私、蘇我屠自古は現在とても困っていた。
何に困っているのかといえば、今朝から布都がとても不機嫌なことについてだ。
正確には昨日の夜からだろうか。
布都が私を見る目が、どこかいつもと違っていたのは。
廊下の隅から、こそこそと私の様子を窺っていたり(バレバレだったけど)。
食事の時も何度も目が合って、すぐに逸らしていた。
そんな布都の様子を不思議に思いながらも、私は特に気に留めることはなかった。
普通にお風呂に入って、普通に布団に潜り、普通に朝を迎えたのである。
窓から見える空は良く晴れ渡っていて、今日もすがすがしい一日が始まる、と思っていたのだが。
台所へ向かう途中、ばったりと出くわした布都が開口一番に
「屠自古のバカー!」
と大声で叫んだ。
一瞬、何が起こったのか分からずに硬直していた私は、走り去る布都を止めることができなかった。
そこから私の一日は一気に曇り空である。
朝食に現れた布都は、会話はおろか、一度も私の顔を見ようとしなかった。
こちらから話しかけてみても、完全に無視して神子様と話し始めてしまう。
布都と喧嘩をしたことがないわけではない。
ただ、自分でも言うのも恥ずかしいのだけど、そういう喧嘩はすごく子供っぽい理由なのだ。
だから大抵は私か布都のどちらかが折れて謝るし、なんとなく仲直りしていることもある。
だけど、今回は違う。
まず布都が怒っている原因がさっぱり分からない。
昨日の布都は確かに違和感があったが、楽しく会話もしていた。
それに夕食後に顔を合わせる機会はなかったと思う。
つまり怒らせるタイミング自体がなかったはずなのだ。
だがしかし、布都は怒っているというこの矛盾。
私は部屋で一人、途方に暮れていた。
(あいつ、何をそんなに怒ってるんだか……)
座布団に正座し(足がないので気持ちだけ)目を閉じて布都の怒りの原因について考える。
この際、贅沢を言うつもりはない。
私に原因があるなら、さっさと謝ってしまおうと思う。
いや、もちろん私が原因を理解してないからそんなことを言えるのかもしれないけど、それでも布都と仲違いしたままなのは……すごく、嫌なのだ。
(昨日の夜も本当は怒っていたのかな……でも、あいつはすぐ顔にでるし、そんな感じではなかったような……)
昔の、神子様の目的のために動いていた布都ならばいざ知らず、今の布都は感情豊かな普通の女の子だ。
でなければ、そもそも『怒っている』という問題自体が発生しないわけで。
だから昨日の笑顔は嘘ではなかったのだろう。
(あの違和感に何かあるとは思うんだけど……)
昨日、布都がやけに私のことを気にしていたのは分かる。
ただ私の何を気にしていたのだろう。
そこに怒りの原因があるのか。
(昨日は怒ってない、今日は怒ってる、か)
日付が変わると怒りだすものな~んだ、というなぞなぞを出されている気分。
そう、日付に目を付けるのは悪くない視点だと思うのだ。
だけど、昨日は何かしらの記念日ではなかったはず。
まさか大安や仏滅がどうとかいう話でもあるまい。
「……あ~もう!全く分かんないっての!!」
声に出してみても、答えは出てこない。
そもそも布都が悪いのだ。
なんで急に怒り出す?
なんで理由を話してくれない?
こっちは、謝ってやんよ!の精神で悩んでいるというのに。
理由がわからなきゃ謝ることすらできないじゃないか。
と、いつの間にか布都に責任転嫁してしまう自分がいる。
(……仲直り、したいんだけどな)
原因が分からない苛立ちとか悲しさとか自己嫌悪とかで、なんだか思考する気力も起きない。
何もかも忘れて、とりあえず寝てしまいたいような、そんな心持ちだ。
でも、いつまでもこうしている訳にもいかない。
何か手を打たなければ、ずっとこのまま。
布都と話もできずに過ごす毎日。
そんなのは嫌だ。
(本当は頼りたくなかったんだけど……)
背に腹は代えられない、とはこのことだと思う。
こんなことでお手を煩わせるのは極めて申し訳ない。
けれど、今の私には何も指標が無いのだ。
私は意を決して立ち上がると、彼女の部屋を訪ねることに決めた。
豊聡耳神子様の部屋を。
私の話を聞き終えた神子様は「なるほどなるほど」と微笑みながら静かにお茶を口にしていた。
神子様はその能力によって、相手の全てを看破することができる。
つまり、神子様の前に隠し事など無意味。
欲の欠けている霊などの例外はいるようだけど、少なくとも普通の人間の心など手に取るようにわかるはずだ。
つまり、布都が怒っている原因も、である。
「神子様、あの……申し訳ありません。こんな相談、するべきではないと思ったのですが」
「おや、なぜそんなことを言うのですか屠自古?」
「いえ、その……あまりにも個人的なことなので」
本来、神子様と私は立場の違う人間だ。
気軽に悩み相談をしていい相手ではない。
こんな喧嘩の仲裁みたいな役目を、頼んでいい相手では断じてない。
「……屠自古」
「はい?」
「私は今にも泣いてしまいそうですよ」
「え、ええ!?な、なぜですか?」
「だって、いつまで経っても屠自古は私を特別扱いするからです……」
神子様は悲しそうに目を伏せた。
「私は布都や屠自古と対等でいたいのですよ?」
「それは……でも、あの……」
それは幻想郷に来てから、神子様の口癖のようになっていた。
私としても、神子様とは対等でありたい。
確かに幻想郷においては、かつての立場など関係のないものだ。
けれど、染みついた習慣というか、意識のようなものはそう簡単には変わらないのである。
「少しずつでもいいのです。今日のような悩み相談でもいいですし、何でもないお天気の話でも構いません。だからもう少し、私を屠自古の側に近づかせてくれませんか?」
「……はい、私も神子様とそうありたいと思っています」
「ふふ、ありがとうございます」
泣きそうな顔から一転、にこっと笑顔を見せる神子様。
そんな笑顔一つとっても、やっぱり私なんかとは質が違うなぁと思ってしまう。
その点、布都は神子様とかなり打ち解けているように思う。
ちょっと無遠慮すぎるくらいじゃないかと思う時もあるのだけど、神子様がそれを望んでいるのなら、変わらなければいけないのは私の方かもしれない。
……っと、そうだ。危うく本題を忘れるところだった。
「さて、布都の話でしたね」
私の思考が切り替わると同時、神子様が口を開いた。
「屠自古は布都が怒っている原因を知りたいと、そういうことですよね?」
「はい……正直思い当たることがまったくなくて……」
布都が怒っている理由が私にあることは間違いない。
神子様と普通に話をしていたことからも、それは良く分かる。
そして神子様なら布都が怒っている理由を理解しているはずなのだ。
ほんとうは自分で考えるべきことだと思う。
もちろん、神子様にそう諭されたならそうするつもりだ。
でもとにかく、私は何かしらの指標がもらいたかった。
「ふむ、おそらく今の屠自古では布都が怒っている理由には永遠に思い至らないでしょう」
やっぱりそうなのか、とちょっと肩を落とす。
神子様が言うのなら、そういうことなのだろう。
「あの、神子様。教えていただけませんか、布都がなぜ怒っているのか」
「そうですね、布都に申し訳ないのでその理由を直接教える訳にはいきませんが……」
神子様は、そこで一度言葉を切った。
それから何かを思い出したように、部屋に備え付けられた棚へと向かう。
棚を開けるのかと思ったが、神子様が手にしたのはその上に置かれていた長方形にリボンの巻かれた小さな箱だった。
「これは昨日布都と里に出かけたときに貰ったものなんです」
「里で、ですか……?」
そういえば、と私は昨日のことを思い出す。
確かに二人は朝から、里へ買い物に出かけていたと思う。
私は一応幽霊の身だし、里の子供に泣かれたりすると向こうはもちろん、こっちもショックなので、あまり買い物には出向かないようにしている。
だから昨日も私は一緒に行っていないし、里で何があったのかなんて全く知らない。
そのことが、原因になっているのだろうか。
「この箱の中には、チョコレートが入っているんですよ」
「チョコレートって、あの甘いような苦いようなお菓子ですよね?」
幻想郷に来てからはじめて口にしたものは多い。
チョコレートはその中でも確かに美味しかったし、特に布都はお菓子全般をとても気に入っていた。
「でも、なんで突然そんなものを頂いたんですか?」
「ふふ、それを今から教えてあげます」
箱を置いて、神子様は私に向き合う。
「問題です、屠自古。昨日は何の日だったでしょうか?」
「え……?」
唐突にそんなことを聞かれて、私は戸惑ってしまう。
いや待て、これは確か部屋でも一度考えたことだ。
そうして何の記念日でもないという答えを得たはず。
でもそんな意味のない問題を神子様が出すだろうか。
「……すいません、わかりません」
「そうですね、屠自古はあまり里に行かないから知らないのも無理はありません」
そこで神子様はまた別の箱を棚の上から取り出す。
その箱はさきほどの物とは違い、既に開けられているようだった。
「これはね、昨日布都からもらったもので、やはりチョコレートが入っていたのです」
「布都が……」
「昨日里に出向いたのも、実はチョコレートを買うためだったんですよ」
「え、それって……」
布都や神子様がチョコを買って。
でも神子様はチョコを他の人からも貰っていて。
訳が分からない、一体何がどういう……
「屠自古、今日は何日ですか?」
「えと、2月15日です」
「では、昨日は?」
「2月14日……」
言いながら、何か記念日を見落としていないかと思考を巡らせるも、やはり何も思いつかない。
そんな私に、神子様は微笑みながら教えてくれた。
「屠自古、2月14日はね、バレンタインデーという日なんです」
「ば、ばれん……?」
「バレンタインデーはね、女の子が大切な人に気持ちを込めてチョコレートを贈る、とても素晴らしい日なんですよ」
2月14日、バレンタインデー。
女の子が大切な人にチョコレートを贈る。
どうやら幻想郷にはまだまだ私の知らない文化が存在していたようだ。
そしてそこにこそ、布都が怒っている理由が存在しているらしかった。
人里を一人で訪れるのは、もしかしたら初めてのことかもしれない。
ふよふよと人里の大通りを漂う私に、すれ違う人達の視線が刺さる。
いや、ここには布都と一緒に何度か来ているし、他にも妖怪がちらほらいたりするから、私が気にしすぎているだけかもしれないけど、やはり注目は浴びていると思う。
神子様にバレンタインデーの存在を教えてもらい、後は私次第というお言葉も頂いたので、悩んだ末に私は人里へと向かうことにしたのである。
目的はもちろん、チョコレートを購入するためだ。
2月14日における布都の態度。
2月15日、つまり今朝の布都の態度。
総合して考えると、布都が怒っている原因がなんとなく見えてきた。
もしかしたら、布都は私からチョコレートをもらえなかったことに怒っているのかもしれない。
大切な人にチョコを贈る日とは大切な人からチョコをもらう日という意味でもあるわけで。
それなのに親しい人からチョコをもらえないということはつまり大切に思われていない、という解釈ができないでもない。
仮に布都がそう考えているとしたら。
私がやることは一つしかない。
(……自惚れじゃない、よね?)
