晩夏の風に誘われて、奇妙な台風が首都京都を勢力圏へと侵していた。
奇妙なそれは都合二つ。
一つは、過日の台風で
一つは、
そんな奇妙な台風に誘われたのか惹かれたか、はたまたかどわかされたのか。奇妙な眼を持ちそれへと狙いを定める二人組。
宇佐見蓮子にマエリベリー・ハーン。
放つ嫌疑の白羽の矢は、ひとえにオカルト好きだから。
蓮子曰く『これは稲田姫さまが婚儀から解放される台風に違いないわ!』
メリー曰く『蓮子、ちょっとまって眠い。いま夜中の3時』
そんな噛み合わない会話を前夜に交わす二人の心はだけれど一つ、世界の秘密を暴きたい。だからそんな会話でも通ずる所があったのか、はたまたただの勘違いだったのか。
電話口で会話を交わす二人の朝は、鞄を手に持ちメモと鉛筆詰め込んで。朝霧覚めやらぬ時刻が来たのなら、時代がかった列車の中へそれいけと、飛び込み勇み馳せ参じ、心のままよと目的地へその足を運ぶのだった。
奈良県桜井市、過日の台風でご神木を折られて久しいスサノオ神社へ。
きっと結界の一つや二つ消し飛んでいて不思議はないとはメリーの談。
頭に一計持ちつつも、今回は当たりに違いないとは蓮子の談。
「ねぇ蓮子」
「えぇメリー」
「「私達はそれを暴く眼を持っている」」
行く道先は怖いくらいに静まり返り、未だその表情を見せてはいなかった。
午前5:34分発急行列車ボックス席。
メリーは暗がりの中にいた。
ここは?
雨。
雨が降っている。
不躾に降る豪雨という訳ではないけれど、身体から体温を奪うには十分という位の冷たい雨がしとしと降っていた。
だって言うのにメリーの衣服は濡れてはいない。
だけれど確かに感じる指先の冷たさや身体に張り付くこの雨の感覚は何なのだろう?何より苦しいほどに胸を締め付けるこの感覚は何なのだろう?
メリーを苛むそんな考えなどは一切及ばず、彼女は後ろ髪を引かれる気配を意識に覚えた。そうしてようやくメリーはそれに気づかされる。
あぁ、またなのね。
境界を越えるそれと気付き、メリーはそのまま落ちるような感覚へとその身をまかせていった。
そうしてメリーの眼が捉えたのは見知らぬ二人の姿とやはり雨。
空を見れば
視線をやれば、暗がりの雨の中でもそれだと分かる紅白の服装に黒い髪をしている人。そして、良くは分からないけれど、腰まで伸びた金髪をすらりと流した背も高くてどこかメリーに似ていると覚えさせる人。
そんな奇妙な二人の間は、丁度公園にあるシーソー八つ分程開いていて、そして二人は相対していた。
見れば濡れ鼠の様な二人の内の、金の髪をしている人は顔を俯けそうして逸らして、紅白で黒の髪をした人の方は、まっすぐとその背の高い人を見据えていた。
場所はたぶん神社どこかだと思う。
不思議な感覚だった。
メリーは、その見知らぬ二人の姿を濡れた髪が肌に張り付く様子が分かる位には近くで見ている筈なのに、当の二人はメリーに気付く様子はない。
それに紅白の人を見ていると途端に胸の詰まる想いが強くなる。
だって云うのにメリーは二人の声を聞くことが出来ないでいた。
その様子からあまり良い雰囲気じゃない事だけは分かるのだけど……。
どうしようかしら?何てメリーが考えていた矢先、紅白の人が金の髪をした人へと一歩踏み出した。
それと同時に金の髪をしている人は怯えた様に身体を震わせ唇を噛む。
紅白の人のその口は、一心に彼女が見据えた人へと何かを伝えているようだけれど、何を伝えているかは今のメリーには分からない。
ただ、彼女が一歩を踏み出して口を動かす度に、私の胸は締め付けられるような苦しさを増していく。
見れば金の髪をした人は、自分の手でもう片方の腕を掴んで身体を庇っていた。そうして紅白の人を見ない様に、後ずさる様にその金の髪を心許なげに揺らしていた。
けれど、詰められたその距離分だけ紅白の人は前へ前へと歩を進めていく。
その度私も心を千々に裂かれる様。
もう止めてとメリーは増していく胸の痛みに耐えられず思わずそう叫びたくなった。
そんな苦しい思いをしてまであなたは何をしようとしているの?そう思わずにいられなかった。
紅白の人は尚も歩みを進めて止めず、その目は決して金の髪の人を離さない。
あぁ、そうか。これは、この感情と感覚はきっと彼女の…………。
そんな考えは
「……うるさい、うるさいわ。……うるさい、うるさい霊夢!」
という今までの静けさを破る声が金の髪の人から聞こえて、かき消されていた。
「……りー。……リー、聞……る?…………メリー、ちょっとメリー!」
風雨に曝されガタガタと揺れる列車の中で、宇佐見蓮子は同じくガタガタとメリーの肩を揺すっていた。
もう少し優しく揺すって欲しい。
メリーが寝ぼけ眼でそう思うのにさほど時間は掛からなかった。
「蓮子待って、もう少し優しく。エクトプラズムとか出そう」
「え、ほんとう?」
そう言う蓮子の目が列車のボックス席の中で剣呑とした光を帯びていく気配を感じ、メリーは慌てて口を開いた。
「ごめんなさい私の勘違いよ全然まったくそんな事は無くて列車の振動から来るゆりかご効果に私の三半規管が過剰な適応を示して一般解を超えただけだから」
メリーはそれこそまるで列車のように息もつかずに一足で言いのけた。
ねぇ待って、ほんとやめてもう止めて、もう起きたからお願いだからというメリーの声が蓮子に届く。
そんなメリーの声を聞いて、ようやく蓮子はよし大丈夫と揺さぶることをやめ、ポケットの中からハンカチを取り出した。
それの四辺には黒の一本線が引かれていて、その上に月蝕を模した月と星の装飾が洒落た風体で編みこまれていた。
「何だ残念。メリー、はいハンカチ。涙拭きなよ」
「え?」
言われて初めて自分の頬に手を当てて、そこに水分が付着している事にメリーはたと気付いた。
すると、わざとらしく残念だ何て言っていた蓮子が先程のがさつ振りが嘘のように優しい手つきで、そっとメリーの頬へとハンカチを添える。
メリーは蓮子が拭きやすい様に片目を閉じて好きなようにさせていた。
「はいハンカチ、何て言って結局蓮子が使うのね」
「気にする所はそこなの?もっと違う所に考察のメスを入れるべきよメリー」
会話なんてついでよと言わんばかりの顔と手つきで蓮子はメリーの涙をぬぐっていた。
そうして、よし綺麗と拭き終わった蓮子がハンカチをしまう。
そんな蓮子にメリーは、過保護ねぇ蓮子は何て言って窓の方へと首を振った。無遠慮に叩き付けられる雨粒がガラスに張り付き形を変えて進行方向とは逆へ流れる様を見ながらメリーは間を置く。
蓮子はメリーの横へと席を移動し彼女の空いている方の手の小指をちょんと握る。
それを合図にメリーは口を開いた。
「夢を見たの。それも飛び切り苦しいやつを」
「うん」
蓮子は何も聞き返さずただうんとだけ返事を返す。
「紅白で変わった巫女服姿をした人と、金髪で髪の長い変な服を着た人が、神社で雨に濡れてた。声は聞こえなかった、けど言い争ってる風な感じだった。追体験みたいなものだと思う。それで、私には多分紅白の人の感情が流れてきてた」
「うん」
もう一度うんと蓮子は言った。
そう言って蓮子はがたごとと揺れる列車の中でメリーが話しだすのを静かに待っていた。
メリーが自分から話すまでこちらから催促はしないし無理強いもしない。
ただメリーが話し始めるのを蓮子はじっと待つ。
待ってそうして何拍か、もう大丈夫と判断してから蓮子はようやく問いかける。
「ねぇメリー、今も苦しかったりする?」
蓮子はメリーにそう聞いた。
「ううん、今は大丈夫。それにあそこで私はあくまで第三者でしかなくて、苦しかったのはあの紅白の人だもの。だから多分、泣いていたのも私じゃなくて彼女のもの」
「そっか」
そっかそっかと言葉を重ねて蓮子は言った。
夢の中で、という言葉では無く、あそこでという言葉をメリーが使った事に蓮子は身のすくむ思いがする。
夢を夢だと認識出来ているのなら、あそこでなんて言葉は出ない。
それは夢に根を張ってそちらに佇んでいなければ到底出ることの無い言葉の感覚。
