『あんた誰?』
――東方緋想天:博麗霊夢
――東方緋想天:博麗霊夢
薄暗くなった聖輦船の一室に、封獣ぬえはいる。
書斎机に腰掛け、本を読んでいた。いや、「読んでいた」は語弊があるかもしれない。ただなんとなしに眺めていたというくらいだ。活字なんて彼女の趣味じゃないし、第一今は気もそぞろで読書どころじゃない。
「……どうしたの?」
背中から声。ページをめくるリズムが鈍ったことを訝しく思ったのか、村紗水蜜は申し訳なさ気に訊いてくる。ぬえは慌てて本に意識を戻した。しばらくおいてふふと村紗の照れ笑い。そしてまた背中を添わせる。
本をめくる音だけが、室内にあった。頬を赤らめ無心に書面へ視線を落とすぬえと、背中合わせの相手に身も心も預ける村紗。交わされる言葉といえば、せいぜい今くらいのもの。それすら過剰という雰囲気にも包まれていて。吐息一つにも配慮が混じる。
村紗は体育座りをしていた。両手をすねのところで組みながら、心持ち顎を上げ、安楽椅子のように前後へゆらり、ゆらり。後ろへ傾くたびに背中が触れそうになる。ぬえが頁をめくるのに四苦八苦するのも、ちょうどそのタイミングだ。
長く緩やかな静謐だった。最近はこんなふうに過ごす時間ばかりだ。ぬえだって時々は考える。なんで自分はこんなことをしているんだろうかと。でも、背中越しの温もりに勝る答えなんてあろうはずがない。だからやめてしまう、考えることを。
もちろん自分がこの聖輦船にいていいのかと、ぬえは常に自問している。元より仏教なんか信じちゃいない。平安の夜を震わせていた頃から、信じていたのは"正体不明"という自らの存在原理だけだった。それだけでよいと、誰にも省みられず心も見せず、ただ謎として生きてゆけばよいのだと。でも、背中越しに感じる温もりだけは幻であってほしくないと思ってしまう。そう、後ろにいる少女はまさしく錨だ。
取りとめのないことを考えながら、3冊目の書をめくり終える。どれだけ愛おしく思おうと、この時間がいつまでも続かないことは知っていた。ぬえはおもむろに立ち上がる。
「おしまい?」
「……うん」
本を棚に戻す。少し遅れて身を起こそうとした村紗、そちらへは視線を向けぬまま、ぬえは襖を開く。
「じゃあ、また来るね」
「……うん」
名残惜しそうに、村紗は一つ間をおいて告げた。
「またね、聖」
*
旧地獄の大通りは活気に溢れている。鬼を筆頭に、地上を疎んだ人外どもがここ地底に居を移してから早数百年、今ではそれなりに満ち足りた生活があった。土ぼこり舞う通りには店が建ち並び、往来ではすれ違うたびに威勢のいい挨拶が飛び交う。さながら巨大な家族を思わせる近しさ。粗野で酒臭い、けれどどこか温かくもある街道の喧騒は、やくざ者の集まりである旧都を見事に表していた。
そんな目抜き通りを封獣ぬえは一人黙々と歩いている。別に連中と疎遠なわけではない。彼女とて大妖怪、おまけにいたずら好きで喧嘩好きで、おまけに酒好きと揃っている。それでも彼女へ掛けられる声がないのはその能力が故だろう。今道を行く少女を"封獣ぬえ"と認識している者はいない。一人になりたかったのだ。
賑やかな通りを横に入り、奥まった路地を進む。そこには大きな船が鎮座していた。当てもなくうろいていたはずなのに、気づけばぬえはここにいる。きゅっと唇をかんだ。
手にあった刺又を玄関先に立てかける。ここから先の"彼女"には不要なものだ。そして「正体不明の種」を一粒呑み込み、戸を叩いた。
「お帰りなさい」
ほとんど待つことなく、戸口から村紗が姿を現す。さながら"主"が来るのを玄関口でずっと待っていたみたいに。ぬえは無言でぺこり。そのまま玄関をくぐる。村紗はその後ろにしずしずと付き従った。
きっかけは至極下らない。ただ船ごと封印された船幽霊がいると聞いて、なんとなしにからかってやろうと思っただけのこと。一番畏れているものに見えるよう「正体不明の種」を付けて行ったら、本気で泣かれた。何度も謝られて、赤子みたいに抱きつかれて、一晩離してくれなかった。畏れている者と焦がれている者が同じだった――そんなところか。もういたずらだなんて言えるわけもなかった。
