冬の空気が好きだ。高空で肌を撫でる、冴え冴えとした冷気が特に。
私がそう言うと、総領娘様は決まって妙な顔をする。こんな寒い季節のどこがいいのか。春や夏や秋の方がよほどいい。人妖問わず活気に満ちた季節を差し置いて、なぜ静まりかえった季節を好むのか、と。
理由は単純極まりない。寒さで生物の活動が鈍る冬は、龍神様もまた静かに過ごしていることが多いからだ。始終気を張って言葉を聞き届けなければならない季節と違い、少しばかり目を離した程度では、変事が起こる確率が低いのである。もちろん、静かでも健やかであることが大前提ではあるのだけれど。
要するにあんたが物臭なだけじゃないの――そう、呆れられたとしても。
私にはその冷気が好ましいのだ。
本格的な冬に入る前、私は妖怪の山中であるものを見つけていた。晩秋と初冬の狭間、紅葉に紛れるようにして、灌木の間に顔を覗かせていた――小さな赤い実を。
幻想郷では珍しいナンテンだ。寒さが厳しい土地ではあまり見かけることがないのだけれど。龍宮の使いは博麗大結界に干渉されることなく、その内外を行き来する龍神様に付き従う。だから外の山で見知っていたのだ。
見知っていた――と言っても、名前を知ったのはわずか百年ばかり前のことである。
あれは私たちが"お告げ"と呼び慣らわしている、龍神様の言葉を伝える仕事の最中だった。年が開けてすぐのことで、神棚に祀られていた赤い実が、ふと気になって訊いたのだ。
そしてその名と、「難を転ずる」に音が通じるため、縁起物とされていることを教わったのである。
今では告げたところで信じてもらえないから、人間と関わりを持つこと自体が減ってしまった。それでも、ナンテンの名前だけは何となく忘れることができないでいる。
龍宮の使いが、「難」とは切っても切れない関係にあるせいなのかもしれない。
植生を知る機会はあまりなかった。食べ物が少ない季節に実を付け、鳥や獣の餌となることくらいしか。そういうものだから、仮に無くなっていたとしても、私が気を落とす筋合いはない。
ただ。
名前を教えてくれた人間が、赤い実と葉で雪兎を作っていて。
私も、機会があれば倣ってみたかったのである。
「ああ、残ってる」
私はほっと安堵の息を吐いた。わざわざ龍神様の傍を離れ、単身で来た甲斐があったというものだ。
山中異界の深く、白狼天狗の哨戒路を少し外れた場所。雪で覆われた獣道を慎重に辿り、霜柱の感触を足底で楽しみながら歩を進めた先に。
赤い実がわずかに残っていた。
葉を落とした広葉樹の密生地。大木の陰、白に埋もれてわずかに覗く、赤。初めに見つけたときと比べれば、ずいぶん数は減っているけれど。どうせ使うのはちょっとだけなのだ。食べ尽くされていないだけでも僥倖と捉えるべきだろう。親指大の赤い葉もそれなりに残っている。
――よし。
地に積もる雪は塵混じりで綺麗ではない。そんな気がした。ふわりと空気を掴み、空に浮かぶ。木の枝に積もる雪をかき集め、丸く形を整える。羽衣を引っ掛けないよう、注意しながら。
程無く、掌よりも少し大きい兎の胴ができあがった。さして難しくはない。物自体は簡単にできてしまう。何が楽しいと訊かれても、答えに窮してしまうような。
――まあ、こういうのは。
作っている過程が重要なわけで。作った後は――うん、いくつか並べて鑑賞するのも乙だろうか。雪見酒と洒落込むのもいい。と言っても、私は鬼ではないので都合よく酒を持ち合わせていないのだが。
――天界で桃酒を分けてもらうのもありかしら。
思索を白くたなびかせながら、土の上に戻る。
「確か――この辺りだった、はず」
なのだけれど。
「……はて」
先刻まであったはずの赤い実が消えている。ばかりか、葉を残していた枝まで見当たらない。
真逆。
雪玉を作っているわずかな間に食べられてしまったのか。ここに着くまで、幾度か鹿の姿は見かけていた。彼らの仕業なのかもしれない。
それは――何というか。
悔やんでも悔やみ切れないのだけれど。
もしや群生してはいないだろうか。
一縷の望みをかけ、木々の根元付近を観察しながら、歩く。
果たして。
見つけた。
しかし。
今にもそれを食べてしまおうと口を開いた者がいる。体長三メートルあまり。蛇の妖怪かとも思ったのだけれど――違う。あれは私がよく見知っている生き物だ。
「……龍の」
子ども、か。
「あ」
びっくりして動きを止めてしまったのが、いけなかった。
枝ごと丸呑み。犯人はあの子だったのだ。
うっすらと満足そうに目を細めている。雪塊が掌に無情な寒さを伝えてくる。
「ああ……」
龍の子は基本的に雑食だ。木の実から屍肉まで何でも食べる。おまけに大食らいと来ている。成長するに従い、あめつちから直接霊気を摂取できるようになるため、食事を必要としなくなるのだが。
存在自体が稀少なものであり、個体数は決して多くない――はず、だ。加えて、通常は雲居に隠れ住んでいる。山の中で簡単に見つけられるような存在ではないのに。
――それが、どうして。
今、ここなのか。
思ってみても仕方がないか。実際にいるのだから。
口をこじ開けて取り出すわけにもいかないだろう。あれはあれで冬の食料事情が厳しいからなのだろうし。
無念ではあるけれど。
「……縁がなかったということでしょうね」
龍の子は食事に夢中でこちらには気付いていないようだ。すぐに立ち去れば、食事の邪魔と認識されることも、危害を加えられることもあるまい。
……まあ、ちょっとした余暇に思い出しただけのことですし。
できなかったからといって、何が起こるわけでもない。
未練を振り払うように、立ち去ろうとしたときだった。
がさりと音がした。
下草をかき分けるようにして、出てきた人影がある。
「あなたはまた勝手に! 待ちなさいと言ったでしょう!」
開口一番、龍の子を叱りつける。龍の子が申し訳なさそうに首を下げたのも意外だったけれど、それ以上にこんな場所を訪れる者が、私以外にいたことのほうが驚きだ。
「だいたい――?」
「おや」
目が合ってしまった。
肩口で揃えた桃色の髪を、両のシニヨンにまとめた女だ。黒を基調にした大陸風の服。胸元にあしらわれた牡丹が印象的な。右腕の袖から覗いているのは包帯だろうか。怪我をしている? あの子龍とは知り合いのようだが、あるいは噛み付かれでもしたのか。
子であっても龍は龍だ。腕一本喰い千切るくらいのことは、簡単にやってのける。そうされたのかと思うくらいに厳重な巻き方だった。反対の手首には鎖付きの腕輪が嵌められている。
――ああいうのが流行りなのかしら。
天界で酒浸りになっている鬼も同じような腕輪を嵌めていた。天狗の関係者ではなさそうだが、だとすると何者なのだろう。ここは彼らの縄張りなのに。
そう思ったのは向こうも同じであるらしい。女は警戒するように目を細め、
「誰です」
と、短く誰何した。
「衣玖です。永江の」
隠す必要も無いので簡潔に答える。問い返したいのは山々だが、どうも彼女は関わると面倒そうな空気をまとっていて、躊躇われる。
龍宮の使いは災害という大量死が発生しかねない状況と隣り合わせの存在だ。故に地獄――ひいては是非曲直庁ともそれなりに関わりがある。
女がまとう雰囲気は、どことなく似ているのだ。
幻想郷を担当する――説教好きの閻魔に。
――ふむ。
ここは早々に立ち去るのが賢明か。
決意は一瞬だった。私らしからぬ即断だ。不自然ではあるが会話を切り上げようとして。
「永江――というと、神社で顔を合わせた天人が話していました。龍宮の使いですね」
女の言葉に引き止められた。
何と。
――厄介な。
私は思わず天を仰ぐ。
総領娘様のことだから、さぞかし妙なことを吹き込んだのだろう。一時期に比べればずいぶん丸くなったけれど、それでもあの方は物事を掻き回す才に長けているから。
「……確かに私は龍宮の使いですが。貴女は?」
仕方なく訊き返すと、女は小さく礼をした。
「これは申し遅れました。私は茨華仙。この山に住まう仙人です」
「仙人、ですか?」
「はい」
ふむ。仙人は妖怪にとって格好の餌であるはずなのだが。
私を龍宮の使いと知って名乗るとは。よほど腕に覚えがあるのか。あるいは、総領娘様が案外穏当な伝え方をしたものか。まあ、私たちは積極的に危害を加える妖怪ではないし、彼女は山に住んでいる――それだけでも実力の程が窺い知れるといえば、そうなのだけれども。
華仙と名乗った女は、再び剣呑な表情を浮かべる。
「こんな場所で、何を? まさか、幻想郷に災害が振りかかるとか」
「ああ――いえ、そんなことはありませんよ」
「龍宮の使いが地上に降りる理由といえば、それくらいしか思い当たらないのですが」
言わざるを得ない、だろうか。この期に及んで拒絶してしまうのも不自然だし。
私は後ろ手に隠し持っていた雪塊を差し出す。
「……これは?」
彼女は訝しそうに眉をひそめた。
「大したことではないのです。ただ少し、雪兎を作ろうかと」
「雪――兎?」
「ええ」
気恥ずかしさをこらえながら私は言う。
「冬の初めにここでナンテンを見つけていたもので。以前見た雪兎を作れないかと思った次第でして」
「……こんな場所なのに、ですか」
「散策は趣味なんですよ」
「散策でこんな処へは来ないと思うのですが」
「はあ。信じていただかなくても別に構わないのですがね」
関わりを深めたくないばかりに、投げやりな答えを返してしまう。
まあ納得しておきましょうと仙人は言った。
「目的を遂げられたのならば、帰るが筋ではありませんか」
「ああ、それが――その」
そこの方に全て食べられてしまったようで――と、やや言葉を濁しながら龍の子を指し示す。
ぎょっとしたような顔で振り向く彼女と、気まずそうに視線を逸した龍の対比が少し可笑しい。
「どうしてもと言う訳ではなかったのです。お構いなく」
庇おうと思ったわけではない。ただ、龍宮の使いとしては龍と名の付くものを蔑ろにするわけにもいかない。
そう思ったが故の、微妙な言葉だったのだが、仙人は少し考えこむような素振りを見せた後、
「しかし、龍宮の使いに気分を害されたままでは私の沽券に関わります」
と、言った。
――どうしてそうなるのだろう。
