その日は朝から珍しい事続きだった。
まずひとつめ。妹に朝起こされた。
「おはよぉ、お姉ちゃん」
それはまったく珍しいというよりか、初めての経験だったので、私は夢の続きかしら、なんて目をこすっていたが、どうやら現実らしくて驚いて飛び起きた。それくらい珍しい事なんだなと思って欲しい。
妹は上機嫌そうに腕を組んでにこにことしていた。私はくしゃくしゃの寝癖もそのままに、ベッドの上で時刻を確認する。目覚ましのアラームが鳴る五分前。
「ふふん。一回やってみたかったんだよね、お姉ちゃんより先に起きてて、起こしたげるの」
「……えーと。おはよう、おかえり、久しぶりね」
「あはは。おはよう、ただいま、そうかなぁ?」
「最後に貴方の顔を見たのは……そうね、確か二週間前」
「そんなになるかなぁ」
「なりますよ」
妹は出かけていったままの恰好だったので、たぶん夜中だか明け方だかに帰ってきて、私を起こそうと待ち伏せしていたのだろう。
いつからいたの、どうして起こしてくれようと思ったの、まぁそんな事はこの気まぐれの権化たる天衣無縫の妹には詮無い質問だろうと思い、何も聞かなかった。そんな気分だったんだろう。この子は【そんな気分】になれば、理由も熱狂も意味もなく、一日でも二日でも訳の判らない作業をしているような子だ。
「お姉ちゃん、今日は何するの?」
だからこの問いかけも、単なる気まぐれだったのだと思う。私も深く考えず答えた。
「朝ご飯作って、洗濯して、掃除して、ちょっと残ってるレポート作成の続きでもしていると思いますよ」
「つまりいつも通りって事?」
「そういう事」
そこで妹は笑った。なぜ笑ったのだろう。とても可笑しそうに、笑っている。
「でもきっと、今日はお姉ちゃんに良い事あると思うよ」
この時はふぅんと曖昧に流したけれど、しかし後になって振り返ってみると、果たして、妹はどこまで噛んでいてどこまで知っていたのかしら?
じりりりり、目覚ましがうるさく響くと、妹はもういなかった。朝ご飯は一緒に食べられなくて、それはいつも通りだったけど。
ふたつめ。私が今日は紅茶を飲んでいる事。私はコーヒー派なのである。
今朝、妹と話をしてからの私は朝ご飯を作って洗濯をして、しばらく空いた時間にレポートの続きをしようとしていた。やっぱりいつも通りの午前の風景だ。レポートは、月末に提出する灼熱地獄跡の定期報告書だった。あと一週間以上猶予はあったけど、早めに済ませる気分になったのだった。
あぁ、これは珍しい事だ。私にしては。みっつめの珍しい事。いつも最終日に、四季様に怒られもって彼女の目の前で最後まで書かされて、その場で提出するのが常のような私が。
そんないつになく珍しい私がいつになく珍しくレポートを終わらせようとしていると、いつになく珍しくコーヒーの豆が丁度切れていたのである。ペットにお使いに行ってもらいたかったが、今日は贔屓にしているコーヒー豆の店の定休日だった。レポートのお供にと月末になってどさりと豆を買っていく私の為に週末もずっと空けてくれているから、今日のような曜日の隙間を縫って休む店主にはまったくもって頭が上がらないのだが、今日だけはそれが裏目に出た。
仕方なく、客人用の紅茶を淹れる事にした。アッサムを一人分淹れてから、ジャスミンティもある事に気が付いた。正直、紅茶より花茶の方がどちらかと言えば飲みやすいと思う。言っても仕方がないので、黙って紅茶を啜った。
コーヒーがなかったら私のやる気はだだ下がりで、間違いなく不貞寝している頃なのだけど。やっぱり今日は珍しい事が続く。
レポートは午後、食後に再開しておやつの時間までには終わった。これで今月は四季様に怒られずに済む、と私は大満足だった。こうなったら、普段めんどくさがってペットに任せっきりのところもいっそ私が大掃除しようかしら、なんて一年に一度あるかないかのとんでもない事を考え始め、意気揚々とリビングに向かう廊下の途中。
大勢いるペットの中でも特に可愛がっているところの火焔猫燐がやってきた。燐の申し訳なさそうな、それでいて困ったような顔。
