2月14日、本日の日付である。
彼女――豊聡耳神子が人として生きていた頃は、何でもない日であったはずである。しかし――
「一体、何だというのですこれは……」
仙界の夢殿大祀廟で微睡んでいた神子は、あまりに騒がしい「欲」につられて目を覚ましてしまった。
寝ぼけ眼のまま辺りを見回した神子の目に飛び込んできたのは、いつぞやの異変の時のようにそこかしこに集まった神霊達。
「なぜ、またこれだけ大量の神霊が……」
事情を聞こうにも、生憎こういう時の事情通である青娥は出払っていたし、神子の部下である布都と屠自古は朝に弱い。丁度昨日は遅くまで仕事をして貰っていた訳で、彼女の性格からしてそれを起こして話を聞くというのは選択肢になかった。
「とりあえず……そうですね、人里で話を聞いてみましょうか……」
自慢の癖毛が寝癖で曲がっていることに顔を曇らせつつ、神子はそうひとりごちた。
◆
地上に出た神子が初めに認識したのは、憎き神社に集まる黒山の人だかりと、そこら一帯に漂う甘い香りだった。
「なんなのでしょう、この人だかりは」
辺りをきょろきょろと見回しながらも、その可愛らしい鼻は絶えずヒクヒクと動いている。
「あれ、アンタ確か……聖に楯突いてる仙人じゃ」
背後から掛けられた声に、思わずビクッと肩を跳ねさせる神子。
決して後ろめたい事をしに来た訳では無いのだが、如何せん神子の感覚では敵陣の中であるため、何分居心地が悪いと感じていた所だったのだ。
恐る恐る振り向くと、そこに立っていたのは真っ白な海兵服に身を包んだ船幽霊。神子は思わず顔を顰めた。なにせ、生と死の欲が欠如している幽霊亡霊の類には彼女の能力がきちんと通用しない。
「何、今度は何しに来たの?」
あからさまな懐疑の視線を向けられて、神子は慌てて事情を説明した。
「ば、ばれんたいん?」
聞きなれない単語に、思わずカタコトの日本語で聞き返してしまった。
「そう、バレンタイン。早苗が――あ、山の上の神社の巫女のことだけど、その子が広めてから習慣になってね。毎年の2月14日……詰まるところ今日なんだけど、その日に大切な人へ感謝の気持ちを込めて、チョコレートっていうお菓子を贈る習わしが外にはあるらしいの」
戸惑う神子に、その船幽霊はスラスラと説明をしてみせた。淀みないその口調から、この内容を既に何度も口にしている様子が伺える。
「な、なるほど……今日が君の言うその『ばれんたいん』とやらであることは分かりました。ですが……どうしてこんなに沢山の神霊が集まってきているのでしょうか?」
「し、知らないわよ、そんな事……アンタ達がまたなんか仕出かしたんじゃないの?」
戸惑いを隠せない様子で答える彼女を前に、神子自身も考え込んでしまう。
日ごろの感謝を、分かりやすく物という形で表す。仏教や道教を身近にしてきた神子には馴染みの薄い行事だが、理解できないことはない。
問題は、そんな行事になぜ神霊が集まってきているのかということだった。神霊とはいっても結局これは欲の結晶。しかも今日神子の周りに集まってきているのは、どちらかと言うと陰湿な欲の結晶である。妬み、羨み、嫉み、僻みなどなど……タールとまでは行かないでも墨汁くらいには例えていい代物だろう。
感謝の気持ちを表明するという趣旨の行事に、これほど似つかわしくない欲が集まる理由が彼女には分からなかった。
答えの出ない疑問に唸っていると、
「水蜜、皆様のチョコのラッピングをするのでリボンを――あら?」
本堂の中からパタパタと駆けてくる姿に、ギクッと神子が身を竦ませる。
誰あろう、この命蓮寺の管理者であり、そして神子の敵でもある聖白蓮その人である。そそくさと退散する構えの神子だったが、運悪くというべきかいち早くそれを見咎めた白蓮に捕まり、そして――
「きゃー! 神子ちゃんも来てくださったのですか! 私は嬉しいですよー!」
「ちょっ、やめなさい、離して! こら君はその抱きつくのをやめなさいって!」
「人も妖怪も皆分かり合えるものなのです。貴女ともこうして歩み寄れるようにと私は願っているのです」
「だから髪を梳くな撫でるな抱きつくなー!」
「ふふ、よしよし」
「た、たわむれはおわりじゃー!!」
これである。
