「――村紗? 君が私を夜這うなんて、めずらしい」
寝起きて間もないナズーリンの、芯の抜けているふわついた声が、部屋の暗がりの奥から聞こえる。村紗はまだ目が闇に慣れておらず、その声の聞こえてきた方向を頼りにして、灯りの消えた暗い和室をゆっくりとすり足で進んでいった。かぎなれたナズーリンの部屋の匂いと、足の裏に感じる畳の波目。深夜の静けさに包まれた真っ暗な部屋ではそれらをよりはっきりと感じる。
ほどなくして、つま先に布団の端が触れた。
「ああ、そっか、今月は村紗が当番か」
ナズーリンのいくらか目覚めた声が、今度はすぐ足元から聞こえた。続いて、布ずれのする音。ナズーリンが掛け布団をよけて体を起こそうとしている。
「うう……今夜も冷えるね」
「そだね」
答えながら、村紗はその場に膝をついた。
まだ、冬を抜けきっていない時分の夜。雪はないものの、外の空気はそうとうに引き締まっている。自室からナズーリンの部屋まで、中庭に面した縁側をたどってきた村紗もまた、随分と肌を冷やしていた。
「私が最初かい? ……って、うわっぷ」
ナズーリンが何事か言おうとしたが、それはさえぎられた。村紗が、膝立ちになって布団にあがり、そのままナズーリンの小さな上半身をぎゅっと胸に抱き寄せたのだ。
少し闇に慣れ始めた村紗の目は、ナズーリンの大きな耳を間近にとらえた。村紗の胸にナズーリンの体重が少しだけかかる。その重さが、心地よい。
ナズーリンが戸惑った声色で言った。
「なんだい?」
「今日はちょっと、ね」
村紗は腕に力をこめて、ナズーリンの頭をぎゅっと己の胸に押しあてさせた。
「……ねぇ、ほんとにどうしたのさ」
「ナズーリンも私を抱いてくれる? んで、そのまま聞いてほしんだけどさ」
「本当に変だね。今日の君は。いつもはキスだけしてすぐいっちゃうのに。次の人のところへ」
ナズーリンが囁くたび、その口から漏れる吐息が村紗の寝巻きの胸元に忍び込んで、かすかに乳房をくすぐる。湿っていて、暖かかった。ナズーリンの腕が多少ぎこちなく自分の腰に回されるのを、村紗は待った。
「さっきね、夢を見たんだよ」
「ふむ」
「登場人物は二人。村紗水蜜は17才の女子高生」
「……馬鹿な夢だね」
「うるさい」
「で、もう一人は?」
「んー、それはよく分からないんだよね。年齢はたぶん30才くらいなんだけど」
「なんで年はわかるんだい?」
「夢の中で本人が言ってたのよ。っていうか夢の中では私がそいつだったのよね。んで『30才を超えると就職が難しい』って」
「……ごめん。ぜんぜん話が理解できないや。もっとちゃんと説明して……」
「内容をかいつまんで話すよ。っていうかそもそも短い夢だったし――」
――私は30代半ばの妖怪女で、村紗は17才の妖怪少女。年の差はあれど、二人は深い絆で結ばれている。
私達は博麗大結界を超えて、幻想郷の外、憧れの文明社会へやってきた。ウィークリーマンションに二人一緒の部屋を借りて、一週間ほど、外界での華やかな生活を楽しんだ。
しかしそんな楽しい時間はあっという間に過ぎてしまった。幻想郷へ戻らなければならない時がきたのだ。
私達は今、一分一秒を争う修羅場にいる。幻想郷と外をつなぐ亜空間ゲートがあと数分で消滅しようとしている。本当はもっと時間の余裕をもって幻想郷へ帰還するはずだったが、なんやかんやでぎりぎりになってしまった。
実は外にいるこの私達は魂に張りぼてをしたようなもので、身体は幻想郷に残されている。だから、亜空間ゲートがとじてしまえば、身体との連結が切断され、魂だけになった私達は霧のように消滅してしまう。あと数分で、そうなってしまう。
亜空間ゲートの出入り口はとある廃拠の地下にあり、私と村紗は地上から下る階段を必死に駆け下りている――
「はやく! もっと早く走って!」
先を走る村紗が私に叫んだ。
私は村紗に手を引かれながら、地下へと続く階段を息を切らしながら駆け下りている。廃拠内に光源はなく、村紗が手にした懐中電灯だけが頼りだ。明かりの中にぼんやりと浮かび上がるのは、コンクリートがむき出しになったぼろぼろの壁と、ほこりの積もった階段。幅3メートルほどの狭い空間に階段が折り返し折り返しに続いており、私達はそこを下へと下へと進んでいく。
若く元気な村紗はぴょんぴょんぴょんぴょんと階段を飛び下りていく。年のいった私は必死にその後をついていく。
その時、私の胸ポケットの携帯が心臓を跳ね上がらせるような甲高い音を鳴らした。狭く暗い空間に、電子音がけたたましく響きわたる。
足を踏み外さないよう注意しながら、私は携帯を取り出し通話ボタンを押した。
携帯から聞こえてきたのは、雲山の切迫した声だった。
『おい二人とも!まだなのか! もうじきゲートが閉じてしまうぞ!』
「もうすぐ! もうすぐだから!」
雲山の声が漏れ聞こえたのだろう。村紗がそう怒鳴った。
『しかしところで二人とも! 今からワシが言うことを良く聞いてほしいのだが!』
雲山が突然、クイズ番組の司会者のようなノリでそう言った。
『一人なら、どちらか一人だけなら、外の世界に残れるんだぞい!』
「ええ!?」
暴走機関車のようだった村紗の足が突然に急停止した。村紗の背中に追突しそうになって、私もあわててとまる。
私達はゼィゼィと肩を激しく上下させながら呆然とお互いの顔を見合った。
外の世界に残れるだなんて、そんな夢のような話があるのだろうか。
土くさい幻想郷とおさらばして、きらびやかな外の世界で暮らすことができるなんて。
「で、でも」
と私はうろたえた。
「私の年では、もう外の世界では就職が難しい」
そう、職がなければ生活ができない。それは大問題だ。
そして私は村紗を見つめ、告げた。
「けれどあなたなら、女子高生として食べていける」
「……! わ、わたしは……」
村紗はうつむいて、口元をわなつかせている。その額には、深い苦悩のしわが刻まれている。
村紗は現代社会に残りたいのだ、と私には良くわかった。村紗は幻想郷の片田舎で育ったおぼこい妖怪で、外の世界の生活にいつもあこがれていた。文明社会で暮らしたこの一週間、彼女は本当に楽しそうだった。
「ねぇ、私、どうしたらいいの!?」
村紗はすがるような目を私にむけた。
亜空間ゲートが閉じてしまえば、外の世界と幻想郷は完全に断絶されてしまう。外の世界にのこれば、二度と幻想郷を訪れることはできないだろう。つまり――今が二人の永遠の別れになる。村紗はそれを理解して、迷っている。
そして私もまた、迷う。
村紗のためを思うなら、彼女の背中を押してあげるべきなのだろうか?
