重厚感漂う大きなドアを押してみれば、重々しい音を響かせながら室内があらわになる。
天井まで届くかのようにそびえ立つ本棚の群れも、図書館特有の鼻をつく匂いも、今では慣れたものだ。
紅魔館が誇る地下の図書室、熟練の魔女が居座る知識の森は広く大きく、あちこちで妖精メイド達が忙しそうに飛び回っている。
時間にすればほぼ真夜中、俗にいう丑三つ時という時間帯。
私のような吸血鬼にしてみれば当たり前の時間ではあるけれど、彼女たち妖精はそうもいかない。
中には夜型の妖精もいるかもしれないけれど、そんなのはごく少数だ。
そう言う意味では、いまここで働いている妖精達は、そんなごく少数の集まりなのかもしれなかった。
「おっとぉ、これはこれは、誰かと思えば妹様ではありませぬかぁ!」
「あら、お仕事ご苦労様。ねぇ、小悪魔はいる?」
「司書長なら専用の仕事机にいらっしゃるかと。ではぁっ! 小生はこれにて!! サァラバッ!!」
私の質問に答えてくれた妖精メイドは「ヌゥハァッハハハハハハハハァッ!!」と高笑いを残して仕事に戻っていく。
彼女は小悪魔率いる司書隊の中でも一際個性の濃い妖精メイド「すやこ」ちゃん。
その愛くるしい外見とは裏腹に声は致命的なほどに低く、ここに来た頃は同僚から距離を置かれていたらしいのだけれど、小悪魔の教育もあってかあら不思議、自然と人気者となり今ではすっかりご覧の有様である。
……なぜあぁなったし。
とまぁ、彼女の話はさて置いてである。
先ほどのあの子の言葉が確かであるならば、小悪魔は図書室の端にある仕事机にいるらしい。
ここからだと少々距離があるけれど、まぁ吸血鬼の私には疲れるような距離でもない。
このフランドール・スカーレット、あまり外に出歩きこそしないが、そんじょそこらの生き物よりは体力はあるつもりなのである。
そんなわけでのんびりと足を進めながら、私は歌を口ずさみながら図書室を歩く。
ただでさえ広い図書室に、天井付近まである本棚の森を歩くのは、ちょっとした冒険のようできらいではない。
この本棚が森だとするならば、そこらじゅうを飛び回る妖精メイド達はさしずめ鳥といったところか。
そんなことを考えているうちに、どうやら目的の場所にまで近づいてきていたらしい。
突き当たりを曲がってみれば、隅に備え付けられた大きな机と、その上の未整理らしい本の山。
それに向かい合うように、小悪魔は椅子に座って黙々と作業に向かっているように見えるが――あいにくとここからだと距離があって正確にはわからない。
邪魔にならないように、音をなるべく立てぬように足を運びながら、ようやく私は小悪魔のすぐそばまで歩み寄り。
「ねぇ、小悪魔、ちょっと頼みたいことが――」
紡ごうとした言葉が、目の当たりにした光景にとけて消える。
覗き込んだ私が見たものは、机に突っ伏すように眠りに落ちている小悪魔の姿だった。
机の上には未だ整理の終わっていない本や、修復途中の本など、明らかに作業の途中で眠ってしまったのが見て取れる。
正直、彼女が仕事中に眠るなんて意外だ。
確かに、彼女はイタズラ好きでトラブルメーカーと呼んで差し支えのないような奴ではあるけれど、それと同時に真面目な性格な奴でもある。
仕事をサボったりなんかしないし、相談に乗れば口ではふざけてるように見えてちゃんと真剣になって考えてくれる。
だから、いまここで彼女が仕事中に寝てるのが意外で……、ちょっとだけ、不意をうたれたような気分になったのだ。
起きる気配もなく、穏やかな寝息を立てる小悪魔の姿は、普段のイタズラ小僧のような笑みを浮かべる彼女とはまた違って見えて、なんとなく可愛らしい。
ためしにほっぺたをつついてみれば、ぷにぷにと柔らかい感触が返ってきて、なんだか胸の内があったかくなるような感じがした。
いつまでもこうして眺めていたいような、もっとイタズラしてやりたいような、奇妙な気持ちはなんだったのか。
ふと、自分が柔らかい笑みを浮かべているのに気がついて、それもなんだかおかしかった。
「まったく、こんなところで寝てると、パチュリーにチクっちゃうよー?」
「……私が何?」
「うひゃぅっ!!? ぱ、パッチェさん!!?」
なんとなく冗談でつぶやいてみた瞬間、まさかのご本人が真後ろにいて思わず驚きをあらわにしてしまう私。
だってしょうがないじゃない。パチュリーのやつ、気配もなくいきなり真後ろにいるんだもの!
あたふたとする私を一瞥したあと、パチュリーはどうやら眠りこけている小悪魔に気づいたらしく、不機嫌そうに睨みつけている……ように見える。
だ、ダメだ。こいつ普段からジト目だから睨んでるのか素なのかわかんない!?
でも、まずい。何がまずいって、とにかくまずい!
パチュリーはなんだかんだで厳しいというかスパルタというか、こんな状態の小悪魔を見て何を思うか想像がつかない。
ここは、なんとかしてフォローしないと。……パチュリーに口で勝てる気がしないけど。
「えぇっとねパチュリー! 小悪魔のこと責めないであげてね! これは色々とワケが――」
「……はぁ」
うっわ、露骨にため息つきやがったよこの魔女!?
しかもなんなの、その「まったくこの子は……」みたいな哀れみ含んだ目!? 地味に傷つくんですけどッ!!?
