さくっさくっさくっ。とんとんとんとんとん。
日も随分と西へ傾いできた夕暮れ時、僕は台所に立ち軽やかなリズムを纏って包丁を振るっていた。
鼻歌を歌いながら、それに伴奏を付けるかのように包丁とまな板を使って流れるように音を奏でる。
今僕が対峙しているのはまな板の上にあるキュウリの漬け物だ。僕が腕を動かすたびに面白いようにキュウリは分たれてゆく。
キュウリ二本を刻み終わった後、僕はその切れっ端の一つを指でちょいとつまんで口の中に放り込んだ。
芳醇な香りが僕の口と鼻の中を駆け抜けてゆき、それから一歩遅れてじんわりと旨味が広がっていった。
この漬け物は、食にはちっとだけこだわりを持つ僕が丹誠込めて漬け込んだそれなりの自信作だ。
いい味が出ているな、とひとしきり満足して僕は次なる獲物に取りかかった。
これは僕の持論であるが、食事とは即ち快楽でなくてはならないと思っている。食とは楽しむべきものだ。
生き物は皆食事を摂る事で生命を維持し続けている。生きとし生けるものは例外なく何かを食べねば生きてゆけぬ。
しかしただ体に栄養を補給するだけでは物足りない。義務的な仕事を満たされるものにする為に味覚という機能が備わっているのだ。
美味いものを食べる。これほど根本的で原理的な幸せがこの世に果たしてあるだろうか。
世の人間は食を工夫する。あれとあれを組み合わせれば美味くならないか。こういう調理方法だと美味くないだろうか。
己の舌を満足させる為に、快楽を得る為に、幸福をつかみ取る為に、大変な苦労をして新たな食事の在り方を編み出していく。
美味いもの。それだけをただ求め、人は終わりなき旅路を永遠に彷徨い続けるのだ。恐らく、世界が滅びる直前までも。
ヒトは単なる生命を保つための栄養補給をあらゆる工夫によって幸福なものへ昇華させた。
その結果として、それを摂らなくとも生きてゆけるが、無性に口にしたくなるものを発見した。
所謂、嗜好品と称される食物達である。
だがこれらは一般的にあまり摂りすぎない方が良いとされるものが多い。過剰な摂取は身体に支障をきたす恐れがあるからだ。
美味いもの程、体に悪い。それが事実だ。快楽に溺れた者達は必ずやその身を滅ぼしてしまうだろう。
それでもヒトはそれを口にする。それがどうしようもなく自らに幸福をもたらすものだともはや知ってしまっているからだ。
「わかっちゃいるけどやめられない、ってね」
ターゲットをカブに切り替えてリズムを刻んでいる僕は呟いて独り笑みを漏らした。
この一言に人間の、いや妖怪も含めた我々の、食への飽くなき欲求が集約されていると言ってもいい。
何を隠そうこの僕も、その嗜好品の魔力に捕われた者の一人だ。
別にそれがなくとも生命は保てる。しかしそれでは僕は生きられない。僕が「生きる」ためにはそれが必要なのだ。
漬け物軍団達を切り終わった僕はそいつらを集め、重箱の中に詰めた。
漬け物以外にも様々な種類のおつまみ系食べ物が入った重箱に蓋を被せてしっかり閉じる。
簡単な料理ではあるが、みんな僕がしっかりと丁寧に作った一品だ。きっと美味しいに違いない。
そして重箱を手早く風呂敷で包み上げ、僕は台所の後片付けもそこそこに済ませてしまって家を出た。
戸締まりを入念に掛けてから鍵を懐へ仕舞い込む。
辺りはすっかり夕闇に包まれ、間もなく夜が降りて来ることを充分に知らせていた。
だが暗くなった周囲の景色とは裏腹に、僕の心は妙に明るく浮ついていた。
「月に一度の、お楽しみだ」
僕は重箱の入った風呂敷を片手に持ち、いそいそと歩みを進めていった。
もう彼女は来ている頃だろうか。そう思いつつ。
頭上からまん丸なお月様が自身の光を僕に向けてこれでもかと浴びせて来る。
今日は見事な満月だ。降りてくる光も数段強い。僕はその光の中を涼しい顔をして足をよいしょよいしょと止める事無く進めてゆく。
草むらから聞こえて来る虫のコーラスが心地よく耳を刺激して、僕はただ歩いているだけだというのに変にいい気分だった。
地底へ続く暗闇の風穴。
その入り口のほど近くに、一本のひと際巨大な楠がある。そこが僕らの待ち合わせ場所であった。
すたすたてくてくと歩き続け、ようやくそこへ辿り着いた僕は既にその木陰に人影があることを発見した。
木を背にして地面に座り込んだその人物の横顔が月光に照らされ、僕の目でも顔かたちがはっきりと視認出来た。
金色をした長くさらりとした髪の毛。白と赤を基調とした服にロングスカート。
両の手には鎖が繋がった手枷をはめており、靴を愛用する僕とは違って下駄を足に履いている。
しかしなんといっても目を引くのは、彼女の額から生えているご自慢の赤い一本の角であった。
僕は声を掛けようと思って心持ち歩みを早めてその人物に近付いていった。
しかし声をかける事は叶わなかった。あともう二、三歩といったところでその横顔がゆるりと向きを替え僕の方を見たからである。
手に繋がっている鎖をジャラリと鳴らして目を細めた彼女は歯を見せるようにしてニヤリと笑った。
「遅いじゃぁないか、旦那」
「待たせたね、勇儀」
手招きしつつ自分の隣の地面をポンポンと叩く勇儀に笑いかけて僕はその場所に腰を下ろした。
月の穏やかな光が僕たち二人を優しく夜の中に浮かび上がらせる。
僕は月に照らされた彼女の手元をチラリと眺めてやや咎めるような口調で言った。
「抜け駆けはずるいぞ」
「なぁに待ちきれなくてね。あまりカタい事をいいなさんなって」
星熊勇儀は堂々とした風格で手にした巨大な杯を一気に呷った。なんとも絵になる女だ、こいつは。
僕は手にしていた風呂敷をするするとあけ、中にある重箱を取り出して蓋をぱかりと開ける。
その箱の中には僕が作った漬け物をはじめとした軽食類がきちんと整頓されて並んでいた。僕はその箱を勇儀のほうへ差し出した。
「はい、今日のおつまみ」
「おおっ。いつも悪いね、旦那に任せっきりで」
「なぁにお互い様さ。こっちは酒を君任せにしてる」
「酒が湧き出る鬼の瓢箪の酒なんだから、旦那と違って手間も費用もロハなんだがねぇ」
言いつつ勇儀はひょいと重箱の中の漬け物を一つつまみ上げ、そのまま口の中に放り込んだ。
僕の耳にシャキシャキと歯ごたえの良い音が聞こえる程に良く噛んで十分に味わい、ごくりと飲み下して胃の中に落とす。
そのまま杯の中に満たされた酒を豪快に飲み干し、勇儀はぷはーっと息を吐き出した。
「ああ、美味い。旦那の作ったつまみがあると酒の味が数段違う」
「そいつは重畳。…出来れば美味い酒を呑むのは僕が来るまで待って欲しかったがね」
「いいじゃないか、小さい事でケチケチするんじゃないよ」
「まったく…」
僕は懐にしまってあった、手に持っていたそれとはまた別の小さな風呂敷を手にすると、ガサガサと開いて中身を取り出した。
中から出て来たのは僕が日頃愛用しているお猪口である。勇儀と呑む時にもこれを使っているのだ。
僕は楠に体を預けながらそいつを勇儀のほうへ突き出すとややぶっきらぼうな調子でいった。
「ほら、お酌でもしてくれよ、鬼のお嬢さん」
「私がお先に一人でお楽しみしてたからって機嫌を損ねるんじゃないよ、半妖」
そう僕を嗜める勇儀の口調や挙動はどこかうきうきと嬉しそうだ。
無限に湧き出る鬼の瓢箪を取り出して勇儀はゆっくりと僕の差し出した杯に酒を注いでくれた。
どこまでも透き通った綺麗な液体が僕の持つお猪口を満たしていく。それを眺めていると、なんだか僕の心までも満たされていくようだ。
もう少しで溢れるか、というギリギリのラインまで注いでから勇儀は瓢箪の口をお猪口から外した。
そしてお次は僕の持つものと比べて幾回りも大きい彼女専用の杯へ並々と酒を流し込む。
それも終わってしまうと勇儀は瓢箪を自分の脇へ置いてしまっておいて、僕に向きなおってまたニヤリと笑った。
「旦那、今日は一体何に乾杯するんだい?」
「そうだな。せっかくの満月だし、あのお月様にでも捧げようかな」
「よっしゃよっしゃ。んじゃ、お月様に」
「ああ」
勇儀と揃って杯を月が浮かぶ空へ向かって高々と掲げる。さあ、ひと月に一度の宴の始まりだ。
勇儀のものと比べてだいぶ小さなお猪口に口を付け、まずは一息に杯を傾けて酒を口の中に流し込む。
酒を舌の上で良く転がして丹念に味わい、ぐっと嚥下する。すると体の底に点火された様に血潮が熱を帯びて全身が温まってゆく。
それから鼻に抜けた酒の風味やら何やらが体中を駆け巡って、僕は至福の溜め息をついた。この鬼の酒は随分強いが、味も格別だ。
一気に中身が空になったぼくの手元の様子をみて勇儀はすかさず瓢箪を取りあげて僕の方へ向ける。
「いい呑みっぷりじゃないか。ささ、もう一杯だ」
「おいおい、駆けつけ三杯はよしとくれよ」
「遠慮するこたぁないよ。ほれほれ」
「おっとっとっと…」
口では拒否の意を示しながらも体がつい勝手に瓢箪の方へ杯を突き出してしまう。
勧められてしまったらどうしたって断る事は出来ない。それが酒呑みの悲しいサガと言う物だ。
僕に二杯目を注いでくれた勇儀はそのまま自分の杯を勢い良く傾ける。鬼はウワバミで有名だ。その様は端から見ていてもいっそ清々しい。
あっというまに空いてしまった勇儀の杯を見逃さず僕は勇儀から瓢箪をひょいと取り上げた。
「流石は鬼の一族。さあ、次の一杯を」
「やや、こりゃどうも。イイ男にお酌してもらえるなんてあたしゃ幸せモンだ」