私の心の中に警鐘が鳴り響く。まずい、これは面倒なことになりそうだ。
「構わない、と私は言っているのですが――」
「私が構うのですよ。どうか聞き分けて頂けませんか」
腰砕けの拒絶は、頑なとも言える返答で遮られた。何を考えているのか。
読めない女だ。龍宮の使いなんて、珍しいだけで何ができるというわけでもないのに。龍神様の言葉にしても、聞き届ける者がほとんどいないのは数年前の異変で経験したことである。
私の伝え方に落ち度があったのは、その、認めざるを得ないけれども。
「……ならば、代わりとなる実を探しては頂けませんか。貴女の手を煩わせ過ぎない範疇で」
「分かりました。茨華仙の名に於いて、必ずや見つけ出してご覧に入れましょう」
一世一代の大仕事であるかのように、女は決然と言った。
ある種の初々しさすら醸し出す、得体の知れない感覚。それが、私の知覚を刺激している。
「……頼みます」
何だか。
ひどく難儀な人と行き合ってしまったのかもしれない。
「鳥に聞いてみるのが最も早道でしょうね。まあ、冬場の貴重な食料について話してくれるかは分かりませんが」
「どうやって鳥と話すのです」
「それくらいは仙人である私に任せて下さい」
「ほう」
禽獣と言葉を交わせる"真っ当な"仙人など、そういるものではない。
彼女の仙人であるという言も、ともすれば方便かと思っていたのに。
「華仙様はなかなかに力のある方なのですね」
「やめてください。これしきのことができなくて仙人を名乗れはしません。それに、せいぜい獣の言葉が分かる程度なのです。貴女方のように龍の言葉まで解することはできませんから」
言葉とは裏腹に、彼女はかすかに胸を張った。
ところどころに妙な分かりやすさが顔を覗かせる。面倒な性格のようだ、という第一印象を覆すには至らないけれど。
「それにしても」
華仙様は俄に眉根を寄せる。
「どうしました」
「華仙様、なんて呼ばれるのは面映いものがありますね」
「そうですか?」
「ええ。普段相手をしている人は、私を敬ったりしないので」
「慇懃も過ぎると無礼だとよく言われるのですがね」
「礼節を放棄するよりはマシです」
「そうでしょうか」
「妖怪が皆――貴女のようであれば。この幻想郷も、もう少し生きやすい世界になるのでしょうね」
嘆息。するすると吐息が白く立ち上る。とは言え、そればかりは難しいだろう。自分本位が妖怪の基本原則。他者を慮って己を曲げること――それは、妖怪が最も苦手とすることだからだ。
華仙様自身、それを強いるという点では、他者をこそ曲げようとする妖怪じみた考えが垣間見えている。
仙人の行動原理は、妖怪と人間両方に通じるものがあるのだ。
天人が欲望を捨てなければ成れないものであるのに対し、仙人には敬われたい、自分の力を誇示したいという欲が残っている。私はその基準に外れる天人を知っているから、忘れそうになるのだが。
――その、欲が。
彼女に硬軟の両方をもたらしているのかも知れない。自覚があるのかは分からないけれど。
と――。
華仙様の肩に、一羽の小鳥が舞い降りた。白い吐息は狼煙を兼ねていたのだろうか。
――でなければ。
雪色の森林で彼女の服が目立つとはいえ、あまりに間が良すぎるというものだろう。
「あなたはナンテンを知りませんか?」
私の思考をよそに、当然の如く華仙様は訊いた。
鳥はわずかに首を傾げ、短く囀る。私にはただの音としか受け取れないが、彼女は二三度頷いて、
「分かりました。ありがとう」
と、礼を告げた。用は終わった、と言うように一声鳴いて、小鳥は空へ帰ってゆく。
「教えてくれたのですか?」
「いえ。彼女はそもそもあの実を食さないのだそうです。ですが、仲間に尋ねれば分かるかもしれないと言っていました」
「私たちにできることは」
「待つこと。それだけです」
言うなり、華仙様は指で輪を作り咥えた。
指笛だ。
鋭い音が静寂を裂く。幾ばくもしないうちに大きな羽音が近付いてきた。葉の落ちた木立の上を、私の身の丈をはるかに超える鳥が旋回しはじめる。あれは鷹――だろうか。それにしてはずいぶん大きい。
「護衛を頼みます!」
ギィッ、と短い鳴き声を残して、大鷹は小鳥が飛び去った方角へ向かう。
「よろしいのですか? 猛禽にしてみればまたとない餌なのでは」
「あれはただの猛禽ではありませんよ。この子と同じ、私の眷属です。私の言うことなら聞き届けてくれます」
龍の子の角を撫でながら、
「この山は天狗の影響が強く、カラスが幅を利かせているんです。他の季節ならばともかく、冬場は餌が少ないので、横取りや狩猟という行動に移る可能性も高い。その点、猛禽は彼らにとって大敵となり得ますから。厳密には違いますが、姿は酷似していたでしょう?」
「故に護衛を、と」
「ええ。本来、あまり褒められた手段ではありませんが」
生存競争に関わることですから、と華仙様は苦笑いのような笑みを作る。
それにしても。
「山内で指笛など吹いても大丈夫なのですか」
「は?」
「天狗の影響が強いとご自分でも仰ったではありませんか。聞きつけられれば厄介なことになるのでは」
「私は――そう、山に住んでいますし」
誤魔化すように――笑う。
答えになっていないと私は思う。
――問い詰めれば。
ボロを出す――だろうか。
また、思う。
彼女が山に住んでいること自体、不思議なのだ、と。
仙人の肉は喰らった妖怪の力と格を上げる。言うなれば、彼女は幻想郷において最も住み難い場所にいることになる。
――と言っても。
私がそうであるように、最近は言葉を交わせる相手を捕食しよう、と考える妖怪が減っていることは事実だ。それを見越した上で、山の上に住まう者たちと話をつければ、居住することは可能なのかもしれない。
しかし――どうやって?
好奇心が首をもたげる。待っている間は暇なのだし、色々と突っ込んで訊いてみようか。彼女が如何に渡りを付けたか知ることができれば、円滑な情報伝達の秘訣が見つかるかもしれない――、
――すまないが。
淀みのない思念が脳裏に直接響いた。
見れば、龍の子が申し訳なさそうに頭を垂れている。
――主の詮索は止めて頂けないだろうか。
続けざまに言われる。華仙様は何の反応も示していないが。
なるほど。
華仙様の言葉を龍の子が解せているのに対し、龍の子の言葉は華仙様に不完全な形で届いている、というのは本当らしい。仕草や表情で言わんとするところを察している――そんなところか。
「まあ、そんなことはどうでもいいこと――ですね」
止めろと言われても尚継続するほど、特別の深い興味があるわけでもない。
子龍に促されるままそう言うと、華仙様はほっと一息を吐いて、肩をわずかに下げた。
何らかの事情があるのだろうか。私には関係ないことだけれど。地上の由無し事は時に根深い。
この子龍の、あるいは親が関わっているとなれば――藪をつついて蛇を出す結果にもなりかねない。
――龍の、ねえ。
はたと気付く。
いけない。
詮索はなし、だ。
「ところで」
「な、何でしょう」
露骨にたじろぐ華仙様を無視して、私は話題を転換する。
「暇ですね」
暇なこと自体には慣れているのだけれど。
龍神様の言葉を聞く以外には、いつも空を漂っているようなものだし。
それはそれで楽しいから――実は、地上で暇を潰すことに慣れていないのだ。
「一箇所に留まる必要はないのですよね」
「確かに、あの子なら私たちが山のどこにいようと幾らもしないうちに見つけ出しますが」
「でしたら、少し散歩でもしませんか」
私は華仙様に手を差し伸べる。
「理由はどうあれ、貴女と一緒であれば天狗に邪魔されることはないのでしょう?」
「……ええ」
結局、私にはそれが性に合っている。
散策は――趣味、なのだ。
白い森を行く。
妖怪の山は基本的に落葉樹林である。人間が建材に使うような常緑樹は少ない。四季の移り変わりを楽しむ――妖怪の性質を鑑みれば、サクラやカエデが多いことは、彼らの好みによるものなのかもしれないが。
見上げた木々が寒々しい姿を晒している以上、私たちが見ている雪の下には腐った落ち葉が積もっているはずであり。
当然の帰結として、足元は――悪い。
日頃常に空を飛んでいるせいか、私は歩くことが不得手でならない。目的があれば情緒を楽しもうという気になるけれど、一度壊された気分は容易に元には戻らないものだ。
それは同伴者がいる場合であっても変わることのない主義で。私は歩く華仙様の隣に、地面からわずかに浮いて並んでいる。
空にも薄く白雲がかかり始めていた。帰りは雪に遭うかもしれない。まあ、雪空も好きなので問題は何一つないのだが。どのみち雲の上に出てしまえば、降っていないも同然なのだし。
ところで。
私が飛ぶと――羽衣が風をはらんで揺れるのだけれど。
子龍はそれにいたく興味を刺激されるらしい。さっきから羽衣の尻尾を追いかけるようにくるくると私の周りを旋回している。龍宮の使いを見たことがないのだろうか。思えば、最初に言葉を送ってきたときにもずいぶんとぎこちなかった。龍である以上、それは考え難いのだが。
――詮索しない、というのも。
なかなかに難しいな――そう思う私に向かって、
「……申し訳ありません」
「はい?」
出し抜けに、華仙様が頭を下げた。
「鬱陶しい――でしょう?」
やや厳しい目が龍の子に向けられている。
――そういうことか。
「まあ、この程度なら慣れていますし」
「慣れて?」
「私が仕えているのは龍神様ですから。小蛇にまとわりつかれたくらいで、目くじらを立てていては始まりませんよ」
「そ、そうなんですか」
「普段は温厚な方なのですけれどね。一度怒り始めると――もう」
私は首を左右に振る。
手が付けられない、というのはああいう状態を指すのだ。憤怒のきっかけは様々である。最近は龍脈が乱れ、満足に霊気を得られないから、尚更その頻度は高くなっている。
龍脈とはとどのつまり、山やそれを含む地形の起伏を指す。それに沿い、龍神様の食べ物――地の気が集まるのだ。
しかし人間が手を入れた山は、彼らが何らかの理由で手入れをやめてしまうと途端に荒れる。幸いと言うべきか、幻想郷の中はそうでもないのだが。
荒れたなら。
龍脈は――乱れる。
結果。
