一
無名の丘の東に、小さな湖があった。その湖は、新婚の男女が二人で行ってその水を飲めば、もしその二人が運命で結ばれた相手であったならば一生幸せになれるという逸話があった。
されど、二人結ばれた相手でなかったならば、不幸なことが起きるとも言われていた。だが、そこは不幸なことは切り捨てる人間の性質。
村の新婚の物はそこの水を飲みに行くのがもはや儀式のようなものとなっていた。
お互いに不幸になる可能性があろうとも、お互いを愛せるかを確認する意味もあるのだろう。
さて、今この深く青い湖の傍に二人の女性が立っている。
一人は、東風谷早苗であった。だが、その姿は以前の強気な彼女とは比べ物にならないほど衰弱していた。緑色の髪は輝きを失い、その目には昔のような現人神としての誇りのようなものはみられなかった。
そして、彼女は一人の赤ん坊を抱えていた。
その赤ん坊は、彼女とは異なる黒髪を携えていて、驚くべきことにその子供の左手には指が二本――親指と小指しかなかった。
もう一人は、水橋パルスィであった。彼女もまた、非常に衰弱したような姿をしており、綺麗に手入れされていた金色の髪は荒れ果て、彼女の特徴である緑眼はその翡翠のような輝きを失っていた。さらに、彼女の両の手の指には大量の絆創膏が貼られていた。
お互いに、まるで百年来の敵を見るような、それでいて以前から仲の良かった旧友を見るような目で見つめ合っていた。そして、その状態が10分ほど続き、先に口を開いたのはパルスィのほうであった。
「いい気味だわ。東風谷早苗、貴方ならそうなると思っていたわ」
言葉こそ辛らつなものであれ、彼女の口調はまるで親愛のそれであった。
早苗は、にっこりと笑って言葉を返す。彼女の口調も同じだった。
「あなたもね、水橋パルスィ」
そして、お互いに甘噛みのような視線をぶつけ合うと、二人揃って笑い出した。
笑い声が、波となって湖をきらきらと揺らした。
「それでは、あなたのことを聞かせて頂戴。あなたの幸せな生活のことをね」
パルスィは、笑いながら早苗へと言った。
早苗は笑いながら答える。
「私の話が終わったら、あなたの話も聞かせてくださいよ。そうでないと平等じゃありませんからね?」
早苗はそう言って、一つ深呼吸をしてから話し出した。
「まずはあの日を思い出しましょうか」
「そうね」
早苗とパルスィは地面に腰を降ろし、懐かしそうに話を始めた。
二
「こんなことろで何をしているのかしら、妖怪さん。そちらの方は人間でしょう? 新しい食料か何かなのでしょうか? もしかして、恋人さんではないでしょうね。妖怪が人間と付き合うなんて、人間の視点からしても妖怪の視点からしてもどうかと思いますよ?」
東風谷早苗は、例の縁結びの湖で偶然出会った水橋パルスィとその夫へこう話しかけた。
彼女の隣に立っていた男は、早苗の態度が信じられないといった顔で呆然としている。
パルスィの方はと言うと、最初は笑顔で黙っていたが、彼女の弁舌が進むにつれ段々と怒りをあらわにした表情へと変わった。
確かに、早苗の言うとおり人間と妖怪が結婚するなどと言うことは異常だった。
人間側からすれば、妖怪は恐れ敬い、あるいは退治する対象であり、
妖怪側からすれば、人間は食料であり、脅かすべき存在である。
少しずつお互いに近づいていっているとはいえ、その認識は未だに根強い。
しかし、それでも早苗の言葉は少し荒っぽさが過ぎると言えた。
それは、彼女の巫女としての立場とそれに伴う妖怪への敵対心から来るものであった。
「お言葉ですけどね、早苗さん。別に私はこの人を取って食べるつもりなんて無いわ。お互いに愛し合ってるから、こうして共に時間をすごすようになっただけ。大体、私を化け物扱いするならば散々妖怪を退治している貴方も化け物ではないかしら?」
売り言葉に買い言葉、といった様子でパルスィが返す。
早苗は、その言葉を受けて顔をしかめる。
「正義のために戦う人間様を化け物扱いとはひどい人ですねえ」
「いきなり私を化け物扱いするからよ」
「化け物に化け物と言って何が悪いのかしら?」
「頭が悪いというべきでしょうね」
丁々発止を一時止めお互いににらみ合う。
ある種取り残されてしまった形の二人の男はお互いに目を合わせないようにしていた。
「どっちが幸せになるか勝負しましょうよ、パルスィさん。ま、もちろん私が幸せになるのだけれども」
「結構よ、受けましょうその勝負。私にも勝算が無いわけじゃないからね」
早苗は意地悪く笑うと、わざとらしくくるりと振り替えり隣の男へと言った。
「さ、一緒に湖の水を飲みましょう」
パルスィも対抗するように隣の男へと水を飲むように誘った。そして、お互いに水を飲むなりすぐに二人は向き合った。
早苗は眩しいぐらいの笑顔で。
パルスィは頬を紅潮させ男、自らの夫の腕を抱き寄せ。
「私の勝ちね」
「私の勝ちですね」
と全く同じ言葉を同じ瞬間に言い始め、同じ時に言い終わった。
私たちは運命で結ばれているのだから絶対幸福になりますね。ね、あなた?
私たちは運命で結ばれているのだから絶対不幸になんてならないわ。そうよね、あなた?
お互いに自分の勝利を革新し、末永い幸せを誓い合った男と共に、二人はそれぞれの住処に戻っていった。
三
守矢神社の台所ではエプロン姿の早苗が夫の為に夕飯を作っていた。しかし、料理は交際を始めた頃にやっと教えてもらった程度の腕で、揚げ物をちゃんと作れるかどうかも怪しかった。しかし今の早苗の心は幸福で満ち足りており、どんな料理も一発で作れてしまいそうな気持ちになっていた。
夫はそんな早苗を心配そうに見ながら彼女が作る料理の匂いを鼻の入り口から鼻孔の奥まで味わい、そして飲み込んだ。すると、不思議に少しお腹が空いた気がした。
そんな二人を戸の隙間から覗いている二人の神、八坂神奈子と洩矢諏訪子がじぃっと観察していた。
「ねぇ神奈子、二人共いい感じじゃない?」
「そうねぇ、最初は無理矢理かなぁって思ったけどまさかあの湖の水を飲むほどなんてねぇ、どうせあの湖は噂だけだろう? 覚悟のある夫婦は長持ちするからねぇ。いやーこれで守矢神社も安泰だよ」
「そんなこと言ってるけど神奈子~~? あんたが男と付き合ってたー。なんていう話は聞いたことないわねぇ? まさか女専門? キャー!!」
耳の先まで真っ赤に染め何も言わずに諏訪子の頭をポカポカ殴る神奈子の声にならない叫びは台所で二人向きあって夕飯を食べる早苗と夫の耳にちゃんと届いていた。
夕飯は早苗が作った肉じゃがと少し水を吸い過ぎたのだろうかジュクジュクの白飯と残り物のほうれん草のおひたしだった。
「肉じゃがを神奈子様と諏訪子様以外の方、それも男性に食べてもらうなんて初めてだから緊張しましたよ。」
夫は早苗の話を聞いているのか聞いていないのか黙々と箸を動かして早苗の手料理を口に運ぶ。
二本の箸で摘めばそこから崩れていく、火の通ったホクホクのじゃがいもを。
そのじゃがいもに絡みつき、半透明の形にポツポツと黒い点が見える糸こんにゃくを。
箸の上で艶々に輝き、白い湯気をもくもく浮かべる米を。
かつお節が付いた、深い緑色のおひたしを。
夫は無言で食べ続ける。そして五分もすれば机の上の食器の上に乗っていた夕食が全て無くなっていた。
「どうでしたか? 美味しかったですか?」
問いかけてくる早苗の顔は期待と不安が含まれていた。夫はただただ笑顔で彼女の手料理が素晴らしいと言った。その口元にはおひたしのかつお節が付いていた。
「あっ、かつお節が口元に付いてますよ」
夫の口元に付いているかつお節を指先で拭き取り、舐める。その仕草はとても可愛らしく男の心は鷲掴みにされただろう。
「どうしたんですか? そんなに私の顔を見ないでくださいよ……」
顔を紅潮させた早苗の顔が可愛い。
自分の妻がこんなにも愛らしい。
これだけの理由だが、夫が早苗の唇を奪うのには十分な理由になりえた。
「ん、あ……」
世界が止まる。なんて小説みたいな事は思わなかったが、嬉しさでキスしたまま飛び跳ねたくなった。嗚呼幸せだ。例えどんなことがこれから先あったとしても。今この瞬間の幸せを思い出せば乗り越えられそうな気がした。
そういえばキスは目を瞑るものだったな、と男は思い出し目を瞑る。すると唇から柔らかい感触が消えていく。
「初めてのキスはもう少し味わっていたいですけど。その、ね? 見られてるってのは、やっぱり恥ずかしいです」
頬を林檎のように染め艶やかな視線を送っている早苗の後ろには目を真ん丸にして今までの行為を見ていた二人の神の姿があり、男に気づかれた二人は男の顔をじぃっと見つめた。
諏訪子はいたずらっ子の様な笑みを浮かべ二人の周りをくるくると歩きながら顔を見て、にやりと笑い
神奈子は顔を真っ赤に染めており。すぐにでも顔からぷしゅぅ、と快音を立てて何かが抜けそうだった。
「しかしねぇ、二人共同居して一日目で接吻までしちゃうんだからー。もう、最近の若いカップルってのは早いのかねぇ……」
「そ、その、だな。健全なお付き合いなら問題ないのだが。そ、その、もう少し場所をわきまえるってことをだ、っだな!!」
今にでも怒り出しそうな神奈子から逃げるように早苗は夫の手を引き台所を後にする。二人取り残された神はご飯粒一つ残っていない茶碗を見て二人で大きな声で笑い。それから二人で食器を仲良く洗うことにした。
縁側まで向かった早苗と男は涼風を感じながら夜空を見ていた。月に雲がかかる。縁側で二人肩を寄せ合いただそこに居た。
ひんやりとした風と触れ合っている体の温もりが対して。すごく心の奥が暖かくなっていくのを早苗は感じていた。
(もう少し強く寄りそいたいな、暖かい、気持ちいい。あなたの腕と肩が暖かい)
涼風が二人に当たれば当たるほど冷たくなるが触れ合っている部分から広がっていく温度だけではない暖かさが心地良かった。
少し遠くから聞こえてくる蟋蟀と鈴虫の声が涼しさと静けさを強調していた。
「実は、あなたが湖の水を飲んでくれないと心配してたんですよ? 古い風習ですし。それに、私は元々外来人でしたしね」
空の満月を見つめながら早苗は言った。幻想郷には外の世界ほどの縛りなんて無い。だから最低限のルールさえ守ってればお咎め無しで生きて行けるのだ。人間でも、妖怪でも、亡霊でも、そして神ですら例外では無かった。
まだ10代の早苗は何度も何度も見合いをした。しかし毎度毎度断られ、一時期は「あの風祝は家の血さえ続けれるのなら男なんて誰でもいい」という噂まで流れた早苗を嫁にしたい、しかも神の子だという早苗を選ぶものは誰一人居なかったがこの男だけは早苗を一生愛して行けると見合いの初めで言ったのだ。
「あのお見合いの時の私はもう投げやりだったんです。何度も何度も断られ、その度に神奈子様と諏訪子様に励ましの言葉を頂きました。でも、やっぱり私は結婚に乗り気では無かったんです。誰でも良かったんでしょうね、噂通りの女ですよ。……ねぇ?」
男の手が早苗の手を握る。寒さのせいか早苗の手がぷるぷると動いていた。男は何も言わずに強く、彼女よりも強く握り返した。
「ありがとうございます。これからも、いいえ、ずっと宜しくお願いしますね」
秋の夜の中、沢山の鈴虫が二人を祝福するように輪唱していた。
四
「という感じで私はあの人とずーっと鈴虫の鳴き声を聞きながら寄り添い合って……あぁ懐かしいですね」
彼女の昔話が一段落ついたところで早苗の腕の中に抱かれていた赤子が眠りから覚めたのかわんわんと泣き出した。元気な、とても元気で耳の奥まで響きそうな声だった。
「あら起きちゃった?よしよし、もうすぐお腹いっぱいミルクが飲めますよー、目の前のお姉ちゃんはこわいでちゅねー?」
「勝手に私が泣かしたみたいにするんじゃない、ったっくもう」
「それが早苗、あんたの味わってきた幸せなのね。少し妬いちゃったわ、少しだけよ?」
「その後あの人と初夜を過ごし、そしてこの子を授かったわ。幸せでしたよ、毎日あの人が私のお腹に耳を当て『いつ産まれるのかな? 三ヶ月かな? 二ヶ月かな?』って聞いてくるんです。幸せでしたよ、あの日が来るまでは」
早苗の両手に抱えられていた指足らずの赤子がわんわんと泣き始めた。赤子が訴えてるのはミルクなのかおむつの替えなのかは早苗もパルスィもわからなかった。
よしよしと赤子をあやし、精気の宿ってない顔で精一杯の笑顔で微笑みかけた。そして早苗は湖の縁までゆっくりと足を引きずり、赤子を抱え上げる。
わんわんと泣き続ける赤子を。
愛してたあの人とそっくりな黒髪で指足らずの子を抱いていた両腕を――
「さようなら。どんな名前か忘れたけど、名前すら無いのかもしれないのだけど、私の初めての子供。あの出産の痛みはもう忘れませんよ」
離した
ぽちゃん、と小石でも投げ入れたようなが音を背景に、バシャバシャとまるで水の上に落ちたアリのようにもがく赤子の姿を早苗とパルスィが見ていた。湖の水の冷たさと産み落とされてから初めて感じる水の感触に怯え、生きようと、助けを求めるために赤子は泣き叫んだ。しかし赤子を落とした本人の早苗とパルスィはまるで蜘蛛の巣にかかった蝶を見る幼子の様な目で見ていた。
やがて赤子は水をかく手を止め、泣き叫ぶ声も小さくなっていった後、ぶくぶく、と小さな音と水面に浮かぶ白い泡と布を残して赤子は消えていた。
「あーあー……沈んじゃった。早苗、あんたもやるねぇ」
「別に今の私にはあの子は重荷ですので、重荷を捨てただけですよ。もしかしてパルスィ、あなた、私の話がまだ終わったなんて思ってないでしょうね?」
くるりと一回転し湖の縁から離れ小さな石に腰掛ける。その瞳には相変わらず光が無かった。もし今この場所で早苗が眠ってしまったらもしかしたら死んでしまうんじゃないかと思えるほどだった。
「そうね、さぁ私が腹の底から笑える不幸話を聞かせて頂戴。早苗」
「あなたも変わってませんね。では続きを……」
友人の純粋な笑顔を見て、早苗はぼそぼそと語り始めた。
五
早苗と男の幸せな日々は続き、ついには早苗はその純潔を男に捧げ、その腹に子を宿していた。
愛するあの人の子が腹に居る事で色々なことを経験したが、その度にいつも隣で手を握って励ましてくれた夫がいた。
「あっ、今お腹蹴った……諏訪子様、神奈子様、最初は反対してましたけど今私はものすごく幸せです」
その言葉を聞いた神奈子と諏訪子は二人見合って小さく笑った。早苗が幸せならばこの二人も幸せなのだ。
大きく膨らんだ腹部を撫でさすり。早苗は洗濯物を取り込みに行こうとしたが神奈子がそれよりも先に外に向かった。
「あっ、神奈子様……別にいいんですよ?」
「なぁに、孫が早苗の腹の中に居るんだったら手本になるおばあちゃんにならないとね! 早苗はゆっくり休みな。もうすぐ産まれる。そしたらお祝いだ!!」