「あまり人をからかうもんじゃないよ、勇儀」
「からかってなんかいないさ、これはまったくの本心ってやつだよ」
勇儀はそう言って楽しげに笑うと今しがた僕が注いでやった酒をまた一気にぐいっと飲み干した。
僕も苦笑いを浮かべながらゆっくりと酒に口をつける。今度はさっきと違い、じっくりと味わうためにちびりと呑んだ。
僕が取り付かれた嗜好品。それは酒だった。
特に清酒、日本酒の類いが好みである。これを呑むひと時というものは、なんとも筆舌に尽くしがたい。
前に自力で酒を精製してみようと頑張った事があったが、その時にはむなしく失敗に終わってしまった事がある。
酒が酒になる瞬間を見極めたいという願望のもと進められた計画だったが、半分は自分で作った酒が呑みたいという欲求でもあった。
酒は百薬の長と良く言われる。ほんの少しでも入れてやると忽ちに体が元気になる。まさに命のガソリンというやつだ。
が、その反面実に危険な代物でもあるのが酒の恐ろしいところである。
酒類に含まれるアルコールの過剰な摂取は人体に様々な悪影響を及ぼし、最悪の場合には死に至るという事であまりオススメは出来ない。
それでも僕は酒を呑む。酒が美味いからだ。それ以外に何の理由が必要であろうか。
それに、共に酒を呑みかわす友人の存在というものも僕には非常に有り難く、幸福なものなのだ。
僕と勇儀がこうして月に一度に酒を呑みかわす様になったのはそう昔のことではない。
しかしごく最近のことというわけでもないため、適当な言葉が見当たらないので僕は「割と前から」という表現にしている。
僕が彼女と初めて出会ったのも、この楠の下での事であった。
あの夜僕は気晴らしにちょいと散歩にでも出てみようと思って、この周辺を探索していた。
途中で何か見知らぬ道具でも落ちていたら儲け物だな、と考えていたのだが、めぼしい物はこれといってなかった。
そして辺りの木よりも目立ったこの巨木を見つけ、ここらで一休みと思いその根元に腰を下ろして空をぼんやりと眺めていた。
時間にしてどれくらいだったかは分からないが、少しした後で僕はふと、僕が座っているところのちょうど反対側に人の気配を捉えた。
気になったので裾を払って立ち上がり、ひょいと覗いてみるとそこには長身の女性が背を木にもたれて立ちながら酒を呑んでいたのである。
まず、どうしてこんなところに女の人が一人でと思うのが普通だったのだろうが、当時の僕の頭の中にはそんな疑問は露も浮かばなかった。
僕の思考を誘ったのは彼女の額からそびえていた真っすぐな角であって、彼女がそこにいる理由なぞどうでもよかった。
それが鬼の象徴だと察したのは彼女が何かに気づいた様にこちらを振り返り、僕と目を合わせた数秒後のことである。
なんだか彼女に隠れてこっそりと覗きをしていたようで妙に決まりが悪く感じ、彼女と目が合った僕は慌てた。
何か言おうとおもって頭の中をぐるぐるとさせたが、考え抜いて咄嗟に出た一言は何故か、「旨そうに呑むね」だった。
彼女が手にしていた杯をみて発した言葉だったのだろうが、いま思い返してみると全くなんの脈絡もない間抜けな切り出し方だった。
しかし怪我の功名というかなんというか、彼女はそんな僕の阿呆な言葉にチラリと自分の手元を見て微笑み、「アンタも呑むかい」と言ってくれた。
どうにも引っ込みがきかず、僕は有り難く彼女から一献頂戴したのではあるが、あまりにもその酒が強くて僕は盛大にむせ返った。
ごほごほと咳き込む僕をみて彼女はけらけら愉快そうに笑うと、こんなところで何をしているのかと尋ねて来た。
僕が素直にここへ来た他愛のない顛末を話して今度は逆に尋ね返してみると、あたしはコレだよ、といって僕から杯を取り上げ、それを呑んだ。
出会いを語ってしまえば、これで終いである。
僕らはお互いに興味を持ち始め、とりとめもない事を夜もすがら話し続けた。
そして暁の頃合いになってくるとそこで初めて名前を相手に伝え、また会えるといいなどと言ってその日はそれで別れた。
果たして再会の願いは叶えられた。きっかり一ヶ月後の夜に、僕はなんとなしにその木のある場所を再び訪れてみた。
あまり深く考えず、これでまた彼女に会えたら面白いのになというくらいの軽い心持ちで足を運んだものだ。
僕が楠の元へたどり着いても、そこに彼女はいなかった。当然という気持ちと残念という気持ちが入り混ざり、少しだけ迷って僕はそこに留まる事にした。
この前と同じ位置に腰を下ろし、あの時と同じ様にまたぼんやりと空を眺めてみたりしてみる。雲一つなく、星が綺麗な夜だった。
何も考える事なくそこに居ると、不意に木を挟んで僕の背後から声がかかって僕はびくりと体を震わせた。
冷静になりつつ首を捻ってひょいとそちらを振り返ってみると、そこにはあの時と同じ様に瓢箪を手にぶら下げた勇儀が快活に笑っていたのである。
その日も結局ぼくは勇儀から酒を頂いた。今度はしっかり覚悟をしていたため、むせることはなかった。
それから僕らは、一ヶ月のうちに一度、月に三度目の大安の日にこの楠の下で会う事を決めた。
なぜそのような日にしたのかというと、特に意味はない。なんとなく縁起がいいだろうという勇儀の弁に基づきそうなっただけだ。
会って何をするか。
それは酒を呑む事、ただこの一点に尽きた。僕は酒が好きであるし、相手も酒好きで知られる鬼の一族だ。
二人の出会いにも酒が関わっている。となればこれは呑まずにはいられないという物が人情ではあるまいか。
今日はその月に一度の酒盛りの日。僕は勇儀と酒を酌み交わすこの一夜がいつしか多いに楽しみになっていた。
「いいかい、勇儀。そもそも酒は百薬の長と言ってだね」
「おーおーまた始まった、旦那の有り難い蘊蓄が」
勇儀に酒を注いでやりながらいつもの調子で弁を執る僕をいなすように、勇儀はからから笑って僕から酒を杯で受けた。
綺麗な満月の光の下で僕たちは酒を呑む。酒に反射して杯の中に月が浮かんで何とも風流な具合だ。
辺りに響き渡るのは茂みから聞こえてくる鈴虫の声くらいで、実に穏やかで居心地のいい空間だった。
嗜好品と呼ばれる様に、酒とは嗜む物だと僕は常々思っている。
気の置けない友人と二人、ゆっくりと酒を呑む。全く何者にも代え難い幸福ではないだろうか。
美食、すなわち美味い食事とは幸福の象徴だ。ここで問いたいのは一人だけで幸福になるのと、二人で幸福になるのと一体どちらが宜しいかということだ。
無論後者のが断然いいに決まっている。一人の食事と比べて、誰かと楽しく食べる食事は同じ献立でも味が全然優れて感じられる気がする。
僕は勇儀と共に酒を呑みつつ、実によろしい気分に浸っていた。
空を見上げる。コンパスで描いた様に丸くて明るい月が目に映る。
時として下級の妖怪を狂わせる満月の光はしかし、僕ら二人には優しく降り注いでいた。
「まったく、なんだか今夜はいつも以上に綺麗なお月さんだねぇ」
勇儀も同じように月を見上げていたのか、のんびりとした口調でこう言ってまた一口酒を呑んだ。
彼女も僕と一緒に酒を呑む事を楽しんでいるように見える。それが僕はなんだか無性に嬉しい。
僕も軽く酒を呑み、勇儀に少しおどけたような口調で返してやった。
「知ってるかい勇儀。昔の日本人は異性に自らの想いを伝える時に『月が綺麗ですね』と言ったらしいよ」
僕の知識を確かなものと仮定するならば、これは明治時代の文豪、夏目漱石の言葉だった。
外の世界にある亜米利加や英吉利とかというところの言葉で「I love you」というものがある。
これは今の日本語に正確に訳すと「私は貴方を愛しています」という意味になるそうだ。
しかし漱石曰く、「日本人はこんな小恥ずかしい言葉は口にせん。『月が綺麗ですね』とでも言っておくのが良い」と言ってそう訳したそうだ。
つまり、異性に「月が綺麗だ」と言うことは即ち「貴方を愛している」というのと同義だという事になる。
彼も当時の世間一般の常識に囚われない、心に余裕のある人間だったのだろうと言う事が推察出来るというもうのだ。ただの偏屈だったのかもしれないが。
僕のちょっとした雑学を聞いた勇儀は愉快そうに口を開いた。
「ありゃりゃ。それじゃあ今の私は旦那に告白しちまったっていうふうになるわけか」
「そういうことになるかも、ね」
「嬉しいかい?美人な鬼に愛してるって言われてさ」
勇儀は自分の見事な金髪をさらりと撫で上げて僕にウィンクを寄越した。
実際、整った顔立ちをしていると思う。なにかにつけて豪快な勇儀だが、その一方で彼女は優雅で可憐でもあった。
僕はほんの少しだけ考えて…彼女の言葉を受け流すことにしてやった。
「どうかな。そこまででも…って感じだ」
「なにぉう。そこは嘘でも嬉しいって言っとくのが男ってモンだろうよ」
「っと…やめてくれよ、こぼすから」
勇儀が喜怒哀楽の前半二つを足して二で割ったような表情で肘で僕の脇腹辺りをうりうりと突っついてくる。
勇儀の肘に体を揺すられ、僕は杯の中の酒をこぼさないように気をつけて身を捩って回避した。
二人で僕の作ったおつまみを食べつつ、勇儀の持ち寄った酒を呑む。
僕のお猪口が空になると勇儀が僕に酒をついでくれる。
勇儀の巨大な杯が空けられたら反対に僕が勇儀にお酌をしてやる。
特に取り決めたわけではないが、自然とこのような暗黙のやり取りが僕たち二人の間にはあった。
