「明日はバレンタインデーね」
親友である夜の王が放った台詞に、パチュリー・ノーレッジは書物のページを捲る指を一瞬だけ止めた。
王様の紅い瞳はそれを見逃さず、楽しげに細められる。
「今年は、どんな贈物かしら?」
くつくつと喉を鳴らしながら意地悪気に言葉を続けた王様へと視線を向けることはせず、パチュリーは小さな溜息を吐いて。
その溜息に乗せるように、細い声で口にした。
「……塩化カルニチン、マレイン酸トリメブチン。準備は、出来てるわ」
数瞬、呆けた後。
大きな声で、王様は笑った。
**********
「咲夜は、パチュリーが嫌いなの?」
地下室。
天蓋付のベッドに腰掛け、足をブラブラと揺らしながら問い掛けたのは夜の王ご自慢の妹君。
ぶつけられた問いに目を丸くしたのは、可愛いちっぽけな人間で。
彼女の名前は、十六夜咲夜。
――蛇足ではあるが。
あえて言ったことはないものの、その名前を妹君は気に入っている。
愛する姉が与えた名前なのだから、当たり前のことだ。
呼べるうちにたくさん呼んでおこう、と考えているのだけど、そう考えるほどに、後何回呼べるのかなあ、とも思うから、少し寂しくなってしまう。
それだってやっぱり言ったことはないし、言うつもりもないのだけど。
「……嫌い、ですか? 私が、パチュリー様を?」
小首を傾げて。
心底不思議そうな顔で、咲夜は言う。
「ありえません。私がパチュリー様を嫌うなど。少なくとも、妹様がお嬢様を嫌うことがないのと同じ程度には」
そうなんだ。
それなら、絶対ないんだなあ、と。
素直に受け止めて、今度は妹君が首を傾げる。
「だったら、なんで?」
素朴な疑問。
それを、そのまま口にする。
「なんで、毎年パチュリーにあんな贈物するの?」
その言葉に。
咲夜は、数拍間を置いてから、ほんのり頬を朱に染めて。
可愛らしく微笑んで、答えた。
「愛ですよ」
やっぱり、わけがわからないけど。
でもまあ、もういいや、って、妹君はベッドに寝転んだ。
**********
――地下室から退室した後。
調理場で一人手を動かしながら、咲夜は過去に想いを馳せる。
咲夜が初めて食べたお菓子は、一口サイズのチョコレートだった。
館に拾われたばかりの幼い頃に、無表情でパチュリーが差し出したそれを、恐る恐る受け取って口にしたことを憶えている。
舌の上に広がる甘さに目を見開いて。
あまりの美味しさに息が止まった。
その様子を見て。
優しげに細められた目の温かさに、泣いたことも。
憶えている。
絶対に、忘れない。
だから。
チャンスだと、思ったのだ。
二月十四日。
バレンタインデー。
大切な人にチョコレートを贈る日なのだと、いつも笑顔の門番に聞いたから。
お返しがしたかった。
――でも。
咲夜は、悩んだ。
パチュリーの他にも、咲夜には大切な人達がいたからだ。
自分を拾って名前と居場所を与えてくれた夜の王様。
当時は危ないと言われ直接顔をあわせることは叶わなかったものの、扉越しにするなんでもない会話で笑ってくれる妹君。
もちろん、笑顔の門番だって。
みんなみんな、大切な人達だと思った。
だから、みんなにありがとうの気持ちを込めて、贈らなければ、と。
そう、思ったのだけど。
やっぱり。
――……胸が高鳴る特別な人にだけは、特別な物を贈りたいな、なんて。
幼いながらに、考えてしまったわけで。
鍋を掻き混ぜる手を止めて。
へにゃり、と、常なら浮べない気の抜けた笑みを浮べながら。
「今年も、特別、ですよ。……パチュリー様」
呟いて。
一人、耳まで赤く染めた。
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――最初の年は、大鍋にマグマの様に煮立ったチョコレートが波打っていた。
次の年は、岩のように固い大きな塊にリボンが巻かれていた。
……嫌われているのかと思って、泣きそうになった、のだけど。
「いつもありがとうございます、パチュリー様」
真っ直ぐ腕を伸ばして差し出してくる、可愛い彼女の顔は、真っ赤で。
よく見れば、震えているから。
「……ありがとう、咲夜」
やっぱり、今年もそう返して、手を伸ばす。
受け取れば、輝くような笑顔。
――塩化カルニチン、マレイン酸トリメブチン。
大丈夫。
胃薬の準備は、出来ている。
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「はいっ、お姉様!」
「え、なにこれ。チョコレートの入ったチューブ?」
「トッピングして食べてねっ」
「なにを……って、ふ、フランなんで脱いで……っ!?」
明らかに"日に焼けた肌"が足りない事に気付いた。
パチュ咲が俺へのサイレントセレナ!