汽船の窓から覗く水平線は、絶え間なく排水の垂れ込む海であるにしては、不自然なほど澄み渡っている。
陸(おか)は影さえ未だはっきりとはしなかった。
空に尾を引き、遠くきらめく工場の煤煙が、物語の挿絵に描かれたバベルの塔の残骸とそっくりに見える。二等船室はただ広く、おまけに少し埃っぽかった。そこに詰め込まれた二、三十人ほどの船客の誰とも話さず、人の熱が澱(おり)みたいに沈み込む空気を吸いながら到着までの時間を過ごすことになった境遇からすれば、空想することさえも、無為であるよりははるかに実のある暇つぶしだった。
頑丈そうだと思って選んだ男物の外套は、少し丈が長すぎる。
そのポケットに放り込んだ煙草とマッチは未だ余裕があるはずだったのだが、自分の半身に寄りかかる道連れの少女が、昼食を摂ってからすっかり眠り込んでしまっている以上、甲板なり喫煙室なりへ灰皿を探しに行く気にもなれない。
元より彼女のお守(も)り役が仕事の半分、未だ労働の時間が過ぎ去っていないと諦めるよりほかはない。頭から足まですっぽりと覆い隠すような長衣で身を包みながら気持ち良さそうに寝息を立てる少女の金髪を、彼女は力なく撫でた。
何となしのいら立ちに小さく舌を打つと、真向かいの長椅子に座る紳士にじろりと睨まれたような気がした。顔を隠すつもりで、出立の前に買った鳥打帽を深々と被り直した。うなじから、隠しきれない銀色の髪の毛が幾房がこぼれ落ちる。「毛唐……?」という訝りの言葉が、どこからともなく聞こえてきた。さっき立ち寄った船内の食堂では、そんなことは言われなかったのだが。誰もみな腹を減らしていたせいか。
ぼう――ッ、という汽笛だか蒸気の吹き出す音だか解らない唸り声を上げて、汽船は何度目かがたがたと揺れ出した。スピードを上げてるんだな、と、坊主頭の男の子がはしゃぎ出す。折れた大砲を糊づけで補修した軍艦のおもちゃを持ち上げ、空中で泳がせながら。おれの父ちゃんは船員なんだぜ。だから解るんだ、教えてもらったから! 彼は自慢げに、窓外の景色を覗き込む友達に語る。ばかを言うなよ。こんなぼろ船。今に沈んじまうのさ。柱に寄りかかる何人かの労働者らしい男たちが、声を潜めてぎゃあぎゃあと冗談を言った。男の子はおもちゃに夢中で、それには一向に気づかなかった。
やかましい人たちだ。
彼女は唇を噛む。
真の孤独は群衆の中にこそ在るというけれど、至言だったということね。
じゃぷじゃぷと、船体が波を切り砕く音が恋しい。
未だ少し、窓の外の景色が陸に繋がるまでは時間がかかるだろう。
船室の端でこきこきと針を鳴らす勤勉な時計に拠れば、現在の時刻は三時十二分。
本来の到着時刻は三時ちょうど。
ひょっとしたら、せっかちな船員が時計の針を動かし過ぎたのかもしれない。
そう思って自分の懐中時計を確認してみたけれど、一分も違えることなしに三時十二分である事実は揺るがなかった。時計の蓋をかきりと閉じてズボンのポケットに押し込むと、皺くちゃになった汽船の乗船券に指の触れる感触がした。そのわずかな経過を潜り、壁の時計は三時十三分を見せている。K港の船着き場で見た『二号汽船の炉が故障したため、本日の運航時刻は通常より遅れます。たいへん申し訳ございません』という貼り紙が、ひたすら恨めしい。本当なら発着時刻表の通り、あと十三分早くS港に戻ってくる予定だった。
雇い主のもとに身を寄せるあの読書家の食客のように、自分にも本でも読む習慣があれば良かったのだけど。大衆向けの娯楽小説は頭が悪くなるからとばかにして、同時に真面目くさった文学やら学問からも生活の気忙しさを理由にして眼を背けてきた報いが、汽船に揺られるこの退屈か。もっとも、一番に料金の安いこの船室で、本を読んでいるのは黒い詰襟に金色の釦(ボタン)をつけた若い学生だけだった。瓶の底のように分厚い眼鏡をかけた、たぶん、貧乏学生だろう。
鞄から突き出した観光案内のパンフレットを日に焼けた書物に挿んで栞の代わりにし、彼は部屋から出て行った。食事のつもりなら、この船の食堂のカツレツだけはやめておいた方が良いと、心の中だけで忠告する。衣ばかり分厚くて、肉なんてまともに入ってやしない。
何度か、船室のドアが軋んだ。
人の出入りは多いともいえず、少ないともいえなかった。声もない息づかいのみでしばらく沈黙が続く中、こつこつと、床を叩く音だけが部屋の中をぐるぐる廻っていた。誰かが新しく入ってきたのだろう。寝たふりをしながら“そいつ”の足先に眼を遣ると、少し迷うような素振りを見せた後、
「隣、よろしい?」
と、話しかけてきた。
「…………どうぞ」
「あれ」
「どうしました」
「女の子ですか。男の子かと思った。服装もそうだし、髪の毛も、何だか少し短いから」
「船旅には、邪魔になるかと思って。思いきって鋏を入れてもらったのです」
「そうなんですか。きれいな銀色の髪。よくお似合いで」
「ありがとう」
失礼しますよ。語気に幾らかの笑みを滲ませながら、“そいつ”は彼女の左側に身体を滑り込ませてきた。幸い、そちらには誰も居なかったので、他人に咎められることはなかった。かなり背の高い人だ。窄(すぼ)められた声からは、女だということが解った。少し、支那語の発音に近い訛りで話している。一見すると未だ二十二、三にも手の届かないくらい若く見えるが、眼を伏せて持ち物を確認する様子は拭い去れない憂いを帯びていて、まるで何十年、何百年にも渡る老いを食んでいる様子とも思える。
底の擦り切れかけた袋に入った大きな荷物を膝の上に寄せ、女は、微笑を返してきた。礼儀として、同じような微笑を返す。自分と同じように、鳥打帽によく似た形の帽子を被っていた。帽子の内側から垂れた長い髪は、“土をもう少しだけ鮮やかにしたような”赤毛だった。
突然、船が大きく揺れた。
波のかたまりにでも舳先(へさき)がぶつかったのだろうか。
隣に眠っていた道連れの少女が「ううん」と声を発して目蓋を開き、何度か辺りを見回した。前髪が海面から窓に飛び込む鈍い光に透かれて揺れた。頭から外れかけた長衣の端を直してやると、少女は「咲夜、未だ着かないの?」と言った。「もう直ぐですよ、妹さま」「そっか」。大きなあくびをして、少女はまた眠ってしまう。
「妹さま……妹さん? あなたの?」
「ええ、まあ――姪っ子、ですね。妹みたいなものですけど」
とっさに指先で頬を掻いて、眼を逸らした。
いけないと焦り、額を小さな汗が走った。おまえ、嘘を吐くときには頬を掻く癖があるんだ。雇い主の少女から退屈げな様子で指摘されたことを思い出す。初対面の相手にそんなことまでが解るはずもなかったが、それでも『赤毛』は何かを訝しんでこちらをじいと見つめていた。銀髪と金髪を交互に見比べ、何か得心でもいったように大きくうなずいて見せ、それから「なるほど」とつぶやいた。
「可愛い女の子」
「手のかかる子、ですよ。お姉ちゃんとけんかしてばかり」
