* このSSは自己解釈及び自己設定が多量に含まれています。
それは、むかしむかしの物語。
不幸な現実と幸せな幻想を生きた少女のお話。
プリズムリバー家。近隣の地域ではそれなりに名の知れた家だった。
その家の主プリズムリバー伯爵は貿易商で財を成している貴族であったが、その誠実な人柄からか農民や一般市民からも慕われ、尊敬されていた。
彼には4人の娘がいた。
ルナサ、メルラン、リリカ、そしてレイラ。父親の血と母親の教育のお陰か、彼女らもまた、皆に慕われる心優しい娘に成長していった。
特にレイラは、末娘という事もあってか両親と姉達の愛情を一杯に受けて、誰よりも明るく、元気に育った。
どれほど忙しくとも合間を縫って遊んでくれる父親、厳しくも優しい母親、そしてこの世の何よりも大事で、大好きな3人の姉。
着るものも、食べるものも、住むところも、全てが不自由なく揃っていた。
プリズムリバー家は、レイラは、幸せだった。
……そのままで、間違いなく幸せだったのだ。
それはレイラが10歳になる少し前の頃のこと。
その日、プリズムリバー邸の中はいつにも増して賑やかだった。
今日は父親が東の国での仕事を終えて、久々に家族全員で過ごせる日だ。
母親はメイドとともに朝からずっと夕食の準備に勤しみ、レイラ達4人もそのお手伝いをしたり、父親を喜ばせるためのサプライズを考えたりと一日中大忙しだった。
とても慌しく大変な一日ではあったが、夜になり父親が疲れ切った顔で帰ってきたのを出迎えた瞬間、その労はねぎらわれた。
「おかえりなさい、お父さん!」
「ああ。ただいま、レイラ」
玄関を開けると同時に飛びついてきたレイラを抱きとめた伯爵は、それだけで疲れが吹き飛んだかのような笑顔を見せた。
それから、レイラに腕を引っ張られるようにして食卓へ向かう。
「おお…これは、凄いな……」
食卓に着くと、伯爵は感嘆の声とともに顔を綻ばせた。
家族だけで使うには広すぎるそのテーブルには、所狭しと言わんばかりのごちそうが並べられている。
伯爵が予想以上の料理の数々に驚きを隠せないでいると、その様子をレイラがニコニコとした笑顔で見上げているのに気づいて、伯爵はしゃがんでレイラと目線を合わせながら言った。
「とっても美味しそうだ。でも、こんなにたくさんあって食べきれるかな?」
「う~ん、大丈夫だよ、きっと。…あっ、あのね、今日のお料理はわたしもお手伝いしたんだよ!」
「本当かい?だったら大丈夫だな。レイラの作った料理ならこのくらいの量はぺロリだ」
そう言って伯爵はレイラの頭を優しく撫でた。芽を出したばかりの若葉を思わせるエメラルドグリーンの髪がさらさらとなびく。
レイラは嬉しそうにしながら、伯爵の胸に顔を擦りつけるように抱きついた。
と、
「おかえりなさい、貴方。怪我もなさらず何よりです」
「おかえりなさい、お父さん。夕食の準備は終わっているよ」
「おかえり、お父さん♪早くしないとお料理が冷めちゃうわよ?」
「おかえりー。ほら、レイラもお父さんもさっさと席に着く!」
奥の部屋から、食器を手に母親と姉達がやってくる。
口々に伯爵を出迎えながら席に着くよう促す4人に、伯爵はレイラを抱きかかえながら立ち上がった。
「ただいま、みんな。さ、それじゃあご飯にしようか、レイラ」
「うんっ!」
夕食は、会話が途切れる事の無い明るく騒々しいものとなった。
話したいことは皆、山ほどあった。
伯爵も、家族に会えなかった時間を埋めるようにいろいろな事を聞いた。
やがて伯爵のいない間に起こった事が話し尽くされると、今度は伯爵が話し手となる番だ。
貿易に行った東の国での出来事。楽しかった事や危険だった事など、皆が聞きたがりそうな事を覚えているだけ話し尽くす。
山のようにあった料理は話が進むにつれてどんどん無くなっていき、伯爵の話が終わる頃にはほとんどの皿が空になった。
そうして夕食も終わりの様相を見せ始め、皆が飲み物を手に一息ついている時だった。
伯爵が『それ』を取り出したのは。
「あら貴方。その木箱は何なのですか?」
「ああこれか?貿易先の国で偶然手に入れた物なんだが……」
伯爵は皆に見えるようにテーブルの上にその木箱を置いた。
手のひらよりも少し大きいくらいの、立方体の箱だ。側面の上の方に金具のようなものがついていて上の部分が開くようになっているらしい。
それ以外には何の飾りつけもされておらず、木目だけがうっすらと模様のように浮かんでいるだけの何の変哲も無い木箱だった。
皆の視線がその箱にそそがれる中、伯爵はゆっくりと箱の上部を開く。
それと同時に、箱から静かに音楽が流れ出した。
「わぁ……」
「綺麗な音色……」
惹きつけられるような音色だった。
母親やレイラ達はもちろん、持ってきた本人である伯爵さえもその音に聞きいっていた。
その音色は不思議な事に、いつまで経っても止む様子も弱まる様子も無い。
しばらくの間その音色に聞き惚れた後、レイラが伯爵に問いかける。
「これ、オルゴール?」
「多分そうだろう。ネジも巻いていないのに鳴り続けるなんて、一体どんな構造をしているのやら」
「不思議な物もあるものですね」
「ああ。さらにこいつには、願い事を叶えてくれるなんて言い伝えもあるんだ」
「願い事?」
レイラがきょとんと首を傾げる。
母親が笑いながら、レイラの後に続くように訊ねた。
「それでは、貴方は何をお願いされたのですか?」
「いや、まだ何にも」
「えー!?そんなのもったいないわよ」
「お父さんがしないなら、わたしが代わりにお願い事しちゃうよ?」
「駄目よ。これはお父さんのなんだから」
伯爵の返答に、レイラの姉達が不満そうな声をあげた。
その声に伯爵は苦笑いをしたが、ふと箱へと目をやって。
「…ふむ、そこまで言うなら、何かお願い事をしてみるか」
「やってみてやってみて。もし本当に叶ったら今度はわたしがお願い事するんだから」
「そうかい。それじゃあ、そうだな…」
伯爵は少しだけ悩むような仕草を見せたが、やがて悪戯っぽく笑って、
「決めた。『幸せになれますように』だ」
「え?」
その願いに、伯爵以外の皆がきょとんとする。
それから母親が、大げさに拗ねたような表情をして、
「まぁ、貴方は私達と居ても幸せじゃないとおっしゃりたいのですね」
「ははは、違う違う。私は今で十分に幸せさ」
「じゃあ何で?」
純粋な表情で訊ねるレイラに、伯爵はその頭を優しく撫でて笑いながら答えた。
「さっきお願い事をして、今幸せの中にいる。ほら、願い事が叶った。これは本当に願いを叶える魔法のオルゴールだ」
「何それ、変なの」
「私には願い事なんて無い、今のままでいい。そういうことだよ」
そう言って伯爵は箱を閉じた。それとともに流れていた音楽もピタリと止まる。
それからは再び会話に花を咲かせて、残った料理もみんなで綺麗に食べ切った。
結局、その日の間中ずっとプリズムリバー家の中から笑顔が絶える事は無かった。
伯爵は、願い事が叶うなどということを信じてはいなかっただろう。
もし本当に信じていたなら、もう少し真剣に考えていただろうし、もしかしたら使うこと無くただのオルゴールとして置いておくだけだったかもしれない。
そのままで、間違いなく幸せだったのだから。
伯爵が処刑されたのはそれから1年ほどした頃だった。
罪状は裏取引される非公式の薬物や武器などの密貿易及び、口封じのための数え切れない殺人。全てが、この一年の間に行われたものだった。
処刑されるその瞬間まで、伯爵は『金があれば幸せになれる……金があれば幸せになれる……』とうわ言のように呟いていたらしい。
彼の妻、レイラ達の母親は、突然人が変わったように狂ってしまった夫に戸惑い精神的な病にかかってしまい、伯爵が処刑されてすぐに息を引き取った。
残ったのは、貴重品の全て持ち去られた大きな屋敷と4人の姉妹だけだった。
彼女達に対する世間の目は当然のように冷たかったが、狂う前の伯爵や彼女達を良く知る親戚や知人の中には、彼女達を養子として引き取ると言ってくれる人も居た。
ただし、引き取れるのは1家庭に1人だけ。それ以上を養う余裕は、親戚も知人も持ち合わせてはいない。
そうであったとしても、彼女達にとってみればこの上なくありがたい話だ。
ルナサ、メルラン、リリカの3人はそれぞれ別々の家庭に、すぐに引き取られる事となった。
だが、レイラは、
「わたしは、ここに残る。絶対どこにも行かないもん」
そう言って、どこからの誘いも頑なに断り続けた。
親戚達はまだ幼いレイラを1人にしておくわけにはいかないと、色々な手を尽くした。
プレゼントを贈って機嫌をとろうともした、ずっと仲の良かった親戚の子がいる家庭が声をかけてみることもした。
けれどもレイラは、決して首を縦には振らなかった。
「……分かった、今日のところは帰らせてもらおう。週に一度は様子を見に来るから、気が変わったらすぐに言いなさい」
レイラの根気に負けて、親戚はそう約束を取り付けて屋敷を後にした。
玄関が閉じられると、屋敷の中は静寂で満たされる。
レイラは1人、自分の部屋へ戻ろうと歩き出した。
自分の言っていることが単なる子供のわがままだということはレイラにも分かっている。
『この屋敷でみんな一緒に暮らしたい』。そんなこと、姉達だって同じように思っているに違いない。
だが現実は、それが叶えられるほど甘くはない。だからみんな、それぞれ別々に生きる事を決めたのだ。
何も間違っていない。姉達の行動が正解だ。レイラにだって分かっている。
「でも、諦めないんだから」
こうして意地を張っていても、何も解決はしない。そう分かっていても、どうしても諦められなかった。
自分がここを離れた瞬間、みんなとの思い出も全てバラバラになってしまうような気がして、どうしようもなく怖かった。
部屋に戻ると、すぐにベットに入って布団を頭まで被って眠りについた。
今までのことが全部夢で、目が覚めたらみんなで一緒に笑顔で朝食が食べられるのではないかという、子供じみた小さな小さな願いを胸に抱きながら。
それでも、現実はどこまでも残酷で、留まることを知らなかった。
レイラが屋敷に1人残って実に10ヶ月近くが過ぎ去った。
週に一度は様子を見に来るといっていた親戚も、もう顔を見せなくなって久しい。
当然だ。いつまでも子供のわがままに付き合っていられるほど、彼らも暇ではない。
レイラは1人、薄暗い自分の部屋の壁によりかかるように座りこんでいた。
新緑のように綺麗だった髪も、お気に入りだった洋服も、すっかり薄汚れてしまっている。レイラの顔から、あの元気で愛くるしかった笑顔はすっかり消え去ってしまっていた。
もう動く気力も無いのか、レイラはただただ床に座りこみ、生気のない顔でうわ言のように呟く。