メリーから聞かされる夢の話をカウンセリングする度に、内心、メリーの眼は境界を越える程度にその様を変えているのではないかと仮説を立てる蓮子は彼女に気が気じゃない。夢と現実は同じものと考えるメリーの夢がこちらでないものに根を張っているのなら、一体彼女は何処に還るのだろうという疑念は捨て去って。
目的地へ向けごとごとと列車が二人を揺らしていた。それはカーブへと差し掛かり、二人の身体は遠心力に引かれ、メリーの頭が蓮子の肩へとさっと転がる。
蓮子はメリーを拒絶しない。
「メリー?」
「どうしたの蓮子?」
「無理だって判断したらすぐに言って」
「ん、分かった。でも蓮子がそれを聞いてくれると思えないのはどうしてかしら?」
「可愛くないわねぇ」
「うそうそ。それ位には信頼してるから蓮子のこと」
「どうだか」
二人を乗せて列車は走る。
風雨の中を駆け抜け走る。
秘密を暴く二人の眼には由々しく淡く相応しく、さりとてそれはあてどなく……。
列車を乗り継いで神社への最寄り駅へ付いた頃には台風然とした雨は上がっていて、代わりにどんよりとした空だけが、いざと駅を降りた二人を出迎えていた。
校舎から出て一歩二歩、二人はざんと立ち止まる。
空を見上げて蓮子は一言。
「天気悪いなぁ」
そんな蓮子にメリーは一言。
「台風なんだから当たり前じゃない」
何をいまさらとメリーは告げて、
メリーは時々私に冷たいと、蓮子はそんな風に言っていじけていた。
「はぁ、けどまぁ」
塞ぎこみそうなそんな空を祓うように蓮子は帽子に手を当て開口三番。
「さぁメリー、それじゃあ早速!」
「暴きに行くとしましょうか」
「甘味処に行くわよ!」
噛み合わない二人の台詞が空へと向かい、地面へぽとっと落っこちた。
応えたメリーの発言は秘封倶楽部としては趣旨に沿ったものだった、けれど蓮子の能天気はそれを見事に裏切った。
とはいえメリーもそんな蓮子には慣れたもの。
そうね蓮子はそうだものね、えぇ私はわかっていましたともと内心で声をあげ、それならこっちはと冷静に言葉を返していた。
「蓮子のおごりね」
「うん?」
「今朝も待ち合わせに遅れた埋め合わせよ」
「メリーは時々私に冷たい」
「それはどうも」
二人はてくてく歩き出す。
「ねぇ蓮子、こんな所に甘味処なんてほんとにあるの?」
「あるに決まってるじゃない。神社と言えばお茶にお団子甘味にゼリーが常識よメリー」
「どこからそんな自信が湧くのよもう」
言葉とは裏腹にメリーはどこか楽しげだった。
そして、何がそんなに楽しいのか蓮子はざんざんざんざん歩みを進める。
そんな蓮子に一歩下がり、てくてくてくてくメリーは付いていく。
すると道すがら、やたらと古ぼけてペンキの剥げた、至るスサノオ神社マデという看板が、道にそってひっそり立っていた。
けれど蓮子が興味を持ったのは、それではなくて遠くに見えたのぼり旗の文字。
「あ、お団子の看板発見。メリーあったわ甘味処よ、やっぱり神社にお団子は世界の常識なのよ」
「あ、ちょっと蓮子っ」
蓮子は振り返りメリーの手を取った。ほらほらと、小さく見えるお団子と書かれたのぼり旗を指差してざくざくそこへ向かっていく。
手を引く自身の背の方で、繋がれた手におっかなびっくり視線をやって頬をさっと朱に染めるメリーのことには気付きもしないで。
「ほらほらメリー」
「もう、蓮子のおごりだってこと忘れないでよね」
苦し紛れのメリーの一言、けれどそんな小さな反撃は、
「メリーの一人や二人くらいどうってことないわよ」
「もうっ」
何て跳ねて返ってきてメリーは耳まで朱に染まった。
「わ、見てよメリー。こののぼり旗、支柱が竹で出来てる」
凝ってるわねーと繋いだ手はそのままに、少しかがんで蓮子はしげしげそれを見ていた。
対するメリーは、そうね何て言ってはいるものの視線はそれを捉えてはいない。おずおずと繋がれていない方の手を軽く胸にあて、紅潮した顔を蓮子に見られまいと逸らしていた。
「わ、わ、ほらメリー。店先に縁台と傘も立ててあって古風ですごく雰囲気出てる。メリー、これは良いお店を見つけたと思わない?」
同意を得ようと蓮子はメリーを振り返る。
雨が降ってたせいか
「ん?あれ、メリー顔赤いんじゃない?もしかして体調悪くなった?」
「っ……!…………はぁ、もう蓮子のばか」
見つかった、というメリーの恥じらいの思いもよそに蓮子は見当違いの気遣いを見せていた。
蓮子のばかばかあほの子蓮子、物理屋変人オカルトばか!そんな声がメリーから聞こえてきそうだった。
「無理だと思ったらすぐ言ってって、私電車の中で言ったじゃない」
ぴとっと蓮子はあけすけにメリーと額をくっつけた。
「!!?、、っ!?」
無自覚に恥ずかしい接触をやり遂げる蓮子にメリーは目をまじまじとたじたじさせて驚く。
蓮子は自身の何気ない行動や仕草がメリーをやきもきさせていることに気付いていない。
そして、何気ない女友達に対してもきっと無意識でこんな風に餌を撒いては放ったらかしにしているのだろうと、メリーはその場面を見たことがある訳でもないのに妄想の女の子にえいやぁと嫉妬していた。
けれど、実際蓮子がそういう行動を取るのはメリーに対してだけだった。
それが分からない位にはメリーは蓮子に首ったけ。
「ぅん?どしたのメリー?」
全く動かないフクロウのようになったメリーに蓮子は問いかけた。
その蓮子のあまりの天然ぶりにメリーは照れ隠しで開戦の
「ぅ、く、もう!何でもない!今日はおごり!蓮子のおごり!絶対おごり、超鈍感!」
「わ、分かってるわよ」
「何を!」
「お、おごるわよ?」
「超鈍感!」
時間にして都合三分程、二人はそんな時間を店先で過ごしてようやくその敷居を跨いでいた。
そこかしこから和の香り漂う店内に入ると、外に置かれていた縁台に緋毛氈を設えた蓮子感涙の座所が二人を出迎えた。
「メリー、あそこに座るわよ!」
店員が周りに見当たらないのを良いことに、蓮子は一目散に席へと進む。
メリーはそんな蓮子の後ろを半歩遅れて着いていく。
先に縁台へと腰を下ろした蓮子は、何故一度腰を落ち着けたのか問い詰めてみたくなる程すぐに、鞄を置くと立ち上がった。
顔を見れば誰にも分かる『楽しいです』という表情を蓮子は浮かべていて、メリーは何だか絆された。意味する所はただ一つ。メリーの仕掛けた戦は早くも白旗で、無血開城専ら駄々漏れ。
戦になっていなかった。
「これで中身は大学生だって言うんだからほんと詐欺よね」
メリーは呟いた。
「うん?何か言ったメリー?」
「んーん、蓮子が早くノーベル物理学賞でも取らないかなって」
「境界における素粒子と意識その実際、相対性精神学の理論を添えて。とかって出したら貰えるかもね」
「国家転覆罪で捕まるわよ」
「メリーと一緒なら」
「独房は読んで字の如く一人一部屋よ、残念ながら」
「それもそうか。それじゃ冴えないわね」
その気が全くなさそうに蓮子は肩をすくめていた。
そうして蓮子は化粧室へとその姿を消し、メリーは早速と店の人を一声呼んだ。
すると、すぐに菫色の和服を着た女性が奥の暖簾からよぉこそと席までやって来る。
一通りお品書きに目を通したメリーは、すぅっと息を吸い、
「あんみつと宇治金時に三色団子、ねりきり、羊羹、桜餅、それに月見団子と抹茶アイスにきんつば二つ。お願いします」
ゼリーは入っていなかった。
メリーのその流れるようなオーダーの嵐に、注文を取りにきた和服姿の女性が心なしか一瞬笑顔のまま固まる。
異邦人であるメリーの姿形や流暢な日本語、それと笑顔に気圧されたのかそれとも注文の量なのか、ともかくテーブルについた和服姿の女性店員はあたふたと初々しい新人の様にその注文を繰り返し復唱していた。
てっぽう水のような注文から10分かそこら。
メリーは運ばれてきた和菓子の数々を、縁台に座る自身の周りにこれでもかーという位に置いて、それらを好き好きに口へと運んでいた。
小豆色に艶々と照る羊羹にメリーは竹串をすっと通す。
切り分けられたそれにちょんと一刺しし、それから行儀よく手を添えて、様になって一切れ食んだ。
「ん、おいしい」
