<シリーズ各話リンク>
「人間の里の豚カルビ丼と豚汁」(ここ)
「命蓮寺のスープカレー」(作品集162)
「妖怪の山ふもとの焼き芋とスイートポテト」(作品集163)
「中有の道出店のモダン焼き」(作品集164)
「博麗神社の温泉卵かけご飯」(作品集164)
「魔法の森のキノコスパゲッティ弁当」(作品集164)
「旧地獄街道の一人焼肉」(作品集165)
「夜雀の屋台の串焼きとおでん」(作品集165)
「人間の里のきつねうどんといなり寿司」(作品集166)
「八雲紫の牛丼と焼き餃子」(作品集166)
「はい、今日の授業はここまで。次回まで、それぞれ宿題をきちんと済ませてくるように」
はーい、と子供たちの声が唱和する。それとともに、教室の中にどこか弛緩したざわめきが満ちた。子供たちは思い思いに席を立ち、仲の良い者どうし集まり始める。今日の寺子屋の授業はこれで終わり。子供たちは家に戻ってお昼を食べ、それぞれの家の手伝いや、あるいは友達同士遊びに出かける時間だ。
私――八雲藍はここ、人間の里の寺子屋で算術を教えている。もともと算術を教えていた人間の教師が老齢で退くことになったとかで、上白沢慧音女史に請われて始めたことだ。人間の里には買い物でよく世話になっているし、軽い恩返しのつもりで始めたことだったが――習熟度も、理解の速度もさまざまな数十人の子供たちに、一度に算術を教えるというのはなかなかの難事だった。
進んでいる子に合わせれば初歩の子は理解できず、初歩の子に合わせれば進んでいる子は退屈する。結局、個別に習熟度を把握した上でそれぞれ別個に適切な問題を与えるという手間のかかるやり方になってしまったが、致し方ない。自分の式としての処理能力は、こういうことにも役に立つ。
「藍せんせー」
教材をまとめて私が教室を出ようとすると、男の子がひとり私の尻尾にじゃれついてきた。慣れたものなので、軽く尻尾を揺すって引き離してから、私は振り返る。
「なんだい?」
「んーと、前に習ったところの質問なんですけど」
この教室の子供の中では、理解の早い子だった。この子には今は小数と分数について教えたところだったはずだ。さて、質問とはなんだろう。
「えーと、1を3でわると、0.3333333...っていつまでも3が続いて、割り切れないから、1/3って書くんですよね」
「うん、その通りだ」
「ええと、1/3は、1を3でわった数だから、1/3が3つあれば1になりますよね」
――ああ、この子が何を疑問に思っているのか、見当がついた。
しかし、教えられずにこの疑問に辿り着くとは、やはり優秀な子だ。
「そうだな、1/3かける3は1だ」
「でも、1/3は0.33333333...なんですよね」
「うむ」
「3かける3は9だから、0.33333333...に3をかけたら、0.999999999...になって、1にはなりませんよね?」
私は思わず、その子の頭をわしわしと撫でる。こういうことがあると、この教師の役目を引き受けて良かったと思うのだ。数学という階段を、子供たちが一歩ずつ上っていく、その過程でこうして、真理のしっぽを掴まえようとする子供がいる。その気付きを見守るのは、実に楽しいことだが、さて。
「君は賢いな。先生は嬉しいぞ」
――さあ、この子に循環小数0.99999...が1と等しいということを、どう説明したものか。
誰にも邪魔されず、気を遣わずにものを食べるという、孤高の行為。
この行為こそが、人と妖に平等に与えられた、最高の“癒し”と言えるのである。
狐独のグルメ
「人間の里の豚カルビ丼と豚汁」
「ああ、藍さん。今日もありがとうございました」
「どうも」
寺子屋を出ようとしたところで、慧音女史と行き会った。向こうはまだ仕事があるようだ。軽く会釈だけを交わして、私は外に出る。
寺子屋の前を、これから遊びに出かけるのだろう子供たちが駆けていく。その子供たちが私の姿に目を留めて、「藍せんせー」と手を振った。手を振り返して、私はぽっかりと白い雲が漂う真昼の青空を見上げた。間抜けなほど高く透き通った空。数学の真理のように、その色には手が届きそうで届かない。
寺子屋の玄関上にある時計は、とっくに昼過ぎを示している。質問してきた子供に対する説明に思わず熱が入ってしまったせいで、こんな時間になってしまった。時間を認識すると、それを空腹感が追いかけ、追い越していく。
ああ、それにしても腹が減った。すごい空腹と言っていい。