正直この考えに至った時、私は嬉しいと思ってしまった。
だって布都が怒っているのは私からチョコをもらえなかったからで。
それは布都が私からチョコをもらえると期待していたということで。
私が布都を大切に思ってないと、そんな勘違いをして怒っているわけで。
それは、なんだかすごく嬉しいことだった。
チョコの一つや二つ、すぐに買ってやんよ!とばかりに私は里の駄菓子屋さんを訪れることにしたのだ。
「こ、こんにちは~……」
おそるおそる声をかける。
霊体になってからというもの、人付き合いをあまりしてないせいで、私の心はすっかり臆病になってしまったようだ。
「いらっしゃ~い、ってあらあら、屠自古さんだったのね」
駄菓子屋の店主である紗江さんが顔を見せる。
ここは里に来ると布都がよく来たがるので、ある意味この土地で一番親しい人が紗江さんかもしれない。
「こんにちは、今日は布都ちゃんは一緒じゃないのかしら?」
「あ、はい……」
「そうなの、でも確かに昨日の今日で来るのもおかしいものね」
「布都が来たんですか!?」
思わず大きな声になってしまって、自分でもびっくりする。
紗江さんは私の勢いに驚いたのか、こくこくと頷いた。
そうか、神子様と布都はここにチョコレートを買いにきていたのか。
確かに少し考えれば、分かったことかもしれない。
「布都ちゃん、嬉しそうにチョコレート買っていたし、屠自古さんも貰ったんでしょ?」
「いえ、私は……」
実はそのことが、私が唯一引っかかっている点だった。
私は布都からチョコレートを貰っていない。
そもそもそんな機会があったなら、バレンタインデーの存在を昨日の時点で知っていたはずなのだ。
神子様にはしっかりチョコを渡したのに、私には渡さなかった布都。
その一点だけが、もしかしたら私が考えていることはただの自惚れに過ぎないのではないかと思わせる問題点だった。
「屠自古さんが貰ってない……おかしいわね、そんなはずないのだけど……」
私の沈んだ様子を見て、紗江さんは何かを察したらしく、同時に小さくそんなことをつぶやいた。
「あ、あの、そんなはずないってどういう……」
「ああ、うん。だって布都ちゃん、屠自古さんには一番おっきくて高いやつをあげるって意気込んでいたから……って、もしかしてこれ言ったらまずかったかしら」
ごめんなさい、今のは忘れてね、と苦笑する紗江さん。
ちょうど別のお客さんが商品を選び終えたところだったようで、彼女はまた後でと言い残して、会計の準備に向かってしまった。
取り残された私の中には、さらに疑問が渦巻くことになるのだった。
人里から帰ってくるころには、既に陽も傾き始めていた。
無事チョコレートを購入した私は、ひとまず自分の部屋へと戻り、今後のことについて考える。
本当は一刻も早く布都にチョコレートを渡したいところだけど、生憎と夕食当番は私だ。
もう夜になるし、急いで晩御飯の製作にとりかからないと。
あぁ、でもまた食卓で布都と険悪なムードになるのは嫌だなぁ、と私が思っていると……
コンコン、と部屋の扉が叩かれる。
「屠自古、帰っていますか?」
それは神子様の声だった。
すぐに返事をして、こちらから扉を開ける。
神子様は私を一目見ると、すぐに綺麗な笑顔を見せてくれた。
「チョコレート買ってきたんですね?」
「はい……あ、少し待ってください。神子様のために買ったチョコを持ってきます」
「いえ、それは後で構いませんよ。私も屠自古にチョコを渡すのは後ほどにしようと思っていたので」
その言葉に、私は首をかしげた。
それから神子様はまた微笑んで。
「だって、屠自古が一番最初に渡すべき相手は、私ではないでしょう?」
分かっていますよね、という表情で神子様が問う。
それはたぶん、神子様の気遣いなのだと思う。
そんな風にされて、私はなんだか申し訳なく思ってしまった。
ただでさえ個人的な相談をして、その上こんな風にお膳立てまでしてもらって……。
と、神子様の手がぽかっと私の頭を叩いた。
「いたっ、み、神子様?」
「言ったはずです、私は二人と対等でいたいのだと。そういう余計なことを考えてはいけません」
かわいらしく頬を膨らまして、私の心を見透かしたかのように怒る神子様。
彼女のそんな顔は見たことがなくて、私は少しの間呆然として、それからちょっと笑ってしまった。
そんな私の表情を見て、神子様はまた笑顔に戻る。
神子様がそう言ってくれるなら、私はもうお言葉に甘えてしまおうと思う。
私が今すべきことのため、彼女を徹底的に頼らせてもらおう。
「あの、神子様」
「はい」
「今日の夕食当番は私なんですが……」
「そうですね」
「もし宜しかったら……その、変わっていただけないでしょうか?」
私がそう尋ねると、神子様は「はい、喜んで」と嫌な顔一つ見せずに、むしろどこか嬉しそうにうなずいてくれた。
それからすぐに、私は布都のために買ってきたチョコレートを持って彼女の部屋に向かった。
頭の中で、どうやってこれを渡すのかを思い描く。
そもそも、部屋に入れてもらえるかどうかすら怪しい状況なのだ。
そんな状態でチョコレートを受け取ってもらうことなんてできるだろうか。
あるいは、部屋の前にチョコレートを置いておくのはどうだろう。
手紙でも添えておけば私からだと分かってもらえるだろうし。
でも、それはなんだか少し味気ない。
何より、私が直接渡したいのだ。
ちゃんと話して、ちゃんと謝って、ちゃんとチョコを渡して、それで仲直りしたい。
だからできれば手渡しをしたかった。
(とにかく部屋に入れてもらえれば、後はどうにかなるんだけど……)
と、考えている間に布都の部屋までたどり着いてしまう。
こうなったらもう、出たとこ勝負でやってやんよ!とばかりに、私は部屋の外から声をかけようとして……。
「……うぅ……ぐすっ……」
不意に、部屋の中から布都の声が漏れ聞こえていることに気がついた。
よくよく見ると、部屋の扉が少しだけ開いているのだ。
「……ばか……屠自古のばかものぉ……」
と、今度は私の名前が聞こえてくる。
あぁ、やっぱり怒ってるのかなぁと思いつつ、私はそ~っと扉の隙間に顔を寄せた。
布都がどんな顔をしているのか、見ておきたかったのだ。
あるいは余程怒っているようなら、一度出直すことも考慮して。
けれど、隙間から少しだけ見えた布都の顔は。
なぜか、泣いているように見えた。
「……なんで……我にはチョコを……うぅ……」
夕日の差し込む部屋で、瞳からこぼれた涙がきらきらと輝いている。
布都は怒っていなかった。
それどころか今、あの子は涙を流している。
「……我は……チョコ……あげようと……ぐすっ……」
泣いてる。
泣いているんだ。
それはたぶん、私のせいで。
私がチョコをあげなかったから。
やっぱり自惚れなんかじゃなかったんだ。
布都は私からチョコレートをもらいたかったんだ。
だから今朝はあんなに怒っていて。
そして今は、あんなに泣いている。