手に持った杯の中の透明な酒に反射してまん丸のお月様が浮かび上がる。
本来、月見というものはこのように杯の酒や池などの水面に映った月を愛でるのが正しい作法だ。
これは月を直接見るのは月に失礼だからと言われている。この謙虚な月見の作法は僕はなかなか好きだ。
僕は酒を一口呑み、杯の月を眺めつついい気分で一つ詠んだ。
「あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月」
「な、なんだい突然。酒が回ってトチ狂うのにはちぃと早くないかい?」
「はは、驚いたかい?」
僕が突然奇妙な言葉を発したのでびっくりしたのか、勇儀は眉をひそめた怪訝な表情で僕を見つめて来た。
しかし僕はなにも酒に酔ったのでも、まして満月の狂気に当てられてこのような一句を歌い上げたわけではない。
この明るい満月の夜にぴったりな和歌を記憶の底からさらってきてそれを口にしただけである。
僕は鬼である勇儀の虚を突いた事でやや得意げになりつつ杯を飲み干してしまってから、その歌を勇儀に解説してやった。
「これは鎌倉時代の僧侶である明恵という人が詠んだ歌でね。仏教のうちの華厳宗と呼ばれる一派の人だ」
「ふぅん。人間達の宗教なんざわたしにはよく分からんね」
「この人は僧侶であるが、月の歌人という異名を持っている。月に関する歌をとてもいっぱい詠んだからそう言われているそうだ」
「へえ、そりゃスゴい。それで今の頓珍漢な歌は一体どういう意味なんだい」
「ああ、『月があかるいね』っていう歌らしいよ」
「はっはっは!たったそれだけの歌か!そりゃあなんともケッサクだなぁ!」
勇儀は心底可笑しそうに酒を持った方とは反対の手で僕の背中をバシンバシンと勢いよく叩いた。
もとより豪腕の鬼の一族、そのなかでも実力者と呼ばれる勇儀の一撃に僕はいつかの様に派手にむせてしまった。
杯がもぬけの空でこぼすものがなかったのがせめてもの救いと言えよう。
「ああ、ごめんごめん、旦那。大丈夫かい?」
「……まったく。キミは自分のことをイマイチ理解しきれてないようだな」
あまり誠意がこもってないような謝り方をする勇儀に僕は軽く言葉に毒を混ぜて返してやった。
それでも勇儀はまったく意に介するそぶりを見せずに楽しげに喋り続けた。
「しっかしそんなんで月の歌人って言われるのか、昔の人は。それじゃあ私は酒の歌人になれるねぇ」
「ほう?君は酒に絡めた和歌が詠めるのかい」
「詠めるともさ。なんなら今聞かせてやるよ」
そう言って勇儀は目を閉じてなにやら考え込み始めた。
その隙に僕は酒の入った瓢箪を取り上げて自分の空の杯に酒を注いでやる。
と、ものの十秒も経たないうちに勇儀がスッと目を開け、杯を高く掲げて今考えたのであろう歌を得意そうに詠み上げた。
「うまうまや うまうまうまや うまうまや うまうまうまや うまうまや酒。へへっ、どうだいこの歌は!」
「念のために聞くが、どういう意味の歌かな?」
「決まってるだろ。『酒がうまいなぁ』って意味だよ!」
「なるほど、素晴らしい出来だ。見事なり酒の歌人」
胡座を組んで巨木に背をもたれ、杯を片手にわっはっはと豪快に笑う勇儀と一緒に僕も声を上げて笑う。
勇儀と二人で笑い合いながら酒を嗜む。どうしようもなく楽しい時が過ぎていく。
酒が美味い。それが分かる友人と呑んでいると、酒の美味さがよりいっそう増すようだ。
ペースを落とす事なくぐびぐびと酒を呑む勇儀を見て僕は感嘆の面持ちで口を開いた。
「流石というか、やはり君は鬼だね。先刻から見ているが少しも勢いが衰えないじゃないか」
「なぁに言ってるんだい。わたしは星熊の勇儀さんだよ?こんなのまだまだ序の口だよ」
「そうかい。僕はこれでもだいぶ酔いが回ってきているんだがね」
「確かに。旦那の目もだいぶ据わっちゃってるよ」
「いつか、君が酔いつぶれるところを見てみたいものだけどな」
「見ようと思って見られるもんじゃないよ?好き好んで鬼とサシで呑もうとする奴なんかも普通はいないしね」
「いるさ。ここにひとりね」
「ヒューッ!カッコつけるねぇ。そういうムチャな男は好きだよ。さんざっぱら呑まされて酔い潰されるのがオチだってのにねぇ」
「僕だって鬼や天狗達の宴なんかに参加したいとは思わないよ。勇儀が相手をしてくれるからさ。君と二人でゆっくり呑みたいんだよ、僕は」
「おやおや。こりゃあ本当に旦那も酔いが回ってると見た。シラフじゃ絶対言わないだろうに」
酔ってるな、と自分でも思う。
しかし、本当に酔ってる人は自分の事を酔ってない酔ってないと頑に言い続けるのが常だ。酔っている人程、酔っていないと言い張る。
であるからして、自分が酔っている事を自覚している僕は真には酔ってないという事になるのではないだろうか。
…ん、ということは本当は酔ってない僕が自分の事を酔ってるなと思うのは間違いだという事なのか?
しかしそれだと僕は自分の事を酔ってないと思う事になり、じゃあ僕は一般的にいうと酔っているということになって、自覚があるなら僕は酔ってなくて…
ああもう、分からない。分からない事は考えないに限るんだ。僕はもう何回目かも分からずに勇儀へお猪口を突き出した。
「ほら勇儀、お酌をしてくれ」
「はいはい。旦那も酒が好きだよホントに。酒に強いわけじゃないってのに」
「強さなんて関係ないだろ。君だって酒好きのくせに」
「私は実際強いじゃん。鬼が酒好きで酒に強いのは当然。でも旦那は鬼じゃない。だのに鬼と呑み比べようってんだから」
「呑み比べてなんていないよ。嗜んでいるだ」
「そういうことにしといてやるよ。心ん中は楽しくて仕方がないくせにさ」
そうだ。楽しい事は楽しい。それが事実だ。
ガブガブ呑んで多いに酔い、多いに騒ぐというのも酒の楽しみ方の一つだろう。
でも僕は別の楽しみ方をしたい。心を許せる友人と共に静かに杯を傾けるという楽しみ方を。
僕は心の底から沸き上がって来る感情に昂りながら、まさに今勇儀に注いでもらった酒を勢いをつけてぐいっと飲み干した。
────────────────────遠くで雀達がやかましい。
あぁもう、チュンチュンうるさい。少しは大人しくならないのか、君らは。
頭の中がガンガン響き、僕は顔をしかめながらもぞもぞ動き、薄目を開けた。
ぼやける視界の中で分ったのは、僕はどうやらどこかで横になっているようだということぐらいだ。
はて、いったいなにをしていたんだっけな。なんで僕はだらしなく寝っ転がっているんだ?
状況を確認する為に首をわずかに動かして辺りの景色に目をやる。くそ、眼鏡はどこだ、眼鏡は。
裸のままの眼をよ~く凝らして、そしてようやくそこが自室で、自分が布団で寝ている事に気づいた。
「んん…?」
「目が覚めたかい?もうとっくに朝だよ」
かすかなうめき声をあげると、不意に声がかかった。
仰向けから腹這いに体を捻って声がした方向を力なく振り返ってみると、そこには勇儀がいた。
壁に背をもたれて腕を組んでいた勇儀は、僕が目覚めたのを確認するとひょいと壁から背をあげて己の角をざらりと撫でた。
「待ってな。水を汲んできてやる」
そう言って勇儀は部屋の向こうへ姿を消した。
僕はそれをぼんやりと見送っていたが、はたと気づいた。どうして彼女が僕の家にいるのだろう。
ええっと昨日はなにをしていたんだっけ。僕は思い出そうとしたが、記憶にもやがかかったように中々浮かんで来なかった。
「ほら飲みな。二日酔いのボウヤ」
勇儀が戻って来て僕の方へ水を差し出した。
僕はそろそろと起き上がり、勇儀からそれを受け取ってゆっくり飲んだ。
ひんやりとした水のおかげで僕の頭も幾分冴えてきたような気がする。そうだ、僕は確か昨日…
「……ああ、」
思い出した。勇儀と酒を呑んでいたんだっけ。
なるほど、二日酔いか。確かに頭のなかもえらいこっちゃだ。どうやら飲み過ぎてしまったらしい。
まったく酒はいつの日も恐ろしいものだな。たまにこういうことがあるから困ってしまう。
それでもやめられない。わかっちゃいるけどやめられない。僕はいつか自分がこれで身を滅ぼすという可能性を否定出来なかった。
しかし待てよ。酒を呑んでいたのは楠の木の下のはずだ。
どうして僕は今ここで自分の家で横になっているのだろう。それに勇儀が僕の家にいるのも謎だ。
「この薄情者が。旦那が潰れちまったんで私がわざわざここまで運んでやったんじゃないか」
「…そうだったのか。しかしどうやって入った?まさか窓をぶち破って」
「んなことするかい。旦那の懐を探らせてもらったのさ」
言われて自分の懐をまさぐる。確かに、昨日自分がここに仕舞ったはずの鍵は影も形も無かった。
ということは、勇儀が僕の家まで僕を運んで来てここへ寝かしてくれたという事か。
布団も勇儀が引いてくれたのか?まったく情けない男だな、僕は。酔いつぶれて女性の世話になってしまうとは。
勇儀がひょいと何かをこちらへ投げて寄越した。チャリンと音を立てたそれをよく見てみると、まさしくそれが僕の家の鍵だった。
「これに懲りたら、少しは酒の量を控えるんだね」
「…君にいわれたかないよ」
「私は鬼だ。旦那は違う。それだけの話さ」
「よく僕の家がわかったな。誰に聞いたんだ」
僕はまた別の疑問を勇儀にぶつけた。
すると勇儀はつまらなそうに鼻を鳴らして答えた。
