだ橋姫の恨み言は視なかったことにして。
こいしが、私の服の袖を掴む。大丈夫、と心で言って、また一歩、旧都のほうへ。喧騒が近付き、それに怯えたこいしがさらに身を寄せる。小さな私には大きすぎる外套、それでこいしを守るようにして、私たちは少しずつ足を進めた。
――覚だ。
――覚妖怪。
――嫌われ者が。地底に厄介払いか。
こいしが震えて、怯えている。長くいたくないと、そんなコエが聴こえてきて、走り抜けるように街道を進む。時々突き出されてくる足を避けて、罵詈雑言に耳を塞いで。
――嫌われ者。
――嫌われ者。
――嫌われ者。
そんな言葉に、眼を閉じて。
――そうして辿り着いたのは、薄黒い大きな屋敷だった。声も、音すら聞こえない。気配も何もない。ただ淡々と、冷たい存在感が佇立している。閻魔――四季映姫・ヤマザナドゥが見せた外観と完全に一致していた。
ここが、地霊殿。
私たち姉妹の、新しい家。
私たち姉妹の、最後の居場所。
――こいし。ここが、新しい家よ。
――暗い。それに、静かで……なんか、怖いよ……。
――大丈夫よ、お姉ちゃんが一緒にいるから。
静かに、こいしの身体を抱き締める。私たちにはもう、お互いの存在しか、ないから。
――……うん。
この、お互いの温もりだけが、私たちの――。
「――こいし!!」
思わず、叫んでいた。たとえみっともない行為でも、そうしないなんてできなかった。
窓の外、三人もいられないくらい小さなバルコニー。視界の彼方に旧都の情景。まるで、切り取られた写真のようで。
こいしは景色に背を向けて、見たこともないような微笑みを浮かべていた。
「こいし! 莫迦なことを考えるのはやめなさい!」
叫んだ。叫ばなければ、いけなかった。だってそれは、私たちに残されていた、最後の温もりを捨てることで。だってそれは――私が孤独になるということで。
こいしは、微笑んでいた。
嬉しそうに。
「……お姉ちゃぁん」
それ以上に。
「……この眼があるのが、いけないんだよねぇ?」
……それ以上に、哀しそうで。
「こんな眼があるから、こんな、眼が、あるから……嫌われちゃうん、だよねぇ?」
どうしてなのか。なんでなのか。
「こんな眼……なきゃ……嫌われ、ないよねぇ……?」
私の目から、涙がこぼれて。
「こんな……!」
「こいし!」
血の、涙が――。
――ブツン、と、途切れた。
見慣れた天蓋の裏、薄い灯火の揺らめきを視界に入れて身体を起こす。……つまらない夢を見た。そのせいか少し、頭が痛む。大きく、柔らかなクッションに埋もれるように倒れ込んだ。弛い温もりに包まれる感覚。じわ、と何かが溶け出す錯覚。夢見の後味の悪さでも溶け出したのだろうか。それでもまだ少し、頭が痛い。
もう一度眠ろうか、と考え、漂う睡魔に身を任せようとした時、
――……よし。
「…………」
健気なコエが聴こえた。それに次いで、ノック。扉に目を向け得たまま黙っていると、小さな音のあとにゆっくりと扉が開く。立て付けがあまり良くない扉だが、今は軋む音がしない。気を使っているのか、それとも機嫌を損ねたくないのか。後者だろう。視界に映り込む赤い髪。お燐だ。