神子が白蓮を苦手とする理由が、この白蓮のスキンシップにある。
神子自身は全く自覚がないのだが、小さな体躯の彼女は白蓮の庇護欲を掻き立てるらしい。背後から抱きすくめる形で捕獲され、こうなってしまうと体格差も相まって一人では逃げ出すことが不可能である。
「ひ、聖?」
「あぁ、水蜜は一輪の手伝いに行って下さい。包装用のリボンが足りないそうなので一緒に届けるようにお願いします。彼女は私に任せてくれて大丈夫ですよ」
白蓮の豹変に驚いた様子の船幽霊も、指示を出されるとさっさと居なくなってしまった。結局神子は白蓮の豊かな胸の中でもがくことしか出来ない。
「いい加減に離しなさい! 君は一体何がしたいのですか!」
「私はただ貴女と仲良くしたいだけですよ。……そうだ、せっかくだから神子ちゃんもお菓子作りを体験していったらいかが?」
話を聞かない白蓮の様子にウンザリしてきた神子だったが、この提案には思わず抵抗も鈍る。
「お、お菓子作りですか?」
「そう、今日はバレンタインですもの。神子ちゃんも大切な人にお菓子を贈ってみるっていうのはどうかしら?」
神子がわざわざ仙界から出てきたのは、異様に沢山集まった神霊の原因を探るためである。しかし、聞けば今日は『バレンタイン』なるイベントの日であるという。神霊が急増するような異変に、平時と違う行事というのは関わってくるのかもしれない。――神子の脳内会議で、この提案に乗ることが決定されるまでわずか2.14秒。決してお菓子に釣られたわけではない。
「そうですね、では私も参加させてもらいましょう」
出来る限りの仏頂面で応じたにも関わらず、それを聞く白蓮の表情はチョコレートよりも甘そうだった。
◆
「そうそう、乱暴にしてはいけません」
「……この固いものが本当に溶けるのですか?」
「ふふ、焦っちゃ駄目ですよ」
「だから君は撫でるのをやめなさい!」
白蓮に連れられて来たのは命蓮寺の境内。
特設会場と銘打たれたそこでは、既に多くの人間がお菓子作りに精を出していた。
「はい、コレで冷やし固めれば出来上がりよ」
「ありがとう雲のお姉ちゃん! ママ喜ぶかな?」
「大丈夫、きっと喜んでくれるよ」
子供に菓子作りを教える微笑ましい光景があったり、
「大ちゃん! これすっごく甘いよ!」
「チ、チルノちゃん駄目だよ、まだ食べちゃ」
「ふぉーはのはー?(そーなのかー?)」
「ルーミアだって食べてるのに?」
「こらー!!」
ちびっ子料理教室が開催されていたり、
「ふふ……幻想郷の皆さんは皆痩せ過ぎなんです……この機会にカロリーの怖さを知るべきなんです……」
「早苗は一体どうしたってのかしら」
「私らに外のお菓子を振舞ってくれるらしいぜ。愛されてるな、霊夢」
「愛って言うにはずいぶん黒いオーラが漂ってるけど?」
少々歪んだ気持ちを込める人間が居たり、
「姉さん姉さん!フィンガーチョコレート!」
「メルラン……自分の指にチョコつけたとして、どうやって食べるんだ?」
「はい、メル姉の指チョコ! 一舐め800円からね! 早い者勝ちだよ!」
「くっ、私の十八番を先にやられたウサ……こうなったらこっちは鈴仙のチョココーティング全身舐めで――」
「ほう、じゃあ貴女にはカラシのコーティングかしらね、てゐ?」
別方向に熱意を向けるフリーダムな者が居たり。
……少々おかしなところもあるが、概ね平和な様子であった。
「さて、後は冷やしてコレを固めれば完成ですね」
「そう……」
ふうっと息を吐き、三角巾を巻いた額の汗を拭う。
軽い気持ちで参加した神子だったが、想像以上に手間のかかる代物だったのは予想外であった。
「どうです神子ちゃん、バレンタインは」
唐突に、白蓮がそんな事を聞いてくる。
ちなみに彼女、神子がチョコを作っている間ずっとつきっきりで手ほどきをしてくれていた。
彼女の指南なくして神子のチョコレート完成は無かっただろう。
「そうですね……皆、楽しそうで……幸せそうです」
「ふふ、そうね。甘いお菓子は皆を笑顔にするから」
嬉しそうに微笑む白蓮とは対照的に、神子の顔は優れない。自分が参加してみて、その実態をこの目で確かめたからこそ余計に、あの陰気な「欲」の出現理由がわからないからだ。