メリーがそんなこんなしていると、その背後には蓮子の姿。少しメリーを驚かせてみようと、こっそり身を隠し戻ってきた宇佐見蓮子。けれど、そんな彼女は縁台に所狭しと置かれたお皿に囲まれるメリーを見て、その気をすぐに萎ませた。
口から出る溜息はきっと御霊だったのではないか。
「近頃都に流行るもの、メリーにあんみつ秋の空」
「ここは京都じゃないわよ蓮子」
背後の蓮子には目もくれず、あんみつをスプーンでひとすくい、美味しそうにほおばりながらメリーはそう言う。
そんなメリーに蓮子は財布を取り出して一枚二枚とお札を確認。
「近頃私に流行るもの、メリーにお勘定お財布冬空」
「何よもう、私の一人や二人くらいどうってこと無いんじゃなかったの?」
「それはどうってことないわよ、どうってことない。ただ今日は持ち合わせが……」
少なくてと言おうとする蓮子を、
「やせ我慢する蓮子って私好きよ」
メリーは封殺していた。
「メリーは最近私に」
「はい蓮子」
言葉に出そうと口を開ける蓮子のそこに、メリーは抹茶アイスをお見舞いする。
蓮子は口に突き入れられたそれを、舌先でおっかなびっくり突付いて溶かして少しして、 予想外に美味しいらしく。緩みそうな顔に何とか体裁を整えて、
「あまい」
「よろしい」
そんな会話が席へと花を添えていた。
ひとしきり卓上の皿を空にした時のことだった。
交わす二人の会話が言葉少なげになっていき、そのどちらもが湯飲みに手を掛け茶を飲んだ。
やけに人の少ない店内に二人の啜る茶の音だけが乾いて響く。
竹に挿された風車が音も無く回っている。
獅子脅しに清水が流れ、着々とそのかさを増していた。
気付けば二人のその耳は、蓮子の持つ懐中時計が時を刻む音さえ捉え始めてしんとする。
二人がお茶を飲み終える。
メリーが湯飲みを卓へ置く。蓮子が遅れて続いてく。
耳に遠く、こんと獅子の脅しが
「メリー。私達が居るこちらは、
「蓮子は他人に配慮が足らない」
じと目でメリーは蓮子を見やった。
そのメリーの視線に晒されて、蓮子はこほんと拍を置く。鞄をまさぐり中から巾着袋を取り出した。口を開く。
「取り出したるは何の変哲も無いこの巾着袋ー」
「若い身空でそんなの持ち歩く蓮子は変だと思うけどね」
それを聞いて今度は蓮子がじと目になった。
けれど、まぁいいかと蓮子は思い直して、巾着の両端の紐に手をかけた。
「境界は、巾着袋みたいな物だと私は思うのよメリー。そして、塞ぐ結界はもちろん紐で」
するすると蓮子は巾着の口を開く。そしてそれを両手で摘まんでメリーに見せる。
「ほらメリー。私はこれが本来の境界の姿だったと思うのよ」
だった、と過去を意味する物言いで蓮子は言う。
「元々は開いていた、ってこと?」
「そうよ。そしてこの紐が結界。もともと開いていたものをこうやってきゅーっと閉じて」
そう言い、蓮子は巾着の口を徐々に閉じていき、塞ぐ。
「はい完成。これが、メリーのこちらでよく眼にする形の結界。そして閉じた巾着が、神ます妖の住まうあちら側」
「何よ。結界、境界、そんなの字面を見れば分かるじゃない。結んで境を括った世界が結界であり境界よ」
「問題は誰がそれを最初に括ったかってことよ。考えても見てよメリー?政府は何故境界に関してのあらゆる研究を禁止しているの?」
「建て前では均衡が崩れるからと吹聴してるわね、都合が悪いんでしょうね」
さっぱり信じてないけどね、とでも言いたげにメリーは団子を口へと放る。
「そう、そうなのよメリー。そこがおかしいのよ、都合が悪い。私たちは子供の頃から境界に関して詳しく調べちゃいけないことを知っていた。けど、都合が悪いならそもそもそんな決まりを周知する必要なんてないのよ。周知することで境界なんていう存在を現実にある実在として認識されてしまう位なら、いっそ隠していた方がいいわ、むしろ正しくあるべきはそっちよ。だって誰にも見えやしないんだから。ねぇメリー、私は実際に境界を確認出来る人なんてメリー位しか知らない、きっと世界でも、よ。だって言うのなら、政府は何故境界の存在を公的に認める真似をしてまで、リスクしかない矛盾を地で行く周知をしているんだと思う?」
「認識出来ているかどうかは主観の問題よ蓮子。主観で認識出来ていなくても客観の実在があるのなら、それは誰に気付かれぬとも今そこにあるものとして世界に働きかけるわ。そんなの危険じゃない」
客観を重視する蓮子にとってそんな事は百も承知だろうことを知るメリーは、けれど一応そう言った。勿論、それは蓮子の中に既に組みあがっているだろう客観をこの場に促す為。
蓮子は、自分を分かった上でそれを言うパートナーであるメリーに嬉しくなった。
「えぇ、メリー。客観でも確かに境界は存在している。けれど、政府が境界という実在を確認するにはどうしても主観が必要なのよ。だけど私は寡聞にしてそんな事が出来る研究者は一人も知らない。政府に初めて境界を認識させた者として名前が残ったっていい筈なのに。その研究者に境界は危険だから研究してはいけない、とでも言わせればいいのに、しない。メリー、私の仮説だけどこちらの政府は境界なんて言うものをまるで認識出来ちゃいないのよ、分からないし、見えない。だから、あんな形だけの禁止になっているんだわ。ということは、よメリー」
立て板に水あめを流すような抑揚でもって思わせぶりに話していた蓮子が一旦間を置いた。
喉に緑茶を流していたメリーは、手に持つ湯飲みを卓へと帰還させて先を促した。
「どうぞ」
「境界を括った奴は、こちらではなくきっと境の向こうにいる」
蓮子の顔はひどく真面目だった。
「それで今回の活動と言うわけね」
「そうよ、この異変でもしかしたらそいつの尻尾が掴めるかもしれない。まぁ今回はオカルトとして二つの台風に単純に興味があるっていうのもあるんだけどね」
「忙しないわねぇ蓮子は」
「何よ、メリーだって今回の台風のこと気になってるんでしょ?」
「蓮子と同じ位には」
「今回の台風で稲田姫さまがもし解放されたとするのなら、神社のご神木が破れたのなら、龍脈を封じ続ける境のくびきがほどかれる。出雲を中心とした列島各所に遍く根を張り、八つ又を伸ばす大地の龍脈。内一つがその姿を神代のものとして戻ろうとしてる、神話の時代の再生よ。どうメリー、わくわくしてこない?」
「かいつまんで私から言うことがあるとするのなら、そうね蓮子。秘封倶楽部としてこれは」
「「暴きにいかなくっちゃね」」
今度こそ、二人の声は重なった。
蓮子とメリーの二人は行きしなに見た至るスサノオ神社マデという看板に従って、
田舎よろしく誰も歩いていないうらぶれたアスファルトの道路を歩いていた。
路側の白線は時折割れて裂けていた。
赤、オレンジ、黄色。進んで良いの青色はどこにもまったく見当たらない。
そのどれもが寂れた場所だということを乾いた空気にのせている。
二人は初瀬川に沿って這うそんな道を行き、その足はちょうど連歌橋の所まで架かろうとしていた。
その前に立ち秘封倶楽部は詠みあげる。
「随分と朱い架け橋ね、やっぱり
この言葉は金髪メリー。
「牛若丸と弁慶がやりあったといわれる五条大橋もこんな感じなのかもしれないわね、こっちは随分小さいけれど」
この言葉は黒髪蓮子。
そしてメリーが言葉を続ける。
「丹塗りと言えば丹塗り矢伝説」
「や、私あの話は嫌いよメリー。だって痛そうなんだもの、というよりそれを置いたとしても神話のああいう表現は好きになれないしぞっとしないわ」
「まぁ私も好きではないけれど」
二人してお互いにそんなことを言いあう。
「日本書紀に書かれるイザナミ・イザナギの逸話にしたってそうよ。『あなたの身体にどんなところがありますか?』『はい、私の身体には雌のはじまりというところがあります。』『これは奇遇、私の身体にも雄の始まりというところがあります、私の体のはじめのところであなたの体のはじめのところに合わせようと思う。』なんてもうこんなのばっかり」
「神話なのだからそれくらいは力技にしないといけなかったのかもしれないわよ蓮子?」
そんなメリーの声に蓮子は耳を貸さずに更に言う。
「丹塗り矢伝説にしたってそうよ。セヤダタラヒメが用を足していたらほとに矢が刺さりました、矢は実は美男子で二人は夫婦になりました、だなんて。そんな象徴的記号ばかりで」