「さとり様、お客様です?」
「いやそこは断定して下さいよ」
「あーえっと、お客と呼んで良いのか悪いのかっていう人がお見えになってます」
「天狗の押し売り新聞だったら追い返しておきなさい」
「あ、判りました。いつもの人とは違うけど、似たようなもんだと思うので」
「うん? いつもの射命丸さんではないの?」
「あたいもそう思って聞いてみたら、『あいつと一緒にしないでくれる!』となぜか凄く怒られました」
「押し売りだったら追い返して、そうでなかったら通しても構いません」
「はーい」
まぁ多分押し売りだろうし追い返すだろう、と思って、特に心づもりも用意もなくリビングのシンクで紅茶のセットを片付け始めた。ううん、やはり明日になったらコーヒー豆を買いに行かねばならない。
そんな事を考えて、ぼんやりしていたところ。リビングに続く廊下の遠くから、だんだん近付いてくる見知らぬ声が第三の目に響いた。
「あったかい」「外は寒過ぎる」「ステンドグラス可愛い」「このスリッパ可愛い」「礼儀正しい妖獣」「地霊殿というより地霊館って感じ」「ってーかやっぱ寒い」「地上と気温違い過ぎ」「もう疲れた」「運動不足過ぎてやばい」「地底のお土産ってなんだろ」「思ったよりじめじめしてない」「ペット多過ぎ」「寂しいのかしら」「今の間に心読まれるイメトレしよう」……これがものの十秒あたりのたったひとりの心象のほんの一部である。
これだけぺちゃくちゃ喋る心もなかなかない、と思うくらい、次から次へブツ切れの心象が飛んでくるので、燐に全員追い返せと言うべきだったな、と今更後悔した。
今日はお姉ちゃんに良い事あると思うよ。
逆じゃん、と思った。でもまぁ、妹の顔を久しぶりに見れたから、充分良かったとしても良いけれど。
◆
来訪者は姫海棠はたてと名乗った。フリルが多くあしらわれた黒のポンチョコートに、市松模様のミニスカートからこぼれるすらりと長い脚は黒のトレンカに覆われていた。
私を見るなり開口一番「ここ寒くない?」と来た。そりゃその恰好じゃこの地底は寒いでしょうよ。
あ、こういうタイプ苦手だわ。と直感が告げる。
「そんなに地上とは温度差がありますか」
「超ある。私もわりと山奥に住んでるから寒さには耐性あるつもりだったけど、こりゃ無理だね。無理だわーこたつの威力倍増で死ぬじゃん」
なんだこの頭の緩そうな天狗は……。頭が良いとか悪いとかではなく、そもそも使ってなさそうなこの感じ。脊髄で喋ってるんじゃなかろうか……。
同じ天狗であるところの、一度取材(と呼ぶべきだろうか、あれは? やたらめったと写真を撮られただけのような気もする。私は写真写りが悪いからカメラ向けられると逃げたくなるのだけど、勝手にカメラシャイローズとか仰々しい名前を付けられて困った)に来た、妹が家にも呼んだという射命丸文が天狗の大体のイメージだったので、この落差に少し驚いた。
「えーっと。今日はどのようなご用件で」
「喋りに来た」
「えっと……」
しょうがないから心を読んだ。言葉とだいたい一緒だった。頭を抱えた。
「覚りの記事を書こうと思ってね?」
心も遅れて「そうそう、そうだったわ」などと言った。この人本当に脊髄で喋ってるんじゃ……。
「はぁ。それで私の話を聞きに来たのですね」
ならお帰り下さい、お話しする事はありません、とお決まりの定型句を言おうとした瞬間、「違うよー」と締まりのない声が転がった。心の声もやまびこのように遅れて転がる。
「だから、喋りに来たって言ってんじゃん。主語は私なの、貴方じゃないの。私、人の話一方的に聞くの苦手だもん」
それは記者として如何と思うが……。
「なんか聞いてた話と違うけど……まぁいいや、とにかく喋ろう。私、貴方と話してみたかったの」
「初対面ですが」
「そだっけ。……そうなの? まぁいいや。前に一回だけ写真撮らせてもらったけど」
「あぁ……」
ポンチョコートを脱ぎながら、天狗は思い出したように「お土産もあるよ!」と笑顔で言った。
「だからさ、お茶くらい出してくれると嬉しい」