どうする、どうする。迷っている時間はもうほとんど残されていない――
「村紗、あなたは、あなたが――」
強い焦燥に鼓動が早くなる。体ぜんたいが心臓になってしまったかのように脈打っている。耳元で太鼓が鳴っているようだ。
「あなたが望むのなら――」
私はその言葉の続きを言いかけて、口をつぐんだ。
そして、次に私の口から吐き出された言葉は、
「……嫌よ村紗! 行かないで!」
「え……わぷっ!?」
私は村紗を無理やりに羽交い絞めにした。村紗の小さい体を、両手いっぱいに力をこめて抱きしめた。無理やりに私の体に顔をうずめさせられて、村紗は息ができずにあえいでいる。けれど私はそんなのおかまいなしに、彼女のやわい髪の毛に頬をこすりつける。
「ずっと私のそばにいてよ。私を一人にしないでよ。私には皆が必要なの!」
私は何度も何度も哀願した。
村紗がいってしまうのだと思うと、私は胸が張り裂けそうになった。
絶対に嫌だ、村紗と離れ離れになってしまうなんて、絶対に耐えられない――
「――とまぁ、そこで目が覚めたんだけどね。ああ、今思い出してもドキドキするなぁ」
村紗は夢の中の『私』にすっかり感情移入してしまっている。首筋が目頭が熱くなっている。
ナズーリンを抱きしめる腕にもつい力が入ってしまっていた。
「ねぇナズーリン、私の胸の音、聞こえてる?」
胸元のナズーリンに問いかける。
「破裂しそうなくらいにドクドクいってるよ」
ナズーリンは、ちょっと呆れた風に答えた。
「うふふ、そうでしょ」
「で……結局、つまり何なの。その夢がどうしたのさ?」
「えっとね、私、目が覚めてすごく切なかった。けど、とても嬉しかったんだよね」
「何が?」
「夢の中で、『私』は本当に悲しかった。『村紗』と離れ離れになってしまうことが心から悲しかった。でも……そんなにまで私のことを思ってくれてたんだって考えると……すごく嬉しいのよね」
村紗が少しほうけたようにそういうと、ナズーリンがくいくいと首をふろうとした。
「いやいやいや。ちょっと待ってよ。君の見た夢なんだろう? だったら何もかも君の頭が作り出した物語だ。実際に誰かが君を求めたわけじゃあないだろう」
「もちろんそんなことはわかってるよ」
「だったら……」
「私はね、確かめてみたくなったの。夢の中の「私」みたいに、自分を引き止めてくれる人がいるかなって。だから、みんなの部屋を回るときに、それぞれ聞いてみようって思った」
「……うーん」
と呻いたきり、ナズーリンは少しの間黙り込んでしまった。それから、心底意外そうに言った。
「驚いたよ。村紗って意外と、なんていうか、こう……気持ちの悪いところがあったんだね」
「おいおい、女の子らしいといってよね。……で、どうかな?」
「へ? どう、とは」
「ナズーリンは、もし私と離れ離れになるとしたら、嫌? どうする? 私を止めてくれる?」
村紗はナズーリンの耳元に口をあてて、わざと色っぽく囁きかけた。冗談っぽいしぐさではあるが、村紗は冗談半分に聞いているわけではない。
耳の付け根の敏感な毛を刺激されて、ナズーリンの耳がぴるぴると震えた、はたはたと村紗の口元をたたいた。
「多分、君は本気でその答えをもとめているんだろうね」
呆れた風なナズーリンに、村紗はにっこりとうなずいた。
「そうだよ。本気も本気。だから真剣に答えてほしいね。それにこんな質問、夜じゃなきゃできないでしょ。くくく」
「んー……」
ナズーリンは再び黙込んだ。どうやら、真面目に考えていてくれているらしかった。
「……へへ」
村紗はナズーリンのこういうところが好きだった。可愛げのない受け答えをしながらも、なんのかんので最後には付き合ってくれる。
ナズーリンの抱き心地を愛でながら、村紗は答えをせかすことなくじっと待つ。畳の香る暗い部屋に、夜の静けさが一時戻った。
ほんのわずかな空気の流れさえ、聞こえるきがする。抱きしめたナズーリンの体から、かすかな匂いが漂ってくる。村紗は、ナズーリンの匂いを久々にかいだ。
「――まぁ、やっぱり寂しいかな」
ようやく口を開いたナズーリンは、素面でいうべきでないことを素面でいっている、といった風に少し恥ずかしそうだった。
「できれば、行ってほしくはないね。結構付き合いも長いし、仲間だし」
「なるほどなるほど」
「ただ……村紗がどうしても外の世界に残りたいというなら、私はその気持ちを尊重するよ」
「え~? じゃあ、とめてくれないの?」
と、村紗はおもしろくなさそうに、
「なーんか、優等生的な返事だよねぇ。まぁ、ナズーリンらしいっちゃらしいけど」
ナズーリンが即座に文句を言った。
「君ねぇ! わけのわからない夢の話を聞かせたあげく、そんなことをいうのかい。腹立つなぁ」
「あはは、ごめんごめん」
「まったく、急にしおらしいことを行ったかと思ったら、結局いつもの村紗だ」
「えへへ」
「もう、さっさと終わらせて出てってくれ」
「もー。ナズーってばごめんってー」
「その呼び方はやめて」
ナズーリンはちょっぴり本当に機嫌を損ねていたようだった。それは多分、村紗が茶化した先ほどのナズーリンの返事が、それなりに真剣な想いだったということだろう。。
村紗はナズーリンの態度にそれを感じて、嬉しかった。分かれたくないけれど、仲間の気持ちはかなえてやりたい、ナズーリンはそう言ってくれたのだ。
そして村紗は、高ぶった感情にまかせて、ナズーリンの唇に吸い付いた。
「んぷっ!?」
もともと村紗がナズーリンの部屋を訪ねた目的はキスである。ナズーリンもそれは承知していた。が、村紗が突然だったので、ナズーリンは少しうろたえた。
「ちょ、ちょっとぉ……っ」
村紗はナズーリンの唇が逃げないよう、己の腕と唇で、がっぷりとナズーリンを離さない。そして互いの口腔がつながったことを確認すると、舌を入れて道を作り、ナズーリンの口の中に己の妖気を吐き出した。
「ん……ふぅ……」
ナズーリンも本来の目的を思い出し、村紗から口移しで与えられた妖気を飲み込んでいく。