難しい顔で唸る神子の横顔を、白蓮は微笑を浮かべながら眺めていた。
◆
「はい、神子ちゃんの作ったチョコ」
「あ、ありがとうございます」
結局、その日一日かけても神霊の増加原因はわからず仕舞いだった。
なんだかんだで、時間の経過と共に消えて行ってしまったので今更といえば今更なのだが。
来た当初は東の空に低く浮かんでいた太陽も、今や西の空に半身を輝かせるのみである。
「お礼を言うのは私の方ですよ。神子ちゃんが手伝ってくれたお陰で、片付けも日暮れ前に終わらせることが出来ました」
ニコニコと、淑やかな笑みを崩さない白蓮に、彼女は少々居心地の悪さを感じていた。
結局彼女はそそくさと命蓮寺を後にし、夢殿大祀廟へと帰ってきてしまった。
入り口を守るキョンシーを労って中へと入ると、折よく部下二人がこちらへやって来る所だった。
「神子様! 一体何処へいらしていたのですか!」
「太子様! 我に何も伝えず何処へ行ってらしたのじゃ!?」
勢い良く神子の前に躍り出ると、二人共口々に心配したことを訴える。
書き置きもしないで出ていったことは軽率だったかな――そんな風に考えつつ、神子はどうにかしてこの二人の舌鋒を封じようと思案する。
「おや……太子様、それは一体何じゃ?」
と、布都の一言でようやく神子は自身の腕に下げた袋の存在を思い出した。
「あぁ、コレですか。……そう、今日は君たちにコレを渡すためにここを空けていたのです」
神子の言葉に、二人の視線がその小さな袋へと集まる。
二人に一つずつ、小さな箱を手渡す神子。
「これは……一体?」
「えぇっと、今日は『ばれんたいん』という日でね。大切な人にお菓子を贈って感謝を表すという風習が外にはあるそうです。ささやかですが、君たちへ私からの感謝の気持ちです」
屠自古の疑問に、命蓮寺で得たうろ覚え知識を披露する。
と、包みを持ったまま固まっている屠自古を見、神子は得も言われぬ不安に駆られる。
「……? 屠自古、どうかし――」
「み、みみ神子様ぁ!!」
「ひゃいぅ!?」
突然の屠自古の抱擁に思わずたじろぐ神子。
「あ、これ屠自古!お主ばかりずるいではないか!」
布都も参戦し、感激した二人の団子から抜け出すまでに、それから数刻を要した。
「ふふ、あそこまで喜んでくれるとは思いませんでした」
自室に戻り、二人の喜びようを思い返して神子は静かに微笑んだ。
あの後、二人は貰った包みを大事そうに抱えて自室に戻ったのだった。軽い気持ちで始めた事だったが、ああも喜んでもらえると嬉しいのは当然である。
「ふふ、あんなに喜んでくれるなら来年も――ん?」
ひとりごちながら、持ち帰りに使った袋を弄っていると、中からもう一つ見慣れない包みが転がりでてきた。
「これは――」
――私からの気持ちです。受け取って頂ければ嬉しいです。 白蓮――
几帳面な字で添えられた一文を読み、神子はふっと顔を綻ばせた。
「君に感謝なんて、される謂れはありませんよ」
――そうだ、まだ神霊が増えた理由を突き止めていなかった。来年もまた命蓮寺に行って、今度こそ原因を突き止めて来よう。ついでにお菓子を作りながら。今度は彼女の分も――
そんな事を思って、神子はまた一人で笑った。
部屋を出ると、ちょうど青い羽衣が目の前にあった。
「あら太子様、本日はお帰りが遅かったですね。このような時間まで一体何処へ?」
いつもの事ながら掴み所のない笑顔で問いかけてくる。
「ちょっと神霊の様子がおかしかったので地上にね。そういう君は一体何処へ行っていたんです?朝から姿が見えなかったみたいですが」
「あらあら太子様ったら、知らないんですか?」
邪仙はうふふ、と妖艶に笑って
「今日はバレンタイン。意中の相手に自分の愛を伝える日ですのよ。私も皆さんに愛を振りまいて来ましたわ」
「えっ」
白蓮からの包みを抱えたまま、きっかり5秒の間フリーズした。
――後日、真っ赤になりながら命蓮寺の門を叩く神子の姿を天狗が目撃したとかしないとか。
ごちそうさまでした。ひじみこ流行れ!
もちろん次はホワイトデーのお返しとして聖が神子を貰いに(ry
威厳ありそうで弄られると取り乱す神子ちゃんも可愛い。
おかげでひじみこに目覚めたぞー!!