ダメ押しのように、もっと笑顔を深くして。
面倒な事になってきたなぁ、と思いながら、これを追い返すのは更に面倒そうなので、適当に相手をして帰って頂こう、と考えた。
はぁ、と溜息。
「燐。悪いけど、お茶をお出しして。あぁ、一番安い葉で良いですよ」
「わーお。熱烈な歓迎嬉しいねー」
天狗はにこにこと笑っている。
◆
「覚りってさ、昔は山にいたよね。どして今地底にすっこんでるの?」
いきなり本題である。
「インタビューも結構ですけど、せめて段階を踏みませんか」
「んー、あれ? そのつもりはなかったけど。んじゃいいや、なんとなく気になっただけだし」
「……何しに来たんですか」
「そんな疑わなくても良いのに。心読んだら判るでしょー? ほれほれ」
天狗の心は、最近あった楽しい事、嬉しい事がふわりと浮かんでは次が浮かび、随分と賑やかそうだった。
「……全然関係ない事考えてません?」
「楽しい事考えたら貴方も楽しくなるかなって」
閉口。こんな事を言われるのはまったく珍しい事だった。
楽しい事や嬉しい事と言っても、ネイルが凄く上手く行ったとか、久しぶりに買い物に行ったら(見かけによらず、ずぼらなようである)虹を見たとか、上司に新聞を読んでもらえたとか、部屋の掃除をしたらへそくりが見つかったとか、お土産の饅頭はいつも一時間は並ばないと手に入らないのに今日は三十分で済んだとか、そういう小さな事ばかりだった。
この天狗のトラウマをほじくり出しても、家の中で大きめの虫が出たとか、洗濯物を干して外出したら大雨が降ってきたとか、そういう下らないトラウマしか出てこなさそうだ。
「人生存分に楽しんでそうですね」
溜息混じりに言うと、
「勿論。貴方はなんだかそうじゃない感じだね?」
と、変わらずにこにこ笑ったまま言った。
一瞬言葉に詰まって、お茶を飲んで誤魔化しながら、「それも記事にしようと?」と苦しまぎれの皮肉を言った。
「人のつまんない事を記事にして、どうしてその記事が面白くなるのさ? 一緒につまんなくなっちゃうでしょ。楽しい記事には、誰かの楽しい事を書かなきゃね」
大真面目な目で天狗は言う。心も、嘘を言ってはいなかった。
……なんとも、掴みどころがない。妹でそういった類には耐性があると思ったが、掴みどころのなさは色々な種類があるらしい。
彼女を試すように、
「天狗と鬼にへこへこするのが嫌になったので、こちらで悠々自適に暮らしているのですよ」
と冗談を言った。怒るかしら、と思いながら。
しかし彼女は怒らない。どころか、うんうんと同意するように頷きながら笑った。
「判る! 山ってさーなんか変に区切りできてるよねー。文あたりはそれが大事なんだって言うけど、そりゃ天狗は上の方にいるから良いけどさ、下の子らって実際どうなんだろねって思ってたわー」
「貴方も天狗でしょうに」
「まぁねー。でも多分前世はミドリムシくらいだし、来世はミジンコになりたいね」
「なぜ微生物限定……」
「ヒエラルキーの最下層って、それはそれで一番自由かもって思うんだよね。だって誰にも勝てないって判りきってるじゃん? だったら諦めて余生楽しむと思わない? やべー今日も生きてるわー奇跡! とか言ってさー」
「変な考え方」
「そうかなぁ。まぁでも、凄いよねぇ。やってられっかばかやろーって出て行って、それで地底で一番偉い人になっちゃうんだもんなぁ」
冗談だったんだけど、と言いにくくなってしまった。天狗は純粋に心から凄いと言ってくれたので、どうにも決まりが悪かった。
「何、ただのお飾りですよ。実権は是非曲直庁にありますし。一部権利を譲与して頂いているだけです」
「でもさ、そういう権利関係って色々と面倒な手続き多いよね。是非曲直庁相手となると、あー、マジ嫌んなるねー。あいつら頭カタイから」
「私もカタイ方ですから」
「え、柔らかそうな感じだよ? 髪の毛ふわっふわしてて」
「癖毛なんですよ、放っておいて下さい」
掴みどころがないし、安易に笑って、何を考えているのかよく判らない。つくづく、私の妹を想起させる天狗だった。妹とは何ほども似つかないのに、どこか根本の、何かが似ていた。