このとき流し込まれたその妖気の量は、尋常なものではなかった。分け与える、などという程度の量ではなく、五体の一部をもぎ取って相手に差し出す、というほどの量。
村紗は体にずうんとした重さを感じはじめている。急激に妖気を失った影響があらわれているのだ。村紗の鼻息が少し荒くなる。
ナズーリンはそれを感じたのか、ちゅぽん、っと唇を引き抜いた。
「ぷは……もー。いきなりだな君は」
村紗の口から飛び出している舌が、暖かい肉壁を失って冷たい空気にひやりとした。
「あらナズーリン、もう終わり?」
「いや、他の皆にも妖気を分けるのだから、調節しなよ。……それに私はキスがあまり好きじゃないし」
「ふふ、口が小さいのを気にしてるんでしょ。みんなの舌に、口の中をべろべろにされちゃうから」
「そんなんじゃない」
「うふふ。私はナズーのこのちっちゃな唇、好きだけどなぁ」
「だからそんなんじゃないって。それにその名前はやめて」
互いの鼻息を吸い込むような距離で、その会話はなされた。闇夜に囁かれるその互いの声が、村紗を再び興奮させた。
「ね、もう一回だけしてもいい? もう、妖気はあげられないけど」
「ええー……」
「ね、お願い」
村紗はナズーリンを抱きしめた姿勢を利用して、無理やりに頬ずりをする。
ナズーリンはうっとうしそうに応じた。
「わかったわかった。さっさとやって、でてってくれ。もういいかげん寝たい」
「わーい」
言うが早いか、村紗はナズーリンにキスをする。
今度は舌を入れたりはせず、小さな唇を上下からはさんで自分の唇でついばんだ。
「あむあむ」
鋭敏になった触覚が、ナズーリンの小さくやわい唇を堪能する。
「ふぅ、ふぅ」
とナズーリンの鼻からもれた息が、村紗の鼻腔に直接流れ込んだ。少し生臭い、雨の後の枯れかかった秋草をおもわせる湿った匂いだった。
ナズーリンは、村紗の気が済むまで、おとなしくキスをさせてくれた。
数分たって、ようやく村紗は唇を離した。
「――ふはぁ」
満足そうにため息をはくと、ナズーリンを抱いていた腕をもほどいた。
「もう……よだれがあふれちゃったよ……」
ナズーリンの影がごしごしと口元を袖でぬぐっている。
「それじゃ、いくね」
と、村紗は笑みを残して、立ち上がった。
「次はご主人のところへいくのかい?」
ナズーリンはそういいながら、早くも布団に横たわろうとしている。
「そうだね。部屋が近いし、星の部屋にいくよ」
村紗は答えて、部屋をでていこうとする。
縁側に面した障子は、満月の鋭い光を浴びて、ぼんやりと青白い色をともしている。
「ならついでにご主人に伝えておいてよ」
「うん?」
「今度私にするときは、もっと優しくしてってね」
「あはは、星は乱暴だからね。伝えとくよ」
「よろしく」
しゃっと、障子を開ける。縁側の廊下とその中庭が広がる。突き刺すような冷気と、するどい満月の灯が村紗を襲った。
「おやすみ、ナズーリン」
「うん。おやすみ村紗。がんばって」
中庭に続く縁側に出て、振り返ってそっと障子を閉じる。障子が閉じきる最後の間際、隙間の暗闇の置くから、ナズーリンが欲まみれの大人を哀れ蔑む童女のような目をして、こちらを見やっているような気がした。
息の白くなる縁側を、寒さにおわれて小走りで星の部屋へ向かう。するとまだ星の部屋の部屋に辿りつかないうちから地鳴りのようなイビキが聞こえてきた。星のイビキだ。
「相変わらずうるさいなぁ」
星は信者の間では真面目で品行方正なイメージを持たれているが、それはあくまで星の表面的な姿。本当の星は結構大雑把だし、どちらかといえばガサツで、おっちょこちょいだ。そうでなければ、あんなにそうそうなくし物をしたりしない。
村紗が障子を開け放つと、月明かりの中に星のあらわな寝相がぼんやりと浮かび上がった。
「がー。ぐー」
掛け布団を胸元までめくり捨て、ついでに寝巻きの胸元もめくれている。手足を大の字に放り投げたまま、大口を上げてイビキをかいていた。
「この寒いのによくもまぁ……」
村紗もそこそこガサツなのだが、冬にこんな寝相はできない。それで思わず苦笑してしまう。だが星のそんな抜けているところが、村紗は好きだ。星が普段はつとめて真面目そうにつくろっている分、余計にそう感じる。
「おーい。星。星ー」
枕元にしゃがんで星の頭をつつく。
星は、
「んご」
っと豚のような鳴き声で痙攣したあと、目を覚ました。
「ふぇ……村紗?」
「ほら、起きてよ星。キスするよキス」
「へ……キス?」
「そうキスよキス。今晩は満月でしょ」
「満月……あー、そうでしたね。キス……そうですね、今月は村紗の番でしたものね……妖気を預かりましょうか」
星がぶつぶついいながら寝ぼけ眼で起き上がろうとすると、村紗がその肩を抑えつけた。
「えっと……なんです村紗?」
「いいよ星は寝たままで。私がしてあげる」
「ああ、そうですか? じゃあ、お言葉に甘えて……」
「それじゃいくよ。ん……」
村紗は四つんばいになって、星に覆いかぶさった。
(さっさと終わらせちゃおう)
村紗には目論見があった。星がまだ寝ぼけている間に、さっさとキスを終わらせてしまおうとしたのだ。
(だって、星のキスってめちゃめちゃ荒っぽいんだものね)
それは命蓮寺の皆が認めるところであった。
本人が顔を赤らめながら言うには、
『虎の性でしょうか……興奮して体の押さえがきかなくなるんです』
だとか。
村紗はのどの奥に霊力を絞りだしながら、せかせかと星にキスをした。
(夢の話もまぁいいや。星の答えは、だいたい想像がつくし。早く終わらせちゃおう)
だが、その数分後、
(――甘かった)
村紗は、星の鋭くとがった牙に首筋を強く噛まれながら、心の中でため息をついていた。