蓮子ははぁと息を吐く。
それにメリーは涼しげとこう言った。
「気分はすんだ?」
「ごめんメリー、気分はすんだわ。神話にけちをつける訳じゃないのよ、ただそういうのだけしか認められていない気がして、私が勝手にやるせなく感じてるってだけなの。自分の国の成り立ちを記した書物でそういう話ばかりだとうるさくってやんなっちゃう」
萎れる花のように顔と帽子を俯ける蓮子にメリーは優しく、けれど努めて明るい風を装って言葉をかける。
「蓮子は考え過ぎなのよ。書物に客観ばかり求めるからそうなっちゃうのよ物理屋さん?」
メリーは蓮子の頬をほれほれと指でつついていた。
それに気を悪くするでもなく蓮子はまだちょっとおとなしめの口調で声をきく。
「そうなっちゃうんだからしょうがないじゃないの。ねぇ、メリーはそんな風に思うことってないの?」
「私は留学生ですから」
おどけるようにメリーは言った。
言葉だけ聞けば、だから関係ないともとれるメリーのそれ。
それを聞いて蓮子は思う。
メリーは確かに留学生で、日本神話にルーツめいた依拠を感じないのかもしれないけれど、異邦人として過ごすからこそ一度は自分のことを意識したことがあるだろうメリーがそんな配慮に欠けた意味だけを言葉にのせている筈がない、と。
何となくそれが分かっているから蓮子は特に不機嫌になる訳でもなく言葉を返す。
「まぁそうなんだけど。でも意味わかんない」
語尾だけちょっと不機嫌な結びだった。
「あっちの生まれですもの」
「わかった降参よ」
蓮子のやっぱりまだちょっとおとなしめの白旗にメリーはこう言う。
「神話や書物で男女として描かれていたって、それはただ書かれているってだけよ。便宜的にそうしたってだけのことよ。古事記・日本書紀のいわゆる
メリーのそのとんでもな話。
蓮子はそれを聞いて本日三度目となるおとなしめの口調で言葉を返していた。
「ずいぶんと斬新な新説ね。会話が繋がっていなかった気はするけれど」
会話を追って筋道立てようとしていた物理屋蓮子はメリーに煙にまかれた心持ちだった。
「主観なんだからこれでいいのよ。私の主観は私の中にあって、それを表に出して動くなら現実はそれに足るのよ。どう、それって素敵でしょ?」
「何だかメリーが詐欺師に見える」
「私は蓮子が上客に見えるわ」
そんな感じに二人は会話を交わし、それを聞いて蓮子は帽子のツバに顔を隠して甘いものでも食べたようにその口元と目を緩めていた。
「けど、うん。少し気分が晴れたわ、ありがとねメリー」
「どういたしまして」
すると蓮子はお礼とばかりに、メリーの深爪にしてある中指だけを指きりみたく器用にかけてこう言った。
「メリー説なら、私好きになれそう」
「も、もぅ、蓮子ったら」
そんなことをメリーは言って心なしか頬を染める。蓮子はメリーと同じくやっぱり深爪にしてある中指でかける指にきゅっと軽く力をこめていた。
そんな中メリーは弾む鼓動と心の中で、なによ詐欺師はやっぱり蓮子の方じゃないのよっ、なんて思って心ここにあらずと心象風景そこは
そんなメリーにコンパスここに。
「さてメリー、そろそろ行こっか。橋は彼岸と此岸を分かつとも言うし、ここに境界は見える?」
「と、特にそれらしいものは見当たらないわ蓮子」
パスタみたいに絡まる途中式から脱して解にたどり着いた宇佐見蓮子、証明式に要素蓮子を見落としてこんがらがったマエリベリー。
そんな二人の手はか細く繋がれたまま、視線の先では神社に連なる石渡りの階段が稜線おぼろげにその口をひろげていた。
階段を二人で登るその最中、特に話題も無かったのか脈絡もなく会話が始まる。
「私彼岸花って嫌いなのよね」
「そういえば前もメリーはそんなこと言ってたわね、何か理由でもあるの?」
「理由、ねぇ」
そう言うとメリーは思案顔で小首を傾げた。
眉根をひそめてうんうん唸るメリーを蓮子は何だか面白い人でも見るかのように観察していた。
今のメリーをイラストにでもしたら頭の上にはクエスチョンマークが飛ぶに違いないわ、と蓮子はくすりと口に手をやり笑う。
そんな蓮子を尻目にメリーはクエスチョンマークをエクスクラメーションマークへと変えて喋り始めた。
「うーん、そうねぇ。何だかね胸が締め付けられる感じがするのよ、苦しくってやるせなくて届かなくて」
「随分具体的ねぇ」
「何だかね、列車の中で感じたあの巫女の想いと似ていたから。感情の輪郭を触れる位に良く分かるの。けれど彼岸花を見て私が感じるそれは巫女のものとは違う。似てはいるんだけれど」
「……そう。メリー、私が列車でメリーに言った事を覚えている?」
「無理だと判断したらすぐ言って、でしょ?」
階段を登るとそこには鳥居と
夥しいまでの銀杏の落葉が地面を優しく抱いていた。
敷地内には灯篭二つ、
左手では巨木にまみえるご神木がその身を半と欠いていた。
そして、その地に踏み入った二人はそのご神木に近寄りまず言った。
「ねぇ蓮子、幹がこれほどある木が台風程度で折れると思う?」
「うーん、難しいと思う。雷でも落ちたのならまた別だろうけれど、断面に炭化とか裂傷とかの焦げ跡が見つからないわ」
そんなことを言いながら蓮子は一歩近づいて木の断面に指で触れる。
そこは乾いてはいたけれど、確かに落雷があったととれる痕跡は残っていない。
それを確認した蓮子はメリーの横へまた一歩と戻って口を開く。
「ね、メリー。結界の一つや二つどうにかなっていて不思議は無いと思うのだけれど、それらしいのは視える?」
「実を言うと蓮子がさっき触っていた場所がずばりそれなのよ。けれどね蓮子、その境界は一度開いて閉じられてるみたいなの」
「そこまで分かるものなの?」
蓮子は何か気がかりとも不安の色ともとれる声でメリーに言う。
それを知ってか知らずかメリーは事も無げに声を返す。
「分かると言うよりいつもと違うのよ。私がいつも視る境界の両端はリボンで結ばれている。けれどこの木のそれはリボンが無いわ、ただ閉じているだけ。だから多分一度解いて開けてから、境の向こうでリボンを閉じたんじゃないかしら?」
「なんだか葉っぱの気孔みたいな話ね。ほらあれって裏側にしかないじゃない」
「表裏があるかどうかは分からないわ。ただ私はそう思うってだけよ」
「メリーが思うならきっとそうなのよ」
さっき橋でそう言ってたじゃない、と蓮子はその時のことを思い出してくすくすしていた。
その蓮子を横目に見てメリーもつられてそれに倣う。
そしたらメリーは興にのったのかそうじゃないのか、それとは知らずに蓮子の気に懸けている危ない橋を一人で先々渡り始めた。
「ね、蓮子。こっちから触ったら境を開けると思わない?」
秘封倶楽部としてはその意に沿ったメリーの言葉。
メリーから夢の話を聞かされる前までなら頷いていただろう蓮子は、けれどそれを聞いてすぐに弱気と袖掴みにメリーへ言う。
「やめて、いやよメリー。しないで、お願い」
「蓮子?」
「ほらメリー、あっちの石碑を見に行きましょう?」
「あっ、ちょっと」
メリーの手を引きそのまま指差した石碑へ足を進める宇佐見蓮子。
二人の足元で落葉が騒がしく音を立てた。
蓮子の紐編みのブーツが不安げに落葉をかき分けて、足早にご神木からメリーを連れ去る。
二本の灯篭を横切り
蓮子の突然の連行に身を任せていたメリーはそこでようやく声を上げた。
「どうしたって言うのよ蓮子?いつもの蓮子らしくないわ」
メリーがそういうと蓮子はきゅっと軽く唇を結んで、こわばる声をなんとか隠してそれから言う。
「そういう時もあるのよ。それで納得して、お願いだから」
俯いて蓮子は碑文へ眼を落としていた。
その蓮子がメリーにはひどくおぼろげに見えたのか、彼女はそれ以上は詮索しなかった。
二人の間に声の無い時間が一拍二拍と流れる。そしたらメリーは蓮子を気遣ってか碑文に刻まれた和歌を仕切りなおしと詠みあげた。
「八雲立つ 出雲八重垣--籠みに 八重垣作る その八重垣を」
メリーの蓮子を落ち着かせようとしたその一言は、彼女の思いとは裏腹に蓮子をさらに追い込んだ。