私は歩き出す。人間の里には、行きつけの蕎麦屋がある。そこのきつねうどんが、寺子屋で授業のある日のいつもの昼食だ。もちろん、今日もそれ以外の選択肢などない。油揚げ、油揚げ。ああ、たっぷりと汁を吸った甘辛い油揚げと、もちもちのうどん。七味唐辛子のぴりりとした辛みを添えていただこう。絶対大盛りで食べよう。そう考えると口の中によだれが満ちて、私は足早に通い慣れた蕎麦屋への道を急いだ。
――ところが。
「……臨時休業……」
のれんの無い店先の引き戸。張り紙には、素っ気ないその四文字が記されていた。私は思わず天を仰ぎ、崩れ落ちそうになるのを必死で堪えた。なぜ、なぜ今このタイミングで臨時休業なのだ。
幸福と不幸は等価交換であるという。教え甲斐のある子供の有意義な質問に答えるという幸福の代償がきつねうどんであったというなら、泣いて良いのか、笑って良いのか。
溜息をついていても、目の前の店が開くわけでもない。私は肩を落として踵を返した。
「さて、何を食べようか……」
きつねうどん欲が高まりに高まったところから急にはしごを外された気分で、しかし容赦なく空腹感は襲いかかってくる。何かを食べたい――そうは思うのだが、しかし、視界に入る他の飯屋の看板を見ても、なぜか心が沸き立たない。
腹は減っているのに、食べたいものが無い。胃にも心にもぽっかりと空洞が空いたようだ。私の腹は今、きつねうどんを奪われて、暗い闇の中に閉ざされてしまっている。今、何腹なのかと問いかけても、深い穴に石を落としたように答えが返ってこない。
すれ違った女性が、何かに怯えたような表情でそそくさと去っていった。何に怯えたのだろう、と思って周囲を見回してみたが、特に怖がるようなものは見当たらない。首を傾げたところで、帽子屋の店先にある姿見に、自分の姿が映っているのが見えた。
眉間に皺が寄って、目が阿修羅のようにつり上がった狐の姿がそこにあった。
――私か。思わずもう一度溜息。
焦るんじゃない。私は腹が減っているだけなんだ。
そうは思っても、やはり心にぽっかりと空いた空洞が、空腹なのに食欲を飲みこんでいくようで、肩まで重くなってくる。ああ、それにしてもきつねうどん……きつねうどんさえあれば……。
そんなことを思いながら歩いているうちに、見慣れない通りに入り込んでいた。はたと立ち止まり、私は周囲を見回す。はて、ここはどこだ。このあたりは通った記憶が無い。見慣れない家と看板が並んでいる。
その中にある、ひとつの看板に目が留まった。
豚カルビ丼。
「カルビ丼か」
ピンときた。ジグソーパズルの肝心なピースを見つけたような気分だ。
狐の仇は豚で取る。そうだ、そうしよう。今の私はカルビ腹だったのだ。
のれんをくぐると、「いらっしゃいませー」という威勢の良い声が出迎えた。昼飯時から少し遅れているせいか、店内は空いていた。隅で若い男性が丼を掻きこんでいる。
「お一人様ですか? お好きな席へどうぞ」
私は店内を見回し、カウンター席の隅に陣取った。壁に貼られたメニューを見上げる。
豚カルビ丼、並盛と特盛。それ以外のメニューは無いらしく、あとはトッピングと汁物、飲み物だけのようだった。潔い店だな、と感心する。
店員が湯飲みとおしぼりを持ってきた。お茶が湯気を立てているのが嬉しい。
「ご注文は」
「豚カルビ丼の特盛お願いします。それと……トッピングのキャベツを」
「はい、かしこまりました」
それから、とメニューを見て、味噌汁の文字に目が留まった。
そうだ、味噌汁なら油揚げの可能性がある。そうなれば狐の仇どころか、豚と狐の両取りだ。
「あ、あと味噌汁の具はなんですかね?」
「具ですか。豆腐とネギになります」
「豆腐とネギ」
「はい」
「……油揚げは入っていませんか」
「油揚げはありませんねえ。すみません」
がーんだな。二兎を追う者は一兎をも得ず、世の中そう、油揚げのように甘くはないということか。
息をついてメニューを見下ろす。味噌汁の隣に、豚汁の文字があった。豚汁。いいじゃないか。
「じゃあ、豚汁ください」
「かしこまりました。以上で?」
「はい」
「毎度。特、キャベトン!」
特キャベトン。特盛り、キャベツと豚汁の略だろう。
湯飲みのお茶を啜ると、ようやく人心地ついた。見回してみれば、なかなか落ち着いた雰囲気の店だ。メニューが豚丼のみ、というからには腹を空かした若者向けの店なのだろうが、客足も落ち着いた時間に来たのは正解だったかもしれない。