「おはようございまーっす! さとり様、起きてらっしゃいます?」
――起きててほしいなあ。もう一回来るのは嫌だし……。
「起きてますよ、お燐。ご苦労様」
「いえいえそんなぁ。朝食の準備、できてますよっ」
――考えるな考えるな何も考えるな。
……本当に、健気なものだ。必死になったコエに、思わず微笑を浮かべてしまう。
「ありがとう。貴女はもう、食べたのかしら?」
「ええ、ちょっと前に」
――食べました。食べました。
「それじゃあ、ここにお持ちしますね」
人受けのいい笑顔でお燐が部屋から出ていく。……本当にもう、健気としか言えない。どこまでも美しい自己犠牲の精神。それによる心の軋み、苦しみも視えるだけに、笑う以外にどうしろというのか。
今ではもう、ペットの誰も私に近寄らない。寄ろうともしない。私の姿を遠目に見ただけで、ビクビクと震えて姿を隠す。何事もなく通り過ぎるように祈り、通り過ぎれば安堵の息を漏らすのだ。その中で唯一、お燐だけが私に自分から近寄り、じゃれつき、給仕のように仕事をする。懐いているから? 否、そんなわけがない。他のペットに私の手が及ばないように、自分の身を投げ出しているのだ。
自分のコエを誤魔化しながら。苦渋に歪みそうになる顔を、無理やり笑みに固めながら。他の動物たちを守るために、自分から針山に身を投げている。それは、救いのない茨をひたすらに踏み締めているようにしか見えないし、事実その通りであるのだけれど、それでもお燐は強い。自分の身を捨ててでも他を守ろうとする勇気、忍耐。他のペットたちは皆、その陰に隠れて安堵の息を漏らしつつ、恐怖に身体を震わせるだけだというのに。
……臆病なペットの最たるものと言えば、お空だろう。私を打倒するために、過去を塗り潰すために、神の火を操る力を得たというのに、トラウマに負けて、その力を私に向けることすらできず。恐怖を拭おうと力を誇示して、そうしてただの人間に敗れ、最終的にはその他大勢と同じように、お燐の陰で身を震わせる。滑稽だ、道化の名に相応しいと、嘲弄の笑みを漏らすしかない。
「お待たせしましたーっ」
――笑ってる。
笑っていると、どうなのかしら。
「ありがとう、お燐。いい子ね」
テーブルに朝食を置かせ、手招く。一瞬ビクリと静止して、それからすぐに「にゃーっ」と胸に飛び込んできた。昔からの習慣通りに撫でてやり、お燐もゴロゴロ喉を鳴らす。吐き気に近い感情を抱いていることを知りながらも、私は薄い笑みを浮かべて、スープの湯気が薄らぐまで、お燐を撫でていた。
そうして手を離すと、少し名残惜しげな仕草をしながら起き上がる。
――…………。
……本当に、強い。そして、哀しいとしか言えない。それを、楽しいと思ってしまう。
そんな私が、好きだった。
「……そうそう、お燐」
「はい?」
「お空は最近、どうかしら」
――…………。
顔がピシリ、と、心以上に物を語った。
「……はい、真面目に仕事してますよ。今度、たまには顔出せって言っておきますね」
コエは、視るに堪えないほど乱れていた。
「そう。ならいいです。お燐も、仕事に戻ってください」
――っ!