天狗は終始笑顔で私と話していたが、その手にメモもペンも何も持ってはいない。記事を書きたいと言ったのだから多少はその気があるのだろうけど、それにしては何もメモしないのは如何だろう。
「メモを取らないのですか」
「取って欲しいの?」
「そういう訳ではありませんが」
「じゃ、しない。あ、なんか記事にして欲しい事ある? だったらメモらないと忘れる」
「忘れるんだったら、やはりメモを取った方が良いのではないですか……一応書くんでしょう、記事……」
「えーうーん。メモ取りながら会話ってできないじゃん? それにさー後になって忘れてるような会話だったら、それは多分記事にしなくていーんだよ。データじゃないんだから。そりゃあ勿論嘘ついちゃ駄目だけどさ、かと言って、真実の羅列でも同じく価値がないんだよ。そんな誰にでもできるしどんな媒体でもできる事を、わざわざ手間暇かけて記事にする意味ないんだから」
「だから、貴方が受け取った情報を、貴方が受け取ったように記事にする、と?」
「そゆことー。まっ、これは最近同僚におまえの記事は駄目だーって言われて気が付いた事だから、大きな口叩いては言えないんだけどねー」
さっきまでは脊髄で喋ってるんじゃないかと思っていたが、この天狗は彼女なりに自分の意志と理念を持ってやっていっているようだ。
あぁ、そんなところも、妹を思い出させる。あの子は昔から――まだ心も読めた頃から――よく判らなかったのだ。何も考えていないのだと思った。世の中の煩雑な事を自分の中でショートカットして、最短ルートで生きているような子だと思っていた。
でももしそうだったなら、あの子は目を閉じたりしなかっただろう。あの子はあの子なりにたくさんの事を考えていたに違いなかった。そうでなければ、なぜ私に何も言わずに、何も教えてくれずに去っていってしまったのだろう?
心が読めても理解できる訳ではない。心が読めても通じ合える訳ではない。
あの子はいつものようにへらりと笑って、「一回やってみたかったんだよね」と言った。そんな事を言うなら、私だってもう一度やってみたい。眠る妹を起こしたい。彼女の分の朝ご飯を作りたい。彼女の生活リズムは、今の私には判らないのだ。歩幅が違い過ぎて、全然違う場所にいる。見えている視界は、何ほども等しくないだろう。
「心不在焉って感じだね。貴方今、誰を見てるの?」
天狗の声にはっとした。思わず「すみません」と言葉が先に出た。
「そんなに悲しい話だったかな。私だって、そんな悲しい事は考えてなかった気がするけど。あぁもし私が自覚してないけど悲しい事考えてて、それを読んじゃったなら、ごめんね」
いえ、としか言えなかった。
「心読むのって、楽しい?」
それは非難の色ではなく、単純な疑問の色だった。だから、判りません、と答えた。「生まれてきた時より、それしか知りませんから」、心の読めない時期が私にもあれば、何か違うのだろうか。
「じゃあさ、心読めないのって、不幸だと思う?」
私はまた、判りません、と繰り返した。
自分のこの能力を、幸せだと思った事はない。嫌な目にもたくさん遭ってきた。遭わせてきた。地底に住処を変えたのは、天狗や鬼に支配される事に飽いたからではない。むしろ、支配してくれたら良かった。私たちは誰からも自由で、それゆえに誰からも守られなかった。
ヒエラルキーの最下層は確かに自由だ。誰にも勝てない。だけど、そこで開き直って楽しく生きていけるほど、私たちは強くはなかった。
もしこうでなかったらと何度も考えた。だけど、もしこうでなかったら、もしこの力がなかったら、その時私たちは自由だろうか。強いだろうか。幸せ、だろうか。
「すんごいどうでもいい話なんだけどさ、私の子どもの頃の夢、天狗やめる事だったの」
まったくもって唐突に、天狗は話し始める。