「ほらほら、神奈子があそこまでするなんて初めてだよ。だから早苗はあの人と一緒に過ごしなって。って今は人里に働きに出てるんだったね。じゃあゆっくりしときなさい。無茶はだめだからね!!」
早苗が諏訪子の言いつけ通り自室でゆっくり休もうとすると玄関の方から洗濯物を取り込んでる真っ最中の神奈子の声がした。
「おーい諏訪子ー手伝ってくれー! 予想以上に服が多い。それにもうすぐ降り出しそうだ」
「はいはーい、今すぐ行くよー」
パタパタと袖を振りながら玄関に向かう諏訪子の姿を最後に。早苗は自室に向かった。
自室のベットで横になり少し眠る事にした、夫が帰ってくるのは夕暮れ頃なのでその時まで体を休ませ、彼が帰ってきたら沢山の感謝と愛の言葉を伝える。
こんな普通な毎日だが、早苗は幸せだった。
「あぁ、眠い……何故か疲れてますね……」
体中に溜まった疲労を回復するため、早苗の意識はゆっくりと落ちていった。
「……え! さ、え!」
「はっはい!」
自分を呼ぶ声が聞こえ、早苗は慌てて目を覚ます、昼寝のつもりだったのだが寝過ぎてしまったと思った。
早苗を起こしに来たのは諏訪子だった、窓の外を見るともう夕暮れであることがわかる
そして玄関の方から「ただいま」と声が聞こえてきた。
「あぁ、あの人が帰ってきたんですね。今行きます……痛っ! 痛い……腰のあたりが……」
「……陣痛かな、今すぐ神奈子達を呼んでくるよ、早苗、我慢しててね」
大急ぎで階段を降り、バタバタ台所に向かう諏訪子。一人残された早苗は痛みの中、心の奥では喜びの感情が一摘ほどあった。
ドタドタと階段を上がる音が早苗の腹部の痛みを何故か和らげていた。
(もうすぐ産まれる……あの人と私の子どもが。あぁ、この痛みすら気持ちよく……アイタタ……立てないかな、これ)
と少し考えていると部屋のドアが開き、夫が大慌てで入ってきた。その後ろに諏訪子と神奈子が続いた。
夫の顔は今にも泣き出しそうだったが、ものすごく嬉しそうだった。
「大丈夫ですよ、ほら少し痛むだけです、ささ、晩ご飯食べましょ、痛っ……痛い痛い!」
「あーあー、無理しちゃダメだって早苗。そっかーもうすぐか……嬉しいねぇ、家族が増えるのは、ね、諏訪子?」
「……あ、うん。そうだね。そっかー早苗もお母さんかぁ」
「諏訪子……様、やっぱりこれは陣痛なんでしょうか?」
ベッドに横になったまま早苗は諏訪子に聞いた。もう痛みに耐えきれず体を起こすことさえも辛くなっていた。そんな早苗の体調を察してか諏訪子は一回だけ早苗の頭を撫でた。
夫は早苗の手を握り、精一杯励まし続けた。勿論早苗の陣痛は治まりはしなかったが、彼の励ましが早苗をどれだけ助けたのだろうか。
しかし早苗だけではない、神奈子と諏訪子も娘のように大事に育てていたが、娘の出産となるとどう励ましていいのかわからず、冷静さを失っていた諏訪子達をも無意識のうちに彼はサポートしていたのだった。
一人暴走しそうな神奈子を説得し、自らの経験談通りに早苗の出産を行なおうとした諏訪子を厳重注意したりした。
単独で迷いの竹林の奥にある永遠亭に行き、兎たちの悪戯を掻い潜りながら鎮痛剤をもって帰ってきたりと様々なことを早苗のためにやった。初めての子供、妻と二人でその子の顔を拝みたい。それだけの為に体と心が動き、頑張れた。
「おい諏訪子、確か酸っぱいもの食べさせたらいいんだよね!? ああ、早苗大丈夫かい……まさかっ! 出産の時おへその緒を切ったときにショック死しないかしら……」
「神奈子ったら馬鹿なの? へその緒を切っただけでショック死するヤワな子と早苗を一緒にしないでよ!! ほら、神奈子味見」
「あ、はいはい。あら、匂いはいい感じ……ったく、粥なんて私のスペルカードで一瞬だってのに」
「あれはダメ!!」
「はいはい……ずずっ、これは!!」
台所で早苗のために消化のいいものを作っている真っ最中の二人の神は人里の寺子屋の教師の半獣とその金魚のフンの白色肌の女からもらったアドバイスを元に粥を何度も味見している真っ最中だった。
「とっても美味しいよ。これなら行けるよ。諏訪子! やっぱあんたは最高の相棒だよ!! ぐすぐす……」
「よかったー、あ、おまえさんよ。早苗は寝かしつけたのかい? 悪いねぇ毎日毎日忙しいのに家事とか色々手伝わせちゃって、早苗が普段どれくらい働いてくれてるかよーーくわかったよ」
胸をなで下ろす諏訪子の頭を撫で、出来立ての粥の入った鍋を持っていくために神奈子は立ち上がった。
そして扉の前にまで歩いたと思ったら数秒ほど立ち止まった。どうしたのかと男が戸惑っていると小さく神奈子は呟いた。
「あの、悪いんだけどねえ、両手が塞がってるんだから扉を開けれないのは一目瞭然だろう? ほら、早く開けてくれ」
あぁ、と理解した夫がゆっくりと扉を開けようとすると、上の早苗の自室から叫び声が聞こえてきた。
凛とした一刻の静寂の後、真っ先に動いたのは両手の塞がった神奈子だった
「……早苗っ!! 今行くからね、それまで産むんじゃないよ!! ええい、そこを退きな!!」
早苗を心配する思いなのかそれとも彼女自身の身体能力なのか男が扉を開く前に右足一本でその扉を蹴破り、そのまま鍋から米粒一つ、水滴一つ零さずにドタドタ走り、階段を駆け上がる音と早苗を心配する叫びが台所、いや守矢神社中に響いた。
次に続いたのは夫で、蝶番が破損しギィギィと音を出しながら動くだけで扉として全く機能してないただの板を避け、叫び声の主、早苗の元へ向かう。
先程大慌ての神奈子程慌ててるわけではなかったが、やはり妻の身に万が一の事があっては気が気でない為か階段を小走りで上がっていった。
「あぁ、二人共そんなに急いで行っちゃ早苗が吃驚するって……痛みでわからないかな? やれやれ……後始末も大事なのにね、包丁とか出しっぱなしは危ないよ」
一人台所に取り残された諏訪子は台所の食器洗い機に小皿等を軽く洗った後押し込み、スイッチをonにする。
「食器洗い機って便利なんだね。あぁ、あそこまで皆張り切ってると言い出しにくいなぁ、っていうかあいつは気づいているはずじゃないのかねぇ? まさか知らないなんてことは。はぁ、辛いねぇ」
食器洗い機がゴウゴウと皿を洗う音と二階の早苗の部屋から聞こえる物音以外何も聞こえなかった。
諏訪子は周りに注意をし、誰もいないことを確認し、一人呟いた。
「あの男は性病、いや持病で、子種なんて作れないのに……ね」
食器洗い機の音が止まり、そしてすぐに食器の乾燥を始めた。諏訪子は食器洗い機を興味深そうな目でじいっと見ていた。
「ぐるぐるぐるぐるお皿が乾く。ぐるぐるぐるぐる……お皿は乾く……私はどうするか迷ってる? 迷う必要はない」
早苗の部屋では神奈子と男が協力し早苗の茶碗に諏訪子の手作りの粥を入れていた。早苗の叫びはどうやら突然陣痛がひどくなったとの事だった。今は落ち着いているが二人が駆けつけたときにはドアの前でうずくまって苦痛に耐え切れず泣いていたのだった。
「本当に大丈夫かい? 女の子は痛みに強いって言うけど無理しちゃだめだよ? はい、お食べ」
「あ、ありがとうございます神奈子様。うわぁ……いい匂い、しかもすごく暖かくて美味しそう」
粥をレンゲで掬い、息で冷まし口に運ぶ。もぐもぐと口を動かし水を大量に吸ってふやけた米を噛み、味わい始めた。
――こくん。
「ど、どうだい? 早苗、諏訪子が作ったんだ。私が作ると言っていたのに聞かなくてねぇ」
「……神奈子様のも美味しいですけど、諏訪子様のは体調の悪い人のことを考えているっていうか、神奈子様のより食べやすくて……」
「……ぷっ、あっはっはっは、あんたも言うようになったねぇ!! いやー素直なのはいいことだ、こりゃ生まれる子もさぞいい子なんだろうね。こりゃぁ跡継ぎの顔が楽しみだね。あっはっはっは。ほらあんたももっと嬉しそうにしないか」
妻の食事を見つめていた夫は神奈子にいきなり肩をぽんぽんと叩かれ、びくん、と飛び跳ねそうな勢いで動いた。やはり何の話をしていたのかわからなかったのでとりあえず相槌を打った。
そして早苗、妻の腹を少し疑問があるような目で見ていた。
男は「どうして諏訪子様は来ないのか?」と頭の隅の方で考えた、彼女も神奈子と同じく早苗を幼い頃から見守っていた神であり。諏訪子は神奈子以上に早苗の幼少期から早苗を守っているのだと早苗本人と神奈子からも聞いていた。
のだが、早苗が心配でないわけでは無いだろうし、何か思うところがあるのだろうか? 男は、今夜もし諏訪子の都合がよければ聞いてみることにした。
難しい顔で一人唸っている彼の頬に何か、暖かくて柔らかいものが触れた。早苗の掌だった、夫が何か抱え込んで無いのか心配で、つい手が出てしまったのだとか。
「すいません、でもあなたがそんなに難しい顔で考え込んでいましたからつい、私に何かできるかなぁって……あ、いやそんなに見ないでください。恥ずかしいです」
耳の先までまで熟れた林檎のように真っ赤にし今にも漫画のように湯気が顔から吹き出しそうな早苗の顔が目の前にあった。
早苗の今にも恥ずかしさで泣き出しそうな顔を見ていると、横にいた神奈子がたまらなくなって笑ってしまった。
「あっはっはっはっは、いやーっ!! 早苗そんなに顔真っ赤にして面白ーい!! あーダメ、笑い死ぬ、あはははははは!!」
腹を抱えて笑う神奈子につられて男も小さな声で笑った。
そしてその二人につられたのか早苗も少しずつ笑い始めながらも神奈子に必死の弁解をしていた。
「か、神奈子様!! 別に笑うところじゃないですよ!! もう……あなたも笑いすぎです!! ばか!! ばかばかばか!!」
散々叫んだり笑ったりしたおかげなのか早苗の調子も少しマシになったので、今日はあまり興奮させないよう神奈子と男は早苗の部屋を後にした。
台所へ向かう途中神奈子が男に話しかけた。
「もうすぐ産まれるのか。長かったもんだね。どうよ、お父さんになる気持ちは?」
あの嬉しそうな顔の早苗を思い出しながら、最高ですよ。と一言だけ返した男は、両手に着けた鍋つかみで鍋を持ちながらつまづいてひっくり返さないように歩いていた。
早苗の出産はもうすぐだった、なんだかんだで情事から十月十日ぐらいが経っていたのだから、というか早苗と彼の情事はその一回だけなのだが当たり前ではあった。
「……最初あんたに会ったときは私たちも悪いことしたんじゃないかと思ってたよ、あんたが最初無理してるんじゃないだろうかってね、そりゃあ私たちは神様で跡継ぎも必要さ、でも跡継ぎの為だけに生まれた子供ってなんかかわいそうだろ? だからお前が早苗と交際して、お互いに愛し合ったって聞いたときは眉唾物だったさ」
台所に着いて鍋を洗っていると、神奈子が話しかけてきた。男は黙って話を聞きながらスポンジを動かしている。
その話は鍋を洗い終えた後もまだ続いてい、でも大事な話だったから男は椅子に腰掛けて聞いていた。しかし最後の方は過労で瞼が重くてあんまり頭に入ってなかったが、最後に神奈子が言った一言は何故か覚えていた。
「あんたと早苗の前にどんな障害が立ち塞がろうと私たちはサポートするから一人で抱え込まないで欲しい。だってあんたももう家族なんだから。って寝ちまったか……ったく神様の前だってのに」
目を覚ますと窓の外は真っ暗で、それはつまりもう夜遅くだということに男は気づいた。
とりあえず男はどうにか熱いぐらいの風呂にゆっくりと入り、そして寝間着に着替え、夜風で濡れた髪を乾かす為に縁側に座っていた。
あの夜と違い鈴虫は鳴いておらず、ただただそよ風の音が耳に入っていた。
「やや、お前さんも涼みに来たのかい? なんか真剣そうな顔だねぇ……なぁに取って食おうだなんて思ってないよ。ちょっとした世間話さほらほら隣に来なよ」
男には断る理由もなく隣に腰掛け少し曇り気味の夜空を見始めた。
「もうすぐ産まれるんだね、どうよ? 一人の父親になる気持ちは?」
男は少し考えた後、複雑な気持ちです。と答えた。
一人の父親になることはとても素晴らしいことだけどやっぱり初めての事だらけで不安だらけでもあった。
「そうだよね、うーん、まぁ、うん。ありがと、私は少し思うことがあるから行くね。夜遅くなる前に寝るんだよ、じゃあね」
小さく手を振って立ち去ろうとする諏訪子の背中に男は問いかけた。
「どうしたんだい、思いつめたような声だね? あぁ今日のことかい、何? 私が本当に早苗を心配してるのかって? 失礼な、ちゃんと心配している……って口で言うことじゃないよね。はい、私の答えはこれだけ。じゃあねおやすみ、多分明日には産まれるかな、ふふ、神様の予言は当たるんだよ」
いたずらっ子のような声で男にそう答えると諏訪子はどこかに行った。
一人残された男は気だるそうに立ち上がり自室へと帰り、睡眠をとることにした。
諏訪子の予言が当たったのか次の日の夕暮れ頃、早苗の腹から小さな命が産み落とされた。
極めて平均的で元気な産声をあげる子だった。しかし早苗以外の者たちの表情は冷め切っており、誰一人口を開かなかった。
産声をあげ続ける赤子がまるで周りの冷え切った空気に怯えて泣き叫んでいるようにも見えた。
その赤子の左手には二本しか、親指と小指しかなかった、しかしそれ以外は本当に平均的な子なのだった。
指のこと以外は文句なしの健康体だった。
「……神奈子様? どうしたんですか? そんなに怖そうな顔をして。赤ちゃんが怖がっちゃいますよ」
「あ、あぁそうだね、ごめんごめん、諏訪子の姿が見えないから心配しているんだ。なぁに、元気な赤子じゃないか、いい子になるよ」
嘘を付く神奈子の表情は笑っていたが、どこか真剣に考えているようにも見えた。しかしそれを早苗に悟られないように
「ですよね、産むまでは辛かったですけど今は幸せいっぱいです」
「無理に喋らない方がいい、ゆっくりと休みな」
男は生まれたばかりの赤子を抱き、小さな顔に微笑んだ。そして赤子の左手が男の頬を触ろうと動く、父親の顔を触ってみようと思ったのだろう。赤子の手が男の頬に触れる前に男は顔を遠ざけた。……避けたんじゃない、早苗に心配されたくなかったからだ、男がこの子を障害児だからといって軽蔑したら妻、早苗は悲しむだろう。
だから私は赤子から避けたのだ。と男は自分に言い聞かせた。しかしその表情はやはり冷め切っていた。
神奈子はそれを察したのか男の腕から赤子を取り上げた。
「今日はもう休みな。大丈夫この子は私とこいつと諏訪子で面倒みるよ」
「ええ、今日はいろいろ疲れました。あなた、神奈子様、おやすみなさい、今日は本当に素晴らしい日です」
早苗が眠ったのを確認した後、神奈子の後に男は部屋を後にした。
こんな時でも諏訪子の姿は無かった。
「……そう気を落とすんじゃないよ。誰だって最初は戸惑うさ、なんでこんな子……こん、あ……」
言いかけて慌てて口を塞ぐ。神は全ての人に平等に接しないといけない。例えその者が醜くても神は平等に人の願いを叶えるのだから。