「…あっきれた男だよ。アンタが教えてくれたんじゃないか」
「僕が?」
「そうさ。前に旦那がたいそう酔った時に私を家まで引っ張ってきて、自分の店の事を得意そうにペラペラ私に解説したのを忘れたのかい?」
「…………」
まったく覚えていない。というか、なにをしとるんだ僕。
実際僕はこの香霖堂のことを誇りに思ってるし、広めたいとも思っているが…そんなことをしでかすとは。
酔った勢いで夜中に自宅まで女性を連れ込むとは、ダメじゃないか。なんというかもうダメダメじゃないか。
「…あの時はハズみで何か致されるんじゃないかと、ガラにもなくどぎまぎしちまったもんだ」
腕を組みつつそっぽを向いて少し怒ったような口調で続ける勇儀に僕は頭を下げて謝るしか無かった。
「いや、ホントに申し訳ない。済まない事をした。謝るよ」
「…しかも旦那は途中で落ちちまうし…とんだお預けだよ…」
「なんて?」
「あーあーなんでもないよ。いいから旦那は寝てな、この」
小声で聞き取れなかった言葉を聞き直したかったが、勇儀が拗ねたようにそう言い張るので僕は大人しく布団の中へ戻ることにした。
空になったコップを脇へどけて布団を被りつつ僕は勇儀に話しかける。
「今回の事といい、君には迷惑をかけてしまったね。すまない。それと僕を運んでくれてありがとう」
「いいさ。私と旦那の仲だ」
「恩にきる。いずれこの埋め合わせは必ずするから」
「はいはい、楽しみにしてるよ」
言って勇儀は再び部屋の外へ出て行った。僕は腕を頭の後ろで組んで天井を見上げる。
昨日の顛末を思い返してみようとしたが、どうしても記憶は途中で途切れて全てを拾い上げる事は出来なかった。
潰れる程飲んだのは随分と久しぶりな気がするな。
勇儀の言う通り、これからはもうちょっと気をつけて呑む事にするか……。
と、部屋の向こうから勇儀が戻って来た。僕はそれを横目でチラリと眺める。
彼女は手に持っていた器をそっと僕の枕元辺りに置くと、胡座を組んで座り込んだ。
「食いな。少しは楽になるから」
「ん、これは…」
入ったばかりの布団から再び起き出して勇儀が置いたものを見る。
それは味噌汁だった。ホカホカと湯気を立てている。中身はどうやらシジミのようだ。
そういえば、シジミの味噌汁には二日酔いを軽減する効果があるというな。勇儀が作ってくれたのか。
「材料は旦那の台所を漁らせてもらったよ。悪く思わないでくれ」
「まさか。なにからなにまで有り難い限りだ」
僕は勇儀が一緒に持って来た箸を手に取り、勇儀が作ったシジミの味噌汁を口にした。
ゆっくりと味噌汁をすすって口の中に流し込む。ああ、実に美味い。五臓六腑に染み渡るとはこの事だ。
二日酔いの僕にはこの味噌汁はとんでもないごちそうのように思えた。
「君は味噌汁を作るのが上手だね」
「なんなら旦那のために毎朝作ってやろうか?」
僕の褒め言葉に、からかうような口調で勇儀が応じた。
味噌汁を食べながら勇儀の方を見る。彼女は布団の上でシジミの味噌汁を飲む僕を楽しげに笑っていた。
僕は勇儀の言葉を脳内へ通す。ふむ。毎朝勇儀の味噌汁が飲めるというのか。
「……ああ、それも良いかもしれない」
「うぇ!?」
予想外の返答だったのか、僕の発言に勇儀がいつになく頓狂な声を上げた。
驚いたような顔をして僕を見つめる勇儀は、いつもの彼女らしくなく微妙に顔を朱に染めていた。
僕は流し目をチラリと彼女の方にくれてやると一気に半分程味噌汁を飲み干し、ニヤッと口元を歪ませた。
「冗談さ」
「…!っこの、バカヤロウが!」
勇儀は僕の言葉により顔を赤面させ、腕を組んでぷいっと僕に背を向けて壁の方へ向き直ってしまった。
やれやれ。怒らせてしまったかな。僕は少しだけ反省しつつ残った味噌汁を食べすすめた。
シジミを箸でつまみ上げて口の中に放り込む。シジミは栄養分が豊富で、実に味わい深くていい食べ物だ。
「…旦那よ」
「なんだい」
勇儀が不意にポツリと呟いたので、僕は味噌汁を飲みながらもそちらの方を向いて応じた。
彼女は僕に背を見せたままぼそぼそ喋り続けた。
「その…月が綺麗だな」
「…?ここには月なんて」
「わたしはね、旦那」
やや力強い言葉に僕の言葉は遮られた。勇儀は壁の方を向いて僕に表情を見せてくれない。
彼女がどんな顔で喋っているのかは正確には分からなかったが、なんだか少し分かる気がした。
背を向けた彼女の耳が、普段と比べて数段赤くなっている。
「旦那と一緒に見る月は、いつだって綺麗に思えるよ」
それきり言って勇儀は黙り込んでしまった。
勇儀の言った事を僕はじっくりと考える。そして、昨日僕が勇儀に語ったことを思い出した。
異性に想いを伝える時、なんというのか。
そう広いとは言えない僕の部屋の中に沈黙が満ちる。
僕は勇儀の背中を長い事見つめていたが、やがてもうそれほど残っていない味噌汁を一気に飲み干した。
「味噌汁、ごちそうさま。美味しかったよ」
「ん」
勇儀に礼を言うと、勇儀は小さく返事をしただけでまた黙った。
相変わらずその背は僕に向いたままだ。
僕は金色の長い髪がかかったその背中に向かって言葉を発した。
「勇儀」
「なにさ」
気の無いような言葉を返す勇儀に僕は続けた。
「僕もだ。君とみる月はどうにも綺麗に見えるね」
「……ふん。月を見てもいないのにわかるもんか」
「わかるさ。君が傍にいてくれるなら」
「けっ。どうせまた冗談だろう」
「まさか。これは本心だよ」
「知らないのか?私は鬼だよ。鬼は嘘を嫌うし、嘘をつく奴も嫌いなんだ」
「それは結構。なら嘘をついてない僕は鬼の君に好かれるという事だな。大満足だ」
「……たいした男だよ、旦那は」
勇儀はぶっきらぼうにそう言うとこちらの方を向き、胡座を解いて僕の方へ近寄って来た。
そして僕の片腕に手を回してぎゅっと掴み、自分の体の方へ引き寄せる。
勇儀の少しだけ上がった体温が僕の腕を通して伝わって来て、なんだか少し気恥ずかしい。
勇儀は僕の肩に自分の頭を預けると、上目遣いで僕を見つめてはにかんだように歯を見せて笑った。
「ありがとな、旦那。嬉しいよ」
「いいさ。僕と君の仲だ」
「……へへへ」
「…でも出来ればこの体勢は勘弁してくれ」
「なんでさ。照れる事ないだろ」
「いや、角が怖い。もう少しで刺さる」
「なんと!?」
勇儀が慌てたように僕の体からパッと離れる。
その拍子に勇儀の鬼の象徴たる見事な角が僕の喉元を掠めていった。僕はヒュウと口を鳴らす。
危ない危ない。もうすこしでケガするところだった。あれが突き刺さって御陀仏というのはなんとも避けたい事だ。
僕と少し距離をとった勇儀は角を撫でつつ、膨れっ面でぶつくさ文句をいった。
「ちぇっ、せっかくいいムードだったのに」
「まあまあ。そんなに拗ねなくてもいいじゃないか」
「やれやれ。私たちにゃこの手のモンは似合わないってか。じゃ、やっぱりこれしかないかねぇ」
言いつつ勇儀は腰に付けていたものを取り外し、デンと音を立てて僕と勇儀の間に置いた。
なめらかな曲線を描いたその容れ物は……っておい。
「……鬼の瓢箪」
「そうさ」
「呑めと?」
「いいじゃないか。私たちにはコレが一番似合いだ。そうだろ?」
「朝っぱらから呑めるものか。それに僕は二日酔いなんだが」
「うるさいうるさい。迎え酒ってぇやつだ。いいから呑みなよ、ほらほら」
どこから取り出したのか、勇儀が小さな杯になみなみと酒を注いで僕の方へ差し出した。
出されてしまったものは呑むしかない。それが酒呑みのマナーというものだ。
僕はこぼさないように気をつけながらその杯を手に取り、勇儀に尋ねた。
「今朝はなにに捧げるんだい」
「そんなの決まってるじゃないか。私たちの、末永く綺麗な月に向かってだよ」
勇儀はいつもと違う、僕と同じサイズの杯に酒を注ぎながら答えた。
「なるほどね」
納得したように僕は呟く。
今、ここに月は出ていない。故に月に酒を捧げるのは不可能だ。
しかし今は不思議とそれが出来るような気がするし、そうするのが一番なような気がした。
勇儀がいれば、いつだって月は綺麗なのだから。
勇儀が酒を注ぎ終わったのを見計らって僕は唱えた。
「それじゃ、僕らの綺麗な月に」
「ああ!」
僕と勇儀は二人揃って杯を高く掲げ、二つを合わせて小さく澄んだ音を奏でた。
その時の表情はきっと、二人とも良い笑顔だったことだろう。
酒を共に嗜む友が居るというのは良い事だ。
今までは月に一度きりであったが、これから先は二人の酒宴の頻度はさらに上がる事と思う。
僕らの心の中にはいつまでもずっと綺麗な月が浮かんでいるだろう。目に見えずとも、僕にはみえる。恐らく、勇儀にも。
空にあるあの小さな衛星も、やがては毎日のように綺麗に輝くようになるに違いない。
そしてその月を眺めながら勇儀と呑む月見の酒も、きっと格別に美味しいに違いないのだ。
僕は杯に口をつけると一息に飲み干して、勇儀と同時に杯を床に勢いよくドンと置いた。
今宵も実に綺麗な月と、実に美味い酒だった。
ちなみに、案の定僕が迎え酒に失敗して撃沈し、翌日もまた勇儀手製の味噌汁を食べる事になったことを付け加えておく。
酔いはひどいし気分は最悪だったが、勇儀の味噌汁は美味かったし彼女もどこか嬉しそうにしていたので良しとしよう。
日も随分と西へ傾いできた夕暮れ時、僕は台所に立ち軽やかなリズムを纏って包丁を振るっていた。