私がバレンタインデーの存在を知っているはずだと勘違いして。
私がチョコレートを準備しているはずだと勘違いして。
私が布都のことを大切に想っていないと勘違いして。
ぎゅうっと胸が締め付けられる。
なんだろう、この気持ちは。
嬉しいような、悲しいような、なんだか色々な感情が胸に溢れて、苦しくて仕方がない。
「布都っ!」
だから気がついたとき、私は扉を開けて部屋の中に飛び込んでいた。
今すぐ布都に会いたくて。
布都に顔を見せてあげたくて。
とにかく、布都に泣き止んで欲しかった。
「……と、とじ、こ?」
突然、部屋の中に入ってきた私を見て、布都は泣きはらした顔のまま、ぽかん、とした顔をしていた。
勢い込んで布都の前に立った私は、しかしこの後のことを全く考えていない。
二人して、お互いの顔を見合ったまま、しばらく固まってしまう。
もともと出たとこ勝負のつもりだったのだ。
こんな状況でかけるべき声なんて、考えているはずもない。
とりあえず布都はもう泣いていないみたいだけど……
「ぁ……」
その時、布都の口から小さな、本当に小さな声が漏れる。
なんだろうと思いながら、私は布都の視線の先を追う。
その瞳は私ではなく、私が右手に持つ赤いリボンの巻かれた箱に注がれていた。
(そうだ、チョコレート……)
これを渡すことが目的だったはずじゃないか。
部屋の中に入るという難題は突破できた。
目の前で布都は待っている。
ならもう悩むことなんて何もない。
「あ、あの、これっ……!」
私は座り込んだままの布都に、両手で箱を差し出した。
慌ててうまく言葉が出てこない。
けれど、とにかくチョコレートを渡さなければという想いでいっぱいだった。
「その、遅くなったけどバレンタインのチョコレート、だから……」
纏まらない思考のまま、なんとか言葉を絞り出す。
精一杯の気持ちを込めて、私は布都にチョコを渡す。
少しの間、布都はその箱をぼ~っと見つめているようだった。
それから少しだけ手を伸ばそうとして、しかしすぐに引っ込めてしまう。
その顔は、疑問と不安で満ちていた。
たぶんなぜ今さらになって、とか。
本当に自分が受け取ってもいいのか、とか。
そんなことを考えているのだと思う。
ちゃんと説明してあげないと。
どうしてこんな状況になっているのかを。
「私ね……ば、バレンタインデーっていう行事を知らなくて、だから、チョコのこととかも全然知らなくてさ……」
「……ほ、ほんとうか?」
震える布都の声に、しっかりと頷く。
「なんで布都が怒ってるのか、全然わからなくて……神子様に聞いてようやく昨日がバレンタインだったことがわかって……」
そんな大事な日があるなんて知らなかったのだと。
言い訳にしかならないけど、それでも伝えなければいけないことだと思った。
「だからすぐにチョコを買いにいったの……渡さなきゃって……大切な人にチョコを渡したいって思ったから……」
「……大切な……人……?」
「ちゃんと、布都に受け取ってもらいたいなって思ったから……」
だから、受け取って欲しい。
そう言って、私はもう一度布都にチョコレートを差し出した。
いつの間にか、私の胸はドキドキと高鳴っていた。
さっき感じた胸の苦しみが、再び押し寄せてくる。
なんだかとても不思議な気持ち。
どこかふわふわとした感覚のまま、私は布都のことを見つめていた。
「……ほ、ほんとうに、我のために……なのか?神子様のついでに、とかではなく……?」
「もちろん神子様のためにも買ってある。だけど、このチョコレートは布都のために、布都にあげたくて買ったチョコレートだから……」
「う、うぅ……」
恥ずかしそうに顔を伏せる布都。
言ってる私も、顔が真っ赤になりそうだった。
物凄く恥ずかしいことを言っているという自覚がある。
けれどその甲斐もあってか、布都は少しずつゆっくりと箱に手を伸ばしてくれた。
その両手が、箱を抱えるのと同時に、私の手を放す。
私のチョコレートはしっかり布都の手の中に渡すことができたのである。
「……屠自古の……チョコレート……」
箱を掲げて、しばらくそれを見つめていた布都は、ぎゅっと静かにそれを自分の胸の中に抱いた。
再び、布都の瞳から涙がこぼれる。
「ふ、布都!?」
「だ、大丈夫……これは、その……嬉し泣きだ……」
箱がつぶれてしまうんじゃないかと、心配になるほど布都はそれを強く抱きしめる。
それからしばらく、私はただそこに立ち尽くし、布都の嬉し泣きを見守っていた。
「うぅ……恥ずかしいところを見せてしまったな……」
「そんなの、私達にとっては今更でしょ?」
すっかり泣き止んだ布都の対面に私は腰を下ろしていた。
まだ、すんすんと鼻を鳴らしているが、もうだいぶ落ち着いているようだ。
「さて、と……今日はね、神子様に夕食当番を代わってもらったのよ」
「み、神子様にか?」
「うん。だから、もうちょっとここにいたいけど、私もそろそろ手伝いにいこうと思う」
「そ、そうか……うむ、そうした方が良いな……」
お互いに、なんとなく名残惜しいと感じているのがよく分かった。
けれど、これが永遠の別れでもないし、というか毎日のように顔を合わせるのだ。
だから少しさみしいけど、今は神子様のところへ行くとしよう。
私はすっと立ち上がって、部屋の扉へと向かう。
「あ……ま、待て、屠自古よ」
「ん?」
去ろうとした私の背中に布都の声がかかる。
「あのな。一つ、聞き忘れていたことがあるのだが……」
なんだろう、と思って私は布都の側まで戻る。
布都は胸の前で指をもじもじとさせて、何か意を決したようにこちらを見て私に尋ねた。
「このチョコレートは……その、本命チョコなのか……それとも、義理チョコなのか?」
じっと強い視線が私に向けられる。
それを見ただけで、この質問に何か大事な意味があるのだということが一瞬で分かった。
でも、私にはその質問の意味は分からない。
(本命チョコと義理チョコってなんだろう……)
本命と義理、どちらのチョコであれば布都は嬉しいのだろうか。
正直に、意味がわからないと言うべか。
でも、もしもそれでまた布都が怒りだしてしまったら。
また泣き出してしまったら。
それはすごく辛い。
「べ、別に我は……どちらでも良いぞ?」
私が悩んでいると、布都からそんな補足をされる。
そうか、どちらでも良いのか……などと考えるほど私は甘くない。
どちらでも良いなら、この質問には何の意味もない。
本当は、どちらかの答えを期待しているに違いないのだ。
バレンタインのチョコは大切な人に贈るもの。
その観点から本命と義理という言葉について考える。
本命の方は良く分からないが、義理の方は義理堅いという言葉もあるくらいだし、なんというかこう、大切感が滲み出ている気がする。
だとすれば、ここで私が言うべきなのは……
「ぎ、ぎぎ……」
「……ぎ?」
……なんか、布都が物凄く悲しそうな顔になってる。
もしかしたら義理はダメなのかもしれない。
くっ、それならもう一か八かっ……!