神奈子は赤子を抱える手に力を入れてしまう。あぁどうして早苗だけが、と考えてしまうこと自体が間違いなのだが。一人の神ではなく一人の親としてはどうしても、どうしても許せなかったのだった。
赤子は再び泣き出した。悲しむ神奈子に同情したのか、それとも神奈子が自身が生まれたことを恨んでいるのか、と怯えたのか泣き出した。
「あぁ、あぁ……すまないねぇ、おばちゃんはあんたが生まれてよかったと思ってるよ、だから泣かないでおくれ……よしよし」
必死に泣き叫ぶ赤子を神奈子があやし続けるが泣き止まなかった。
泣きつかれたのか神奈子の腕の中で眠っている赤子を男が抱いた。
男の腕の中の赤子の寝顔を見て、神奈子がこう言ったのが印象的だった。
「こんな時だけどあの地獄鴉の飼い主の能力が欲しくなるよ……まぁ赤子が何を考えてるかを知ったってどうしようもないんだろうけどね」
そういった神奈子の顔はやはり悲しそうだった。
結局夜まで諏訪子は見つからなかったらしく、しばらくしたら帰ってくるだろうと男は神奈子から聞かされていた。赤子はあの時からずっと静かだったため難なく一日を終わらせることが出来た。
色々手に入れ、色々決意しなければいけない日が終わった。
その夜遅く、守矢神社に住んでいるもの全てが寝静まったのを見計らって赤子の眠っている部屋に侵入する影が一つあった。
その影は赤子の部屋の窓を蹴破り、首から掛けたカメラのレンズがキラリと輝いてた。
「これはすごいですね……大スクープですよ……『衝撃!! 守矢の新生児はなんと障害児!!』ふふふ、新聞記者というのは残酷なんですよ。ジャーナリストというものをよく知っている守谷の方々だから特に何も言われないでしょう。私たち山の妖怪の信仰無しでは生きていけないらしいですしね」
赤子の左手に何度もフラッシュを当て、手に持っている手帳にガリガリと何かを書き連ねた後、満足そうな様子でその影は夜の空に消え去った。
次の日の朝、外から聞こえてくる騒音に驚いて男は目覚めた。
今日は神事では無いはずだ、それよりも早苗が妊娠してから神事は一回も行われていないのだから信者たちがやって来るのはおかしいのだったが……
男の部屋のドアが勢い良く開かれた、そこにいたのは手に何か筒みたいなのを持っている神奈子だった。
「おい起きろ!! 諏訪子はどこだ!! 諏訪子はこの事態を知っているのか? おい、どういうことなんだ!!」
冷静さを失った神奈子がいきなり襟首を掴んできた。
慌てる男が神奈子を突き飛ばすと神奈子は申し訳なさそうに男に謝った。
「すまない……つい慌ててしまって、それよりもこれを読んで欲しい」
男は神奈子の手に握られている丸められた新聞を手に取り広げた。それは毎日取っていた新聞だった。
文々。新聞、最近は発行者である射命丸文がネタ切れに悩みもう発行しないと思われていたのだが。
その新聞の見出しにはこう書かれていた『これが神に仕える子か!? 指足らずの跡取りのその後は?』と大文字で見出しを飾り、その内容はいい意味でも悪い意味でも良く、事細かく書かれていた。
「あのパパラッチめ……最近は大人しくなったと思ってたんだけどまさかこんな所でウチに喧嘩売ってくるとは……畜生……あの烏女……」
夫と神奈子はとりあえず外の様子をみることにした。窓を開け網戸越しに外を見るとそこにはいつもの神事なんかよりも遥かに多い人影が賽銭箱前まで押しかけていた。
文々。新聞の効果は大きかった、誰もが珍しいもの見たさなのか同情心なのか分からないがやはり他人に見せれるものではないのだ。
守矢神社に居る早苗以外の全ての人間がそう思っていた。
だから今日はやり過ごそう、人の噂も七十五日だと、男は判断した。
「そうだね、とりあえず帰ってもらおうか……ってあれは早苗? なんで出歩いてるの!?」
神奈子が賽銭箱の後ろの境内から掃除をするために出てきた早苗を発見した。
そして早苗の姿が見えた途端守矢神社中に集まった人達が餌に集まる魚のようにどっと押しかけてきた。
神の力で立ち歩ける程度まで回復したといえまだ出産二日目の早苗はいきなり集まってくる見物客に驚いて目を点にしている。
「え、えっと、皆さん参拝ですか? 手に紙筒なんて持って……」
「そんな挨拶はいい!! 俺達は赤ん坊を見に来たんだ!!」
「そうだそうだ!! 例の赤ん坊を見せろ!!」
「この神社の跡継ぎになるかもしれないんだろ? お披露目だろ? ほらほら早く見せてもらおうじゃねぇか」
見知らぬ男達が早苗にこの神社にやってきた理由を次々と伝える。
あの子を見せろ。
跡継ぎを見せてみろ。
この新聞に書いてあることを確かめに来た。
さぁ見せてみろ。
場合によってはこの神社をもう信仰しないぞ。
これはまずい。と誰もが思った。少なくとも神奈子と夫はそう思った。
早苗には赤子の左手には二本の指しかないことを伝えてはいない。
隠す気は無かったが、すぐに言い出せる雰囲気では無くて早苗の体調等がある程度まで落ち着いてから話すつもりだった。
が、早苗は今まさに見知らぬ誰かからその事実を聞かされるのではないのだろうか?
その残酷な事実を
幸せな日々を潰す事実を
愛の結晶を疑うような事実を
しかし、早苗は何も知らない、と言ったような目で見物客達に聞こえるように目の前の中年近い男に言った。
「えっ、ええと……ウチの赤ちゃんは元気に寝てますよ……? それに神奈子様が言ってました、健康体だって」
男達が静かになり、暫くして男達がざわめきだした。
「なんだって? まさか早苗の嬢ちゃんは知らないのか?」
「おい、この新聞……まさか」
「何だまたデマか? 天狗もいい加減にしろよ?」
この新聞がデマだと見物客が信じてくれたらここは凌げる、と神奈子と夫はこのまま思い通りに事が動くことを望んだ。
しかしその望みが叶おうとする直前、
「あらあらまぁまぁ、私の新聞のネタになってくれたあの子にお礼を言おうと思ってやってきたら物凄い人だかりですね」
神社の屋根に一つの影があった。
背中からは黒い羽を生やし、頭にちょこんと乗った烏帽子、そして歯の高い下駄を履いていた。
「やだなぁ、私が発行するこの文々。新聞に押しかけ取材や突撃取材、ゴシップ記事あれど、デマなんて書くわけないじゃないですか」
「あぁ、あなたがまた変な新聞で守矢神社を題材にしたんですね……いつも通りの変わった記事なら構わないんですけどこれは異常ではないですか? 何を題材にしたのか気になりますね……」
幻想郷で一番読まれているであろう文々。新聞の発行者、幻想郷最速が唯一の看板である烏天狗、射命丸文が早苗の目の前に飛び降りた。
そして子供を産み落としたばかりの早苗の腹部をマジマジと見た。
「見てみます? 払うもの払ってくれたら見せてあげますよ?」
「厄介払いならそりゃぁもう沢山」
「ひどいですね」
「昨日子供を産み落としたのですからイライラしているのは仕方ないのですよ」
「お腹触らせてくださいよ、その触り心地を記事にしたいので」
「どうぞ。っていってももう元のお腹ですが」
と軽い会話をしているが、この二人の間には見えない距離があった、射命丸文という天狗が何故あのような新聞を発行できたのか、どこから情報が漏れたのか、何故気づけなかったのか、早苗は嫌がらせをされたと思っており、そのことに対する罰を彼女に与えようと彼女が新聞に書いたことを聞き出そうとするが天狗は新聞の内容を「つまらないものですから別に早苗さんが見るものじゃないですよ」など言い、早苗の興味を更に引こうとしている。
「もうバレちまうのか……短い間だったね。あんたも頑張ったよ。もし早苗が事実を認めてくれるのなら、改めてあの子をうちの家族の一員として迎え入れようじゃないか……」
そう言っている神奈子は涙を見せまいと目を強く開いているように見え、肩を震わせていた。
早苗があの事実を知ればどれほど苦しむのか、それは神奈子と夫には想像できなかった。隠し続けようと思ったのが間違いだったのかもしれない。本来なら産み落とされて気づいたときに無理にでも早苗に教えるべきだったのだろう。
天狗が早苗の押しに負けたのか新聞を早苗に渡した。
「しょうがないですね、そこまで言うのでしたらどうぞお読みください。ただし文句なしですよ? いかなる事実をその目で見て、発狂してもらっては困るんです」
「ありがとうございます、と素直に言えませんが、まぁ読ませてもらいますよ。こんなの迷惑極まりないですからね」
早苗がその新聞を手に取り広げ、読み始める……新聞を放り投げ、まるで糸の切れたあやつり人形のように早苗はその場に崩れ落ちた。そして小さな声で何か呟いた後、記事を書いた張本人である射命丸文に飛びついた。
文のシャツの襟を掴み腕に力を入れ引き寄せる。そして文の顔が早苗の方に引き寄せられると早苗はもう片方の手で握りこぶしを作り文の顔へ……
「待ちなさい早苗!!」
「諏訪子……様?」
「ほぅ……貴方は、面白い展開になってきましたねぇ」
早苗を呼ぶ叫び声、もう少し遅かったら怒りや悔恨等様々な感情が混ざった拳が文の頬を捉え、ふっ飛ばしただろう。
その声の主は神奈子でも夫でもなく、二日ほど前から行方をくらませていた諏訪子だった。
諏訪子の両手にあの赤子が抱き抱えられており神社に集まった男たちをかき分けながら早苗の元にまでゆっくりと歩いていった。
「早苗、その新聞に書いていることは現実、今見せてあげるね」
「い、嫌。そんなの見たくない!! 諏訪子様は意地悪です!! なんで私が見たくないものを無理矢理見せようとするんですか!? 来ないでください!!」
「でもね早苗、これはいつか知ってしまうこと。大丈夫。私だって最初は苦しんだよ、だからね……早苗」
諏訪子は両手に抱えた赤子を早苗に渡した。最初早苗はその赤子を掴むため両手を伸ばしたり、引っ込めたりし、戸惑っている様子だったがとうとう心を決めたのか白い布に包まれた赤子を受け取り初めてその赤子を腕の中に抱いた。赤子は早苗の腕の感触が気に入ったのかキャッキャと手を振りながら笑った。早苗はその左手を見逃さなかった。親指と小指しか無く、本来あるはずの指の部分は綺麗に何もなく、それはこの新聞に書かれていることが本当であることが早苗の中で証明された。
「ね、言ったとおりでしょう? わかったのならこれから人の新聞にケチつけるのもうやめてくださいね。あ、後」
「もうやめておやり。天狗、あんたも勝手に人の家に忍び込んでこの記事を書いたんだろう? もうそのことについては何も言わないでおくからそれでおあいこさ。ほら、そこら中に集まっているお前たちもだよ……見るものは見ただろう? さっさと帰って仕事するなり奥さんに甘えたり育児したりしな。別に守谷神社はこの事を隠す気なんて無いよ。ほら。帰った帰った!!」
諏訪子が言ったことに従ったのか、それとも赤子が身体障害者であることを確認し納得したのか分からないが神社に集まった男たちは一人、また一人と山を降りていった。
それに合わせて射命丸文が帰ろうとすると諏訪子がその手を掴み、問いかけた。
「そういえば妖怪の山には里の人間を入れてはいけないんじゃなかったっけ?いいの?あれだけの人数の侵入を許したなんて大天狗に知られたらどうするのかな?」
「あぁ、その点でしたら大丈夫です。大天狗様は今日ここで起こる問題を記事にしろと仰ってましたので……えぇ、これなら素晴らしい記事が書けそうですね。まさかあなたからあの子を持ってくるとは思いませんでしたよ。どうです?障害者が家族の一員になった気分は?ふふふ、では、明日の文々。新聞をお楽しみに……」
そう言った後、団扇を振り、強風を起こしながら射命丸文は空に消えた。神社の境内に残された諏訪子と自らの赤子を抱き、嗚咽を漏らし続けている早苗の姿を只々見ていることしかできない神奈子と夫はただ声も出さずその目から一筋の涙を流し続けていた。
なにはともあれ東風谷早苗は赤子の手のことについて知った、知ってしまったのだ。赤の他人ではなく自らの信頼する神であり家族である諏訪子から教えてもらったのがせめてもの救いだろう。
――その夜の夕食は最悪だった。四人で机を囲んで黙々と食べ続けるだけの時間がものすごく長い間にも思えただろう。
「ご馳走様……食べ辛いったらありゃしない」
「お粗末さまでした」
「……諏訪子」
最初に食べ終わったのは諏訪子だった。そして自分の食器を洗い場に持って行き黙々と食器を洗い始めた。
蛇口から出る水の音が食卓に響く。カチャカチャと箸や皿が触れ合う音も響いていく。
次に夕食を食べ終え席を立ったのは神奈子だった。彼女も食器を洗い場に持って行き、諏訪子の横で洗い物を始めた。守谷の二柱が横に並び皿を洗っているのにその二人は全く会話をしなかった。
食器を洗い終わった諏訪子と神奈子のどちらかが蛇口を閉める。
神奈子が静かに歩き出した。そして廊下への扉の前で足を止め、早苗の方を振り返らずこう言った。
「じゃあね、早苗。台所の電気はちゃんと消すんだよ。蛇口もちゃんと閉めること」
「はい……」
早苗の返事には元気がなく少し涙声だった。夫も食べ終わり、洗い場まで食器を持って行って、洗い始めた。
食器を洗っている夫の背中に手が当てられた。早苗のものかと思ったが少し違っており、その次に発せられた言葉で諏訪子だということが男には理解できた。
「キミのせいだよ……? 早苗が今泣いてるの。そうだ、いい機会だし話をしようか。早苗にも聞かせてあげるよ、こういう話は神奈子が居ないほうが話易いしね」
諏訪子の言葉の意味が夫と早苗には理解出来なかった。『何故? どうして? 今早苗が苦しんでいるのはあの新聞の発行者であるあの天狗のせいじゃないか』と反論しようとしたが言葉がその口から紡ぎだされることはなかった。
しかし早苗は諏訪子の話に食らいついた。『自分が不幸だなんて口にしていない』と早苗は必死に答える。
「諏訪子様!! 私が苦しんでるだなんて、そんなわけないじゃないですか。私は、私なりに考え、これからあの子とどう生きていくかをずっと考えてただけです。大丈夫です。幻想郷の皆や神奈子様、諏訪子様も、私の旦那様だって皆優しいですから……私は挫けずにあの子を育てて行きます。だから……!!」
「はっ、つくづくおめでたい子だねぇ」
その先の言葉を紡ぎ出そうする前に諏訪子が鼻で笑い、夫の首を後ろから小さな手できゅっ、と絞め上げた。
「……この幻想郷には自分のことしか考えない奴らばっかりさ、あの天狗だって、この男だってそうさ!! 普通に考えたらこいつと早苗の間に子どもが生まれるわけ無いんだよ? ねぇキミ、子供が産めない、いや作れない体だよね? いや、作れない体っていった方が良いのかな?」
「嘘です!! あの子は私と旦那様の子です!! だ、だって私たちは一回しか夜を過ごしていないんだから……その一回で、ちゃんと……」