「なんてーか、色々めんどくさくてさー。私はもっと自由に生きるんだー! って、なんか漠然と思ってたの。そんでなんか、若気の至りって言うの? ある日急に天啓が降りてきてさ、天狗やめよう! って思って、なんか家も山も飛び出しちゃった訳。結論から言えば勿論失敗したんだけどね、いやー今思えばあれマジで、成功してたらしてたでやばかったと思うわー。その辺でのたれ死んでたと思うね、うん」
話の先が見えなかったし、彼女の思惑がいまいち判らなかったので、黙って聞いていた。
彼女の心象は、記憶に耽るのではなく、まったく別の方角へ向いていた。
『能力なんかなくたって、目の前で人が悲しそうな顔してたら、誰だって悲しくなるよ』と、その心は呟いていた。
『心なんか誰でも読めるんだよ。ただ覚りは正確過ぎるだけで。すんごい計算が早くて間違わない子とか、的当てしたら絶対中央当てちゃう子と一緒だよ。楽しくもないし、幸せでもない。でも悲しくもないし、不幸でもない』。
そんな事は、少し永く生きていれば考える。けれど、誰にも言われた事はなかった。当たり前に嫌われて、当たり前に蔑まれ、当たり前に同情された。
どれも欲しくなかった。ただ当たり前に、何も感じないでいて欲しかった。私を、覚り妖怪を、可哀想とか気味が悪いとか、たった一言で片付けないで欲しかった。私と妹が、家族として生きてゆくのを、ただ咎めもせず見守りもせず干渉もせず、許して欲しかった。
「その時、私思ったんだよ。あー私天狗やめられねぇな、って。いろんな人から心配されて怒られて、全然駄目じゃんとか思ったの。だって私がどう思おうがどう変わろうがどう逃げようが、みんな私の事天狗だって仲間だって思ってんだもん。そりゃしょうがないよねー。当たり前だねー」
そこで天狗は首をかしげ、「あーつまり何を言いたいんだっけな、私」と言い出した。でも充分だった。私は私が受け取った情報を、私が受け取ったように心に留めておけば良いのだから。
「つまりなんだろ、貴方は貴方をやめられないんだし、貴方の家族だって貴方の家族をやめられないんだから、色々気にするのをやめたら良いと思うんだよね」
そうして天狗は、へらっと安易に笑ってみせた。そうだ、よく笑う人だから、勝手に私が妹に結びつけてしまっていただけに過ぎない。妹はよく笑う、いつも笑っている。
この天狗と同じように、小さな事で喜んで楽しんで嬉しんで、小さな事に悲しんで気に病んで慣れない慰めをしてくれるような、そんな人に妹もなってくれていたら良いな、と思った。
私もつられて、ちょっとだけ笑った。
かしゃん、とどこかで小さく音がした。
◆
私の珍しい一日はそうして幕を下ろした。天狗はあの後少し話をしてから帰っていった。
「また来ても良いかな」
「考えておきます」
「えーっ。ここってこう、意気投合して『また来て下さい』って言ってくれるフラグじゃないの? えー、見かけによってケチだなぁ」
「ちょっと」
「だってどうせ読まれるんだしー。嘘ついてもしょうがないしー」
「記事は書くんですか?」
「書いても良いの? 私書くよ、地霊殿の主はつれないしまた呼んでもくれないケチくさい奴だって」
「お好きにどうぞ。慣れてますから」
「あーもー、慣れなくて良いんだよ、そういうのは。はぁ。いいや、別に大した事聞けてないし。次気が向いたらまた来るね」
「では忘れておきましょう」
「いーっだ」
寒い寒いと歯を鳴らしながら、天狗は文句言いつつ帰っていった。
気が向けばと言った。心を読む限りでは彼女は意外と怠惰な生活を好むタチなので、もう二度と気が向くような事はない気がしていた。それでも良いと思った。好き放題に記事を書かれても、彼女なら百歩譲って許そうと思えた。
◆
幾日かの【いつも通り】を過ごして。
◆
その日は朝から珍しい事続きだった。
ひとつめは私が寝坊した事。セットした筈の目覚ましが鳴らなかったのだ。首をかしげながら定時より大幅に遅れてリビングに行くと、ふたつめ、妹がソファで眠っていた。
もう昼にもなろうかという時間だったし、寝るにしてもベッドで寝れば良かろうと思い、その肩を叩いた。少しだけどきどきした。こんな風に妹を起こすのは、本当に久しぶりだった。