「はい、それじゃあたいは戻ってますね! あ、食器とかは後で取りに来ますからそのままでいいですよっ」
流石に隠しきれなかったか、隠す意思がなかったか。はじけるような声を残して、お燐は部屋を出ていった。最後の言葉が耳に残り、笑みを浮かべつつベッドを降りた。長方形の盆に並べられた朝食。温かであっただろう湯気は、消えていた。
ふらり、と館の中を歩く。澱のように沈み、広がる静寂の中に、時折ペットの声がする。遠くから響く。近くからは、声もコエも聴こえない。心が読めるわけでもないのに。
畏怖。恐々たる旋律。なんとも言えない、どこか誇らしさすら感じる胸で、かつんかつんと廊下を歩く。
かつん、かつん。
かつん、かつん。
かつん、からん。
何かを蹴った音がした。おそらく、ペットが持ち込んだ小石か何かだろう。歩を進める。
かつん、かつん。
かつん、かつん。
かつん、かつん。
かつん、……。
――あ……。
「あ……」
コエと声は、同一だった。
「……お空」
エントランスの二階。簡単なソファーとテーブルだけがある、ほんの軽く休憩するための場所。
そのソファーに、身体を起こしたお空が座っていた。体勢を見るに、寝転がっていた身体を急いで起こしたのだろう。服装に無頓着な動物らしく、スカートが少し乱れ、だらしなく着崩れている。今は、仕事の時間のはずだった。地底を担う、灼熱地獄の管理という仕事の、その時間のはずだった。
「お空、何をしているのですか?」
「あ……う、ぁ……」
心が声になっていない。今、お空の口から漏れているような、意味を持たない呻きが渦巻いているだけ。恐怖、ただそれだけの感情に支配されている。
――周囲の光が明度を落とす。
「ひ、っ……」
「先程お燐は、真面目に仕事をしている、と言っていたのですが……嘘だったのでしょうか」
無論、わかっていた。けれどそうとは思わせず、怯えるお空に視線を向ける。恐らく、今の私の目は冷たく、怜悧なものであるだろう。
服の裾がはためく。明度を落とした光の代わりに、私がもたらした紫の光が波状に広がる。
「ひっ……ぁ、ぁぁ……」
――ご……ごめんな、さ――
「……想起」
「あ――!」
「さとり様!」
私が腕を上げる。お空が怯えて頭を抱える。そうして横から、お燐の声が割り入った。同時、お燐がお空を庇うように飛び込んでくる。
「さとり様、やめてください!」
――お空だけは、守らないと……!
この地底で、どうしてこんな自己犠牲の精神が身に着いたのだろうか。自分が生きるためならば、他の命を切り捨てるのが地底ではなかったか。そう思いつつも、私は静かに腕を下ろした。お空はまだガクガクと震え、お燐も、僅かの震えを隠せていない。しばらく、二匹のペットを見据える。
――ごめんなさい……ごめんなさい……。
――……っ。
……これ以上叩く理由もなし、私は二人に背を向けた。
「……仕事は、しっかりとやってくださいね」
――は、はい。やります、やりますから……。
怯えに満ちた、そんなコエを聴きながら、あてもない徘徊を再開する。
かつん、かつん。
かつん、かつん。
――お空、大丈夫?
――ごめんなさい……ごめんなさい……。
――……大丈夫、大丈夫さ、お空。
「…………」
かつん、かつん。
かつん、かつん。
唇が少し、歪んでいた。
かつん、かつん。
かつん、かつん。
かつん、かつん。
かつん、かつん、……。
◆ ◆ ◆
私が幼稚だったのかもしれないと、思ったことがないではないけど。
覚の妖怪は嫌われ者だ。地上でも、追放された地底でも、それは変わらず。土蜘蛛も、橋姫も、鬼も、すべてが私たちを拒絶し、排斥した。心を読める、ただそれだけのことであるのに、嫌忌されるには十分すぎる要素だった。誰からも受け入れられない、誰からも拒まれる。それを苦にして、こいしは第三の目を閉じた。心が弱い、なんて言うことはできず。けれど私には、そこまですることはできなかった。その時は、拒まれるばかりではなかったから。