諏訪子が夫の首を絞め続けながら話を続けた。夫は口の端から涎を零し、必死に振りほどこうと抵抗しているが、全く解けずにその見開いた目で早苗を見やり
「コイツが子種を出せないってのに気付いたのは早苗とコイツが一夜を過ごした後だった。あの後の布団を洗濯しようとしたときね、万が一にって思って男の性液を採って永遠亭の医者に持っていったんだ。そしたらね精子が一匹も出てこなかったんだよ」
そして諏訪子は男の性液の治療結果を早苗に投げつけた。
そこには透明なケースに入れられた白濁液とそれを調べ上げた結果、夫が生まれつき子を作れない体である、という結果が書き記されていた。
「じゃ、じゃあ何故私にあの子が……」
「いい事に気がついたね? 早苗は子供を欲しがってたでしょ? だから私が早苗の見合い候補だったそれなりの美男子の性液を取ってきて後は紫の能力を真似たもので早苗の卵子と直接……ね? うちの早苗をそんなポンポンと素性のわからない男の慰みモノにさせるわけには行かないから確実な方法を取ったんだよ」
「嘘……」
「あっ、こんなこと言ってる間にコイツ泡吹いちゃってる……死んだかな」
夫の口からは白い泡が甲殻類のように溢れており、もがく手は次第に振れ幅が小さくなり、やがて動かなくなった。
諏訪子は物言わぬ男を床に叩きつけ、その生死を確認した。男は首に赤い痕を残し、目元から一筋の涙を流したまま固まりぴくりとも動かなかった。
其れに早苗が駆け寄り、必死に死に傾いてしまった彼の身体を激しく揺らす。
「あなた!! ねぇ!! 起きてくださいよ。あなた、そんな……諏訪子様、どうして、どうしてなんですか!?」
「大丈夫……早苗があの子と生きていくというのなら私は邪魔しないよ……でもね、早苗の周りに付いてくる害虫達は私が全部祟り殺してあげるからね」
諏訪子が早苗に近づき、背後から首に手を回されたとき、早苗はすぐ近くに落ちていた今は亡き最愛の夫の茶碗を拾い上げ……
夫を絞め殺した家族の脳天に叩きつけた。何度も何度も叩きつけた後、諏訪子は床に倒れた。その金髪からは赤い血が流れていた
神は死なない。放っておけばまた目覚めるだろう、逃げなければならない。どこか遠くへと
「はぁ……!! はぁ、あ。逃げなきゃ! ……ごめんなさい、あなた。早苗はもう貴方と一緒に居られません」
早苗は大急ぎで台所から包丁を一本持ち。あの赤子が眠っている部屋に向かって走りだした。家族殺しの居る神社なんて信仰なんてあったもんじゃない。自室のドアを蹴飛ばし、赤子を両手に抱き、窓を破り。赤子を抱えたまま星見えない夜空に飛び出した。
その翌日、幻想郷には大スクープが流れた。『守矢の洩矢諏訪子が重症!! 犯人は早苗の夫か?』この新聞に対して神奈子は何も言わず、失踪した東風谷早苗とその赤子は「死亡」しただろうということで締められ。幻想郷の住民はそこまで気には留めなかった。
六
語り終わった早苗は溜め息を一つ吐き出した。
「これで終わりです。私の幸せと不幸話はこれぐらいですね」
「いやぁ傑作傑作、あんた最高よ!! なるほどあの時の新聞は天狗から借りて読ませてもらったけど。どうりで今までと話が噛み合ってないなあっと思ったらあの天狗が間違えたのね!! ラッキーじゃない早苗。あ、死んでることになってるんだったね、あまり大声を出すのはいけなかったかな?」
話を聞き終わったパルスィはずっと声は出さないものの腹を抱え足を振って笑っていた。友人の幸せの話よりも不幸の話の方が面白く。そのリアクションにもよく表れていた。
そしてパルスィは赤子を沈めた湖を再び覗いた。肌の色を真っ白にした小さな肉塊がそこに浮かんでいた。
「あっ、ほら見てよ早苗!! あの赤ん坊浮き上がってきたよ。ほらほら見て見てってば!! あんたの子供っ、知らない男との子供よ。元凶の子供よ!! あーっはっはっはっは目見開いて気持ち悪いっ」
嬉しそうに手招きするパルスィにゆっくりと早苗は近づきパルスィと一緒に湖を覗き込んだ。
白い小さな肉塊を見て小さく笑い、早苗は呟いた。
「あら……てっきり湖の魚の餌にでもなると思ったんですけど……意外ですね」
「あー、確かに、アレ臭いんじゃない? 死んだ人間でも生きた人間でも食べる鮫とか言う外界の魚とかじゃないと食べないんじゃないかな……? もしくは人魚? 人魚なんて幻想郷に居るのかしらね」
幻想郷には海は無い、だから鮫というのも外の世界から流れつく図鑑でしかその名前を見ない。早苗もホラー映画やハリウッド映画やB級映画でしか見てないのだが
「鮫ですか、確かにそうですね。この幻想郷にピラニアなんて居ないでしょうし」
「ぴらにあ……? 何? そいつも人を食う魚なの?」
「えぇ、でも鮫と違って群れて水に落ちた肉を食べるんだとか、牛をものの数秒で骨だけにできるそうですよ」
「アリみたいなもの、いや蛆かしら。外の世界の人間も大変ね」
「ごく一部の人間と動物だけですよ」
水面に浮かんでいる赤子の死体を見るのも飽きた二人はまたもとの場所に戻り、地面に腰掛けた。
先程まで早苗の幸せ話を聞いていたパルスィが座り込んだまま元気そうな声で早苗に語りかけた。早苗は無言で答え、友人の顔を見た。
「じゃあ次はこの、水橋パルスィの幸せ自慢と行きますか、早苗の幸せに妬いちゃったけど私の方がずっとずっと幸せな日々を送ったわ。さぁ聞きなさい」
まるで年端もいかない子どもが親に好きな人が出来たことを報告するように水橋パルスィは語りだした。
「途中で寝るんじゃないよ?」
「寝ませんってば……私の幸せ自慢が霞んでしまいそうなほど素晴らしい幸せ自慢を期待してますね」
「任せなさいよ、私の素晴らしくて艶やかな恋物語を、さぁ」
そして水橋パルスィはその口で語り始めた――
七
水橋パルスィは湖の水を男と飲んだ後、地底へと男と二人仲良く帰っている最中だった。
男の手を嬉しそうに握り締めながら薄暗い洞窟を通っているといきなりパルスィと男の目の前に一つの桶がするすると降りてきた。そしてその桶の中から緑の髪をサイドテールに結んだ子供がひょっこりと顔を出した。
子供はパルスィとパルスィと手を繋いでいる男の顔見ると桶から右手を出し、その手を小さく振った。
「あっ、パルスィお帰り。あら、そっちのお兄さんはどなた?」
「あらあら、キスメじゃない、こんにちわ。えっこの人?誰か聞きたい?聞きたい?どうしてもって言うなら教えちゃおっかなー?」
キスメは興味深そうに男をじーっと見つめていた
そのキスメに自慢したいのパルスィは綺麗な緑眼でチラチラとキスメの顔を何度も見た。
あまりにも露骨すぎるアピールに男は頭を抱えていたがまぁそんなパルスィが可愛かったのでこそばゆい気持ちで見ていた。
「うん」
「この人とね私結婚したんだー!! ねぇ羨ましい? 羨ましいでしょ? 妬ましいでしょ? えいっ、嫉妬しちゃえ」
「……そんなかっこいいお兄さんと結婚なんてパルスィが羨ましい。いいな、いいな……」
「でしょ? でしょ? でしょー? 嗚呼素晴らしいわ、人に嫉妬されるのがこんなに心地いいものなんて……」
彼女の能力である『嫉妬を操る程度の能力』によるものなのかそれともキスメが元々そう思ってるのかが分からないがキスメのこの反応にパルスィは満足したのかキスメの頭を一回撫で、一人勝手にスキップで洞窟を進んでいった。それを男は慌てて追いかけていった。
洞窟を進んでいくと少しづつ空気が暑くなっていくのが感じられた。地上より寒いと聞かされていたがどうやら間違っていたようで、洞窟はジメジメとしており。とても蒸し暑かった。
やっと一人でスキップしながら進んでいったパルスィに追いついた男は急いで駆け寄った。パルスィは誰かと話をしている途中なのか男に気づかなかった。彼女と喋っていた相手は金色の髪の毛を後ろで結び、ふんわりとしたスカートと胸元にある6つのボタンが特徴的だった。
「お、これがさっきあんたが言ってた彼氏さんかい。初めまして、私は黒谷ヤマメっていうんだ、パルスィとはまぁそれなりに男の話をする仲ということで以後お見知りおきを」
「お、遅いじゃない。ヤマメにあんたのこと自慢したかったからつい急いじゃったけどあんたも遅いわよ」
「ははは……へー、顔立ちも中々だし、いかにもパルスィの好きそうな男じゃないか……」
「羨ましいでしょ? あげないわよ?」
「別にいらないって……」
二人が楽しそうに話しているのに割り込めず、男はただただ横でぼーっと見ていた。
ヤマメがそれを見かねてか男に近寄り男の頬を軽く撫でた。そして下をペロリと出し、まるで餌を前に舌なめずりする捕食者の様な目で男の顔を見ていた。
蜘蛛の出すフェロモンなのか洞窟特有の匂いなのか男の鼻孔には奥まで何やら甘い匂いが通っていた。
「いい男じゃないか……もしパルスィに飽きたら、私の元においで。大丈夫取って食おうだなんて思ってないさ、ただ蛋白はちゃんと貰わないとね?」
「あーっ!! こらヤマメ!! 何吹き込んでるのよ!! えーい!! 嫉妬して狂ってしまえ!!」
男を取られると勘違いしたパルスィは咄嗟にヤマメを指差し、人差し指を子どもが蜻蛉の目を回すかのようにグルグルと回した。
これがパルスィが己の能力を使用するときの癖であった。「嫉妬を操る程度の能力」ここぞとばかりに使おうとパルスィは自分の力を存分に使用していた。
「冗談だって冗談……でもいいねぇ、私も男にモテるのには自身があったからまさかパルスィが私より先に男を見つけてくるとは……妬けるよ……あぁ羨ましい……」
「ふふんっ、見たか私のこの力……妬ましいでしょ? ほらほら、もっと私に嫉妬しなさい!!」
「うわーねたましいわーやいちゃうわー」
「あっはっはっはっはっはーー!!」
一人高笑いするパルスィに呆れ顔になっている男にこっそりとヤマメは話しかけた。
その時のパルスィは自分が嫉妬されるという嬉しさでヤマメと男をそっち退けで一人悶えていた。
「……あんな感じだけどパルスィは物凄く嬉しいのよ。多分地底中にあんたのことを自慢しに行く気さ、ラブラブだねぇ。まぁ頑張りな。おめでとう幸せにするんだよ」
ヤマメからの祝いの言葉を貰った男はヤマメに礼を言い、嬉しさのあまり洞窟の壁をひたすら殴っているパルスィの手を取り先に進んでいった。手を握られたパルスィは小動物のようにピクンと震えた後男の手を強く握り返し、男の手に引かれていた。
蒸し暑かった洞窟を抜けると空からは小さな雪が降っていた。地底には太陽の輝きがなく、空には小さな黒雲が漂っていた。
しばらく進むと紅く塗られた橋があり、その向こうに一つ、また一つ小さな灯りが見えていた。
「旧都よ、あそこには地上からその身を追われた者達が毎日遊んで暮らしている五月蝿いところよ。まぁ、賑やかなのはいいことなんだけどね。さ、次は勇儀に自慢しに行くからそのまま進んで、あっ手は離さないでよ?人混みに入るからはぐれたら嫌だし」
更に手を強く握り締めるパルスィは笑顔で、頬を少し赤く染めていた。
男が橋を渡っていると反対側から背丈が男より一回り大きくて腰まで伸ばした髪を揺らし、足に履いた下駄を鳴らせながら杯に入った何かを飲んでいる女性が見えた。
その女性のでこの部分には星の模様が目立つ赤い一本角が生えており、手首、足首にはまるで囚人が付けられるかのような手錠と鎖があった。
男とパルスィに気がついたのかその一本角の女性が近づいてきた。そして男の頭をぽんぽんと叩き。笑いながら話しかけた。
「おお、あんたが噂のパルスィの彼氏さんか!! ほれ、挨拶がわりの酒さ、さぁ呑んだ呑んだ!!」
いきなり杯を男に差し出してそこに紫色の瓢箪からとくとくと酒を入れた。男が戸惑っていると後ろのパルスィが一本角の鬼に食いついた。
どうやらパルスィの反応を見る限りこの一本角は知り合いだということが男には理解できた。
「あんたねぇ……何時まで経っても変わらないわね。初対面の相手に話すネタが無いからっていきなり酒飲ませるなんて……それに人間にはその酒はきついでしょ……って飲んでる!? バカ!!」
「おぉ……妖怪用の弱い酒なのにいい飲みっぷりだね。あんた、酒好きだね? 私の目を誤魔化そうだなんて思っちゃいけないよ。呑兵衛は呑兵衛を見破る天才さ」
「何その超理論……流石の私もツッコミ側に回るべきかしら……」
「あっはっはっは。何言ってるんだパルスィ、女は突っ込まれるものだろ? この星熊勇儀、生まれてこの方一度も突っ込んだことも突っ込まれた事もないがな!!」
「このエロ鬼め」
男が杯の酒を飲み終え、杯を勇儀に返す。そして酒の感想を簡潔に伝え、手摺を背に腰を落とした。
心配したパルスィが男に近づき顔色を窺う、男の頬は少し紅潮していた。
「もう!! 勇儀がいきなり強い酒飲ませるから私の男が酔っちゃったじゃない……でも、あの酒を飲んで一応まだ意識があるのってのはすごいのよね?」
「あぁ、しかしちょっとやり過ぎだったか……いやー久しぶりに朝まで飲み明かせるほどの酒飲みに出会えたと思ったがやっぱり妖怪用じゃきっついかー」
「それ妖怪の私……一応鬼の私でもクるわよ?」
「あぁうん、すまんね幸せな帰宅を邪魔して」
「いつか返して貰うわ」
「手厳しいことで何より」
男は大丈夫だと二人に告げ、ゆっくりと立ち上がった。
その足取りはおぼつかなく、先程の酒が効いているのが目に見えて明らかだった。
男を心配したパルスィと勇儀は男に肩を貸し、急いで橋を渡ることにした。
橋を進んでいるとすれ違っていく妖怪たちが皆男の顔を見て何かつぶやいているのだが、パルスィと勇儀には聞こえなかった。
「確か旧都に酔い覚ましの薬を扱ってる薬局があるはずだ、そこまで運ぶとはいえ……こいつ軽いねぇ。私一人でも持っていけるんじゃないか?」
勇儀は鬼の中でも山の四天王とまで呼ばれる程、力が強く酒にも強いそして気さくな女性と地底ではかなりの人気者である。
二人に引きずられている男は「もう立てる、大丈夫だ」と何度も言っているのだがその顔は真っ赤でもし歩かせたら川にでも飛び込んでしまうんじゃないだろうかと二人に思われていた。
長い橋を渡り終え、雪の積もった街路を少し進んでいくと玄関の上に見事な達筆で薬と書かれた看板の建物があった。
男をパルスィに任せた勇儀がその建物の扉を三回ノックする。しばらくして扉の奥から年老いた男が返事をし、扉を開けた。
「おぉ、勇儀の姐さんか、どうした? 腹でも下したか?」
「あー腹でも下したわけでもないんだがあいつがちょっと私の酒を飲んでへばっちまってねぇ……よく効く酔い覚ましを扱ってるのは地底広しとはいえあんただけだろ? なぁに、タダでとは言わねぇ、ほれ、百年物の米酒さ。これでどうだい?」
「おぉ……これは絶品物じゃのう、よしその取引乗った!! 今すぐ持ってくるから待ちんしゃい」
「おっ太っ腹だね旦那!! いよっ!! 幻想郷一の薬剤師!!」
薬剤師は勇儀が持ってきた酒の入った一升瓶を受け取ると、商品棚をガサゴソと漁り、一つの小瓶を持ってきて勇儀の前に戻ってきた。