「お風邪でも召されているんです? その子の服、頭まですっぽり覆ってますが」
「その、身体が弱くて。普段は部屋の中で過ごしているものですから、急に日の光を浴びると病気になるかと。療養というのでもありませんが、今日はちょっとした、旅行帰りのようなものなんです」
そうなんですか。お大事に。
『赤毛』は膝の上で器用に荷物の位置を保ったまま、帽子を被り直した。ちらと横目で彼女の顔を見ると、耳から首筋を通り、肩まで繋がるすらりと通った薄い肉づきがうねっていた。髪の毛を手早く梳く指先は、人の形を帯びた刃物とでも言えそうだった。服装は、ぼろ布を繋ぎ合わせてどうにか衣服の態(てい)を成しているかのような粗末さだったけれど、布越しに気配を感じる肩や脚の肉は、およそ骨に対して、それを取り巻く一切の無駄を排して研ぎ澄まされた強固さを思わせた。まるで、普通なら必ず生じるはずの、身体の中の『遊び』とも言うべき部分を完全に削ぎ落してしまったようなしなやかさを持つ、奇妙にうつくしい肢体をしている。
「この国の言葉が、お上手ですね」
「ありがとう。でも話すのと読むのは得意なんですが、書く方は、どうも苦手なんですよ」
時計の針はそろそろ三時半を指そうかというところだった。そわそわと落ち着きを失した空気が船室に満ち始めた。傷痍軍人らしい年嵩の男が、義足で床をこつこつと叩き、そのリズムと合わせるようにして口髭をしきりに撫でていた。
「そう? なら、私の知り合いをご紹介しましょうか。いつも本ばかり読んでる偏屈な学者気質の女性ですけれど、たいていの言葉なら話すのも読むのも書くのも得意なんですよ」
「あ、は、は。嬉しいですね。ぜひに。もしそうなったら紹介状でも欲しいところですね。あなたに書いていただいて、咲夜さん」
何の衒いを発するでもなく、ごく自然に『赤毛』は名前を呼ぶ。驚いて目を丸くしていると、何かまずいことでもしてしまったかというように困った顔を返される。動揺を取り繕うようにして冗談めかした笑い顔をつくってみたつもりだったが、どうも頬の肉が引きつってしまったような気配が拭いきれなかった。
「……どうして名前、知ってるんです」
「さっき、その子がそう呼んでいたものですから」
「何だ、そんなこと。びっくりした。ずいぶんと、耳が良いのですね」
「ついでに眼にも少しは自信がありますよ。鼻の方は、昔の仕事で少しばかになっちゃってますけどね」
「お仕事のせいでですか? 何のお仕事をされてきたのです? 私はある方に雇われて、女中の真似ごとを」
「ほう。あなたのようにお綺麗でいながら、働く女性か。進歩的、というものでしょうか」
「そんなに立派なものでもありませんわ。昔、スペインで内戦があったでしょう。父がその戦いに義勇兵として参加して死んだのです、彼は、ファシスト嫌いだったから。母も、程なくして心を病むままに逝ってしまって。それから直ぐに、隣国が森を越えて攻めてきて、住んでいた街から逃げ出さなければなりませんでした。で、捨て犬みたいな生活をしていたところを、拾っていただいたというわけ」
「もしかして、男の子とふたりで十字架を集めたりしていたことが、ありませんでしたか」
「可笑しい。何ですか、それ」
彼女が――咲夜がつくっていたのは礼儀としての笑みだったが、それを見る『赤毛』の顔には、人を疑うことをまるっきり知らないような、心底からの人懐っこさが滲んでいるような気がした。誰かに笑みを見せることに関してだけは常に誠実であるかのような、そんな感慨を抱かせる、優しい顔をした人だと思った。私はですね、と、『赤毛』は言った。少しずつ、記憶の糸口をたどっていくように、ゆっくりとした口ぶりで。
「鉱山で時代遅れの苦力(クーリー)稼業を二年。街角で“立ちんぼ”を半年。工場で爆弾に火薬を詰めていたことも――その火薬はひどいにおいでして、そのせいで鼻がおかしくなってしまったと思うのです――ありましたっけ。元々はね、旧い家に仕えて門番のような仕事をしてたんです、長い間。とは言っても門番だけじゃなく、畑を守ったり、子供たちと一緒に居たり。食事のお世話をしたり。産婆さんを手伝ったりも。ああ、それと。咲夜さんのような……メイド、でしたっけ。あれも少しだけ経験が。そっちは、最初の給金をもらって直ぐに逃げ出してしまいましたが」
「“元々は”?」
「ええ、元々は。今はもう、その家はないのですが、」
ふたりの会話は、束の間、船内に走った歓声で掻き消された。
おお――っ! と、にわかにざわついて二等船室は騒がしくなっていく。何人かの船客が窓に張りつき、遠くの景色に眼を凝らしていた。『赤毛』と咲夜は、彼らを真似るようにして窓の外を見遣った。
滑り落ち始めた陽が水平線を赤と黒の斑に染め、工場の煙を、いよいよ水を透いた鱗であるかのように絶えず光らせていた。ようやく、海の景色が陸に繋がったのだ。広く両腕で抱き止めるように船を集める港が見える。煙の根元に在る無数の工場、天を突く煙突の群れ。長い幻想の代替としてたまゆらに栄えることを運命づけられた新しい神さまの模倣。その象徴たる現代の都市。巡洋艦が汽船から遠くを通りがかるのが見え、興奮した人たちが敬礼したり、おおい! と呼びかけたりしていた。
あれこそわが国の誉れ、数か月前に就役したばかりの最新型だと、誇らしげな会話が交わされた。腕を振り上げて勇ましい唄を吟じる老人も居た。K港で足止めされたいら立ちを吹き飛ばすように人々が湧き立つさなか、船員が部屋に入り、抑揚のない疲れた声で告げた。
「もう直ぐS港に到着しますので、下船の準備をお願いいたします」
妹さま、そろそろ到着だそうですよ。咲夜は道連れの肩を揺らし、声をかけてやった。だらしなく開いた唇からこぼれかけた少女のよだれを指先ですくい取り、ポケットの中に押し込んだ乗船券の端で拭いた。『赤毛』は、それを言葉なく、じいと見守っているだけだった。
「愉しいのかそうでないのか。よく解らない道連れだったと思いますが、おつき合いに感謝しますよ。咲夜さん」
荷物をまとめて船内をうろつき始める他の船客たち。それぞれ緩慢ながらも我先にと二等船室から出て行き、工場の煙で灰色に輝く海の空気を吸い込み始める。
「このまま別れたら、何だかすっきりしませんわ」
「……お気遣いを受けても返す当てがありませんよ」
「話の続きを聞きたいものです。せめて最後まで」
「おや。思ったよりも感傷的でない人ですね」
『赤毛』は、自らが今後どこに行って、どうやって過ごすつもりなのかを語ることはなかった。ただ、咲夜に求められるまま、やはり最初のようにゆっくりと、たどたどしい口調で話を続けるのだった。まるで老婆が失われた過去の思い出の断片を繋ぎ合わせて、相手だけでなく自分自身に向けて物語をつくり出すように。
いくさで滅びたのですと『赤毛』は言った。