鼻歌を歌いながら、それに伴奏を付けるかのように包丁とまな板を使って流れるように音を奏でる。
今僕が対峙しているのはまな板の上にあるキュウリの漬け物だ。僕が腕を動かすたびに面白いようにキュウリは分たれてゆく。
キュウリ二本を刻み終わった後、僕はその切れっ端の一つを指でちょいとつまんで口の中に放り込んだ。
芳醇な香りが僕の口と鼻の中を駆け抜けてゆき、それから一歩遅れてじんわりと旨味が広がっていった。
この漬け物は、食にはちっとだけこだわりを持つ僕が丹誠込めて漬け込んだそれなりの自信作だ。
いい味が出ているな、とひとしきり満足して僕は次なる獲物に取りかかった。
これは僕の持論であるが、食事とは即ち快楽でなくてはならないと思っている。食とは楽しむべきものだ。
生き物は皆食事を摂る事で生命を維持し続けている。生きとし生けるものは例外なく何かを食べねば生きてゆけぬ。
しかしただ体に栄養を補給するだけでは物足りない。義務的な仕事を満たされるものにする為に味覚という機能が備わっているのだ。
美味いものを食べる。これほど根本的で原理的な幸せがこの世に果たしてあるだろうか。
世の人間は食を工夫する。あれとあれを組み合わせれば美味くならないか。こういう調理方法だと美味くないだろうか。
己の舌を満足させる為に、快楽を得る為に、幸福をつかみ取る為に、大変な苦労をして新たな食事の在り方を編み出していく。
美味いもの。それだけをただ求め、人は終わりなき旅路を永遠に彷徨い続けるのだ。恐らく、世界が滅びる直前までも。
ヒトは単なる生命を保つための栄養補給をあらゆる工夫によって幸福なものへ昇華させた。
その結果として、それを摂らなくとも生きてゆけるが、無性に口にしたくなるものを発見した。
所謂、嗜好品と称される食物達である。
だがこれらは一般的にあまり摂りすぎない方が良いとされるものが多い。過剰な摂取は身体に支障をきたす恐れがあるからだ。
美味いもの程、体に悪い。それが事実だ。快楽に溺れた者達は必ずやその身を滅ぼしてしまうだろう。
それでもヒトはそれを口にする。それがどうしようもなく自らに幸福をもたらすものだともはや知ってしまっているからだ。
「わかっちゃいるけどやめられない、ってね」
ターゲットをカブに切り替えてリズムを刻んでいる僕は呟いて独り笑みを漏らした。
この一言に人間の、いや妖怪も含めた我々の、食への飽くなき欲求が集約されていると言ってもいい。
何を隠そうこの僕も、その嗜好品の魔力に捕われた者の一人だ。
別にそれがなくとも生命は保てる。しかしそれでは僕は生きられない。僕が「生きる」ためにはそれが必要なのだ。
漬け物軍団達を切り終わった僕はそいつらを集め、重箱の中に詰めた。
漬け物以外にも様々な種類のおつまみ系食べ物が入った重箱に蓋を被せてしっかり閉じる。
簡単な料理ではあるが、みんな僕がしっかりと丁寧に作った一品だ。きっと美味しいに違いない。
そして重箱を手早く風呂敷で包み上げ、僕は台所の後片付けもそこそこに済ませてしまって家を出た。
戸締まりを入念に掛けてから鍵を懐へ仕舞い込む。
辺りはすっかり夕闇に包まれ、間もなく夜が降りて来ることを充分に知らせていた。
だが暗くなった周囲の景色とは裏腹に、僕の心は妙に明るく浮ついていた。
「月に一度の、お楽しみだ」
僕は重箱の入った風呂敷を片手に持ち、いそいそと歩みを進めていった。
もう彼女は来ている頃だろうか。そう思いつつ。
頭上からまん丸なお月様が自身の光を僕に向けてこれでもかと浴びせて来る。
今日は見事な満月だ。降りてくる光も数段強い。僕はその光の中を涼しい顔をして足をよいしょよいしょと止める事無く進めてゆく。
草むらから聞こえて来る虫のコーラスが心地よく耳を刺激して、僕はただ歩いているだけだというのに変にいい気分だった。
地底へ続く暗闇の風穴。
その入り口のほど近くに、一本のひと際巨大な楠がある。そこが僕らの待ち合わせ場所であった。
すたすたてくてくと歩き続け、ようやくそこへ辿り着いた僕は既にその木陰に人影があることを発見した。
木を背にして地面に座り込んだその人物の横顔が月光に照らされ、僕の目でも顔かたちがはっきりと視認出来た。
金色をした長くさらりとした髪の毛。白と赤を基調とした服にロングスカート。
両の手には鎖が繋がった手枷をはめており、靴を愛用する僕とは違って下駄を足に履いている。
しかしなんといっても目を引くのは、彼女の額から生えているご自慢の赤い一本の角であった。
僕は声を掛けようと思って心持ち歩みを早めてその人物に近付いていった。
しかし声をかける事は叶わなかった。あともう二、三歩といったところでその横顔がゆるりと向きを替え僕の方を見たからである。
手に繋がっている鎖をジャラリと鳴らして目を細めた彼女は歯を見せるようにしてニヤリと笑った。
「遅いじゃぁないか、旦那」
「待たせたね、勇儀」
手招きしつつ自分の隣の地面をポンポンと叩く勇儀に笑いかけて僕はその場所に腰を下ろした。
月の穏やかな光が僕たち二人を優しく夜の中に浮かび上がらせる。
僕は月に照らされた彼女の手元をチラリと眺めてやや咎めるような口調で言った。
「抜け駆けはずるいぞ」
「なぁに待ちきれなくてね。あまりカタい事をいいなさんなって」
星熊勇儀は堂々とした風格で手にした巨大な杯を一気に呷った。なんとも絵になる女だ、こいつは。
僕は手にしていた風呂敷をするするとあけ、中にある重箱を取り出して蓋をぱかりと開ける。
その箱の中には僕が作った漬け物をはじめとした軽食類がきちんと整頓されて並んでいた。僕はその箱を勇儀のほうへ差し出した。
「はい、今日のおつまみ」
「おおっ。いつも悪いね、旦那に任せっきりで」
「なぁにお互い様さ。こっちは酒を君任せにしてる」
「酒が湧き出る鬼の瓢箪の酒なんだから、旦那と違って手間も費用もロハなんだがねぇ」
言いつつ勇儀はひょいと重箱の中の漬け物を一つつまみ上げ、そのまま口の中に放り込んだ。
僕の耳にシャキシャキと歯ごたえの良い音が聞こえる程に良く噛んで十分に味わい、ごくりと飲み下して胃の中に落とす。
そのまま杯の中に満たされた酒を豪快に飲み干し、勇儀はぷはーっと息を吐き出した。
「ああ、美味い。旦那の作ったつまみがあると酒の味が数段違う」
「そいつは重畳。…出来れば美味い酒を呑むのは僕が来るまで待って欲しかったがね」
「いいじゃないか、小さい事でケチケチするんじゃないよ」
「まったく…」
僕は懐にしまってあった、手に持っていたそれとはまた別の小さな風呂敷を手にすると、ガサガサと開いて中身を取り出した。
中から出て来たのは僕が日頃愛用しているお猪口である。勇儀と呑む時にもこれを使っているのだ。
僕は楠に体を預けながらそいつを勇儀のほうへ突き出すとややぶっきらぼうな調子でいった。
「ほら、お酌でもしてくれよ、鬼のお嬢さん」
「私がお先に一人でお楽しみしてたからって機嫌を損ねるんじゃないよ、半妖」
そう僕を嗜める勇儀の口調や挙動はどこかうきうきと嬉しそうだ。
無限に湧き出る鬼の瓢箪を取り出して勇儀はゆっくりと僕の差し出した杯に酒を注いでくれた。
どこまでも透き通った綺麗な液体が僕の持つお猪口を満たしていく。それを眺めていると、なんだか僕の心までも満たされていくようだ。
もう少しで溢れるか、というギリギリのラインまで注いでから勇儀は瓢箪の口をお猪口から外した。
そしてお次は僕の持つものと比べて幾回りも大きい彼女専用の杯へ並々と酒を流し込む。
それも終わってしまうと勇儀は瓢箪を自分の脇へ置いてしまっておいて、僕に向きなおってまたニヤリと笑った。
「旦那、今日は一体何に乾杯するんだい?」
「そうだな。せっかくの満月だし、あのお月様にでも捧げようかな」
「よっしゃよっしゃ。んじゃ、お月様に」
「ああ」
勇儀と揃って杯を月が浮かぶ空へ向かって高々と掲げる。さあ、ひと月に一度の宴の始まりだ。
勇儀のものと比べてだいぶ小さなお猪口に口を付け、まずは一息に杯を傾けて酒を口の中に流し込む。
酒を舌の上で良く転がして丹念に味わい、ぐっと嚥下する。すると体の底に点火された様に血潮が熱を帯びて全身が温まってゆく。
それから鼻に抜けた酒の風味やら何やらが体中を駆け巡って、僕は至福の溜め息をついた。この鬼の酒は随分強いが、味も格別だ。
一気に中身が空になったぼくの手元の様子をみて勇儀はすかさず瓢箪を取りあげて僕の方へ向ける。
「いい呑みっぷりじゃないか。ささ、もう一杯だ」
「おいおい、駆けつけ三杯はよしとくれよ」
「遠慮するこたぁないよ。ほれほれ」
「おっとっとっと…」
口では拒否の意を示しながらも体がつい勝手に瓢箪の方へ杯を突き出してしまう。
勧められてしまったらどうしたって断る事は出来ない。それが酒呑みの悲しいサガと言う物だ。
僕に二杯目を注いでくれた勇儀はそのまま自分の杯を勢い良く傾ける。鬼はウワバミで有名だ。その様は端から見ていてもいっそ清々しい。
あっというまに空いてしまった勇儀の杯を見逃さず僕は勇儀から瓢箪をひょいと取り上げた。
「流石は鬼の一族。さあ、次の一杯を」
「やや、こりゃどうも。イイ男にお酌してもらえるなんてあたしゃ幸せモンだ」
「あまり人をからかうもんじゃないよ、勇儀」
「からかってなんかいないさ、これはまったくの本心ってやつだよ」