「……わたし、何か悪いことしちゃったのかな?……悪いことしちゃったから、罰があたっちゃったのかな?……分かんない…分かんないよ……わたしが悪いなら、謝るから……これからは、いい子にするから……だから、もう…許してよ……みんなを返してよぉ!」
行き場のない感情に、すぐ隣にあった小さなタンスを力任せに殴った。
衰弱した幼い少女の力ではタンスを僅かに揺らす程度の効果しかなかったが、それでも元々の置き場所が悪かったのかタンスの上から1つ、転がり落ちるものがあった。
「……あ………」
それは伯爵が持って帰ってきたあのオルゴールだった。貴重品はあらかた持ち去られていたがこれは見た目にはただの木箱、誰も持っていく者はいなかった。
その木箱は床にぶつかると、衝撃によってかひとりでに開いた。
ゆっくりと音楽が流れ出す。
「これの…せいで……」
このオルゴールが全ての原因だということは分かっていた。
『幸せになれますように』。この願いを、オルゴールは叶えようとしたのだ。とても捻じ曲がった方法で。
レイラはふらふらと立ち上がろうとして、バランスをとれずに倒れこんだ。それでも這うようにしてオルゴールの下に向かう。
オルゴールは無機質に音を奏で続けている。レイラの事などこのオルゴールは見ていなかった。
レイラは両手でオルゴールを掴み取り、座りなおす。
「こんなの……こんなのさえ無ければ………」
オルゴールを持ったまま腕を高く振り上げる。このまま床に叩きつければ、きっとこの木箱は壊れるだろう。
そんな状況だというのに、オルゴールは何でもないように鳴り続けている。無情なほどに綺麗な音色だ。
「う……うぅっ………」
けれども、その腕を振り下ろす事が出来ず、レイラはオルゴールを強く抱きしめた。
たとえそれが全ての元凶だったとしても、レイラにとっては家族との最後の思い出がたくさん詰まったものなのだ。
それを壊すなんてことは、レイラには出来なかった。
「あぁ………うぁぁっ…………うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
堰を切ったように、レイラは泣き叫んだ。
涙などとっくに流し尽くしたと思っていたのに、後から後から溢れ出てくる。
そうしてレイラは声が涸れるまで、涙が涸れるまで、狂ったオルゴールのように泣き叫び続けた。
元凶のオルゴールはそれにあわせることさえ無く、ただただ音を奏で続けているだけだった。
やがて声がかすれ、涙も出なくなった時、レイラは願った。全ての元凶たるオルゴールに。
それは諦めだろうか。敗北だろうか。だとしてもレイラ自身が屈した今、誰一人としてレイラを責めるものは居ない。
「お願い、だよ……わたしは、またみんなに会いたい……みんなと…お姉ちゃん達と一緒に、もう一度…………もう一度、笑顔で過ごしたい……!」
そう口にした瞬間。今まで何があってもただ鳴り続けるだけだったそのオルゴールが、強く光りだした。
光はレイラの部屋を、いや屋敷中を照らすほどになった。堪らずオルゴールを手放し両手で目を覆う。
そんな光の中で、レイラは眠るように気を失った。
そうして、レイラとオルゴール、プリズムリバーのお屋敷は、この世界から姿を消した。
頬に触れる柔らかい感触に、レイラはゆっくりと目を覚ました。
それは手の触れる感触だった。誰かが、レイラの頬を撫でているのだ。
レイラはそっと目蓋を開く。誰かがレイラの顔を覗きこむようにしているのが見える、だがぼやけて誰なのかは良く分からない。
「お姉、ちゃん……?」
その顔に触れようと手を伸ばしながら、レイラは呟いた。ほとんど無意識で、思わず出た言葉だった。
しかし、
「残念ながら、貴女のお姉様ではありませんわ」
涼やかな声が、その言葉を打ち砕いた。
それからゆっくりと抱き起こされる。先ほどの声とは裏腹に、母親のように優しい手つきだ。
強く目をこすってぼやけた視界を元に戻し、その人物に焦点を合わせる。
その人物は、確かに姉ではなかった。
室内だというのに何故だか日傘を差している。ふわふわとしたドレスや奇妙な帽子はどちらも薄い紫色で統一されていた。
ウェーブのかかったブロンドの髪と白い肌は一見して西洋風だが、それでいてどこか東洋の雰囲気も感じさせる、一言で言うならば不思議な人物だった。
「あなたは……?」
レイラは戸惑いながらも訊ねる。
人と会話をすること自体、数ヶ月ぶりのことなのだが、そんなことは今のレイラにとってはどうでも良かった。
親戚や知人にも、こんな人物はいない。
「これは申し遅れました。私はこの幻想郷の管理人、八雲紫と申します。お見知りおきを」
「八雲……紫?」
父の言っていた東の国の名前のようだ、とレイラは思った。その西洋風の姿と相まってますます不思議な感覚を受ける。
だがそのこと以上に、レイラには引っ掛かる言葉があった。
レイラは表面上はにこやかな、けれども底の知れない笑みを浮かべる紫に向かって問いかける。
「幻想郷って…何?」
「……そうですわね。貴女には、まず自分自身の現状を理解していただきましょうか」
紫は独り言のようにそう言って、すっと立ち上がった。
レイラが見上げる中部屋を歩き、部屋に1つだけある窓の前で立ち止まる。
「さぁ、こちらへ」
紫はそう言いながらレイラへ向けて手招きをした。
レイラはそれに従うように近くにあったタンスを支えにゆっくりと立ち上がると、よろよろとしたおぼつかない足取りで紫の下まで向かう。
紫の隣までたどり着くと、紫は片手でそっとレイラを支えてくれた。その腕にしがみつく様にしながら、窓の外へ目を向ける。
「…………え………?」
その光景に、レイラは思わず目を疑った。
窓の外には、木がうっそうと生い茂っていた。真正面だけではない、右の方を見ても左の方を見ても、どこもかしこも木で覆われている。
これではまるで、森の中に屋敷が建っているようではないか。
「どういう、こと?」
「ここは、貴女の暮らしていた世界ではありません。貴女の元居た場所から切り離された世界。それがここ、幻想郷」
呆気にとられているレイラを眺めながら、紫は淡々と語る。
しかしその冷静な口調とは裏腹に、出てくる言葉はとてもレイラには理解出来るものではなかった。
「何、言ってるの…?」
「もちろんすぐに信じろとは言いませんわ。でも、この場においては私は真実しか語らない。そのことだけは心に留めておいてもらえるかしら?」
子供を諭すかのように紫はそう告げて、自分の腕にしがみついているレイラをそっと離し、再び歩き出す。
そして、部屋の中心の辺りに転がっていた木箱を手に取り、顔は木箱に向けたままその箱をレイラに見せるように向き直った。
木箱はいつの間にやら蓋が閉じられていたようで、今は音も流れていない。
「これはマジックアイテムですわね、文字通りの魔法の道具。魔法と言うと、貴女の居た『外の世界』では奇跡のようなものというイメージがあるかもしれませんが、実際には限られた才能のある者が、限られた式を組み上げる事で扱える非常に繊細で不安定な物。このアイテムには式は元々組み込まれているようですが、それでも能力の無い者が使おうとすれば…精神を蝕まれ、このアイテムの操り人形になってしまうでしょう」
その言葉に、レイラは父親の姿を思い出した。
あれほど誠実で優しかった父親は、まるで人が変わってしまったように狂ってしまった。やはりそれは、あのオルゴールのせいだったのだ。
だが、だとすればレイラも同じようになるはずだ。レイラは父親のものとは比べ物にならないほど強い願いをオルゴールに告げた。
それなのにレイラは、少なくとも狂ってはいない。それはつまり…
「貴女には、少なからず才能があったのでしょうね。だからこれを使った後でも無事でいられる」
にわかには信じ難い話。けれどもそんなことは今更だ。
オルゴールの不思議な能力、突然別の場所に移されてしまった屋敷。それを目の当たりにした後では魔法などという言葉が出てきても何の抵抗も無い。
しかし、この紫の話だけでは今の状況を説明しきれてはいない。レイラはぼんやりとした頭に浮かんできた問いを、紫へ投げかけた。
「それで……何で、わたしは『ここ』に連れてこられたの?」
当然の疑問。
しかし紫はその問いを聞くと、一瞬だけ酷く悲しそうに見える表情を浮かべてふい、とレイラに背を向けてしまう。
そうして一呼吸分ほどの間をおいてから、紫はゆっくりと、そして淡々と語った。
「……貴女が使ったのは魔法。『外の世界』には存在してはいけない幻想の能力。それを使用した貴女を、『外の世界』は決して受け入れない」
「そん、な……」
それはつまり、世界に見放されたという事を意味していた。自分の暮らしていた、生きていた世界から。
いや、そのこと自体はレイラにとっては些細な事だ。世界から見放されていることなど、とうの昔から気づいていた。
でもそんな事以上に、信じたくない、あってほしくないことは、
「じゃあ……もう、みんなに……………会えない、の?」
「……………………………」
「お姉ちゃん達に……会えないの?」
「……………………………」
「ねえ…答えてよ……」
それだけが、レイラの全てだった。それを否定してくれたら、レイラは十分だった。
だというのに紫は答えようとはしない。それこそが暗に、答えを語っていた。
しかし紫は、たっぷりと時間をおいてから、はっきりとした口調で告げる。
「貴女はもう幻想郷の住人。幻想郷の住人が『外の世界』の者と相まみえることは、無いと思って下さって結構です」
「あ……」
それは紫の優しさだった。
答えをはぐらかし無い希望に縋らせるよりも、はっきりと現実を伝えることを選んだ、精一杯の優しさだった。
レイラは身体の力が抜けて、その場にへたり込んでしまう。
その姿に背を向けたまま、紫は悲しげに呟いた。
「……幻想郷は全てを受け入れるのよ。それはそれは残酷な話ですわ」
しばらくの間、静寂が部屋を包んでいた。
レイラは俯いたまま座りこみ、動かない。紫もまた、そんなレイラに背を向けたまま動こうとはしなかった。
まるで時が止まってしまったかのように何もかもが止まった空間。
そんな中、口を開いたのは、やはり紫だった。
「…玄関からこの屋敷を出て、森をずっと真っ直ぐに行くと人里にたどり着きます。そこの人達は貴女にも親切にして下さるでしょう。道中は貴女を襲うような妖怪も出ませんからご安心を」
それはこれから先の話だった。淡々と、事務報告のように告げている。
レイラはそれに関心を示すようなことも無く、変わらず俯いたままだった。
それから、と紫は続けて、扇子を取り出して何も無い空間をそれで指し示す。
すると扇子で指された空間がぱっくりと裂けた。
まるで時空の『スキマ』のようなそこから、大きなカゴが現れて床に落ちる。