「本命チョコ!それは本命チョコ!!」
一か八か、その選択に賭けた。
本命という言葉も悪い意味とは思えない。
義理のように意味の予想はできないものの、布都の言葉も合わせて考えれば決して間違った選択ではない、はずだ。
私の言葉を聞いて、布都は驚いたように口を開ける。
それから、すっと顔を伏せて、なんだかとても嬉しそうな笑みを浮かべた。
「そ、そうか……本命、なのだな……」
「う、うん……」
合っていたのだろうか、私の選択は。
布都の反応からでは読み取りきれない。
「……いや、わかった。時間をとらせてすまなかったな、早く神子様のもとへ行ってやれ」
「え?あぁ、そ、そうね。じゃあ私はもう行くから」
「うむ」
布都の心の内を聞いてみたかったが、そう言われては仕方ない。
私は再び立ち上がって、部屋を後にすることにした。
扉を閉める瞬間、ちらっと見えた布都の顔は、はにかんだような笑顔を浮かべていた。
その後、私は神子様と共に夕食を作り、三人で晩御飯にした。
布都はすっかりご機嫌で、ご飯もいつもよりたくさん食べていたし、笑顔もたくさん見せてくれた。
どうやら無事仲直りはできていたようだ。
ただ、少しだけ気になったこともある。
布都がなぜか私の方をちらちらと見てくるのだ。
そう、まるで昨日の夜に戻ったかのような態度で。
目が合えば、私は微笑むし、布都も笑ってくれるのだけど、そこにはやはり違和感があるように思えた。
私はまだ何かやり残したことでもあるのだろうかと、食事のときもお風呂のときも考えていたものの、やはり何も思いつかないまま。
まさか明日の朝になったら布都が怒りだしたりしないだろうか、と必死で頭を悩ませていると、就寝前にようやくある事実に気がついた。
「そうか……布都からチョコ、もらってないんだ」
あの時、布都の部屋では私がチョコを渡しただけで終わってしまった。
よくよく考えれば、布都からもチョコをもらうべきだったのではないだろうか。
いや、チョコをもらうべき、といういい方自体おこがましいのだけど、駄菓子屋の店主は確かに布都は私のためのチョコレートを買ったと言っていたのだ。
もしもそうなら、布都はたぶん私にチョコを渡すタイミングをうかがっていたのではないだろうか。
(まぁ……明日でもいいかな。神子様にも明日渡すつもりだし)
既に布団も敷いてしまったし、もしかしたら向こうはもう寝てしまっているかもしれない。
別に焦らずとも、チョコは明日受け取ればいいのだ。
それを先延ばしにしたからと言って、布都が私に対して怒るということもあるまい。
それは布都の判断でもあるわけだし。
そう結論付けて、私は電気を消し布団に入ろうとして。
しかし、ちょうどそのタイミングで部屋の外から声がかかった。
「屠自古、まだ起きているか?」
この声は布都のものだ。
さきほどまで彼女のことを考えていたので、少しだけ驚く。
「起きてるわよ、今開けるから」
「ま、待て!少し、待ってくれ……」
扉を開けようとする私に、外から静止をかける布都。
なんだろう、と思いながら私は大人しく次の声を待った。
「……よ、よし。開けてもよいぞ」
再び外から布都の声。
なんだかどちらが部屋の主なのか分からない。
そう思いながら、私は扉を開けた。
そこには寝間着姿の布都が立っていた。
ただし、右腕には自分の枕を抱えて、左手には四角い箱を持った不思議な恰好で。
「え、な、なに……?」
思わずそんな声が漏れてしまう。
その恰好の意味はさすがにすぐに理解することはできなかった。
「うむ……その、な。我のチョコを渡していなかったと思ってな……」
すっと布都の左手が上がり、私に箱が差し出される。
すぐにそれがバレンタインのチョコレートなのだと思い至る。
「本当は昨日渡そうと思っていたのだが……屠自古が……その……」
言い淀む布都、けれど私は大体想像がついていた。
布都は私とチョコレートを交換するつもりだったのだろう。
ところがいつまで経っても私がチョコを渡さず、結局一日が終わってしまった。
きっと、それでチョコを渡すタイミングを失ってしまったのだ。
私は困っている様子の布都に笑顔を見せると、そのチョコをしっかりと受け取った。
「……あ」
「ありがとう、布都。ちゃんと受け取ったからね」
「……う、うむ!」
私がそれを手にすると、布都は頬を染めて笑ってくれた。
どうやら私達の長いバレンタインはようやく完結してくれるようだ。
後は布都にお休みを言って眠るだけ。
そう思っていたのだが。
「そ、それでな」
と、布都がさらに言葉を続けてきた。
「そのチョコはな、ほ、本命チョコだぞ!」
「う、うん。本命ね」
本命チョコ、布都がなぜかこだわっていた言葉。
あの時、義理と言いかけた私に悲しそうな顔を見せていたから、おそらく本命は義理より価値があると考えていいのだろう。
それは結構嬉しいことだった、なるほど確かに布都がこだわった意味も分かった気がする。
ここで義理ですと言われるのは結構ショックかもしれない。
「そっか、ありがとう。すごく嬉しい」
「そ、そうか。良かった……」
ほぅ、と一息つく布都。
今度こそお休みと言おうと思った私に、しかし布都は思いがけない言葉を向けた。
「ではその……今日は……屠自古と一緒に寝るということ……なのだな?」
腕に抱えていた枕をぎゅっと胸の前に持ってきて、恥ずかしげにそんなことを言う布都。
…………え?
今、布都は何て言った?
幻聴でなければ、一緒に寝るって言わなかっただろうか?
そして幻覚でなければ、明らかに私と一緒に寝るための枕を持っていないだろうか?
やばい、今日はもう意味がわからないことだらけで頭がパンクしそう。
とりあえず今わかることは、私の目の前で胸に抱えた枕に顔を埋めている布都が、物凄くかわいいということくらいだ。
「そ、そういうことであろう?」
顔を赤くして、どこか不安そうに上目遣いで尋ねるその顔の破壊力はやばい。
いつものような自信満々のどや顔は欠片もなく、そのギャップがさらにやばい。
「里の者が話していたぞ、本命チョコをお互いに渡した二人は夜を共にするものなのだと……」
「ぶっ!?」
衝撃的な発言に思わず吹き出しそうになった。
いや待て、落ちつこう。
今、何か全てを理解できるキーワードが飛び出したように思う。
本命チョコをお互いに渡すと夜を共に……。
つまり状況を整理すると、だ。
私は布都に本命チョコを渡したと言った。
布都も私に本命チョコを渡したと言った。
私達はお互いに本命チョコを渡した。
だから夜を共にする。
布都が枕を持ってきて朝まで一緒に寝る。
ただ、それだけのこと。
(いやいや、夜を共にって絶対そういう意味じゃないって!)
布都はその言葉を直接的な意味として受け取ったようだが、たぶんそこには間接的な意味があると思う。
つまり、その、具体的にはアレを……
「う、うおおおおおおおおお!!」
「ど、どうした屠自古!?」
夜中に大声を出す私を見て、布都が慌てている。
いけない、確かにこんな所を神子様に見られたらどう思われるか……。
「と、とりあえず部屋入って」
布都の手を取って、部屋の中に引きこむ。
私の唐突な行動に反応しきれなかった布都が、私に寄りかかる形になって鼓動が早くなったものの、とにかく扉を閉めて神子様に目撃される危険は避けておく。
「き、急に引っ張るでない!」
抗議の声と共に体勢を立て直す布都。
さて、こうなるともう後戻りはできないという感じだ。
まぁ、布都は普通に一緒に寝ようとしているだけだから、実際のところ問題はない、のか?
「布都、一つだけ確認しておきたいんだけど……」
「なんだ?」
「私と一緒に……寝たい?」
私は何を言っているんだろうと、自分で突っ込みたくなる。
けれどもしかしたら、布都は本命チョコを交換したから仕方なくここにいるという可能性も……
「も、もちろん。屠自古と一緒に寝たいぞ」
そんな可能性はどうやら全くなかった。
布都は心から私と寝たいと思っているようだ。
ま、まぁ私としても布都と一緒に寝ることは決して嫌ではないわけで。
「よ、よし分かった。私が一緒に寝てやんよ!」
「ほ、ほんとうか!?」
私が半ば勢いに任せてそう言うと、布都は今日一番うれしそうな顔を見せた。
私の小さな布団に、私と布都の枕を並べて隣り合って同じ毛布を被る。
隣を見れば、そこには同じようにこちらを見る布都。
やばい、今すごくドキドキしてる。
「ふ、二人で寝ると暖かいな」
「そ、そうね、そうかもしれない……」
布団や毛布の大きさから、私と布都の体は完全に密着した状態になっている。
つまりは直に布都の温もりが伝わってくるわけで。
それは確かに暖かいのだけど、それより私の顔は遥かに高温になっていて、おかしな感覚だった。
「あのな、屠自古」
「ん、なに?」
本当に目の前に、布都の顔がある。
相手の息遣いがわかるほどの距離。
こんな距離で会話をしたことなんてほとんどなくて、それだけでも胸の鼓動が早くなる。
「その、嫌な態度を取ってすまなかったな。我はてっきり、屠自古がバレンタインを知っていると思っていたから……」
申し訳なさそうな顔で、ごめんなさい、と丁寧に謝る布都。
なんだかその姿がとても愛しいものに思えて、私はすっと彼女の頭に手を伸ばした。
「それはもうわかってるって。それに私がそういう行事を知らなかったのも悪いんだからお互い様、でしょ?」
頭をなでなでしながらそう言うと、布都はくすぐったそうに笑って、小さく頷いた。
「あのさ、私はちゃんと布都のこと大切に想ってるから」
昔はいろいろあったかもしれない。
今も喧嘩は良くしているかもしれない。
それに、未だに私は霊体だったりもする。
けれど、昔のことは既に過ぎたこと。
今の私達は喧嘩するほど仲が良い。
霊体としての身は、いわば布都との絆そのものだ。
だから私は、ちゃんと布都のことを大切に想っている。
掛け替えのない存在だと、そう思っている。
「うむ、我もだ。我も屠自古のことを大切に想っておる」
二人顔を合わせて笑い合う。
ほんと、仲直りできてよかったと思う。
「明日はまず神子様にお礼を言わないとね」
「そ、そうだな。色々とご迷惑をかけてしまったようだし」
あるいは、また対等に扱ってほしいと怒られてしまうだろうか。
それならば、友人としての感謝という意味でもいい。
チョコレートと共に、その気持ちを渡したいと思う。
そう言えば、神子様へのチョコは何チョコとして渡せばいいのだろう?