今日も書斎に潜り込み、仏法の教典を3冊ほど棚から引っ張り出す。どれもぬえなんかじゃ何が書いてあるのか理解できるはずもない書物だ。机に腰掛け、読むでもなくぱらぱらとめくる。その間村紗はずっと後ろにいる。"聖白蓮"の後ろに。
やはり会話はない。頁をめくる音だけ。声色も口調も相手の聞きたい通りに聞こえるはずだから、喋ったところでばれるわけでもない。それでもぬえは喋ってはいけない気がしていた。それは村紗も同じだったかもしれない。
頬杖片手に、1冊目をめくり終える。少し早かったかもしれないなとぬえは思った。背表紙を閉じてしまうことに一抹の後悔を覚えつつ、2冊目に手を伸ばす。
なんと言いくるめたか、それすら記憶はおぼろげだ。「封印が完全に解けていない」だったか「法界から旧地獄まで来るにはたいそう魔力が要るので、ここには数時間しか居られない」だったか。言ってる本人がうんざりするようなでまかせに、村紗は何も言わなかった。子犬のように、ずっと寄り添うだけ。それはぬえからいっそう白状の機会を奪ってしまう。
2冊目が終わる。今度は時間を掛けすぎたかもしれない――ぬえは慌てて3冊目を手に取る。若干猫背気味の背中は、奇っ怪な羽根が生えていることを除けばたいそう小さく頼りない。おそらく背丈も村紗の方が少しばかり高いのだろう。そんな華奢な妖怪少女の背後で、船幽霊は全てを委ねるようにうずくまる。どちらかが息を吸う度、肩がせり上がり二人の距離が縮まる。ほんの微かでも触れようものなら、瞬間さっと背が縮こまる。双方が、示し合わせでもしているかのように。
3冊目も終わった。ぬえは立ち上がる。柄でもない正座も慣れたのか、今では痺れを覚えることも減った。
「もう、読んじゃったんだ……」
外していた帽子を掴んで、村紗も立ち上がる。棚に本を戻す"聖白蓮"を見ながら、もどかしげに睫毛を伏せている。そんな村紗をぬえは横目でちらり。でも耐えられずぱっと目を逃がす。
「やっぱり聖はすごいな。あんな難しいの、すぐ読んじゃうんだもん……」
ぬえは襖に手を掛けていた。でもその言葉を置き去りにはできなかったのだろう。首だけを向ける。
「そんなこと、ないよ……」
村紗の言う"聖"がどんな人なのか、ぬえは断片的にしか知らない。答えてやろうにも、こんなふうに適当な言葉でお茶を濁すのがせいぜいだ。
だから感情を込めて何か言ってやれるとすれば、結局これしかないのである。
「また、来るからさ……じゃ」
聖輦船の外は暗い。当然だ、ここは地底なのだから。昼も夜も、月も星も無い世界では、何時間経ったかも分からない。村紗の言うとおりあっという間の出来事だったのか、ぬえの感じていたくらい長い逢瀬だったのか、判然とはしないのだ。
「お帰り?」
玄関を出てすぐのところで、ぬえは呼び止められる。塀にもたれていたのは雲居一輪。目を合わさぬよういっそう下を向きながら、ぬえは横を素通りしようとする。
「今日も長かったじゃない? 偽聖さん」
やはり相手を視線の先に置かないようにしながら、一輪は宙空に声を投げる。ぬえも足を止めた。
「何?」
「別に」
塀から身を起こす一輪。振り向いたぬえの面立ちは拗ねた子供のよう。そんな様では無言の圧力に耐えきれるわけもなかった。
「……へっ、言いたいことがあんならさっさと言えよ。回りくどいやり方しやがって」
「それはお互い様。私はそろそろケジメつけてほしいなと思ってるだけよ」
金輪で肩をとんとんと叩きながら、一輪は嘆息混じりに言った。ぬえは顔を横に逃がしながら呟く。
「……あたしのこと腹に据えかねてんだろ? だったら端っから追い返しゃいいじゃないか。帰ろって時に嫌みなんか垂れないでさ」
「そんなことできるわけないわ」頭巾の中の前髪を掻き上げながら一輪は漏らす。「あの子、ずいぶんと明るくなったのよ。あれでもね。ここに墜ちてきた頃はずっと船に篭もって塞ぎっぱなし、どうにもならなかった。また昔みたいになっちゃうんじゃないかってね……あんたのおかげなのよ、残念なことに」
「……へん」
ぬえは苦虫を噛み潰したような顔になった。再び踵を返そうとする彼女へ、一輪は切に告げる。口ぶりに滲む不快感は、あるいは自身へ向けられたものだったのやもしれない。