勇儀はそう言って楽しげに笑うと今しがた僕が注いでやった酒をまた一気にぐいっと飲み干した。
僕も苦笑いを浮かべながらゆっくりと酒に口をつける。今度はさっきと違い、じっくりと味わうためにちびりと呑んだ。
僕が取り付かれた嗜好品。それは酒だった。
特に清酒、日本酒の類いが好みである。これを呑むひと時というものは、なんとも筆舌に尽くしがたい。
前に自力で酒を精製してみようと頑張った事があったが、その時にはむなしく失敗に終わってしまった事がある。
酒が酒になる瞬間を見極めたいという願望のもと進められた計画だったが、半分は自分で作った酒が呑みたいという欲求でもあった。
酒は百薬の長と良く言われる。ほんの少しでも入れてやると忽ちに体が元気になる。まさに命のガソリンというやつだ。
が、その反面実に危険な代物でもあるのが酒の恐ろしいところである。
酒類に含まれるアルコールの過剰な摂取は人体に様々な悪影響を及ぼし、最悪の場合には死に至るという事であまりオススメは出来ない。
それでも僕は酒を呑む。酒が美味いからだ。それ以外に何の理由が必要であろうか。
それに、共に酒を呑みかわす友人の存在というものも僕には非常に有り難く、幸福なものなのだ。
僕と勇儀がこうして月に一度に酒を呑みかわす様になったのはそう昔のことではない。
しかしごく最近のことというわけでもないため、適当な言葉が見当たらないので僕は「割と前から」という表現にしている。
僕が彼女と初めて出会ったのも、この楠の下での事であった。
あの夜僕は気晴らしにちょいと散歩にでも出てみようと思って、この周辺を探索していた。
途中で何か見知らぬ道具でも落ちていたら儲け物だな、と考えていたのだが、めぼしい物はこれといってなかった。
そして辺りの木よりも目立ったこの巨木を見つけ、ここらで一休みと思いその根元に腰を下ろして空をぼんやりと眺めていた。
時間にしてどれくらいだったかは分からないが、少しした後で僕はふと、僕が座っているところのちょうど反対側に人の気配を捉えた。
気になったので裾を払って立ち上がり、ひょいと覗いてみるとそこには長身の女性が背を木にもたれて立ちながら酒を呑んでいたのである。
まず、どうしてこんなところに女の人が一人でと思うのが普通だったのだろうが、当時の僕の頭の中にはそんな疑問は露も浮かばなかった。
僕の思考を誘ったのは彼女の額からそびえていた真っすぐな角であって、彼女がそこにいる理由なぞどうでもよかった。
それが鬼の象徴だと察したのは彼女が何かに気づいた様にこちらを振り返り、僕と目を合わせた数秒後のことである。
なんだか彼女に隠れてこっそりと覗きをしていたようで妙に決まりが悪く感じ、彼女と目が合った僕は慌てた。
何か言おうとおもって頭の中をぐるぐるとさせたが、考え抜いて咄嗟に出た一言は何故か、「旨そうに呑むね」だった。
彼女が手にしていた杯をみて発した言葉だったのだろうが、いま思い返してみると全くなんの脈絡もない間抜けな切り出し方だった。
しかし怪我の功名というかなんというか、彼女はそんな僕の阿呆な言葉にチラリと自分の手元を見て微笑み、「アンタも呑むかい」と言ってくれた。
どうにも引っ込みがきかず、僕は有り難く彼女から一献頂戴したのではあるが、あまりにもその酒が強くて僕は盛大にむせ返った。
ごほごほと咳き込む僕をみて彼女はけらけら愉快そうに笑うと、こんなところで何をしているのかと尋ねて来た。
僕が素直にここへ来た他愛のない顛末を話して今度は逆に尋ね返してみると、あたしはコレだよ、といって僕から杯を取り上げ、それを呑んだ。
出会いを語ってしまえば、これで終いである。
僕らはお互いに興味を持ち始め、とりとめもない事を夜もすがら話し続けた。
そして暁の頃合いになってくるとそこで初めて名前を相手に伝え、また会えるといいなどと言ってその日はそれで別れた。
果たして再会の願いは叶えられた。きっかり一ヶ月後の夜に、僕はなんとなしにその木のある場所を再び訪れてみた。
あまり深く考えず、これでまた彼女に会えたら面白いのになというくらいの軽い心持ちで足を運んだものだ。
僕が楠の元へたどり着いても、そこに彼女はいなかった。当然という気持ちと残念という気持ちが入り混ざり、少しだけ迷って僕はそこに留まる事にした。
この前と同じ位置に腰を下ろし、あの時と同じ様にまたぼんやりと空を眺めてみたりしてみる。雲一つなく、星が綺麗な夜だった。
何も考える事なくそこに居ると、不意に木を挟んで僕の背後から声がかかって僕はびくりと体を震わせた。
冷静になりつつ首を捻ってひょいとそちらを振り返ってみると、そこにはあの時と同じ様に瓢箪を手にぶら下げた勇儀が快活に笑っていたのである。
その日も結局ぼくは勇儀から酒を頂いた。今度はしっかり覚悟をしていたため、むせることはなかった。
それから僕らは、一ヶ月のうちに一度、月に三度目の大安の日にこの楠の下で会う事を決めた。
なぜそのような日にしたのかというと、特に意味はない。なんとなく縁起がいいだろうという勇儀の弁に基づきそうなっただけだ。
会って何をするか。
それは酒を呑む事、ただこの一点に尽きた。僕は酒が好きであるし、相手も酒好きで知られる鬼の一族だ。
二人の出会いにも酒が関わっている。となればこれは呑まずにはいられないという物が人情ではあるまいか。
今日はその月に一度の酒盛りの日。僕は勇儀と酒を酌み交わすこの一夜がいつしか多いに楽しみになっていた。
「いいかい、勇儀。そもそも酒は百薬の長と言ってだね」
「おーおーまた始まった、旦那の有り難い蘊蓄が」
勇儀に酒を注いでやりながらいつもの調子で弁を執る僕をいなすように、勇儀はからから笑って僕から酒を杯で受けた。
綺麗な満月の光の下で僕たちは酒を呑む。酒に反射して杯の中に月が浮かんで何とも風流な具合だ。
辺りに響き渡るのは茂みから聞こえてくる鈴虫の声くらいで、実に穏やかで居心地のいい空間だった。
嗜好品と呼ばれる様に、酒とは嗜む物だと僕は常々思っている。
気の置けない友人と二人、ゆっくりと酒を呑む。全く何者にも代え難い幸福ではないだろうか。
美食、すなわち美味い食事とは幸福の象徴だ。ここで問いたいのは一人だけで幸福になるのと、二人で幸福になるのと一体どちらが宜しいかということだ。
無論後者のが断然いいに決まっている。一人の食事と比べて、誰かと楽しく食べる食事は同じ献立でも味が全然優れて感じられる気がする。
僕は勇儀と共に酒を呑みつつ、実によろしい気分に浸っていた。
空を見上げる。コンパスで描いた様に丸くて明るい月が目に映る。
時として下級の妖怪を狂わせる満月の光はしかし、僕ら二人には優しく降り注いでいた。
「まったく、なんだか今夜はいつも以上に綺麗なお月さんだねぇ」
勇儀も同じように月を見上げていたのか、のんびりとした口調でこう言ってまた一口酒を呑んだ。
彼女も僕と一緒に酒を呑む事を楽しんでいるように見える。それが僕はなんだか無性に嬉しい。
僕も軽く酒を呑み、勇儀に少しおどけたような口調で返してやった。
「知ってるかい勇儀。昔の日本人は異性に自らの想いを伝える時に『月が綺麗ですね』と言ったらしいよ」
僕の知識を確かなものと仮定するならば、これは明治時代の文豪、夏目漱石の言葉だった。
外の世界にある亜米利加や英吉利とかというところの言葉で「I love you」というものがある。
これは今の日本語に正確に訳すと「私は貴方を愛しています」という意味になるそうだ。
しかし漱石曰く、「日本人はこんな小恥ずかしい言葉は口にせん。『月が綺麗ですね』とでも言っておくのが良い」と言ってそう訳したそうだ。
つまり、異性に「月が綺麗だ」と言うことは即ち「貴方を愛している」というのと同義だという事になる。
彼も当時の世間一般の常識に囚われない、心に余裕のある人間だったのだろうと言う事が推察出来るというもうのだ。ただの偏屈だったのかもしれないが。
僕のちょっとした雑学を聞いた勇儀は愉快そうに口を開いた。
「ありゃりゃ。それじゃあ今の私は旦那に告白しちまったっていうふうになるわけか」
「そういうことになるかも、ね」
「嬉しいかい?美人な鬼に愛してるって言われてさ」
勇儀は自分の見事な金髪をさらりと撫で上げて僕にウィンクを寄越した。
実際、整った顔立ちをしていると思う。なにかにつけて豪快な勇儀だが、その一方で彼女は優雅で可憐でもあった。
僕はほんの少しだけ考えて…彼女の言葉を受け流すことにしてやった。
「どうかな。そこまででも…って感じだ」
「なにぉう。そこは嘘でも嬉しいって言っとくのが男ってモンだろうよ」
「っと…やめてくれよ、こぼすから」
勇儀が喜怒哀楽の前半二つを足して二で割ったような表情で肘で僕の脇腹辺りをうりうりと突っついてくる。
勇儀の肘に体を揺すられ、僕は杯の中の酒をこぼさないように気をつけて身を捩って回避した。
二人で僕の作ったおつまみを食べつつ、勇儀の持ち寄った酒を呑む。
僕のお猪口が空になると勇儀が僕に酒をついでくれる。
勇儀の巨大な杯が空けられたら反対に僕が勇儀にお酌をしてやる。
特に取り決めたわけではないが、自然とこのような暗黙のやり取りが僕たち二人の間にはあった。
手に持った杯の中の透明な酒に反射してまん丸のお月様が浮かび上がる。
本来、月見というものはこのように杯の酒や池などの水面に映った月を愛でるのが正しい作法だ。