そのカゴの中には、パンや果物、野菜などがいっぱいに詰められていた。水が入っているのだろう竹筒もいくつもある。
「2,3日分はあります。少ないですが、この世界の通貨も入れておきました。これが、私が貴女にして差し上げられる全てですわ」
紫はそう言って、そのカゴの隣に手にしていたオルゴールを置いた。
そうしてからようやく振り返り、レイラへと視線を向ける。
動く事の無いレイラを見つめるその視線から、感情を読み取る事は難しい。
たっぷり10秒ほどレイラを眺め続けていた紫だったが、やがて手にした扇子で再び宙を指し示す。
空間が裂け、紫の背丈ほどのスキマが現れる。
「それでは、私はこれで失礼いたします。……出来る事ならば、再びまみえる機会がありますことを」
そう言い残して、紫はスキマの向こうへと消えて行った。
紫がいなくなると、レイラはまた1人ぼっちだ。静寂も、先ほどのものよりもさらに重く冷たいものに感じられる。
レイラはそっと顔を上げた。その顔には、涙も浮かんでいない。
本当は泣きたかったが、涙はすでに流し尽くしてしまっている。そんな自分が、酷く惨めに思えた。
結局紫は、何の解答もレイラに示してはくれなかった。ただ、レイラの歩める道を教えてくれただけだ。選ぶのはレイラ自身だった。
紫の置いていったカゴには、果物の皮を剥くための果物ナイフも入っている。それはつまり、その道も選べるということを示していた。
それもまた、選ぶのはレイラ自身だった。
レイラはしばらくの間うつろな瞳でカゴを見つめていたが、やがてかすれ切った声で、小さく呟いた。
「………もう……いいや………」
それが、レイラの選んだ道だった。
今までどんなに辛くても、苦しくても、レイラは決してその言葉を口にはしなかった。
それはひとえに可能性があったからだ。ほとんどゼロのような、砂粒のように小さい可能性だが、それでも可能性はあった。
だがその可能性は、幻想郷に引き込まれた事で消え去った。紫が嘘を言っていない事は、レイラにも良く分かっている。
……それで、良かったのかもしれない。
もしも幻想郷に引き込まれなかったとしても、レイラはそう遅くなく同じ道を辿っていただろう。
その時の道は、叶う事の無い可能性を抱き続けたままの、辛く苦しいものだったはずだ。
そんなのは、もう嫌だった。
レイラは、もう十分すぎるくらいに頑張ったのだから。
だから、もうよかった。もう、楽になりたかった。
ふらふらと立ち上がり、夢遊病者のようにカゴの元まで向かう。
そして、カゴの中に入っている果物ナイフを手に取った。妖しく光るそれは小ぶりだが十分な切れ味があるだろう。
後はそれを、のどにでも突きたてればいい。たったそれだけで、ようやく楽になれる。
そう、思った瞬間だった。
「そんな顔をしないで」
「え……?」
どこからか、声が響いてきたような気がした。
辺りを見回すが何もいない。紫の出していたスキマも見られない。
「私達がいるから」
「誰……?誰なの……?」
やはり聞こえる。
近いような遠いような、部屋全体に響き渡っているような不思議な声だ。
その声達はレイラの問いかけに答える事をせず、ただレイラに語りかけた。
「あなたは1人じゃない。私達が、ここにいるよ」
その声が響いた瞬間、部屋にあったタンスがガタリと音を立てた。
レイラがそちらへ目を向けると、今度は窓が何かに叩かれているかのようにガタガタと鳴り始める。
それを皮切りに、部屋中のものが一斉に独りでに動き始めた。
机の椅子が何かに引っ張られて倒れる。ベットが何かが上で跳び跳ねているかのように軋む。ドアが勝手に閉じたり開いたりを繰り返す。
その光景とそれらが立てる騒音に呆然としながら、レイラは部屋中をきょろきょろと見回した。
まるで見えない何者かが部屋を駆け回って遊び散らかしているかのようだ。騒音に混じって何人かの笑い声が聞こえてくるような気がした。
そんな中、またあの声達が部屋に響き渡る。
先ほどのレイラに語りかけていた声よりも、ずっと楽しそうな声だった。
「教えて?あなたの大切な人のこと」
「聞かせて?あなたの大好きな人のこと」
「思い出して?あなたのお姉ちゃんのこと」
その声は、騒音の中でもはっきりとレイラの耳に届いた。
レイラはその声に、ふっと目を伏せてしまう。それから、手にしていたナイフをゆっくりと眺めた。
それもいいか、とレイラは思った。
どうせもう最期なのだから。幸せな思い出の中で最期を迎えるくらいの贅沢は、してもいいじゃないか。
そう思って、レイラは顔を上げた。そして、騒音を響かせる姿も見えないものへ、ぽつぽつと語り始める。
「わたしの……わたしのお姉ちゃん達はね…………」
その時のレイラは、本人は気づいていなかったかもしれないが、笑顔を見せていた。
屋敷にみんなで暮らしていた時のような明るいものではない、今にも消えてしまいそうな弱々しいものだったが、それでも確かに、レイラは笑っていた。
レイラは姉達との思い出を思い返しながら、その全てを語り続けた。
部屋の中は相変わらず家具の立てる騒音が鳴り続けていたが、それでも姿の見えない声達はしっかりとレイラの声を聞いてくれているように感じられた。
長女のルナサは、いつでも冷静で物静かなしっかりものだった。
レイラが困ったり悩んだりした時は、いつでも優しく、静かに諭してくれた。
「出来ないなら、無理はしないで。そんな時は、私を頼ってくれていいんだよ」
レイラを真っ直ぐに見つめながら、ルナサはそう言ってくれた。
その凛とした姿が、レイラは大好きだった。
次女のメルランは、元気で活発なお転婆娘だった。
レイラが辛かったり悲しかったりした時は、いつでも明るく励ましてくれた。
「ほら、うじうじしてないで笑顔笑顔。レイラには笑顔が一番似合うんだから♪」
レイラの口元を両手で引っ張り上げながら、メルランは自分も笑顔を作った。
その明るい表情が、レイラは大好きだった。
三女のリリカは、悪戯好きで子供っぽいお調子者だった。
レイラが楽しかったり嬉しかったりした時は、いつでも傍で一緒に喜んでくれた。
「まったくもう。レイラはいつまで経ってもお子様だね」
からかうように笑いながら、レイラの頭を撫でてくれた。
その温かな仕草が、レイラは大好きだった。
そんな姉達のことが、レイラは大好きだった。
自分の思い出を全て吐き出すかのように、レイラは話し続けた。
声はもう涸れてしまったはずなのに、不思議とすらすらと言葉が出てきた。
だがそれも、少しの間のことだった。
2時間もしないうちに、レイラにはもう話せるような思い出は無くなってしまった。
それも当然だ。レイラは、まだたったの十年程度しか生きていないのだから。たったの十年では、思い出などその程度の量でしかなかった。
弱弱しい笑みを浮かべたまま、レイラはその事実に愕然とした。
「あ、あれ……?あはは、おかしいなぁ………もっといっぱい、楽しいことあったのに。これだけしか…覚えてないの……?これっぽっちなの……?なぁんだ……はは、ははは……」
いつの間にか、辺りに響いていた騒音も止んでいた。
レイラの渇いた笑い声だけが部屋に響く。
それはちっぽけな自分に対する笑い。それっぽっちで最期を迎える惨めな自分への笑い。
涸れきったはずの瞳から、涙が一粒だけ溢れ出て頬を濡らした。それが、レイラの中に残っていた、最後の最後の涙であった。
その時だった。
「……ほら、だから無理はしないでって言ったのよ」
「えっ………」
唐突に、再び響いてきた声。でも、その声は、
「そんな笑顔じゃ駄目駄目よ。貴女に似合うのは、もっともっと元気な笑顔」
「この声は……」
とても懐かしく、とても愛おしい、
「あーあ、やっぱりあんたにはわたしが着いてなくっちゃ駄目だね。このお子様が」
「お姉、ちゃん……?」
大好きな姉達の声だった。
思わず、レイラは立ち上がる。その拍子にナイフが手からこぼれて床に落ちた。
姉達の声は相変わらず部屋中に響き渡るようにして続ける。
「私達は過去の思い出には、なってあげられない」
「どこにいるの……?」
部屋をぐるぐると見渡す。声は聞こえるけれども姿は見えない。
「でも、今と未来の思い出にはなってあげられるわ」
「どこ?どこにいるの?」
気配は感じられるけれども姿は見えない。
「だからもう泣くんじゃないよ。これからは、前を向いて生きていかなきゃ」
「どこなの?お姉ちゃん!!」
でも、
『私達は、ここだよ。レイラ』
その声が初めてレイラの声に答えてくれた瞬間。
レイラにも、確かに見えた。
それは紛れもなく、愛おしくてたまらなかった、レイラの大好きな姉達の姿だった。
レイラは耐えきれずにその姿へと抱きついた。姉達はそれを、しっかりと受け止めてくれた。
姉達はレイラを包みこむようにして抱きしめてくれた。
とても、とても温かかった。
その後、レイラは紫の置いていった食事をとって人里へと向かった。
人里の人々はレイラを見つけるや否や、すぐに手厚く保護をした。
それもそうだ。人里にたどり着いた時のレイラは、すでに衰弱しきっていて今にも倒れてしまいそうな状態だったのだから。
1ヶ月ばかり人里の家に預けられて安静にしていると、レイラは少しずつ回復していった。身体は弱っていたが、幸いな事に何の病気にもかかってはいなかった。
人里の人々は皆親切だった。
レイラの為にとたくさんの食べ物を持ち寄ってくれて、栄養のある料理を作ってくれた。
すっかり汚れきってしまっていた洋服や身体、髪の毛も綺麗に洗ってくれて、代わりの着物も貸してくれた。
回復した後には人里内に住む場所も確保してくれるとも言ってくれたが、それだけは断らせてもらった。
そうして動くことに支障が出なくなるまでに回復すると、レイラは人里の人々にお礼を告げて屋敷へと帰る事にした。
多少引き止められはしたが、それでも最後には笑顔で送り出してくれた。またいつでも来ていいと言ってくれたことは、嬉しかった。
森の奥の屋敷に戻り、玄関の戸を開く。
「ただいま!」
屋敷中に響き渡らせるように大声で言った。
今はそれに答えてくれる者がいる。
「おかえり、レイラ」
「あらあら、元気になったみたいね」
「一月前とは大違いだ」
ふわふわと宙に浮きながらレイラの元までやってくる姉達。
レイラはそんな3人を前にして、ようやく正真正銘の満面の笑顔を浮かべる事が出来たのだった。
彼女達はあのオルゴールが作り出した騒霊、いわゆるポルターガイストらしい。
オルゴールは正規の使用者であるレイラの願いを叶えようとしたが、それよりも前に幻想郷へ飛ばされてしまった。
いかに魔法の能力を持っているといっても、博麗大結界を越えてまでの干渉をすることはただの道具には不可能だった。