心を読める私は、動物たちには好かれていたように思う。音声言語で他の種族と意思疎通ができない動物たちは、心を読み、自分の想いを汲んでくれる私にひどく懐いた。内気で、誰かと関わることに恐怖を抱いていたこいしは、動物たちともあまり打ち解けなかったけれど、私には、それで十分だった。
そこに救いがあった。私を拒む世界の中で、私を好いてくれる存在。向けられる、動物ならではの無邪気な好意。拒絶だけでなく、許容があったから、私は心を閉ざさずにいられた。周囲に白眼視されながらも、死にかけた動物たちを救おうと、手を伸ばそうと、そう思えた。
……私が幼稚だったのかもしれないと、思ったことがないではないけど。
希望を得てからの絶望は、ただの絶望よりも深く、暗い。
それは些細な出来事だったように思う。例えば、部屋に水をこぼされたとか。例えば、読んでいた本のページを閉じられたとか。例えば、楽しみにしていたケーキの苺を食べられたとか。たかだかその程度の出来事。些細なものであったがゆえに、あまり記憶には残っていない。それによってもたらされたモノの衝撃が強すぎたのもあるだろう。
好意を向けてくれていた動物から、疎むコエを聴いてしまった。
言葉にすれば、その程度。その程度が、何よりも決定的だった。僅かな支えを打ち砕かれて、奈落より深い谷底に墜ちていく。自分に残されていたただ一つの拠り所が、音もなく、音を立てるよりひどく、壊れていった喪失。弱かったのだろう、幼稚だったのだろう。その喪失に堪えられなかった。そうして、私は――
――セカイを呑み込む赤いイメージ。
そのペットを、殺した。
血祭り。千切れた身体、崩壊する精神。千々に消えゆくコエ。周りのペットたちが悲鳴を上げ、恐懼のコエが耳に障る。赤く染まったセカイの中に、恐怖のコエだけが反響する。ガンガンと、頭を打ち付ける痛み。鏡に映る、赤く冷たい私の瞳。狂乱のコエが響く中で、とりわけ怯え震えていたお空。……ああ、そういえば、殺したペットは地獄鴉だったか。
そうして、私は孤独になった。
そうして、それでいいのだと知った。
初めから嫌われていればいい。そうすれば、それ以上の傷はない。孤独に傷付かなくなれば、何にも傷つくことはない。傷を得たくないのなら、初めから独りであるほうがいい。自己防衛。たとえ誰かに好かれたとしても、それはただ、深い傷への道標。
私は傷付きたくはない。だから――誰かに好かれるのは、嫌だ。
◆ ◆ ◆
――さとり様ーっ!
生まれて間もない子供だろうか、それとも多少は生きてきたのだろうか。何も聞かされていないのか、恐れも怯えもなく駆け寄ってくる。頭でも撫でてもらいたいのだろう、優しくじゃれつかせてほしいのだろう。甘えたいコエが聴こえてくる。自らに向けられる視線の中の、暗い念を読み取ることができるようになるには、まだ幼いか。
だからこそ、その小さな身体が壁に叩き付けられた時、驚きと痛みに当惑した。
――あ……!? い、った……。
私はひどく、冷徹な目をしていた。痛みに震え、怯えた視線を向ける子猫に、救いの手を差し伸べようなどという意思はない。それどころか、戸惑いつつもまた近付いてきた矮躯をつま先で蹴り上げ、再び壁に叩き付けた。
――っ…………。
心のコエが埋没する。すべてを無視して、部屋に戻ることにした。運が良ければ、お燐あたりに見つけてもらえるだろう。
運が悪ければ、そのまま冷たくなるだけだ。
――部屋には静寂が満ちている。孤独に埋没できて、ひどく快い。雰囲気として、コエとして、館全体から感じる怯えの気配。好意などどこからも覗いてこない。穏やかな心地でコーヒーを啜った。今、こういった状況になって思うのは結局のところ、覚の妖怪に一番適する環境というのは、孤独というものなのだろう。あるいは孤高か。まあ、どちらにせよ大差はない。こいしも第三の目を閉じて、他者に認知されないセカイに行くことで、心に救済を得たのだ。姉妹共々、孤独ないし孤高を得て救われている。