龍神様が怒り、大雨や山崩れという形で現れる。無論、一概にそれだけが原因であるとは言えないのだけれど。
思案顔で華仙様は言う。
「この子も長じればそうなってしまうのでしょうか。人に――危害を加えるように」
「これから次第でしょうね。天を裂き地を砕く力を手にするのは、並大抵ではかないません。実際にそうなるのだとしても、我々が見届けられるかどうか」
「一朝一夕には成りませんか」
「当然です」
雪に覆われた低木を眺めながら、私は頷く。
それだけ大きな力を持つ龍神様であるからこそ、私たち龍宮の使いは畏れ敬い、付き従うのだ。
「修行あるのみ、ですよ」
これは龍の子に向けて言っておく。羽衣の緋色と戯れていた子龍は、任せろと言わんばかりに胸を張った。
――是非もない。
龍であることに誇りを持つ。
まず第一歩はそこからだ。この子の場合は既に踏み出しているのだろう。あとは――過信と慢心を如何に戒め、鍛錬に励むか。
――まあ、それは。
導き手が華仙様ならば、道を違えることはそうないのかもしれないが。今ひとつ言うことを聞いていないようで、少々不安ではある。
「あの」
唐突に華仙様が立ち止まった。
「はい?」
「永江さんは――何を?」
訝しげに首を傾げて、訊かれる。
「おや、気付かれましたか」
これだけきょろきょろしていれば当然か。
むしろ問われるには遅すぎたとも言える。
「もののついでにドングリでも探してみようかと」
「雪に覆われて見えないでしょう?」
「目だけで探していれば、ね」
いくら寒い季節であっても、日中太陽が出ている間には、積もった雪が気化するものだ。
つまり、微弱な上昇気流が発生するのである。
落ち葉の上に積もった雪と木の実の上に積もった雪では、溶解する速さに違いが出てくる。それを感知しさえすれば、
「この通り、というわけです」
羽衣の先端を翻し、雪路を穿つ。さく、と軽い音を立てて茶の地面が覗く。転がっているのは親指の先くらいのドングリだ。
「餌の情報を教えてもらうわけですし、対価がないというのは些か気が引けるものでして。……貧乏性と笑って下さいな」
「素晴らしい!」
ぎゅっと両手を握られて。
私は呆気にとられてしまう。
「は?」
「妖怪のみならず、人間も貴女を見習うべきです。最近は忠言を聞き流す輩が多すぎる。相互扶助と適度な禁欲こそ、魂の豊かさを左右するというのに」
「あ、はは……」
――私は。
やりたいことをやっているだけ――なのである。
過度に買いかぶられても困るのだけれど。
鬱積を吐き出し足らない。そんな表情の華仙様を、やんわりと振りほどき、私は手を打ち合わせる。
「ただ集めるだけというのも芸がありません。どうです、ここは一つ弾幕ごっこでも」
「弾幕ごっこ――ですか?」
狐につままれたような顔をされてしまった。話題の転換としては性急に過ぎたか。
「はい。制限時間内に集めたドングリを持ち玉とし、残弾が尽きるまでを一つのスペルと見做すのです」
「ほう――それは」
――面白そうだ。
華仙様と龍の子が視線を交わし合い、挑戦的な笑みを浮かべる。
「私は一人で構いません。そちらは二人でどうぞ」
「いいんですか?」
「ええ。手心を加えるという奴です。あまり得意であるようには見えませんし」
「……言ってくれますね」
華仙様がすっと目元を引き締めた。中々に迫力がある。これは、読み違えたかもしれない。
とは言え、もう引き下がれるはずもない。
「制限時間は四半時で構いませんか?」
「はい。ああ、途中で鳥たちが帰ってきた場合は中断する方向でよろしいでしょうか」
「ええ」
それでは。
「参りましょう」
「尋常に――」
――勝負。
端的に言おう。
結果は私の惨敗だった。
勝ち誇ったように華仙様が言う。
「地の利は私たちにあったようですね」
「……考えてみれば、仙人というものは日常的に龍脈から霊気を取り込んでいるのでしたね」
俗に"霞を食べる"と表現される行為だ。
「気流を読める程度ではそもそも――不足、と」
――口程にもなかったな。
「……返す言葉もありません」
被弾し、落ちた帽子を拾う。やはり見込みが甘かったらしい。
いったいどこから見付け出したのか。そう思わせるほどの残弾数。的確に私を狙う手技。空気を読めばある程度どこから弾が飛んでくるのか見当がつけられるのだが、反応できなければ関係のない話だったわけで。
反対に私の弾は龍の吐息で軌道を歪められ、二人には掠りもしないのだ。妖力を上乗せしない戦い方だったことも災いした。まともに当たっても痛くない程度の威力。遊ぶには丁度良くても、最前の挑発がどうやら二人に火をつけてしまったようで。
最終的には狙いすました二発の弾が、私の帽子から伸びるリボンを射抜き、そこで私が負けを認めたのだった。
「やれやれ、ですね。それなりに自信はあったのですけれど」
――筋は良い。励まれるが宜しい。返す返す、この程度とは思わなかったが。
「……さすがにそこまで上から言われると腹立たしいですね」
おそらく私の方が長く生きているはずなのだが。苦笑すると、龍の子は尊大に頷いて鼻息を噴き出した。
「こら。増長は禁物です」
たしなめる言葉と共に、華仙様が子龍の頸を叩く。
――うわ。
私は我が事のように身を竦めた。
あれは痛い。逆鱗を直撃だ。龍の子は身体をくねらせて悶絶している。信頼関係の表れではあるのだろうけれど。
そこへ、上空から聞き覚えのある鳴き声が届いた。
先程と同じ小鳥が華仙様の肩に留まる。
「見つかったのですか? ……そうですか」
「ありましたか」
「一応――と、言ったところでしょうか」
華仙様は小鳥に礼を告げると、集めておいたドングリを指す。私たちは小一時間ほどで膝丈近い高さの山を作り上げていた。大人げなく弾幕ごっこに熱中してしまった結果だ。
鳥は歓声を挙げて小山に飛びついた。あの鳥は確か、食べ物を貯蔵する性質を持っているのだったか。仲間内で融通すれば、この冬を越える助けくらいにはなるだろう。
「それで、方角は」
「西方と。しかし――」
――そこまで競わないか。
華仙様の言葉を遮るように、龍の子が言った。
「む?」
私には鳥の言語は分からなかったのだが。龍の子は理解していたらしい。
瞳に宿るは侮りと――華仙様への意趣返し、か。優先順位をあえて私に据えることで、先般の仕打ちに抗議する魂胆なのだろう。
主よりも客人を優先する。まるで子供が、厳しい親よりも優しい親戚に懐くような。
ほんの小さな反抗心。それがどこまで効果を持つのか、私には分からない。
華仙様に悪い。利用されているようで癪だ。いくつかの言葉が浮かんで消える。
最後に残ったのは、私は私なりに雪辱を果たそうという思いだった。
「一度勝っていい気になっているようですね」
――何とでも思うがいい。
「……いいでしょう。場所は」
――西方五町。洞穴の前にあるそうだ。
洞穴、か。
それならば。
空気の流れに変化が出やすい。
――手心を加える、と言ったかな。
分かっているのだろうか――私の懸念を他所に、龍の子は不敵に笑う。口の端からちろりと覗いた舌を見て、私は得心した。
これは――おそらく。
先の理由に加えて、またナンテンにありつけると思っているのだろう。勝って味を占めたわけではなく、食べて味を占めたというわけだ。龍の言語を解することにかけては、人後に落ちない自信がある。間違ってはいまい。
手加減の必要はない。ばかりか、先に発見しなければまた食べ尽くされてしまいそうだ。華仙様の言葉をどこまで聞き入れるかは、結局、この子の裁量次第。協力することはあるけれど、完全に従属しているわけではないらしい――というのが、短い付き合いで得られた結論だった。
「ちょ、ちょっと待ちなさい。貴方たちは何を勝手な――」
――往くぞ。
「ええ」
止めようとする声を、私たちはあえて無視した。
――柄にもない。
熱くなっている自覚はあるけれど。
口程にもない――という。
あの言葉の、言外に込められた意味を思う。
侮蔑の先に存在していたのはきっと、私ではない。
私を通じて、龍神様を軽く見たのだ。
従えている者の格。上位に立つ者の力を推し量る、その基準。
私が弱いから――龍神様をも見下した。
それだけは。
龍宮の使いの矜持にかけて、我慢ならない。
合図は必要ない。互いの呼吸はもう読めている。
――いざ。
風切り音と、
金切り声を、
後にして。
滑り出しはほぼ同時。
木々の間をすり抜けるように、飛ぶ。
向かい風がその配置を教えてくれる。私が心を傾けるべきは、ただ羽衣の制御のみ。
体躯で空気を押し開き、羽衣の上を滑らせるように受け流す。
龍の身体は細く、通り抜けることに関してはあちらが有利だ。土地勘という面でも負けていることは実証済み。
加えて、先の弾幕戦では二対一を演じている。蓄積した疲労は私の方が大きいはず。
しかし――、
だからこそ面白い。
口の端が勝手に吊り上がる。
ひゅうひゅうと風が後ろに流れていく。
空気はいよいよ以て冷たい。
羽衣のはためく音と、己の鼓動だけを感じている。
気流に乗り、最高速を維持して。
それでも。
――っ。
徐々に。
龍の子と距離が開いてゆく。
相対的な速度差だ。
私が飛ぶ速度は、そもそもさして早くないのだ。普通に競ったところで勝てる相手ではないのである。
それを見越した上で持ちかけられた勝負。
――ですが。
私だって。
勝算もなく受けたわけではない。
この身は。
「龍神様と――共に在る」
それを思い知らせてやる。
羽衣の制御を手放す。
途端、流れていた風が私の身体を押しとどめる。
がくんと速度を落とした私に、龍の子がせせら笑うような表情を見せた。
――構うものか。
既に。
あちらに意識を割いている余裕はない。
禁じ手だ。
だが。
仕方あるまい。
誇るがいい、龍の子よ。
あなたが私を本気にさせてしまったのです。
ただし。
私の後塵を拝していただくことに、変わりはありませんが。
龍の子は右に左に身体を揺らし、巧みに前へ前へと飛んでいる。木々の障害をものともしていない。やはりこの辺りの地理を知り尽くしているのだろう。
――ならば。
多少の無茶は許される――か。
洞察は一瞬。
とにかく重要なのは、先行されているという一点のみ。
――上手く避けて下さいね?