これは月を直接見るのは月に失礼だからと言われている。この謙虚な月見の作法は僕はなかなか好きだ。
僕は酒を一口呑み、杯の月を眺めつついい気分で一つ詠んだ。
「あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月」
「な、なんだい突然。酒が回ってトチ狂うのにはちぃと早くないかい?」
「はは、驚いたかい?」
僕が突然奇妙な言葉を発したのでびっくりしたのか、勇儀は眉をひそめた怪訝な表情で僕を見つめて来た。
しかし僕はなにも酒に酔ったのでも、まして満月の狂気に当てられてこのような一句を歌い上げたわけではない。
この明るい満月の夜にぴったりな和歌を記憶の底からさらってきてそれを口にしただけである。
僕は鬼である勇儀の虚を突いた事でやや得意げになりつつ杯を飲み干してしまってから、その歌を勇儀に解説してやった。
「これは鎌倉時代の僧侶である明恵という人が詠んだ歌でね。仏教のうちの華厳宗と呼ばれる一派の人だ」
「ふぅん。人間達の宗教なんざわたしにはよく分からんね」
「この人は僧侶であるが、月の歌人という異名を持っている。月に関する歌をとてもいっぱい詠んだからそう言われているそうだ」
「へえ、そりゃスゴい。それで今の頓珍漢な歌は一体どういう意味なんだい」
「ああ、『月があかるいね』っていう歌らしいよ」
「はっはっは!たったそれだけの歌か!そりゃあなんともケッサクだなぁ!」
勇儀は心底可笑しそうに酒を持った方とは反対の手で僕の背中をバシンバシンと勢いよく叩いた。
もとより豪腕の鬼の一族、そのなかでも実力者と呼ばれる勇儀の一撃に僕はいつかの様に派手にむせてしまった。
杯がもぬけの空でこぼすものがなかったのがせめてもの救いと言えよう。
「ああ、ごめんごめん、旦那。大丈夫かい?」
「……まったく。キミは自分のことをイマイチ理解しきれてないようだな」
あまり誠意がこもってないような謝り方をする勇儀に僕は軽く言葉に毒を混ぜて返してやった。
それでも勇儀はまったく意に介するそぶりを見せずに楽しげに喋り続けた。
「しっかしそんなんで月の歌人って言われるのか、昔の人は。それじゃあ私は酒の歌人になれるねぇ」
「ほう?君は酒に絡めた和歌が詠めるのかい」
「詠めるともさ。なんなら今聞かせてやるよ」
そう言って勇儀は目を閉じてなにやら考え込み始めた。
その隙に僕は酒の入った瓢箪を取り上げて自分の空の杯に酒を注いでやる。
と、ものの十秒も経たないうちに勇儀がスッと目を開け、杯を高く掲げて今考えたのであろう歌を得意そうに詠み上げた。
「うまうまや うまうまうまや うまうまや うまうまうまや うまうまや酒。へへっ、どうだいこの歌は!」
「念のために聞くが、どういう意味の歌かな?」
「決まってるだろ。『酒がうまいなぁ』って意味だよ!」
「なるほど、素晴らしい出来だ。見事なり酒の歌人」
胡座を組んで巨木に背をもたれ、杯を片手にわっはっはと豪快に笑う勇儀と一緒に僕も声を上げて笑う。
勇儀と二人で笑い合いながら酒を嗜む。どうしようもなく楽しい時が過ぎていく。
酒が美味い。それが分かる友人と呑んでいると、酒の美味さがよりいっそう増すようだ。
ペースを落とす事なくぐびぐびと酒を呑む勇儀を見て僕は感嘆の面持ちで口を開いた。
「流石というか、やはり君は鬼だね。先刻から見ているが少しも勢いが衰えないじゃないか」
「なぁに言ってるんだい。わたしは星熊の勇儀さんだよ?こんなのまだまだ序の口だよ」
「そうかい。僕はこれでもだいぶ酔いが回ってきているんだがね」
「確かに。旦那の目もだいぶ据わっちゃってるよ」
「いつか、君が酔いつぶれるところを見てみたいものだけどな」
「見ようと思って見られるもんじゃないよ?好き好んで鬼とサシで呑もうとする奴なんかも普通はいないしね」
「いるさ。ここにひとりね」
「ヒューッ!カッコつけるねぇ。そういうムチャな男は好きだよ。さんざっぱら呑まされて酔い潰されるのがオチだってのにねぇ」
「僕だって鬼や天狗達の宴なんかに参加したいとは思わないよ。勇儀が相手をしてくれるからさ。君と二人でゆっくり呑みたいんだよ、僕は」
「おやおや。こりゃあ本当に旦那も酔いが回ってると見た。シラフじゃ絶対言わないだろうに」
酔ってるな、と自分でも思う。
しかし、本当に酔ってる人は自分の事を酔ってない酔ってないと頑に言い続けるのが常だ。酔っている人程、酔っていないと言い張る。
であるからして、自分が酔っている事を自覚している僕は真には酔ってないという事になるのではないだろうか。
…ん、ということは本当は酔ってない僕が自分の事を酔ってるなと思うのは間違いだという事なのか?
しかしそれだと僕は自分の事を酔ってないと思う事になり、じゃあ僕は一般的にいうと酔っているということになって、自覚があるなら僕は酔ってなくて…
ああもう、分からない。分からない事は考えないに限るんだ。僕はもう何回目かも分からずに勇儀へお猪口を突き出した。
「ほら勇儀、お酌をしてくれ」
「はいはい。旦那も酒が好きだよホントに。酒に強いわけじゃないってのに」
「強さなんて関係ないだろ。君だって酒好きのくせに」
「私は実際強いじゃん。鬼が酒好きで酒に強いのは当然。でも旦那は鬼じゃない。だのに鬼と呑み比べようってんだから」
「呑み比べてなんていないよ。嗜んでいるだ」
「そういうことにしといてやるよ。心ん中は楽しくて仕方がないくせにさ」
そうだ。楽しい事は楽しい。それが事実だ。
ガブガブ呑んで多いに酔い、多いに騒ぐというのも酒の楽しみ方の一つだろう。
でも僕は別の楽しみ方をしたい。心を許せる友人と共に静かに杯を傾けるという楽しみ方を。
僕は心の底から沸き上がって来る感情に昂りながら、まさに今勇儀に注いでもらった酒を勢いをつけてぐいっと飲み干した。
────────────────────遠くで雀達がやかましい。
あぁもう、チュンチュンうるさい。少しは大人しくならないのか、君らは。
頭の中がガンガン響き、僕は顔をしかめながらもぞもぞ動き、薄目を開けた。
ぼやける視界の中で分ったのは、僕はどうやらどこかで横になっているようだということぐらいだ。
はて、いったいなにをしていたんだっけな。なんで僕はだらしなく寝っ転がっているんだ?
状況を確認する為に首をわずかに動かして辺りの景色に目をやる。くそ、眼鏡はどこだ、眼鏡は。
裸のままの眼をよ~く凝らして、そしてようやくそこが自室で、自分が布団で寝ている事に気づいた。
「んん…?」
「目が覚めたかい?もうとっくに朝だよ」
かすかなうめき声をあげると、不意に声がかかった。
仰向けから腹這いに体を捻って声がした方向を力なく振り返ってみると、そこには勇儀がいた。
壁に背をもたれて腕を組んでいた勇儀は、僕が目覚めたのを確認するとひょいと壁から背をあげて己の角をざらりと撫でた。
「待ってな。水を汲んできてやる」
そう言って勇儀は部屋の向こうへ姿を消した。
僕はそれをぼんやりと見送っていたが、はたと気づいた。どうして彼女が僕の家にいるのだろう。
ええっと昨日はなにをしていたんだっけ。僕は思い出そうとしたが、記憶にもやがかかったように中々浮かんで来なかった。
「ほら飲みな。二日酔いのボウヤ」
勇儀が戻って来て僕の方へ水を差し出した。
僕はそろそろと起き上がり、勇儀からそれを受け取ってゆっくり飲んだ。
ひんやりとした水のおかげで僕の頭も幾分冴えてきたような気がする。そうだ、僕は確か昨日…
「……ああ、」
思い出した。勇儀と酒を呑んでいたんだっけ。
なるほど、二日酔いか。確かに頭のなかもえらいこっちゃだ。どうやら飲み過ぎてしまったらしい。
まったく酒はいつの日も恐ろしいものだな。たまにこういうことがあるから困ってしまう。
それでもやめられない。わかっちゃいるけどやめられない。僕はいつか自分がこれで身を滅ぼすという可能性を否定出来なかった。
しかし待てよ。酒を呑んでいたのは楠の木の下のはずだ。
どうして僕は今ここで自分の家で横になっているのだろう。それに勇儀が僕の家にいるのも謎だ。
「この薄情者が。旦那が潰れちまったんで私がわざわざここまで運んでやったんじゃないか」
「…そうだったのか。しかしどうやって入った?まさか窓をぶち破って」
「んなことするかい。旦那の懐を探らせてもらったのさ」
言われて自分の懐をまさぐる。確かに、昨日自分がここに仕舞ったはずの鍵は影も形も無かった。
ということは、勇儀が僕の家まで僕を運んで来てここへ寝かしてくれたという事か。
布団も勇儀が引いてくれたのか?まったく情けない男だな、僕は。酔いつぶれて女性の世話になってしまうとは。
勇儀がひょいと何かをこちらへ投げて寄越した。チャリンと音を立てたそれをよく見てみると、まさしくそれが僕の家の鍵だった。
「これに懲りたら、少しは酒の量を控えるんだね」
「…君にいわれたかないよ」
「私は鬼だ。旦那は違う。それだけの話さ」
「よく僕の家がわかったな。誰に聞いたんだ」
僕はまた別の疑問を勇儀にぶつけた。
すると勇儀はつまらなそうに鼻を鳴らして答えた。
「…あっきれた男だよ。アンタが教えてくれたんじゃないか」
「僕が?」
「そうさ。前に旦那がたいそう酔った時に私を家まで引っ張ってきて、自分の店の事を得意そうにペラペラ私に解説したのを忘れたのかい?」