今日の会話からすれば本命チョコの方が価値があると推測できる。
夜を共に、という話は気になるけど、やっぱり本命として渡した方が……
「っていたたたた!ちょ、頬ひっぱんないでよ布都!」
「むぅ……今、何かとても腹が立ったぞ、さては良からぬことでも考えたな、そうであろう!?」
「考えてないってかほんとに痛いってば!」
「本当のことをいうまでは離さんぞ!」
悔しいので、私も布都の頬をつねりかえす。
一瞬その柔らかさにどきっとしたが、布都がさらに力を入れてきたので、私も思いっきり引っ張る。
そんな風に私達は幻想郷にきてから一番楽しい夜を一緒に過ごしたのだった。
バレンタインデーはチョコレートを贈る日。
大切な人に大切な気持ちを伝える日。
それは神様がくれた素晴らしい日だと私は思う。
だって、想いを形にして伝えるチャンスを与えてくれるのだ。
想っているだけじゃ、言葉にするだけじゃ、伝えきれない気持ちを形として相手に贈る。
きっとそれはとても大切なこと。
今年は一日遅れになってしまったけど、来年は必ず。
いや、来年も必ず。
(必ずチョコレート、渡すからね)
目の前の愛しい寝顔に、心のなかで約束した。
何に困っているのかといえば、今朝から布都がとても不機嫌なことについてだ。
正確には昨日の夜からだろうか。
布都が私を見る目が、どこかいつもと違っていたのは。
廊下の隅から、こそこそと私の様子を窺っていたり(バレバレだったけど)。
食事の時も何度も目が合って、すぐに逸らしていた。
そんな布都の様子を不思議に思いながらも、私は特に気に留めることはなかった。
普通にお風呂に入って、普通に布団に潜り、普通に朝を迎えたのである。
窓から見える空は良く晴れ渡っていて、今日もすがすがしい一日が始まる、と思っていたのだが。
台所へ向かう途中、ばったりと出くわした布都が開口一番に
「屠自古のバカー!」
と大声で叫んだ。
一瞬、何が起こったのか分からずに硬直していた私は、走り去る布都を止めることができなかった。
そこから私の一日は一気に曇り空である。
朝食に現れた布都は、会話はおろか、一度も私の顔を見ようとしなかった。
こちらから話しかけてみても、完全に無視して神子様と話し始めてしまう。
布都と喧嘩をしたことがないわけではない。
ただ、自分でも言うのも恥ずかしいのだけど、そういう喧嘩はすごく子供っぽい理由なのだ。
だから大抵は私か布都のどちらかが折れて謝るし、なんとなく仲直りしていることもある。
だけど、今回は違う。
まず布都が怒っている原因がさっぱり分からない。
昨日の布都は確かに違和感があったが、楽しく会話もしていた。
それに夕食後に顔を合わせる機会はなかったと思う。
つまり怒らせるタイミング自体がなかったはずなのだ。
だがしかし、布都は怒っているというこの矛盾。
私は部屋で一人、途方に暮れていた。
(あいつ、何をそんなに怒ってるんだか……)
座布団に正座し(足がないので気持ちだけ)目を閉じて布都の怒りの原因について考える。
この際、贅沢を言うつもりはない。
私に原因があるなら、さっさと謝ってしまおうと思う。
いや、もちろん私が原因を理解してないからそんなことを言えるのかもしれないけど、それでも布都と仲違いしたままなのは……すごく、嫌なのだ。
(昨日の夜も本当は怒っていたのかな……でも、あいつはすぐ顔にでるし、そんな感じではなかったような……)
昔の、神子様の目的のために動いていた布都ならばいざ知らず、今の布都は感情豊かな普通の女の子だ。
でなければ、そもそも『怒っている』という問題自体が発生しないわけで。
だから昨日の笑顔は嘘ではなかったのだろう。
(あの違和感に何かあるとは思うんだけど……)
昨日、布都がやけに私のことを気にしていたのは分かる。
ただ私の何を気にしていたのだろう。
そこに怒りの原因があるのか。
(昨日は怒ってない、今日は怒ってる、か)
日付が変わると怒りだすものな~んだ、というなぞなぞを出されている気分。
そう、日付に目を付けるのは悪くない視点だと思うのだ。
だけど、昨日は何かしらの記念日ではなかったはず。
まさか大安や仏滅がどうとかいう話でもあるまい。
「……あ~もう!全く分かんないっての!!」
声に出してみても、答えは出てこない。
そもそも布都が悪いのだ。
なんで急に怒り出す?
なんで理由を話してくれない?
こっちは、謝ってやんよ!の精神で悩んでいるというのに。
理由がわからなきゃ謝ることすらできないじゃないか。
と、いつの間にか布都に責任転嫁してしまう自分がいる。
(……仲直り、したいんだけどな)
原因が分からない苛立ちとか悲しさとか自己嫌悪とかで、なんだか思考する気力も起きない。
何もかも忘れて、とりあえず寝てしまいたいような、そんな心持ちだ。
でも、いつまでもこうしている訳にもいかない。
何か手を打たなければ、ずっとこのまま。
布都と話もできずに過ごす毎日。
そんなのは嫌だ。
(本当は頼りたくなかったんだけど……)
背に腹は代えられない、とはこのことだと思う。
こんなことでお手を煩わせるのは極めて申し訳ない。
けれど、今の私には何も指標が無いのだ。
私は意を決して立ち上がると、彼女の部屋を訪ねることに決めた。
豊聡耳神子様の部屋を。
私の話を聞き終えた神子様は「なるほどなるほど」と微笑みながら静かにお茶を口にしていた。
神子様はその能力によって、相手の全てを看破することができる。
つまり、神子様の前に隠し事など無意味。
欲の欠けている霊などの例外はいるようだけど、少なくとも普通の人間の心など手に取るようにわかるはずだ。
つまり、布都が怒っている原因も、である。
「神子様、あの……申し訳ありません。こんな相談、するべきではないと思ったのですが」
「おや、なぜそんなことを言うのですか屠自古?」
「いえ、その……あまりにも個人的なことなので」
本来、神子様と私は立場の違う人間だ。
気軽に悩み相談をしていい相手ではない。
こんな喧嘩の仲裁みたいな役目を、頼んでいい相手では断じてない。
「……屠自古」
「はい?」
「私は今にも泣いてしまいそうですよ」
「え、ええ!?な、なぜですか?」
「だって、いつまで経っても屠自古は私を特別扱いするからです……」
神子様は悲しそうに目を伏せた。
「私は布都や屠自古と対等でいたいのですよ?」
「それは……でも、あの……」
それは幻想郷に来てから、神子様の口癖のようになっていた。
私としても、神子様とは対等でありたい。
確かに幻想郷においては、かつての立場など関係のないものだ。
けれど、染みついた習慣というか、意識のようなものはそう簡単には変わらないのである。
「少しずつでもいいのです。今日のような悩み相談でもいいですし、何でもないお天気の話でも構いません。だからもう少し、私を屠自古の側に近づかせてくれませんか?」
「……はい、私も神子様とそうありたいと思っています」
「ふふ、ありがとうございます」
泣きそうな顔から一転、にこっと笑顔を見せる神子様。
そんな笑顔一つとっても、やっぱり私なんかとは質が違うなぁと思ってしまう。
その点、布都は神子様とかなり打ち解けているように思う。
ちょっと無遠慮すぎるくらいじゃないかと思う時もあるのだけど、神子様がそれを望んでいるのなら、変わらなければいけないのは私の方かもしれない。
……っと、そうだ。危うく本題を忘れるところだった。
「さて、布都の話でしたね」
私の思考が切り替わると同時、神子様が口を開いた。
「屠自古は布都が怒っている原因を知りたいと、そういうことですよね?」
「はい……正直思い当たることがまったくなくて……」
布都が怒っている理由が私にあることは間違いない。
神子様と普通に話をしていたことからも、それは良く分かる。
そして神子様なら布都が怒っている理由を理解しているはずなのだ。
ほんとうは自分で考えるべきことだと思う。
もちろん、神子様にそう諭されたならそうするつもりだ。
でもとにかく、私は何かしらの指標がもらいたかった。
「ふむ、おそらく今の屠自古では布都が怒っている理由には永遠に思い至らないでしょう」
やっぱりそうなのか、とちょっと肩を落とす。
神子様が言うのなら、そういうことなのだろう。
「あの、神子様。教えていただけませんか、布都がなぜ怒っているのか」
「そうですね、布都に申し訳ないのでその理由を直接教える訳にはいきませんが……」
神子様は、そこで一度言葉を切った。
それから何かを思い出したように、部屋に備え付けられた棚へと向かう。
棚を開けるのかと思ったが、神子様が手にしたのはその上に置かれていた長方形にリボンの巻かれた小さな箱だった。
「これは昨日布都と里に出かけたときに貰ったものなんです」
「里で、ですか……?」
そういえば、と私は昨日のことを思い出す。
確かに二人は朝から、里へ買い物に出かけていたと思う。
私は一応幽霊の身だし、里の子供に泣かれたりすると向こうはもちろん、こっちもショックなので、あまり買い物には出向かないようにしている。
だから昨日も私は一緒に行っていないし、里で何があったのかなんて全く知らない。
そのことが、原因になっているのだろうか。
「この箱の中には、チョコレートが入っているんですよ」
「チョコレートって、あの甘いような苦いようなお菓子ですよね?」
幻想郷に来てからはじめて口にしたものは多い。
チョコレートはその中でも確かに美味しかったし、特に布都はお菓子全般をとても気に入っていた。
「でも、なんで突然そんなものを頂いたんですか?」
「ふふ、それを今から教えてあげます」
箱を置いて、神子様は私に向き合う。
「問題です、屠自古。昨日は何の日だったでしょうか?」
「え……?」
唐突にそんなことを聞かれて、私は戸惑ってしまう。
いや待て、これは確か部屋でも一度考えたことだ。
そうして何の記念日でもないという答えを得たはず。
でもそんな意味のない問題を神子様が出すだろうか。
「……すいません、わかりません」
「そうですね、屠自古はあまり里に行かないから知らないのも無理はありません」
そこで神子様はまた別の箱を棚の上から取り出す。
その箱はさきほどの物とは違い、既に開けられているようだった。
「これはね、昨日布都からもらったもので、やはりチョコレートが入っていたのです」
「布都が……」
「昨日里に出向いたのも、実はチョコレートを買うためだったんですよ」
「え、それって……」
布都や神子様がチョコを買って。
でも神子様はチョコを他の人からも貰っていて。
訳が分からない、一体何がどういう……
「屠自古、今日は何日ですか?」
「えと、2月15日です」
「では、昨日は?」
「2月14日……」
言いながら、何か記念日を見落としていないかと思考を巡らせるも、やはり何も思いつかない。
そんな私に、神子様は微笑みながら教えてくれた。
「屠自古、2月14日はね、バレンタインデーという日なんです」
「ば、ばれん……?」
「バレンタインデーはね、女の子が大切な人に気持ちを込めてチョコレートを贈る、とても素晴らしい日なんですよ」
2月14日、バレンタインデー。
女の子が大切な人にチョコレートを贈る。
どうやら幻想郷にはまだまだ私の知らない文化が存在していたようだ。
そしてそこにこそ、布都が怒っている理由が存在しているらしかった。
人里を一人で訪れるのは、もしかしたら初めてのことかもしれない。
ふよふよと人里の大通りを漂う私に、すれ違う人達の視線が刺さる。
いや、ここには布都と一緒に何度か来ているし、他にも妖怪がちらほらいたりするから、私が気にしすぎているだけかもしれないけど、やはり注目は浴びていると思う。
神子様にバレンタインデーの存在を教えてもらい、後は私次第というお言葉も頂いたので、悩んだ末に私は人里へと向かうことにしたのである。
目的はもちろん、チョコレートを購入するためだ。
2月14日における布都の態度。
2月15日、つまり今朝の布都の態度。
総合して考えると、布都が怒っている原因がなんとなく見えてきた。
もしかしたら、布都は私からチョコレートをもらえなかったことに怒っているのかもしれない。
大切な人にチョコを贈る日とは大切な人からチョコをもらう日という意味でもあるわけで。
それなのに親しい人からチョコをもらえないということはつまり大切に思われていない、という解釈ができないでもない。
仮に布都がそう考えているとしたら。
私がやることは一つしかない。
(……自惚れじゃない、よね?)