だからオルゴールはレイラの中に眠っている魔力と思い出を素に彼女達騒霊を生み出し、その代わりとしたのだ。
それを聞いた時、レイラは少しだけがっかりとした。
でも、それでも彼女達はレイラの思い出の中の姉達とまったく同じでレイラを愛してくれ、レイラもそのうちそんなことは気にならないほど彼女達に心を許した。
それから先のことは語るまでもなかった。
親のいない姉妹4人だけの生活ではあったが、姉達は騒霊。食べ物も飲み物もとる必要は無い。
レイラの食べるものも、人里に行けばレイラにでも出来る程度のお手伝いのような仕事と引き換えに十分すぎる量を分けてもらえた。
何より、あれほど願い続けていた、心のどこかではとっくに諦めていた姉妹4人で一緒に過ごすという願いが叶ったのだ。それ以上の幸せなどありはしない。
姉達はレイラの魔力によって生み出された騒霊なので同様に魔力を持ち、尚且つオルゴールが『笑顔で過ごしたい』というレイラの願いを叶え続けているためか大抵の妖怪ならば追い払える程度の魔法も扱えた。
だから姉達の助けを借りつつ、レイラは幻想郷の様々な場所を観て回った。
幻想郷はその名の通りに不思議なものや場所がたくさんあって、飽きる事はなかった。
紫も何故だか時折レイラの様子を見にやってきた。
初対面の時の事務的で淡々とした姿はどこへやら、飄々とした笑顔でやってきては紅茶をせびってしばらく居座ると、いつの間にかふらっと帰って行くというのが毎回だった。
多分、レイラのことを心配してくれていたのだろう、そのことを悟られたりする事が嫌だったのだろう、とレイラは好意的にそれを受け取った。
そうしてレイラは数十年の時を精一杯生き抜いた。
その間に色々な人に出会った。人里の人はもちろん、妖怪にも話のする友人が幾人も出来た。
当然辛い事や苦しい事もあったが、レイラにはいつでも姉達がついている。乗り越えられない事など何一つなかった。
そして、
プリズムリバーのお屋敷の一室。生まれた時からずっと使い続けてきた部屋のベットに、レイラは横たわっている。
その傍では、レイラの大好きな姉達が、物悲しそうな表情でレイラを見ていた。
「ふふ……みんな、どうしたの?そんな顔をして……」
「レイラ………」
この数十年で、レイラはすっかり歳をとった。
対する姉達は騒霊。姿形は変わることなくレイラの前に現れた時のままで、傍目にはお婆ちゃんと孫というようにしか見えない光景だった。
もう満足に身体を動かす事もできない状態で、それでもレイラは楽しそうな笑顔で3人を眺めている。
「レイラ…やっぱり、もう………」
「そうだろうね……自分のことは、自分で良く分かってるつもりだから」
「そんな……嫌…嫌だよ………」
リリカが今にも泣き出しそうな表情でレイラにしがみついた。
メルランもこの時ばかりは顔から笑みが消えていて、ルナサも、悲しそうに唇を噛んでいた。
レイラはそんな3人を順番に見た後、ふと思い至ったというようにゆっくりと口を開く。
「……オルゴール…取ってくれる?」
「え?」
レイラの言葉にルナサが後ろを振り返った。
その視線の先にあるタンス。その上に1つの木箱が置かれている。
ルナサは少し戸惑いながらもそれを手に取り、レイラに渡した。
レイラはそれを自分のひざの上に置くと、そっと蓋を開く。
レイラが幻想郷に連れてこられたあの時以来一度たりとも開かれる事のなかったそれは、けれどもそんなことはお構い無しにあの時とまったく同じメロディーを奏で始めた。
その音は、レイラの全てが詰まった音だった。楽しかった事も、辛かった事も、全てがこのメロディーに込められていた。
そのメロディーに聴き入りながら、レイラは懐かしそうに笑った。
その瞬間少なくともルナサ達3人には、レイラが昔の、初めて出会ったあの頃の幼い姿に戻って見えた。
「不思議だなぁ……あんなに、あんなに憎くて堪らなかった音なのに………今は、凄く心地良い……」
レイラはそう呟いて目を閉じ、身体全体で音を感じた。
ルナサも、メルランも、リリカも、皆同じようにその音に聴き入る。
「………ねえ、みんな。1つだけお願いしたいことがあるの」
「何?何でも言っていいよ」
しばらくしてからそっと目を開けて、レイラは3人へ向けて言った。
「じゃあ…わたしが居なくなっても……ずっと、みんなで………楽しく、騒がしく暮らして欲しいな」
「っ……レイラ………」
それは別れの言葉だった。
3人はそれに頷くことは出来ない。そうしたら、別れを認めてしまうのと同じことだから。
最初に口を開いたのは、リリカだった。
「嫌だ」
「……リリカお姉ちゃん………」
「絶対嫌だよ……レイラも、ずっと一緒にいようよ。レイラがこのオルゴールにお願いすれば、出来るはずでしょ?」
「リリカ……」
リリカだけの思いではなかった。ルナサもメルランも、声には出さなくとも同じ思いだった。
そしてそれは、紛れもなく真実だ。今からでもレイラが願えば、オルゴールは叶えてくれるだろう。
けれどもレイラはその言葉に、ゆっくりと、だがはっきりと首を横に振った。
「ごめんね、みんな……でもわたしは、もういいの」
「………………………」
もういい。その言葉を言うのは2度目だ。
しかし今回のその言葉は決して諦めからくるものではない。
本当に、もういいのだ。レイラは、本当に心の底から満ち足りていたのだから。
だから、
「……これだけは、忘れないでね…………わたしは………」
レイラは笑顔を作った。
「わたしは幸せだよ。お姉ちゃん」
それはレイラが生きてきた中で一番の、最高の笑顔だった。
その後レイラは静かに息を引き取った。大好きな姉と、思い出のメロディーに包まれながら。
レイラの葬儀はルナサ達3人と紫だけが見守る中で行われた。
そうするよう前々からレイラに頼まれていた、と紫は語った。
葬儀も終わり、屋敷のすぐ傍に作られた墓に骨も納められた後のこと。
ルナサ達は墓の前にひざまずいて、静かに祈りを捧げていた。その少し後ろに、紫が佇んでいる。
しばらくすると、感情の読めない顔で紫が口を開いた。
「…姉妹の仲に水を差すような無粋な真似はしたくありませんので、これで失礼させていただきますわ」
そういって3人とレイラの墓に背を向けて、スキマの向こうへと消えようとする。
だがその前に待って、とルナサが声をあげてそれを止めた。
ルナサは立ち上がり真っ直ぐに紫を見つめて、確認するように訊ねた。
「私達は、ここに残っていていいのかしら?」
彼女達を生み出したレイラはもう居ない。
オルゴールも持ち主を失うと同時に魔法の能力は消え去った。今はもうただのオルゴールだ。
だから彼女達が残っている理由はない。紫になら、彼女達を消すなど造作もないことだろう。
けれど紫はルナサの方を振り向く事なく、ずっと昔にレイラに対して言った言葉をそのまま繰り返した。
「幻想郷は全てを受け入れるのよ。それはそれは残酷な話ですわ」
それだけを言い残して、紫はスキマの中へと消えていった。
ルナサがそれを見送っていると、メルランが立ち上がり、その隣に立って言った。
「それで、姉さん。これからどうしましょうか?」
「……分からない。何をすべきなのかも、何をしたいのかも、全然」
ルナサは静かに答える。
今までは何をするにもレイラのことが第一だった。それがするべき事であり、したい事だったから。
だからそのレイラが居なくなってしまった途端、何も分からなくなってしまった。
そうして2人で、途方にくれていた時だった。
「……決めた!」
「リリカ?」
リリカがすっと立ち上がってルナサとメルランの方を向いた。
「何を決めたの?」
「レイラのお願いを叶えるってこと!」
決意に満ちた目だった。
レイラのお願い。あの時頷けなかった『みんなでずっと楽しく、騒がしく暮らして欲しい』というお願い。
それを思い出して、ルナサもメルランも表情を明るくした。
今まで何をするにもレイラのことが第一だった。ならばこれからもそれでいいではないか。
レイラが楽しく暮らして欲しいと言ったのだから、楽しく暮らそう。
レイラが騒がしく暮らして欲しいと言ったのだから、騒がしく暮らそう。
それこそが、自分達のしたい事なのだ。
「……そうね。結局、それが一番」
「ずっと楽しく騒がしく。騒霊の本領発揮じゃないの♪……あ、そうだ」
メルランが、良い事を思いついたというように手をポンと叩く。
ルナサとリリカはきょとんとした顔でそれを見つめた。
「折角騒がしくするのなら、楽器でも弾いてみない?そうしたら騒がしくて楽しくて、きっと二重にハッピーよ♪」
「楽器……いいかも。………音楽なら、あの子に届けることも出来るかも知れないし」
「まあ、時間はたっぷりあるしね。やれるだけやってみようか」
満場一致で賛成だった。
そうなると、元々騒がしい3人組。ガヤガヤと案を出し始める。
「楽器は譲ってもらうなり拾ってくるなりすればいいとして、まずはグループ名を決めましょう♪」
「それは、必要なの?」
「いいじゃんいいじゃん。ほんと、ルナ姉は固いなぁ。ん~、何がいいかな?」
それからしばらく、話は3人のグループ名の議論に移っていった。
基本的にメルランとリリカの2人で、あれがいい、これがいい、と滅茶苦茶な名前を出しあっているだけだったが、やがてルナサがポツリと、
「……プリズムリバー楽団」
「え?」
「プリズムリバー楽団が良いと思うよ」
「プリズムリバー楽団………いいんじゃないかしら?」
「そのまんまの気もするけど、良い感じじゃん?」
この瞬間、幻想郷にプリズムリバー楽団という騒がしい3人組の楽団が誕生したのだった。
そして、最後に決めるべき事。
「さて、そうなると後は楽器を手に入れて練習あるのみ、ってわけだけど、まずは何の曲を練習する?」
リリカがルナサとメルランにそう訊ねるが、実際にはもう決まりきっていた。
「それはまあ……」
「そうよねぇ……」
「……ま、だよね」
3人は一様にレイラの墓へと振り返る。
その墓の前には、あのオルゴールが蓋を閉じられたまま置かれていた。
ルナサがそれを手にとって、蓋を開く。
流れ出す音楽は、自由気ままに空中を漂うのだった。
その曲はその後、3人によって『幽霊楽団~Phantom Ensemble』と名付けられ、プリズムリバー楽団の代表曲となった。
レイラが居なくなってから何十年も経った今、プリズムリバー楽団は人間からも妖怪からも大人気の楽団だ。
幻想郷中を回り様々な場所で奏でられる彼女達の演奏を聴いているのは、もしかしたらその場にいる観客達だけではないのかもしれない。
それは、むかしむかしの物語。
不幸な現実と幸せな幻想を生きた少女のお話。
プリズムリバー家。近隣の地域ではそれなりに名の知れた家だった。