大きな鍋の底に、豆も肉も魚も、ありとあらゆるものをごちゃ混ぜにしてぐつぐつ煮たかのように世の中が乱れたいくさでした。でも、豆や肉や魚なら、後で美味しく食べられる余地がある。だけれど、いくさは血と鉄のにおいだけを存分に混ぜ込むんです、それを大地にばらまいて、後には人の死だけが豊穣へと導かれる。そんないくさで、私の主家は滅びたのです。
「それで、ちょっと珍しいことがあって」
と、『赤毛』は言葉を吟味している様子だった。
「その家の祖先はね、頭の付け根にけがをした雌の蛟(みずち)を助けたら、お礼として、その蛟の父親である龍から富貴を賜ったというんです。何でけがをしたのかは、今となっては誰にも判りません。子供がいたずら半分に石を投げつけたのかもしれないし、飢えた鳥のくちばしに突っつかれて命からがら逃げるところだったのかもしれない。そんなことがあったのは、私が仕えていた主人の八代か九代前のことだそうで。一度、子供たちから見せられたことがありますよ。その祖先が助けたという、“土をもう少しだけ鮮やかにしたような”赤い鱗を持った蛟の絵を。おかしいですよね。蛇だとか蛟って、普通は水場なんかに棲むものですよ。なのに、蛟が祖先に出会ったのは、春に花の咲く野の中でっていうんですから。きっと、きれいな花に見とれるあまり、間近に危険が迫っていることにも気がつけなかったんでしょうね」
彼女が身ぶり手ぶりを交えて語るたび、咲夜の目前でその赤い髪の毛が揺れた。窓から飛び込んでくる夕に近い陽の光が、大げさに身体を動かす『赤毛』の頬や手を照らしている。頬や耳を覆う彼女の髪は、少しずつ輝きの度を増していくように見えた。冷たく沈み込んだ輝き。だが同時に、この世の不浄の一切を厭い、花の下でなら無残に死んでも良いと願うような、清らかなおぞましさ。
「だけれど、天地(あめつち)の力にも決して思い通りにならないことがあったのかもしれません。さっきも言った通り、私の仕えていた家はいくさで滅ぼされてしまいました。彼の地で何年も続いた醜いくさによって。雨が降らなかったのです。川も湖も枯れ果てて、作物はいっさいの影さえ失ってしまいました。世情、人心は腐敗と糜爛(びらん)を極め、互いの財を奪い合うごときいくさが起きた。そのうちに敬天の志さえも失われ、当の蛟も忘れ去られてしまった」
「それは――」
ひどく、救われない話なのですね。
『赤毛』に顔を向けて、言葉なく続きを促したつもりだった。
彼女の境遇に、自分が知っている限りのあわれみが通じるだろうか。
それを為すことは、もしかして、傲慢で、尊大な振る舞いではないのだろうか。
船内の喧騒もやがて人波の消えて行くと同時に静まり始め、沈黙は孤独の謂いではなく本物の沈鬱さに変化する兆しを見せていた。軋りもしない床板の接ぎ目に義足の先端を引っかけ引っかけ、転ばないように気をつけながら、傷痍軍人が部屋を出て行った。彼の義足が、誰かがこぼしたのだろう金平糖の一粒を踏み潰した。鮮やかな色を失った土まみれの砂糖からは、なんのにおいも漂ってはこなかった。後には、『赤毛』と咲夜と、咲夜の道連れだけが残された。
「ただ――ほんの少しだけ、この話のあまりにもくだらない続きを語ることが許されるのなら、」
眉を潜めて、語り部は結末を口にすることを躊躇しているようだった。ちらと彼女の眼が咲夜を見た。阿諛(あゆ)のような眼。そんなものは要らないと、拒絶の心で視線を落とす。
「私はね、生き残った墓標のようなものなのです。来たるべき滅びに対する無言の抵抗です。“自らの意志によって”、私は止まることのないいくさにも、人民の苦しみにも背を向けて逃げ出してきた。しかし、ただ漫然と死ぬということに対して刃突きつける最後の反逆です。墓標さえ残っているのなら、自分がかつてそこに居たのだということを、誰かに示せる」
ぼ――おおうっ……! と、いっとう大きな汽笛が響き渡り、汽船は少しずつ揺れを静めていった。ようやく、目的の港に着いたらしかった。窓の外には下船する客を出迎える人々、次の乗船の順番待ちをする人々。人波とも言えないほどのまばらな影を、空を覆う煤煙が守ろうとしているかのように咲夜には見えた。「そういうことって、あるんでしょうか」「そういうこともあるものです」「そうでしょうか」「生きることを続けていると、色々ね」。『赤毛』は背伸びをしつつ立ち上がった。促されるようにして咲夜も立ち上がり、道連れの肩をとんとん、と叩いてやる。金髪の少女は未だ寝ぼけまなこでいて、何度か大きく眼をしばたたいてから、ようやくゆっくりと立ち上がった。未だ、彼女は咲夜の外套の端を強く握りしめたままだった。「不思議な話」「ええ。不思議です。でも、それだけです」。髭が在るわけでもないのに、何度も何度も手のひらで顎を撫でる『赤毛』。芝居なんかでよく見る、大根役者みたいだった。「出来の悪い小説みたいでしょう」と、彼女は言った。
「そうとも思いませんけれど」
「けれど?」
「直ぐさま信じる気にもなれません」
「ははあ。……どこにも行く当てがないのは本当ですよ。仕えていた家がなくなってしまったのも本当です。後は、まあ。この場で真偽のあれこれに始末をつけるには瑣末に過ぎる」
さあ、そろそろ船から降りないと。私たちだけ取り残されても知りませんよ。
さっきまでのべったりとした語り口が嘘のように、彼女はつかつか歩き始めた。少しの間だけ案山子みたいにぼうっと突っ立っていた咲夜だったが、未だ足取りのおぼつかない道連れの手を引きながら、こちらに背を向ける『赤毛』の後を追う。
やはりどうしても、彼女の言葉を真っ正直に信じてみる気分にはなれなかった。
船旅の憂鬱さが、他人(ひと)の話を疑いなく容れてしまうだけの好奇心を萎えさせてしまったのだろうか。それとも、道程の半分も一緒に居なかった相手が語る、作り話めいた挿話に引きずり込まれてしまうことは、咲夜という人間の矜持が許さないということだろうか。
ひどく子供じみた思いだとは思った。
時計の針がこきこきと規則正しく動くほど、咲夜は冷徹な性質(たち)でもない。
予定や時間の算段はK港で足止めを食らったときから多少は狂っている。そのいら立ちのせいにしてしまえば、今は何をしても許されるような気がした。その錯覚に拠りかかっても、誰に咎められないと。子供じみた遊びをするなら、どこまでも幼くあるべきだったからだ。
「待ってください」
「ん、何か」
「私、言葉を教えられる人が居るって言いました」
「そんな話をしましたね」
「もし、今後にどこかでお会いするようなことがあったとき、あなたのお名前を知らないでは不便でしょう。例の、先生役の女性に都合をつけることも面倒になるかもしれない」
屁理屈にもほどがあると頭では解っていても、喉の奥からは驚くほどすらすらと口説き文句が吐き出された。『赤毛』は足を止め、船室のドアに手をかけていた。横目で咲夜の顔を見つめ、興味深げに唇の端を吊り上げている。彼女が後ろを振り返るために首を動かしたとき、帽子から溢れ、背中に垂れた赤い髪の毛の間に陽が差し込んだ。ほんのわずかに垣間見える『赤毛』の首の付け根には、何かに叩きつけられたような大きな傷跡が、縦に真っ直ぐ走っていた。