「ほれ、水に溶かさずに飲める錠剤じゃ。見たところ人間だろう? これなら飲みやすいはずじゃ。勇儀姐さんもいい男連れてきたもんだ。でも無理矢理飲ますのは良くねぇなぁ?」
「あっはっは、私に男なんてまだまだ先さ、あいつはパルスィの旦那だとよ。しかもここに来るまでにヤマメとキスメに自慢しながら来たんだ。熱々とは思わんかい? 店主さんよ?」
「ほー!!水橋の嬢さんも遂に結婚か!! いやーわしがもう数百年若かったら猛アタックしてたんだがのぅ……羨ましくて妬けちまうじゃねぇか。がはははは!!」
「店主、あんたパルスィの能力を食らってるぞ……ほら、パルスィが人差し指をぐるぐる回してやがる……」
「そうかもしれんな!! でもおめでたいことには変わりない!!」
楽しそうに話す勇儀と店主の会話に入り込む隙が見つからなく、男を自慢するタイミングを見つけられないので店主と勇儀の嫉妬心を操ろうとしているパルスィだった。
そしてその横で酒が全身に周り、今にも気を失いそうなのを必死に耐えている男はパルスィの肩に手を回し、何とか立っていた。
「ちょっと勇儀!! 薬を貰ったんだったら早くこの人に飲ませてよ!! やっぱり酔い潰してお持ち帰りする気!?」
「あ、悪い悪い……じゃあな店主! また今度飲み明かそうや!!」
「あいよ姐さん、そして水橋の嬢ちゃんもまた困ったことがあったらおいで」
「あっ、はい。ありがとうね。助かったわ」
パルスィと男の顔を見比べた店主はまた店の中に戻っていった。
小走りで近づいてきた勇儀が小瓶を開け、その中から茶色の錠剤を二つ取り出し、男の口に握り拳ごと押し込んだ。
いきなりの異物の侵入に驚いた男は目を見開いた、そして勇儀は男の舌の上に錠剤を落とすと、男の口から勢い良く拳を引き抜いた
「噛まずに飲み込みな……そうそう、上手いじゃないか。パルスィとは大違いだねぇ……」
「ばっ!! ばか!! 最近はデンプン袋無しでも飲めるわよ!! っていうかなんであんたが私が錠剤をデンプン袋に包まないと飲めないって知ってるの!?」
「えっあの店主から聞いたぞ。パルスィが錠剤を買うときはいつもデンプン袋も買ってる。って……」
「あのスケベ爺!!」
薬を飲み込んだ男が咳き込みながら立ち上がる、薬の効力は物凄く、二錠飲んだだけで男の体中を侵していた酒気はすべて消え去った。
薬の副作用なのか定かではないが、その後男は勇儀とパルスィに断って、二刻ほど厠に引き篭もっていたというのは余談である。
すっかり酒気の抜けた男は改めて勇儀に挨拶をした。
「まともな挨拶ってのは苦手なんだよ……私の名前は星熊勇儀、かつては山の四天王と呼ばれ、恐れられていた鬼さ。まぁ今はただの酒飲みだけどね」
「どう? 勇儀、私の旦那様よ?鬼のあなたなら……同じ鬼が選んだ男の素晴らしさがわかると思うんだけど?」
「あぁ!! 今はまだまだだがすこーし鍛えてやればいい酒飲みになる見込みがあるな、しかもこんな男前だと見ているだけで酒の肴になるかもな!!」
「でっっしょーー? こーんなに男前の旦那を捕まえた私に嫉妬してるでしょ? でしょ? ねぇほらぁ嫉妬してるって言いなさいよー? 素直になっちゃいなさいよー……えいっ!!」
杯に酒を注ぎ、男に酒を飲むか聞いている勇儀にパルスィはまるで「ビシッ!」と効果音が着きそうなほどの勢いで指差した。すると杯を持っていた勇儀がくるりとパルスィの方を向き、ずんずんと近づいてきた。
男は「またか」と溜め息をつき、二人の鬼をじっと見ていた。
「なぁに? 勇儀。まさか私の旦那様が素晴らしいからって欲しくなっちゃったんじゃないの? 確かにあの人はー、カッコいいしー、料理できるしー、高身長だしー、絵に描いた様な男だけど。あれは!! 私のものなんだからねー!! うふふ、嫉妬してるでしょ? ジュンジュン感じてるわ……勇儀の嫉妬心。あああ……トんじゃいそう!!」
「あちゃー言いたいこと全部言われちまったよ……まっこと羨ましいねぇ……この幸せ者めーー……少し前から様子がおかしいと思ったが……まさか男絡みだとは予想外だわ……」
「ふふふ、ほらほら、私の今感じている幸せ全てに嫉妬しなさい!! うふふふふ」
「あー!! こうなりゃヤケ酒だ!! じゃあな!!」
「これが私の本当の力……ここまで気持ちイイなんて思わなかったわ!! 今日何回言ったかわからないけど!!」
向こうで通り行く人全てに声を掛け、杯の酒を飲ませている勇儀の姿が街道に消えていくのを男はこそばゆい心持ちで見ていた。
楽しそうなパルスィを見ていると心の奥から暖かくなるのを男はほんの少しだけ感じていた。それでも地底の寒さは少し肌寒いが。
「よーっし!! さぁ次はさとりの所ね!! お燐とお空と……あとあのフラフラしている妹も居たら自慢してやるわ……今日の私はホント輝いているわね」
少し強引にパルスィに手を引かれながら旧都を後にする。枯れ木ばかりの古い道を手を繋ぎながら二人は歩いている。肩を寄せ合い、口から白い息をお互い吐きながら進んでいくといきなり目の前に赤目の黒猫が通りかかった。
黒猫は男をじっと不思議そうに見つめてきた、男も少ししゃがみ、不思議そうに黒猫を見た。実は男はそれなりの動物好きで獣医への道を目指していた、しかし努力虚しくその夢はあきらめざるを得なくなったが。
見つめ合っている黒猫と男に嫉妬しているのかパルスィが不機嫌そうに横から口を出した
「お燐じゃない……なんで猫の姿なのかな?」
「にゃっにゃっっ!?」
「はっはーん、見た感じさとりを訪ねようとする私をいきなり全裸で現れて驚かそうとしたけど知らない男と一緒だから人の姿の全裸で出るのは不味いからって猫の姿のまま現れた。ってところかしら?」
「にゃ、にゃぁ……」
お燐と呼ばれる猫は図星なのか小さく返事をした。男が妖怪の猫でも喉元を触られると気持ち良いのか試そうと手を伸ばすとお燐は自分から顎を手に乗せてきた。素直なお燐を褒めるかのように優しく喉元撫でているとゴロゴロと気持よさそうな声で擦り寄ってくる。
そんな一人と一匹が仲良くしているのを蚊帳の外で見ているパルスィはまた不機嫌そうに地団駄を踏み、何か閃いたのか嬉しそうにお燐に近づき、屈み、喉を撫でられて嬉しそうなお燐の目の前に人差し指を差し出した。
「にゃっ、にゃにゃにゃっにゃぁ……にゃ?」
「ねぇ、お燐ちゃん? この人誰かわかる? 知りたい? 知りたいでしょう? この人はね、私の旦那様なのー。動物にも優しくてこんな男前な男が私の旦那様なのよー? 羨ましいと思わない? えいっ!! 嫉妬しちゃえ!!」
お燐の目の前で人差し指をぐるりと回し、お燐の嫉妬心を高めたのだが嫉妬心で一杯のお燐はいきなり男の腕を駆け上がり、着物の胸元に出来た隙間に潜り込み、ひょっこりと顔を出した。
「にゃにゃにゃにゃ!! にゃー!!」
「あっバカ!! そこはダメ!! 私の特等席!!」
「ふーっ!! ふーっ!!」
嬉しそうなのか尻尾を服の中で振られている男はこそばゆく、少し気を緩めたら笑い出しそうな顔をしていた。
男の胸元という特等席を取られたパルスィは「しまった」と言った様子でため息をつき、お燐の頭を優しく一回撫でた。
「……屋敷についたら覚えてなさいよ」
「にゃーん?」
パルスィとお燐の争いはまだ終わりそうに無く、男は胸元をキープしようと動かないお燐を落とさないように遠くに見える少し大きな屋敷に向かっていった。
少しずつ近づいていくほどにその屋敷の大きさに只々驚かされる男の手を強く引っ張り、屋敷の鉄門の前にまで小走りでたどり着いた。
パルスィが鉄門の横にあるベルを持ち三回鳴らす。「リーン、リーン、リーン」とそこら中に耳鳴のような音が響く。そして屋敷の大扉が開き、そこからは紫色の髪の少女が気だるそうな様子でこちらに歩いてきた。
紫色の髪を持つ少女が鉄門の鍵を開けパルスィに挨拶をする、その胸元には目が付いていた。その目は男を見ると一回瞬きをし、再びギョロリと男を見た。
「あぁ、パルスィですか、あら? そちらのお方は……ふふっ、なるほど噂は本当ですか。まずはおめでとう、パルスィ。そして初めまして、私はこの地霊殿の主をしています古明地さとりと申します、以後お見知りおきを」
「挨拶はいいから……そうそう、あんたにこの人のこと自慢したいけど……さとりなら私の考えてること全部お見通しなんだよねぇ、あーあ、まぁ私の自慢したい心全て見通して嫉妬しなさいな。あ、あとお燐をうちの旦那から引っ剥がして……その、じゃ、じゃ、若干私の旦那が猫嫌いで……」
「んなわけないでしょう? 素直に言ってみたらどう? 邪魔なんでしょ? ふふふ、どう? 自分が自慢する前にその心が読まれてしまうのは? 悔しみなさい。さぁ!! さぁ!! 橋姫の本気を……」
「ええい!! わかったわよ!! 悔しいですよーだ!! ほらこれでいいんでしょ? 早く旦那からお燐を……」
「はいはい……わかりましたよ……」
少し怒っているパルスィの頼みに了承し、さとりは男の着物の隙間にしがみついているお燐に手を伸ばし、ゆっくりと持ち上げた。お燐は特に抵抗もせず、素直に男から離れ、さとりの腕の中に抱かれ、また嬉しそうに鳴いた。
「まぁこれでわかったでしょうね、無闇矢鱈に人の嫉妬心を操ると一部の人達は行動に出るということが」
「あーはいはい。わかりましたよわかりましたよ、でも皆に嫉妬してもらえるのが嬉しくて嬉しくて、ちょっと癖になっちゃちゃいそうだったの」
「にゃー」
さとりの腕から抜けだしたお燐は屋敷の玄関まで歩き、前足で扉を開けてその中に入っていった。
「どうせこいしとお空にも自慢する気なんでしょう? もうすぐ晩ご飯だから皆いるはずだから……一緒にお食事する?」
「中々タイミングがいいわね……まさか私たちが来ることをその眼で見てたんじゃないでしょうね?」
「いや、そんな能力はこの眼には無いんですけど……」
男とパルスィはさとりに誘われるまま、地霊殿の中に入ることになった。
重い扉を開け、玄関を抜け、小さな灯りで照らされる廊下を歩いていると端の方に沢山の小動物の影が見える、どの動物も男とパルスィが珍しいのかじっと見つめていた。
「うふふ、見られてる見られてる……やっぱり動物たちの眼から見ても私と旦那の幸せは丸分かりなのね……」
「いや、ただ動物たちには人間が久しぶりなんですよ、だからじーっと見てる。人間を見るのが初めてのペットも居るわ」
「へー、あの博麗と白黒シーフがやって来たとき以降は誰も来てないのね」
パルスィが懐かしそうに言った、以前ここ地霊殿の奥底の灼熱地獄で八咫烏の力をその身に喰らった霊烏路空と言う一匹の地獄鴉が起こした異変の解決の為に博麗とその仲間である魔法使いによってお空の暴走は止められ、異変は終了した。
その異変以降誰もこの地霊殿を訪れてないのだという。不思議に思った男が「自分から出向かないのか?」と聞いたところ。
何かを悟った様な寂しい笑顔でさとりは言った。
「だって私、嫌われてますから」
そう答えるさとりの顔は笑顔だった。
パルスィが男の後ろから先程のさとりに対して言葉をかけた。
「忌み嫌われてる妖怪の集まりが私達よ、だからさとりもそこまで気にしなければいいのに……体壊すわよ?」
「心から心配してくれるんですねパルスィも優しいところあるじゃないですか。でももう少し素直だったらねえ……?」
励まされて少し元気が出たのかさとりは再び歩き出した。廊下にスリッパの足音が響いていく。
「そ、それとこれとは関係ないでしょ!? あっこら笑うな!! さとりが変なこと言うからうちの旦那が腹抱えて笑ってるじゃない!!」
「ほら、そんなことやってる間にキッチンにつきましたよ……またお空は遅刻ですね……」
キッチンのドアのノブを握り、目を瞑るさとり、部屋の中にいる者の心を読み、家族の出席を確認する。
さとりの様子からすると一人足りないらしいが、特に気にしなくてもいいということで男とパルスィはさとりに続いてキッチンに入っていった。
「あらお姉ちゃん、あら珍しい。お客様? 見たところ橋姫と……まさかお姉ちゃんの彼氏!? わー!! おめでとう!!」
「んにゃ、お兄さん初めまして、あ、こっちの姿では、ってことね」
キッチンに入ると赤い髪を三つ編みで結んだ赤目の女性と、色素の薄い緑色のような色のふんわりとした髪の子供っぽい外見の少女が話しかけてきた。
少女の特徴的な所はさとりと同じく胸元にはさとりとは違う眼があった。異なっている所といえばその瞼が強く閉じられているという一点のみだった。
男は赤目の女性がお燐だとすぐに理解し、その頭を撫でる。その姿をじーっと見ているパルスィと少女。
お燐が嬉しそうに男に抱きつこうとしたがそれをパルスィが遮った。
「あー!! お燐!! さっきはよくも私の旦那にべったりだったわね!!」
「にゃはははー。パルスィがあたいの嫉妬心を操るからいけないんだーい」
「ん? 橋姫の彼氏? 旦那? 嘘ー!? この橋姫がー!? うっそー!! お姉ちゃんの彼氏だと思ったー!!」
「はぁ……違いますよこいし、この二人は私達に幸せ自慢をしに来たんですよ。だから私が晩ご飯に誘ったの、こいしやお空、お燐に会えますからね。ってね。というか一番ふらふらしているあなたが時間通りにここに居るなんてすごいわね。明日の地底は日本晴れかしら。洗濯物も溜まってるし……」
「あっ、ひっどーい!! で、橋姫とあなたの出会いってどんなの?」
さとりが説明しても信じ難いと言ったようなこいし。睨み合っているパルスィとお燐。エプロンを着て台所で料理をするさとり、そして一人慌ただしい状況について行けずに呆然とする男。
この状態がいつまで続くのか分からないが、廊下から走ってくる何かの音でさとりとお燐が扉の方を見た。
「あ、お空がお腹空かせて帰ってきたな」
「まったく……仕事熱心なのはいいことだけど、晩ご飯の時間に遅れるのはいけないことなのに……」
フライパンで何かを炒めながらさとりはお空の分の晩ご飯を棚から取り出してフライパンに投入し、何事も無く調理を続けた。
「お姉ちゃんの本音は何度も準備するのが面倒なんでしょ? わかってるよー」
「あら、こいし。あなたもわかってきたじゃない、私の思ってることがね」
「流石に少し考えたら読めるわよ……」
なんておかしな話をしているとキッチンのドアが開き、慌てた様子で黒髪を腰まで伸ばした女性が部屋に飛び込んできた。
「セ、セーフ!!」
「アウトよお空。あなたのおかげで私は二度手間してるの……」
「そうよお空!! 私達四人で毎日ご飯食べようねー!! って約束したのお空なんだよ? そのお空が遅れるなんて……お姉ちゃんとお燐が優しくてよかったね」
「遅れたのは良くないが、まあ今日はあたいも色々やってしまったからねぇ……まぁなんだ、お客さんもいるからさっさと座りな。おかえり、お空」