「そう。残念なことに、私じゃ何の役にも立てないのよ。あんたが姐さんに見えない私じゃね。だから――」
「はっ、なに寝ぼけたこと言ってんだよ?」
ふざけめかした口調で、ぬえはそう言い捨てる。悲しくなるくらい嘘が下手な奴だと、一輪は思った。
「私は、ただあの子を騙してコケにしてるだけさ。他の何でもない。それ以外にできることなんてあるもんか」
*
娯楽を探すくらい旧都で難しいことはないだろう。あるといえば酒と博打、あとは喧嘩と春――まあ要するにごくごく原始的なものだけだ。
ぬえは結局酒に逃げることにした。喧嘩でもよかったがめぼしい相手がいなかった。流行りの酒場には鬼だの土蜘蛛だの、火車だの鴉だのがごった返していたが、そんな連中と呑み明かす気分にはなれなかったらしい。路地裏にある小料理屋の端っこでぐてんぐてんになるまで一人呑みをしていたら、店の親父にもうやめとけと諭される始末。
有り金をぶん撒いて、ぬえは通りに繰り出す。大して呑んだ記憶もないのにひどい悪酔いだった。嘔吐感はない。でも頭が締め付けられるように軋む。逆上せたように火照っているのに、ふんわりとした昂揚感じみたものは微塵もない。ひたすらむしゃくしゃするだけだ。目に映るもの全てが忌々しく見えてきて、何でもいいからぶん殴ってやりたくてしょうがなかった。
そうだ、実際そうすりゃいいんだ――通りを蛇行しながら、ぬえは物騒な考えに至る――次すれ違った奴にわざとぶつかってやって、それでいちゃもんの一つでもつけりゃいい。ここにいるのは単細胞ばっか。あっという間に殴り合いじゃないか、と。
誰でも良かった。鬼なら万々歳。そうでなくてもいい。端から勝とうとかぼこぼこにしてやろうとかそういうつもりは一切ない。ただ殴りつけられて、地べたに這わされて、砂と血で口の中を一杯にしたかった。そうしなければやってられなかった。
視界はぼやけて、誰がどこを歩いているのかもよく分からない。それでもぬえは千鳥足をいっそうもつらせ、一番側を通った二人組みの片割れに思いっきり肩をぶつけた。小柄な酔っ払いの体が鞠のように飛ぶ。
「ぁんだてめぇんにゃろう!!」
もんどりうったまま、呂律の回らない啖呵が往来に響く。周りの連中も思わず歩を止める。ぬえは構わずわめき散らした。
「ぁたひをだりぇだとおもっへやがる!? ぇえ? いひ度胸ひてやがんじゃねぇかこの――」
「ちょっと大丈夫?」
しかし怒号はそこで途切れる。返されたのは、あの声だったから。ちょうちん顔からたちまち色が失せた。
「もうへろへろじゃない。立てる? ほら」
村紗水蜜はへべれけになった惨めな妖怪少女を抱き起こそうと、"封獣ぬえ"に近寄った。真ん前にしゃがみこみ、その手を取って引き上げようとする。
「ああ、顔真っ白じゃない。一輪、ちょっと手貸して。この娘運ばないと」
目の前に村紗がいた。ぬえは本当に久しぶりにその顔を正面から見た。ひどく狼狽した様子で、哀れな酔っ払いを、"封獣ぬえ"を介抱しようとあくせくしている。眩暈がした。なぜか先程まではなかったはずの吐き気が津波のように押し寄せてくる。
「う゛……ぅぶっ」
耐え切れず戻す。背中を、村紗がさすってくれた気がした。もっともそれは定かでない。これ以上意識を保っていることなど、今のぬえにはできなかったから。
ぬえが意識を取り戻したのは布団の中だった。木張りの天井には見覚えがある。部屋は違えど、天井の造りはそうは変わらないものだ。匂いも同じだった。抹香臭さが染み付いた、あの部屋の匂い。
「起きた?」
割れそうな頭に、一輪の声が響く。ぬえは首だけをそちらへ向ける。額に載っていたおしぼりが崩れて視界を半分塞いだ。
「……ここは?」
「うちよ。聖輦船」一輪は持ってきた洗面器を枕元に置くと、布団の横に正座する。「あんたも来慣れてるからわかるでしょ?」
揚げ足を取るような言い方に、ぬえはぶすったれた顔を向ける。でもそんな元気はなかったのだろう。中途半端なしかめ面ができただけだった。
「なんでさ……?」
「なんでって、そりゃ酔っ払いをそのまま放置してとはいかないわ」