進むべき方向を見定め、
気流を操り、
気圧を一気に下げる。
心象は。
五爪を以て断ち切る一撃。
水がそうであるように。
空気もまた――高きより低きへ流れる。
なればこそ、その流れに身を委ねることで加速が得られるのだ。
竜巻に飲まれるが如く。
私の身体は一気に進む。
欠点は若干呼吸が苦しくなることだ。しかし龍宮の使いはそもそも遥か高空、空気の薄い層で生きている。完全に無くならない限り、問題はない。
地上の空気は――龍宮の使いにとって、濃過ぎるくらいなのだから。
猛然と追い上げて。
目を見開いた子龍を抜き去る。
交錯する瞬間に見えたのは。
驚愕と――焦り。
とは言え私にも子龍の行動を斟酌する余裕はない。
禁じ手――気流の操作は、私個人の力では成し得ない。
龍神様の御力を借りなければならないのだ。
いつだか、烏天狗の取材に応じたときにも使った業。
然るにわずかだとしても、私の身には過ぎた力。
細心の注意を払い空気を読み続けなければならない。読み誤れば、気流が形成する波に弾かれ姿勢を維持できなくなる。こんな場所でそうなれば、さすがに怪我は免れまい。
――痛いのは。
嫌――ですし。
追いすがる音は、風に紛れて聞こえない。
細めた視界を。
木々が流れていく。
白銀が、舞う。
風の導くままに。
往く。
――む。
前方からの空気が明確に変化する。湿り気を帯びた、洞窟特有のそれだ。
近い。
思う間もなく――、
視界が開けた。
そう広くはない。十メートル四方というところだろうか。
正面には崖。
小規模な雪崩が起きた形跡が残っている。それから今まで雪が降らなかったのだろう。大部分の地肌が覗き、地表付近にはぽっかりと暗い穴が口を開けている。あれが件の洞穴か。
――それなら。
この近くだ。
気圧を高め、無理やり急制動をかける。全身を強く殴られたような衝撃。飛びかけた意識をかろうじて繋ぎとめる。まあ、たかだかこの程度で勝ちを拾えたなら、儲け物だろう。
獣が少ない季節でよかった。事故の可能性なんて、考慮できなかったから。
龍の子がわずかに遅れて辿り着く。私はぷかりと浮かんだまま待ち受けていた。龍は表情の変化が分かりづらいのだが、私には手に取るように分かる――解ってしまう。
「ここ、ですよね」
――……そのようだ。
「どうですか? 嘗めてかかるからこうなるのですよ」
動悸と荒れる呼吸を無理矢理抑えつけ、精々勝ち誇ってやる。ほんとう、未熟で助かった。もう少し上手く力を扱えるようになったなら、龍宮の使い程度では歯が立たなくなるだろう。
歓喜と同時に押し寄せたのは、しかし、後悔だった。龍神様に何と言い訳をすればいいものやら。これで二度目なのだ、無断で御力を借りたのは。この程度で大きく機嫌を損ねるような方ではない――そう分かっていても、やはり龍宮の使いには、かの神への畏怖が深く根付いている。
哮、と。
悔しそうに龍の子が咆えた。地の底から震うような低い声で。梢に積もった雪が落ちる、どさどさという音に満足を覚えながら、私は首を巡らせる。
「――おお」
あった。
落雪が作る白山の脇に、見覚えのある赤い葉と実が。
「食べないでくださいよ?」
食べるものと決めつけて言う。
――虚仮にするな。そう飢えてはいない。
と、憤慨したような答えが返ってきた。
「だといいのですが。どうやらあなたは食い意地が張っているようですし」
――ふふ。これ以上食べては、また主に叱責されてしまうしなあ。
親しげに笑う。何だか妙な連帯感が芽生えてしまったような。
まあ――悪い気はしないけれども。
それにな、と龍の子は続けた。
「何です」
――その実には、わずかなりだが毒があるようだ。食べ過ぎては腹を下してしまう。
「なんと。道理で全てを食べ尽くされていなかったわけですね」
大げさに驚いてみせる。
実際のところは冬の間食い繋ぐための戦略なのかもしれないが。その辺りは乗りという奴だ。
しかし――そんなものを人間は祝いの席に飾っていたのか。と言っても食するわけでなし、「難を転ずる」という名前の方が重要だったのだろうけれど。
地に足を着ける。本日二度目の自発的な着陸。私にしては珍しい。
歩こうと片足を――持ち上げたとき。
再度、咆哮が轟いた。
顧みた龍の子が自分ではないと首を振る。
揃って目を転じた先には――洞穴が。
その内奥から。
低く。
太い。
唸りが。
届く。
言葉の分からない私でも、込められた感情は如実に理解できる。
苛立ちだ。
ひどく機嫌の悪い声が、徐々に近付いている。
出て来る――のか。
そして。
籠っていた唸り声が、不意に開けた。
反響が消えたということは。
入り口の直近にいるということだ。
寸秒の沈黙を経て。
ぬっと顔を出したのは、
「……熊?」
――の、ようだな。
返答した龍の子は、競争後の弛緩から一転して、警戒を深めた姿勢に移っている。
冬眠していたのだろう。雪で塞がっているはずの洞が雪崩によって露出した上、子龍の咆哮で目を覚ましてしまったのだ。
一口に冬眠と言っても、熊のそれはとても浅い。少しの刺激で起きてしまう――そんな話を思い出す。ここ数日、雪が降っていなかったことも災いした。洞が塞がっていたならわざわざ出てくることもなかっただろうに。
なにしろ。
立ち上がった熊は、ゆうに十尺近い身長なのだ。これだけ育っていて、なおかつ妖怪の山であることを考慮すれば、半ば以上に妖怪化していてもおかしくはない。そういう獣は得てして争いを避けるものである。
それでいて尚、敵意を剥き出しにするということは。
雪崩への苛立ちと、叩き起こされた苛立ちが、綯い交ぜになって私たちの方へ向いているのだ。
――全く、今日はつくづく運がない。
「……スペルカードルールを受けてもらえるようには見えませんね」
――同意しよう。話を聞くつもりはないと言っている。
憂さ晴らしの相手をしろ、と。
そういうこと、なのだろう。妖怪と龍ならば相手にとって不足はない。そう見られたのか。それとも、誰でも構わないから鬱憤をぶつけたかったのか。
いずれにせよ――こういうのは。
「あまり得意ではないのですがね」
獣相手は、加減が分かりにくいからだ。
――やるぞ。
龍の子が臨戦態勢に入る。血の気の多い。華仙様の苦労が窺い知れる。
相手の熊もまた、背を弓なりに曲げている。既に唸り声は止んでいた。奇妙な沈黙が場を支配している。
――準備は万端、というわけね。
程よい疲れを得られれば、再び眠るに違いない。行き会ったが運の尽き――なのだろう。洞を埋め戻すくらいのことはしてやるか。
私はそう心に決める。
やると決めたら。
全力を以て当たるのみ。
加減はできないものと知れ。
「雲を」
――応。
龍の子が口から黒雲を吐き出す。
雷雲だ。黒の狭間からちらちらと青雷が見える。
あたかも――龍神様が舌なめずりをするように。
私たちの頭上を覆う、局所的な荒天。雨はいらない。どうせ雪になってしまう。それはあの熊を倒してからすべきことだ。
協力するのは初めて。それでも、既に二度刃を交えた間柄。
龍宮の使いと――龍。
言わずもがな。
相性は、極めて良い。
ばちん――と、空気が爆ぜる。
「行きます」
この場はもはや、私の住まう空域だ。
雷雲に道を付け、気流を伝わせ、いかずちを撃ち下ろす。
常ならば――緋色の羽衣が。
淡く燐光を放つ。
青白く。
覗く稲光と同じ色に。
はためかせているのは空気ではない。
蓄えられた雷の力だ。
空を指す。
――さあ。
獲物は鈍い。
簡単に打ち抜けますとも。
来い。
紫電が――奔る、
瞬間。
「双方、そこまで!」
みたび、雪の広場に咆哮が響く。
否。咆哮、と呼ぶのは間違いだ。その声は明らかに私たちを制止する意思を持って放たれたものであり、ただ吠えただけではないからだ。
響いたのは声だけではない。大地を震わせる振動が、遅れて届く。
震脚。
それ以外には考えられまい。振り返った視界の先、仁王立ちしている彼女の細い足に、そんな力があったとは。それとも、これも仙人の業――なのか。
疾駆に乱れた髪が、怒りで逆立っているようにも見えて。
逆上せていた頭からすぅっと血が抜けていく。
怒声の主が、
「己が過ちで起こしておきながら、力で打ち負かすなど言語道断!」
一歩、
「然るべき手段を用い、速やかに眠りに戻してあげるのが筋というものでしょう!」
また一歩、
「よしんば自分に不可能であるのなら!」
さらに一歩、
「私を待つことくらい、考えつかなかったのですか!」
近付いて。
立ち止まる。
「貴女!」
最初に矛先を向けられたのは、私だった。
「……はい」
「龍宮の使いであるならば龍を諌めずしてどうします!」
「……そんなことは」
したことがないのですけれど。
――なんて。
言えばまた話が拗れそうだ。
ここは黙っておくが吉か。
「そして!」
たじろぐ龍の子に向けて、はあ――と、華仙様は雲海より深い溜息を吐く。
「……今日だけで一度ならず二度までも私の命に背くとは。春まで修行休みはないと思いなさい」
――それは。
「文句がある、と?」
言葉は分からずとも、拒否したいという気配は察せるのだろう。刺すような視線が子龍に向けられる。
――……ない、が。
もう一度大きく息を吐いて、華仙様は私と龍の子の間を抜けた。
気圧されたように固まっている熊に、彼女はゆっくりと頭を垂れる。
……正直、対峙していた相手のことなどすっかり忘れてしまっていた。
「申し訳有りませんでした。私の眷属が粗相をしてしまったようで」
頷く。
他に取るべき行動が見つからないだけなのだろうが。
「埋め合わせはしますので。私の顔に免じて許しては頂けませんか?」
小刻みに何度も頷く熊を見やり。
華仙様は、ようやく胸を撫で下ろしたようだった。
ここへ到着してから一分と経っていない。力を用いることもなく、それゆえ誰一人として傷ついていない。迫力だけで双方を押さえつけてしまったのだ。
解決、と。
そう呼ぶに相応しい幕切れだった。
梢から落ちた綺麗な雪を掌に。
完全な球形ではなく、やや楕円状を目指して成形する。横から覗き込んだ龍の子が、ごくりと唾を飲み込んだ。
――餅が食いたくなるな。
「食い気から少しは離れた方が良いのでは? でないとまた華仙様の逆鱗に触れますよ」
――それもそうか。
ふしゅう、と龍の子は鼻息を白く立ち上らせる。苦笑したのだ。
もっとも。
二人は言葉が完全に通じているわけではないのだし、私が口をつぐんでさえいればいいだけの話なのだが。
「はあ。とんだ大仕事を押し付けられたものです」
洞に入っていた華仙様が、肩をほぐしながら現れた。するすると近寄った龍の子が、吐息を巧みに使って入り口を塞いでいく。
気功――と呼ばれる技法がある。