「だから、名前を教えろって?」
「そうです。あなたが嘘か本当か判らない話をするのなら、私も嘘か本当か判らない誘いを提案してみます」
すでに大勢の船客たちが船を降り、港を歩き始めていた。船中の活気をそのまま移動させたかのような騒ぎが地上には現れているだろう。そのいずれも、この船室の中までは届かない。在るのはただざらつきによく似た焦りの気持ちだけである。それから、ようやく眠りから醒めたは良いが、事態を飲み込めずに咲夜と『赤毛』の両方を訝る金髪の少女だけ。
「私の名前……」
泳ぎっぱなしの視線が、咲夜の履いた革靴に落ちた。
ここ数日で刻まれた傷と埃のせいで、街の雑踏を這いずるにはうってつけの具合に見える。踊り始めでもするように靴の真裏で床を叩くと、 その音に紛れるようにして『赤毛』がつぶやく幾つかの言葉が聞こえてきた気がした。そのいずれもが、たっぷりの記憶と思い出で形づくられた、古ぼけた人の名前を呼ぶような響きを持っていた。「解りました」と、彼女は言った。咲夜の方へと向き直り、顔を合わせたときと同じ微笑のまま。
汽船に突き立つ煙突から噴き出す煙が、幾らか烈しくなり始めたらしい風に沈められながら、窓のあるところまで押し遣られてきた。白く歪む都市の情景は何の馴染みも愛着もない、あらゆる他人事の精巧な集積でしかない。その空間にまた戻って行く前、この二等船室の退屈さをばらばらにするためには、彼女の言葉が必要だった。
一回しか言いませんよ。私の名前はね。
もったいぶった様子で『赤毛』は息を吸う。
微笑する彼女にどんな表情をすれば良いのだろう。
道連れの少女が弱々しく咲夜の片手に指を這わせ、優しくその手を握り返した。
『彼女』の唇がゆっくりと動いた。蛇の口腔を覗き込んでいるような、真っ赤な色が見えた気がした。だが、それを耳にしてしまえば、今度は日々の退屈に組み込まれていく準備が整うのだということから、咲夜は眼を背けてしまいたかった。
名前を教えてから、『赤毛』は人波に融け込むようにして船から降りていった。
「咲夜は、いつも変な人ばかり好きになる…………」
寝ぼけから解かれた一瞬の笑みを、咲夜は見逃さない。
横目で自分を見つめる金髪の少女の顔は、軽蔑的で、嘲笑的な愉しさを持っていた。
理解できないものを野卑だと罵ることさえしなくても、彼女は自分の魂の中で何度でも相手を殺してしまうことができるはずだった。それを、彼女はまどろみの中で幾度も幾度も行ってきたのかもしれない。何も難しいことはない。ほんの数語に込めて、彼女は猜疑を向けることができる。
「変な人?」
「さっきの赤毛」
「眼を醒ましてらしたので」
「夢を見てたみたいなものだよ。湿った土のにおいがしたんだ。よく春の雨に濡れた、あたたかくて湿った土のにおいが」
間延びした声の中には、どこか『戦争』の気配があった。
どこにもない戦争、しかし、確かにどこにでもある戦争の。
戦いは怪物だ。ロマンティシズムを消費して肥え太る。
今の“それ”に、古いものは残っていない。
かつて栄えていたような、不用意な美意識の産物は。
消費され、濫費され、いずれまともな形を保てなくなって消えてなくなる幻想に、自分の魂まで従わせる義理は何もなかった。それなのに、行き場を見出せないまま雇われ仕事をやっているというのは、滅びるということに“逆らえない”幻想を、どこか遠くの地平に押し遣ろうとする世界に対して、駄々っ子のような反抗をしたいと思ったからなのかもしれなかった。
滅びてしまうという現実に自らの意志で“逆らわないで”いるということは、それだけで、世界に対するちっぽけな戦争だ。誰ひとりとして戦うことができなくなりつつある死にかけの幻想たちに代わって、剣も銃弾も使わない、血も涙も流れない、たったひとりで仕掛ける、尊大で、傲慢で、無垢な、エゴイズムに満ちた、愚かしい、戦争だ。世界の有りように向けて自分の魂を削り落とすことを心のどこかで必死に拒絶する、子供じみた泣きごとでしかないのだ。
この戦いは自分だけのものである。
誰の力も借りず、誰の吐息も自らの聖域には近づかせない。
勝手に始め、勝手に死んでいく。
いつの間にか、道連れの少女は笑っていた。
釣られて、咲夜もまた笑ってしまっていた。
普段、他人に見せているような、不快を生じさせないためのつくり笑いでも何でもなかった。心の奥底から絞り出した自嘲であり、たったひとりだけ見つけ出すことのできた自分の仲間かもしれない相手に対して、精一杯の繕いを果たすための笑みだった。それでも咲夜は愉しかった。今ここにいるときだけは、“ここではない、どこか”にようやく到達してしまったような気持ちになれたからだった。
しかし、喩えようもなく愚かなことでもある。
成長という事実は、あらかじめ敗北を予定づけられた戦争でしかない。
他に誰も居なくなった汽船からようやく降り、咲夜と少女は煤煙に押し包まれた港町をぶらぶらと歩いた。うら寂しい灰色の街を行き過ぎて 駅まで辿り着き、切符を買い、この国の真ん中に通じているらしい列車に乗り込んだ。ボックス型の座席で向かい合って座りながら、やがてふたりは窓から見える港湾の景色をずっと眺めていた。
たぶんふたりとも、こんな旅にはとっくに飽きていたのだと思う。さっさと死んでしまいたかったのだと思う。生を完遂するには、より良い末期(まつご)の褥(しとね)を探すより他にない。それが、終わりかけの幻想に課せられた使命のひとつだった。
ふたりはひとまず帰るだろう。今日のところの宿を探さなければならない。雇い主や食客の読書家が、今ごろどんな顔をして過ごしているかを空想しながら眠るだろう。それに、あの赤毛の女が、自分たちと本当により良い『死に方』を模索してくれるということを、期待せずにはいられないのだ。
列車の窓から見えた工場のパイプや何かは、巨大な化物の――すべての古い時代を飲み込む巨大な化け物の――はらわたが漏れ出ているようだった。
夕闇に遠く見えるひと群れの煙突の影を見て、少女は、
「咲夜、あれって何に見える」と訊く。
彼女は、「あれは、墓標ですよ」と答えることしかできなかった。
「他の誰でもない、“私たち”のための墓標」
陸(おか)は影さえ未だはっきりとはしなかった。
空に尾を引き、遠くきらめく工場の煤煙が、物語の挿絵に描かれたバベルの塔の残骸とそっくりに見える。二等船室はただ広く、おまけに少し埃っぽかった。そこに詰め込まれた二、三十人ほどの船客の誰とも話さず、人の熱が澱(おり)みたいに沈み込む空気を吸いながら到着までの時間を過ごすことになった境遇からすれば、空想することさえも、無為であるよりははるかに実のある暇つぶしだった。