と、その静けさを破るように、隅で食べていた青年が立ち上がるのと、店の戸が開くのが重なった。入って来たのは壮年の男性だった。どこかで見た顔のような気がする。このあたりで店でもやっている人間かもしれない。
「ごちそうさま。はい、お代」
「毎度ー。はい、いらっしゃいませ、お一人様?」
「いや、持ち帰りで。特盛り三つね」
「はい、特三つ持ち帰りでー!」
持ち帰り! そういうのもあるのか。
そんなことを思いながら、ふと視線を上げると、カウンターのガラス越しに、店員が肉を焼き始めるのが見えた。網の上で、油を滴らせて肉が焼けていく様が見える。匂いはガラスに遮られて届かないが、空腹感がいっそう強まって、私は思わず腹を押さえた。
食欲も過ぎれば拷問に等しい。これ以上はいけない。私はガラスから視線を逸らす。
「お待たせしました、特盛り、キャベツと豚汁ね」
お、きたきた。待ってました。
豚カルビ丼(特盛り)キャベツトッピング。熱々のご飯の上に、たっぷりのキャベツが絨毯のように敷き詰められ、その上に豚カルビが贅沢に載せられている。ほどよく焦げ目のついた肉に、白いキャベツのコントラストが眩しい。つけあわせにキムチの小皿がついていた。嬉しいサービスだ。
具のゴロゴロ感が嬉しい豚汁も、その傍らで主役に負けない存在感を放っている。
「……しまった」
豚カルビ丼と豚汁で、豚が被ってしまった。キャベツと味噌汁に遮られて、カルビ丼と豚汁を別々に考えてしまったせいか。これは迂闊だったが、頼んでしまったものは仕方ない。いや、そもそも豚カルビ丼しかない店の豚汁だ、被ることは店の方も承知の上なら、受けて立とうではないか。
「いただきます」
手を合わせ、箸を取る。まずは豚汁だ。
ズズゥ、と啜る。味噌と出汁の味が、熱とともに空っぽの胃から五臓六腑に染み渡るようだ。具もほどよく煮込まれている。ゴロゴロ感のわりに柔らかく、それだけであったかい気分になってくる。
カルビ丼はどうだ。丼を持ち上げ、箸でキャベツの絨毯をかき分ける。タレの染みた白米が、その下から恥ずかしそうに顔を出す。ご飯、キャベツ、カルビ。ボリューム感は三重の塔のようだ。
肉でキャベツを包むように持ち上げ、口に運ぶ。噛みしめると、甘辛いカルビの味が、シャキシャキしたキャベツの食感と混ざり合って、独特のハーモニーを奏でた。カルビの油を、キャベツが中和して、こってりしすぎない絶妙のバランスを保っている。
肉も適度に軟らかく、しかし高級すぎないこの庶民的な歯ごたえがいい。カルビって感じだ。こういうのでいいんだよ、こういうので。
「うん、うまい」
ご飯にかけられたタレも多すぎなくていい。カルビと白米って、どうしてこんなに合うんだろう。
つけあわせのキムチも、辛すぎなくていい塩梅だ。肉でキムチの白菜を包んでみる。うん、これもいける。キムチが重なって、三重の塔が四重の塔になった。三本の矢は折れないというが、四本ならなおのことだ。
カルビとキムチに染まった口を、豚汁がまたリフレッシュしてくれる。豚汁を一緒に頼んだのはやっぱり正解だった。いくらでも食べられそうだ。
「ふぅ……美味かった。ごちそうさま」
あっという間に食べ終えてしまった。満たされ足りると書いて満足と読む。満足だ。
お茶を飲んで一息ついたところで、先ほど持ち帰りで特盛り三つを頼んでいた壮年の男性が店員から丼を受け取っているのが横目に見えた。ふと目が合ってしまう。
「ああ、これはこれは、どうも。寺子屋の算術の先生ですよね?」
「え、ええ、はい」
話しかけられてしまった。特盛り三つの入った袋を抱えた男性は、「いやいやどうも」と笑って頭を下げる。
「うちのせがれが寺子屋でお世話になっております。先生の算術の授業は解りやすいと」
「それはどうも」
さて、どの子のことだろうか。目の前の男性と似た顔の子供を頭の中で検索してみたが、該当しそうな子供はぱっと浮かばなかった。その子は母親似なのかもしれない。
「それで、実は少しご相談したいことがありまして」
「はあ、なんでしょう」
「いや、実は先日、せがれに寺子屋で先生に習った算数について尋ねられまして、お恥ずかしながら、せがれの質問に答えられませんで。親としてこれは沽券に関わるものですから、もう一度算術を学び直したいと思いましてねえ」
「はあ」
「寺子屋では、大人は算術を学べないものですかね。そうでなければ、何か良い教本はありませんかねえ」
ふむ、と私は唸る。寺子屋では主に子供向けの授業を行っているが、授業を受けること自体は大人でも出来たはずだ。私は行っていないが、慧音女史の歴史は、確か大人向けの授業もしていたはずである。