体内を巡る見えない"気"を整えることで、体調を良くし、健康を得る鍛錬法だ。自身に向けたそれは内気功、他者に向けたそれは外気功と大別される。
仙人はその扱いを熟知しているのだ――と、言われている。実際、目にしたことがないから分からないのだけれど。龍神様の食事と同じようなことなのだろう、おそらくは。
気功練達のひとである華仙様曰く。
あの熊は私の見立てた通り、妖怪となりかけていたのだそうだ。それが原因で"気"が乱れ、今年の冬は特別に眠りが浅く、虫の居所が悪かったのだという。
「気の流れを少し穏やかなものに整えましたから、まあ、これで一応ぐっすり寝られるでしょう」
「それは良かった」
「……まったく、話を最後まで聞かないからこうなるんですよ」
あの小鳥はそこまで警告してくれていた――らしい。洞が露出していることも、中には熊がいることも。最初からこうするつもりだったのだと華仙様は言った。
しかし全てを言う前に私と龍の子が先走ってしまったため、彼女が必要以上に疲れる結果となってしまったのだ。
龍の子がどこまで聞いていたのかは――定かでないけれども。
前もって分かっていたのだとしたら。少し恨み節を言ってもいいような気もする。
私以上に愚痴りたいひとが、目の前には居るわけだけれど。
眉間の皺を揉み解しながら、苦労性の――今日一日、華仙様を見た総括だ――仙人様が言う。
「貴女は多少マシだと思ったのに。どうしてこう、私の周囲には言っても聞かない連中ばかりが集まるのかしら」
「類は友を呼ぶ、と言いますね」
「……私も同類であると?」
「そこまでは。とは言え、朱に交われば赤くなるとも言います。ご用心を」
睨まれる程度でこたえていては、龍神様の側仕えは務まらない。関わらなければ良かったと後悔しているのだろう。龍の子が私たちを交互に見やる。こちらは緊張が手に取るようで面白い。後で存分に叱られればいいと私は思う。全てのきっかけはこの子なのだから。
――まあ、それはともかく。
「できた」
会話を続ける傍ら、手を動かし続けていたのである。
少々不恰好だが初めて作ったのだから及第点だろう。そういうことにしておく。
掌よりもちょっと小さい雪玉を胴体に、赤い実を目、紅葉した葉を耳にして。こんなものだったかなと記憶を掘り返してみても、名前の影に隠れて実物が出てこなかった。自分のあやふやさに参ってしまう。
「赤耳ですね」
「こういうものなのです」
たぶん、という一言は付け加えない。
「此方へ」
――何か。
龍の子をちょいちょいと手招きする。
空中を滑るように近付いてきたその頭に、私は雪兎を載せてやった。
「八ツ時にでも食べてください。氷菓代わりとは言いませんが、その程度ならばあなたの主も許してくれるでしょうし」
これ見よがしに人差し指を唇へと持っていく。龍の子には、食い気から離れろと言ったばかりで何を――と、思われるかもしれないが。
「構わないのですか?」
小さく苦笑しながら華仙様が訊いてくる。
私はええ、と頷いて、
「こういうものは作るまでが楽しいと相場が決まっているものでしょう? 作れただけでも満足しました。それに」
埋め戻された洞に目を向ける。
「見事、"難を転じて"くれたお礼も兼ねて、ということで」
持ち帰ったところで保管する場所もないのだし。身も蓋もない理由は、心の中だけに留めておく。
元々、何らかの礼をするつもりではいたのだ。鳥にだけ何かを贈ったのでは釣り合いが悪い。始まりが龍の子にナンテンを食べられてしまったことであるとしても、だ。
力を貸してもらうだけでは気持ちが淀んでしまう。空気の流れと同じようなものだと――私はそう思っている。
「とは言え、それだけでは物足りませんよね」
とん、と雪兎の額を突く。
「食べてしまうよりも少しだけ待っていただけるのなら」
『どうなるのだ?』
「そうなります」
「あなた――声が」
華仙様が驚いたように目を瞠る。
雪兎が融けるまでの簡単なおまじない。
私たちが龍神様の言葉を解するすべを封入してみたのだ。巫女や神主が、神霊と交信する術を真似て。ぶっつけで上手く行ってよかった。華仙様ばかりでなく、龍の子にも言い分はあるはずだし。礼にはこれくらいがちょうどいいだろう。
――さて、と。
ふわり。
宙に浮く。
「私はこれで。今日はありがとうございました」
何だか色々と――文句だとか礼だとか説教だとか――言いたいのを無理にこらえるような、そんな表情が一瞬華仙様の顔を過ぎり。
しかし。
結局、彼女は仕方なさそうに眉尻を下げた笑みを私に向けた。
「次の地震予報はどうか、私のところを訪ねて下さい。悪いようにはしませんから」
「肝に命じておきます。それでは」
「また、いずれ」
『また、いずれ』
仙人と龍の子は異口同音に言って、ほぼ同時に頭を下げた。
ひらひらと手を振り私は私の居場所を目指す。
龍神様に雪兎を贈ったら、どんな顔をなさるのだろう。ふと、そんな想像が頭を掠めた。
凍て空の雲を胴にすれば、作れるだろうか。冬の乾いた薄雲では難しいかな。頸の珠を瞳に使いたいので貸して下さい、なんて。冗談口で言ってみようか。
形容しがたい表情の龍神様を思い、口元をほころばせたその時だ。
「――おや?」
頬に冷たいものが付着した。
粉雪。天気予想は当たったらしい。
――ふむ。
急ぎ帰るとしましょうか。
この分なら、空には良い感じの冷気が待っている。
地上でもらった温もりを胸に抱いていれば。
私好みの静かな冷たさが、きっと際立つだろうから。
私がそう言うと、総領娘様は決まって妙な顔をする。こんな寒い季節のどこがいいのか。春や夏や秋の方がよほどいい。人妖問わず活気に満ちた季節を差し置いて、なぜ静まりかえった季節を好むのか、と。
理由は単純極まりない。寒さで生物の活動が鈍る冬は、龍神様もまた静かに過ごしていることが多いからだ。始終気を張って言葉を聞き届けなければならない季節と違い、少しばかり目を離した程度では、変事が起こる確率が低いのである。もちろん、静かでも健やかであることが大前提ではあるのだけれど。
要するにあんたが物臭なだけじゃないの――そう、呆れられたとしても。
私にはその冷気が好ましいのだ。
本格的な冬に入る前、私は妖怪の山中であるものを見つけていた。晩秋と初冬の狭間、紅葉に紛れるようにして、灌木の間に顔を覗かせていた――小さな赤い実を。
幻想郷では珍しいナンテンだ。寒さが厳しい土地ではあまり見かけることがないのだけれど。龍宮の使いは博麗大結界に干渉されることなく、その内外を行き来する龍神様に付き従う。だから外の山で見知っていたのだ。
見知っていた――と言っても、名前を知ったのはわずか百年ばかり前のことである。
あれは私たちが"お告げ"と呼び慣らわしている、龍神様の言葉を伝える仕事の最中だった。年が開けてすぐのことで、神棚に祀られていた赤い実が、ふと気になって訊いたのだ。
そしてその名と、「難を転ずる」に音が通じるため、縁起物とされていることを教わったのである。
今では告げたところで信じてもらえないから、人間と関わりを持つこと自体が減ってしまった。それでも、ナンテンの名前だけは何となく忘れることができないでいる。
龍宮の使いが、「難」とは切っても切れない関係にあるせいなのかもしれない。
植生を知る機会はあまりなかった。食べ物が少ない季節に実を付け、鳥や獣の餌となることくらいしか。そういうものだから、仮に無くなっていたとしても、私が気を落とす筋合いはない。
ただ。
名前を教えてくれた人間が、赤い実と葉で雪兎を作っていて。
私も、機会があれば倣ってみたかったのである。
「ああ、残ってる」
私はほっと安堵の息を吐いた。わざわざ龍神様の傍を離れ、単身で来た甲斐があったというものだ。
山中異界の深く、白狼天狗の哨戒路を少し外れた場所。雪で覆われた獣道を慎重に辿り、霜柱の感触を足底で楽しみながら歩を進めた先に。
赤い実がわずかに残っていた。
葉を落とした広葉樹の密生地。大木の陰、白に埋もれてわずかに覗く、赤。初めに見つけたときと比べれば、ずいぶん数は減っているけれど。どうせ使うのはちょっとだけなのだ。食べ尽くされていないだけでも僥倖と捉えるべきだろう。親指大の赤い葉もそれなりに残っている。
――よし。
地に積もる雪は塵混じりで綺麗ではない。そんな気がした。ふわりと空気を掴み、空に浮かぶ。木の枝に積もる雪をかき集め、丸く形を整える。羽衣を引っ掛けないよう、注意しながら。
程無く、掌よりも少し大きい兎の胴ができあがった。さして難しくはない。物自体は簡単にできてしまう。何が楽しいと訊かれても、答えに窮してしまうような。
――まあ、こういうのは。
作っている過程が重要なわけで。作った後は――うん、いくつか並べて鑑賞するのも乙だろうか。雪見酒と洒落込むのもいい。と言っても、私は鬼ではないので都合よく酒を持ち合わせていないのだが。
――天界で桃酒を分けてもらうのもありかしら。
思索を白くたなびかせながら、土の上に戻る。
「確か――この辺りだった、はず」
なのだけれど。
「……はて」
先刻まであったはずの赤い実が消えている。ばかりか、葉を残していた枝まで見当たらない。
真逆。
雪玉を作っているわずかな間に食べられてしまったのか。ここに着くまで、幾度か鹿の姿は見かけていた。彼らの仕業なのかもしれない。
それは――何というか。
悔やんでも悔やみ切れないのだけれど。
もしや群生してはいないだろうか。
一縷の望みをかけ、木々の根元付近を観察しながら、歩く。
果たして。
見つけた。
しかし。
今にもそれを食べてしまおうと口を開いた者がいる。体長三メートルあまり。蛇の妖怪かとも思ったのだけれど――違う。あれは私がよく見知っている生き物だ。
「……龍の」
子ども、か。
「あ」
びっくりして動きを止めてしまったのが、いけなかった。
枝ごと丸呑み。犯人はあの子だったのだ。
うっすらと満足そうに目を細めている。雪塊が掌に無情な寒さを伝えてくる。
「ああ……」
龍の子は基本的に雑食だ。木の実から屍肉まで何でも食べる。おまけに大食らいと来ている。成長するに従い、あめつちから直接霊気を摂取できるようになるため、食事を必要としなくなるのだが。
存在自体が稀少なものであり、個体数は決して多くない――はず、だ。加えて、通常は雲居に隠れ住んでいる。山の中で簡単に見つけられるような存在ではないのに。
――それが、どうして。
今、ここなのか。
思ってみても仕方がないか。実際にいるのだから。
口をこじ開けて取り出すわけにもいかないだろう。あれはあれで冬の食料事情が厳しいからなのだろうし。
無念ではあるけれど。