ずれたおしぼりを取った一輪、絞り直して再びぬえの額に被せた。ひんやりとした心地よさが頭痛をくるむ。
「へっ、人助けなんざ、妖怪らしくもない……」
「いいじゃない。これも姐さんの教えのうちよ」
精一杯の強がりも、一輪は軽く受け流す。ぬえは口をへの字にして、布団に顔を半分埋める。またも出てきた"聖白蓮"に、脳がくっと締め付けられて。
「ったく、お前らといると何につけても聖聖だ。うんざりだよ」
「そりゃどうも。ああ、ムラサありがと」
がらりと襖が開く。何とかしていつもの調子を取り戻そうと足掻いていたぬえだったが、これには為す術もなかった。入ってきたのは盆を持った村紗。
「お? 目覚ましたんだね。よかったよかった」
布団の方に視線を落としながら、村紗は笑顔を振りまいてくる。布団に顔を全部突っ込みたかったぬえだが、おしぼりのせいでできなかった。村紗は一輪の横に腰掛けると、水差しを客人の前に掲げる。
「どう、体起こせる? 一杯ぐらい飲んどいた方がいいと思うけど」
「いっ、いらない!!」
今度は寝返りを打つふりをして村紗に背を向けようとするも、やはりおしぼりが邪魔をした。妙な慌てっぷりに、村紗はくすくす笑う。そんなふうにも笑えるのかとびっくりしたのはぬえ。
「よく分かんないけど、まあ元気になったっぽいわね。よかった」
ぬえは何も返せなかった。かろうじてできたことと言えば、布団から相手を覗きみるくらい。はじめて見る村紗がいた。憂いも恥じらいもない。口調も結構はすっぱだ。きっとこれが普段の村紗水蜜なのだろう。
「じゃあ私、水換えに行って来るわね」一輪は計ったように立ち上がる。「ムラサ、ちょっと見ててもらっていい?」
「うん、いいよ」
「じゃあね、お二人さん」
含みのある言葉を残し部屋を後にした一輪、残されたのは含みを察したぬえと、それを知る由もない村紗。じりじりした間ができる。
「えっと、はじめまして、だよね?」先に口を開いたのは村紗だった。「私は村紗水蜜。貴女は?」
「別に……名乗るほどのもんじゃないよ」
そっけない声で、ぬえは話を切る。彼女に名乗るなんて、そんなことできようはずがなかった。村紗もこれには戸惑ってしまう。それまであまり旧都の連中と付き合いのなかった彼女だ、どう話題を繋げればいいか判らなかった。俯きかけた相手に、今度はぬえが耐え切れず口を開く。
「あんたらが、運んでくれたのかい?」
「あっ、うん。だって、あんなとこでいきなし吐いてぶっ倒れるんだもん。医者のところ行くよりうちの方が近かったしさ」
照れ笑いを浮かべながら、村紗は零すように語る。人見知りするのかなとぬえは思った。でも口調自体はとても柔らかく親しみやすい。きっと打ち解ければもっと明るい表情も見せてくれるんだろう。
「なんかあったの? あんなになるまで呑んじゃってさ」
「別に、んなたいしたことじゃないよ。くさくさして酒呷り過ぎただけ。ここらじゃみんなやってんだろ?」
「……ごめん。私、お酒呑まないようにしてるから。イマイチわかんないかも」
陰のある笑みを、ぬえはじっと見ていた。それは見慣れた顔だ。"聖白蓮"を見ている目。ぬえは小さく息を吐く。そしておしぼりを取って布団から半身を起こした。
「水くれる?」
「ああ、うん。今注ぐね」
ぱっとまどろみから醒めたようなそぶりで、村紗は慌てて手を動かす。そして水を注いだコップをぬえに差し出した。軽く口をつける。よく冷えていた。
「ん、少しすっきりした。ありがと」
「そう? ならよかった」
村紗は愛好を崩した。ぬえは目をそらす。そうやって笑ってればいいのにと思いながら。
そこからはしじまが下りた。部屋を揺らすものといえば水を飲む音くらいだ。いつもと同じ――ぬえにとっては。でも村紗は違う。
「誰か待ってんの?」
ぬえは我慢できず訊いた。そう、さっきから村紗には落ち着かない様子が窺えた。意識を常に部屋の外へと――玄関の方角へと――傾けながら、ひっきりなしに体をもぞもぞさせている。少しでも外から物音が聞こえれば、さっと振り返る。そして"あの人"の声が続かないことを理解して、ぬえの方に顔を戻す。落胆を隠し切れない表情のまま。
「あ、いや違うんだ。ごめんね」