「え?メリー、今なんて言ったの?」
はっと振り返ってメリーを見る蓮子の目は怯えを帯びた夥しい畏れのそれ。
「何って、碑文に書いてある和歌を詠んだだけじゃない。それがどうかしたの?」
「え、でもメリー?出雲八重垣--籠みにってそんなの何処に刻んであるの?私には出雲八重垣妻籠にとしか見えない、んだけど」
言葉尻もあやうくなった蓮子の声。
時節も夏のそれを過ぎているというのに蓮子の首筋をじとりと汗が伝う。
蓮子は思う、メリーの境界を見る眼と自分の星と月から数式を手引く眼は、同じものを見ていないんじゃないかと。
その仮説は今この時を以って途中式を紐結び定理となって証明を終えたのではないかと。
そんなことが一瞬で頭を駆け巡り思考に沈む蓮子にメリーの声が鶴と聞こえた。
「んー。あっ、--籠みにの部分に境が見えるわ。そこだけ小さく開いているみたい、だから私にだけ違って見えたのよ」
「そ、っか。うん、そっか」
蓮子は搾り出すようにそう言いながらメリーの裾を遠慮がちに手に取った。
まるで幼児が手からするりと抜けそうな風船の紐を必死に握っているように。
そして、先ほどと同じくメリーはそんな蓮子に気付いているのかいないのか、蓮子を気遣って言葉をかける。
「ね、蓮子。この和歌を詠んだのはスサノオよね?」
そんなことはメリー自身知っている筈で、なのに彼女はそう言った。
もちろんそれは蓮子と秘封の活動を続けるためのメリーの精一杯の言葉。
彼女は先ほど蓮子から自身へ向けられた怯えの眼に少なからず傷ついて、けれどその眼をした蓮子はメリーを気にかけるからこそのその表情。
メリーは蓮子の表情が自身を邪険に扱うそれとはひとつも疑わずにひとり知られずひっそり傷を受け入れる。
どちらもがお互いを想い、だからこそ傷ついた。
蓮子もメリーのそんな機微に気付いていて、おとなしめの口調になって言葉を零す。
「そう、それに日本最古の和歌と言われているわ。八重垣というのは
「意味を考えると結構怖いこと言ってるものね。言い過ぎかもしれないけれど早い話が稲田姫を閉じ込めたいってことだもの」
メリーの合いの手に蓮子は少しづつ冗談を言い合える調子を取り戻す。
「もう、メリーったら。知っているんじゃないの」
「ばれましたか」
「ばればれよ」
端から見ればつたないまでのその遣り取り。
けれど蓮子とメリーはそんな掛け合いさえ大切にして、いつもの調子を取り戻していた。
二人して控えめにくすくす笑い合って、蓮子は鞄から青のマーブル柄をした万年筆とメモ帳を取り出して書き込む。
結界二つ。
一つはご神木、閉じてる。
一つは碑文、開いてる。
後日、要調査。
かしこ
その字面を横から覗き見していたメリーはかしこを見て、何これと冗談めかして笑っていた。
午後5時45分。
二人はホテルへチェックインしていた。
フロントで名義は宇佐見蓮子と記帳してカードタイプの鍵を貰う。
その時に蓮子はきちんと家族・同伴人の欄にマエリベリー・ハーンと書き込んだ。
そうしてそんなこんなで、二人はレギュラーよりかは少し値の張る八階の部屋にいた。
「急だったのに蓮子ったらよくこんな良いホテルと部屋が取れたわね」
「やっぱりこういう時は少し奮発したくて」
こういう時?とメリーは首を傾げる。
倶楽部活動のこと?と一瞬頭をよぎり、でもそれじゃこういう時って表現は変ねとメリーは思い直す。
そして、けれどまぁ蓮子が変なのは蓮子なんだから気にかけてもしょうがないかと何気にひどい結論を付けていた。
考えるのも億劫とメリーは今日の疲れを癒すようにベッドへ身体を横たえて腕を投げ出す。
そしたらスプリングなんて無いんじゃないかと思うほどそれは深く沈みこんだ。
そんな心地よさに浮かされてメリーは言葉を漏らした。
「ね、蓮子。私蓮子の作ったショコラ・ショーが飲みたい気分」
「また突然ね、でもまぁコンシェルジュに材料があるか聞いてあったらいいかもね。部屋にシステムキッチンもあることだし。うん、そうね二人ともシャワー浴びた後でもいい?」
「蓮子が作ってくれるなら幾らでも待つわ」
「調子の良いメリーさんだこと」
メリーの横たわるひとり用というには随分と大きいベッドに蓮子は腰掛けた。
そうして流れるようにメリーの顔の横へ蓮子は片手を付いて身体を支え、少し前のめり半になると、彼女の前髪を空いた方の手で掻き分けてそこを軽く指で弾く。
「あいたっ」
全く痛くなんてない筈なのにメリーは楽しげとそう言う。
そして蓮子の指に弾かれたそこにメリーは手を当てた。
しばらくそうするメリーに蓮子は何を言うでもなくそのままで。
「どうしたのメリー?」
「蓮子にキスされるかと思った」
「して欲しい?」
「ううん」
言うとメリーは蓮子の首襟へ手をまわし、それを自身へ引っ張り寄せると蓮子の唇と自分のそれを重ねる。
触れるという言葉そのままの二人のそれ。
メリーは唇を離すとすぐにくすくすと表情を涼しげにしていた。
「私からするのよ」
「もぅ、ばか」
それから二人はホテル内のレストランでビュッフェスタイルの食事をとり、部屋へ戻るとシャワーを浴びた。
蓮子がコンシェルジュに聞けば材料からバレットやら何やらを厨房から調達してくれたらしく、先にシャワーを頂いた蓮子はメリーが浴室に居る間に慣れた手つきでショコラ・ショーを作っていた。
けれど蓮子は今日着ていた服ではないにせよ不思議と普段着のままでそれを作っていて。
蓮子がマグカップにショコラ・ショーを注げば、浴室からぱたぱたと音がしてメリーがワンピースタイプの召し物を着て出てきていた。
「はい、メリー。ご所望の蓮子さんお手製ショコラ・ショーよ。生クリームでラテアートもしたんだから」
蓮子の言葉の通りマグカップの中で月と星とメリーの言葉を参考にしたリボン付きの境界が描かれていた。
それを蓮子から受け取って、メリーはその心尽くしに舌を巻く。
「あ、おいしそう。どうもありがとう、でも蓮子って意外にこういうのが得意よね」
「意外って何よ失礼ね」
失礼ね、なんていう蓮子は字面ほどにはそう見えず、むしろ会話を楽しんでいるかの風。
そしてメリーがアンティーク調の猫足丸テーブルに着いたのを見て、蓮子も倣ってそこの椅子に腰を落ち着けた。
「さて、今日の活動の振り返りをしましょうか」
「それはいいのだけれど。ねぇ蓮子、どうしてまだ普段着なの?」
もっともな言葉がメリーから蓮子へ飛んだ。
それに蓮子はこう答える。
「ショコラ・ショーを作るのにチョコを扱ったから、汚れないようにって」
「ふーん」
メリーのそれは信じているのかそうじゃないのか今一判断がつかない。
「まずは今回のことのおさらいからね」
「そういうことにしておきましょうか」
どうやら信じていないようだった。
蓮子はいそいそと昼間のメモ帳と万年筆を取り出した。
テーブルの上に広げる。
「まずは二つの台風と稲田姫について」
「事の起こりはまず過日の台風でスサノオ神社のご神木が倒れた事よね。裂けていたのは今日確認がとれた訳だけれど、大切なのはあの神社のご神木はお綱祭りで使われる綱の材料だということ」
「お綱祭りは男綱と女綱を作ってそれらを祭るわけだけど、男綱の材料があのご神木。女綱の方の材料は京都八坂神社の東の間の大樹がその元。東間では稲田姫が祭られているからそのせいね」
「男綱がスサノオで女綱が稲田姫。それでお綱祭りで女綱は輪にされて男綱と神社で入舟の儀を行うと。蓮子の言う象徴的記号ね」
連歌橋での吐露を思いだした蓮子は気恥ずかしいのか、両手を使ってマグカップへ口を付ける。
メリーにはその様子は蓮子が顔を隠しているように見えて楽しいらしく、彼女もマグカップへ口を付けた。
メリーは一言。
「甘くてあったかくておいしい」
「蓮子さんが作ったんだから当然よ」
気恥ずかしさではなく蓮子は今度は照れ隠しをしていた。
そして、そんな蓮子にメリーはカップに口を付けながら器用に片目だけを開けて言う。
「男綱のご神木が倒れたと言うからには、これは稲田姫とスサノオの契りは解かれたに違いないと蓮子は思った」
その様は少し探偵が推理をしているように見えなくもない。