お空、と呼ばれる少女はお燐の発言からキッチンに存在する人が多いことに気づいた。
いつもの三人と、見たことあるような金髪の少女、と男を見、金髪の少女のことは思い出したが、男なんてそうそう見ないので記憶にも無かった。
「橋姫と……この男の人は……」
「そう、よくぞ聞いてくれましたお空!! この男の人は……何と私の……!!」
パルスィがいつもの態度で自慢しようとすると空は自身満々にこう言い放った。
「晩ご飯の食材!! やったー!! 新品のお肉だー!!」
その言葉を聞き、男は全身から血の気が無くなっていくのを感じた。顔を真っ青にしその場にゆっくりと立ち上がり一本の柱の様にぴん、と背筋を伸ばし、固まった。
一方空は一寸も動かない男をキラキラと輝やく瞳で見つめ、口からは涎を垂らしていた。
「ち、違うからね!! こらお空!! このお兄さんはお客さまで……」
「そうよお空、変なこと言うとあんたを晩ご飯の食材にするわよ? お姉ちゃん今から焼き鳥って作れるよね? 特別大きいの」
「えぇ、問題ないわ。お客様を食材なんて言ってしまう無礼な烏さんはタンドリーチキンかターキーにするのがいいかしら……?」
燐が空に説明しようとするが、こいしの言ったことにさとりが便乗したせいで空も命の危険を感じ、男の様に固まってしまった。その中パルスィは呆れ顔で二人を交互に見ていた。
空は自分の犯した間違いに気付き、直立不動の男を首を振って見、再び固まってしまう、そんな蛇に睨まれた蛙の様な空の耳元にパルスィがこっそり囁いた。
「私の旦那に二度とあんなこと言わないでくれるのならこの事はなかった事にするわ……お空も自分の死に様が軟骨の唐揚げとかフライドチキンとか手羽先なんて嫌でしょ……?」
「もっと嫌だよ……それはダメぇ!! ひっ」
男とお燐以外の視線がお空をジッと見つめている。「美味しそう」と言いたそうな瞳で――
姉となにやら火加減とスパイスの話をしているこいし、食器棚から銀のナイフとフォークを取り出し、洗い始めるさとり、そして指をポキポキ鳴らし、笑顔で空を見つめるパルスィ達に怯え、空はまるで魔法使いに掛けられた石化の魔法が解けたかの様に急に動き出し、男の前に跪き、深々と頭を下げた。
男は震える手で空の頭を撫で、過擦れた声で特に気にして無いと言って、ゆっくりと椅子に座り、溜め息をつく。
キッチン中にこんがりとした匂いが充満し、さとりが野菜炒めが盛られた皿と透き通った皿に盛られた刺身を持ってきた。
「お空、流石に人間の男を見るのは久……初めてかもしれないけどいきなり初対面の人に食材とか言うのは失礼よ。はい今日は野菜炒めとお刺身」
「なんていう食い合せ……さとりあんた、料理のセンス……」
「くちゃくちゃくちゃ、ん、今日の野菜炒めはよく火が通ってるねお姉ちゃん。昨日のジンギスカンとかいうのより美味しいよ」
「魚とは久しぶりだねぇ……ふふっさとり様には感謝です」
「ねーお燐、お鮭ー!! お鮭取ってよお鮭。あとおしょーゆー」
いただきますも言わずに皿に盛られた野菜炒めと刺身に箸を伸ばす妖怪達に唖然としながらも、何も食べないわけにもいかないので、男もせっせと箸を動かし、刺身と野菜炒めを確保していく。
十分程すると皿の上には野菜の切れ端しか残っていなかった。
「ふぃー食った食った……お空、あんたなかなか箸使い上手くなってきたじゃない」
「元々上手かったですよーだ!!そんなこと言ったらお燐だってちょっと前までは手で食べてたもんね」
「こら、二人とも、そんなどうでもいい喧嘩はやめなさい。お客様が見てるでしょうに」
「お姉ちゃんも大概箸使い良くないけどね」
「こいし? 後でお姉ちゃんの部屋に来なさい」
「はーい、でも嫌ですもーんだ」
そんなやりとりを見ているとパルスィは自分の幸せを自慢する気が無くなったのか、綺麗に手を合わせて一言「ご馳走様」と言った。男も箸を綺麗に置き、同じく手を合わせ「ご馳走様」と言い、さとりにお礼を言った。
食器を洗い場に運んでいるさとりが振り向き、お礼の言葉を二人に返した。
「あー……とりあえず心の奥から感謝しているようで私は嬉しいです。あ、気を悪くしたらごめんなさいね。私は相手の心を読めてしまうから心の奥から相手がそう思ってるかをつい口に出してしまうの、パルスィ……あなたは早いところ家に帰ってこの方に甘えたいという欲望が剥き出しです。もう少し抑えというものを……」
「そんなこと思ってないわよ。やーねさとりさんったら……」
「さとりさんとか気持ち悪いですよパルスィ」
「チッ、」
「あっ、今素でイラッてしたでしょう。そうなんでしょう。私パルスィの事信頼してたのに……あぁ友人に裏切られるのがこんなに辛いなんて……」
急にさとりはその場に崩れ落ち、両手で顔を隠した。まさか友人を泣かせてしまったと思ったパルスィはさとりに駆け寄り、さとりを後ろから抱き締めようとした。
お燐とこいしと男が驚いたような顔でパルスィを見ていた。その横でお空は烏の姿に変化し、かぁかぁ。と満足そうに鳴いていた。
「ご、ごめんさとり……そこまであなたが傷付くなんて思わなかったから……」
「ふ、ふふふっ。あははは……!! パルスィが心の奥から謝るなんて、っあはは、ダメ、面白くて笑いが……」
「だっ、騙したわね!!」
「心の奥から私を心配している時のパルスィの心が、面白くて。『どうしようどうしよう、謝らなきゃ』ってずっと思ってたでしょう? ふふふ、可愛いわねパルスィ」
「これだからあんたは苦手なのよ!!」
舌をペロリと出し、心配してくれた友人にありがとう。と言い、さとりは再び食器を洗い始めた。
何時までも地霊殿に居るわけもいかないと思ったパルスィはさとりにもう帰ると伝え、男を連れてキッチンを後にした。
「……気をつけて帰るのよ。勇儀にでも見つかったらまた飲まされてしまうでしょ? あ、そうそう、改めておめでとう」
「あんたも素直ねぇ……本当に明日晴れるんじゃないからしらって疑うわ……んじゃーね。お邪魔したわ、あと晩ご飯ありがとう」
「いえいえ」
廊下を少し歩き、玄関を抜け。庭から外門までの道を歩いているとこいしがいきなり目の前の地面の上で寝転んでいた。
こいしはパルスィと男に気付き。寝転がったまま声を掛けてきた。
「あっ橋姫帰るんだ、ばいばーい」
「そんなところで寝転がってると砂だらけになってさとりに怒られるわよ? ほら、もう夜なんだから、ってもういない。ほんと神出鬼没ねあの子は」
話している途中でどこかに消えてしまったこいしを特に気にせず、二人は外門まで再び歩き始めた。
ギィィと大きな音を響かせる門を通りぬけ、地霊殿を後にした。
「あぁ……もっとあなたの事自慢して回りたかったわ……さとりに自慢しに行くのは失敗だったわね。自慢しようと考えたことが全部読まれてしかもさとりったらそれを口に出しちゃうからねぇ、はぁ疲れたわ」
男も棒のような足を引きずりながら旧都を目指すため、ゆっくりと歩いていた。パルスィはその後ろでもどかしそうについて来ていた。
パルスィは男を何度か呼ぶが結局本題が言えずにいつの間にか旧都まで戻って来ていた。
旧都も夜遅くになると街路には酔いつぶれて寝ている妖怪達や酒の瓶が転がっており、気をつけて歩かないと躓いてしまいそうだった。
少し前にお世話になった薬屋の前を通ると店主が一升瓶を片手に入り口で物凄いいびきをかいていた。
「……おーい店主ー。薬屋さーん? ダメだこりゃ。このままじゃ風邪引いちゃう……手間かかるお爺さんね」
パルスィが店主を起こそうとするが足元の一升瓶に気付かずにそれを踏んでしまい、ひっくり返ってしまった。
膝を擦りむいたのか膝小僧から赤い血が染み出していた。
「痛っ……ったく勇儀に言わないとね……宴会した後の空の一升瓶を回収しろって……あ痛っ」
パルスィは再び立ち上がり店主を再び起こそうとするがどうやらさっきひっくり返ったせいで腰が抜けてしまったのか、生まれたての小鹿のようにプルプルと震えていた。
それを見た男はパルスィに少し待てと言う。そして鼾をかく店主を背負い、薬屋の扉を開け、店中に入っていく。そして数分もしない内に男が小さな小瓶と包帯を持って薬屋から出てきた。そしてパルスィの擦りむいた膝小僧を確認し小瓶の蓋を開け、傷口にその中身を掛けた。
「つっ……んんっ、くぅぅ……しみ、るぅ」
傷口が薬で程良く濡れた後、次に男は包帯を膝に巻き、傷口を隠した。そして腰が抜けて立つこともできないパルスィの両膝の裏に右腕を通し、背中に左腕を当て、そのまま持ち上げた。
お姫様抱っこの形で持ち上げられたパルスィは目を丸くし、無意識に男にしがみついた。
「きゃっ……これって、お姫様抱っこってヤツよね、やだ、恥ずかしい……下ろせばかー!! 見られたらどうするのよ!!」
パルスィの住処である橋の近くにある小さな小屋に向かって歩いて行く。パルスィの体重が両腕に感じられ、肌寒い中でも腕だけが温もりで一杯だった。雪が降り続いており、男が夜空を見上げれば白い雪の結晶がぱらぱらと降り注ぎ、顔に触れ、じわぁっと溶けていく。
腕の中で顔を真っ赤にして男の顔を見ようとしないパルスィ。二人は少し気不味い雰囲気のまま歩いていくと川辺の小屋が見えてきた。
小屋にまで帰ってきたことに気付いたパルスィは男の腕の中でじたばたと暴れ、男はそれに耐え切れず暴れるパルスィをゆっくりと地面に下ろした。
「ったく、足を少し捻っただけなのに大げさなのよ……まぁ別に嫌だったとかそういうわけじゃないんだけどー。もうちょっと常識を、ってこら先に行くなー!! ばかー!!」
パルスィの足の怪我も大した事無いと確認した男は大きな欠伸をしながら小屋へと向かって行く。そしてそれを慌てて追いかけるパルスィの姿がぱらぱらと降る雪の中に消えて行った。
この翌日二人は地底の宴会で酔った勇儀の紹介で全地底中の妖怪達の前で結婚し、湖の水を飲んだ事を暴露することになったのだった。
八
深夜、空には月明かりを遮る黒雲が何層にもわたって漂っていた。
小さな石に腰掛けている早苗と両手両足で嬉しそうにポーズを取っているパルスィの姿だけがその場所にあった。
無名の丘の中にある小さな湖。その湖の水面から数尺上にある森の横の小さな空間に彼女たちはいた。
「へぇ、大事なところは離さないなんて貴方らしいですね……でも私の方が断然幸せを味わって来たと思いますけどね。あなたの負けですかね」
「ええーい!! そんなわけないでしょ!? 確かに早苗みたいに接吻なんて恥ずかしくてずっと出来なかったけど。それでも楽しかったの!!」
「でもまぁ、幸せを味わってきたんでしょう? それはそれで羨ましいですね。私と違う幸せに包まれたなんて妬ましいです」
パルスィの幸せを聞いた早苗はボロボロの顔で精一杯笑っていた。守谷神社から逃げてから過酷な生活をしていた早苗の顔は今にも眠ってしまいそうだったからパルスィは労りの言葉をかけた。
「早苗、無理しないでよね。私のこの幸福自慢を聞いてくれるのは多分あんただけなのよ? 私と同じくこの湖の水を飲んで、お互いに伝承通りすばらしい幸福と耐え切れないほどの不幸を味わってきたのだから……」
「えぇ、でもやっぱり人間の私には色々ありましたよ……」
「私のほうが断然大変だったけどね。ったく障害児ってだけで……いやまぁ夫の件は同情するよ」
「パルスィさんさっき私の話終わったとき腹の底から大爆笑してましたよね?」
「そうだっけ? まぁとりあえず早苗無理しないでよね。今にも倒れてしまいそうよ?」
「大丈夫ですよ……それよりもパルスィさんの話にはまだ続きがあるんでしょう? 今私が欲しいのは労りの言葉より、あなたの不幸話です」
二人はお互いの幸せを競い合うとあの日誓ったが今はその伝承通り最後にはのしかかるような不幸を味わった、早苗はそれをパルスィに話した。しかし早苗はパルスィの不幸を聞いていない。
まだ二人は対等では無かった。お互いの幸せと不幸を全て洗いざらい話した後。二人はやっと普通の友人同士に戻れるのだろう。
それを早苗もパルスィも望んでいた。だから早苗は聞かねばならない。パルスィの不幸を――
明らかに無茶をする早苗の態度に呆れたパルスィは溜息を一つ吐き、欲張りな早苗に負けないような不幸話を始めるための前口上を唇から紡ぎ出した。
「やれやれ、人の不幸は蜜の味って言うけど。この不幸は何の味かしらね? さぁ早苗、私の不幸話をご賞味あれ!! 三星グルメも私の不幸の絶妙な味には叶わないわ。舌が肥えて二度と並大抵の不幸じゃ満足できない体にしてあげる」
先ほどと違い真剣でどこか寂しそうな表情でパルスィは早苗とどこかで見ているであろう誰かに向けて語り始めた――
九
男と添い遂げ、今は二人で暮らしているパルスィは今この状況で少し悩んでいることがあった。夫が勇儀の宴会や趣味でやっている獣医の仕事でいつも夜遅くに帰宅するのが一人の妻としては気になっていた。
今この時も地上ではもう夜遅くの筈なのに、夫は動物の様子を見に行くと毎晩何処かに行ったきり帰ってこないのだった。
あの人に限って浮気など、それこそ体目当てだけで愛の言葉を紡ぎ出せる汚らわしい男達のような事は無いだろうと思えば思うほど悪い方向に考えてしまう。考えれば考えるほど悶々とした感情が襲ってくるのであった。
「あー、遅いわねぇ、地霊殿にそこまで重症な動物が居たっけ? いやそれよりもまさかお燐とかお空と遊んでて……ハッ、今この時期は猫は発情期だから……いやいやいや」
有りもしないことを考えてるうちに空虚な夫の部屋を覗いてしまう、机の上に雑に置かれた手帳を手に取り、パラパラと頁を捲った。
何も書いていない手帳をただ無常にパラパラと捲っていると後ろから「おい」と声がした。いつの間にか帰宅していた男はパルスィが手に持っていた手帳を乱暴に取り上げた
「何そんなに怒ってるのよ、あなたが遅かったから暇だったのよ。で、地霊殿で何やってたの? いつもよりも遅くまで居たじゃない? まさか私に言えないようなことを? ねぇ、怒らないから素直に……」
問い詰めるパルスィの頭に手を置き「気にするな」と男は言った。その言葉には優しさよりもどこか厳しいところがあった。
男を怒らせただろうと思ったパルスィは直ぐに男に謝り、夕食が要るかどうか問い掛けた。男は後ろ姿のまま「夕食は必要ない」と言いその場を立ち去る。
あの夜の後から二人は地底中の噂になるほどの人気のカップルで、そのカップルをひと目見ようと地底中の妖怪たちが彼女と男のもとを訪れた。さらには本来来てはいけない筈の地上の新聞記者の烏天狗が取材に来るほどだった。
「……地上かぁ、今この幸福が早苗の幸福より素晴しいってどう伝えたらいいのかしら。手紙? 絵? 歌? 伝える手段は沢山あるけれど、どれもやったこと無いしインパクトに欠けるわよねぇ」