「…………」
まったく覚えていない。というか、なにをしとるんだ僕。
実際僕はこの香霖堂のことを誇りに思ってるし、広めたいとも思っているが…そんなことをしでかすとは。
酔った勢いで夜中に自宅まで女性を連れ込むとは、ダメじゃないか。なんというかもうダメダメじゃないか。
「…あの時はハズみで何か致されるんじゃないかと、ガラにもなくどぎまぎしちまったもんだ」
腕を組みつつそっぽを向いて少し怒ったような口調で続ける勇儀に僕は頭を下げて謝るしか無かった。
「いや、ホントに申し訳ない。済まない事をした。謝るよ」
「…しかも旦那は途中で落ちちまうし…とんだお預けだよ…」
「なんて?」
「あーあーなんでもないよ。いいから旦那は寝てな、この」
小声で聞き取れなかった言葉を聞き直したかったが、勇儀が拗ねたようにそう言い張るので僕は大人しく布団の中へ戻ることにした。
空になったコップを脇へどけて布団を被りつつ僕は勇儀に話しかける。
「今回の事といい、君には迷惑をかけてしまったね。すまない。それと僕を運んでくれてありがとう」
「いいさ。私と旦那の仲だ」
「恩にきる。いずれこの埋め合わせは必ずするから」
「はいはい、楽しみにしてるよ」
言って勇儀は再び部屋の外へ出て行った。僕は腕を頭の後ろで組んで天井を見上げる。
昨日の顛末を思い返してみようとしたが、どうしても記憶は途中で途切れて全てを拾い上げる事は出来なかった。
潰れる程飲んだのは随分と久しぶりな気がするな。
勇儀の言う通り、これからはもうちょっと気をつけて呑む事にするか……。
と、部屋の向こうから勇儀が戻って来た。僕はそれを横目でチラリと眺める。
彼女は手に持っていた器をそっと僕の枕元辺りに置くと、胡座を組んで座り込んだ。
「食いな。少しは楽になるから」
「ん、これは…」
入ったばかりの布団から再び起き出して勇儀が置いたものを見る。
それは味噌汁だった。ホカホカと湯気を立てている。中身はどうやらシジミのようだ。
そういえば、シジミの味噌汁には二日酔いを軽減する効果があるというな。勇儀が作ってくれたのか。
「材料は旦那の台所を漁らせてもらったよ。悪く思わないでくれ」
「まさか。なにからなにまで有り難い限りだ」
僕は勇儀が一緒に持って来た箸を手に取り、勇儀が作ったシジミの味噌汁を口にした。
ゆっくりと味噌汁をすすって口の中に流し込む。ああ、実に美味い。五臓六腑に染み渡るとはこの事だ。
二日酔いの僕にはこの味噌汁はとんでもないごちそうのように思えた。
「君は味噌汁を作るのが上手だね」
「なんなら旦那のために毎朝作ってやろうか?」
僕の褒め言葉に、からかうような口調で勇儀が応じた。
味噌汁を食べながら勇儀の方を見る。彼女は布団の上でシジミの味噌汁を飲む僕を楽しげに笑っていた。
僕は勇儀の言葉を脳内へ通す。ふむ。毎朝勇儀の味噌汁が飲めるというのか。
「……ああ、それも良いかもしれない」
「うぇ!?」
予想外の返答だったのか、僕の発言に勇儀がいつになく頓狂な声を上げた。
驚いたような顔をして僕を見つめる勇儀は、いつもの彼女らしくなく微妙に顔を朱に染めていた。
僕は流し目をチラリと彼女の方にくれてやると一気に半分程味噌汁を飲み干し、ニヤッと口元を歪ませた。
「冗談さ」
「…!っこの、バカヤロウが!」
勇儀は僕の言葉により顔を赤面させ、腕を組んでぷいっと僕に背を向けて壁の方へ向き直ってしまった。
やれやれ。怒らせてしまったかな。僕は少しだけ反省しつつ残った味噌汁を食べすすめた。
シジミを箸でつまみ上げて口の中に放り込む。シジミは栄養分が豊富で、実に味わい深くていい食べ物だ。
「…旦那よ」
「なんだい」
勇儀が不意にポツリと呟いたので、僕は味噌汁を飲みながらもそちらの方を向いて応じた。
彼女は僕に背を見せたままぼそぼそ喋り続けた。
「その…月が綺麗だな」
「…?ここには月なんて」
「わたしはね、旦那」
やや力強い言葉に僕の言葉は遮られた。勇儀は壁の方を向いて僕に表情を見せてくれない。
彼女がどんな顔で喋っているのかは正確には分からなかったが、なんだか少し分かる気がした。
背を向けた彼女の耳が、普段と比べて数段赤くなっている。
「旦那と一緒に見る月は、いつだって綺麗に思えるよ」
それきり言って勇儀は黙り込んでしまった。
勇儀の言った事を僕はじっくりと考える。そして、昨日僕が勇儀に語ったことを思い出した。
異性に想いを伝える時、なんというのか。
そう広いとは言えない僕の部屋の中に沈黙が満ちる。
僕は勇儀の背中を長い事見つめていたが、やがてもうそれほど残っていない味噌汁を一気に飲み干した。
「味噌汁、ごちそうさま。美味しかったよ」
「ん」
勇儀に礼を言うと、勇儀は小さく返事をしただけでまた黙った。
相変わらずその背は僕に向いたままだ。
僕は金色の長い髪がかかったその背中に向かって言葉を発した。
「勇儀」
「なにさ」
気の無いような言葉を返す勇儀に僕は続けた。
「僕もだ。君とみる月はどうにも綺麗に見えるね」
「……ふん。月を見てもいないのにわかるもんか」
「わかるさ。君が傍にいてくれるなら」
「けっ。どうせまた冗談だろう」
「まさか。これは本心だよ」
「知らないのか?私は鬼だよ。鬼は嘘を嫌うし、嘘をつく奴も嫌いなんだ」
「それは結構。なら嘘をついてない僕は鬼の君に好かれるという事だな。大満足だ」
「……たいした男だよ、旦那は」
勇儀はぶっきらぼうにそう言うとこちらの方を向き、胡座を解いて僕の方へ近寄って来た。
そして僕の片腕に手を回してぎゅっと掴み、自分の体の方へ引き寄せる。
勇儀の少しだけ上がった体温が僕の腕を通して伝わって来て、なんだか少し気恥ずかしい。
勇儀は僕の肩に自分の頭を預けると、上目遣いで僕を見つめてはにかんだように歯を見せて笑った。
「ありがとな、旦那。嬉しいよ」
「いいさ。僕と君の仲だ」
「……へへへ」
「…でも出来ればこの体勢は勘弁してくれ」
「なんでさ。照れる事ないだろ」
「いや、角が怖い。もう少しで刺さる」
「なんと!?」
勇儀が慌てたように僕の体からパッと離れる。
その拍子に勇儀の鬼の象徴たる見事な角が僕の喉元を掠めていった。僕はヒュウと口を鳴らす。
危ない危ない。もうすこしでケガするところだった。あれが突き刺さって御陀仏というのはなんとも避けたい事だ。
僕と少し距離をとった勇儀は角を撫でつつ、膨れっ面でぶつくさ文句をいった。
「ちぇっ、せっかくいいムードだったのに」
「まあまあ。そんなに拗ねなくてもいいじゃないか」
「やれやれ。私たちにゃこの手のモンは似合わないってか。じゃ、やっぱりこれしかないかねぇ」
言いつつ勇儀は腰に付けていたものを取り外し、デンと音を立てて僕と勇儀の間に置いた。
なめらかな曲線を描いたその容れ物は……っておい。
「……鬼の瓢箪」
「そうさ」
「呑めと?」
「いいじゃないか。私たちにはコレが一番似合いだ。そうだろ?」
「朝っぱらから呑めるものか。それに僕は二日酔いなんだが」
「うるさいうるさい。迎え酒ってぇやつだ。いいから呑みなよ、ほらほら」
どこから取り出したのか、勇儀が小さな杯になみなみと酒を注いで僕の方へ差し出した。
出されてしまったものは呑むしかない。それが酒呑みのマナーというものだ。
僕はこぼさないように気をつけながらその杯を手に取り、勇儀に尋ねた。
「今朝はなにに捧げるんだい」
「そんなの決まってるじゃないか。私たちの、末永く綺麗な月に向かってだよ」
勇儀はいつもと違う、僕と同じサイズの杯に酒を注ぎながら答えた。
「なるほどね」
納得したように僕は呟く。
今、ここに月は出ていない。故に月に酒を捧げるのは不可能だ。
しかし今は不思議とそれが出来るような気がするし、そうするのが一番なような気がした。
勇儀がいれば、いつだって月は綺麗なのだから。
勇儀が酒を注ぎ終わったのを見計らって僕は唱えた。
「それじゃ、僕らの綺麗な月に」
「ああ!」
僕と勇儀は二人揃って杯を高く掲げ、二つを合わせて小さく澄んだ音を奏でた。
その時の表情はきっと、二人とも良い笑顔だったことだろう。
酒を共に嗜む友が居るというのは良い事だ。
今までは月に一度きりであったが、これから先は二人の酒宴の頻度はさらに上がる事と思う。
僕らの心の中にはいつまでもずっと綺麗な月が浮かんでいるだろう。目に見えずとも、僕にはみえる。恐らく、勇儀にも。
空にあるあの小さな衛星も、やがては毎日のように綺麗に輝くようになるに違いない。
そしてその月を眺めながら勇儀と呑む月見の酒も、きっと格別に美味しいに違いないのだ。
僕は杯に口をつけると一息に飲み干して、勇儀と同時に杯を床に勢いよくドンと置いた。
今宵も実に綺麗な月と、実に美味い酒だった。
ちなみに、案の定僕が迎え酒に失敗して撃沈し、翌日もまた勇儀手製の味噌汁を食べる事になったことを付け加えておく。
酔いはひどいし気分は最悪だったが、勇儀の味噌汁は美味かったし彼女もどこか嬉しそうにしていたので良しとしよう。
友人のような、恋人のような。ちょっと大人な雰囲気が出てますね。
>いつか乙女全開な勇儀も書いてみたい
楽しみに待っています。
それはそれとして大人の雰囲気をたっぷり堪能させていただきました。
参考にさせていただきます
こういうの大好き
毎日味噌汁を作ってくれ
いいですなあ・・・