「あたり。その後にまた台風でしょ?それも稲田姫が祭られる京都が丁度中心だったから、稲田姫が自由に成りたくて泣いてるのかなって」
「随分とかの姫に肩入れするのね蓮子は」
嫉妬しちゃう、と冗談めかしてメリーは言う。
「だって、本当はそうじゃないのに男の人と一緒にいたんならって考えたらやるせなくって」
そういう蓮子の声の調子は連歌橋に居たときのように萎れていた。
「まぁいつもの通り、真相は分からないままね。真相という現実に依拠する前提が成り立っているのかも怪しいのが私たちの活動なんだし。そもそも個々人の主観によってこういうものは彩りも異なるものだしね。私たちからはそう見えても当然違う人もいる。夫であるスサノオのご神木が倒れて稲田姫が悲しんでいると考える事も出来る訳だし。蓮子いう所のメリーさん説なら何の問題も無いけれど。あ、でもそれだと悲恋になっちゃうか」
「今日のメリーは随分と口がまわるわね」
蓮子はマグカップを両手に持って少し拗ねている風だった。
「さて、何でかしらね?蓮子の為なら私は意外に頑張るってことよ」
「ありがと」
「どういたしまして」
そんな会話を二人は続け、甘くてあったかいマグカップへ口を付けていた。
カップを置いて、さてこの話はこれで一区切りと二人は話題変更。
「今回の収穫としては境界に関してよねメリー」
「そうね、リボンの無い境界は今まで見たことが無かったわ」
「やっぱり裏表があったりすると思う?」
「どうかしら。私は日本神話にそこまで明るくは無いけれど、蓮子からなら何か見えるものがあるんじゃないの?」
そう言われて蓮子は一度マグカップをテーブルへ落ち着けると、少しの沈黙を置いて話し始めた。
「ハヤサスラヒメって知ってる?記紀にはその詳述が無くて
その蓮子の話にメリーは言う。
「蓮子の言う穢れってつまりこちら側で受け入れられなくなった事象すべてのことと考えていいのかしら?」
「えぇそうよ。境界に裏表があるのだとしたら、それは流れの動きがあるということよ。どちらからどちらに流れるのかまでは分からないけれど、境界はもしかするとそういう物の通過地点なのかもしれない。甘味処で私が言った説も元はハヤサスラヒメから出発したものなの。今日のことで少し仮説に真実味が増したかもね」
そこまで蓮子は言うと、これで私の話せそうなことはお仕舞いと、まだあたたかくて甘いマグカップへ口を付ける。
蓮子としては普通に口を付けているつもりでも、メリーにはどうやらそれがどうしても恥ずかしげにカップで顔を隠しているように見えるらしい。
メリーは蓮子がカップを取るたびに微笑ましくその様子を見ていた。
そしてそんな蓮子を堪能したメリーもカップを手に取り、頭に浮かんだ言葉をそのまま口にした。
「何にせよ、宇佐見蓮子のいうことは何でも正しいのよ」
「思い過ごしであって欲しいことも結構あるんだけどね」
例えばメリーの力が境界に引っ張られているかもしれないとか、と蓮子は心の中で呟いた。
そんなことを心に思ったからなのか、蓮子は流れのまにまに今回の活動でメリーに告げようと一計していたことを言葉にそっと出す。
「ね、メリー。卒業したら私たち一緒に暮らさない?部屋の名義も二人できちんとしてさ」
「蓮子?」
「その、メリーも私と同じで院進でしょ?その、大学も同じなんだし、倶楽部もあるし、それぞれ部屋を借りてるっていうのも勿体無いじゃない」
支離滅裂とまではいかないけれどちょっとおかしい蓮子の台詞。
それを聞いてメリーは驚くでも何でもなく、あぁこういう時って言った蓮子のこういうってこれのことかと思っていた。
蓮子と暮らすことにやぶさかではなく、むしろいつかそうなるんだろうなと蓮子より先に当たり前と心に決めていたメリーは、今の一生懸命な蓮子が少し可愛く見えて、だから意地悪をした。
「お金はどうするつもりなの?私たちまだ学生よ?」
「私たち個人に国から補助金が降りてるから学生の内はそれで、なんとか」
語尾が少し弱かった。
「女二人だとそうそう簡単に部屋は貸してくれないわよ?」
さらに意地悪。
「そうだけど。あのねメリー、実はもう部屋は探してあるの。何件かまわってちゃんと見つけたわ」
その言葉を聞いてメリーはちょっとむっとしてちょっと嬉しくなった。
内訳は、考え無しの提案じゃなくて嬉しいという物と何よ二人で住むんだから私も一緒に選ばせてよという物。
そんなメリーの複雑乙女回路が働いていた。
けれど、女性二人においそれと部屋を貸す不動産会社と貸主はそうそう居ないことを知るメリーは、そんな色んなものが付きまとう視線に晒される苦労を蓮子がひとりでしてくれたことに申し訳なく思い、連れ立って行きたかったとも感じる。
蓮子の想いに触れてそれをからかったメリーは自分を恥じて素直に蓮子へ謝りを入れた。
「ごめんなさい蓮子」
「えっ、……ぁ。うん、ごめんメリー」
見ると蓮子は顔を逸らせて足元が無くなったかのような顔をしていた。
それを見てメリーは会話の流れを思い出し慌てて繕った。
「ぇ、あ!?違うのよ蓮子。あ、ごめんなさいは嘘じゃなくて。あぁでもそれじゃ意味が、あぁもう」
メリーの今日一番というより出会ってから一番の狼狽ぶりを見て蓮子は聞いた。
「メリー?」
「違うの、違うの蓮子。違わないんだけど、蓮子が色々考えてくれてたことが嬉しくて、それに意地悪したからごめんなさいって意味であのその、だから。あぁもう」
メリーは一回二回と深呼吸して、落ち着いて、蓮子をひしっと視線に捉え。
「私も蓮子と暮らしたい」
そう告げた。
咲いた、咲いた、血が咲いた。
朱の鳥居が見えるそこ。
誰かが泣いて、誰かが咲いた。
言葉は静まり果て止まる。
それでも心は泣き叫ぶ。
いや、いや、いや!
……いや。
咲いた、咲いた、血が咲いた。
「ぃはっ。はっ、はっ、なに、これ?」
夜着にじとっと嫌な汗が濡れ染めて、宇佐見蓮子は眼を覚ます。
片手で顔を半面隠し庇い抱く。
そこには涙のナトリウム。
手につき流れしとり落つ。
「これ、メリーの?苦しくて、やるせなくて、届か、ない」
ベッドに手を付きシーツを握り、蓮子は隣へ眼を向けた。
「え?うそ、メリー?」
隣のベッドは居るはずの人を収めておらず、そのシーツはそこに誰かが居たという証拠に皺を寄せていただけだった。
それを見て蓮子はベッドサイドへひとり立ち、部屋の中を歩き始める。
浴室、キッチン、サイドルーム。
何処にもメリーは居なかった。
歩き回る蓮子の鼓動は一歩一歩と進むごと、拍動強く音になる。
二度三度と同じ所を探して周り、それでもメリーの姿は見えない。
「うそよね、メリー?」
すとんと椅子へ腰を着ければ
「何がうそなの、蓮子?」
と、蓮子の背中へ声が飛ぶ。
その声の方へはっと蓮子は顔を向け、ほっと緊張の糸が切れた。
「はぁ、メリー。良かった、何処に居たのよ心配したじゃない」
「ちょっと眠れなくて、備え付けの自販機でココア買ってたのよ」
ほらこれ、とメリーは二本の缶を蓮子へ見せる。
そのメリーの姿に心底ほっとして蓮子は椅子にもたれて両手を投げ出した。
「メリーったらもう。ほんと、心配したんだから」
背中越しのメリーへ蓮子はそう言った。
「何よ。あんなことがあったんだから気持ちが高ぶって眠れなかったとしても不思議ないでしょ。そもそも蓮子だ」
背中越しに缶が二本落ちる音がした。
「え?」
あるはずの無い不審な音と途切れるはずの無い声に蓮子は振り向きそうすれば、メリーの姿は今度こそそこに無かった。
「え?うそ?冗談でしょ、メリー?メリー!?」
宇佐見蓮子は立ち上がる。
けたたましく椅子が床と音を立てた。
ついさっきまでメリーが居たそこを引く波のように血の失せた顔をして見る蓮子は、立ち上がったまま一歩も動けない。
蓮子の腰から力が抜ける。
すとんと床に蓮子が座る、糸の切れた人形のように。
「ぁっ」
投げ出された手にこつりと刺激、そして蓮子は手に温かい何かを感じた。
眼を向けた。
そこにはココアと印字された二つの缶が転がっていた。
まだ温かさの残るそれを蓮子は胸元に手繰り寄せ、
「メリーっ」
縋るように両手で抱きしめていた。