今は孤独だ。この上ない、素晴らしい、理想的な環境だと思っている。けれど、こいしのセカイほど完全ではない。不安要素も、ある。
「……お姉ちゃぁん」
言うまでもなく、こいしのことだ。
のっぺらぼうの笑顔。ノイズとブラインドに遮られ、限りなく空虚しか読み取れない心。水飴か蜂蜜か、といったように、たらりと伸びた声が耳に粘り付く。この感覚は、慣れない。一口コーヒーを啜ると、少しだけそれが和らいだような気がした。
優しい姉の声で、問う。
「……どうしたの? こいし」
地に落ちたスライムのように、えへーと笑みが広がる。
見ると、こいしの手は白磁のポットを持っていた。てとてと、と冗談めかした足取りで近寄ってきて、テーブルに置かれた、半分ほど中身の残っているカップに向けて、ポットを小さく傾ける。
てろ、と、艶やかな黒に白濁が混じった。
てろ、てろ、てろ、てろ。
てろ、てろ、てろ、てろ。
茶褐色に転ずる。どこか吐き気を催す色彩。濁った泥水の中に白が渦巻くコーヒーカップを、粘性の笑顔で差し出してきた。
「えへへぇ、おつかれさまぁ」
……それだけ見れば、姉想いの無垢な妹だ。けれど、纏わりつく声が、気味の悪い笑顔が、手に持つカップの淀んだ渦が、そんな認識を許さない。
カップを受け取り、笑む。
「……ありがとう、こいし」
こいしはただ、笑みを深めるだけだった。にへ、と、奇妙に頬をだらけさせたまま、私にそっと囁きかける。
「……大好きだよぉ、お姉ちゃぁん」
――全身に広がる、鋭い悪寒と嫌悪感。
いつの間にか、こいしは姿を消していた。カップを置く。渦は溶けて消えかかっていたけれど、口をつける気にはならなかった。べったりとした笑みと、蛆のような言葉が、いつまでも耳に残る。
「…………」
無意識に持ち上げていたカップを、部屋の隅に打ち捨てた。
……ふと、微睡んでいた。部屋に腐臭が漂っている。何かと思い視線を巡らせると、茶色の液体が絨毯に染みを作っていた。生理的嫌悪感をもたらす生臭い空気。……こいしは一体、あのコーヒーに何を入れたのだろう。頭に微かな疼痛。軽くこめかみを押さえ、椅子の背に凭れる。
トン、トン、とノック。お燐のようだった。
「どうぞ」
「失礼しまーっす」
――実はちょーっと、お耳に入れたいことが。
……珍しい。
「何かしら?」
「はい。……実は、こいし様のことなんですが……」
「こいしの?」
「はい、ちょっと前に声をかけられまして――」
――『お燐たちのこと、助けてあげるねぇ』と。
…………。
「そう、ですか」
「とりあえず、お伝えできるのはこれくらいです」
こいしは一体、何を考えているのだろう。
「……わざわざご苦労様、お燐」
「あ、いえそんな。それじゃ、私はこれで」
「……その前に、あれの片付けをお願いできる?」
部屋を出ていこうとしたお燐を呼び止め、部屋の隅を示す。お燐は一瞬嫌そうに顔を歪め、内心でも嫌がりながら、丁寧にカップと中身を始末した。
「絨毯はちょっと染みになっちゃってますし、臭いもついてたりしますけど、それはそのうち何とかしますね」
「ええ、ご苦労様」
今度こそ、お燐は部屋を出ていった。扉が閉じられ、少ししてから
――さとり様にしろこいし様にしろ、あんまり従いたくはないねぇ……。
という、お燐のコエを聴いた。唇が歪む。どちらも嫌なら、せめて得体の知れたほう、ということか。その認識や選択を、どうこう言うつもりはないけれど。
そこでふと、お燐にコーヒーを頼めばよかったな、と思った。けれど、もう一度呼び付けるほどに飲みたいわけでもなく、けれども少し、喉が渇いたな、とも思う。水でも飲もう、と腰を上げ――ぐらり、と身体が傾いた。