正直この考えに至った時、私は嬉しいと思ってしまった。
だって布都が怒っているのは私からチョコをもらえなかったからで。
それは布都が私からチョコをもらえると期待していたということで。
私が布都を大切に思ってないと、そんな勘違いをして怒っているわけで。
それは、なんだかすごく嬉しいことだった。
チョコの一つや二つ、すぐに買ってやんよ!とばかりに私は里の駄菓子屋さんを訪れることにしたのだ。
「こ、こんにちは~……」
おそるおそる声をかける。
霊体になってからというもの、人付き合いをあまりしてないせいで、私の心はすっかり臆病になってしまったようだ。
「いらっしゃ~い、ってあらあら、屠自古さんだったのね」
駄菓子屋の店主である紗江さんが顔を見せる。
ここは里に来ると布都がよく来たがるので、ある意味この土地で一番親しい人が紗江さんかもしれない。
「こんにちは、今日は布都ちゃんは一緒じゃないのかしら?」
「あ、はい……」
「そうなの、でも確かに昨日の今日で来るのもおかしいものね」
「布都が来たんですか!?」
思わず大きな声になってしまって、自分でもびっくりする。
紗江さんは私の勢いに驚いたのか、こくこくと頷いた。
そうか、神子様と布都はここにチョコレートを買いにきていたのか。
確かに少し考えれば、分かったことかもしれない。
「布都ちゃん、嬉しそうにチョコレート買っていたし、屠自古さんも貰ったんでしょ?」
「いえ、私は……」
実はそのことが、私が唯一引っかかっている点だった。
私は布都からチョコレートを貰っていない。
そもそもそんな機会があったなら、バレンタインデーの存在を昨日の時点で知っていたはずなのだ。
神子様にはしっかりチョコを渡したのに、私には渡さなかった布都。
その一点だけが、もしかしたら私が考えていることはただの自惚れに過ぎないのではないかと思わせる問題点だった。
「屠自古さんが貰ってない……おかしいわね、そんなはずないのだけど……」
私の沈んだ様子を見て、紗江さんは何かを察したらしく、同時に小さくそんなことをつぶやいた。
「あ、あの、そんなはずないってどういう……」
「ああ、うん。だって布都ちゃん、屠自古さんには一番おっきくて高いやつをあげるって意気込んでいたから……って、もしかしてこれ言ったらまずかったかしら」
ごめんなさい、今のは忘れてね、と苦笑する紗江さん。
ちょうど別のお客さんが商品を選び終えたところだったようで、彼女はまた後でと言い残して、会計の準備に向かってしまった。
取り残された私の中には、さらに疑問が渦巻くことになるのだった。
人里から帰ってくるころには、既に陽も傾き始めていた。
無事チョコレートを購入した私は、ひとまず自分の部屋へと戻り、今後のことについて考える。
本当は一刻も早く布都にチョコレートを渡したいところだけど、生憎と夕食当番は私だ。
もう夜になるし、急いで晩御飯の製作にとりかからないと。
あぁ、でもまた食卓で布都と険悪なムードになるのは嫌だなぁ、と私が思っていると……
コンコン、と部屋の扉が叩かれる。
「屠自古、帰っていますか?」
それは神子様の声だった。
すぐに返事をして、こちらから扉を開ける。
神子様は私を一目見ると、すぐに綺麗な笑顔を見せてくれた。
「チョコレート買ってきたんですね?」
「はい……あ、少し待ってください。神子様のために買ったチョコを持ってきます」
「いえ、それは後で構いませんよ。私も屠自古にチョコを渡すのは後ほどにしようと思っていたので」
その言葉に、私は首をかしげた。
それから神子様はまた微笑んで。
「だって、屠自古が一番最初に渡すべき相手は、私ではないでしょう?」
分かっていますよね、という表情で神子様が問う。
それはたぶん、神子様の気遣いなのだと思う。
そんな風にされて、私はなんだか申し訳なく思ってしまった。
ただでさえ個人的な相談をして、その上こんな風にお膳立てまでしてもらって……。
と、神子様の手がぽかっと私の頭を叩いた。
「いたっ、み、神子様?」
「言ったはずです、私は二人と対等でいたいのだと。そういう余計なことを考えてはいけません」
かわいらしく頬を膨らまして、私の心を見透かしたかのように怒る神子様。
彼女のそんな顔は見たことがなくて、私は少しの間呆然として、それからちょっと笑ってしまった。
そんな私の表情を見て、神子様はまた笑顔に戻る。
神子様がそう言ってくれるなら、私はもうお言葉に甘えてしまおうと思う。
私が今すべきことのため、彼女を徹底的に頼らせてもらおう。
「あの、神子様」
「はい」
「今日の夕食当番は私なんですが……」
「そうですね」
「もし宜しかったら……その、変わっていただけないでしょうか?」
私がそう尋ねると、神子様は「はい、喜んで」と嫌な顔一つ見せずに、むしろどこか嬉しそうにうなずいてくれた。
それからすぐに、私は布都のために買ってきたチョコレートを持って彼女の部屋に向かった。
頭の中で、どうやってこれを渡すのかを思い描く。
そもそも、部屋に入れてもらえるかどうかすら怪しい状況なのだ。
そんな状態でチョコレートを受け取ってもらうことなんてできるだろうか。
あるいは、部屋の前にチョコレートを置いておくのはどうだろう。
手紙でも添えておけば私からだと分かってもらえるだろうし。
でも、それはなんだか少し味気ない。
何より、私が直接渡したいのだ。
ちゃんと話して、ちゃんと謝って、ちゃんとチョコを渡して、それで仲直りしたい。
だからできれば手渡しをしたかった。
(とにかく部屋に入れてもらえれば、後はどうにかなるんだけど……)
と、考えている間に布都の部屋までたどり着いてしまう。
こうなったらもう、出たとこ勝負でやってやんよ!とばかりに、私は部屋の外から声をかけようとして……。
「……うぅ……ぐすっ……」
不意に、部屋の中から布都の声が漏れ聞こえていることに気がついた。
よくよく見ると、部屋の扉が少しだけ開いているのだ。
「……ばか……屠自古のばかものぉ……」
と、今度は私の名前が聞こえてくる。
あぁ、やっぱり怒ってるのかなぁと思いつつ、私はそ~っと扉の隙間に顔を寄せた。
布都がどんな顔をしているのか、見ておきたかったのだ。
あるいは余程怒っているようなら、一度出直すことも考慮して。
けれど、隙間から少しだけ見えた布都の顔は。
なぜか、泣いているように見えた。
「……なんで……我にはチョコを……うぅ……」
夕日の差し込む部屋で、瞳からこぼれた涙がきらきらと輝いている。
布都は怒っていなかった。
それどころか今、あの子は涙を流している。
「……我は……チョコ……あげようと……ぐすっ……」
泣いてる。
泣いているんだ。
それはたぶん、私のせいで。
私がチョコをあげなかったから。
やっぱり自惚れなんかじゃなかったんだ。
布都は私からチョコレートをもらいたかったんだ。
だから今朝はあんなに怒っていて。
そして今は、あんなに泣いている。