そうして蓮子はどの位そうしていたのか、薄闇に静けさを増す部屋で先のまま夜着で床に伏していた。
椅子とテーブルの足に背を預ける宇佐見蓮子。
彼女の片手にはココアの缶が添えられていて、それはもう温かさを失っている。
蓮子は顔を缶へと向けた。
彼女のその眼はメリーが消えた時とはよそに徐々に熱を帯び始め、それに比して手に転がる缶を見つめる眼に生気が戻り言葉となった。
「メリー、勝手に消えるなんて、そんなの許さないんだから」
そう言って蓮子は立ち上がる。ベッドサイドのワードローブまで歩を進め、夜着から普段着へと袖を通した。
人ひとりが姿を消す、そんな非日常が姿を現してなお服を着替えるという日常行為をしなければ外にも出れないという自身のもどかしさを蓮子は感じていた。
厚手のブラウスにボタンを掛けるという行為さえ、今の蓮子にとっては彼女を苛む。
メリーが居なくなったって言うのに私だけが日常に足を置いてるなんて、と蓮子は非日常と日常の両方を感覚として触れられる今だからこそそう思う。
そんなことを感じながらも蓮子は手早く服を着替え終えた。
姿見で自身を確認するなんて真似はしない。
身だしなみに多少の後れがあったとしてもかまうもんかと、蓮子は帽子を取るとすぐに部屋の外へと駆けていった。
誰も居なくなったその部屋でドアクローザーがやけにゆっくりとドアを閉じていた。
エレベーターホールで待機を表すホールランタンへ灯りが灯っていないことを確認すると、すぐに蓮子は階段へ向かっていった。
壁面には緑色した蛍光色で非常階段を告げるそこ。手すりに手を掛け一段一段、切迫めいていてけれど小気味の良い足音で蓮子はそこを降っていく。
エントランスホールを抜け外へ出て、蓮子は迷いもせずに神社へと走っていく。
夜の
するとそこにはスサノオ神社。
昼間見るそことは趣を異にするその場へ蓮子は辿り着いていた。
「はぁっ、はっ、ぁっ」
ホテルからここまで走り詰めていた蓮子はようやく足を止めて息を吐く。
「はっ、ぁ、はぁっ、はぁ、はー。よし、午前3時48分48秒」
徐々に呼気を落ち着けて、それから蓮子は歩き出した。
裂けたご神木、
ご神木の境界へ蓮子は見えないながらもメリーの言葉を思い出しながらそこへ触った。 当たり前のように何も起こらない。
わらにも縋る思いでその他も眼を皿のようにして探し、それでも何にもどうにもならない。
そうして蓮子が足を止めればそこには碑文。
メリーには--籠みにって見えるんだっけそもそも--って誰よ、と蓮子は強がりまぶたに思いそれを見る。声に出す。
「八雲立つ 出雲八重垣妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」
蓮子の眼に見えるそのままを詠んで彼女の頬に涙が伝った。言葉も心も溢れ出した。
「メリー、メリーっ。見えない、私みえないっ、メリーと同じものが、みえないっ」
へたりと蓮子は座り込んで、碑文に額をその面に手を付けて泣きはらす。
その落ちる涙が蓮子には知れず地面へ落ちずに小さく開かれた境界へひとふりふたふりと流れて消えた。
背後のご神木からぬるりと音が蓮子に聞こえた。
蓮子の視線の先では何もない宙に左右へ二本、
それを呆けた体で蓮子が見ていると、先ほどのぬるりの音がするりに変わって、それはひょこっと上半身を現して首振り左右へ二度三度。
手に鎖と飾り物、それに瓢箪を身につけたそれは蓮子を視界に捉えて喋りだす。
「ん?んぅー?」
今の蓮子の心映えからは考えられない呑気な声が聞こえてきた。
その声の主は蓮子をしげしげと珍しいものでも見るかのように観察し、合点がいったと言葉を飛ばす。
「あぁ、君が紫の願った可能性なのか。ということは宇佐見蓮子その人で合ってるかい?」
夜の神社に当たり前のように現れたそれに当たり前のように名前を呼ばれ、当たり前では説明の付かない疑問を持った蓮子は当然聞き返す。当然涙に暮れたままで。
「貴女、だれ?」
「ありゃ?名前を言っていなかったっけか、そりゃごめん。私は萃香、伊吹萃香。誇り高き鬼の末裔」
萃香と名乗ったそれからやっぱり呑気な声が聞こえてきて、蓮子は鬼という単語にゆるゆると反応を示した。
「鬼?境界から出てきたってことは、貴女はまつろわぬ者なの?」
「んー、まぁお好きにどうぞ。それより顔に涙が見えるねぇ、君の半身はやっぱりもう消えたのかい?」
その鬼から聞こえたメリーを匂わせる物言いに、蓮子は行儀作法なんて知るものかと伊吹萃香に剣呑とした眼を向ける。
「貴女がメリーをっ!」
「ん?あー、違う違う。いやまぁ確かに今のだとそう聞こえるか、これは私が悪かった、ごめんなさい。それよりその眼でそうこっちの座標を観察しないどくれよ。その眼は割と何だって出来るんだから少し怖い」
「何か知っているの?」
萃香ののほほんとした物腰から蓮子は噛み付く毒気を抜かれる。
少なからず常には及ばない心持ちでいるだろう蓮子。
そんな蓮子でも萃香の飄々とした雰囲気を感じ取り、こちらに危害を加えるようにはどうしても見えない。だから縋る思いで助けを求めた。
それを受けて萃香は鬼の習わしでも思い出したのか口の端を歪めて長口上。
「さもしき心映えにその身を許し卸さぬことだ。妖びとらだ、ただ人らだと、その
鬼の霊験威光をたっぷりとまぶした物言いで萃香は言った。
「つまりは?」
「博麗神社で日月神示を見つければ良いよ」
二秒と持たなかった。
けれど蓮子は気には留めず、長年来の旧友と親交を交わすかのように言葉を繋げた。
「もったいつける鬼」
「妖に好ましい人間」
そんな遣り取りを二人が交わしていると、横合いから紅いスカーフをあしらうナイトキャップをつけたもう一人がついっと現れた。
「ちょっとそこの土着の鬼。さっさと言われたとおりにおやりなさい」
「うるさいなぁ吸血鬼。外の世界の人間と戯れさせなよ鬼でなし」
「あぁもう、それが危ないと言ってるの。彼女の気質は霊夢のそれなの。先祖還りでもしたいのなら止めはしない。けどこちらは彼女たちの世界、これ以上話をややこしくしないで頂戴。私は早く帰って咲夜の紅茶が飲みたいの」
「本人がいないと随分素直なんだねぇ」
「うるさい鬼ね」
二人寄るだけでかしましく会話に華を咲かせる二人に蓮子は何気なく眼を向けていた。
蓮子にとっては誰か知らない人の名前が出て、けれどそれを口に出す彼女たちにそう悪い感情を覚えない。それよりも何か微笑ましいものさえ感じていた。
そうして何度か鬼同士の間で痴話喧嘩なのか意地の張り合いなのかよく分からない応酬が繰り広げられてそれから数秒、ようやく熱から冷めたのかそれとも自分たちが何故ここにいるのか思い出したのか、取り繕うようにと蓮子へ向き合い声が飛ぶ。
「あー、とにかくだよ。今なら出雲の龍脈も一本その霊力を戻しているし、博麗日月神示は君ら二人にとってはそれだけで触媒にもなるはず。というか君ら二人以外には多分ただの書き物という域を超えないんだけど。ま、それは置いといてだね。とにかく読んだら何とかなるからさ、頑張れ蓮子」
萃香がそう言うと今度は紅いスカーフの鬼から蓮子へ声が飛んでいた。
「あぁそうだ。八方良しにやりおおせたのならお嬢さんに言っておいて、お茶会は楽しかったけれどあやふやにもうこちらへ来ては駄目よってね。まぁ貴女のその眼があるなら大丈夫なんだけれど」
すると萃香がもう一言付け加えた。
「あー、そのそれじゃあ私からも。境の周縁を扱える君の想い人は紫が不安定だからこそ何度かこちらに流れこんだ訳なんだけど。まぁその、本人からじゃないけどさ謝るよ、ごめん。けど私にとって紫は古い馴染みだからさ、それで許して欲しい」
そんな風に二人の鬼から立て続けに様々のことを聞いた蓮子は、それに浮かされて自身も聞いた。
「待って、その紫って人は境界を張った人なの?その人は境の向こうに今もいるの?」
聞いたというより質問攻め。
その問いに萃香が行きがけの駄賃と蓮子に答えた。
「そうだよ、君らと何にも変わらないさ」
蓮子が走っていった後に残るは鬼二人。
その二人ともが境界に身体を預けて小さくなっていく蓮子の背を見つめていた。