その家の主プリズムリバー伯爵は貿易商で財を成している貴族であったが、その誠実な人柄からか農民や一般市民からも慕われ、尊敬されていた。
彼には4人の娘がいた。
ルナサ、メルラン、リリカ、そしてレイラ。父親の血と母親の教育のお陰か、彼女らもまた、皆に慕われる心優しい娘に成長していった。
特にレイラは、末娘という事もあってか両親と姉達の愛情を一杯に受けて、誰よりも明るく、元気に育った。
どれほど忙しくとも合間を縫って遊んでくれる父親、厳しくも優しい母親、そしてこの世の何よりも大事で、大好きな3人の姉。
着るものも、食べるものも、住むところも、全てが不自由なく揃っていた。
プリズムリバー家は、レイラは、幸せだった。
……そのままで、間違いなく幸せだったのだ。
それはレイラが10歳になる少し前の頃のこと。
その日、プリズムリバー邸の中はいつにも増して賑やかだった。
今日は父親が東の国での仕事を終えて、久々に家族全員で過ごせる日だ。
母親はメイドとともに朝からずっと夕食の準備に勤しみ、レイラ達4人もそのお手伝いをしたり、父親を喜ばせるためのサプライズを考えたりと一日中大忙しだった。
とても慌しく大変な一日ではあったが、夜になり父親が疲れ切った顔で帰ってきたのを出迎えた瞬間、その労はねぎらわれた。
「おかえりなさい、お父さん!」
「ああ。ただいま、レイラ」
玄関を開けると同時に飛びついてきたレイラを抱きとめた伯爵は、それだけで疲れが吹き飛んだかのような笑顔を見せた。
それから、レイラに腕を引っ張られるようにして食卓へ向かう。
「おお…これは、凄いな……」
食卓に着くと、伯爵は感嘆の声とともに顔を綻ばせた。
家族だけで使うには広すぎるそのテーブルには、所狭しと言わんばかりのごちそうが並べられている。
伯爵が予想以上の料理の数々に驚きを隠せないでいると、その様子をレイラがニコニコとした笑顔で見上げているのに気づいて、伯爵はしゃがんでレイラと目線を合わせながら言った。
「とっても美味しそうだ。でも、こんなにたくさんあって食べきれるかな?」
「う~ん、大丈夫だよ、きっと。…あっ、あのね、今日のお料理はわたしもお手伝いしたんだよ!」
「本当かい?だったら大丈夫だな。レイラの作った料理ならこのくらいの量はぺロリだ」
そう言って伯爵はレイラの頭を優しく撫でた。芽を出したばかりの若葉を思わせるエメラルドグリーンの髪がさらさらとなびく。
レイラは嬉しそうにしながら、伯爵の胸に顔を擦りつけるように抱きついた。
と、
「おかえりなさい、貴方。怪我もなさらず何よりです」
「おかえりなさい、お父さん。夕食の準備は終わっているよ」
「おかえり、お父さん♪早くしないとお料理が冷めちゃうわよ?」
「おかえりー。ほら、レイラもお父さんもさっさと席に着く!」
奥の部屋から、食器を手に母親と姉達がやってくる。
口々に伯爵を出迎えながら席に着くよう促す4人に、伯爵はレイラを抱きかかえながら立ち上がった。
「ただいま、みんな。さ、それじゃあご飯にしようか、レイラ」
「うんっ!」
夕食は、会話が途切れる事の無い明るく騒々しいものとなった。
話したいことは皆、山ほどあった。
伯爵も、家族に会えなかった時間を埋めるようにいろいろな事を聞いた。
やがて伯爵のいない間に起こった事が話し尽くされると、今度は伯爵が話し手となる番だ。
貿易に行った東の国での出来事。楽しかった事や危険だった事など、皆が聞きたがりそうな事を覚えているだけ話し尽くす。
山のようにあった料理は話が進むにつれてどんどん無くなっていき、伯爵の話が終わる頃にはほとんどの皿が空になった。
そうして夕食も終わりの様相を見せ始め、皆が飲み物を手に一息ついている時だった。
伯爵が『それ』を取り出したのは。
「あら貴方。その木箱は何なのですか?」
「ああこれか?貿易先の国で偶然手に入れた物なんだが……」
伯爵は皆に見えるようにテーブルの上にその木箱を置いた。
手のひらよりも少し大きいくらいの、立方体の箱だ。側面の上の方に金具のようなものがついていて上の部分が開くようになっているらしい。
それ以外には何の飾りつけもされておらず、木目だけがうっすらと模様のように浮かんでいるだけの何の変哲も無い木箱だった。
皆の視線がその箱にそそがれる中、伯爵はゆっくりと箱の上部を開く。
それと同時に、箱から静かに音楽が流れ出した。
「わぁ……」
「綺麗な音色……」
惹きつけられるような音色だった。
母親やレイラ達はもちろん、持ってきた本人である伯爵さえもその音に聞きいっていた。
その音色は不思議な事に、いつまで経っても止む様子も弱まる様子も無い。
しばらくの間その音色に聞き惚れた後、レイラが伯爵に問いかける。
「これ、オルゴール?」
「多分そうだろう。ネジも巻いていないのに鳴り続けるなんて、一体どんな構造をしているのやら」
「不思議な物もあるものですね」
「ああ。さらにこいつには、願い事を叶えてくれるなんて言い伝えもあるんだ」
「願い事?」
レイラがきょとんと首を傾げる。
母親が笑いながら、レイラの後に続くように訊ねた。
「それでは、貴方は何をお願いされたのですか?」
「いや、まだ何にも」
「えー!?そんなのもったいないわよ」
「お父さんがしないなら、わたしが代わりにお願い事しちゃうよ?」
「駄目よ。これはお父さんのなんだから」
伯爵の返答に、レイラの姉達が不満そうな声をあげた。
その声に伯爵は苦笑いをしたが、ふと箱へと目をやって。
「…ふむ、そこまで言うなら、何かお願い事をしてみるか」
「やってみてやってみて。もし本当に叶ったら今度はわたしがお願い事するんだから」
「そうかい。それじゃあ、そうだな…」
伯爵は少しだけ悩むような仕草を見せたが、やがて悪戯っぽく笑って、
「決めた。『幸せになれますように』だ」
「え?」
その願いに、伯爵以外の皆がきょとんとする。
それから母親が、大げさに拗ねたような表情をして、
「まぁ、貴方は私達と居ても幸せじゃないとおっしゃりたいのですね」
「ははは、違う違う。私は今で十分に幸せさ」
「じゃあ何で?」
純粋な表情で訊ねるレイラに、伯爵はその頭を優しく撫でて笑いながら答えた。
「さっきお願い事をして、今幸せの中にいる。ほら、願い事が叶った。これは本当に願いを叶える魔法のオルゴールだ」
「何それ、変なの」
「私には願い事なんて無い、今のままでいい。そういうことだよ」
そう言って伯爵は箱を閉じた。それとともに流れていた音楽もピタリと止まる。
それからは再び会話に花を咲かせて、残った料理もみんなで綺麗に食べ切った。
結局、その日の間中ずっとプリズムリバー家の中から笑顔が絶える事は無かった。
伯爵は、願い事が叶うなどということを信じてはいなかっただろう。
もし本当に信じていたなら、もう少し真剣に考えていただろうし、もしかしたら使うこと無くただのオルゴールとして置いておくだけだったかもしれない。
そのままで、間違いなく幸せだったのだから。
伯爵が処刑されたのはそれから1年ほどした頃だった。
罪状は裏取引される非公式の薬物や武器などの密貿易及び、口封じのための数え切れない殺人。全てが、この一年の間に行われたものだった。
処刑されるその瞬間まで、伯爵は『金があれば幸せになれる……金があれば幸せになれる……』とうわ言のように呟いていたらしい。
彼の妻、レイラ達の母親は、突然人が変わったように狂ってしまった夫に戸惑い精神的な病にかかってしまい、伯爵が処刑されてすぐに息を引き取った。
残ったのは、貴重品の全て持ち去られた大きな屋敷と4人の姉妹だけだった。
彼女達に対する世間の目は当然のように冷たかったが、狂う前の伯爵や彼女達を良く知る親戚や知人の中には、彼女達を養子として引き取ると言ってくれる人も居た。
ただし、引き取れるのは1家庭に1人だけ。それ以上を養う余裕は、親戚も知人も持ち合わせてはいない。
そうであったとしても、彼女達にとってみればこの上なくありがたい話だ。
ルナサ、メルラン、リリカの3人はそれぞれ別々の家庭に、すぐに引き取られる事となった。
だが、レイラは、
「わたしは、ここに残る。絶対どこにも行かないもん」
そう言って、どこからの誘いも頑なに断り続けた。
親戚達はまだ幼いレイラを1人にしておくわけにはいかないと、色々な手を尽くした。
プレゼントを贈って機嫌をとろうともした、ずっと仲の良かった親戚の子がいる家庭が声をかけてみることもした。
けれどもレイラは、決して首を縦には振らなかった。
「……分かった、今日のところは帰らせてもらおう。週に一度は様子を見に来るから、気が変わったらすぐに言いなさい」
レイラの根気に負けて、親戚はそう約束を取り付けて屋敷を後にした。
玄関が閉じられると、屋敷の中は静寂で満たされる。
レイラは1人、自分の部屋へ戻ろうと歩き出した。
自分の言っていることが単なる子供のわがままだということはレイラにも分かっている。
『この屋敷でみんな一緒に暮らしたい』。そんなこと、姉達だって同じように思っているに違いない。
だが現実は、それが叶えられるほど甘くはない。だからみんな、それぞれ別々に生きる事を決めたのだ。
何も間違っていない。姉達の行動が正解だ。レイラにだって分かっている。
「でも、諦めないんだから」
こうして意地を張っていても、何も解決はしない。そう分かっていても、どうしても諦められなかった。
自分がここを離れた瞬間、みんなとの思い出も全てバラバラになってしまうような気がして、どうしようもなく怖かった。
部屋に戻ると、すぐにベットに入って布団を頭まで被って眠りについた。
今までのことが全部夢で、目が覚めたらみんなで一緒に笑顔で朝食が食べられるのではないかという、子供じみた小さな小さな願いを胸に抱きながら。
それでも、現実はどこまでも残酷で、留まることを知らなかった。
レイラが屋敷に1人残って実に10ヶ月近くが過ぎ去った。
週に一度は様子を見に来るといっていた親戚も、もう顔を見せなくなって久しい。
当然だ。いつまでも子供のわがままに付き合っていられるほど、彼らも暇ではない。
レイラは1人、薄暗い自分の部屋の壁によりかかるように座りこんでいた。
新緑のように綺麗だった髪も、お気に入りだった洋服も、すっかり薄汚れてしまっている。レイラの顔から、あの元気で愛くるしかった笑顔はすっかり消え去ってしまっていた。
もう動く気力も無いのか、レイラはただただ床に座りこみ、生気のない顔でうわ言のように呟く。
「……わたし、何か悪いことしちゃったのかな?……悪いことしちゃったから、罰があたっちゃったのかな?……分かんない…分かんないよ……わたしが悪いなら、謝るから……これからは、いい子にするから……だから、もう…許してよ……みんなを返してよぉ!」