キスをはじめてものの十数秒で、星の息が粗くなった。これはまずいかなと村紗が思った次の瞬間、村紗の肩を星の腕がものすごい力で掴み、そのまま押し倒されて、あっという間に上下反対になってしまった。村紗があがこうとしても、足には星の足が複雑に絡みついているし、両手もがっちりと押さえ込まれている。下腹部から胸にかけては自分より一回りおおきい星の身体に押しつぶされている。首から上はなんとか動くが、顔は顔で星の口に動きを封じられている。
そしてキスだけならまだしも、星はキスの合間にいろんなところを噛むのだ。
鼻、額、まぶた、耳、頬、首筋……村紗の顔は星の唾液でてらてらになってしまっている。
一番たまらないのは舌を噛まれることだ。これが結構痛い。
村紗がナズーリンにしたように口移しで霊気を渡そうとすると、星はがっぷりとかみ合った口腔内で村紗の舌に噛み付いて、皮膚ごとこそげおとすかのように霊気を剥ぎ取っていくのだ。
「星、痛いっ」
「ご、ごめん村紗、ごめんね」
そうやって謝りながらも、何度も何度も首筋を噛んでくる。噛み跡が残るのは当然で、さらに何箇所かは血がにじんでいるだろう。
「ハァッ、ハァッ、ハァッ」
村紗の顔に、星の獣じみた吐息が吹き付けられている。
(――やれやれ。ま、虎の性、ってやつなんだろうね)
先ほどのナズーリンではないが、村紗はあきらめに近い気持ちを得ながら、星を受け入れていた。
「……そういや、星」
「なんです」
荒い呼吸の合間に、会話を交える。
「ナズーリンが愚痴ってたんだけどね」
「え……?」
「もっと優しくしてほしいって」
さすがに、星の動きが一瞬とまる。あくまで、一瞬だけだったが。
「う……そりゃあ、申し訳ない、です」
「私でもきついんだもん。星に力いっぱいだかれちゃあさ。体のちっちゃいナズーリンなら、なおさらでしょうね」
すると、村紗を押さえつける星の腕に、よりいっそう強く力がこもった。
「……私も、なんとか我慢しようとはしているんですよ。でも、でも、ナズーリンの小さな体はとても可愛らしくて……抱きしめていると余計に気持ちが高ぶって……」
村紗は顔をむっとさせて、ぽかんと、星の頭を小突いた。
「こら星。私とキスしてるときに、別の女のことを考えるじゃないの。私としてるときは、私だけみててよね。失礼でしょ」
「だ、だって村紗がナズーリンの話をしたんでしょう」
「それでも体を反応させるなんて――あ、そういやさ」
キスの合間に――つまり星に首筋を噛まれたれなめられたりしながら――村紗はつぶやいた。
「はい?」
「夢の話をしたかったんだけど……」
「夢?」
「んー……ま、やっぱりいいや、星の反応はなんとなくわかるし。多分、ナズーリンと一緒。二人ともそういうところは良く似てるからねぇ」
「え? え?」
「いいよいいよ、忘れて。さぁ、気が済むまでもっとしなよ」
「よくわかりませんが……うん、もう少し、させてもらいますね。ありがとう村紗」
そうしてまた村紗の顔面のあちこちに、星は食らいつくのだった。
村紗は星の部屋を去り、月の光にうかびあがる中庭を横目に、次の部屋へと向かう。
歩きながら首筋に触れると、何箇所にもわたり、肉がへこんでいた。よだれなどは手ぬぐいでふき取ったが、噛み跡は消せない。
「おお、痛かった。あの噛み癖だけは本当になんとかしてほしいなぁ」
星は、キスの相手が誰であろうと必ず噛み跡を残していく。
たとえば誰かが村紗の部屋へ回ってくるときは、その首スジを確認してみれば、自分の前に星のところを通ってきたかどうかがすぐにわかる。
そしてまた、星が皆の部屋を回った夜の翌朝は、皆で首筋を見せ合って笑うのだ。そんな時は、星はいつも部屋の端で申し訳なさそうに小さくなっている。
「今度から私も噛んでやろうかしらね」
などと独り言を言ってる間に、次の部屋にたどり着いていた。
村紗が閉じられた障子の前に立つと同時、部屋の中からはっきりとした声に呼びかけられる。
『……村紗?』
一輪の声だった。
「ん、そうだよ」
村紗は、一輪こそあの夢の「私」かもしれないと、少し期待している。ふいに呼びかけられた声に村紗は少しどきりとした。
「起きてたんだね」
障子を開けると、長い髪をおろした一輪が、部屋に差し込んだ月明かりにぼんやりと照らし出された。肩掛けをはおり、布団に体を起こして、抑揚の効いた瞳で村紗を見つめている。
「あなたと星、部屋で随分と騒いでたでしょう。物音で目が覚めたわ」
「だって星ったら、乱暴なんだもん」
部屋に入って障子を閉めると、濃い闇が再び部屋に下りる。一輪の姿も、ただの影となった。
一輪のいる布団までの距離はもうわかっていたから、村紗はつかつかとたたみの上を歩いた。そして足の端が布団にふれると、その場にかがんで、ごく自然に一輪の体を抱いた。
「まぁたしかに、星にはもう少しちょっと、穏やかにやってほしいものね」
一輪もまたなれたしぐさで村紗を抱いた。二人にとって、互いを抱くのは、これまで何度と無く繰り返してきた所作だ。
村紗が一輪の脇のしたから両手をいれ、肩甲骨と肝臓の後ろあたりにそれぞれ手を回す。一輪が、少し肩をあげて村紗の首筋に腕を回し、一週して左右の鎖骨の肩結節に指を触れさせる。それが二人の、いつもの抱き合い方だった。
命蓮寺のメンバーが散り散りになっていた辛い時代にあっても、二人は一緒だった。聖を失った長く苦しい日々を、二人はともに支えあって生きてきたのである。
「へへー、やっぱり一輪とこうしていると安心するねぇ」
村紗は、ゆったりと長く息をはく。
一輪の吐息も、いくらかとろけている。
「そろそろ疲れてるんじゃない? 二人に霊気を分けてきたんだから」
「少しね。けどまぁ、がんばるよ。もうちょいさ」
「じゃあ、さっそく、する?」
鼻で鼻をくすぐりながら、一輪がもとめる。
「んー、もうちょっとこのままがいい。だって一輪たら、普段はあんまり抱かせてくれないのだもの」
「しょっちゅうすることでもないでしょう」
「お堅いなぁ、私はいつもでもしたいのに」
「ぬえとしてるじゃない」
「アイツは私と同じでスキンシップが好きだもの……あ、ひひひ、もしかしてヤキモチやかせてた……?」
「それが自分でも不思議なくらいぜんぜん」