頑丈そうだと思って選んだ男物の外套は、少し丈が長すぎる。
そのポケットに放り込んだ煙草とマッチは未だ余裕があるはずだったのだが、自分の半身に寄りかかる道連れの少女が、昼食を摂ってからすっかり眠り込んでしまっている以上、甲板なり喫煙室なりへ灰皿を探しに行く気にもなれない。
元より彼女のお守(も)り役が仕事の半分、未だ労働の時間が過ぎ去っていないと諦めるよりほかはない。頭から足まですっぽりと覆い隠すような長衣で身を包みながら気持ち良さそうに寝息を立てる少女の金髪を、彼女は力なく撫でた。
何となしのいら立ちに小さく舌を打つと、真向かいの長椅子に座る紳士にじろりと睨まれたような気がした。顔を隠すつもりで、出立の前に買った鳥打帽を深々と被り直した。うなじから、隠しきれない銀色の髪の毛が幾房がこぼれ落ちる。「毛唐……?」という訝りの言葉が、どこからともなく聞こえてきた。さっき立ち寄った船内の食堂では、そんなことは言われなかったのだが。誰もみな腹を減らしていたせいか。
ぼう――ッ、という汽笛だか蒸気の吹き出す音だか解らない唸り声を上げて、汽船は何度目かがたがたと揺れ出した。スピードを上げてるんだな、と、坊主頭の男の子がはしゃぎ出す。折れた大砲を糊づけで補修した軍艦のおもちゃを持ち上げ、空中で泳がせながら。おれの父ちゃんは船員なんだぜ。だから解るんだ、教えてもらったから! 彼は自慢げに、窓外の景色を覗き込む友達に語る。ばかを言うなよ。こんなぼろ船。今に沈んじまうのさ。柱に寄りかかる何人かの労働者らしい男たちが、声を潜めてぎゃあぎゃあと冗談を言った。男の子はおもちゃに夢中で、それには一向に気づかなかった。
やかましい人たちだ。
彼女は唇を噛む。
真の孤独は群衆の中にこそ在るというけれど、至言だったということね。
じゃぷじゃぷと、船体が波を切り砕く音が恋しい。
未だ少し、窓の外の景色が陸に繋がるまでは時間がかかるだろう。
船室の端でこきこきと針を鳴らす勤勉な時計に拠れば、現在の時刻は三時十二分。
本来の到着時刻は三時ちょうど。
ひょっとしたら、せっかちな船員が時計の針を動かし過ぎたのかもしれない。
そう思って自分の懐中時計を確認してみたけれど、一分も違えることなしに三時十二分である事実は揺るがなかった。時計の蓋をかきりと閉じてズボンのポケットに押し込むと、皺くちゃになった汽船の乗船券に指の触れる感触がした。そのわずかな経過を潜り、壁の時計は三時十三分を見せている。K港の船着き場で見た『二号汽船の炉が故障したため、本日の運航時刻は通常より遅れます。たいへん申し訳ございません』という貼り紙が、ひたすら恨めしい。本当なら発着時刻表の通り、あと十三分早くS港に戻ってくる予定だった。
雇い主のもとに身を寄せるあの読書家の食客のように、自分にも本でも読む習慣があれば良かったのだけど。大衆向けの娯楽小説は頭が悪くなるからとばかにして、同時に真面目くさった文学やら学問からも生活の気忙しさを理由にして眼を背けてきた報いが、汽船に揺られるこの退屈か。もっとも、一番に料金の安いこの船室で、本を読んでいるのは黒い詰襟に金色の釦(ボタン)をつけた若い学生だけだった。瓶の底のように分厚い眼鏡をかけた、たぶん、貧乏学生だろう。
鞄から突き出した観光案内のパンフレットを日に焼けた書物に挿んで栞の代わりにし、彼は部屋から出て行った。食事のつもりなら、この船の食堂のカツレツだけはやめておいた方が良いと、心の中だけで忠告する。衣ばかり分厚くて、肉なんてまともに入ってやしない。
何度か、船室のドアが軋んだ。
人の出入りは多いともいえず、少ないともいえなかった。声もない息づかいのみでしばらく沈黙が続く中、こつこつと、床を叩く音だけが部屋の中をぐるぐる廻っていた。誰かが新しく入ってきたのだろう。寝たふりをしながら“そいつ”の足先に眼を遣ると、少し迷うような素振りを見せた後、
「隣、よろしい?」
と、話しかけてきた。
「…………どうぞ」
「あれ」
「どうしました」
「女の子ですか。男の子かと思った。服装もそうだし、髪の毛も、何だか少し短いから」
「船旅には、邪魔になるかと思って。思いきって鋏を入れてもらったのです」
「そうなんですか。きれいな銀色の髪。よくお似合いで」
「ありがとう」
失礼しますよ。語気に幾らかの笑みを滲ませながら、“そいつ”は彼女の左側に身体を滑り込ませてきた。幸い、そちらには誰も居なかったので、他人に咎められることはなかった。かなり背の高い人だ。窄(すぼ)められた声からは、女だということが解った。少し、支那語の発音に近い訛りで話している。一見すると未だ二十二、三にも手の届かないくらい若く見えるが、眼を伏せて持ち物を確認する様子は拭い去れない憂いを帯びていて、まるで何十年、何百年にも渡る老いを食んでいる様子とも思える。
底の擦り切れかけた袋に入った大きな荷物を膝の上に寄せ、女は、微笑を返してきた。礼儀として、同じような微笑を返す。自分と同じように、鳥打帽によく似た形の帽子を被っていた。帽子の内側から垂れた長い髪は、“土をもう少しだけ鮮やかにしたような”赤毛だった。
突然、船が大きく揺れた。
波のかたまりにでも舳先(へさき)がぶつかったのだろうか。
隣に眠っていた道連れの少女が「ううん」と声を発して目蓋を開き、何度か辺りを見回した。前髪が海面から窓に飛び込む鈍い光に透かれて揺れた。頭から外れかけた長衣の端を直してやると、少女は「咲夜、未だ着かないの?」と言った。「もう直ぐですよ、妹さま」「そっか」。大きなあくびをして、少女はまた眠ってしまう。
「妹さま……妹さん? あなたの?」
「ええ、まあ――姪っ子、ですね。妹みたいなものですけど」
とっさに指先で頬を掻いて、眼を逸らした。
いけないと焦り、額を小さな汗が走った。おまえ、嘘を吐くときには頬を掻く癖があるんだ。雇い主の少女から退屈げな様子で指摘されたことを思い出す。初対面の相手にそんなことまでが解るはずもなかったが、それでも『赤毛』は何かを訝しんでこちらをじいと見つめていた。銀髪と金髪を交互に見比べ、何か得心でもいったように大きくうなずいて見せ、それから「なるほど」とつぶやいた。
「可愛い女の子」
「手のかかる子、ですよ。お姉ちゃんとけんかしてばかり」
「お風邪でも召されているんです? その子の服、頭まですっぽり覆ってますが」
「その、身体が弱くて。普段は部屋の中で過ごしているものですから、急に日の光を浴びると病気になるかと。療養というのでもありませんが、今日はちょっとした、旅行帰りのようなものなんです」
そうなんですか。お大事に。