そんな私のちょっぴり傷心ハートもなんのその、こっちの思いなぞ知るかと言わんばかりの表情で、パチュリーはあいも変わらずどこか眠そうな言葉を紡いでいく。
「そんなにその子のフォローしなくても大丈夫よ妹様。そろそろ、その子に休ませるつもりだったし」
「え、そうなの? パチュリーにしては珍しいね。……まさか、リストラ!?」
「……妹様が私のことをどう見ているのか問いただしたいところだけど、それは違うわ。だってその子、もう三日間も働きっぱなしですもの」
「み、三日!?」
そ、それは確かに、働きすぎというかなんというか。
なんだかんだと真面目な彼女ならありえそうな話だけれど――だからって、三日も働きづくめなのは度が過ぎているのではなかろうか。
どうりでここ最近、小悪魔を図書館以外で見ないはずだ。
パチュリーの言葉から察するに、どうやらずっとここで缶詰状態だったのではないだろうか?
あらためて小悪魔の方に視線を向ければ、眠気覚ましであろうコーヒーが目に入り、それもすっかりと冷たくなってしまっている。
さすがに食事ぐらいはとってると思いたいけれど……、いずれにしても、このまま働きずくめじゃ小悪魔が体を壊しちゃうよ。
「そういうわけだから、今は小悪魔のことはそっとしておいてあげて」
僅かに、ほんの少しだけではあったけれど、身内にしか気づかないような小さな笑みを浮かべて、パチュリーは眠りに落ちている小悪魔の頭を撫でた。
普段、滅多に見ることのできないパチュリーの優しそうな、けどどこかぎこちない笑顔は。
それだけで、この二人の関係がただの主従の関係には収まらないことを悟ることができた。
それはきっと、家族に近い感情なのだろうと思う。その笑みは、そのぎこちなさは、お姉様が私に向ける表情と、どこかよく似ていたような気がして。
「うん、わかったわ」
「そう、ありがとう妹様」
どこか穏やかな声色で、パチュリーはそう礼を紡ぐと、ふわりと魔術で編み上げた毛布を小悪魔にかけてやった。
さすがは紅魔館の頭脳なんて言われる魔女、このぐらいのことは朝飯前らしい。
もう一度、小悪魔の頭を撫でたパチュリーは「おやすみなさい」と優しく言葉を投げかけて、本棚の森の奥に消えていった。
きっと、いつもの大きな机に戻ったのだろう。多少の仕事の滞りは、珍しくも多めに見るつもりでいるらしかった。
……さて、とうの私はというといきなり暇になってしまった。
小悪魔に本の場所を聞きたかったのだけれど、今この状態ではそういうわけにもいかない。
もとより大した用事でもないし、暇つぶしにここに訪れたようなものだからそれはいい。
そんなわけで、暇を持て余していた私の目に映ったのは、作業机に積み上げられた未整理の本の数々。
「……うん、たまにはそれもいいかしら。働かざるもの食うべからずって、確かこの国のことわざだったと思うし」
どうせ、このあと何をするでもなく暇なのだ。
だったら、たまには働いてみるというのも悪くないかもしれない。
そうと決まれば話は早い。もうひとつの椅子に腰掛けて、私は積み上げられた本の中から一つを手にとった。
本の修復はさすがに私には出来ないけれど、本を種類別に分けるぐらいはできる。
なんだかんだで小悪魔にはお世話になっているのだし、少しぐらい、彼女の仕事の負担を減らすのも悪くないだろう。
それに何より。
「小悪魔が起きたら、びっくりするんだろうなぁ」
クスクスと笑って、その様を想像するだけで楽しくなってくる。
普段から人をおちょくったり、イタズラしたりとトラブルメーカーな小憎らしい彼女だけれど、ふとした不意打ちなんかに弱いことを、私はよく知っている。
そんな時の彼女は普段の飄々とした、雲のようなつかみどころのない様子とは違って、途端に可愛らしい表情を見せるのだ。
顔を真っ赤にしながらワタワタと慌てる様を見るのは、個人的にはすごく楽しみで、私は好き。
我ながら、小悪魔のこと言えないなぁ。
慌てふためく彼女の顔が好きだなんて、我ながらゆがんでる。
「早く起きないと、私が小悪魔の仕事全部とっちゃうよー?」
冗談交じりにそんな言葉を紡ぎながら、小悪魔の真っ赤な長い髪を梳くように撫でれば「むにゃぁ」なんて可愛らしい寝言が耳に届く。
童顔ではあるけれど、大きな胸やくびれた腰、私にとっては羨ましい大人の女性の魅力に溢れた体つきとは裏腹に、性格はどこか子供っぽくていたずら好きな彼女。
そんなアンバランスな魅力がその寝言に表れていたような気がして、私は思わず笑みをこぼしてしまうのだった。
▼
そんなわけで始めた本の仕分け作業だったのだけれど、これが思いのほか大変だ。
ここに流れてくる本の数は尋常じゃないし、その種類もまた豊富だ。
魔道書はもちろんとして、医学書や歴史書、あるいは小説や図鑑、はたまたは漫画まで。
一目見てそうであるとわかる本の内容ならいいのだけれど、中にはタイトルでは判断のつかないものもあるわけで。
そういったものはいちいち中身を確認しなければいけないし、修復が必要だと判断されたものはまた別に分けないといけない。
そしてなにより、この作業を黙々と続けていると単調な作業の繰り返しとなってしまい気が滅入ってくるのだ。
小悪魔はこれを含め、さらに本の修復や本の場所の案内、記憶が確かならパチュリーに言われた本を持ってきたり、紅茶やお菓子も作っていたはずだ。
紅茶やお菓子は小悪魔の趣味である可能性が高いけれど……、この子、いつか過労死で死んでしまうんじゃなかろうか?