「別にいいさ。押しかけてんのはこっちだし。」ぬえはそこで躊躇した。「……えらいそわそわしてっからさ。どんな奴なのかなって、ちょっと気になって」
それでも漏らさずにいられなかった。後悔の念で胸を一杯しながら俯くぬえ、はすかいに座る村紗は唇をくっと結んだまま。てっきり迷いなく頷いてくれるもんだと思っていたぬえには、この間は酷だった。
「いや、うん」ようやく村紗はとつとつと話し始めた。「いつもこれくらいの時間に来るんだけど、昨日も今日も来ないから、だからどうしたのかなって思っただけ。別にあんたが気を揉むことはないよ」
そしてはにかむ。心に覆いを被せるように。ぬえは自分の思い上がりを恥じた。当たり前なのだ、はぐらかされるのなんて。この世で一番大好きな人との逢瀬を待ちわびてるだなんて、いったい誰が"今日初めて会った名前も知らない他人"に話すだろうか? ぬえは身に染みて理解していたはずのだ。村紗がどれだけ"聖白蓮"を敬愛しているか。
「――そろそろ帰るわ」
おしぼりとコップを置いて、褥から腰を上げる。いつも通り村紗を視界に入れることの無いようにして。
「え、ダメだよ。もっと休んでなって」
「別に平気だよ。こう見えてもそこそこ強いんだ。こんなんたいしたことじゃない」
確かに頭痛も吐き気もなかった。けれど全身から力が抜けてしまって、立ち上がるのがひどく億劫に思えた。とぼとぼと、ぬえは襖を開け廊下へ身を押し出す。強がりと裏腹になんら力強さを感じない後姿。村紗はたまらずその背に手を掛けた。
「そんなふうには見えないよ。ゆっくりしていきなって。無理しちゃ――」
「いいって言ってんだろ」
その手をぬえは払いのける。背中に置かれた感触はとても罪深く感ぜられて。またも村紗を竦ませてしまった自分を呪いながら、ぬえは努めて明るく取り繕う。
「ほら、この通り。もうピンピンさ」そう笑いかけながらぴょんと飛び上がった。「あんたの看護なんざ要らないよ。だからもう帰る。馴れ合うの嫌いなんだ。抹香臭いのも好きじゃないしね。じゃ……水、美味かったよ」
*
ぬえは嘘吐きだなあと自嘲する。抹香臭いのは嫌いだと、馴れ合うのは嫌いだと偉そうなこと言ったくせに、今日も彼女はここに来ていたから。
「お帰りなさい」
出迎えてくれた村紗の表情は、昨日ぬえに見せたものとは全く違った。恥じらいの混ざった笑みだ。3日ぶりに訪れた"聖白蓮"に、喜びを隠せない様子でいた。ぬえは懸命の笑みをつくって玄関をくぐる。廊下を進む彼女の一歩後ろには、常にぴたりと寄り添うように村紗がいる。歩幅も、踏み出す足のタイミングまで合わせてくれているようで。
書斎に入る。いつも通り題名すら読めない本を適当に見繕って、机の前に腰掛ける。一間置いて村紗も腰を落とした。
何故来てしまったのだろうか?――本をめくる間、ぬえは今さらながらそんなことを考えていた。終わりにしようと、何度も自分に言い聞かせた。この船に自分が入る余地なぞないことを、ぬえは改めて痛感したはずだった。でも思い出してしまう。そわそわしていた村紗のしぐさを。"聖白蓮"の来訪を心待ちにしていた村紗の表情を。これまで重ねてきた嘘に対する後悔以上に、彼女にずっとあの表情をさせてしまうことへの罪深さを覚えた。そして"封獣ぬえ"に微笑み掛けてくれた村紗を思い出した。もう一度あの笑顔を向けてほしいという欲に、ぬえは勝てなかった。この欲をごまかす為に屁理屈を捏ねてるような気しかしなくて、もう思い悩むこと自体に嫌気がさしてきた。どんな笑みを向けられようと、それが"封獣ぬえ"に向けられたものではないという大前提は重々承知していたから。
2冊目も終わろうとしていた。村紗はいつも通り。書見の邪魔にならないよういじましいほどに身を潜めている。ぬえは心のどこかで期待していた。近況報告みたいな形で、村紗が"聖白蓮"に"封獣ぬえ"の話をしてくれないかと――ねえ聖。昨日ね、へべれけになった妖怪を介抱して、家まで運んだんだよ。ちょっと変な奴だったけど、結構いい奴そうだったんだ。また会えないかなあ、とかなんとか。
馬鹿馬鹿しいにもほどがある妄想だ。名前すら名乗ってないってのに。好感を持たれるような振る舞いなんて何一つ残していっちゃいないのに。