「ええー、焼いてほしいなぁ」
一輪はふっと短く笑っただけで何も言わず、頬をつかって、穏やかな愛撫をした。一輪の細くやわい美毛がはらはらと村紗の鼻にかかり、普段は法衣の奥に隠されているその匂いが、村紗をほわんとさせた。
村紗は、一輪に耳穴に鼻頭をこすりつけながら、囁く。
「そうだ。ねぇ一輪、私、夢を見たんだけどね――」
「――で、どう、一輪。私が遠くへいっちゃうとしたら、どうする? とめてくれる」
始終抱き合ったまま、村紗は話を終えた。
村紗は期待している。一輪なら、あの夢のように、自分を求めてくれるのではないか。
だが、一輪の返事は村紗の期待をあっさりと裏切った。
「止めはしないと思うわよ」
「え、ええ!?」
村紗はさすがに、ちょいとばかり本気でショックを受けた。
耳と耳とでくっついていた互いの顔を、べりっと引き剥がして、泣き出しそうな表情を一輪にむける。
たいする一輪の顔は暗闇のなかで穏やかだった。当たり前のことを、当たり前に言っているという顔。
「と、止めてくれないの!?」
「だって私がなんと言おうが意味はないもの。村紗は自分が決めた方向から、絶対に進路を変えないでしょう」
「そりゃ、そうかもしれないけど……で、でも一輪はそれでいいの? 寂しがってくれないの?」
「んー……」
一輪はなぜかちょっと呆れた風に笑った。村紗にはそれがなぜだかわからない。
「だって村紗」
一輪が村紗の肩を抱き寄せ、離れてしまった互いの顔をもう一度触れ合わせる。肩にまわされた腕には強く力がこめられて、互いの頬がぐにゃりとゆがんだ。
そして村紗の耳元で、一輪のはっとするような明瞭な声が囁かれた。
「止める必要なんてないもの。その時は、私も村紗と一緒に行くのだから」
「……へ?」
「私と村紗が離れ離れになるなんて、ありえない」
村紗の背筋を冷たくするような響きが、その声にはあった。ただ甘いだけではない、毒を含んだような響き。
「一緒にって……一輪、話きいてた? 外の世界には一人しか残れないのよ?」
「じゃあ、村紗は行かないでしょ?」
「へ? 行かない?」
「私と一緒にいけないのなら、村紗が行くはずないもの」
村紗は、言葉を失った。一輪の言わんとしていることは理解できるが、その理解が、まだ頭のおくにまでは浸透しきっていない。
「もし立場が逆だったとしても、同じ。私は絶対に村紗を連れて行くし、つれていけないのなら、私もいかない」
一輪が、普段はしないような抱きつきかたを、このときはした。
上体の体重全部を村紗の体に預け、腰から上をくねらせて、互いの肌を擦り付けあう。胸と胸とが押し合い、自然と吐息も荒くなる。
平静の一輪は、寺一番の淑女だ。尼さんの鏡といってもよい。そんな一輪にはまったく似つかわしくない身体の使い方。
だが村紗は、一輪のこの抱き方を、知っている。遠い昔、聖が封印されて間もいころ。失意にまみれた時期。ナズーリンや星とも離れ離れになった。二人は寂しく寒い夜を幾度も慰めあって耐えすごした。お互いの霊気を交換しあって、孤独を埋めあった。あのときに、こうして抱き合ったのだ。
村紗が過去の記憶へと意識をはせている間に、気がつくと二人の唇はつながっていた。
村紗は何もかもわすれて、ただ、一輪の味をむさぼる。
「ふ、ん」
「ん、はぁ、あ」
暗くつめたい夜の床に、二人の吐息だけがある。
浅すぎず、深すぎず、互いの唇の肉をついばみあうような、曖昧なキスが続いた。
「村紗、ねぇ、早くちょうだいな」
一輪にそういわれるまで、村紗は本来の目的を忘れていた。
「あ……ごめん、そんなの、頭からとんじゃってた」
それでもすぐには霊気を渡さなかった。あのころを思い出すようなこのキスを、もっと続けていたかったからだ。一輪もきっとそうに違いない。二度とは、せかさなかった。
終えて、心地良い疲労感が村紗にはあった。
すでに霊力の五分の三近くを失って、純粋な疲労も体に蓄積されている。が、精神的な充足感が体力の疲労をはるかに圧倒している。
二人の腕は、まだ互いを絡めとっている。
ハァハァと、口も間近かに肩を上下させる。
村紗が吐いた息を一輪が吸い込み、一輪が吐いた息を村紗が吸い込む。二人の呼吸がととのうまで、それは続いた。
「……けど、なぜ村紗はそんな夢をみたのかしら?」
「んー、なんでだろうね」
互いの耳元で語られるこの会話は、まるで、互いに抱き合うことを続けていたいが故の、時間稼ぎにも思えた。
「外の世界にあこがれたりとか、そういう願望ってあるの?」
「いやぁ、とくに無いねぇ」
「夢は無意識の現われって言うけれど」
「脈絡の無い夢だって、時にはあるんじゃないかな」
「まぁ、そうかもね」
「そんなことよりさ――」
「ん?」
村紗は、ほうけて緩みかけていた腕に、もう一度きゅっと力をこめて、一輪を強く抱く。
「やっぱり一輪とこうしているのって気持ち良いよー……。もっと普段からしようよー……」
人前ではとても出せないような声で、村紗は啼いた。
一輪が、しようがないといった風に苦笑する。
「たまにだから、良いということもあるでしょ」
「わたしは毎日だっていいよ。一輪となら」
「……だってね、今はもう、こんなふうにしなくても大丈夫だもの」
「え?」
「姉さんがそばにいる。ナズーリンや星やぬえだって。二人でこっそり慰めあわなくたって、私達にはちゃんと仲間がいるじゃない」
「まぁ……ね。けどさ、ほら、個人的な欲求としてね、その……」
「仏門修行は滅私の道よ」
「んもー。まじめだねぇ一輪は……」
一輪らしいものいいに苦笑して、ようやく村紗は腕をほどいたのだった。
「さて、と」
えいやっと足に力を入れて、未練を断ち切るようにして立ち上がる。一瞬立ちくらみような感覚があった。妖気を失った影響が、やはり色濃くではじめている。
「ま、一輪がさせてくれない代わりに、普段はぬえとしときますかぁ」
村紗はあえて明る声で、顔をにやにやとさせながらそう言い放った。けれど一輪は、別段気にした風もなく、