私がバレンタインデーの存在を知っているはずだと勘違いして。
私がチョコレートを準備しているはずだと勘違いして。
私が布都のことを大切に想っていないと勘違いして。
ぎゅうっと胸が締め付けられる。
なんだろう、この気持ちは。
嬉しいような、悲しいような、なんだか色々な感情が胸に溢れて、苦しくて仕方がない。
「布都っ!」
だから気がついたとき、私は扉を開けて部屋の中に飛び込んでいた。
今すぐ布都に会いたくて。
布都に顔を見せてあげたくて。
とにかく、布都に泣き止んで欲しかった。
「……と、とじ、こ?」
突然、部屋の中に入ってきた私を見て、布都は泣きはらした顔のまま、ぽかん、とした顔をしていた。
勢い込んで布都の前に立った私は、しかしこの後のことを全く考えていない。
二人して、お互いの顔を見合ったまま、しばらく固まってしまう。
もともと出たとこ勝負のつもりだったのだ。
こんな状況でかけるべき声なんて、考えているはずもない。
とりあえず布都はもう泣いていないみたいだけど……
「ぁ……」
その時、布都の口から小さな、本当に小さな声が漏れる。
なんだろうと思いながら、私は布都の視線の先を追う。
その瞳は私ではなく、私が右手に持つ赤いリボンの巻かれた箱に注がれていた。
(そうだ、チョコレート……)
これを渡すことが目的だったはずじゃないか。
部屋の中に入るという難題は突破できた。
目の前で布都は待っている。
ならもう悩むことなんて何もない。
「あ、あの、これっ……!」
私は座り込んだままの布都に、両手で箱を差し出した。
慌ててうまく言葉が出てこない。
けれど、とにかくチョコレートを渡さなければという想いでいっぱいだった。
「その、遅くなったけどバレンタインのチョコレート、だから……」
纏まらない思考のまま、なんとか言葉を絞り出す。
精一杯の気持ちを込めて、私は布都にチョコを渡す。
少しの間、布都はその箱をぼ~っと見つめているようだった。
それから少しだけ手を伸ばそうとして、しかしすぐに引っ込めてしまう。
その顔は、疑問と不安で満ちていた。
たぶんなぜ今さらになって、とか。
本当に自分が受け取ってもいいのか、とか。
そんなことを考えているのだと思う。
ちゃんと説明してあげないと。
どうしてこんな状況になっているのかを。
「私ね……ば、バレンタインデーっていう行事を知らなくて、だから、チョコのこととかも全然知らなくてさ……」
「……ほ、ほんとうか?」
震える布都の声に、しっかりと頷く。
「なんで布都が怒ってるのか、全然わからなくて……神子様に聞いてようやく昨日がバレンタインだったことがわかって……」
そんな大事な日があるなんて知らなかったのだと。
言い訳にしかならないけど、それでも伝えなければいけないことだと思った。
「だからすぐにチョコを買いにいったの……渡さなきゃって……大切な人にチョコを渡したいって思ったから……」
「……大切な……人……?」
「ちゃんと、布都に受け取ってもらいたいなって思ったから……」
だから、受け取って欲しい。
そう言って、私はもう一度布都にチョコレートを差し出した。
いつの間にか、私の胸はドキドキと高鳴っていた。
さっき感じた胸の苦しみが、再び押し寄せてくる。
なんだかとても不思議な気持ち。
どこかふわふわとした感覚のまま、私は布都のことを見つめていた。
「……ほ、ほんとうに、我のために……なのか?神子様のついでに、とかではなく……?」
「もちろん神子様のためにも買ってある。だけど、このチョコレートは布都のために、布都にあげたくて買ったチョコレートだから……」
「う、うぅ……」
恥ずかしそうに顔を伏せる布都。
言ってる私も、顔が真っ赤になりそうだった。
物凄く恥ずかしいことを言っているという自覚がある。
けれどその甲斐もあってか、布都は少しずつゆっくりと箱に手を伸ばしてくれた。
その両手が、箱を抱えるのと同時に、私の手を放す。
私のチョコレートはしっかり布都の手の中に渡すことができたのである。
「……屠自古の……チョコレート……」
箱を掲げて、しばらくそれを見つめていた布都は、ぎゅっと静かにそれを自分の胸の中に抱いた。
再び、布都の瞳から涙がこぼれる。
「ふ、布都!?」
「だ、大丈夫……これは、その……嬉し泣きだ……」
箱がつぶれてしまうんじゃないかと、心配になるほど布都はそれを強く抱きしめる。
それからしばらく、私はただそこに立ち尽くし、布都の嬉し泣きを見守っていた。
「うぅ……恥ずかしいところを見せてしまったな……」
「そんなの、私達にとっては今更でしょ?」
すっかり泣き止んだ布都の対面に私は腰を下ろしていた。
まだ、すんすんと鼻を鳴らしているが、もうだいぶ落ち着いているようだ。
「さて、と……今日はね、神子様に夕食当番を代わってもらったのよ」
「み、神子様にか?」
「うん。だから、もうちょっとここにいたいけど、私もそろそろ手伝いにいこうと思う」
「そ、そうか……うむ、そうした方が良いな……」
お互いに、なんとなく名残惜しいと感じているのがよく分かった。
けれど、これが永遠の別れでもないし、というか毎日のように顔を合わせるのだ。
だから少しさみしいけど、今は神子様のところへ行くとしよう。
私はすっと立ち上がって、部屋の扉へと向かう。
「あ……ま、待て、屠自古よ」
「ん?」
去ろうとした私の背中に布都の声がかかる。
「あのな。一つ、聞き忘れていたことがあるのだが……」
なんだろう、と思って私は布都の側まで戻る。
布都は胸の前で指をもじもじとさせて、何か意を決したようにこちらを見て私に尋ねた。
「このチョコレートは……その、本命チョコなのか……それとも、義理チョコなのか?」
じっと強い視線が私に向けられる。
それを見ただけで、この質問に何か大事な意味があるのだということが一瞬で分かった。
でも、私にはその質問の意味は分からない。
(本命チョコと義理チョコってなんだろう……)
本命と義理、どちらのチョコであれば布都は嬉しいのだろうか。
正直に、意味がわからないと言うべか。
でも、もしもそれでまた布都が怒りだしてしまったら。
また泣き出してしまったら。
それはすごく辛い。
「べ、別に我は……どちらでも良いぞ?」
私が悩んでいると、布都からそんな補足をされる。
そうか、どちらでも良いのか……などと考えるほど私は甘くない。
どちらでも良いなら、この質問には何の意味もない。
本当は、どちらかの答えを期待しているに違いないのだ。
バレンタインのチョコは大切な人に贈るもの。
その観点から本命と義理という言葉について考える。
本命の方は良く分からないが、義理の方は義理堅いという言葉もあるくらいだし、なんというかこう、大切感が滲み出ている気がする。
だとすれば、ここで私が言うべきなのは……
「ぎ、ぎぎ……」
「……ぎ?」
……なんか、布都が物凄く悲しそうな顔になってる。
もしかしたら義理はダメなのかもしれない。
くっ、それならもう一か八かっ……!