『赤毛』は膝の上で器用に荷物の位置を保ったまま、帽子を被り直した。ちらと横目で彼女の顔を見ると、耳から首筋を通り、肩まで繋がるすらりと通った薄い肉づきがうねっていた。髪の毛を手早く梳く指先は、人の形を帯びた刃物とでも言えそうだった。服装は、ぼろ布を繋ぎ合わせてどうにか衣服の態(てい)を成しているかのような粗末さだったけれど、布越しに気配を感じる肩や脚の肉は、およそ骨に対して、それを取り巻く一切の無駄を排して研ぎ澄まされた強固さを思わせた。まるで、普通なら必ず生じるはずの、身体の中の『遊び』とも言うべき部分を完全に削ぎ落してしまったようなしなやかさを持つ、奇妙にうつくしい肢体をしている。
「この国の言葉が、お上手ですね」
「ありがとう。でも話すのと読むのは得意なんですが、書く方は、どうも苦手なんですよ」
時計の針はそろそろ三時半を指そうかというところだった。そわそわと落ち着きを失した空気が船室に満ち始めた。傷痍軍人らしい年嵩の男が、義足で床をこつこつと叩き、そのリズムと合わせるようにして口髭をしきりに撫でていた。
「そう? なら、私の知り合いをご紹介しましょうか。いつも本ばかり読んでる偏屈な学者気質の女性ですけれど、たいていの言葉なら話すのも読むのも書くのも得意なんですよ」
「あ、は、は。嬉しいですね。ぜひに。もしそうなったら紹介状でも欲しいところですね。あなたに書いていただいて、咲夜さん」
何の衒いを発するでもなく、ごく自然に『赤毛』は名前を呼ぶ。驚いて目を丸くしていると、何かまずいことでもしてしまったかというように困った顔を返される。動揺を取り繕うようにして冗談めかした笑い顔をつくってみたつもりだったが、どうも頬の肉が引きつってしまったような気配が拭いきれなかった。
「……どうして名前、知ってるんです」
「さっき、その子がそう呼んでいたものですから」
「何だ、そんなこと。びっくりした。ずいぶんと、耳が良いのですね」
「ついでに眼にも少しは自信がありますよ。鼻の方は、昔の仕事で少しばかになっちゃってますけどね」
「お仕事のせいでですか? 何のお仕事をされてきたのです? 私はある方に雇われて、女中の真似ごとを」
「ほう。あなたのようにお綺麗でいながら、働く女性か。進歩的、というものでしょうか」
「そんなに立派なものでもありませんわ。昔、スペインで内戦があったでしょう。父がその戦いに義勇兵として参加して死んだのです、彼は、ファシスト嫌いだったから。母も、程なくして心を病むままに逝ってしまって。それから直ぐに、隣国が森を越えて攻めてきて、住んでいた街から逃げ出さなければなりませんでした。で、捨て犬みたいな生活をしていたところを、拾っていただいたというわけ」
「もしかして、男の子とふたりで十字架を集めたりしていたことが、ありませんでしたか」
「可笑しい。何ですか、それ」
彼女が――咲夜がつくっていたのは礼儀としての笑みだったが、それを見る『赤毛』の顔には、人を疑うことをまるっきり知らないような、心底からの人懐っこさが滲んでいるような気がした。誰かに笑みを見せることに関してだけは常に誠実であるかのような、そんな感慨を抱かせる、優しい顔をした人だと思った。私はですね、と、『赤毛』は言った。少しずつ、記憶の糸口をたどっていくように、ゆっくりとした口ぶりで。
「鉱山で時代遅れの苦力(クーリー)稼業を二年。街角で“立ちんぼ”を半年。工場で爆弾に火薬を詰めていたことも――その火薬はひどいにおいでして、そのせいで鼻がおかしくなってしまったと思うのです――ありましたっけ。元々はね、旧い家に仕えて門番のような仕事をしてたんです、長い間。とは言っても門番だけじゃなく、畑を守ったり、子供たちと一緒に居たり。食事のお世話をしたり。産婆さんを手伝ったりも。ああ、それと。咲夜さんのような……メイド、でしたっけ。あれも少しだけ経験が。そっちは、最初の給金をもらって直ぐに逃げ出してしまいましたが」
「“元々は”?」
「ええ、元々は。今はもう、その家はないのですが、」
ふたりの会話は、束の間、船内に走った歓声で掻き消された。
おお――っ! と、にわかにざわついて二等船室は騒がしくなっていく。何人かの船客が窓に張りつき、遠くの景色に眼を凝らしていた。『赤毛』と咲夜は、彼らを真似るようにして窓の外を見遣った。
滑り落ち始めた陽が水平線を赤と黒の斑に染め、工場の煙を、いよいよ水を透いた鱗であるかのように絶えず光らせていた。ようやく、海の景色が陸に繋がったのだ。広く両腕で抱き止めるように船を集める港が見える。煙の根元に在る無数の工場、天を突く煙突の群れ。長い幻想の代替としてたまゆらに栄えることを運命づけられた新しい神さまの模倣。その象徴たる現代の都市。巡洋艦が汽船から遠くを通りがかるのが見え、興奮した人たちが敬礼したり、おおい! と呼びかけたりしていた。
あれこそわが国の誉れ、数か月前に就役したばかりの最新型だと、誇らしげな会話が交わされた。腕を振り上げて勇ましい唄を吟じる老人も居た。K港で足止めされたいら立ちを吹き飛ばすように人々が湧き立つさなか、船員が部屋に入り、抑揚のない疲れた声で告げた。
「もう直ぐS港に到着しますので、下船の準備をお願いいたします」
妹さま、そろそろ到着だそうですよ。咲夜は道連れの肩を揺らし、声をかけてやった。だらしなく開いた唇からこぼれかけた少女のよだれを指先ですくい取り、ポケットの中に押し込んだ乗船券の端で拭いた。『赤毛』は、それを言葉なく、じいと見守っているだけだった。
「愉しいのかそうでないのか。よく解らない道連れだったと思いますが、おつき合いに感謝しますよ。咲夜さん」
荷物をまとめて船内をうろつき始める他の船客たち。それぞれ緩慢ながらも我先にと二等船室から出て行き、工場の煙で灰色に輝く海の空気を吸い込み始める。
「このまま別れたら、何だかすっきりしませんわ」
「……お気遣いを受けても返す当てがありませんよ」
「話の続きを聞きたいものです。せめて最後まで」
「おや。思ったよりも感傷的でない人ですね」
『赤毛』は、自らが今後どこに行って、どうやって過ごすつもりなのかを語ることはなかった。ただ、咲夜に求められるまま、やはり最初のようにゆっくりと、たどたどしい口調で話を続けるのだった。まるで老婆が失われた過去の思い出の断片を繋ぎ合わせて、相手だけでなく自分自身に向けて物語をつくり出すように。
いくさで滅びたのですと『赤毛』は言った。
大きな鍋の底に、豆も肉も魚も、ありとあらゆるものをごちゃ混ぜにしてぐつぐつ煮たかのように世の中が乱れたいくさでした。でも、豆や肉や魚なら、後で美味しく食べられる余地がある。だけれど、いくさは血と鉄のにおいだけを存分に混ぜ込むんです、それを大地にばらまいて、後には人の死だけが豊穣へと導かれる。そんないくさで、私の主家は滅びたのです。
「それで、ちょっと珍しいことがあって」
と、『赤毛』は言葉を吟味している様子だった。