行き場のない感情に、すぐ隣にあった小さなタンスを力任せに殴った。
衰弱した幼い少女の力ではタンスを僅かに揺らす程度の効果しかなかったが、それでも元々の置き場所が悪かったのかタンスの上から1つ、転がり落ちるものがあった。
「……あ………」
それは伯爵が持って帰ってきたあのオルゴールだった。貴重品はあらかた持ち去られていたがこれは見た目にはただの木箱、誰も持っていく者はいなかった。
その木箱は床にぶつかると、衝撃によってかひとりでに開いた。
ゆっくりと音楽が流れ出す。
「これの…せいで……」
このオルゴールが全ての原因だということは分かっていた。
『幸せになれますように』。この願いを、オルゴールは叶えようとしたのだ。とても捻じ曲がった方法で。
レイラはふらふらと立ち上がろうとして、バランスをとれずに倒れこんだ。それでも這うようにしてオルゴールの下に向かう。
オルゴールは無機質に音を奏で続けている。レイラの事などこのオルゴールは見ていなかった。
レイラは両手でオルゴールを掴み取り、座りなおす。
「こんなの……こんなのさえ無ければ………」
オルゴールを持ったまま腕を高く振り上げる。このまま床に叩きつければ、きっとこの木箱は壊れるだろう。
そんな状況だというのに、オルゴールは何でもないように鳴り続けている。無情なほどに綺麗な音色だ。
「う……うぅっ………」
けれども、その腕を振り下ろす事が出来ず、レイラはオルゴールを強く抱きしめた。
たとえそれが全ての元凶だったとしても、レイラにとっては家族との最後の思い出がたくさん詰まったものなのだ。
それを壊すなんてことは、レイラには出来なかった。
「あぁ………うぁぁっ…………うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
堰を切ったように、レイラは泣き叫んだ。
涙などとっくに流し尽くしたと思っていたのに、後から後から溢れ出てくる。
そうしてレイラは声が涸れるまで、涙が涸れるまで、狂ったオルゴールのように泣き叫び続けた。
元凶のオルゴールはそれにあわせることさえ無く、ただただ音を奏で続けているだけだった。
やがて声がかすれ、涙も出なくなった時、レイラは願った。全ての元凶たるオルゴールに。
それは諦めだろうか。敗北だろうか。だとしてもレイラ自身が屈した今、誰一人としてレイラを責めるものは居ない。
「お願い、だよ……わたしは、またみんなに会いたい……みんなと…お姉ちゃん達と一緒に、もう一度…………もう一度、笑顔で過ごしたい……!」
そう口にした瞬間。今まで何があってもただ鳴り続けるだけだったそのオルゴールが、強く光りだした。
光はレイラの部屋を、いや屋敷中を照らすほどになった。堪らずオルゴールを手放し両手で目を覆う。
そんな光の中で、レイラは眠るように気を失った。
そうして、レイラとオルゴール、プリズムリバーのお屋敷は、この世界から姿を消した。
頬に触れる柔らかい感触に、レイラはゆっくりと目を覚ました。
それは手の触れる感触だった。誰かが、レイラの頬を撫でているのだ。
レイラはそっと目蓋を開く。誰かがレイラの顔を覗きこむようにしているのが見える、だがぼやけて誰なのかは良く分からない。
「お姉、ちゃん……?」
その顔に触れようと手を伸ばしながら、レイラは呟いた。ほとんど無意識で、思わず出た言葉だった。
しかし、
「残念ながら、貴女のお姉様ではありませんわ」
涼やかな声が、その言葉を打ち砕いた。
それからゆっくりと抱き起こされる。先ほどの声とは裏腹に、母親のように優しい手つきだ。
強く目をこすってぼやけた視界を元に戻し、その人物に焦点を合わせる。
その人物は、確かに姉ではなかった。
室内だというのに何故だか日傘を差している。ふわふわとしたドレスや奇妙な帽子はどちらも薄い紫色で統一されていた。
ウェーブのかかったブロンドの髪と白い肌は一見して西洋風だが、それでいてどこか東洋の雰囲気も感じさせる、一言で言うならば不思議な人物だった。
「あなたは……?」
レイラは戸惑いながらも訊ねる。
人と会話をすること自体、数ヶ月ぶりのことなのだが、そんなことは今のレイラにとってはどうでも良かった。
親戚や知人にも、こんな人物はいない。
「これは申し遅れました。私はこの幻想郷の管理人、八雲紫と申します。お見知りおきを」
「八雲……紫?」
父の言っていた東の国の名前のようだ、とレイラは思った。その西洋風の姿と相まってますます不思議な感覚を受ける。
だがそのこと以上に、レイラには引っ掛かる言葉があった。
レイラは表面上はにこやかな、けれども底の知れない笑みを浮かべる紫に向かって問いかける。
「幻想郷って…何?」
「……そうですわね。貴女には、まず自分自身の現状を理解していただきましょうか」
紫は独り言のようにそう言って、すっと立ち上がった。
レイラが見上げる中部屋を歩き、部屋に1つだけある窓の前で立ち止まる。
「さぁ、こちらへ」
紫はそう言いながらレイラへ向けて手招きをした。
レイラはそれに従うように近くにあったタンスを支えにゆっくりと立ち上がると、よろよろとしたおぼつかない足取りで紫の下まで向かう。
紫の隣までたどり着くと、紫は片手でそっとレイラを支えてくれた。その腕にしがみつく様にしながら、窓の外へ目を向ける。
「…………え………?」
その光景に、レイラは思わず目を疑った。
窓の外には、木がうっそうと生い茂っていた。真正面だけではない、右の方を見ても左の方を見ても、どこもかしこも木で覆われている。
これではまるで、森の中に屋敷が建っているようではないか。
「どういう、こと?」
「ここは、貴女の暮らしていた世界ではありません。貴女の元居た場所から切り離された世界。それがここ、幻想郷」
呆気にとられているレイラを眺めながら、紫は淡々と語る。
しかしその冷静な口調とは裏腹に、出てくる言葉はとてもレイラには理解出来るものではなかった。
「何、言ってるの…?」
「もちろんすぐに信じろとは言いませんわ。でも、この場においては私は真実しか語らない。そのことだけは心に留めておいてもらえるかしら?」
子供を諭すかのように紫はそう告げて、自分の腕にしがみついているレイラをそっと離し、再び歩き出す。
そして、部屋の中心の辺りに転がっていた木箱を手に取り、顔は木箱に向けたままその箱をレイラに見せるように向き直った。
木箱はいつの間にやら蓋が閉じられていたようで、今は音も流れていない。
「これはマジックアイテムですわね、文字通りの魔法の道具。魔法と言うと、貴女の居た『外の世界』では奇跡のようなものというイメージがあるかもしれませんが、実際には限られた才能のある者が、限られた式を組み上げる事で扱える非常に繊細で不安定な物。このアイテムには式は元々組み込まれているようですが、それでも能力の無い者が使おうとすれば…精神を蝕まれ、このアイテムの操り人形になってしまうでしょう」
その言葉に、レイラは父親の姿を思い出した。
あれほど誠実で優しかった父親は、まるで人が変わってしまったように狂ってしまった。やはりそれは、あのオルゴールのせいだったのだ。
だが、だとすればレイラも同じようになるはずだ。レイラは父親のものとは比べ物にならないほど強い願いをオルゴールに告げた。
それなのにレイラは、少なくとも狂ってはいない。それはつまり…
「貴女には、少なからず才能があったのでしょうね。だからこれを使った後でも無事でいられる」
にわかには信じ難い話。けれどもそんなことは今更だ。
オルゴールの不思議な能力、突然別の場所に移されてしまった屋敷。それを目の当たりにした後では魔法などという言葉が出てきても何の抵抗も無い。
しかし、この紫の話だけでは今の状況を説明しきれてはいない。レイラはぼんやりとした頭に浮かんできた問いを、紫へ投げかけた。
「それで……何で、わたしは『ここ』に連れてこられたの?」
当然の疑問。
しかし紫はその問いを聞くと、一瞬だけ酷く悲しそうに見える表情を浮かべてふい、とレイラに背を向けてしまう。
そうして一呼吸分ほどの間をおいてから、紫はゆっくりと、そして淡々と語った。
「……貴女が使ったのは魔法。『外の世界』には存在してはいけない幻想の能力。それを使用した貴女を、『外の世界』は決して受け入れない」
「そん、な……」
それはつまり、世界に見放されたという事を意味していた。自分の暮らしていた、生きていた世界から。
いや、そのこと自体はレイラにとっては些細な事だ。世界から見放されていることなど、とうの昔から気づいていた。
でもそんな事以上に、信じたくない、あってほしくないことは、
「じゃあ……もう、みんなに……………会えない、の?」
「……………………………」
「お姉ちゃん達に……会えないの?」
「……………………………」
「ねえ…答えてよ……」
それだけが、レイラの全てだった。それを否定してくれたら、レイラは十分だった。
だというのに紫は答えようとはしない。それこそが暗に、答えを語っていた。
しかし紫は、たっぷりと時間をおいてから、はっきりとした口調で告げる。
「貴女はもう幻想郷の住人。幻想郷の住人が『外の世界』の者と相まみえることは、無いと思って下さって結構です」
「あ……」
それは紫の優しさだった。
答えをはぐらかし無い希望に縋らせるよりも、はっきりと現実を伝えることを選んだ、精一杯の優しさだった。
レイラは身体の力が抜けて、その場にへたり込んでしまう。
その姿に背を向けたまま、紫は悲しげに呟いた。
「……幻想郷は全てを受け入れるのよ。それはそれは残酷な話ですわ」
しばらくの間、静寂が部屋を包んでいた。
レイラは俯いたまま座りこみ、動かない。紫もまた、そんなレイラに背を向けたまま動こうとはしなかった。
まるで時が止まってしまったかのように何もかもが止まった空間。
そんな中、口を開いたのは、やはり紫だった。
「…玄関からこの屋敷を出て、森をずっと真っ直ぐに行くと人里にたどり着きます。そこの人達は貴女にも親切にして下さるでしょう。道中は貴女を襲うような妖怪も出ませんからご安心を」
それはこれから先の話だった。淡々と、事務報告のように告げている。
レイラはそれに関心を示すようなことも無く、変わらず俯いたままだった。
それから、と紫は続けて、扇子を取り出して何も無い空間をそれで指し示す。
すると扇子で指された空間がぱっくりと裂けた。
まるで時空の『スキマ』のようなそこから、大きなカゴが現れて床に落ちる。
そのカゴの中には、パンや果物、野菜などがいっぱいに詰められていた。水が入っているのだろう竹筒もいくつもある。
「2,3日分はあります。少ないですが、この世界の通貨も入れておきました。これが、私が貴女にして差し上げられる全てですわ」