「う……っ」
支えよう、と足が無意識のうちに後ろに出て、それでも上手く支えられずに、一歩二歩と後退する。疼痛が鈍痛に変わり、やがてバランスを崩した身体が後方に倒れた。
ボスン、と優しい感触。柔らかなベッドが衝撃を殺してくれたようだ。鈍痛は未だ続く。喉の渇きはまだ続いているが、起き上がる気力が湧いてこない。肺の底から息を吐き出し、深く息を吸う。……まだ漂っていた生臭い空気を取り入れてしまい、吐き気がこみ上げてきた。無理やりにそれを飲み下し、荒く息を吐く。今度は過剰に取り込まないよう、慎重に息を吸う。起き上がる気力どころか、身体を動かす気力さえも奪われたような感覚。なんとかベッドに全身を寝かせて、見慣れた天蓋をぼんやりと見る。金槌で殴られるような鈍痛はまだ、収まらない。
……呼吸が落ち着き、幾分か楽になった。その代わりとでも言うように、全身がさっきよりも一段と重い。額に手を当て、目を閉じる。じわ、と、自分の中から何かが染み出す錯覚。溶け出したのは、自分を動かす活力だろうか。
――お姉ちゃぁん。
――背筋が凍った。
その心は、そのコエは、決して視えない、聴こえないはずのもので。
「お姉ちゃぁん」
その声は、擽るように耳へ入って。
「こ……い、し」
ニタァ、と、笑うこいしがいた。目の前に。額と額がぶつかりそうなほど、近くに。それでも、こいしほどの存在感しか与えず。それでも、セカイを呑み込む魔物のようなおぞましさをもって。
そこに――こいしが、いた。
笑んだまま、私の首に手を回す。息が、頬を擽りながら通り過ぎる。
「っ……!」
ペチャ、と、耳朶に生温い感触が這った。蛞蝓のようにぬら、ぬら、と這いずる舌の感触。いやに粘ついた水音。凍った背筋が、送られる熱で震え出す。
「こい……し、何を……」
覚束ない口で懸命に問う。少しだけ顔を離したこいしは、何が嬉しいのか、ひどく幸せそうな顔でふふ、と笑った。
そして、
「お姉ちゃぁん」
そして、艶やかな色を纏った声で、
「……だぁいすき」
そう、愛を伝える告白を――私にとっては、セカイを壊す滅びの言葉を――官能的に、加虐的に囁いた。
「――――」
……声すら、出ず。
逃れようと反射的に伸ばした腕は、こいしに容易く組み敷かれ。逃れたいと逃避的に閉じた目は、こいしの声を鋭敏に伝えて。
「大好きだよぉ、お姉ちゃぁん」
全身が、痙攣したように動かない。いや、それとも事実、痙攣している? 自分の身体に起きている反応すらも認識できない。思考が真っ白に染め上げられる。ピシリ、と、大事な何かに罅入る音。
「大好き、だぁいすき。可愛いなぁ、お姉ちゃん、虐めちゃいたいくらい可愛い」
「いやっ! 離れてっ!」
動かせる限界までもがいても、馬乗りになったこいしを押し退けることはできず、むしろこいしは、首に回した腕の力をさらに強めて、私の身体から離れないようにする。
そして唐突に、私の唇に唇を重ねた。
「んんっ!? む、ぅんむぅうっ!!」
吸われ、舐り回される舌。重力のまま無理やりに唾液を流し込まれ、嚥下することを強要される。こいしの唾液は、まるでそこに湧泉でもあるかのように尽きない。まるで水でも飲んでいるかのように唾液を飲み下しながらも、舌や歯、歯茎など、口内すべてをこいしの舌が蹂躙。抵抗すらままならず、酸欠かはたまた別の要因か、意識がぼんやりと霞んできた。
チュポ、と下品な音が鳴り、こいしの唇がようやく離れる。なぜか浮かんでいた涙にこいしの姿がぼやけ、セカイのすべてが虚ろに転ずる。
霞みの中のこいしの笑みは、どこからどこまで正体がなかった。
「ねえ、お姉ちゃん」
耳元で、囁く。
「私ね、知ってるよ? お姉ちゃん、誰かに『好きー』って言われるの、想われるの、怖くなっちゃったんだよね?」
……!