ふと地上で今は男と幸せな新婚生活を過ごしているだろう早苗のことが気になった。あの日一緒に湖の水を飲み、パルスィに負けるはずのない最高の幸せを手に入れると宣言した彼女は今どんな幸せを味わっているのか、想像するだけでパルスィは自身の身体を抱いて震えた
今まで地底の住民達に幸せを自慢してきたが、肝心の勝負相手である早苗の幸せを一つも聞いてないこの状況だけが不満だった。
「またあの天狗が来たら……頼んでみようかしら」
はぁ、と小さな溜息を漏らし廊下を歩くとパルスィの背後から突然バサバサと羽ばたく音がした。
また一つパルスィが溜息を漏らすと後ろの其れは元気いっぱいの声で喋りだした。
「呼ばれて飛び出て只今参上!! 天知る地知る我知る人知る幻想郷の美人敏腕敏捷新聞記者、射命丸文がやってきましたよ!!」
「あんたそんな欝陶しいキャラだっかしら……? というか流石ね、私が珍しくあんたを必要かなーって思ってたらまさかやって来るとは、まさかあんたモノホンの敏腕ジャーナリストって奴?」
「失礼な、私はたまたま、ええ、たまたま、ここに来ただけですよ。強いて言えば霊夢さんに頼まれて地底の高級そうな酒を盗んで……いや借りてこいと言われただけです」
「へぇ、じゃあ私が勇儀にあんたのことをバラしてやろうかしら? あーあ今結婚して二ヶ月ぐらい経った早苗の情報が聞けたら寛大な私は満足してこの目を十秒ぐらい閉じて目の前の盗人さんを見逃すのになぁ……」
「露骨すぎやしませんか橋姫さん……はいはい、いいでしょう。私の知っている範囲でお教えしましょう」
天狗、射命丸文はYシャツの胸ポケットから秘蔵のネタ帳こと文花帖を取り出し、とある頁に挟んであったペンを持ち、パラパラと頁を捲っていった。
早苗の情報をまとめてある頁を見つけたのか頁を捲る指を止め、長い耳に挟んでいたペンを右手に持ち、かりかりと何かを書きながら早苗の情報を読み上げる。秋の満月の中鈴虫達の演奏に包まれて口付けを交わしたことや、二人で人里の市場に夕御飯の材料を買いに行ってたことを射命丸は楽しげに語った。
「えぇーっと。以上が、今のところ私が知っているあの二人の幸せな新婚生活です、といっても面白くて新聞のネタになりそうなのだけですけど」
「えっ、それだけ?」
もう少し過激な事でも起きたのだろうかと期待していたパルスィはあっけからんに取られたかのような表情で新聞記者を見つめた。
「えぇ、それだけですよ。ごく一般的な、普通の人間同士の進展ですね」
勝った、いや勝てる、とパルスィは勝利を確信した。意外と性と恋愛事に積極的だと思っていた早苗がまさかあの日から接吻までしか進んでないとは予想外だった。
人の家の台所のどこに和菓子が隠されているのかを調べ上げる程、調べ物は徹底的なこの天狗をこんな時は信用していたのだ。
しかし実のところは早苗とその夫は既に男と女の関係にまで進んでいたのだった。
「約束は約束ですよ? ささっ目を閉じて私を見逃してくださいよ」
「はいはい、じゃあね。天狗」
天狗との約束なのでパルスィはその緑色の目を閉じる。少しした後で闇の中で射命丸の声が聞こえてきた。
「あっそれとですね、食器棚の中の鍋の中に甘味を入れるのはやめましょうね。わかる人にはわかっちゃいますし長持ちもしませんよ。土蜘蛛印のお饅頭、美味しく頂きましたよ。では、御機嫌よう橋姫様、是非いつか我が、文々。新聞の定期購読をよろしくお願いしますねー!!」
盗人天狗射命丸を取っ捕まえようと目を開けたがそこには数本残った黒い烏の羽根がひらひらと舞っていた。
廊下に散らばった黒い烏の羽を箒と塵取りで集めて屑籠に捨てた後、台所の食器棚の中の小さな鍋の蓋を開けるとそこには土蜘蛛印の饅頭を包んでいた包装と、また別の包装に包まれた饅頭があった。
「へぇ、ただの食い逃げかと思ったらお詫びなんてくれるのねあの天狗……しかもこれ、地上では結構有名な甘味処の仰天饅頭じゃなかったっけ? 確かほぼ激辛味しか作ってないって噂の……まぁ、頂いたものだし腐らないうちに頂こうかしら」
仰天饅頭の包装を剥がし、見た目は普通の饅頭であるそれを口に入れる。少し食み、中の具を咀嚼するとなんとも言えない甘さが口の中に広がった、噂ではかなりの激辛らしいので、信じて一口味わってみると、実は普通の饅頭という予想外の現象に驚き、咳き込むパルスィの姿がそこにあった。
「ゲホッゲホッ、なにこれ話と全然違うじゃない!! これこそ訴えるべきだわ……甘いのか辛いのかはっきりしてよ、しかし早苗もまだまだね、いい勝負になりそうだわ。ううん、私の勝利よ」
幸福競争相手の早苗側の進行を知り、勝利を確信したパルスィは夫の部屋に向い、夫が寝ているベッドに白い脚から潜り込み、夫の首に腕周して身体を寄せて寝転がる。
明日の朝御飯は何にしようか。と心の奥で考えると夫の身体を抱く腕がきゅっと締まり、目の前で寝ている彼が可愛らしい声と湿った息を漏らす。それらを顔中に感じながら妻は眠りについた。
次の日の朝、パルスィが目を覚まし、愛しい夫を起こそうとすると隣で寝ている筈である彼の姿が無い、いつの間にか布団は跳ね除けられ、その中にはパルスィしかいなかった。
朝御飯も食べずにどこに向かったのか、何をしに出ていったのか、何もわからなかった。何もわからなかったのでただベッドの上に跪いてその翡翠色の両瞳から透明な大粒の涙を流すことしか出来なかった。
しばらくの間涙を流した後、コンコン、と戸を叩く音がした。はっと我に返り、来客を迎えに行く。
「……どなた? まさか天狗がもう、いやそんな訳はないわね、昨日の今日なのに」
そう言っていう間にも戸は叩かれている。コンコン、コンコン、とずっと叩かれ、そのしつこさに怒り狂う前に戸の前まで行き。その戸の錠を外し戸を開けた。
そこには黒い帽子を被った子が居た。地霊殿の主、古明地さとりの妹のこいしだった。
「こいし、どうしたの? 勝手に地霊殿を抜けだしていいの?」
「別に問題ないわ。そんなことよりもパルスィ!! あの男は?」
いきなり人の家を訪ね、夫がどこにいるのかと聞いてくるこいし。てっきり夫は地霊殿に向かったと思っていたが。古明地こいしは首を横に振り、否定の意を表す。
愛する夫の行方がわからない。パルスィは地に膝を落とし、肩を震わせ
「じゃああの人は何処に?」
「ねぇパルスィ、あの人なんか嫌な感じがする。ねぇ早く別れたら? なんか取り返しの付かないことになりそう!! そっちの方がパルスィもあの人も幸せだよ?」
「嫉妬もここまで来ると目も当てられないわね、私が選んだ彼なの、わかる? 赤の他人の貴方に言われても私はなんとも思わないから、地霊殿に居るんでしょあの人。今からさとりの所に言って問い詰めてやるわ」
「待って!! ちゃんと私の話を……」
自らの能力を乱用するのも良くないな。と悟った顔でパルスィはこいしを振り払い、旧都へと歩いて行った。
「知らないよ? 男はみーんな馬鹿なんだから」
誰に投げかけられた問いなのかは問いを投げかけたこいし自身わからない。そしてこいしの姿は彼女の掌から現れた薔薇の花弁の中に消えていった。
旧都へと歩いていくパルスィの顔は少し焦りが見えていた。
しばらく歩き、橋を渡り、旧都に向かった後パルスィは男が行きそうなところを何件か廻っていった。酒屋、土産屋、食堂の店主や客に聞いたが誰も夫の姿を見ていないという。
そして最期に薬屋の店主を訪ね、夫が居なくなったことを話していた。
「どうしよう、あの人も人間だから、あぁどうして勝手に出て行ったの!? この地底には地上の妖怪よりも凶暴な奴らも居るってあれほど言ったのに……どうしよう、どうしよう、どうしようっ!!」
「橋姫さんや、やっぱり地霊殿に行って覚に頼むべきですぜ。放し飼いのペットもいるし……何より橋姫さんの次に旦那さんはあの館の連中と仲が良かったじゃあないか?」
「そう、そうよね、でも今地霊殿に行くとこいしが邪魔するの」
「あのふらふら妹さんがなんかしたのかい、でも子供の悪戯だろう? 別に気にせず行けばいいさ。旦那さんが一生帰って来ないとなると橋姫さんも困るだろう?」
古明地こいしが何故今朝パルスィに問い掛けたのかはわからない、それに、その問にどんな意味が含まれていようとも彼女にとって夫はかけがえのない存在だったのだ。それだけは変わることがなかった、今までも、これからも。
不安で泣き出しそうな瞳を手の甲で擦り、踵を返し地霊殿の方向へ向かった。
雪が少し積もっている道を歩く、そういえばあの池の水を飲んだ後もこの道を通ったなぁ、と少し懐かしい物想いに浸りながら歩んでいく。
少し不安になって俯き気味に早歩きで道を歩き進んでいると向こう側からからん、からんと下駄の音が響いた。
どうせ地霊殿から旧都に戻る途中の行商人か誰かだろう。
「あの人以外の男なんて皆私の顔にしか興味無いのよ」
俯いたまま通り過ぎようとすると聞き慣れた声で下駄の音の主がパルスィに喋りかけた。
「お、パルス……」
「げっ」
反対側から歩いてきた人物を特定するのは簡単だった。手には大きな杯、腰よりも下まで伸びた金色の髪、そして何よりも額から生えている赤い一本角を持つその姿を翠色の目で刹那確認した途端、他人の振りをしてやり過ごそうと早歩きで歩くと手首掴まれてしまい。
「人を呼ぶわよ?」
「逃げるなよパルスィ。『げっ』とはなんだ。『げっ』とは……パルスィ」
「勇儀、相変わらず男の臭いよりも酒の臭いのほうが強いわね」
がっはっはと笑いながら勇儀が続ける、今直ぐにでもパルスィは勇儀を振り払って地霊殿に向かいたかったが彼女を振り切ることは不可能に近い。もし振り切れたとしてもまた変な噂を地底中に広められそうなので話し相手になることにした。
「そりゃあもう私と言えば男よりもにごり酒だからな、最近いい呑み相手もできたしな。またパルスィに紹介してやるよ、未熟だけど見所ある奴さ」
「ッ……下品よ、それに知っているでしょう? 私達夫婦は二人共酒にそこまで強くないし、そもそも貴方と呑み交わせる時点でそこそこ強いじゃない」
「あっはっはっは。耳の先まで赤くなってらぁ。酒でも呑んだか? そんな回答しかできないなんてパルスィも呑兵衛としてまだまだだな。呑む時は好きな奴と好きな様に呑んで騒いで遊んで触れ合う物さ。酒に強い強くないは関係ないね。……とと、じゃっ、私は旧都で酒でも呑んでワイワイ騒ぐことにするよ。またな、何か大切な話があるような気がしたが忘れてしまったな、また思い出したら話に行ことにさせてもらおうかねぇ、あ、そうだ。お前の旦那によろしく言っておいてくれよ?」
「長ったらしい話しね……ええ、伝えておくわ。『勇儀の酒だけじゃなくて勇儀にも気を付けたほうがいい』ってね」
「そりゃ手厳しいな。じゃ、見つかるといいな、幸せって奴」
皮肉が言えれば十分だ。とでも言いたげに杯に入った酒を呑みながら鬼は旧都に向かって下駄を鳴らしながら再び歩き始めた。
「ん、ふぅ……私に何も言わないで外出なんて何様のつもりかしらね、もし変な事をしていたらお灸を据えてやる必要があるわね、私は寛大なのよ」
独り言を言いながら歩いている内に地霊殿も見えてきた。相変わらず庭の草木はあまり手入れされておらず、伸びきった雑草と枯れた木ばかりで綺麗な花なんて一切生えていない不気味な庭だった、そしてその奥の館の中で大量のペットたちと共に過ごしている古明地姉妹。
あの二人は今でもパルスィにとってはよくわからない存在であり、結婚を祝ってもらった今でも心の何処かでは否定、反発していたのだった。
「もうすぐ着くわね。まぁアイツのことだろうし無償で動物たちの健康診断でもやっているんでしょうね」
大きな門が遠くに見えてきた辺りで近くの茂みから軽やかに人影が出てきた。
「ありゃりゃ。橋姫さんじゃないか。こんな時間に此処、地霊殿に用があるなんて、さとり様とこいし様、まさかお空にでも入用かな? まぁまぁ上がったらいいんじゃないかなー? 今日誰も来てないし館内の皆昨日の」
赤い髪の中の猫耳がピクピクと揺れた、お燐は突然の来客に対して置物の猫のように手招きして地霊殿に誘おうとする。
「誰も来ていないの? ほんとに?」
「うん。朝から誰も来てないよ、入ってきたのはあたいが趣味で運んだ屍体だけ! にゃはは、もしかしたら屍体の中に橋姫さんの探している人がいるかも、……ぐげっぇ!?」
燐が喋り終える前にその首を右手で掴み、そのまま締め上げるだけでなく長い爪食い込ませ、首元から赤が滲み出す。パルスィの瞳に光はなくただただ淀んだ翠色の瞳で苦しむ猫娘の瞳を覗き込む。
「……地霊殿のペット達は飼い主であるさとりに口の聞き方を習わないのかしら? ……よかったわね、私が優しい人で」
殺してしまっては面倒だと右手の力を緩めソレを解放する。ソレは腰を抜かしてその場に座り込み何度も咳き込み、落ち着いた後パルスィを見上げた。
「げ、けほっ、げほぉ……ご、ごめんって。でも本当に誰も来てないんだよ」
「そう、無駄足だったってことね。帰るわ」
「また来てねー」
地霊殿に夫は居なかった、ならば此処に用は無い。そう判断したパルスィは踵を返し、未だ立ち上がれない燐を背に来た道をぶつぶつと独り言を言いながら戻って行った。
「私の気も知らないでどんちゃん騒ぎ、苛々する」
帰り道の途中で旧都で行われているであろう宴会を避けるために空を飛び、勇儀を中心とした面倒などんちゃん騒ぎにも目を向けず通り過ぎ、旧都を抜けて二人の家に到着した。
「……どこに行ったのよ、バカ。私をまだちゃんと愛してくれてないじゃない、馬鹿」
家の前に降り立って引き戸を開け家の中に入る、玄関にあるはずの夫の靴は無く、家の中にはパルスィ以外誰も居ないことを意味していたのか奥の部屋にも灯りは点いていなかった。歩いて地霊殿に向かい空を飛んで帰宅して疲れ果てたのか広間に向かう途中の廊下でうつ伏せに眠ってしまった。
そして数時間が経ち、周りは暗闇に包まれて夜になってしばらくすると、玄関先から明るい光が差し込んだ。引き戸付近の灯りの光、誰かが帰ってきた光。その光を感じたパルスィは飛び起き、短時間で寝癖直し初める暇も惜しんで引き戸に駆け寄った
「帰ってきた。帰ってきた帰ってきた帰ってきた!!」
嬉々とした様子で引き戸を開けるとそこにはパルスィだけを愛すると約束し、一緒に永遠の愛と幸福を誓った最愛の人
――その隣手には大きな杯、腰よりも下まで伸びた金色の髪、そして何よりも額から生えている赤い一本角を持つ彼女の姿があった。勇儀である、鳩が豆鉄砲を食ったような表情で立ちすくんでいるパルスィを見て二人は苦虫を噛み潰したような顔で翠色の目から視線を逸らした。