紫はそう言って、そのカゴの隣に手にしていたオルゴールを置いた。
そうしてからようやく振り返り、レイラへと視線を向ける。
動く事の無いレイラを見つめるその視線から、感情を読み取る事は難しい。
たっぷり10秒ほどレイラを眺め続けていた紫だったが、やがて手にした扇子で再び宙を指し示す。
空間が裂け、紫の背丈ほどのスキマが現れる。
「それでは、私はこれで失礼いたします。……出来る事ならば、再びまみえる機会がありますことを」
そう言い残して、紫はスキマの向こうへと消えて行った。
紫がいなくなると、レイラはまた1人ぼっちだ。静寂も、先ほどのものよりもさらに重く冷たいものに感じられる。
レイラはそっと顔を上げた。その顔には、涙も浮かんでいない。
本当は泣きたかったが、涙はすでに流し尽くしてしまっている。そんな自分が、酷く惨めに思えた。
結局紫は、何の解答もレイラに示してはくれなかった。ただ、レイラの歩める道を教えてくれただけだ。選ぶのはレイラ自身だった。
紫の置いていったカゴには、果物の皮を剥くための果物ナイフも入っている。それはつまり、その道も選べるということを示していた。
それもまた、選ぶのはレイラ自身だった。
レイラはしばらくの間うつろな瞳でカゴを見つめていたが、やがてかすれ切った声で、小さく呟いた。
「………もう……いいや………」
それが、レイラの選んだ道だった。
今までどんなに辛くても、苦しくても、レイラは決してその言葉を口にはしなかった。
それはひとえに可能性があったからだ。ほとんどゼロのような、砂粒のように小さい可能性だが、それでも可能性はあった。
だがその可能性は、幻想郷に引き込まれた事で消え去った。紫が嘘を言っていない事は、レイラにも良く分かっている。
……それで、良かったのかもしれない。
もしも幻想郷に引き込まれなかったとしても、レイラはそう遅くなく同じ道を辿っていただろう。
その時の道は、叶う事の無い可能性を抱き続けたままの、辛く苦しいものだったはずだ。
そんなのは、もう嫌だった。
レイラは、もう十分すぎるくらいに頑張ったのだから。
だから、もうよかった。もう、楽になりたかった。
ふらふらと立ち上がり、夢遊病者のようにカゴの元まで向かう。
そして、カゴの中に入っている果物ナイフを手に取った。妖しく光るそれは小ぶりだが十分な切れ味があるだろう。
後はそれを、のどにでも突きたてればいい。たったそれだけで、ようやく楽になれる。
そう、思った瞬間だった。
「そんな顔をしないで」
「え……?」
どこからか、声が響いてきたような気がした。
辺りを見回すが何もいない。紫の出していたスキマも見られない。
「私達がいるから」
「誰……?誰なの……?」
やはり聞こえる。
近いような遠いような、部屋全体に響き渡っているような不思議な声だ。
その声達はレイラの問いかけに答える事をせず、ただレイラに語りかけた。
「あなたは1人じゃない。私達が、ここにいるよ」
その声が響いた瞬間、部屋にあったタンスがガタリと音を立てた。
レイラがそちらへ目を向けると、今度は窓が何かに叩かれているかのようにガタガタと鳴り始める。
それを皮切りに、部屋中のものが一斉に独りでに動き始めた。
机の椅子が何かに引っ張られて倒れる。ベットが何かが上で跳び跳ねているかのように軋む。ドアが勝手に閉じたり開いたりを繰り返す。
その光景とそれらが立てる騒音に呆然としながら、レイラは部屋中をきょろきょろと見回した。
まるで見えない何者かが部屋を駆け回って遊び散らかしているかのようだ。騒音に混じって何人かの笑い声が聞こえてくるような気がした。
そんな中、またあの声達が部屋に響き渡る。
先ほどのレイラに語りかけていた声よりも、ずっと楽しそうな声だった。
「教えて?あなたの大切な人のこと」
「聞かせて?あなたの大好きな人のこと」
「思い出して?あなたのお姉ちゃんのこと」
その声は、騒音の中でもはっきりとレイラの耳に届いた。
レイラはその声に、ふっと目を伏せてしまう。それから、手にしていたナイフをゆっくりと眺めた。
それもいいか、とレイラは思った。
どうせもう最期なのだから。幸せな思い出の中で最期を迎えるくらいの贅沢は、してもいいじゃないか。
そう思って、レイラは顔を上げた。そして、騒音を響かせる姿も見えないものへ、ぽつぽつと語り始める。
「わたしの……わたしのお姉ちゃん達はね…………」
その時のレイラは、本人は気づいていなかったかもしれないが、笑顔を見せていた。
屋敷にみんなで暮らしていた時のような明るいものではない、今にも消えてしまいそうな弱々しいものだったが、それでも確かに、レイラは笑っていた。
レイラは姉達との思い出を思い返しながら、その全てを語り続けた。
部屋の中は相変わらず家具の立てる騒音が鳴り続けていたが、それでも姿の見えない声達はしっかりとレイラの声を聞いてくれているように感じられた。
長女のルナサは、いつでも冷静で物静かなしっかりものだった。
レイラが困ったり悩んだりした時は、いつでも優しく、静かに諭してくれた。
「出来ないなら、無理はしないで。そんな時は、私を頼ってくれていいんだよ」
レイラを真っ直ぐに見つめながら、ルナサはそう言ってくれた。
その凛とした姿が、レイラは大好きだった。
次女のメルランは、元気で活発なお転婆娘だった。
レイラが辛かったり悲しかったりした時は、いつでも明るく励ましてくれた。
「ほら、うじうじしてないで笑顔笑顔。レイラには笑顔が一番似合うんだから♪」
レイラの口元を両手で引っ張り上げながら、メルランは自分も笑顔を作った。
その明るい表情が、レイラは大好きだった。
三女のリリカは、悪戯好きで子供っぽいお調子者だった。
レイラが楽しかったり嬉しかったりした時は、いつでも傍で一緒に喜んでくれた。
「まったくもう。レイラはいつまで経ってもお子様だね」
からかうように笑いながら、レイラの頭を撫でてくれた。
その温かな仕草が、レイラは大好きだった。
そんな姉達のことが、レイラは大好きだった。
自分の思い出を全て吐き出すかのように、レイラは話し続けた。
声はもう涸れてしまったはずなのに、不思議とすらすらと言葉が出てきた。
だがそれも、少しの間のことだった。
2時間もしないうちに、レイラにはもう話せるような思い出は無くなってしまった。
それも当然だ。レイラは、まだたったの十年程度しか生きていないのだから。たったの十年では、思い出などその程度の量でしかなかった。
弱弱しい笑みを浮かべたまま、レイラはその事実に愕然とした。
「あ、あれ……?あはは、おかしいなぁ………もっといっぱい、楽しいことあったのに。これだけしか…覚えてないの……?これっぽっちなの……?なぁんだ……はは、ははは……」
いつの間にか、辺りに響いていた騒音も止んでいた。
レイラの渇いた笑い声だけが部屋に響く。
それはちっぽけな自分に対する笑い。それっぽっちで最期を迎える惨めな自分への笑い。
涸れきったはずの瞳から、涙が一粒だけ溢れ出て頬を濡らした。それが、レイラの中に残っていた、最後の最後の涙であった。
その時だった。
「……ほら、だから無理はしないでって言ったのよ」
「えっ………」
唐突に、再び響いてきた声。でも、その声は、
「そんな笑顔じゃ駄目駄目よ。貴女に似合うのは、もっともっと元気な笑顔」
「この声は……」
とても懐かしく、とても愛おしい、
「あーあ、やっぱりあんたにはわたしが着いてなくっちゃ駄目だね。このお子様が」
「お姉、ちゃん……?」
大好きな姉達の声だった。
思わず、レイラは立ち上がる。その拍子にナイフが手からこぼれて床に落ちた。
姉達の声は相変わらず部屋中に響き渡るようにして続ける。
「私達は過去の思い出には、なってあげられない」
「どこにいるの……?」
部屋をぐるぐると見渡す。声は聞こえるけれども姿は見えない。
「でも、今と未来の思い出にはなってあげられるわ」
「どこ?どこにいるの?」
気配は感じられるけれども姿は見えない。
「だからもう泣くんじゃないよ。これからは、前を向いて生きていかなきゃ」
「どこなの?お姉ちゃん!!」
でも、
『私達は、ここだよ。レイラ』
その声が初めてレイラの声に答えてくれた瞬間。
レイラにも、確かに見えた。
それは紛れもなく、愛おしくてたまらなかった、レイラの大好きな姉達の姿だった。
レイラは耐えきれずにその姿へと抱きついた。姉達はそれを、しっかりと受け止めてくれた。
姉達はレイラを包みこむようにして抱きしめてくれた。
とても、とても温かかった。
その後、レイラは紫の置いていった食事をとって人里へと向かった。
人里の人々はレイラを見つけるや否や、すぐに手厚く保護をした。
それもそうだ。人里にたどり着いた時のレイラは、すでに衰弱しきっていて今にも倒れてしまいそうな状態だったのだから。
1ヶ月ばかり人里の家に預けられて安静にしていると、レイラは少しずつ回復していった。身体は弱っていたが、幸いな事に何の病気にもかかってはいなかった。
人里の人々は皆親切だった。
レイラの為にとたくさんの食べ物を持ち寄ってくれて、栄養のある料理を作ってくれた。
すっかり汚れきってしまっていた洋服や身体、髪の毛も綺麗に洗ってくれて、代わりの着物も貸してくれた。
回復した後には人里内に住む場所も確保してくれるとも言ってくれたが、それだけは断らせてもらった。
そうして動くことに支障が出なくなるまでに回復すると、レイラは人里の人々にお礼を告げて屋敷へと帰る事にした。
多少引き止められはしたが、それでも最後には笑顔で送り出してくれた。またいつでも来ていいと言ってくれたことは、嬉しかった。
森の奥の屋敷に戻り、玄関の戸を開く。
「ただいま!」
屋敷中に響き渡らせるように大声で言った。
今はそれに答えてくれる者がいる。
「おかえり、レイラ」
「あらあら、元気になったみたいね」
「一月前とは大違いだ」
ふわふわと宙に浮きながらレイラの元までやってくる姉達。
レイラはそんな3人を前にして、ようやく正真正銘の満面の笑顔を浮かべる事が出来たのだった。
彼女達はあのオルゴールが作り出した騒霊、いわゆるポルターガイストらしい。
オルゴールは正規の使用者であるレイラの願いを叶えようとしたが、それよりも前に幻想郷へ飛ばされてしまった。
いかに魔法の能力を持っているといっても、博麗大結界を越えてまでの干渉をすることはただの道具には不可能だった。
だからオルゴールはレイラの中に眠っている魔力と思い出を素に彼女達騒霊を生み出し、その代わりとしたのだ。
それを聞いた時、レイラは少しだけがっかりとした。
でも、それでも彼女達はレイラの思い出の中の姉達とまったく同じでレイラを愛してくれ、レイラもそのうちそんなことは気にならないほど彼女達に心を許した。