太古の昔から人と交わる土着の鬼は頬杖をついて、気位高い血吸いの鬼は手にあごを乗せ気の抜けて。
「行ったねぇ吸血鬼?」
「えぇ、行ったわね土着の鬼」
去り行く背中を何か二人共にそれぞれの想いを込めた視線で追って、隣り合わせでそう言っていた。
「まったく、人は恋をせずにはいられないのかねぇ吸血鬼?」
「あら、人に限らず妖も悪魔も鬼もなにもかも生きているのなら恋をせずにはいられないのよ」
レミリアがそう言うと萃香はそんな素直な言葉がプライド高いこの吸血鬼から返ってくると思わなかったのか、虚をつかれた顔をした。
そんなレミリアに萃香は言う。
「随分あっさりと言うなぁ吸血鬼。心境の変化でもあったのかい?」
「自分に少し素直になっただけよ土着の鬼。そういうあんただってそういう訳だから博麗神社にいるんだろう?」
そんな言葉がレミリアからふっと萃香へ飛んで、当の萃香は頬をさっと朱に染めた。
「なっ」
何か言い返そうと頭を巡らす伊吹の萃香。けれど緩く開かれては何度か閉じる唇がそれはあまり上手くいっていないことを表していた。
三度四度と唇開き閉じられて、萃香は今日ばかりは気の迷いと素直に言葉を表した。
「あぁそうさ。まったくこんな吸血鬼風情に気取られるなんて、なんてこと。こんなこと言うのもきっとあんたに付き合って魔が差したからに決まってる、だから誰にも言わないでおくれよ吸血鬼」
萃香は先ほどと同じに頬杖をついていたけれど、その顔は不思議と晴れやかで酒のそれとは違う熱を頬に身体に帯びているようだった。
隣のレミリアはそんな萃香を笑うでも茶化すでもなく、軽く息をついて独り言のように言葉を漏らす。
「しない。そんなこと、今の私がする訳ないのよ」
出雲行きの列車の中、蓮子は仮眠を取っていた。
二人の鬼と別れた後ですぐさまと始発の列車に乗り込んだ蓮子は、ボックス席にひとり座るとそこで緊張の糸が切れたのか、うつらうつらと目蓋が重さを増してゆきその身体を微か傾けている。
車窓の向こうは早朝だというのに日は差さず、雲がそれを遮っていた。
進行方向から後ろへ後ろへと流れゆくその風景は変わらなく見え、けれど確かに出雲へと列車と蓮子を近づけていた。
蓮子は列車から降り、日に何本と無いバスを運良く乗り継ぎ、さらに徒歩で山を歩いてそこに着く。
石渡りの階段が見上げた先まで続くそこ。
朱の鳥居が見えるそこ。
二人の鬼に会う前からその場所を知っている博麗神社。
蓮子はさんとその階段へ足を掛けていた。
登って登ってひとり登って、八十九段のそこを蓮子は登りきる。
八歩九歩とそれから六歩、境内の浜床にたどり着く。
頭上の古けた
それに貼り付けられた細い半紙に掠れて見て取れるその文字は、
「博麗日月神示」
そう声に呟いてから蓮子は障子の紙が無くなったような骨組みだけの扉を両手に引き開ける。
古冴えた埃や砂や土、それらが久しい空気の流れに触れて宙へ舞い地に落ちる。
蓮子は和箱に手を掛け開けた。
すると、やけに年月を感じさせない不思議と装丁の綺麗な本と、修繕を施された扇がそこにある。
蓮子がそれに手を伸ばし触れて取れば、自身のものではない、けれど確かに懐かしい思いが流れ込んでくるのを彼女は感じていた。
階段に腰を落ち着けながら暖かなものを扱うように蓮子は扇子を博麗日月神示を、そっと手に持ち表紙を捲っていた。
座って服が多少汚れてしまうのも蓮子はまったく構っていない。
中には筆文字で神々のことやその祭り、果ては日記めいたものまでが書かれていた。
そして蓮子はあるページに眼が留まる。
境ノ開・
ソレ即チ眼ニ因リテ様々ヨスガヲ手引ク手力ナリ。
巫女ヲ心ニ想フ事。
それを蓮子は眼に読んで、すぐに鬼の言葉を思い出していた。
数算の理。
伊吹萃香が蓮子に向かって発した言葉。
「ずいぶんと勿体つける鬼ったら。降霊は好きじゃないって言うのに」
そういうと蓮子はしめやかに足を地に着け背を伸ばし、身体が覚えているのかのように扇子を手に添え鳥居をその眼で祓い囲う。
するとそれが役目とばかりに博麗日月神示から文字が浮かび流れ、蓮子の扇子へ消えていく。
蓮子は扇子の言葉を結んでく。
「
日のみかげ 百島千島 おつるくまなく。
青雲の たなびく極み
見はるかす
巫然と蓮子は言祝ぎメリーの名前を言の葉にのせた。
「切った張ったの最初の貴女、紫、私にメリーを返しなさい」
扇子を広げ両手で持って、やれ上から下と膝も折りながらなめらかと袈裟に薙ぐ。
「マエリベリー・ハーンは渡さない」
雲あらた、日和めなやむその空の下、蓮子の声が天へと地へと聞こしみる。
そよめき流るる扇の祝ぎが、さわりと鳥居へ触れては消えた。
すればそこから境を裂いて姿を現す想い人。
「メリー!」
蓮子の叫ぶその先で、マエリベリー・ハーンが帯状の数字に捉われぬるりと境から身を覗かせる。
朱の鳥居に駆け寄る蓮子。身体にまとわり付く数字を羽衣のようにたなびかせ、意識の無いメリーが空から舞い降りる。
仰ぐように蓮子は両手を空へと伸ばし、降りるメリーを優しく掴む。
境の向こうに根を持ってメリーに絡まる数字の数珠を、蓮子はその眼で祓い、算する。
そうしてメリーを引き寄せれば、鎖めいた漢字や数からなるそれが一文字一文字千切れて消えた。
すると今までメリーを支えていた帯がなくなり、彼女はとさりと蓮子の元へ。
「わっと、わ、わ、あたっ」
急に重さを持ったメリーを支えきれずに一歩ニ歩と後ろへ下がり、蓮子は石渡りの地面へ背から落ちる。
それでも彼女の手には金糸の髪したマエリベリー。
失くさないようにきちんとその身に抱いていた。
空を見れば雲間に微かと月が見え、蓮子は凛と言葉に流す。
「観測終了、月満つればすなわちかく。宇佐見蓮子はメリーをずっと離さない」
「れん、こ?」
蓮子の言葉に呼ばわりを受けたかのようにメリーがその眼を寝ぼけ様に開けて起きる。
「おかえり、メリー」
もう離さないと強くメリーの身体を自身へ寄せる蓮子。そんな蓮子に呑気な、それは本当に呑気な、日常に戻ってきた事を確かに実感させる言葉が届く。
「れんこ、いまなんじ?レストランもうあいてる?」
「えぇメリー、もちろんよ」
何だか少し寒いとメリーが左右へ首を振ると、彼女は呑気な言葉をもう一度。
「ここどこ?」
メリーによると彼女は紅白の巫女と金の髪をした人の色々を夢に見ていたらしい、けれどあまり良く覚えていないとのこと。
列車の中でそれを聞く蓮子の手にはちゃっかりと博麗日月神示。
メリーがもう境界に引かれて夢を見ないことを知る蓮子は、今までのお礼にメリーと連れ立って紫という人に会いに行こうと考えていた。
その為の博麗日月神示。
列車の中で今回の出来事の次第をメリーに話すのはきっと楽しいに違いないと蓮子は思っていた。
「私は随分と大変な目に遭っていたのねぇ」
「あんまり呑気に言わないでよメリー」
ホテルへ戻る途中、連歌橋で蓮子の話を聞き終わったメリーがそう言った。
蓮子は呑気に過ぎるメリーの声に気力を抜かれる。
そんな蓮子を横目に盗み見るマエリベリー・ハーン。
彼女の眼は列車の時から所々汚れている蓮子に気付いていた。
そして何事か考え、メリーは蓮子の片側だけ伸ばされた髪を引っつかみ自身へと寄せる。
「いた、痛たた、何よメリー、ちょっとちょっと」
いたたたと引きずられ、蓮子はステップを踏むようにブーツを鳴らし、メリーへ近づいた。
恥ずかしさに染まる顔を見られないようにメリーは蓮子にしがみつき、やがて蓮子の耳元に彼女の口が寄せられて。
「ずっと私を
「う、もぅ。そんなの分かってるってば」
そう言う蓮子の頬は余裕の言葉と違いほんのり色で朱が差していた。
「うん、私も知ってる」
「何よもう、メリーの馬鹿」
蓮子は世界がひっくり返る大発見よ!だなんて言ったけれど、きっと私たち秘封倶楽部は巫女と金の髪した人の痴話喧嘩に巻き込まれたのだと、メリーはそう思っていた。
だってほら、今はこんなに晴れている。
もう一方見てくるか
コレだけだと全く筋が見えないのにおもしろそうだとはわかった。
二人のやりとりの雰囲気が好きです
さぁ、もう一方を読みにいこう