「あんまり派手にやると、姉さんにしかられるよ」
などといいながら、布団にもぐるのであった。
村紗は、ちぇっ、と悔しそうに肩をすくめた。
するとその時、村紗が望んでいたような返事が、暗闇のまったく別の方向から聞こえてきて、二人を驚かせた。
『なんだよう村紗、私とはただの遊びなのかよう』
その声は、本気と信じた恋に身をささげた挙句にぽいと鼻紙ティッシュのように捨てられた女が死後に男のところへ化けて出たような、そんな調子だった。
ぬえの声である。
天井の隅のあたりから、それは聞こえた。
村紗と一輪は驚きから立ち直ると、それぞれ天井に向けて文句を言った。
「もう、ぬえったら、覗いてたのね」
「ぬえが遊びじゃないときなんて、あるのかしら」
「へへへ」
と、先ほどのおどろおどろしい声とは打って変わった笑い声が二人に返ってくる。
同時に、複雑な形の触手をはやした影が、天井からすとんと床に落ちた。
視界の悪さを感じさせない足音で、すたすたとぬえの影が二人に近づいてくる。
「だってさー、村紗ったらなかなか私のところにこないんだもの。せっかくイチャイチャできると思って、楽しみにしてたのに」
わざとだろう。ぬえの声はあきらかに一輪の方に向けられていた。だが一輪は布団から起き上がることすらせず、しれっと言い返す。
「何をいってるのだか。あなたのことだから、どうせ一番初めから、私以外の時だって、覗いてたんでしょうに」
「へへ、まぁね」
「なぬ、そうだったのか」
ぬえは悪びれも隠しもせず、あっさりと認めた。
なんともぬえらしくて、村紗も一輪も苦笑する。
「いやぁけど、星やナズーのときはともかくさ、今の二人には妬けたよ?」
どすんとその場にお尻を下ろして、ぬえはちょっとばかり本当に頬を膨らませたようだ。
「あんな風な、ちゅー、村紗は私にしてくれたことないじゃん。もっとなんていうかさ、軽いよね。適当」
そのそばに腰を下ろしながら、村紗は弁解する。
「ぬえと私って似てるのよね。雰囲気とか。性格とか、ついでに髪型も? だっこするの好きなとことか。気軽にしやすいんだよね。だから、ついフレンチになっちゃうっていうか」
「なんだかなー。村紗にとって私は……あー、ほら、なんていったかな、外の言葉で――スフレ?みたいな、それなんだね。ちぇー」
「甘くて美味しいの? それならいいじゃない」
女がよると姦しいというが、部屋の雰囲気が一気に明るくなったようだった。
「あ、そうだ、ぬえってずっと覗いてたなら、私の夢の話聞いてたよね。どう、ぬえは?」
「んー? 私も多分、止めないと思うよ」
「えーっ、なんでさ」
「スフレだから?」
「もう、そんなんじゃないよ一輪。だってね、私は正体不明になって結界こえられるし。だから会いたくなったらちょいちょいっと顔をみにいけるもの」
「なるほどね」
「うー、そうじゃなくてさぁ、仮定して考えてみてよ。私と離れ離れになるってさ」
「仮定のことなんて考えてもしかたないじゃん」
「そういうところ、ぬえらしいわよね」
「ちょっと一輪! あんたさっきから私のこと馬鹿にいしてない? やいてんの?」
「べつに」
「ふん、みせつけてやる。いくよむらっちー!」
「わ、ちょ!?」
村紗はぬえに押し倒されてしまった。すぐさま唇を奪われ、あれよあれよと言うあいだにぬえの舌がするすると口の中にはいってくる。
(い、一輪がみてる)
そんなことを意識してしまう。
まぁ、とうの一輪は、
「ごそごそうるさくて眠れないじゃない。ぬえの部屋でやってよ」
と、気にした風でもなかったが。
ぬえの唇が村紗の舌をすう。唾液に覆われた柔肉の空気を振るわせるはしたない音が、臆面もなく当たりに響く。
「こ、こら、ぬえ! わざと音たててるでしょ」
「んふふー。村紗が私を待たせるのがわるいんだよー。ほらほらさっさと妖気をよこせー」
「んむぅ――!」
「もう、もっと二人とも静かにやってよね……」
雲のない黒々とした夜空から、鋭い月明かりが中庭と縁側を照らしている。冷気が無数の小さいとげとなって全身を突き刺している。それに加えて、体のふしぶしに明らかな疲労がたまっている。踏み出す一歩が重い。ぎしり、と床板を鳴らしながら、村紗は最後の目的地へと向かっていた。
聖白蓮の寝所は、命蓮寺のもっとも奥まったところにある。中庭をL字に囲む回廊のもっとも奥だ。
(水深が、100メートルは深くなる――)
聖の部屋を訪れるたび村紗はいつもそう感じる。聖の部屋に近づくにつれ、夜の暗さが一段と濃くなる。大気からは不純物が抜けてゆき、空気の質が、どこか変わる。
無意識のうちに、村紗は足音を消していた。
丑の刻を少しすぎたころだろうか。こんな夜更けに、聖の部屋を訪れるのだ。
『夜這う』
その意識が、村紗脳髄をしびれさせる。
「聖、起きてる――?」
その一言をくちにするまでに、などと無く深呼吸を繰り返さなければならなかった。
そして返事はすぐさまにあった。
『起きていますよ。村紗、入りなさい。今夜はあなたなのですね』
「う、うん」
すっと、自分が通り抜けられる分だけ、障子を開ける。
前方の闇から、香の匂いが漏れ出てきて、ふぁっと村紗を包んだ。
村紗はしきいをまたぎ、明らかに空気が変わるのを感じながら、聖の部屋へと踏み入った。
「なるほど、そのような夢を見たのですね」
灯りをともした部屋で、向かい合って座る。何をするでもなく語らっているだけなのだが、この部屋にいると、村紗は気持ちが洗われていくように感じるのだった。まるで法界の清冽な空気が、聖のこの部屋にだけ流れ込んでいるだ。あるいは、「聖白蓮」という稀代の僧侶がまとうその神聖な霊気が、あたりの大気をひとりでに浄化しているのかもしれない。
ここへくるまでにこびりついた戯れや穢れが、体から洗い流されていくようだった。
「皆それぞれ、皆らしい答えを貸してくれた。聖は……どう? 私をとめる?」
聖は村紗の夢の話をいっさい茶化すことなく、うん、うん、と静かに聴いてくれた。