「大人向けの算術の授業は行ってませんが――寺子屋で今度相談してみましょう。それと、教本なら」
と、私は足元の鞄から一冊の本を取り出す。『基礎算術入門』――数年前に私の出した本だ。寺子屋でも教本として使っている。
「拙著ながら、こちらを」
「へ、いただいてよろしいので?」
「構いませんよ。その年になってまた算術を学び直そうという姿勢、立派なことです」
「たはは、こりゃどうも。ありがとうございます」
ぺこぺこと頭を下げて、男性は店を出て行った。カルビ丼屋の中でする話でも無かったかもしれないが、まあ、ここは大目に見てもらおう。私も席を立つ。
「毎度ありがとうございましたー」
また店員の威勢のいい声に見送られ、私は店を出た。空を見上げれば、またぽっかりと浮かんだ雲の向こうに、先ほどより少し傾いた陽光が煌めいている。
腹が膨れると、心も満たされる。狐の仇は豚でとり、おつりもきた。きつねうどんのことはもう、頭から綺麗さっぱり消え去っている。空腹が満たされることの幸福感は、難解な証明の完成に近似している。数学よりもよほど安上がりだ。
循環小数0.99999...と1が等しいことは、数式で証明できる。しかし、空腹が最大の調味料であることの証明は――どんな公式で為せるだろうか。
ふと、先ほどの父親は、ひょっとしたら今日質問してきたあの子の父親だったのだろうか、と思った。
次の授業のときに、こっそりあの子に確かめてみよう。
そんな浮かれた気分で、尻尾を揺らしながら歩き出し――はたと気付いて、私は足を止めた。
「……そういえば、結局この通りは里のどこなんだ?」
――その問題を解くのには、とりあえず飛べばいいのだということに私が思い至るまでは、まだもう少しの時間が必要だった。
……現におなかがすきました。
空腹と油揚げに翻弄される藍様かわいすぎです。
肉うどんの敵を脂そばで取っちゃダメだね(体験談)
負のスパイラルに入らなくて、本当に良かった。
あれを読んだり見た後では、コンビニの総菜すら美味に感じられる。
藍様というのが少々以外な手取りではあったけれど、意外と原作も思考しているっぽい事を考えるとガッテン。
しかしながら、どーしても気になるのが孤独パロが飯パート入りからでワードが多量投入されており少々唐突な点と……
何よりも豚汁を「ズズゥ、と啜る」事である。
かのZガンダム小説版でもハマーン・カーンがコーヒーを音を立てて啜ったらしいが、天才貴族系で品行ありそうなキャラが音をたてて飲むのはどうにも違和感があるのだ。
藍様が食い方が汚い、という設定ではない様子(丼をかっ込まずに、キャベツで包むようにして食べるなど行なっている)なので、何ともそこだけゴローちゃんしかめっ面モードになっちゃうんだなぁ。
飯ネタ(もとい孤独ネタ)は改めて配合量が難しいのだなぁ、と感じた次第です。
理屈っぽいモノローグを打てるキャラとしては慧音あたりが定番ですが、里に居着いているせいで「ぶらつく」ということがやりにくい。そういう意味で藍は適当な配役だったと思います。
元ネタは分からないんですが、とても楽しめました。
ついに浅木原さんの藍様が読めて幸せです。
ちょっと吉野家行ってくる!
ところで、豚丼は「ぶたどん」と「とんどん」どっちが正しいんでしょうねぇ
一緒に食べに行って、別々の席で楽しみませんか。
どうせならもっと食事に描写を割いて欲しかった所。まぁきっと元ネタがこういう雰囲気なんでしょうね。
いかんな、こんな…いかんいかん…
次回はきっとアームロックだと期待しております。
たまらないな、これは・・・
豚丼の美味さがどこか上滑りしてしまうのかと危惧したがそんなことはなかったぜ!
あと豚汁に限らず汁物はは音を立てて啜り
風味を口腔と鼻腔いっぱいに楽しむのが通のマナーと心得ます
シリーズ化希望。
・・・自分はむしろ藍さまが食べられなかったきつねうどんの気分になってしまった。
油揚げで我を忘れる藍さま可愛い。
きつねうどんという幸福を逃しても、豚カルビ丼と豚汁という別の幸福がやってくるのですね。
食後に読みましたが、よだれが出そうでした。
ちゃんと一本のお話になっていてよかったです。
藍さまもかわいいw
続きが読みたくもなるというもの
ジェネリックの稗田文芸賞の人ですね
これがシリーズで続いていくので期待しています!
こういうのも書かれるんですねw
雰囲気が100%の再現度と言えるのではないかと
というかですね、あなたどんだけ多芸なんですかw