「その家の祖先はね、頭の付け根にけがをした雌の蛟(みずち)を助けたら、お礼として、その蛟の父親である龍から富貴を賜ったというんです。何でけがをしたのかは、今となっては誰にも判りません。子供がいたずら半分に石を投げつけたのかもしれないし、飢えた鳥のくちばしに突っつかれて命からがら逃げるところだったのかもしれない。そんなことがあったのは、私が仕えていた主人の八代か九代前のことだそうで。一度、子供たちから見せられたことがありますよ。その祖先が助けたという、“土をもう少しだけ鮮やかにしたような”赤い鱗を持った蛟の絵を。おかしいですよね。蛇だとか蛟って、普通は水場なんかに棲むものですよ。なのに、蛟が祖先に出会ったのは、春に花の咲く野の中でっていうんですから。きっと、きれいな花に見とれるあまり、間近に危険が迫っていることにも気がつけなかったんでしょうね」
彼女が身ぶり手ぶりを交えて語るたび、咲夜の目前でその赤い髪の毛が揺れた。窓から飛び込んでくる夕に近い陽の光が、大げさに身体を動かす『赤毛』の頬や手を照らしている。頬や耳を覆う彼女の髪は、少しずつ輝きの度を増していくように見えた。冷たく沈み込んだ輝き。だが同時に、この世の不浄の一切を厭い、花の下でなら無残に死んでも良いと願うような、清らかなおぞましさ。
「だけれど、天地(あめつち)の力にも決して思い通りにならないことがあったのかもしれません。さっきも言った通り、私の仕えていた家はいくさで滅ぼされてしまいました。彼の地で何年も続いた醜いくさによって。雨が降らなかったのです。川も湖も枯れ果てて、作物はいっさいの影さえ失ってしまいました。世情、人心は腐敗と糜爛(びらん)を極め、互いの財を奪い合うごときいくさが起きた。そのうちに敬天の志さえも失われ、当の蛟も忘れ去られてしまった」
「それは――」
ひどく、救われない話なのですね。
『赤毛』に顔を向けて、言葉なく続きを促したつもりだった。
彼女の境遇に、自分が知っている限りのあわれみが通じるだろうか。
それを為すことは、もしかして、傲慢で、尊大な振る舞いではないのだろうか。
船内の喧騒もやがて人波の消えて行くと同時に静まり始め、沈黙は孤独の謂いではなく本物の沈鬱さに変化する兆しを見せていた。軋りもしない床板の接ぎ目に義足の先端を引っかけ引っかけ、転ばないように気をつけながら、傷痍軍人が部屋を出て行った。彼の義足が、誰かがこぼしたのだろう金平糖の一粒を踏み潰した。鮮やかな色を失った土まみれの砂糖からは、なんのにおいも漂ってはこなかった。後には、『赤毛』と咲夜と、咲夜の道連れだけが残された。
「ただ――ほんの少しだけ、この話のあまりにもくだらない続きを語ることが許されるのなら、」
眉を潜めて、語り部は結末を口にすることを躊躇しているようだった。ちらと彼女の眼が咲夜を見た。阿諛(あゆ)のような眼。そんなものは要らないと、拒絶の心で視線を落とす。
「私はね、生き残った墓標のようなものなのです。来たるべき滅びに対する無言の抵抗です。“自らの意志によって”、私は止まることのないいくさにも、人民の苦しみにも背を向けて逃げ出してきた。しかし、ただ漫然と死ぬということに対して刃突きつける最後の反逆です。墓標さえ残っているのなら、自分がかつてそこに居たのだということを、誰かに示せる」
ぼ――おおうっ……! と、いっとう大きな汽笛が響き渡り、汽船は少しずつ揺れを静めていった。ようやく、目的の港に着いたらしかった。窓の外には下船する客を出迎える人々、次の乗船の順番待ちをする人々。人波とも言えないほどのまばらな影を、空を覆う煤煙が守ろうとしているかのように咲夜には見えた。「そういうことって、あるんでしょうか」「そういうこともあるものです」「そうでしょうか」「生きることを続けていると、色々ね」。『赤毛』は背伸びをしつつ立ち上がった。促されるようにして咲夜も立ち上がり、道連れの肩をとんとん、と叩いてやる。金髪の少女は未だ寝ぼけまなこでいて、何度か大きく眼をしばたたいてから、ようやくゆっくりと立ち上がった。未だ、彼女は咲夜の外套の端を強く握りしめたままだった。「不思議な話」「ええ。不思議です。でも、それだけです」。髭が在るわけでもないのに、何度も何度も手のひらで顎を撫でる『赤毛』。芝居なんかでよく見る、大根役者みたいだった。「出来の悪い小説みたいでしょう」と、彼女は言った。
「そうとも思いませんけれど」
「けれど?」
「直ぐさま信じる気にもなれません」
「ははあ。……どこにも行く当てがないのは本当ですよ。仕えていた家がなくなってしまったのも本当です。後は、まあ。この場で真偽のあれこれに始末をつけるには瑣末に過ぎる」
さあ、そろそろ船から降りないと。私たちだけ取り残されても知りませんよ。
さっきまでのべったりとした語り口が嘘のように、彼女はつかつか歩き始めた。少しの間だけ案山子みたいにぼうっと突っ立っていた咲夜だったが、未だ足取りのおぼつかない道連れの手を引きながら、こちらに背を向ける『赤毛』の後を追う。
やはりどうしても、彼女の言葉を真っ正直に信じてみる気分にはなれなかった。
船旅の憂鬱さが、他人(ひと)の話を疑いなく容れてしまうだけの好奇心を萎えさせてしまったのだろうか。それとも、道程の半分も一緒に居なかった相手が語る、作り話めいた挿話に引きずり込まれてしまうことは、咲夜という人間の矜持が許さないということだろうか。
ひどく子供じみた思いだとは思った。
時計の針がこきこきと規則正しく動くほど、咲夜は冷徹な性質(たち)でもない。
予定や時間の算段はK港で足止めを食らったときから多少は狂っている。そのいら立ちのせいにしてしまえば、今は何をしても許されるような気がした。その錯覚に拠りかかっても、誰に咎められないと。子供じみた遊びをするなら、どこまでも幼くあるべきだったからだ。
「待ってください」
「ん、何か」
「私、言葉を教えられる人が居るって言いました」
「そんな話をしましたね」
「もし、今後にどこかでお会いするようなことがあったとき、あなたのお名前を知らないでは不便でしょう。例の、先生役の女性に都合をつけることも面倒になるかもしれない」
屁理屈にもほどがあると頭では解っていても、喉の奥からは驚くほどすらすらと口説き文句が吐き出された。『赤毛』は足を止め、船室のドアに手をかけていた。横目で咲夜の顔を見つめ、興味深げに唇の端を吊り上げている。彼女が後ろを振り返るために首を動かしたとき、帽子から溢れ、背中に垂れた赤い髪の毛の間に陽が差し込んだ。ほんのわずかに垣間見える『赤毛』の首の付け根には、何かに叩きつけられたような大きな傷跡が、縦に真っ直ぐ走っていた。
「だから、名前を教えろって?」
「そうです。あなたが嘘か本当か判らない話をするのなら、私も嘘か本当か判らない誘いを提案してみます」
すでに大勢の船客たちが船を降り、港を歩き始めていた。船中の活気をそのまま移動させたかのような騒ぎが地上には現れているだろう。そのいずれも、この船室の中までは届かない。在るのはただざらつきによく似た焦りの気持ちだけである。それから、ようやく眠りから醒めたは良いが、事態を飲み込めずに咲夜と『赤毛』の両方を訝る金髪の少女だけ。