鼻の奥がつんとするのを堪えながら、ぬえは3冊目をめくり終える。後は片付けて帰るだけ。なのに体が動くことを拒む。抹香の香りが、ぬえの鼻をくすぐった。止んだはずの頭痛がぶり返してくる。もう一度鼻をすすって、ぬえは本をまとめて掴む。やはり足は動かない。
「どうしたの? 聖」
いつもと違うそぶりに村紗も気づいたのだろう、寄せていた背中を翻し問いかけてくる。さっきからじっと視線を落としていた"聖白蓮"が何が見ているのかと、肩越しから同じところを覗き込もうとして。
「な、なんでもない」
迫る村紗から逃げようと、ぬえは身をくねらせ躍り上がった。軋む頭から瞬間血が失せる。3日ぶりの正座に足はすっかり痺れていた。視界にぱっと舞った星に頭を射抜かれでもしたかのように、"封獣ぬえ"は足をもつらせ転倒した。
「きゃっ!」
そしてバランスを崩した"聖白蓮"を支えようとした村紗も、その巻き添えとなってしまう。
一瞬白んだ視界が戻る。四つん這いになったぬえの下には、仰向けの村紗がいた。帽子も吹き飛び、短めの黒髪が畳の上にしどけなく広がっている。無防備に四肢を投げながら、潤んだ瞳だけがこちらを向いて。
急いでどかねばならなかった。でも、体が動かない。丸く見開かれた眼差しは、ぬえに顔をそらすことすら忘れさせる。動揺に染まっていた村紗の面差しが、さっと赤らむ。そして唇を固く閉じ、何かを耐え忍ぶように息を呑んだ。泳ぎ弱まる視線、でもぬえは身を引き剥がせない。むしろ逆。顔が落ちてしまう。引力に、こわばった唇に吸い寄せられるように。
泣きそうな顔をしていた村紗、しかし迫り続ける唇に、何がしかを悟ったのか。顔からみるみる緊張が解けていく。瞳を閉じ、震える顎をほんの微か上げた。全てを受け入れますという合図、誰よりも愛する、"聖白蓮"からの――
「――こんなの、よくないね」
空笑い。鼻先が触れるか触れないかの所でかぶりを振る。吐息だけをもらって、"封獣ぬえ"は体を起こした。村紗も現に戻る。耳まで真っ赤にしながら、"聖白蓮"から身を離す。
「そ、そうですよね! よくないですよねこんなの」
落ちていた帽子を拾い上げ、手の中でくちゃくちゃに揉む。二つの「よくない」が持つ厳然たる差異に思いを馳せながら、ぬえは散らばった本を拾い上げた。そして腰を落としたままの村紗に手を差し伸べる。
「ほら、立って」
「あ、ありがと……」
村紗の手を引いて引っ張りあげる。不思議とさっぱりした心持だった。手に触れても、視線が合っても、ぬえはそれを受け止めることができた。あの時村紗が最後に見せた面立ちは、それほどまでに彼女の欲を砕いたのである。あの表情を掠め取るなんて、ぬえにはできなかった。
だからもう見ない。やっと踏ん切りをつけられた気がして、嬉しくもあった。
「もしかしたらしばらく来られなくなるかもしれない。……ううん。ちょっと難しそうなんだ」
「え……?」
付け足すように告げた。村紗がどんなふうにそれを受け止めたか、ぬえからは窺えない。もう彼女は襖を開けていた。
「ねえ、ちょっと待――」
「じゃ……ごめんね」
縋る村紗を置いて、ぬえは廊下を一目散に駆けて行った。
*
ぬえは久しぶりに暇を謳歌していた。
"正体不明"のまま、旧都をふらつく日々だ。これが一番気楽だった。地上に居た頃もそう。自分が本当はこんな姿をしてるなんて夢にも思わぬまま、誰もがひたすらに怯えてくれる。寝ているだけで腹が満ちた。代わりに結末もあっけなかったが。
「正体不明の種」をつけたツグミを都に飛ばして遊んでたら、どこぞの人間がそのツグミを射落としたらしいのだ。狸だか虎だかと見間違えたらしいが、それによって長らく人々を震え慄かせた伝説の怪異「鵺」は退治されたことになってしまった。妖怪の正体見たりトラツグミ、ってなわけで彼女を恐れる人間もがた減りする始末。ぬえからしたら失笑すら漏れない。でもその結論には抗えなかった。"正体不明"が売りの妖怪が、「実は私こそ『鵺』の正体なんですよ」とおめおめ姿を晒すわけにもいかない。狙ってやったのかは知らないが、巧いやり方だとぬえは思った。そして人間に心底嫌気が差して、地上を捨てたのだった。