「というか、そもそも働きすぎなんだよねぇ。小悪魔にしろ美鈴にしろ、咲夜にしてもさ」
「あら、それは心外ですわ。私たちは楽しくてやっているのですから。あと、美鈴はそこに入れちゃいけないと思います」
「およ? 咲夜いたんだ」
「えぇ、つい先ほど来たばかりですが。妹様、紅茶とケーキでもどうぞ」
「あら、ありがとう。気が効くわね」
んーっと固まった背筋を伸ばしてから、咲夜から紅茶とケーキを受け取った。
彼女のことだから、私がこうしているのを見かけて、気をきかせておやつを持ってきてくれたんだろう。
いろいろと気の回る、彼女らしい心遣いである。ちょっと天然なところがあるのが玉に瑕だけどね。
「パチュリー様からの伝言ですわ。『ほどほどにしておきなさい』とのことです」
「ん、わかった。ありがとうね、咲夜」
「いえいえ。それでは、私はこれで」
そうやって一礼をした咲夜の姿は、瞬きのあとにはキレイさっぱり消えてしまっていた。
おそらくではあるのだけれど、時間を止めてまた次の仕事場に向かったんだろう。
少し甘めの紅茶を口にしながら「まったく」と呆れたように笑みを一つ。
なにが「心外ですわ」なのやら。
時間を止めないと仕事が追いつかない状態の奴が、何を思ってそんな言葉を口にするのか。
この紅茶を淹れる時間も、ケーキを作る時間も、本当ならありはしないだろうに。
咲夜もまた、小悪魔みたいに仕事熱心なものだから、ちゃんと休憩をとっているといいのだけれど。
まったく、我が家のワーカーホリックだらけな現状は、少々考え直さなければいけないのかもしれない。
「まぁ、なにはともあれ」
ケーキの最後の一口を食べ終えて、私は小さく腕を回す。
いつもならもう少し堪能する紅茶を飲み干して、再び作業机に向き直る。
とにもかくにも、私のお仕事はまだ終わってはいない。休憩時間はもう終わりだ。
自分が勝手に始めたことではあるけれど、きついから、気が滅入るからって、自分から始めたことを途中で放っておくなんてしたくない。
それに何より、これで少しでも小悪魔が楽をできるなら――それは私にとっても、嬉しいことだから。
「さぁって、がんばるぞー!」
気合を入れなおすように、小悪魔を起こさぬように小声でつぶやきながら、私は再び作業を再開する。
本当は、私はこんなことをするべきではないのかもしれないけれど。
それでも、たまには彼女の役に立つことも悪くないだろうと、そう思っているから。
▼
あれから、どれくらいの時間が過ぎただろうか。
咲夜が定期的に様子を見に来てくれたり、パチュリーがからかいに来たり、お姉様のセクハラをラリアットで返り討ちにしたり。
そんなことがありながら黙々と仕事を続け、そろそろ朝日が顔を出そうかという時間帯。
「終わったァ~!」
私の初めてのお仕事は、ようやく一通りの作業を終了したのである。
ずっと同じ姿勢だったためか肩が懲り、首を回せばきっとすごい音が鳴ることは予想するに難くない。
仕分けの終わった本の山を、飛び回る妖精たちに任せたあと、私は「んーっ!」と背筋を伸ばす。
仕事をしている間はめんどくさいなぁなんて思いもしたが、この身に感じる充実感を考えればそう悪いものではないのかもしれない。
そんなことを考えていると、ふと感じるもぞもぞと何かが動く気配。
どうやら、働きすぎのお姫様は今ごろお目覚めらしい。
無防備に大きなあくびをこぼし、眠そうな目をこすっていた彼女は、残っていたはずの本がなくなっていることに気づいたようで、不思議そうに首をかしげていたが。
「……はへ?」
「あら、おはよう小悪魔」
左右にさまよっていた視線が、私の姿を見つけたとたんピタッと止まった。
カチカチカチと、時計の音がどこか遠い。
まだ脳の処理が追いついていないのか、私と彼女、視線が絡み合ったままたっぷり十秒ほど。
「い、いいいいいいいいいい妹さまぁっ!!? ぴゃうっ!!?」
ようやく意識がはっきりしたらしい小悪魔は、予想通り慌てふためき、後退しようとしたらしいが椅子が邪魔でそれができず、結果的に椅子ごと後ろに倒れ込む結果となってしまった。
ここまで聞こえる「ゴチンッ!」という盛大な音と共に奇っ怪な悲鳴を上げ、彼女はゴロゴロと床でのたうちまわった。
予想通りの反応にしてやったりな笑みを浮かべてから、彼女のそのおもしろおかしい様子を観察することのなんと楽しいことか。
普段から、彼女のイタズラに振り回されることが多いのである。このくらいはバチが当たらないだろう。
「へぅ~……、妹様ぁ、いつからそこにいたんですかぁ~?」
「さぁ、いつからかしらね。あなたの可愛らしい寝顔、堪能させてもらったわ」
「うぅぅ~」
女の子座りでこちらを上目遣いで見上げる彼女の顔には、羞恥やらで真っ赤に染まっており、それを隠そうと手で顔を被ってうつむいてしまった。
うん、普段からこんなに可愛い反応をしてくれたら、私の評価もまた別のものになるっていうのに。
いやまぁ、イタズラしない小悪魔っていうのも、なんだか味気なくてそれはそれでつまらないというか……。
たまにしかこういった表情を見れないから、なんとなく特をした気分になれるのだろう。
……うん、いろいろ気苦労も多いけど、小悪魔はいつもどおりが一番いいや。
「あのぉ……妹様、もしかして本の仕分けは妹様が?」
「えぇ、私がやってあげたわよ。ていうか、いつもあんなに量があるの?」
「いいえ、今回は特別多くて……。あともう少し、あともう少しって思ってたら、いつの間にか」
あぁ、なるほど。今回は特に忙しいってだけだったのか。
毎日毎日あの量だったら、さすがの私も小悪魔の仕事配分について考えたほうがいいんじゃないかと思ったんだけど、そういうことなら仕方ないのかな?