「私の名前……」
泳ぎっぱなしの視線が、咲夜の履いた革靴に落ちた。
ここ数日で刻まれた傷と埃のせいで、街の雑踏を這いずるにはうってつけの具合に見える。踊り始めでもするように靴の真裏で床を叩くと、 その音に紛れるようにして『赤毛』がつぶやく幾つかの言葉が聞こえてきた気がした。そのいずれもが、たっぷりの記憶と思い出で形づくられた、古ぼけた人の名前を呼ぶような響きを持っていた。「解りました」と、彼女は言った。咲夜の方へと向き直り、顔を合わせたときと同じ微笑のまま。
汽船に突き立つ煙突から噴き出す煙が、幾らか烈しくなり始めたらしい風に沈められながら、窓のあるところまで押し遣られてきた。白く歪む都市の情景は何の馴染みも愛着もない、あらゆる他人事の精巧な集積でしかない。その空間にまた戻って行く前、この二等船室の退屈さをばらばらにするためには、彼女の言葉が必要だった。
一回しか言いませんよ。私の名前はね。
もったいぶった様子で『赤毛』は息を吸う。
微笑する彼女にどんな表情をすれば良いのだろう。
道連れの少女が弱々しく咲夜の片手に指を這わせ、優しくその手を握り返した。
『彼女』の唇がゆっくりと動いた。蛇の口腔を覗き込んでいるような、真っ赤な色が見えた気がした。だが、それを耳にしてしまえば、今度は日々の退屈に組み込まれていく準備が整うのだということから、咲夜は眼を背けてしまいたかった。
名前を教えてから、『赤毛』は人波に融け込むようにして船から降りていった。
「咲夜は、いつも変な人ばかり好きになる…………」
寝ぼけから解かれた一瞬の笑みを、咲夜は見逃さない。
横目で自分を見つめる金髪の少女の顔は、軽蔑的で、嘲笑的な愉しさを持っていた。
理解できないものを野卑だと罵ることさえしなくても、彼女は自分の魂の中で何度でも相手を殺してしまうことができるはずだった。それを、彼女はまどろみの中で幾度も幾度も行ってきたのかもしれない。何も難しいことはない。ほんの数語に込めて、彼女は猜疑を向けることができる。
「変な人?」
「さっきの赤毛」
「眼を醒ましてらしたので」
「夢を見てたみたいなものだよ。湿った土のにおいがしたんだ。よく春の雨に濡れた、あたたかくて湿った土のにおいが」
間延びした声の中には、どこか『戦争』の気配があった。
どこにもない戦争、しかし、確かにどこにでもある戦争の。
戦いは怪物だ。ロマンティシズムを消費して肥え太る。
今の“それ”に、古いものは残っていない。
かつて栄えていたような、不用意な美意識の産物は。
消費され、濫費され、いずれまともな形を保てなくなって消えてなくなる幻想に、自分の魂まで従わせる義理は何もなかった。それなのに、行き場を見出せないまま雇われ仕事をやっているというのは、滅びるということに“逆らえない”幻想を、どこか遠くの地平に押し遣ろうとする世界に対して、駄々っ子のような反抗をしたいと思ったからなのかもしれなかった。
滅びてしまうという現実に自らの意志で“逆らわないで”いるということは、それだけで、世界に対するちっぽけな戦争だ。誰ひとりとして戦うことができなくなりつつある死にかけの幻想たちに代わって、剣も銃弾も使わない、血も涙も流れない、たったひとりで仕掛ける、尊大で、傲慢で、無垢な、エゴイズムに満ちた、愚かしい、戦争だ。世界の有りように向けて自分の魂を削り落とすことを心のどこかで必死に拒絶する、子供じみた泣きごとでしかないのだ。
この戦いは自分だけのものである。
誰の力も借りず、誰の吐息も自らの聖域には近づかせない。
勝手に始め、勝手に死んでいく。
いつの間にか、道連れの少女は笑っていた。
釣られて、咲夜もまた笑ってしまっていた。
普段、他人に見せているような、不快を生じさせないためのつくり笑いでも何でもなかった。心の奥底から絞り出した自嘲であり、たったひとりだけ見つけ出すことのできた自分の仲間かもしれない相手に対して、精一杯の繕いを果たすための笑みだった。それでも咲夜は愉しかった。今ここにいるときだけは、“ここではない、どこか”にようやく到達してしまったような気持ちになれたからだった。
しかし、喩えようもなく愚かなことでもある。
成長という事実は、あらかじめ敗北を予定づけられた戦争でしかない。
他に誰も居なくなった汽船からようやく降り、咲夜と少女は煤煙に押し包まれた港町をぶらぶらと歩いた。うら寂しい灰色の街を行き過ぎて 駅まで辿り着き、切符を買い、この国の真ん中に通じているらしい列車に乗り込んだ。ボックス型の座席で向かい合って座りながら、やがてふたりは窓から見える港湾の景色をずっと眺めていた。
たぶんふたりとも、こんな旅にはとっくに飽きていたのだと思う。さっさと死んでしまいたかったのだと思う。生を完遂するには、より良い末期(まつご)の褥(しとね)を探すより他にない。それが、終わりかけの幻想に課せられた使命のひとつだった。
ふたりはひとまず帰るだろう。今日のところの宿を探さなければならない。雇い主や食客の読書家が、今ごろどんな顔をして過ごしているかを空想しながら眠るだろう。それに、あの赤毛の女が、自分たちと本当により良い『死に方』を模索してくれるということを、期待せずにはいられないのだ。
列車の窓から見えた工場のパイプや何かは、巨大な化物の――すべての古い時代を飲み込む巨大な化け物の――はらわたが漏れ出ているようだった。
夕闇に遠く見えるひと群れの煙突の影を見て、少女は、
「咲夜、あれって何に見える」と訊く。
彼女は、「あれは、墓標ですよ」と答えることしかできなかった。
「他の誰でもない、“私たち”のための墓標」
咲夜さんの仕掛けている孤独な戦争というものは大小こそあれ誰でも抱えている。とはいえ今作においては幻想そのものを手に触れえる存在として描いているぶん、悲壮感が増しているようにも感じられます。
多くの場合スカーレット姉妹ありきで語られるため霞みがちな美鈴・咲夜個人の動機を、両者を同志とし心根の繋がりでもって物語った良作であると思います。
これから何かが始まりそうでありながら、未だ動き出しそうにない、港に漂着している船のようなお話、堪能させて頂きました。
アンジュと“みずち”の“墓標”との巡り合わせ。その過程を全て見たいと思うのは、贅沢でしょうかね。
なのにどうでしょう。今現在、赤毛の彼女の口から「立ちんぼ」という言葉が発せられた事実に、思考の大部分を奪われている自分がいます。
悲しい生き物です。
そりゃあ、言わぬが華って奴でしょうよ。まぁ、斯く言うあたしも心に留まってしかたありませんが、しかし、こんな赤毛さんだからこそ、仕方ないかなとも思えるんだ。
フランちゃんはいつ起きるのかだろうな。