そんな彼女でも時折り暴れてみたくなるのが妖怪の本能というものだ。ぶらりと街中に姿を現して、博打でいかさまをやり、握ったあぶく銭で浴びるほど酒を呑む。鬼と喧嘩したり暇そうな橋姫をからかって妬まれたり、内気な釣瓶落としを驚かせて腹を満たしたりもした。これぞ正に封獣ぬえの生き方。旧地獄に下りて来た頃は、毎日のようにこんな騒ぎに明け暮れたものだ。やっぱりこれが妖怪なんだとぬえはしみじみ思う。相手を慮ったり、気を使ったり、心配したりするのは妖のするべきことじゃない。我々は自分勝手に生きるべきなのだと。
その日もそんな気分だった。気ままに往来へと繰り出す。間違っても"彼女"に出くわさないよう、道行く人に細心の注意を払いながら。
今日は呑み明かそうと思い、適当に酒場を回る。1軒目では火車と呑み比べもした。これには勝ったが、2軒目の土蜘蛛には伸された。でも横で見ていた小鬼は満足したらしく、3軒目は奢ってもらった。上機嫌のまま店を出て、小鬼と別れた。そこは表通りから少し外れた場所。最近はめったに通らなかった区画だ。いや、通らないようにしていたといった方が正しいか。
ほろ酔い気分もたちまち吹っ飛んでしまいそうになる。ぬえは表通りに繋がる道とは逆へ進む。大回りすりゃ、少しは酔い覚ましになんだろう――そんな言い訳を片手に。だって、さっきの道を行くとどうしても"あそこ"を通らねばならなかったから。
路地沿いには長屋が伸びている。おかげでここを通る人影も少ない。暗い旧地獄においてもいっそう暗い区画を、ぶらぶらと当てもなく進む。無音の通りに響くのは、長屋から漏れる生活音くらい。あんなふうに屋根の下で暮らした経験が、ぬえにはない。生温い微笑を投げながら戸内のざわめきに耳を立てていると、通りはもう突き当たりまでさしかかっていた。
「――やっと見つけたわ」
そして曲がり角から姿を見せたのは、ぬえが二番目に会いたくない存在だった。
「ったくこんなところ歩いてるなんて」
雲居一輪だった。強ばるぬえ。酔いは完全に醒めた。
「な、なんでお前が……?」
「探してたのよ。ずっとあんたを」
一輪は金輪を振る。岩でできた空から巨大な顔が下りてきた。
「ああ言ってなかったっけ? あたし入道遣いなの。これ雲山。ずっと上から見張っててもらってたのよ。あんたがどこをほっつき歩いてるかってね。でも、なかなか捕まえられなくて。あんたが姿を見せるタイミングはさすがに判んないから。萃香さんのおかげ。さっき教えてくれたわ。あんたと呑んでたって」
ふっと笑いを挟む一輪。ぬえは迷った――隙を突いて逃げるか、それとも強引にねじ伏せてしまうか。でもそんな策はとうにお見通しだったんだろう、一輪は間を置かず言った。
「ほら、ムラサも早く来て」
ぬえは今度こそうろたえた。呼ばれるままに角から姿を現したのは、村紗水蜜だったのだから。
「ぁ……ぇ……?」
絶句し立ちすくむぬえ、その肩をぽんと叩きながら、一輪は囁く。
「ちゃんとケジメつけなさいよ?」
そして雲山と一緒に通りを後にした。いつだかと同じ、「じゃあね、お二人さん」という言葉を残して。
閑散とした通りに二人きり。村紗といる時はいつも静かだなと、ぬえの脳裏にどうでもいい考えがちらついた。向かい合う少女は思いつめたふうに佇んでいる。まともに見ていられなかった。言わねばと思えど口は動かない。場を言い逃れる算段ばかりが浮かぶ。とことん情けなかった。"封獣ぬえ"がこの少女の瞳に映らないのは当然だと思った。映るに値するものが無いのだから。
「ごめんなさい!」
驚いてしまった。謝ったのは、村紗の方。背筋を立てたまま体をくの字に曲げる様は、なんだかひどく初々しくて。
「え……あ、あの?」
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。……気付いてたの、別人だって。前からずっと」
「え、ま、それって……」
やはりぬえから言葉は出てこない。一瞬声を詰まらせた村紗だったが、意を決して続ける。
「聖じゃないって……でも言い出せなかった。嬉しくて……怖くて。偽者でもいい、聖といられるならって。本当にごめんなさい」