村紗は、この聖が夢の中の「私」のような激しい態度をしめしてくれるとは思わなかったが、それでも、どんな返事をくれるのか、固唾をのんで待った。
そして聖の返事は、いままでもらったそのどれとも、まったく異なっていた――。
灯篭の赤々とした光が、聖の穏やかな眉、筋の通った鼻、すらっとした唇を照らす。まつげの長い瞳が、村紗をまっすぐにみすえた。
「――別れなどでは、ありませんよ」
「え……?」
「永遠の別れなどでは、けっしてありません」
「で、でも……」
「例えまったく違う世界に二人が離れ離れになったとしても」
聖が寝巻きの下でそっと肩膝をたて、村紗に近寄る。そうして、そっと頬をなでた。
「二人が生きているなら、互いに思いあう心があれば、けして離れ離れなどではありません」
「……」
「村紗が違う世界にいってしまったとしても、私は村紗を消して忘れず、日々思うでしょう。村紗もまた、日々私を思ってくれるのなら……二人はいつも一緒にあるということなのです」
「う、うーん」
村紗はすぐには納得がいかず、ポリポリと頭をかいてしまう。
が、次の聖の言葉は、村紗の心の奥の奥にまで、深く響いた。
「法界に封じられていた間――私はいつも、皆のことを思っていたもの」
「……!!」
聖の穏やかな微笑みに、村紗は言葉がなかった。胸の奥から何か熱いものがつき上げてきて、目の端からそれがあふれそうになった。
「へ、へ、へ……聖にはかなわないや」
村紗はうつむいて、喉の奥を振るわせた。
畳を見下ろす視界の中で聖の膝がさらに近づいた。聖がそっと柔羽でつつみこむように村紗を抱いた。聖の大きな胸にそっと顔をよせ、村紗はふと、ありえぬ記憶を思い返していた。
(――遠い遠い昔、星の光ほども遠い昔。母親の胎内で暖かい羊水に包まれていたときが、こんな感じだった気がする――)
この瞬間。この世にうつろう一切のあらゆる事柄から、村紗は守られていた。
「さぁ、村紗、顔をあげて」
聖の細い指が、く、と村紗のあごに触れた。
導かれるままに顔を上げる。すぐそこに、穏やかな光をたたえた聖の瞳がある。
「今夜はご苦労様ね。部屋にもどって、ゆっくりと休んでいなさい――」
聖のぬれた唇がやわくひらいて言葉をつむぎ、そして、ゆっくりと村紗の唇に近づいていく。
聖の体内から吐き出された暖かい空気が、村紗の人中に吹きつける。村紗はその吐息をいっぺんも逃すまいと、鼻に吸い込む。暖かい、淡い桜色の乳房の先端を連想させる甘い匂いだった。
ほどなくして、唇と唇が触れる。
舌の進入も、唇同士の愛撫も何も無い、ただ触れ合うだけの接吻。しかし、たったそれだけの所作なのに、それは、二個の生命のあいだで交わいうる、もっとも尊い行為のように思われた。
聖の部屋を出た後、村紗はほとんど夢に浮かされたような状態でふらふらと自室へ戻った。しきっぱなしだった布団にもぐり、今しがたまでのことを思い返す。
「――良い夜だった」
心から、そう思えた。
夢について皆と多くを語らえたし、一輪とは久しぶりにじっくりとキスをまじわえた。妖力の大半を失って、体の疲労は随分なものとなっている。弾幕戦などは、やれといわれても無理だろう。だがそれを思っても、十分おつりのくる夜だった。
「ふふ、あの夢の『私』のようなやつがいなかったのが、少し残念だけど……」
もちろん、皆それぞれに村紗のことを大切に思ったうえでの各自の返事だったと理解している。けれど、村紗はあの『私』のような感覚が恋しかった。
幼くて身勝手で、利己的で、だがそれゆえに力強い、貪欲な想い。『自分の大切な人にそばにいてほしい』その本能的な想いを、理性などかなぐり捨てるぐらいに、思い切りぶつけられてみたい。束縛されるのが嫌いなはずの自分が、ふと抱いた気まぐれな欲求。できることなら、誰かにそれを満たしてほしかったが。
「ふふ、私も満月でおかしくなっちゃったのかしらね」
小さく笑って、そのまま目を閉じる。枕に頭の沈む感触が心地よい。村紗の意識はそのまま、眠りの世界へと落ちていった――。
――ギシリ
床の軋む音を聞いたような気がして、村紗はハッと目を覚ました。
見上げているはずの天井は暗く、自分が目を開けているのか、閉じているのか、すぐには判断がつかない。顔を横向けて、中庭へ続く障子をみやる。ぼんやり白い障子がかすかに見えて、ようやく自分が目覚めていることを確信する。
――ギシリ
こんどははっきりとそれを聞いた。
(ああ、きたんだ――)
寝ぼけて伸びていた村紗の思考が、とたんにぴいんと引き締まる。鼓動の音が即座に速くなった。
――ギシリ
誰かが縁側を歩いてくる。村紗の部屋へ向かって歩いてくる。
もう一度障子をみやると、さきほどは気づかなかった影が、障子の向こうに黒く染みている。
ちょうどその影が、ゆらぁりと振り向いて、障子越しに村紗のほうを向いた。
ブルリ、と布団の中で村紗の体が震えた。これから自分の身に起こるであろうことを想像して、じぃんと頭がしびれる。
障子の外の影が、障子に手をかけるようなしぐさを見せた。
(……!)
村紗はぎゅっと目を瞑った。
あれは見てはいけないものだ、という意識がある。
村紗は必死に寝たふりをした。自分の頭がふるふると小刻みに震えているのがわかる。
障子のゆっくりと開け放たれるこすれた音。そして
――ズリ、ズリ
来訪者は、畳の上に足をこすりつかせながら、ゆっくりと確実に村紗のほうへ近づいてくる。
――ハァー、ハァー
獰猛な四足獣のそれに似た荒い吐息が耳を村紗を脅かす。
そして、足音は、村紗の枕元で、ぴたりと止まった。
最頂点にたっしたフリーフォールのなかで落下の瞬間を待つような心もちで、ぎゅっと毛布の端を握る。
次の瞬間。
その毛布が、掛け布団ごと乱暴に剥ぎ取られた。
「あ……きゃ!?」
と村紗が満足に悲鳴を上げる暇もなく、その何者かが村紗の体にのしかかった。
それは星にされたことに似ていた。だが今度は、それよりも数倍激しかった。
フゥー! フゥー!