「……縁がなかったということでしょうね」
龍の子は食事に夢中でこちらには気付いていないようだ。すぐに立ち去れば、食事の邪魔と認識されることも、危害を加えられることもあるまい。
……まあ、ちょっとした余暇に思い出しただけのことですし。
できなかったからといって、何が起こるわけでもない。
未練を振り払うように、立ち去ろうとしたときだった。
がさりと音がした。
下草をかき分けるようにして、出てきた人影がある。
「あなたはまた勝手に! 待ちなさいと言ったでしょう!」
開口一番、龍の子を叱りつける。龍の子が申し訳なさそうに首を下げたのも意外だったけれど、それ以上にこんな場所を訪れる者が、私以外にいたことのほうが驚きだ。
「だいたい――?」
「おや」
目が合ってしまった。
肩口で揃えた桃色の髪を、両のシニヨンにまとめた女だ。黒を基調にした大陸風の服。胸元にあしらわれた牡丹が印象的な。右腕の袖から覗いているのは包帯だろうか。怪我をしている? あの子龍とは知り合いのようだが、あるいは噛み付かれでもしたのか。
子であっても龍は龍だ。腕一本喰い千切るくらいのことは、簡単にやってのける。そうされたのかと思うくらいに厳重な巻き方だった。反対の手首には鎖付きの腕輪が嵌められている。
――ああいうのが流行りなのかしら。
天界で酒浸りになっている鬼も同じような腕輪を嵌めていた。天狗の関係者ではなさそうだが、だとすると何者なのだろう。ここは彼らの縄張りなのに。
そう思ったのは向こうも同じであるらしい。女は警戒するように目を細め、
「誰です」
と、短く誰何した。
「衣玖です。永江の」
隠す必要も無いので簡潔に答える。問い返したいのは山々だが、どうも彼女は関わると面倒そうな空気をまとっていて、躊躇われる。
龍宮の使いは災害という大量死が発生しかねない状況と隣り合わせの存在だ。故に地獄――ひいては是非曲直庁ともそれなりに関わりがある。
女がまとう雰囲気は、どことなく似ているのだ。
幻想郷を担当する――説教好きの閻魔に。
――ふむ。
ここは早々に立ち去るのが賢明か。
決意は一瞬だった。私らしからぬ即断だ。不自然ではあるが会話を切り上げようとして。
「永江――というと、神社で顔を合わせた天人が話していました。龍宮の使いですね」
女の言葉に引き止められた。
何と。
――厄介な。
私は思わず天を仰ぐ。
総領娘様のことだから、さぞかし妙なことを吹き込んだのだろう。一時期に比べればずいぶん丸くなったけれど、それでもあの方は物事を掻き回す才に長けているから。
「……確かに私は龍宮の使いですが。貴女は?」
仕方なく訊き返すと、女は小さく礼をした。
「これは申し遅れました。私は茨華仙。この山に住まう仙人です」
「仙人、ですか?」
「はい」
ふむ。仙人は妖怪にとって格好の餌であるはずなのだが。
私を龍宮の使いと知って名乗るとは。よほど腕に覚えがあるのか。あるいは、総領娘様が案外穏当な伝え方をしたものか。まあ、私たちは積極的に危害を加える妖怪ではないし、彼女は山に住んでいる――それだけでも実力の程が窺い知れるといえば、そうなのだけれども。
華仙と名乗った女は、再び剣呑な表情を浮かべる。
「こんな場所で、何を? まさか、幻想郷に災害が振りかかるとか」
「ああ――いえ、そんなことはありませんよ」
「龍宮の使いが地上に降りる理由といえば、それくらいしか思い当たらないのですが」
言わざるを得ない、だろうか。この期に及んで拒絶してしまうのも不自然だし。
私は後ろ手に隠し持っていた雪塊を差し出す。
「……これは?」
彼女は訝しそうに眉をひそめた。
「大したことではないのです。ただ少し、雪兎を作ろうかと」
「雪――兎?」
「ええ」
気恥ずかしさをこらえながら私は言う。
「冬の初めにここでナンテンを見つけていたもので。以前見た雪兎を作れないかと思った次第でして」
「……こんな場所なのに、ですか」
「散策は趣味なんですよ」
「散策でこんな処へは来ないと思うのですが」
「はあ。信じていただかなくても別に構わないのですがね」
関わりを深めたくないばかりに、投げやりな答えを返してしまう。
まあ納得しておきましょうと仙人は言った。
「目的を遂げられたのならば、帰るが筋ではありませんか」
「ああ、それが――その」
そこの方に全て食べられてしまったようで――と、やや言葉を濁しながら龍の子を指し示す。
ぎょっとしたような顔で振り向く彼女と、気まずそうに視線を逸した龍の対比が少し可笑しい。
「どうしてもと言う訳ではなかったのです。お構いなく」
庇おうと思ったわけではない。ただ、龍宮の使いとしては龍と名の付くものを蔑ろにするわけにもいかない。
そう思ったが故の、微妙な言葉だったのだが、仙人は少し考えこむような素振りを見せた後、
「しかし、龍宮の使いに気分を害されたままでは私の沽券に関わります」
と、言った。
――どうしてそうなるのだろう。
私の心の中に警鐘が鳴り響く。まずい、これは面倒なことになりそうだ。
「構わない、と私は言っているのですが――」
「私が構うのですよ。どうか聞き分けて頂けませんか」
腰砕けの拒絶は、頑なとも言える返答で遮られた。何を考えているのか。
読めない女だ。龍宮の使いなんて、珍しいだけで何ができるというわけでもないのに。龍神様の言葉にしても、聞き届ける者がほとんどいないのは数年前の異変で経験したことである。
私の伝え方に落ち度があったのは、その、認めざるを得ないけれども。
「……ならば、代わりとなる実を探しては頂けませんか。貴女の手を煩わせ過ぎない範疇で」
「分かりました。茨華仙の名に於いて、必ずや見つけ出してご覧に入れましょう」
一世一代の大仕事であるかのように、女は決然と言った。
ある種の初々しさすら醸し出す、得体の知れない感覚。それが、私の知覚を刺激している。
「……頼みます」
何だか。
ひどく難儀な人と行き合ってしまったのかもしれない。
「鳥に聞いてみるのが最も早道でしょうね。まあ、冬場の貴重な食料について話してくれるかは分かりませんが」
「どうやって鳥と話すのです」
「それくらいは仙人である私に任せて下さい」
「ほう」
禽獣と言葉を交わせる"真っ当な"仙人など、そういるものではない。
彼女の仙人であるという言も、ともすれば方便かと思っていたのに。
「華仙様はなかなかに力のある方なのですね」
「やめてください。これしきのことができなくて仙人を名乗れはしません。それに、せいぜい獣の言葉が分かる程度なのです。貴女方のように龍の言葉まで解することはできませんから」
言葉とは裏腹に、彼女はかすかに胸を張った。
ところどころに妙な分かりやすさが顔を覗かせる。面倒な性格のようだ、という第一印象を覆すには至らないけれど。
「それにしても」
華仙様は俄に眉根を寄せる。
「どうしました」
「華仙様、なんて呼ばれるのは面映いものがありますね」
「そうですか?」
「ええ。普段相手をしている人は、私を敬ったりしないので」
「慇懃も過ぎると無礼だとよく言われるのですがね」
「礼節を放棄するよりはマシです」
「そうでしょうか」
「妖怪が皆――貴女のようであれば。この幻想郷も、もう少し生きやすい世界になるのでしょうね」
嘆息。するすると吐息が白く立ち上る。とは言え、そればかりは難しいだろう。自分本位が妖怪の基本原則。他者を慮って己を曲げること――それは、妖怪が最も苦手とすることだからだ。
華仙様自身、それを強いるという点では、他者をこそ曲げようとする妖怪じみた考えが垣間見えている。
仙人の行動原理は、妖怪と人間両方に通じるものがあるのだ。
天人が欲望を捨てなければ成れないものであるのに対し、仙人には敬われたい、自分の力を誇示したいという欲が残っている。私はその基準に外れる天人を知っているから、忘れそうになるのだが。
――その、欲が。
彼女に硬軟の両方をもたらしているのかも知れない。自覚があるのかは分からないけれど。
と――。
華仙様の肩に、一羽の小鳥が舞い降りた。白い吐息は狼煙を兼ねていたのだろうか。
――でなければ。
雪色の森林で彼女の服が目立つとはいえ、あまりに間が良すぎるというものだろう。
「あなたはナンテンを知りませんか?」
私の思考をよそに、当然の如く華仙様は訊いた。
鳥はわずかに首を傾げ、短く囀る。私にはただの音としか受け取れないが、彼女は二三度頷いて、
「分かりました。ありがとう」
と、礼を告げた。用は終わった、と言うように一声鳴いて、小鳥は空へ帰ってゆく。
「教えてくれたのですか?」
「いえ。彼女はそもそもあの実を食さないのだそうです。ですが、仲間に尋ねれば分かるかもしれないと言っていました」
「私たちにできることは」
「待つこと。それだけです」
言うなり、華仙様は指で輪を作り咥えた。
指笛だ。
鋭い音が静寂を裂く。幾ばくもしないうちに大きな羽音が近付いてきた。葉の落ちた木立の上を、私の身の丈をはるかに超える鳥が旋回しはじめる。あれは鷹――だろうか。それにしてはずいぶん大きい。
「護衛を頼みます!」
ギィッ、と短い鳴き声を残して、大鷹は小鳥が飛び去った方角へ向かう。
「よろしいのですか? 猛禽にしてみればまたとない餌なのでは」
「あれはただの猛禽ではありませんよ。この子と同じ、私の眷属です。私の言うことなら聞き届けてくれます」
龍の子の角を撫でながら、
「この山は天狗の影響が強く、カラスが幅を利かせているんです。他の季節ならばともかく、冬場は餌が少ないので、横取りや狩猟という行動に移る可能性も高い。その点、猛禽は彼らにとって大敵となり得ますから。厳密には違いますが、姿は酷似していたでしょう?」
「故に護衛を、と」
「ええ。本来、あまり褒められた手段ではありませんが」
生存競争に関わることですから、と華仙様は苦笑いのような笑みを作る。
それにしても。
「山内で指笛など吹いても大丈夫なのですか」
「は?」
「天狗の影響が強いとご自分でも仰ったではありませんか。聞きつけられれば厄介なことになるのでは」
「私は――そう、山に住んでいますし」
誤魔化すように――笑う。
答えになっていないと私は思う。
――問い詰めれば。
ボロを出す――だろうか。
また、思う。
彼女が山に住んでいること自体、不思議なのだ、と。
仙人の肉は喰らった妖怪の力と格を上げる。言うなれば、彼女は幻想郷において最も住み難い場所にいることになる。
――と言っても。
私がそうであるように、最近は言葉を交わせる相手を捕食しよう、と考える妖怪が減っていることは事実だ。それを見越した上で、山の上に住まう者たちと話をつければ、居住することは可能なのかもしれない。
しかし――どうやって?