いやでも、三日も休まずに働きづくめなんて明らかに度が過ぎてるけど。
小さく、呆れたようにため息をつく。
体を壊さなかっただけまだいいとはいえ、こっちの身にもなって欲しい。
血の繋がってるお姉さまはもちろん、血の繋がっていないパチュリーや咲夜、美鈴もそうだけど、小悪魔のことは家族みたいなものだって、そう思ってるんだ。
だから、……心配だってする。本人の前では、恥ずかしいから絶対に言ってあげないけどさ。
「すみません、妹様。よかれと思って仕事に没頭していたのですが、まさか妹様の手を煩わせることになるなんて……」
「気にすることないよ。私が好きでやったことだし、それに私には簡単なことしかできなかったからさ」
「そんなことはありません、本当に助かりました。……ありがとうございます、妹様」
恥ずかしそうに頬を朱色に染めながらも、それでもまっすぐな瞳でお礼を紡ぐ小悪魔に、今度は私のほうが恥ずかしくなってしまってそっぽをむいてしまう。
やっぱり、小悪魔はずるい。
そんなにまっすぐな瞳でお礼を言われたら、慌てふためく姿を楽しもうと思っていた自分が、卑怯者みたいじゃないか。
お互い、気恥しさで次の言葉が紡げないまま時間が過ぎていく。
私は椅子に座ったままそっぽをむいて。
小悪魔は床に座り込んだまま、恥ずかしそうに頬に手を当ててうつむいている。
お互い、顔が真っ赤なのは言うまでもなく、何を言えばいいのかわからない時間が刻々と過ぎていく。
やがて、そんな状況を打破するかのように、先に動いたのは小悪魔だった。
おもむろに立ち上がった彼女は、明らかな挙動不審な様子でじりじりと後退していく。
「い、妹様! お礼といってはなんですが、取って置きの紅茶をご用意いたしますので、ちょっとだけお待ちください!」
「う、うん。ありがと、小悪魔」
お互い、微妙に不自然な言葉を交わしながら、やっぱり顔は赤いままで。
逃げるように走り去っていく小悪魔の後ろ姿を見つめながら、そこから視線が外せないでいる。
彼女の背中が遠く、小さく小さくなっていく。
ようやく彼女の姿が見えなくなったところで、私は気分を落ち着かせるように一息ついた。
うん、あんなにまっすぐなお礼は反則だと思うんだ。ひねくれ者なくせに、こういう時だけ素直なんだから。
でも、あのお礼の言葉一つだけで、仕事の疲れが吹き飛ぶように感じる、現金な自分がいることにも、心のどこかで気がついていた。
真っ赤になった顔を隠すように机に突っ伏して、小さくため息をひとつこぼす。
きっと今頃、私に見えないところで彼女も気分を落ち着かせていることだろう。
だからまだ、彼女がここに戻ってくるのはもう少し先。それまでには――うん、いつもどおりの私達に戻っていられるとは思うから。
ホッとしたのが原因なのか、それとも単純に仕事の疲れか、急激に睡魔が体を蝕むような気がする。
ただでさえ、吸血鬼にとってはもうそろそろ眠る時間なのだ。眠気だって、多分しょうがない。
だから――彼女が戻ってくるまでの間、少しだけ……ほんの少しだけ、眠っていたって悪くはないよね?
誰に言い訳しているのかも曖昧なまま、うつらうつらと意識が朦朧としていく。
やがて程なくして、意識が心地よい波に揺られるような感覚を抱いたまま、私の意識は眠りの淵に落ちていった。
▼
――エピローグ――
パタパタパタと、軽やかな足取りが静かな図書室に響き渡る。
トレイに紅茶とケーキを載せた赤い髪の少女は、先ほどの気恥しさなど微塵も見せることもなく、もとの場所に戻ってきた。
にこやかな笑みは童女そのもので、女性らしい体つきをしたこの少女には、その表情はある種のギャップを感じさせるものだっただろう。
「妹様ー! おっ待たせしましたぁ!! 取って置きの――……およ?」
もうすっかりいつもどおりの振る舞いを取り戻した彼女が、ノリノリで言葉を紡ごうとして……やがて、その様子を目の当たりにして言葉を噤む。
自分の仕事を手伝ってくれた吸血鬼の少女は、作業机で眠りに落ちている。
初めての仕事で疲れてしまったのだろう。それを理解した小悪魔は、先ほどまでの童女のような笑顔を引っ込め、穏やかな笑みを浮かべてみせた。
慈しむような、優しそうな笑顔のまま、少女を起こさぬようにそっと歩み寄る。
トレイを作業机の空いているスペースにおき、眠っている少女の隣の席に腰掛けた。
そっと、髪を梳くように、小悪魔は少女の金髪を撫でる。
サラサラとした心地よい感触が指先から伝わり、すやすやと安らかな寝息が耳に心地よい。
「ありがとうございます、妹様」
自分でも驚くような穏やかな声だったと、小悪魔は思う。
己よりもはるかに強力で、人々から恐れられる少女の寝顔を覗き込みながら、いつまでもいつまでも髪を撫でていた。
まったく、不思議なものだと、小悪魔は思う。
こうやってこの少女とこうしていることも、彼女に仕事を手伝ってもらうことも、ここに来てすぐの頃は想像すらしていなかったけれど。
でも、今はこうなってよかったって、心からそう思える。
少女の髪をかき上げ、あらわになった額にそっとくちづけを。
少女が眠ってしまったことで、先延ばしになってしまったお礼の代わりとでも言うかのように。
くちづけをしたあとの小悪魔はまた顔を真っ赤にして、「てへへ」と恥ずかしそうに笑い。
「――大好きです」
嘘偽りのない本心を、どこか誇らしげに言葉にするのだった。
天井まで届くかのようにそびえ立つ本棚の群れも、図書館特有の鼻をつく匂いも、今では慣れたものだ。
紅魔館が誇る地下の図書室、熟練の魔女が居座る知識の森は広く大きく、あちこちで妖精メイド達が忙しそうに飛び回っている。
時間にすればほぼ真夜中、俗にいう丑三つ時という時間帯。