「本命チョコ!それは本命チョコ!!」
一か八か、その選択に賭けた。
本命という言葉も悪い意味とは思えない。
義理のように意味の予想はできないものの、布都の言葉も合わせて考えれば決して間違った選択ではない、はずだ。
私の言葉を聞いて、布都は驚いたように口を開ける。
それから、すっと顔を伏せて、なんだかとても嬉しそうな笑みを浮かべた。
「そ、そうか……本命、なのだな……」
「う、うん……」
合っていたのだろうか、私の選択は。
布都の反応からでは読み取りきれない。
「……いや、わかった。時間をとらせてすまなかったな、早く神子様のもとへ行ってやれ」
「え?あぁ、そ、そうね。じゃあ私はもう行くから」
「うむ」
布都の心の内を聞いてみたかったが、そう言われては仕方ない。
私は再び立ち上がって、部屋を後にすることにした。
扉を閉める瞬間、ちらっと見えた布都の顔は、はにかんだような笑顔を浮かべていた。
その後、私は神子様と共に夕食を作り、三人で晩御飯にした。
布都はすっかりご機嫌で、ご飯もいつもよりたくさん食べていたし、笑顔もたくさん見せてくれた。
どうやら無事仲直りはできていたようだ。
ただ、少しだけ気になったこともある。
布都がなぜか私の方をちらちらと見てくるのだ。
そう、まるで昨日の夜に戻ったかのような態度で。
目が合えば、私は微笑むし、布都も笑ってくれるのだけど、そこにはやはり違和感があるように思えた。
私はまだ何かやり残したことでもあるのだろうかと、食事のときもお風呂のときも考えていたものの、やはり何も思いつかないまま。
まさか明日の朝になったら布都が怒りだしたりしないだろうか、と必死で頭を悩ませていると、就寝前にようやくある事実に気がついた。
「そうか……布都からチョコ、もらってないんだ」
あの時、布都の部屋では私がチョコを渡しただけで終わってしまった。
よくよく考えれば、布都からもチョコをもらうべきだったのではないだろうか。
いや、チョコをもらうべき、といういい方自体おこがましいのだけど、駄菓子屋の店主は確かに布都は私のためのチョコレートを買ったと言っていたのだ。
もしもそうなら、布都はたぶん私にチョコを渡すタイミングをうかがっていたのではないだろうか。
(まぁ……明日でもいいかな。神子様にも明日渡すつもりだし)
既に布団も敷いてしまったし、もしかしたら向こうはもう寝てしまっているかもしれない。
別に焦らずとも、チョコは明日受け取ればいいのだ。
それを先延ばしにしたからと言って、布都が私に対して怒るということもあるまい。
それは布都の判断でもあるわけだし。
そう結論付けて、私は電気を消し布団に入ろうとして。
しかし、ちょうどそのタイミングで部屋の外から声がかかった。
「屠自古、まだ起きているか?」
この声は布都のものだ。
さきほどまで彼女のことを考えていたので、少しだけ驚く。
「起きてるわよ、今開けるから」
「ま、待て!少し、待ってくれ……」
扉を開けようとする私に、外から静止をかける布都。
なんだろう、と思いながら私は大人しく次の声を待った。
「……よ、よし。開けてもよいぞ」
再び外から布都の声。
なんだかどちらが部屋の主なのか分からない。
そう思いながら、私は扉を開けた。
そこには寝間着姿の布都が立っていた。
ただし、右腕には自分の枕を抱えて、左手には四角い箱を持った不思議な恰好で。
「え、な、なに……?」
思わずそんな声が漏れてしまう。
その恰好の意味はさすがにすぐに理解することはできなかった。
「うむ……その、な。我のチョコを渡していなかったと思ってな……」
すっと布都の左手が上がり、私に箱が差し出される。
すぐにそれがバレンタインのチョコレートなのだと思い至る。
「本当は昨日渡そうと思っていたのだが……屠自古が……その……」
言い淀む布都、けれど私は大体想像がついていた。
布都は私とチョコレートを交換するつもりだったのだろう。
ところがいつまで経っても私がチョコを渡さず、結局一日が終わってしまった。
きっと、それでチョコを渡すタイミングを失ってしまったのだ。
私は困っている様子の布都に笑顔を見せると、そのチョコをしっかりと受け取った。
「……あ」
「ありがとう、布都。ちゃんと受け取ったからね」
「……う、うむ!」
私がそれを手にすると、布都は頬を染めて笑ってくれた。
どうやら私達の長いバレンタインはようやく完結してくれるようだ。
後は布都にお休みを言って眠るだけ。
そう思っていたのだが。
「そ、それでな」
と、布都がさらに言葉を続けてきた。
「そのチョコはな、ほ、本命チョコだぞ!」
「う、うん。本命ね」
本命チョコ、布都がなぜかこだわっていた言葉。
あの時、義理と言いかけた私に悲しそうな顔を見せていたから、おそらく本命は義理より価値があると考えていいのだろう。
それは結構嬉しいことだった、なるほど確かに布都がこだわった意味も分かった気がする。
ここで義理ですと言われるのは結構ショックかもしれない。
「そっか、ありがとう。すごく嬉しい」
「そ、そうか。良かった……」
ほぅ、と一息つく布都。
今度こそお休みと言おうと思った私に、しかし布都は思いがけない言葉を向けた。
「ではその……今日は……屠自古と一緒に寝るということ……なのだな?」
腕に抱えていた枕をぎゅっと胸の前に持ってきて、恥ずかしげにそんなことを言う布都。
…………え?
今、布都は何て言った?
幻聴でなければ、一緒に寝るって言わなかっただろうか?
そして幻覚でなければ、明らかに私と一緒に寝るための枕を持っていないだろうか?
やばい、今日はもう意味がわからないことだらけで頭がパンクしそう。
とりあえず今わかることは、私の目の前で胸に抱えた枕に顔を埋めている布都が、物凄くかわいいということくらいだ。
「そ、そういうことであろう?」
顔を赤くして、どこか不安そうに上目遣いで尋ねるその顔の破壊力はやばい。
いつものような自信満々のどや顔は欠片もなく、そのギャップがさらにやばい。
「里の者が話していたぞ、本命チョコをお互いに渡した二人は夜を共にするものなのだと……」
「ぶっ!?」
衝撃的な発言に思わず吹き出しそうになった。
いや待て、落ちつこう。
今、何か全てを理解できるキーワードが飛び出したように思う。
本命チョコをお互いに渡すと夜を共に……。
つまり状況を整理すると、だ。
私は布都に本命チョコを渡したと言った。
布都も私に本命チョコを渡したと言った。
私達はお互いに本命チョコを渡した。
だから夜を共にする。
布都が枕を持ってきて朝まで一緒に寝る。
ただ、それだけのこと。
(いやいや、夜を共にって絶対そういう意味じゃないって!)
布都はその言葉を直接的な意味として受け取ったようだが、たぶんそこには間接的な意味があると思う。
つまり、その、具体的にはアレを……
「う、うおおおおおおおおお!!」
「ど、どうした屠自古!?」
夜中に大声を出す私を見て、布都が慌てている。
いけない、確かにこんな所を神子様に見られたらどう思われるか……。
「と、とりあえず部屋入って」
布都の手を取って、部屋の中に引きこむ。
私の唐突な行動に反応しきれなかった布都が、私に寄りかかる形になって鼓動が早くなったものの、とにかく扉を閉めて神子様に目撃される危険は避けておく。
「き、急に引っ張るでない!」
抗議の声と共に体勢を立て直す布都。
さて、こうなるともう後戻りはできないという感じだ。
まぁ、布都は普通に一緒に寝ようとしているだけだから、実際のところ問題はない、のか?
「布都、一つだけ確認しておきたいんだけど……」
「なんだ?」
「私と一緒に……寝たい?」
私は何を言っているんだろうと、自分で突っ込みたくなる。
けれどもしかしたら、布都は本命チョコを交換したから仕方なくここにいるという可能性も……
「も、もちろん。屠自古と一緒に寝たいぞ」
そんな可能性はどうやら全くなかった。
布都は心から私と寝たいと思っているようだ。
ま、まぁ私としても布都と一緒に寝ることは決して嫌ではないわけで。
「よ、よし分かった。私が一緒に寝てやんよ!」
「ほ、ほんとうか!?」
私が半ば勢いに任せてそう言うと、布都は今日一番うれしそうな顔を見せた。
私の小さな布団に、私と布都の枕を並べて隣り合って同じ毛布を被る。
隣を見れば、そこには同じようにこちらを見る布都。
やばい、今すごくドキドキしてる。
「ふ、二人で寝ると暖かいな」
「そ、そうね、そうかもしれない……」
布団や毛布の大きさから、私と布都の体は完全に密着した状態になっている。
つまりは直に布都の温もりが伝わってくるわけで。
それは確かに暖かいのだけど、それより私の顔は遥かに高温になっていて、おかしな感覚だった。
「あのな、屠自古」
「ん、なに?」
本当に目の前に、布都の顔がある。
相手の息遣いがわかるほどの距離。
こんな距離で会話をしたことなんてほとんどなくて、それだけでも胸の鼓動が早くなる。
「その、嫌な態度を取ってすまなかったな。我はてっきり、屠自古がバレンタインを知っていると思っていたから……」
申し訳なさそうな顔で、ごめんなさい、と丁寧に謝る布都。
なんだかその姿がとても愛しいものに思えて、私はすっと彼女の頭に手を伸ばした。
「それはもうわかってるって。それに私がそういう行事を知らなかったのも悪いんだからお互い様、でしょ?」
頭をなでなでしながらそう言うと、布都はくすぐったそうに笑って、小さく頷いた。
「あのさ、私はちゃんと布都のこと大切に想ってるから」
昔はいろいろあったかもしれない。
今も喧嘩は良くしているかもしれない。
それに、未だに私は霊体だったりもする。
けれど、昔のことは既に過ぎたこと。
今の私達は喧嘩するほど仲が良い。
霊体としての身は、いわば布都との絆そのものだ。
だから私は、ちゃんと布都のことを大切に想っている。
掛け替えのない存在だと、そう思っている。
「うむ、我もだ。我も屠自古のことを大切に想っておる」
二人顔を合わせて笑い合う。
ほんと、仲直りできてよかったと思う。
「明日はまず神子様にお礼を言わないとね」
「そ、そうだな。色々とご迷惑をかけてしまったようだし」
あるいは、また対等に扱ってほしいと怒られてしまうだろうか。
それならば、友人としての感謝という意味でもいい。
チョコレートと共に、その気持ちを渡したいと思う。
そう言えば、神子様へのチョコは何チョコとして渡せばいいのだろう?
今日の会話からすれば本命チョコの方が価値があると推測できる。
夜を共に、という話は気になるけど、やっぱり本命として渡した方が……
「っていたたたた!ちょ、頬ひっぱんないでよ布都!」
「むぅ……今、何かとても腹が立ったぞ、さては良からぬことでも考えたな、そうであろう!?」
「考えてないってかほんとに痛いってば!」
「本当のことをいうまでは離さんぞ!」
悔しいので、私も布都の頬をつねりかえす。
一瞬その柔らかさにどきっとしたが、布都がさらに力を入れてきたので、私も思いっきり引っ張る。
そんな風に私達は幻想郷にきてから一番楽しい夜を一緒に過ごしたのだった。
バレンタインデーはチョコレートを贈る日。
大切な人に大切な気持ちを伝える日。
それは神様がくれた素晴らしい日だと私は思う。
だって、想いを形にして伝えるチャンスを与えてくれるのだ。
想っているだけじゃ、言葉にするだけじゃ、伝えきれない気持ちを形として相手に贈る。
きっとそれはとても大切なこと。
今年は一日遅れになってしまったけど、来年は必ず。
いや、来年も必ず。
(必ずチョコレート、渡すからね)
目の前の愛しい寝顔に、心のなかで約束した。
なんの躊躇いもなく百合前提な人里の気風にボカぁもうやってやんよ!