「心読めなくても分かるよー。今までずっと優しかったのに、いきなりペットを殺しちゃって、お燐やお空にもひどい接し方してるんだもん。お燐は可愛いよねぇ、みんなのために自分からお姉ちゃんの所に行ったりしてさ。お姉ちゃんも、そう思うでしょ?」
何……? こいしは、何を言っているの……? わからない、わからない、わからない。
「あ、そうだ。お姉ちゃんが最初に殺した地獄鴉の死体、どこにあるかわかる? ……わかるよね? うんそう、私の部屋だよ。お姉ちゃんが初めて殺したペットの死体だもの。他のペットのそれよりも、ずっとずーっと大事にしてるよ」
嫌だ、やめて、もういや、やだ、やだ、やだ、いや……。
「お姉ちゃん、怖い? 顔真っ白だよ? おめめぐるぐるになってるよ? 怖い? 怖い? 怖い? 怖いよね? 怖いよね? 心読めないもんね? わかんないもんね? 私がほんとは『お姉ちゃん好きー』なんて思ってないって、安心できないもんね? 怖いよね? 怖いよね? 怖いよね? 身体ガクガク震えてるもんね? 息ゼェゼェって切らしてるもんね? 怖いよね? わからないって怖いよね?」
やだ、いや、もう何も言わないで……嫌、嫌、嫌、嫌……!
「でも大丈夫だよ? 私はちゃぁんと教えてあげる。嘘なんて言わないよ? お姉ちゃんに嘘なんか言わないよ?」
いや……いやぁ、いやいやいあややだいやだいやだいやだいやだ……!
「お姉ちゃぁん? 私はねぇ――」
やだやだいややだいやだいやだいやだいやだいやだイやだやいいいやだいやだいやだいヤダイやだいやだいやだいやだいいやだやだやだやだやだやだやだやダやだやだやだやだいややだいやだいやだいやだいやダイやだいやだやいいイやだいやだいやだいやだいヤダいやだいやいやダいイやだやだやだやだやだやだやだヤだやだやだやだやだイややだイヤだいやだいヤダいやだいやだいやだやいいいやだいヤダイやだいやだいやだいやだいやだいいやだヤやだヤダやだやだやだやだヤだやだやだやだやダいややだいやだいヤだいやだいやダいやだいやだやイイイやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいいやダやだやだやだやヤダだやだやだやだやダやだやだやだいやヤダいやだいやだいやだいやダイやだイやだやいいいやだいやだいヤだいやだイやだいやだいやだいやだいイヤダやだヤダやだやだやだやだやダヤだやだやだやだいやヤだいやダイヤダいヤだいやだいやだいヤだやいイいやだいやだいやダイやだいやダイヤだいやだいやだイいやだやだやだやだやダヤだやだやダヤだやだ――――――――――!!
「お姉ちゃんのこと、ほんとのほんとに大好きだよぉ。今みたいに、怖い怖いって震えてる顔も、もういやもういやって潤んでる目も、みんなみぃんなだぁいすき。好きーって言われるの怖いお姉ちゃんに、ずっとずーっと好きーって言いたいくらい、お姉ちゃんのことだぁいすき」
「やめてもうやめてよねえ! いや!」
「あはっ、可愛いなあお姉ちゃん。ほんっと可愛い、ほんっと大好き」
っぁ……、…………! …………、……。
「お姉ちゃぁん。もっと『いやっ!』って叫んで? もっと『やめてっ!』って嫌がって? ボロボロ泣いて? ジタバタもがいて? 震えた声で『こいし』って呼んで? 私ももっと、好き、大好きって言ってあげるから。もっともっと、お姉ちゃんを愛してあげるから。ね? ね? お姉ちゃぁん、ね?」
…………、…………。……、…………、……。
――――――――――ブツン。
――だぁいすきだよぉ、お姉ちゃぁん。
欲を言えば話としてイマイチありふれてるなぁ、と。実は・・・と、あと一押し欲しかった所
わかりますが、上手くいっていない。そんな印象を受けます。
描写力が高く、文章表現の一つ一つに工夫が感じられます。
惹きつける、説得力のあるストーリーとシチュエーションを
考えてみたらいかがでしょうか。
全体的(主に前半)に、もう少し容量があっても良いと思いました。