私のような吸血鬼にしてみれば当たり前の時間ではあるけれど、彼女たち妖精はそうもいかない。
中には夜型の妖精もいるかもしれないけれど、そんなのはごく少数だ。
そう言う意味では、いまここで働いている妖精達は、そんなごく少数の集まりなのかもしれなかった。
「おっとぉ、これはこれは、誰かと思えば妹様ではありませぬかぁ!」
「あら、お仕事ご苦労様。ねぇ、小悪魔はいる?」
「司書長なら専用の仕事机にいらっしゃるかと。ではぁっ! 小生はこれにて!! サァラバッ!!」
私の質問に答えてくれた妖精メイドは「ヌゥハァッハハハハハハハハァッ!!」と高笑いを残して仕事に戻っていく。
彼女は小悪魔率いる司書隊の中でも一際個性の濃い妖精メイド「すやこ」ちゃん。
その愛くるしい外見とは裏腹に声は致命的なほどに低く、ここに来た頃は同僚から距離を置かれていたらしいのだけれど、小悪魔の教育もあってかあら不思議、自然と人気者となり今ではすっかりご覧の有様である。
……なぜあぁなったし。
とまぁ、彼女の話はさて置いてである。
先ほどのあの子の言葉が確かであるならば、小悪魔は図書室の端にある仕事机にいるらしい。
ここからだと少々距離があるけれど、まぁ吸血鬼の私には疲れるような距離でもない。
このフランドール・スカーレット、あまり外に出歩きこそしないが、そんじょそこらの生き物よりは体力はあるつもりなのである。
そんなわけでのんびりと足を進めながら、私は歌を口ずさみながら図書室を歩く。
ただでさえ広い図書室に、天井付近まである本棚の森を歩くのは、ちょっとした冒険のようできらいではない。
この本棚が森だとするならば、そこらじゅうを飛び回る妖精メイド達はさしずめ鳥といったところか。
そんなことを考えているうちに、どうやら目的の場所にまで近づいてきていたらしい。
突き当たりを曲がってみれば、隅に備え付けられた大きな机と、その上の未整理らしい本の山。
それに向かい合うように、小悪魔は椅子に座って黙々と作業に向かっているように見えるが――あいにくとここからだと距離があって正確にはわからない。
邪魔にならないように、音をなるべく立てぬように足を運びながら、ようやく私は小悪魔のすぐそばまで歩み寄り。
「ねぇ、小悪魔、ちょっと頼みたいことが――」
紡ごうとした言葉が、目の当たりにした光景にとけて消える。
覗き込んだ私が見たものは、机に突っ伏すように眠りに落ちている小悪魔の姿だった。
机の上には未だ整理の終わっていない本や、修復途中の本など、明らかに作業の途中で眠ってしまったのが見て取れる。
正直、彼女が仕事中に眠るなんて意外だ。
確かに、彼女はイタズラ好きでトラブルメーカーと呼んで差し支えのないような奴ではあるけれど、それと同時に真面目な性格な奴でもある。
仕事をサボったりなんかしないし、相談に乗れば口ではふざけてるように見えてちゃんと真剣になって考えてくれる。
だから、いまここで彼女が仕事中に寝てるのが意外で……、ちょっとだけ、不意をうたれたような気分になったのだ。
起きる気配もなく、穏やかな寝息を立てる小悪魔の姿は、普段のイタズラ小僧のような笑みを浮かべる彼女とはまた違って見えて、なんとなく可愛らしい。
ためしにほっぺたをつついてみれば、ぷにぷにと柔らかい感触が返ってきて、なんだか胸の内があったかくなるような感じがした。
いつまでもこうして眺めていたいような、もっとイタズラしてやりたいような、奇妙な気持ちはなんだったのか。
ふと、自分が柔らかい笑みを浮かべているのに気がついて、それもなんだかおかしかった。
「まったく、こんなところで寝てると、パチュリーにチクっちゃうよー?」
「……私が何?」
「うひゃぅっ!!? ぱ、パッチェさん!!?」
なんとなく冗談でつぶやいてみた瞬間、まさかのご本人が真後ろにいて思わず驚きをあらわにしてしまう私。
だってしょうがないじゃない。パチュリーのやつ、気配もなくいきなり真後ろにいるんだもの!
あたふたとする私を一瞥したあと、パチュリーはどうやら眠りこけている小悪魔に気づいたらしく、不機嫌そうに睨みつけている……ように見える。
だ、ダメだ。こいつ普段からジト目だから睨んでるのか素なのかわかんない!?
でも、まずい。何がまずいって、とにかくまずい!
パチュリーはなんだかんだで厳しいというかスパルタというか、こんな状態の小悪魔を見て何を思うか想像がつかない。
ここは、なんとかしてフォローしないと。……パチュリーに口で勝てる気がしないけど。
「えぇっとねパチュリー! 小悪魔のこと責めないであげてね! これは色々とワケが――」
「……はぁ」
うっわ、露骨にため息つきやがったよこの魔女!?
しかもなんなの、その「まったくこの子は……」みたいな哀れみ含んだ目!? 地味に傷つくんですけどッ!!?
そんな私のちょっぴり傷心ハートもなんのその、こっちの思いなぞ知るかと言わんばかりの表情で、パチュリーはあいも変わらずどこか眠そうな言葉を紡いでいく。
「そんなにその子のフォローしなくても大丈夫よ妹様。そろそろ、その子に休ませるつもりだったし」
「え、そうなの? パチュリーにしては珍しいね。……まさか、リストラ!?」
「……妹様が私のことをどう見ているのか問いただしたいところだけど、それは違うわ。だってその子、もう三日間も働きっぱなしですもの」
「み、三日!?」
そ、それは確かに、働きすぎというかなんというか。
なんだかんだと真面目な彼女ならありえそうな話だけれど――だからって、三日も働きづくめなのは度が過ぎているのではなかろうか。
どうりでここ最近、小悪魔を図書館以外で見ないはずだ。
パチュリーの言葉から察するに、どうやらずっとここで缶詰状態だったのではないだろうか?