それから先のことは語るまでもなかった。
親のいない姉妹4人だけの生活ではあったが、姉達は騒霊。食べ物も飲み物もとる必要は無い。
レイラの食べるものも、人里に行けばレイラにでも出来る程度のお手伝いのような仕事と引き換えに十分すぎる量を分けてもらえた。
何より、あれほど願い続けていた、心のどこかではとっくに諦めていた姉妹4人で一緒に過ごすという願いが叶ったのだ。それ以上の幸せなどありはしない。
姉達はレイラの魔力によって生み出された騒霊なので同様に魔力を持ち、尚且つオルゴールが『笑顔で過ごしたい』というレイラの願いを叶え続けているためか大抵の妖怪ならば追い払える程度の魔法も扱えた。
だから姉達の助けを借りつつ、レイラは幻想郷の様々な場所を観て回った。
幻想郷はその名の通りに不思議なものや場所がたくさんあって、飽きる事はなかった。
紫も何故だか時折レイラの様子を見にやってきた。
初対面の時の事務的で淡々とした姿はどこへやら、飄々とした笑顔でやってきては紅茶をせびってしばらく居座ると、いつの間にかふらっと帰って行くというのが毎回だった。
多分、レイラのことを心配してくれていたのだろう、そのことを悟られたりする事が嫌だったのだろう、とレイラは好意的にそれを受け取った。
そうしてレイラは数十年の時を精一杯生き抜いた。
その間に色々な人に出会った。人里の人はもちろん、妖怪にも話のする友人が幾人も出来た。
当然辛い事や苦しい事もあったが、レイラにはいつでも姉達がついている。乗り越えられない事など何一つなかった。
そして、
プリズムリバーのお屋敷の一室。生まれた時からずっと使い続けてきた部屋のベットに、レイラは横たわっている。
その傍では、レイラの大好きな姉達が、物悲しそうな表情でレイラを見ていた。
「ふふ……みんな、どうしたの?そんな顔をして……」
「レイラ………」
この数十年で、レイラはすっかり歳をとった。
対する姉達は騒霊。姿形は変わることなくレイラの前に現れた時のままで、傍目にはお婆ちゃんと孫というようにしか見えない光景だった。
もう満足に身体を動かす事もできない状態で、それでもレイラは楽しそうな笑顔で3人を眺めている。
「レイラ…やっぱり、もう………」
「そうだろうね……自分のことは、自分で良く分かってるつもりだから」
「そんな……嫌…嫌だよ………」
リリカが今にも泣き出しそうな表情でレイラにしがみついた。
メルランもこの時ばかりは顔から笑みが消えていて、ルナサも、悲しそうに唇を噛んでいた。
レイラはそんな3人を順番に見た後、ふと思い至ったというようにゆっくりと口を開く。
「……オルゴール…取ってくれる?」
「え?」
レイラの言葉にルナサが後ろを振り返った。
その視線の先にあるタンス。その上に1つの木箱が置かれている。
ルナサは少し戸惑いながらもそれを手に取り、レイラに渡した。
レイラはそれを自分のひざの上に置くと、そっと蓋を開く。
レイラが幻想郷に連れてこられたあの時以来一度たりとも開かれる事のなかったそれは、けれどもそんなことはお構い無しにあの時とまったく同じメロディーを奏で始めた。
その音は、レイラの全てが詰まった音だった。楽しかった事も、辛かった事も、全てがこのメロディーに込められていた。
そのメロディーに聴き入りながら、レイラは懐かしそうに笑った。
その瞬間少なくともルナサ達3人には、レイラが昔の、初めて出会ったあの頃の幼い姿に戻って見えた。
「不思議だなぁ……あんなに、あんなに憎くて堪らなかった音なのに………今は、凄く心地良い……」
レイラはそう呟いて目を閉じ、身体全体で音を感じた。
ルナサも、メルランも、リリカも、皆同じようにその音に聴き入る。
「………ねえ、みんな。1つだけお願いしたいことがあるの」
「何?何でも言っていいよ」
しばらくしてからそっと目を開けて、レイラは3人へ向けて言った。
「じゃあ…わたしが居なくなっても……ずっと、みんなで………楽しく、騒がしく暮らして欲しいな」
「っ……レイラ………」
それは別れの言葉だった。
3人はそれに頷くことは出来ない。そうしたら、別れを認めてしまうのと同じことだから。
最初に口を開いたのは、リリカだった。
「嫌だ」
「……リリカお姉ちゃん………」
「絶対嫌だよ……レイラも、ずっと一緒にいようよ。レイラがこのオルゴールにお願いすれば、出来るはずでしょ?」
「リリカ……」
リリカだけの思いではなかった。ルナサもメルランも、声には出さなくとも同じ思いだった。
そしてそれは、紛れもなく真実だ。今からでもレイラが願えば、オルゴールは叶えてくれるだろう。
けれどもレイラはその言葉に、ゆっくりと、だがはっきりと首を横に振った。
「ごめんね、みんな……でもわたしは、もういいの」
「………………………」
もういい。その言葉を言うのは2度目だ。
しかし今回のその言葉は決して諦めからくるものではない。
本当に、もういいのだ。レイラは、本当に心の底から満ち足りていたのだから。
だから、
「……これだけは、忘れないでね…………わたしは………」
レイラは笑顔を作った。
「わたしは幸せだよ。お姉ちゃん」
それはレイラが生きてきた中で一番の、最高の笑顔だった。
その後レイラは静かに息を引き取った。大好きな姉と、思い出のメロディーに包まれながら。
レイラの葬儀はルナサ達3人と紫だけが見守る中で行われた。
そうするよう前々からレイラに頼まれていた、と紫は語った。
葬儀も終わり、屋敷のすぐ傍に作られた墓に骨も納められた後のこと。
ルナサ達は墓の前にひざまずいて、静かに祈りを捧げていた。その少し後ろに、紫が佇んでいる。
しばらくすると、感情の読めない顔で紫が口を開いた。
「…姉妹の仲に水を差すような無粋な真似はしたくありませんので、これで失礼させていただきますわ」
そういって3人とレイラの墓に背を向けて、スキマの向こうへと消えようとする。
だがその前に待って、とルナサが声をあげてそれを止めた。
ルナサは立ち上がり真っ直ぐに紫を見つめて、確認するように訊ねた。
「私達は、ここに残っていていいのかしら?」
彼女達を生み出したレイラはもう居ない。
オルゴールも持ち主を失うと同時に魔法の能力は消え去った。今はもうただのオルゴールだ。
だから彼女達が残っている理由はない。紫になら、彼女達を消すなど造作もないことだろう。
けれど紫はルナサの方を振り向く事なく、ずっと昔にレイラに対して言った言葉をそのまま繰り返した。
「幻想郷は全てを受け入れるのよ。それはそれは残酷な話ですわ」
それだけを言い残して、紫はスキマの中へと消えていった。
ルナサがそれを見送っていると、メルランが立ち上がり、その隣に立って言った。
「それで、姉さん。これからどうしましょうか?」
「……分からない。何をすべきなのかも、何をしたいのかも、全然」
ルナサは静かに答える。
今までは何をするにもレイラのことが第一だった。それがするべき事であり、したい事だったから。
だからそのレイラが居なくなってしまった途端、何も分からなくなってしまった。
そうして2人で、途方にくれていた時だった。
「……決めた!」
「リリカ?」
リリカがすっと立ち上がってルナサとメルランの方を向いた。
「何を決めたの?」
「レイラのお願いを叶えるってこと!」
決意に満ちた目だった。
レイラのお願い。あの時頷けなかった『みんなでずっと楽しく、騒がしく暮らして欲しい』というお願い。
それを思い出して、ルナサもメルランも表情を明るくした。
今まで何をするにもレイラのことが第一だった。ならばこれからもそれでいいではないか。
レイラが楽しく暮らして欲しいと言ったのだから、楽しく暮らそう。
レイラが騒がしく暮らして欲しいと言ったのだから、騒がしく暮らそう。
それこそが、自分達のしたい事なのだ。
「……そうね。結局、それが一番」
「ずっと楽しく騒がしく。騒霊の本領発揮じゃないの♪……あ、そうだ」
メルランが、良い事を思いついたというように手をポンと叩く。
ルナサとリリカはきょとんとした顔でそれを見つめた。
「折角騒がしくするのなら、楽器でも弾いてみない?そうしたら騒がしくて楽しくて、きっと二重にハッピーよ♪」
「楽器……いいかも。………音楽なら、あの子に届けることも出来るかも知れないし」
「まあ、時間はたっぷりあるしね。やれるだけやってみようか」
満場一致で賛成だった。
そうなると、元々騒がしい3人組。ガヤガヤと案を出し始める。
「楽器は譲ってもらうなり拾ってくるなりすればいいとして、まずはグループ名を決めましょう♪」
「それは、必要なの?」
「いいじゃんいいじゃん。ほんと、ルナ姉は固いなぁ。ん~、何がいいかな?」
それからしばらく、話は3人のグループ名の議論に移っていった。
基本的にメルランとリリカの2人で、あれがいい、これがいい、と滅茶苦茶な名前を出しあっているだけだったが、やがてルナサがポツリと、
「……プリズムリバー楽団」
「え?」
「プリズムリバー楽団が良いと思うよ」
「プリズムリバー楽団………いいんじゃないかしら?」
「そのまんまの気もするけど、良い感じじゃん?」
この瞬間、幻想郷にプリズムリバー楽団という騒がしい3人組の楽団が誕生したのだった。
そして、最後に決めるべき事。
「さて、そうなると後は楽器を手に入れて練習あるのみ、ってわけだけど、まずは何の曲を練習する?」
リリカがルナサとメルランにそう訊ねるが、実際にはもう決まりきっていた。
「それはまあ……」
「そうよねぇ……」
「……ま、だよね」
3人は一様にレイラの墓へと振り返る。
その墓の前には、あのオルゴールが蓋を閉じられたまま置かれていた。
ルナサがそれを手にとって、蓋を開く。
流れ出す音楽は、自由気ままに空中を漂うのだった。
その曲はその後、3人によって『幽霊楽団~Phantom Ensemble』と名付けられ、プリズムリバー楽団の代表曲となった。
レイラが居なくなってから何十年も経った今、プリズムリバー楽団は人間からも妖怪からも大人気の楽団だ。
幻想郷中を回り様々な場所で奏でられる彼女達の演奏を聴いているのは、もしかしたらその場にいる観客達だけではないのかもしれない。
こんな過去もいいと思います、プリリバ大好きだから嬉しい
とても素敵なお話でした。
欲を言えば、レイラが騒霊三姉妹やら紫やらと交流するエピソードがもうほんのちょっと具体的であれば、
「幸せだよ」に重みが出たかもしれません。結構、きつい話ばかりが具体的だったような気がするので。
あと一点、違和感が。
>オルゴールも持ち主を失うと同時に魔法の能力は消え去った。
これだと伯爵やそれ以前の持ち主の時にそうなってしまうような。