「ゆ、うぎ……? ああ!! そうねいつも通りこの人を送ってくれたのよね? もう、宴会に行くのならちゃんと言ってくれればお小遣いもあげたのに、ねぇ。どうして私から目を逸らすの二人共。ねぇあなた? 私の事ちゃんと見てくれるって約束したじゃない。ねぇ? ああそうだもう立つのがやっとなぐらい酔ってるのね。ねぇ勇儀、貴方は酒が強いしあんな宴会程度じゃ我を忘れたりなんかしないわよね? ねぇなんで私の夫は私を見ないの? ねぇ勇儀、黙ってちゃわからないじゃない、ねぇ聞こえてるんでしょ? 意識あるんでしょ? 勇儀、勇儀、勇儀、聞こえてるんでしょ。ねぇ、顔を見たら一目瞭然よ、鬼は嘘をつかないし正々堂々が信念なのよね? ねぇ私が聞いてるのに黙ってるのって反則じゃない? それとも勇儀かあなたのどちらかが真実を教えてくれるのよね? ねぇ、早く、私が不安で泣いているのにまだ泣かせるの? 二人して私をいじめるの? 地底の妖怪は皆嫌われ者同士傷を舐めあうのが当たり前なんじゃなかったの? ねぇ勇儀、あなた。どうして勇儀がこの人を家まで送ったの? 私がこんなに喋ってるのに倒れないってことは酔ってないわよね。お酒の臭いも全然しない、ソレ以上に臭い臭い臭い、鬼臭い。ねぇ鬼の刺身なり活造りなり生き血でも酒の肴に出たのかしら。そんな美味しそうな酒の肴があるならどうして呼んでくれなかったの? なんで私を除け者にして二人が同じ臭いを着けてるの? 勇儀からは良い臭いがするわ。私だけの臭い、私だけの臭いのはずなのにどうして勇儀からその臭いが濃く感じられるのかしら?」
「……寄るなっ!!」
長い長いドロドロの想いを吐き出しながら勇儀と夫の首元に鼻を近づけ鼻息荒げながら二人の臭いを嗅ぎ終え、勇儀を見上げ口角釣り上げて笑いかける。
その余りの不気味さに思わず突き飛ばした。鬼の腕力はすさまじく、玄関から廊下の半分ぐらいまでのところまでパルスィの小さな躰が吹っ飛ばされ、ふらふらと立ち上がり一歩一歩床を軋ませながら勇儀と夫に歩み寄る、一歩、また一歩と近づいてくるパルスィを見る二人の目は冷め切っており、しかし汚物を見下すかのように近づいてくるソレから視線を外せなかった。
近づいたパルスィは夫の頬に手を当て、陶器を扱うかのように撫でながら口を開いた
「ああ、痛い……ほら、旦那様。今この鬼は私を突き飛ばしたわ、貴方の大切な私を傷つけたのですよ? ほら、ほら。あの時転んだ傷口じゃないわよ? 今、たった今付いた傷ですよ? ほら、ほら反対側の膝小僧に擦り傷。ほらこうやって伸ばして傷口に爪を立てて掻き毟ると血が溢れてくるでしょう? ほら、痛そうでしょ? 勿論痛いわよ、ああ勇儀が私を突き飛ばしたせいよあんな乱暴にするなんて酷いわ、大切な最愛のあなたが綺麗だね。と言ってくれたこの瞳、顔、ううん、この全身の体毛に至るまで全ての部分全部あなたのために残しているの、だってせっかく手入れした身体だもの……いたっ、痛い痛い痛い痛いこの身体を傷つけた鬼を殺す勇儀? 誰ソレ敵じゃない。殺す殺す私の夫をたぶらかしたのか何か卑怯な手で弱みに付け込んでいるのかは知らないけど私が貴方を助けてあげるからね? ね? あなた。こっちに来てよ、私を起こしてよ? あなた、あなた? 見てわからないのかしら、傷口が開いてあまりの痛みに腰が抜けてしまったの。ねぇ、早くその肌色の手で私を抱き上げて起こしてよ? それともお姫様抱っこで起こしてくれるのかしら? あの日の様に、ねぇ。早く、そんなに私の身体が綺麗? 眩しすぎて目を逸らしてしまうほどに私はあなたの大切な存在になれたのね? ねぇ、わかっているでしょう? 本当は立てるのよ、ねぇ、不安なの、触って欲しいだけなの、ねぇ。あの頃覚えてる? 湖の水を一緒に飲んだでしょ? 私が一番、私だけのあなたって言ったじゃない。ねぇ何か言ったらどうなの? ほら、ほら、早くその隣のケダモノを追い払って二人だけの夕食の時間を過ごすわよ? だから起こして、宴会に参加して何も呑んで無いのならお腹空いているわよね? ああそれとも夕餉の前に湯浴みかしら? いいわよあなたの体中に染み付いたケダモノの腐臭と汚らわしい身体だけでしか女を愛さない牡妖怪共の臭いを洗い流して綺麗綺麗に水橋パルスィそのものの臭いだけを擦り付けてあげる。ああそれとも……そんな、でもそうよね私の事が大好きならばくしゃくしゃのシーツの上で身体を重ねて愛し合おうとも思うわよね、ごめんなさい、私が鈍感で。それに実は初めてじゃないの、でも一回目なんてずっと昔に刻まれたからもしかしたら初めてと同じぐらいの快感が味わえるわよ? ねぇ、私の声好き? 拳が震えてるわよ? それともどの選択肢も魅力的すぎて選べ無いのかしら? さぁ、あなた。旦那様が望むがままに私を愛してください、だから、その隣の汚らわしい女から離れて、さぁ?」
夫の脚にしがみつき、引き締まった身体をその脚に擦りつけて誘惑するパルスィに艶やかさなんて物は全く感じられず、ただ不気味さと狂おしい程までの愛憎を振り撒いていた。
もうこうなってしまったパルスィにどんな言葉を掛けても意味が無いと悟った夫は抱きつかれて居ない脚でパルスィの頬を蹴り、もう片方の脚から引き剥がし。
「あ、なた……? そうよね、あなたはただ私の方に歩み寄ろうとしただけよね? ねぇ、どうして私じゃなくてその鬼女を見るの? ねぇ、何その目、そんな目私にもしなかったじゃない。ねぇ、ねぇ?」
何が何だかわからないパルスィに目も向けず夫は勇儀の頬に手を当てその顔を自身の方に向かせた後、少し背伸びしながら少し恥ずかしいのか頬を紅潮させている勇儀の顔に顔を近づけていき。
「パルスィ、悪いとは思っていたが残念ながら自分の気持ちに嘘は付けないよな? お前の旦那は私を選んだ、勿論パルスィを愛して居ないわけでもなかった」
「いやっ、聞きたくない聞きたくない出て行け出て行けやっぱり男なんて私の敵よ、私に仮初めの幸せを与えて本当に大切な物を奪ってくる!! あなたは違うって思ってた、優しいって思ってた。嘘付き!! 騙してたのね!! 貴方達なんて呪ってやる呪ってやる呪ってやる暗夜には気をつけなさいよ……」
「……おい、過去の妻なんか見ないで目の前の私を、さ? ……ほら早く」
そう言って勇儀は目を閉じ唇窄ませ、男は勇儀の角におでこぶつけないように顔の角度傾け、同じく目を閉じ、そのまま口付けようとしたその刹那。
「いやっいやっいやっいやっ見せないで。もう好きにしなさいよ……勇儀もお前も不幸になって死んでしまえ死んでしまえ死んでしまえ死んでしまえ……!!!!」
今まさに目の前で今まで自分を愛してくれていた筈の男が知り合いの女性に口付けようとしているのを見るのが耐えられなくなったパルスィはふらふらと立ち上がって目尻に涙浮かべながら走り出し、勇儀と男を引き剥がすかのようにその間から二人を突き飛ばして走り去り、地上へと向かう洞穴に向かって空を飛び始めた。
幸い地底の住民は宴会の片付けに駆り出されているのか風穴に向かうまで誰一人知り合いに会わなかった。今のパルスィの精神状態で何も知らない他人に夫だったあの男の話しをされるのだけは耐え切れなかったから誰にも会わなくて正解なのだ。
「……早苗、私は幸せになんかなれなかったわ、貴方の勝ちよ。私は幸福よりも大きな不幸を味わったわ……今貴方は旦那様と愛し合ってるのよね? 妬ましいわ……」
独り言を言いながら地上へと続く風穴に到着し、その中に入ろうとすると背後に気配を感じた。
「やっぱり別れちゃった。そりゃそうよ、お姉ちゃんは長く続くって言ってたけど私は違うって思ってた」
黒い帽子を深く被り、パルスィと一定の距離を保ち、地上へと向かうパルスィの背中を見つめる古明地こいしの姿がいつの間にかそこにあった。
「……こいし、そうね。そうよ別れちゃったの、ううん捨てられちゃった、私が注いだ愛が裏切られたわ、男なんて皆そう。あの人だけは違うって思ったけど……」
「そうやって男のせいに、ううん人のせいにするのはダメだと思うな、妖怪だから自分が大切だって思ってしまうのはわかるけどね」
「……ならばやめてやる。妖怪なんて、人間から妖怪になった私、簡単ではないけど妖怪から人間へと戻れるはず。この身体は妖怪、橋姫のままだけどこの心を人間に戻せば私も幸せになれるわ」
「橋姫さん、そこまで幸せに固執する理由は何かしら? これだけ聞いたら私は何も見なかったことにして地霊殿に戻るのよ?」
幸せに固執する理由など
一つしかない
水橋パルスィは少し間を空けた後振り返り古明地こいしの方にしっかりと顔向けて言い放つ
「負けられない友人との勝負だからよ、絶対に譲らない」
そう言うとパルスィは再び洞穴の方向いてそのまま地上に向かって飛び上がった、そしていつの間にか古明地こいしの姿も消えていた。
十
パルスィの話は長い間続き、その話が終わるには明け方近くまでかかった。彼女の不幸話の唯一の視聴者である東風谷早苗は途中で眠ること無くその話を最後まで聞いていた。
全てを話し終えたパルスィが、長い長い溜息を漏らした後、目の前で自分自身が味わって来た不幸とはまた違った不幸を欠伸一つせずに聞いていた早苗を目を薄く細めて見つめ。
「……ちなみにこの後地上に出ると地底に取材しようとしていたあの天狗に出会って早苗も私と同じように幸せを掴みそこねたということを聞いたの。正直安心したわ、だって幸福自慢に対しての不幸自慢なんて勝負は一目瞭然じゃない」
「ですね、というかずるくありません? 私は文さんからパルスィがどのように過ごしているか聞けなかったんですよ?」
「まぁ前もって話を聞いていても本人から聞くほうが何百倍も効果があるわよね? 不幸自慢も幸福自慢も」
「さて、パルスィ。そろそろ夜が明けます。行く宛もないのでしょう?」
そう言って早苗が立ち上がり、背伸びをした後パルスィに手を差し伸べる。パルスィもその手を取って立ち上がった。
二人はそのまま湖を覗き込める場所まで歩み、湖に浮かんでいるブヨブヨとした少し大きめ肉の塊を黙って見つめていた。
最初にその沈黙を破ったのは早苗だった
「パルスィ、私は自分自身が産み落とした赤子をこの湖に落として殺してしまう、まるで妖怪のような汚い心になってしまった。でもパルスィ、貴方は今とても人間らしい。ねぇ……一緒に暮らさない? 男どころか私達の過去を知らない女すら邪魔。だから私達二人で暮らしましょう?」
「……ふふん、中々格好良いこと言うじゃない早苗。ふふ、確かにそこら辺の誰かの家に転がり込むよりは、貴方と暮らしたほうが楽しそうね」
「では、行きましょうか。少しばかり飛べば私が今住んでいる小さな家に到着しますよ? まさか徹夜で不幸自慢して今にも睡魔に襲われそうですか?」
「まさかっ!! ほらほら早苗、案内しなさい!!」
早苗が先に空を飛び、それを追うようにパルスィも飛ぶと、丁度良く日の光が雲の切れ間から差し込んできた。
二人はその光の中を飛びそして見えなくなった。
十一
二人の不幸自慢が終わった次の日から東風谷早苗と水橋パルスィは人里から遠く離れた妖怪の山の麓で人目を忍ぶ様な場所で静かに暮らしていた。
「あ、早苗早苗。面白い記事があるわよ!! こっちこっち」
「んー? どれですかパルスィ」
そう言って早苗の自室に入り込んできたパルスィの手には文々。新聞が握られていたちなみに購読の名義はパルスィである。早苗の部屋の床に丸めてあった新聞を広げ、それを不思議そうに見ていた早苗を手招きで呼び、その記事のトップを指差した。
「……何々、『新婚の湖に指足らずの赤子遺体と東風谷早苗の私物発見、無理心中か?』へぇ、案外すぐ見つかりましたね、で、これがどうしたんですか? 私が死んだ扱いになるのならそれこそ好都合ですけど」
「違う違う、ココ、ココ。ここに私の二人目の旦那と勇儀が写ってるの。傑作でしょ? この湖で愛を誓うのが二回目の奴がいるって、それだけで笑いがこみ上げてこない? この二人も私達と同じように不幸になるわ、絶対ね、これは記念すべき写真よ、記事よ、永久保存決定ね」
新聞の写真の端には星熊勇儀のシンボルである長い金髪と赤い一本角が写っていて、その隣に写っている男がパルスィに愛想が尽きてしまった男、元夫なのを確認したパルスィは床に広げた新聞を再び丸めて早苗の部屋から飛び出し。その隣の部屋である自室でなにやら声にならない声を上げながら何かを始めた。
「写真の日程からしてあの二人は既に水を飲み合ったと考えるのが妥当ですね……さてさて。また一人不幸になる人が増えちゃいますね、でも一番幸せなのって……とと、パルスィ!! お昼ご飯ですよー!」
隣から嬉しそうな同居人の返事が聞こえるのを確認した後、早苗はゆっくりと立ち上がり部屋から出ようと歩き出し、古い蝶番式の扉を開けて部屋から出て扉を閉めようとすると、同じタイミングで部屋から出て、こちらも同じく扉を閉めようとしているパルスィが居て、二人は同時に扉を閉め、お互い向き合うと早苗とパルスィが同時に口を開いた
「不幸を笑い飛ばしてくれる親友って最高ね」
「不幸を笑い飛ばしてくれる親友って最高よ」
だが百点。
だがあんたはどうしようもないクズだ。
あの程度で悲劇や絶望なんて言葉を使うんじゃない
胸クソわりぃよ
その場に居て一緒に水を飲んだ
それが最後の幸せに繋がったのでしょうか
文字が固まっててパル編が読みにくかったけど
そこの違和感が最後まで拭えませんでした。あとパルスィに関しては捻りがないのが難ですかね。
何より、読んでいて心動かされない悲劇と言うのは、ちょっと評価し辛いです。強いて言うなら、若干気持ち悪いなと思うくらいでした。
>>一時期は「血が続けば誰でもいい」という噂まで流れたのだ外来人を嫁にしたい、
噂まで流れた外来人を?
>>今私はものすごく幸せです。」
多分ここだけ、台詞の最後に句点が入ってます。
何がえげつないって、果てしなく幸せであったが故に 聞き慣れたような不幸が二人を狂わせる程の不幸になってしまったことと、あたかもこんな結末へと導くように書き換えられてしまった運命が
幻想郷はおおらかそうだが同時に古い因習とか残ってそうだし
身体に不具のある者への風当たり強そうだなあ
句読点の有無、主語と述語の関係がおかしい部分が多くみられました。
幸せな日常はしっかり書けていましたが、不幸になる理由のほうには説得力が感じられませんでした。
既にコメントでは他のかたも指摘されておりますが、障害者が嫌われる理由とパルスィの夫が浮気した理由を
もっと書いてもらえていれば、キャラクターの不幸を存在感をもって感じられたのかもしれません。
男性オリキャラの扱いや、物語の構成、タイトルなど、読者への配慮を感じられて好感をもちましたし、
心に傷を負った二人がひっそり寄り添って生きていくという終わり方も大好きです。
悲劇好きの一人として100点を投じたかったのですが、悪い部分が目立って見えてしまいました。
早苗さんの気持ちも分からなくもない
パルスィの方は現代でもよく有りそうな話だと思う
でもパルスィの所で先が読めるだけにちょっと冗長に感じてマイナス