あらためて小悪魔の方に視線を向ければ、眠気覚ましであろうコーヒーが目に入り、それもすっかりと冷たくなってしまっている。
さすがに食事ぐらいはとってると思いたいけれど……、いずれにしても、このまま働きずくめじゃ小悪魔が体を壊しちゃうよ。
「そういうわけだから、今は小悪魔のことはそっとしておいてあげて」
僅かに、ほんの少しだけではあったけれど、身内にしか気づかないような小さな笑みを浮かべて、パチュリーは眠りに落ちている小悪魔の頭を撫でた。
普段、滅多に見ることのできないパチュリーの優しそうな、けどどこかぎこちない笑顔は。
それだけで、この二人の関係がただの主従の関係には収まらないことを悟ることができた。
それはきっと、家族に近い感情なのだろうと思う。その笑みは、そのぎこちなさは、お姉様が私に向ける表情と、どこかよく似ていたような気がして。
「うん、わかったわ」
「そう、ありがとう妹様」
どこか穏やかな声色で、パチュリーはそう礼を紡ぐと、ふわりと魔術で編み上げた毛布を小悪魔にかけてやった。
さすがは紅魔館の頭脳なんて言われる魔女、このぐらいのことは朝飯前らしい。
もう一度、小悪魔の頭を撫でたパチュリーは「おやすみなさい」と優しく言葉を投げかけて、本棚の森の奥に消えていった。
きっと、いつもの大きな机に戻ったのだろう。多少の仕事の滞りは、珍しくも多めに見るつもりでいるらしかった。
……さて、とうの私はというといきなり暇になってしまった。
小悪魔に本の場所を聞きたかったのだけれど、今この状態ではそういうわけにもいかない。
もとより大した用事でもないし、暇つぶしにここに訪れたようなものだからそれはいい。
そんなわけで、暇を持て余していた私の目に映ったのは、作業机に積み上げられた未整理の本の数々。
「……うん、たまにはそれもいいかしら。働かざるもの食うべからずって、確かこの国のことわざだったと思うし」
どうせ、このあと何をするでもなく暇なのだ。
だったら、たまには働いてみるというのも悪くないかもしれない。
そうと決まれば話は早い。もうひとつの椅子に腰掛けて、私は積み上げられた本の中から一つを手にとった。
本の修復はさすがに私には出来ないけれど、本を種類別に分けるぐらいはできる。
なんだかんだで小悪魔にはお世話になっているのだし、少しぐらい、彼女の仕事の負担を減らすのも悪くないだろう。
それに何より。
「小悪魔が起きたら、びっくりするんだろうなぁ」
クスクスと笑って、その様を想像するだけで楽しくなってくる。
普段から人をおちょくったり、イタズラしたりとトラブルメーカーな小憎らしい彼女だけれど、ふとした不意打ちなんかに弱いことを、私はよく知っている。
そんな時の彼女は普段の飄々とした、雲のようなつかみどころのない様子とは違って、途端に可愛らしい表情を見せるのだ。
顔を真っ赤にしながらワタワタと慌てる様を見るのは、個人的にはすごく楽しみで、私は好き。
我ながら、小悪魔のこと言えないなぁ。
慌てふためく彼女の顔が好きだなんて、我ながらゆがんでる。
「早く起きないと、私が小悪魔の仕事全部とっちゃうよー?」
冗談交じりにそんな言葉を紡ぎながら、小悪魔の真っ赤な長い髪を梳くように撫でれば「むにゃぁ」なんて可愛らしい寝言が耳に届く。
童顔ではあるけれど、大きな胸やくびれた腰、私にとっては羨ましい大人の女性の魅力に溢れた体つきとは裏腹に、性格はどこか子供っぽくていたずら好きな彼女。
そんなアンバランスな魅力がその寝言に表れていたような気がして、私は思わず笑みをこぼしてしまうのだった。
▼
そんなわけで始めた本の仕分け作業だったのだけれど、これが思いのほか大変だ。
ここに流れてくる本の数は尋常じゃないし、その種類もまた豊富だ。
魔道書はもちろんとして、医学書や歴史書、あるいは小説や図鑑、はたまたは漫画まで。
一目見てそうであるとわかる本の内容ならいいのだけれど、中にはタイトルでは判断のつかないものもあるわけで。
そういったものはいちいち中身を確認しなければいけないし、修復が必要だと判断されたものはまた別に分けないといけない。
そしてなにより、この作業を黙々と続けていると単調な作業の繰り返しとなってしまい気が滅入ってくるのだ。
小悪魔はこれを含め、さらに本の修復や本の場所の案内、記憶が確かならパチュリーに言われた本を持ってきたり、紅茶やお菓子も作っていたはずだ。
紅茶やお菓子は小悪魔の趣味である可能性が高いけれど……、この子、いつか過労死で死んでしまうんじゃなかろうか?