「こいし。起きて」
「あらお姉ちゃん、おはようございます」
「……貴方、そんなに寝起きの良い子だったの?」
「ううん。実は、なんとなくお姉ちゃんに起こされてみたくって、ここでスタンバってみました」
「……時計をとめたのは貴方?」
「うん。なんとなくね。お姉ちゃんはもっと休んで良いと思うんだ」
そんなにせわしいイメージなのかしら、と思った。
おなかが空いた。何を作ろう、と冷蔵庫の中身を確認してから、まだ妹はいるだろうかと視線を向ければ、変わらずソファで横になっている。
「ご飯食べる?」
「食べるー」
あぁ、本当に今日は珍しい日だ。
もしかしたら今日、あの天狗の気が向いて、こっちにやって来るかもしれない、と思った。
焼きたてのフレンチトーストをかじりながら、思い出したように妹は「あ」と間抜けな声を上げた。
「あのねお姉ちゃん、すっごく言った気になって言い忘れてたんだけど、多分そのうち姫海棠っていう人が来るから、その人にお礼を言っておいてね」
「え。それってもしかして天狗の?」
「そう。どうして知ってるの? 知り合い?」
「知ってるも何も、この前こちらに来てたもの」
「あー……」
「何、こいし、貴方何かしたの」
「いやいや、なんだろ、ギブアンドテイクってやつですよ」
「意味判って言ってる?」
「あんまり。私ね、その人のお手伝いしてたの。実は結構前から」
「手伝い?」
「そう。あの人の能力知ってる?」
「いえ」
「念写。要は誰かが撮った事のある映像を切り取ってこれる力なんだけど、私はその【誰かが撮った】の誰かをしてたの」
「話が見えないのだけど……なんの為?」
「うん。あの人は記事を書いて新聞を作ってるんだよね」
「それは伺いました」
「でも、念写して作ってたから、なんかイマイチだったみたい。そこで、ぶらり幻想郷古今東西の旅をしているこいしちゃんに白羽の矢が立ったのです」
「つまり、貴方が撮った写真を使って彼女は記事を書いていた?」
「そゆことー」
返事の仕方がいちいちあの天狗に似ていた。移ったか。
「私も写真撮るの楽しいしね、だからすぐおっけーしたんだけど。カメラくれるしお小遣いくれるし、なんかもうこいしちゃん餌付けされてます」
餌付けって。
そう言えばあの天狗、最初に「聞いてた話と違う」とぼやいていた。初対面という言葉にも反応していた。それはこの事か。妹が私に話を通しておく筈が、そうでなかったから。
「こいし、貴方、彼女と何か話しましたか」
「うん。うちの事とかー、楽しい事とかー、お姉ちゃんの事とか!」
この締まりのない話し方……。移って欲しくないところが移ってる……。
しかし納得がいった。彼女が妙に私に対し親身であったのも、妹から話を聞いていたのであれば頷ける。
あぁ、そんな事だと知っていたら取材のひとつやふたつは受けておいたのに……。
「はぁ。今度また折に触れて、お礼をしに行かねばなりませんね」
「そうだねー。私のお願いも聞いてくれたし」
「お願い?」
「お姉ちゃんの写真が欲しいって言ったの」
「貴方が?」
「うん」
「どうして」
「どうしてって、出掛けててもお姉ちゃんに会えるように?」
そうだ、あの時。
かしゃん。あの音は、カメラのシャッター音だったのか。妹が無意識を操り隠れていたのなら、容易に撮れた筈だ。しかしそんな事は頼むまでもまく、妹ひとりいれば事足りるのではないだろうか。
「でもそんな事、わざわざ彼女にお願いする意味あります?」
「あるよ。だって私、お姉ちゃんの笑った顔が良いなって言ったんだもん。お姉ちゃんマジで笑わないんだよーって言ったら、おっけー任せろ! って言ってくれたからさー」
「そ、それは……ほんとうですか……」
思わず言葉が震えた。なんと言うのだろう、この恥ずかしさ。あるいは申し訳なさ。あるいはしてやられた感。
そして何より、妹がそんな事を望んでくれたのだと、その気持ちが胸を詰まらせた。
色々気にするのをやめたら良いと思うよ。そう言われたのを思い出す。彼女は判ってて言ったのだろう。