好奇心が首をもたげる。待っている間は暇なのだし、色々と突っ込んで訊いてみようか。彼女が如何に渡りを付けたか知ることができれば、円滑な情報伝達の秘訣が見つかるかもしれない――、
――すまないが。
淀みのない思念が脳裏に直接響いた。
見れば、龍の子が申し訳なさそうに頭を垂れている。
――主の詮索は止めて頂けないだろうか。
続けざまに言われる。華仙様は何の反応も示していないが。
なるほど。
華仙様の言葉を龍の子が解せているのに対し、龍の子の言葉は華仙様に不完全な形で届いている、というのは本当らしい。仕草や表情で言わんとするところを察している――そんなところか。
「まあ、そんなことはどうでもいいこと――ですね」
止めろと言われても尚継続するほど、特別の深い興味があるわけでもない。
子龍に促されるままそう言うと、華仙様はほっと一息を吐いて、肩をわずかに下げた。
何らかの事情があるのだろうか。私には関係ないことだけれど。地上の由無し事は時に根深い。
この子龍の、あるいは親が関わっているとなれば――藪をつついて蛇を出す結果にもなりかねない。
――龍の、ねえ。
はたと気付く。
いけない。
詮索はなし、だ。
「ところで」
「な、何でしょう」
露骨にたじろぐ華仙様を無視して、私は話題を転換する。
「暇ですね」
暇なこと自体には慣れているのだけれど。
龍神様の言葉を聞く以外には、いつも空を漂っているようなものだし。
それはそれで楽しいから――実は、地上で暇を潰すことに慣れていないのだ。
「一箇所に留まる必要はないのですよね」
「確かに、あの子なら私たちが山のどこにいようと幾らもしないうちに見つけ出しますが」
「でしたら、少し散歩でもしませんか」
私は華仙様に手を差し伸べる。
「理由はどうあれ、貴女と一緒であれば天狗に邪魔されることはないのでしょう?」
「……ええ」
結局、私にはそれが性に合っている。
散策は――趣味、なのだ。
白い森を行く。
妖怪の山は基本的に落葉樹林である。人間が建材に使うような常緑樹は少ない。四季の移り変わりを楽しむ――妖怪の性質を鑑みれば、サクラやカエデが多いことは、彼らの好みによるものなのかもしれないが。
見上げた木々が寒々しい姿を晒している以上、私たちが見ている雪の下には腐った落ち葉が積もっているはずであり。
当然の帰結として、足元は――悪い。
日頃常に空を飛んでいるせいか、私は歩くことが不得手でならない。目的があれば情緒を楽しもうという気になるけれど、一度壊された気分は容易に元には戻らないものだ。
それは同伴者がいる場合であっても変わることのない主義で。私は歩く華仙様の隣に、地面からわずかに浮いて並んでいる。
空にも薄く白雲がかかり始めていた。帰りは雪に遭うかもしれない。まあ、雪空も好きなので問題は何一つないのだが。どのみち雲の上に出てしまえば、降っていないも同然なのだし。
ところで。
私が飛ぶと――羽衣が風をはらんで揺れるのだけれど。
子龍はそれにいたく興味を刺激されるらしい。さっきから羽衣の尻尾を追いかけるようにくるくると私の周りを旋回している。龍宮の使いを見たことがないのだろうか。思えば、最初に言葉を送ってきたときにもずいぶんとぎこちなかった。龍である以上、それは考え難いのだが。
――詮索しない、というのも。
なかなかに難しいな――そう思う私に向かって、
「……申し訳ありません」
「はい?」
出し抜けに、華仙様が頭を下げた。
「鬱陶しい――でしょう?」
やや厳しい目が龍の子に向けられている。
――そういうことか。
「まあ、この程度なら慣れていますし」
「慣れて?」
「私が仕えているのは龍神様ですから。小蛇にまとわりつかれたくらいで、目くじらを立てていては始まりませんよ」
「そ、そうなんですか」
「普段は温厚な方なのですけれどね。一度怒り始めると――もう」
私は首を左右に振る。
手が付けられない、というのはああいう状態を指すのだ。憤怒のきっかけは様々である。最近は龍脈が乱れ、満足に霊気を得られないから、尚更その頻度は高くなっている。
龍脈とはとどのつまり、山やそれを含む地形の起伏を指す。それに沿い、龍神様の食べ物――地の気が集まるのだ。
しかし人間が手を入れた山は、彼らが何らかの理由で手入れをやめてしまうと途端に荒れる。幸いと言うべきか、幻想郷の中はそうでもないのだが。
荒れたなら。
龍脈は――乱れる。
結果。
龍神様が怒り、大雨や山崩れという形で現れる。無論、一概にそれだけが原因であるとは言えないのだけれど。
思案顔で華仙様は言う。
「この子も長じればそうなってしまうのでしょうか。人に――危害を加えるように」
「これから次第でしょうね。天を裂き地を砕く力を手にするのは、並大抵ではかないません。実際にそうなるのだとしても、我々が見届けられるかどうか」
「一朝一夕には成りませんか」
「当然です」
雪に覆われた低木を眺めながら、私は頷く。
それだけ大きな力を持つ龍神様であるからこそ、私たち龍宮の使いは畏れ敬い、付き従うのだ。
「修行あるのみ、ですよ」
これは龍の子に向けて言っておく。羽衣の緋色と戯れていた子龍は、任せろと言わんばかりに胸を張った。
――是非もない。
龍であることに誇りを持つ。
まず第一歩はそこからだ。この子の場合は既に踏み出しているのだろう。あとは――過信と慢心を如何に戒め、鍛錬に励むか。
――まあ、それは。
導き手が華仙様ならば、道を違えることはそうないのかもしれないが。今ひとつ言うことを聞いていないようで、少々不安ではある。
「あの」
唐突に華仙様が立ち止まった。
「はい?」
「永江さんは――何を?」
訝しげに首を傾げて、訊かれる。
「おや、気付かれましたか」
これだけきょろきょろしていれば当然か。
むしろ問われるには遅すぎたとも言える。
「もののついでにドングリでも探してみようかと」
「雪に覆われて見えないでしょう?」
「目だけで探していれば、ね」
いくら寒い季節であっても、日中太陽が出ている間には、積もった雪が気化するものだ。
つまり、微弱な上昇気流が発生するのである。
落ち葉の上に積もった雪と木の実の上に積もった雪では、溶解する速さに違いが出てくる。それを感知しさえすれば、
「この通り、というわけです」
羽衣の先端を翻し、雪路を穿つ。さく、と軽い音を立てて茶の地面が覗く。転がっているのは親指の先くらいのドングリだ。
「餌の情報を教えてもらうわけですし、対価がないというのは些か気が引けるものでして。……貧乏性と笑って下さいな」
「素晴らしい!」
ぎゅっと両手を握られて。
私は呆気にとられてしまう。
「は?」
「妖怪のみならず、人間も貴女を見習うべきです。最近は忠言を聞き流す輩が多すぎる。相互扶助と適度な禁欲こそ、魂の豊かさを左右するというのに」
「あ、はは……」
――私は。
やりたいことをやっているだけ――なのである。
過度に買いかぶられても困るのだけれど。
鬱積を吐き出し足らない。そんな表情の華仙様を、やんわりと振りほどき、私は手を打ち合わせる。
「ただ集めるだけというのも芸がありません。どうです、ここは一つ弾幕ごっこでも」
「弾幕ごっこ――ですか?」
狐につままれたような顔をされてしまった。話題の転換としては性急に過ぎたか。
「はい。制限時間内に集めたドングリを持ち玉とし、残弾が尽きるまでを一つのスペルと見做すのです」
「ほう――それは」
――面白そうだ。
華仙様と龍の子が視線を交わし合い、挑戦的な笑みを浮かべる。
「私は一人で構いません。そちらは二人でどうぞ」
「いいんですか?」
「ええ。手心を加えるという奴です。あまり得意であるようには見えませんし」
「……言ってくれますね」
華仙様がすっと目元を引き締めた。中々に迫力がある。これは、読み違えたかもしれない。
とは言え、もう引き下がれるはずもない。
「制限時間は四半時で構いませんか?」
「はい。ああ、途中で鳥たちが帰ってきた場合は中断する方向でよろしいでしょうか」
「ええ」
それでは。
「参りましょう」
「尋常に――」
――勝負。
端的に言おう。
結果は私の惨敗だった。
勝ち誇ったように華仙様が言う。
「地の利は私たちにあったようですね」
「……考えてみれば、仙人というものは日常的に龍脈から霊気を取り込んでいるのでしたね」
俗に"霞を食べる"と表現される行為だ。
「気流を読める程度ではそもそも――不足、と」
――口程にもなかったな。
「……返す言葉もありません」
被弾し、落ちた帽子を拾う。やはり見込みが甘かったらしい。
いったいどこから見付け出したのか。そう思わせるほどの残弾数。的確に私を狙う手技。空気を読めばある程度どこから弾が飛んでくるのか見当がつけられるのだが、反応できなければ関係のない話だったわけで。
反対に私の弾は龍の吐息で軌道を歪められ、二人には掠りもしないのだ。妖力を上乗せしない戦い方だったことも災いした。まともに当たっても痛くない程度の威力。遊ぶには丁度良くても、最前の挑発がどうやら二人に火をつけてしまったようで。
最終的には狙いすました二発の弾が、私の帽子から伸びるリボンを射抜き、そこで私が負けを認めたのだった。
「やれやれ、ですね。それなりに自信はあったのですけれど」
――筋は良い。励まれるが宜しい。返す返す、この程度とは思わなかったが。
「……さすがにそこまで上から言われると腹立たしいですね」
おそらく私の方が長く生きているはずなのだが。苦笑すると、龍の子は尊大に頷いて鼻息を噴き出した。
「こら。増長は禁物です」
たしなめる言葉と共に、華仙様が子龍の頸を叩く。
――うわ。