「というか、そもそも働きすぎなんだよねぇ。小悪魔にしろ美鈴にしろ、咲夜にしてもさ」
「あら、それは心外ですわ。私たちは楽しくてやっているのですから。あと、美鈴はそこに入れちゃいけないと思います」
「およ? 咲夜いたんだ」
「えぇ、つい先ほど来たばかりですが。妹様、紅茶とケーキでもどうぞ」
「あら、ありがとう。気が効くわね」
んーっと固まった背筋を伸ばしてから、咲夜から紅茶とケーキを受け取った。
彼女のことだから、私がこうしているのを見かけて、気をきかせておやつを持ってきてくれたんだろう。
いろいろと気の回る、彼女らしい心遣いである。ちょっと天然なところがあるのが玉に瑕だけどね。
「パチュリー様からの伝言ですわ。『ほどほどにしておきなさい』とのことです」
「ん、わかった。ありがとうね、咲夜」
「いえいえ。それでは、私はこれで」
そうやって一礼をした咲夜の姿は、瞬きのあとにはキレイさっぱり消えてしまっていた。
おそらくではあるのだけれど、時間を止めてまた次の仕事場に向かったんだろう。
少し甘めの紅茶を口にしながら「まったく」と呆れたように笑みを一つ。
なにが「心外ですわ」なのやら。
時間を止めないと仕事が追いつかない状態の奴が、何を思ってそんな言葉を口にするのか。
この紅茶を淹れる時間も、ケーキを作る時間も、本当ならありはしないだろうに。
咲夜もまた、小悪魔みたいに仕事熱心なものだから、ちゃんと休憩をとっているといいのだけれど。
まったく、我が家のワーカーホリックだらけな現状は、少々考え直さなければいけないのかもしれない。
「まぁ、なにはともあれ」
ケーキの最後の一口を食べ終えて、私は小さく腕を回す。
いつもならもう少し堪能する紅茶を飲み干して、再び作業机に向き直る。
とにもかくにも、私のお仕事はまだ終わってはいない。休憩時間はもう終わりだ。
自分が勝手に始めたことではあるけれど、きついから、気が滅入るからって、自分から始めたことを途中で放っておくなんてしたくない。
それに何より、これで少しでも小悪魔が楽をできるなら――それは私にとっても、嬉しいことだから。
「さぁって、がんばるぞー!」
気合を入れなおすように、小悪魔を起こさぬように小声でつぶやきながら、私は再び作業を再開する。
本当は、私はこんなことをするべきではないのかもしれないけれど。
それでも、たまには彼女の役に立つことも悪くないだろうと、そう思っているから。
▼
あれから、どれくらいの時間が過ぎただろうか。
咲夜が定期的に様子を見に来てくれたり、パチュリーがからかいに来たり、お姉様のセクハラをラリアットで返り討ちにしたり。
そんなことがありながら黙々と仕事を続け、そろそろ朝日が顔を出そうかという時間帯。
「終わったァ~!」
私の初めてのお仕事は、ようやく一通りの作業を終了したのである。
ずっと同じ姿勢だったためか肩が懲り、首を回せばきっとすごい音が鳴ることは予想するに難くない。
仕分けの終わった本の山を、飛び回る妖精たちに任せたあと、私は「んーっ!」と背筋を伸ばす。
仕事をしている間はめんどくさいなぁなんて思いもしたが、この身に感じる充実感を考えればそう悪いものではないのかもしれない。
そんなことを考えていると、ふと感じるもぞもぞと何かが動く気配。
どうやら、働きすぎのお姫様は今ごろお目覚めらしい。
無防備に大きなあくびをこぼし、眠そうな目をこすっていた彼女は、残っていたはずの本がなくなっていることに気づいたようで、不思議そうに首をかしげていたが。
「……はへ?」
「あら、おはよう小悪魔」
左右にさまよっていた視線が、私の姿を見つけたとたんピタッと止まった。
カチカチカチと、時計の音がどこか遠い。
まだ脳の処理が追いついていないのか、私と彼女、視線が絡み合ったままたっぷり十秒ほど。
「い、いいいいいいいいいい妹さまぁっ!!? ぴゃうっ!!?」
ようやく意識がはっきりしたらしい小悪魔は、予想通り慌てふためき、後退しようとしたらしいが椅子が邪魔でそれができず、結果的に椅子ごと後ろに倒れ込む結果となってしまった。
ここまで聞こえる「ゴチンッ!」という盛大な音と共に奇っ怪な悲鳴を上げ、彼女はゴロゴロと床でのたうちまわった。
予想通りの反応にしてやったりな笑みを浮かべてから、彼女のそのおもしろおかしい様子を観察することのなんと楽しいことか。
普段から、彼女のイタズラに振り回されることが多いのである。このくらいはバチが当たらないだろう。
「へぅ~……、妹様ぁ、いつからそこにいたんですかぁ~?」
「さぁ、いつからかしらね。あなたの可愛らしい寝顔、堪能させてもらったわ」
「うぅぅ~」
女の子座りでこちらを上目遣いで見上げる彼女の顔には、羞恥やらで真っ赤に染まっており、それを隠そうと手で顔を被ってうつむいてしまった。
うん、普段からこんなに可愛い反応をしてくれたら、私の評価もまた別のものになるっていうのに。
いやまぁ、イタズラしない小悪魔っていうのも、なんだか味気なくてそれはそれでつまらないというか……。
たまにしかこういった表情を見れないから、なんとなく特をした気分になれるのだろう。
……うん、いろいろ気苦労も多いけど、小悪魔はいつもどおりが一番いいや。
「あのぉ……妹様、もしかして本の仕分けは妹様が?」
「えぇ、私がやってあげたわよ。ていうか、いつもあんなに量があるの?」
「いいえ、今回は特別多くて……。あともう少し、あともう少しって思ってたら、いつの間にか」
あぁ、なるほど。今回は特に忙しいってだけだったのか。
毎日毎日あの量だったら、さすがの私も小悪魔の仕事配分について考えたほうがいいんじゃないかと思ったんだけど、そういうことなら仕方ないのかな?