「じゃ、じゃあ最初っから私だって……?」
「ううん、違う」俯いていた村紗の目が、真っ直ぐぬえを見た。「ずっと誰だか分からなかった。でも、こないだようやく分かったの。貴女だって。同じだったから。引っ張りあげてくれた時の手の感触が」
そして近づいて、呆然とする相手の掌を取った。
「ごめん……本当にごめんなさい。私が弱かったせいで、貴女の気持ち考えないで、ずっと最低なこと――」
「違う、そうじゃない」
ぬえもようやく声が出た。絞り出さねばならないと思った。目の前の少女は今にも泣き出しそうだったから。
「あんたの気持ちを無視してたのは私だ。あんたを騙して、それでもあんたの側にいたいと思ってたのは私の方なんだ。あんたは悪くない。だから……ごめん」
掴まれた手を握り返し、深々と頭を下げた。今度は村紗が「そうじゃない、謝んなきゃいけないのは私だよ」と言い返す。するとぬえが負けじと「だから悪いのは私だって」と声を上げる。そんなやり取りがしばらく続いた。終いにはその滑稽さに気づけたのだろう。どちらも笑うしかなかった。向かい合って話したのも、笑みを交わしたのも、そういえば初めてだった。
「ごめんね……」
「もういいって」数十回目となる謝罪の言に、ぬえはいろんなものがない交ぜになった顔をする。「はっ、バカみたいだなあ私ら……けどよく分かったね、偽もんだってさ。結構自信あったんだけどなぁ」
「分かるわよ」村紗も照れたような、すっきりしたような笑顔をする。「だって、聖はあんな悲しそうな顔しないもん。歩幅だってもっと広いし、頬杖なんかつかない」
そう言いながら、村紗は向かいの少女の頬を拭う。たいしたもんだとぬえは素直に感心していた。それほどまでに慕っているのだ。村紗という娘は"聖白蓮"のことを。最初っから自分なんかがどうにかできるもんじゃない――にもかかわらず、ぬえは嬉しかった。自分が"聖白蓮"ではなかったと気づけたから。
「そうそう、私にも一つ教えて?」今度は村紗が問いかける。「あんたの名前。こないだも教えてくれなかったじゃない」
ずっと言えずにいたことだった。ずっと言いたいと切望していたことだった。"正体不明"が名を明かすなんて、一番やっちゃいけないことだ。涙を眼に溜め、彼女はようやくそれが言えた。
「ぬえ。私は封獣ぬえってんだ」
『聖救出、おめでとう!』
――東方星蓮船:封獣ぬえ
――東方星蓮船:封獣ぬえ
命蓮寺の一室に、封獣ぬえはいる。
畳の上で胡座をかき、本を読んでいた。守矢の巫女からかっぱらってきた漫画とかいう本だ。絵ばかりなので、ぬえからしても何となくとっつきやすかった。向かいの小窓からは光が射し込む。陽光なんて妖怪の浴びるもんじゃないとずっと思っていたが、こうも早起きが身に付くと存外悪いものじゃなかった。
「二人とも、昼餉の支度が整いましたよ」
開いた襖から顔を覗かせたのは聖白蓮。ぬえと背中合わせになっていた顔がぱっと持ち上がる。
「はい、すぐ行きます」
村紗水蜜は元気よく答える。すっくと立ち上がって、後ろにいたぬえの肩を抱えて引っ張りあげようとする。
「ほーらぬえ、ご飯だってよ。さっさと立て!」
「あ゛ーちょい待てってムラサ。もうすぐ終わっから――」
「問答無用!」
肩越しから手を伸ばして漫画をかすめ取る。へへんと勝ち誇った表情の村紗に、ぬえがくってかかる。
「てめえこんにゃろ何しやがる!?」
「だからご飯だって言ってんでしょ。ホント人の話聞かないよねあんたって」
「うっせ!」
また言い合いが始まった。毎度こんな感じだ。白蓮ももうすっかり見慣れてしまった。ゆるゆるとした苦笑いを浮かべながら、思わず呟いた。
「本当に仲がよいのですね、貴女達は」
ぬえはもちろんだけどちょっと弱々しい水蜜が可愛かったです
個人的には頬杖つく白蓮も……イイ。
最初から最後まで、「どうなるんだろう」とはらはらしながら読み進めてしまった。
とてもよかったです。
面白かった
おもしろかったです。
それにしても騙した相手にすがられたためか、長々と付き合ってあげるあたり、ぬえも義理堅い。
まぁ神霊廟の彼女はそんな感じでしたか。
なるほど、そういうことか…!