なんて食えない天狗だろうか。私の事も妹の事も把握しておきながら、そ知らぬ顔で私の能力すら欺いた。まるで何しに来たのか判らない様子だったのに、何も考えていないようなふりをして、私の事も妹の事も、彼女はやりたいように振る舞い、そして確かに収束した。
お礼をしなければ。妹の事。そして私の事。平気な顔して私の前で心に嘘をついた事も、きっちりお礼してくれよう。
「ねぇ、こいし。彼女の新聞は、なんと言うのですか」
「花果子念報」
「ほう。覚えました。是非購読して毎回思い切り駄目出ししてやりましょう」
「わりと不定期だよ」
「定期的に出させましょう」
「お姉ちゃん、なんかやる気だねぇ」
「お礼をしなければいけませんから」
「あは、良いね。お姉ちゃんが見るんなら、頑張って写真撮る意味もあるなぁ」
フレンチトーストをたいらげると、丁度その時、燐が申し訳程度にドアの隙間から身体を出し、「お客様? がお見えです」と言った。
妹と顔を見合わせ、笑った。
「大丈夫、正しくお客様ですよ、燐」
「あぁ、そうなんですね。じゃあお呼びしますね」
「いえ。それはこいし、行ってもらえる? 今日は雪が降っていますし、雪をかぶっているかもしれませんね。タオルも持って行って」
「世話焼きだなぁ、お姉ちゃんは」
「世話のかかる子がうちには多いのですよ。そうそう、燐はね、お茶を淹れて頂戴」
「一番安い葉ですか?」
「いいえ」
一番高い玉露を出す程じゃあ、ないけど。
「真ん中くらいのやつを淹れてきて頂戴」
真ん中くらいの奴には、真ん中くらいのお茶が丁度良い。
おわり
でも良いお話でした。はたてかわいい。
でも何故ここまで読了感が良いんだろう。
後日談も読んでみたいと思える話でした。
愛が……あるよな……?
中々にやり手なはたてちゃん
日常の小さな変化ってほんとニヤニヤできる。
さぁ、早くはたてが文に泣きつく後日談を書く作業に戻るんだ!
天狗らしい感じ
さとりとこいしのキャラも良かったし面白かったです
面白かったです。
中々やりおる。
さとりに駄目出しされて文に泣きつくはたて……な続編SSが出るのを楽しみにしてますw
のんびりさせつつ、うまい具合に円展開やワードの使い方やフォントの設定が見える匠のお茶。
頭ん中考えるよりペラペラ口ついて出てくる。
何も考えてないんかなぁw
羨ましいよなあ。言わないコとの方が多そうだもんなさとりん。
続編期待
最初はたてのラフな言葉遣いが受け付けませんでしたが、全体を通してはいい味を出しています。
なんだかんだいってはたてに恩を感じこいしの撮った写真を微笑ましくみながら、花果子念報を駄目出ししているさとりが目に浮かびました。
次回作も期待しています。
初めてはたてが良いなあと思いました
こいしに写真を撮ってもらうってなかなか良いアイデアですね
だから作者は一日も早くはたてちゃんがあややに泣きつく続きを書けいや書いて下さいお願いします
もっとください
素晴らしいほのぼの古明地をどうもです。
書き出しの雰囲気も良くさとりとはたてが初めて対面する場面の描写も最高でした。
はたてがいつか最上級のお茶っ葉で紅茶が飲めますように。
いや、これ、好きだわ。
すごく爽やかな気分になれました。
直前に病んでるはたての話を読んだせいか、より一層。
はたてがすんげえやり手で、いいやつなんだけど、それでいてはたてらしいというか
なんかよくわかんないけど俺も笑ってた
結局日常かなって、はたてちゃんに合わせて楽しいなへらへらって読んでたら。
最後にそう持ってこられるとは。
さとりさまになった気分だ。震えが走った。してやられた。
なんて素敵なの。
後日談も、気長に待っております!
何でもない人達をそのまま演じるのが一番難しいらしい。
この話をよんでいて、ふとそんな事を思い出しました。日常って、こんなにすてきなんだろうか?
食えないはたてちゃんもいいものですね
まさしく紅茶にのせて読みたい話でした。
はたてが登場してるSS、あまり無いし…。
という訳で、はたさと流行れ!
このすっきりとした読み味、お見事。