いやでも、三日も休まずに働きづくめなんて明らかに度が過ぎてるけど。
小さく、呆れたようにため息をつく。
体を壊さなかっただけまだいいとはいえ、こっちの身にもなって欲しい。
血の繋がってるお姉さまはもちろん、血の繋がっていないパチュリーや咲夜、美鈴もそうだけど、小悪魔のことは家族みたいなものだって、そう思ってるんだ。
だから、……心配だってする。本人の前では、恥ずかしいから絶対に言ってあげないけどさ。
「すみません、妹様。よかれと思って仕事に没頭していたのですが、まさか妹様の手を煩わせることになるなんて……」
「気にすることないよ。私が好きでやったことだし、それに私には簡単なことしかできなかったからさ」
「そんなことはありません、本当に助かりました。……ありがとうございます、妹様」
恥ずかしそうに頬を朱色に染めながらも、それでもまっすぐな瞳でお礼を紡ぐ小悪魔に、今度は私のほうが恥ずかしくなってしまってそっぽをむいてしまう。
やっぱり、小悪魔はずるい。
そんなにまっすぐな瞳でお礼を言われたら、慌てふためく姿を楽しもうと思っていた自分が、卑怯者みたいじゃないか。
お互い、気恥しさで次の言葉が紡げないまま時間が過ぎていく。
私は椅子に座ったままそっぽをむいて。
小悪魔は床に座り込んだまま、恥ずかしそうに頬に手を当ててうつむいている。
お互い、顔が真っ赤なのは言うまでもなく、何を言えばいいのかわからない時間が刻々と過ぎていく。
やがて、そんな状況を打破するかのように、先に動いたのは小悪魔だった。
おもむろに立ち上がった彼女は、明らかな挙動不審な様子でじりじりと後退していく。
「い、妹様! お礼といってはなんですが、取って置きの紅茶をご用意いたしますので、ちょっとだけお待ちください!」
「う、うん。ありがと、小悪魔」
お互い、微妙に不自然な言葉を交わしながら、やっぱり顔は赤いままで。
逃げるように走り去っていく小悪魔の後ろ姿を見つめながら、そこから視線が外せないでいる。
彼女の背中が遠く、小さく小さくなっていく。
ようやく彼女の姿が見えなくなったところで、私は気分を落ち着かせるように一息ついた。
うん、あんなにまっすぐなお礼は反則だと思うんだ。ひねくれ者なくせに、こういう時だけ素直なんだから。
でも、あのお礼の言葉一つだけで、仕事の疲れが吹き飛ぶように感じる、現金な自分がいることにも、心のどこかで気がついていた。
真っ赤になった顔を隠すように机に突っ伏して、小さくため息をひとつこぼす。
きっと今頃、私に見えないところで彼女も気分を落ち着かせていることだろう。
だからまだ、彼女がここに戻ってくるのはもう少し先。それまでには――うん、いつもどおりの私達に戻っていられるとは思うから。
ホッとしたのが原因なのか、それとも単純に仕事の疲れか、急激に睡魔が体を蝕むような気がする。
ただでさえ、吸血鬼にとってはもうそろそろ眠る時間なのだ。眠気だって、多分しょうがない。
だから――彼女が戻ってくるまでの間、少しだけ……ほんの少しだけ、眠っていたって悪くはないよね?
誰に言い訳しているのかも曖昧なまま、うつらうつらと意識が朦朧としていく。
やがて程なくして、意識が心地よい波に揺られるような感覚を抱いたまま、私の意識は眠りの淵に落ちていった。
▼
――エピローグ――
パタパタパタと、軽やかな足取りが静かな図書室に響き渡る。
トレイに紅茶とケーキを載せた赤い髪の少女は、先ほどの気恥しさなど微塵も見せることもなく、もとの場所に戻ってきた。
にこやかな笑みは童女そのもので、女性らしい体つきをしたこの少女には、その表情はある種のギャップを感じさせるものだっただろう。
「妹様ー! おっ待たせしましたぁ!! 取って置きの――……およ?」
もうすっかりいつもどおりの振る舞いを取り戻した彼女が、ノリノリで言葉を紡ごうとして……やがて、その様子を目の当たりにして言葉を噤む。
自分の仕事を手伝ってくれた吸血鬼の少女は、作業机で眠りに落ちている。
初めての仕事で疲れてしまったのだろう。それを理解した小悪魔は、先ほどまでの童女のような笑顔を引っ込め、穏やかな笑みを浮かべてみせた。
慈しむような、優しそうな笑顔のまま、少女を起こさぬようにそっと歩み寄る。
トレイを作業机の空いているスペースにおき、眠っている少女の隣の席に腰掛けた。
そっと、髪を梳くように、小悪魔は少女の金髪を撫でる。
サラサラとした心地よい感触が指先から伝わり、すやすやと安らかな寝息が耳に心地よい。
「ありがとうございます、妹様」
自分でも驚くような穏やかな声だったと、小悪魔は思う。
己よりもはるかに強力で、人々から恐れられる少女の寝顔を覗き込みながら、いつまでもいつまでも髪を撫でていた。
まったく、不思議なものだと、小悪魔は思う。
こうやってこの少女とこうしていることも、彼女に仕事を手伝ってもらうことも、ここに来てすぐの頃は想像すらしていなかったけれど。
でも、今はこうなってよかったって、心からそう思える。
少女の髪をかき上げ、あらわになった額にそっとくちづけを。
少女が眠ってしまったことで、先延ばしになってしまったお礼の代わりとでも言うかのように。
くちづけをしたあとの小悪魔はまた顔を真っ赤にして、「てへへ」と恥ずかしそうに笑い。
「――大好きです」
嘘偽りのない本心を、どこか誇らしげに言葉にするのだった。
フランちゃんはホンマ優しい方やでぇ
いつもの「こぁーっこぁっこぁっこぁっこぁっこぁっ!!」な小悪魔ちゃんも良いですが、こういう心暖まるお話もまた良いものですね!
あなたの小悪魔はギャグ要員みたいなのに、シリアスもハートフルもこなせる不思議な子ですね。次の作品も楽しみなしています。
けど今回の小悪魔さんが変態じゃなかったのが残念。
けど頑張るフランちゃんが可愛かったので大満足。
「すやこ」、ひっくり返すと……ああ、そういうことで……
あと、さらっと書いてあったけどおぜう何やってんのwwwwww
そしてメイドw
そしてすやこテンションたけーなwww
あとテラスヤコなメイドとか嫌だww
そしてすやこwwww
アットホームで和やかな堪能しました。ありがとうございます。
フランちゃんおつかれさま
でも、あのお礼の言葉一つだけで、仕事の疲れが吹き飛ぶように感じる、現金な自分がいることにも、心のどこかで気がついていた。
厳禁じゃないかな?
とてもほのぼのしてて面白かったです!