村紗は激しい息吹を顔に吹きかけられながら、爪のとがった指先に、全身をまさぐりどさぐられる。
ある時はわき腹をなでていると思った手が、次の瞬間は太ももの内側の付け根をなでている。反射的に足を閉じて、
「あっ」
と喉をならしたそのまた次の瞬間には、指が口のなかもぐってきて歯茎をなでられている。
「はっ、はっ、はっ」
恐怖にもにた感情に翻弄され、呼吸が乱れる。しかし村紗の心にあるのは恐怖ではない。しいて言えば、狂気じみた悦楽。
「はっ、はっ……んむぅ!?」
とうとう口で口をふさがれた。相手の舌が激しくうごめきながら、村紗の唇を分け入って、強引に口腔にもぐりこんでくる。そしてそのまま、歯の一本一本の隙間、舌の裏のすじまで、徹底的にむさぼりつくされた。
呼吸もままならなくなり、窒息しそうになる。
一瞬白目をむいたかとおもった瞬間、ちゅぽんっ、とおかしげな音をたてて、唇が離された。
その時に村紗は目をあけてしまった。が、目がかすんで、暗闇のなかでは相手の顔は良く見えなかった。ただ、長い髪がばさばさとうごめいているのだけがわかった。と、突然その影が、村紗を抱き込んだ。
村紗の顔は両方からがっちりと押さえ込まれ、そのまま、相当に豊満な乳房に押し当てられる。その徹底した抱き方は、まるで、弓の雨の中でわが子を守ろうとする母親のよう。
村紗が鼻で息をしようとすると、押し当てられた乳房の肉が、鼻の穴に栓をする。穴がふさがれるほんの一瞬に香った匂いは、ついさっきまで、村紗が安楽のなかでかいでいたものと、まったく同じだった。
村紗は口からよだれをたらしながら、短く鋭く何度も空気を求めた。
その呼吸の合間に、村紗はある音に気づいた。いやそれは音ではなく、声だった。聞き取れるか聞き取れないかのぼそぼそとした小さな声が、くるったっような早口で、止まることなくつぶやかれている。
――村紗いやよ、いかないで。ずっと私のそばにいて頂戴。離れ離れになるなんて二度といやよ。もうだれとも離れたくない。あそこは寒い。誰もいない。何の音もにおいも光も色もない。何も無い何も無い何も無い。動けない自分があるだけ。その自分も本当にあるのかわからない。冷たい。何もかもが冷たい。あんな夢の話を聞かせるなんてあなたはなんて残酷なの村紗。怖い、怖い、どこかにいってしまうだなんて考えさせないで、酷い、村紗の酷い夢。くってやる、わたしが全部くらいつくしてやる。私から皆をひきはなそうとするものすべてを喰らってやる――
断片的に聞き取れたその言葉が、村紗の胸をしめつけた。もしかして自分は、何の考えも無しに酷いことをしてしまっていたのではないか。
「ごめん……なさい……」
あえぎながら、村紗は心から謝っている。
だがその一方で、村紗は歓喜していた。
(ああ、これだ、私のもとめた感覚はこれだ。暴力的なまでの執着で、私をがんじがらめにしようとしてくれる人――)
あの夢は、やはり私の願望だったのだ。そうに違いない。今日という夜を期待する自分の心が、あのような夢を作ったのだ。村紗はそう思った。
「もっと私を強くだいて……私の全部を搾り取って」
村紗は喉の奥から、体にのこった妖気のすべてをはきださんとする。
自分から相手に抱きついて、深い深い口付けをしてやる。
「ふぶー、ふぶー、ふぶー」
全部取れ、全部取れ、と想いをこめて相手の口の中でうめく。
――あゝ村紗、村紗、離さない、絶対に離さない、あなたの全部を私にもらう、その美しい流れる髪も、まつげのながい黒い瞳も、唇も、鼻も耳も歯も顎もほっぺたも腕も足も体も指も爪も皮も肉も骨も全部私のものよ。他の皆もそう、二度と離れ離れになんてなるものですか――
相手の体がまた激しく蠢きだす。口と口はがっぷりとつながったまま、また激しい全身の愛撫がはじまる。口の中でも愛撫は激しい。舌と舌が、互いの境をなくすほどに絡まっている。
そして次の瞬間、
「……んぶぅ!?」
村紗の口の中で、舌が伸びた。いや、舌の先端から霊気の触手のようなものが伸びで、物理的な肉の壁をすり抜け、村紗の体内を突き進み、全身へめぐる。
「んぶうー! んぶうー!」
口をふさがれたまま、村紗は鼻で悲鳴を上げた。
村紗の身体に侵入霊気の触手は、霊力の通り道たる霊脈をたどって全身へ広がっているようだった。そして触手が脈壁をこするとき、すさまじい快感が村紗を襲うのだ。触手は脈壁を乱暴にごりごりとこすりながら、全身へくまなく広がりそして霊脈にある霊力すべてをこそぎおとし吸い取っていく。
全身から伝わってくる耐え難いまでの快感が脳髄を焼いてゆく。
「あー! あー! ああー! ああー!」
村紗は声の出し方もわすれて、ただただ悲鳴をあげた。悲鳴をあげるいがいのことはもはやできなかった。自分の体がどうなっているのか、もはや知覚することができなかった。
村紗はもう、考えることをやめようとしている。
この快楽に身を任せて、何もかも忘れてしまおう。どのみち妖気も霊気も生気も、すべてむさぼりつくされるのだ。何かを考えたって無駄でしかない。
(すわれて、すわれて、すわれつくして、自分はカラッポになるだろう。しろめをむいて、もしかするといきもとまって、あしたのあさまでたおれているだろう。あさになったらみんながきてくれる。そしてあずけておいたようきをかえしてくれる。そしたら自分はいきかえる。だからもういまはくるってしまおう。このひとにぜんぶあげてわたしはくるってしまおう。せいきをぜんぶむさぼりつくされるまで、このひとにだきついていよう。わたしにできるのはそこまで。くるったら、あとはなにもない。このひとのすきなように、なる)
意識が途切れる寸前、村紗はまたあの声を聞いた。
――ずっと私のそばにいてよ。私を一人にしないでよ。私には皆が必要なの――
命蓮寺には一匹の鬼がある。
ただの人間であったとある尼僧が、妖の力を得るために支払った代償。それがその鬼であり、そしてまた力の源でもある。
満月の夜、鬼は封印を逃れ一時の自由を得る。
その夜尼僧は理性を失い欲求のままにうごめく曖昧な餓鬼となりて、生贄をもとめて寺を彷徨い始めるのだ。
天狗にも稗田にも知られぬ秘密の宴。
満月の夜ごと、命蓮寺の住人達は鬼を静める秘密の儀式を行う。
主によって行われる闇夜の口腔蹂躙劇、そしてそれを封じる自らの儀式を、彼らはこう呼ぶ。
『鬼許し聖参り・無明キス流れ』と。
今日命蓮寺に住まうのは、鬼にわが身を差し出すことを良しとする、幾人かの奇特な妖怪達である。
感動的だな
ただキスする話で終わらず全容が見えないまま話が進んでいくことで読んでいてワクワク感がありました。ムラサとほかの面々がどんな関係なのかを読んでいるだけで楽しかったです。
誤字報告を
》差さえあって生きてきたのである。
「支え」
》私意外の時だって
「以外」
またあなたの作品が読めて嬉しいです。
村紗とそれぞれのキャラとの関係がとても魅力的でした
先生ーーーーーっ
おかえりなさいーーーーーーーーーーーっ
性器言うなーーーーーーーっ(笑)
いや、ほんとお待ちしていました。
僕もこんなふうに求められてみたいです
次作も期待しております
どのキャラとの絡みもそれぞれ趣深く良かったが、個人的には村紗×一輪が最高だった。もうこの二人は夫婦でいいよ!
この作品におけるナズ星は中々ハードでいいなあ。
>>けしてありません
けっして
>>鼓動の音が即座に早くなった。
速く
>>目をあけていまった。
しまった
いやはや今回もKASAさんだなぁと思いました。
暴走ひじりんのとこからキモい笑いが止まらなくて今もフヒヒとかウェヒヒwとか呟いてますん
氏の作風は此処ではほんと珍しく、毎回新鮮な興奮を味あわせてもらっています。
氏の作品ならいつでもウェルカム、いつまでも待たせて頂きます。
とりあえず、ギリギリの所を攻めているKASA様は素敵だと思いました。
>スフレだから?
その発想は無かった(笑)
そして、これいいのかなあとも。
フレンチキスとディープキスは同義語です。
何度も読み返してしまった
ひじりん(鬼)の設定が秀逸