私は我が事のように身を竦めた。
あれは痛い。逆鱗を直撃だ。龍の子は身体をくねらせて悶絶している。信頼関係の表れではあるのだろうけれど。
そこへ、上空から聞き覚えのある鳴き声が届いた。
先程と同じ小鳥が華仙様の肩に留まる。
「見つかったのですか? ……そうですか」
「ありましたか」
「一応――と、言ったところでしょうか」
華仙様は小鳥に礼を告げると、集めておいたドングリを指す。私たちは小一時間ほどで膝丈近い高さの山を作り上げていた。大人げなく弾幕ごっこに熱中してしまった結果だ。
鳥は歓声を挙げて小山に飛びついた。あの鳥は確か、食べ物を貯蔵する性質を持っているのだったか。仲間内で融通すれば、この冬を越える助けくらいにはなるだろう。
「それで、方角は」
「西方と。しかし――」
――そこまで競わないか。
華仙様の言葉を遮るように、龍の子が言った。
「む?」
私には鳥の言語は分からなかったのだが。龍の子は理解していたらしい。
瞳に宿るは侮りと――華仙様への意趣返し、か。優先順位をあえて私に据えることで、先般の仕打ちに抗議する魂胆なのだろう。
主よりも客人を優先する。まるで子供が、厳しい親よりも優しい親戚に懐くような。
ほんの小さな反抗心。それがどこまで効果を持つのか、私には分からない。
華仙様に悪い。利用されているようで癪だ。いくつかの言葉が浮かんで消える。
最後に残ったのは、私は私なりに雪辱を果たそうという思いだった。
「一度勝っていい気になっているようですね」
――何とでも思うがいい。
「……いいでしょう。場所は」
――西方五町。洞穴の前にあるそうだ。
洞穴、か。
それならば。
空気の流れに変化が出やすい。
――手心を加える、と言ったかな。
分かっているのだろうか――私の懸念を他所に、龍の子は不敵に笑う。口の端からちろりと覗いた舌を見て、私は得心した。
これは――おそらく。
先の理由に加えて、またナンテンにありつけると思っているのだろう。勝って味を占めたわけではなく、食べて味を占めたというわけだ。龍の言語を解することにかけては、人後に落ちない自信がある。間違ってはいまい。
手加減の必要はない。ばかりか、先に発見しなければまた食べ尽くされてしまいそうだ。華仙様の言葉をどこまで聞き入れるかは、結局、この子の裁量次第。協力することはあるけれど、完全に従属しているわけではないらしい――というのが、短い付き合いで得られた結論だった。
「ちょ、ちょっと待ちなさい。貴方たちは何を勝手な――」
――往くぞ。
「ええ」
止めようとする声を、私たちはあえて無視した。
――柄にもない。
熱くなっている自覚はあるけれど。
口程にもない――という。
あの言葉の、言外に込められた意味を思う。
侮蔑の先に存在していたのはきっと、私ではない。
私を通じて、龍神様を軽く見たのだ。
従えている者の格。上位に立つ者の力を推し量る、その基準。
私が弱いから――龍神様をも見下した。
それだけは。
龍宮の使いの矜持にかけて、我慢ならない。
合図は必要ない。互いの呼吸はもう読めている。
――いざ。
風切り音と、
金切り声を、
後にして。
滑り出しはほぼ同時。
木々の間をすり抜けるように、飛ぶ。
向かい風がその配置を教えてくれる。私が心を傾けるべきは、ただ羽衣の制御のみ。
体躯で空気を押し開き、羽衣の上を滑らせるように受け流す。
龍の身体は細く、通り抜けることに関してはあちらが有利だ。土地勘という面でも負けていることは実証済み。
加えて、先の弾幕戦では二対一を演じている。蓄積した疲労は私の方が大きいはず。
しかし――、
だからこそ面白い。
口の端が勝手に吊り上がる。
ひゅうひゅうと風が後ろに流れていく。
空気はいよいよ以て冷たい。
羽衣のはためく音と、己の鼓動だけを感じている。
気流に乗り、最高速を維持して。
それでも。
――っ。
徐々に。
龍の子と距離が開いてゆく。
相対的な速度差だ。
私が飛ぶ速度は、そもそもさして早くないのだ。普通に競ったところで勝てる相手ではないのである。
それを見越した上で持ちかけられた勝負。
――ですが。
私だって。
勝算もなく受けたわけではない。
この身は。
「龍神様と――共に在る」
それを思い知らせてやる。
羽衣の制御を手放す。
途端、流れていた風が私の身体を押しとどめる。
がくんと速度を落とした私に、龍の子がせせら笑うような表情を見せた。
――構うものか。
既に。
あちらに意識を割いている余裕はない。
禁じ手だ。
だが。
仕方あるまい。
誇るがいい、龍の子よ。
あなたが私を本気にさせてしまったのです。
ただし。
私の後塵を拝していただくことに、変わりはありませんが。
龍の子は右に左に身体を揺らし、巧みに前へ前へと飛んでいる。木々の障害をものともしていない。やはりこの辺りの地理を知り尽くしているのだろう。
――ならば。
多少の無茶は許される――か。
洞察は一瞬。
とにかく重要なのは、先行されているという一点のみ。
――上手く避けて下さいね?
進むべき方向を見定め、
気流を操り、
気圧を一気に下げる。
心象は。
五爪を以て断ち切る一撃。
水がそうであるように。
空気もまた――高きより低きへ流れる。
なればこそ、その流れに身を委ねることで加速が得られるのだ。
竜巻に飲まれるが如く。
私の身体は一気に進む。
欠点は若干呼吸が苦しくなることだ。しかし龍宮の使いはそもそも遥か高空、空気の薄い層で生きている。完全に無くならない限り、問題はない。
地上の空気は――龍宮の使いにとって、濃過ぎるくらいなのだから。
猛然と追い上げて。
目を見開いた子龍を抜き去る。
交錯する瞬間に見えたのは。
驚愕と――焦り。
とは言え私にも子龍の行動を斟酌する余裕はない。
禁じ手――気流の操作は、私個人の力では成し得ない。
龍神様の御力を借りなければならないのだ。
いつだか、烏天狗の取材に応じたときにも使った業。
然るにわずかだとしても、私の身には過ぎた力。
細心の注意を払い空気を読み続けなければならない。読み誤れば、気流が形成する波に弾かれ姿勢を維持できなくなる。こんな場所でそうなれば、さすがに怪我は免れまい。
――痛いのは。
嫌――ですし。
追いすがる音は、風に紛れて聞こえない。
細めた視界を。
木々が流れていく。
白銀が、舞う。
風の導くままに。
往く。
――む。
前方からの空気が明確に変化する。湿り気を帯びた、洞窟特有のそれだ。
近い。
思う間もなく――、
視界が開けた。
そう広くはない。十メートル四方というところだろうか。
正面には崖。
小規模な雪崩が起きた形跡が残っている。それから今まで雪が降らなかったのだろう。大部分の地肌が覗き、地表付近にはぽっかりと暗い穴が口を開けている。あれが件の洞穴か。
――それなら。
この近くだ。
気圧を高め、無理やり急制動をかける。全身を強く殴られたような衝撃。飛びかけた意識をかろうじて繋ぎとめる。まあ、たかだかこの程度で勝ちを拾えたなら、儲け物だろう。
獣が少ない季節でよかった。事故の可能性なんて、考慮できなかったから。
龍の子がわずかに遅れて辿り着く。私はぷかりと浮かんだまま待ち受けていた。龍は表情の変化が分かりづらいのだが、私には手に取るように分かる――解ってしまう。
「ここ、ですよね」
――……そのようだ。
「どうですか? 嘗めてかかるからこうなるのですよ」
動悸と荒れる呼吸を無理矢理抑えつけ、精々勝ち誇ってやる。ほんとう、未熟で助かった。もう少し上手く力を扱えるようになったなら、龍宮の使い程度では歯が立たなくなるだろう。
歓喜と同時に押し寄せたのは、しかし、後悔だった。龍神様に何と言い訳をすればいいものやら。これで二度目なのだ、無断で御力を借りたのは。この程度で大きく機嫌を損ねるような方ではない――そう分かっていても、やはり龍宮の使いには、かの神への畏怖が深く根付いている。
哮、と。
悔しそうに龍の子が咆えた。地の底から震うような低い声で。梢に積もった雪が落ちる、どさどさという音に満足を覚えながら、私は首を巡らせる。
「――おお」
あった。
落雪が作る白山の脇に、見覚えのある赤い葉と実が。
「食べないでくださいよ?」
食べるものと決めつけて言う。
――虚仮にするな。そう飢えてはいない。
と、憤慨したような答えが返ってきた。
「だといいのですが。どうやらあなたは食い意地が張っているようですし」
――ふふ。これ以上食べては、また主に叱責されてしまうしなあ。
親しげに笑う。何だか妙な連帯感が芽生えてしまったような。
まあ――悪い気はしないけれども。
それにな、と龍の子は続けた。
「何です」
――その実には、わずかなりだが毒があるようだ。食べ過ぎては腹を下してしまう。
「なんと。道理で全てを食べ尽くされていなかったわけですね」
大げさに驚いてみせる。
実際のところは冬の間食い繋ぐための戦略なのかもしれないが。その辺りは乗りという奴だ。
しかし――そんなものを人間は祝いの席に飾っていたのか。と言っても食するわけでなし、「難を転ずる」という名前の方が重要だったのだろうけれど。
地に足を着ける。本日二度目の自発的な着陸。私にしては珍しい。
歩こうと片足を――持ち上げたとき。
再度、咆哮が轟いた。
顧みた龍の子が自分ではないと首を振る。
揃って目を転じた先には――洞穴が。
その内奥から。
低く。
太い。
唸りが。
届く。
言葉の分からない私でも、込められた感情は如実に理解できる。
苛立ちだ。
ひどく機嫌の悪い声が、徐々に近付いている。
出て来る――のか。
そして。
籠っていた唸り声が、不意に開けた。
反響が消えたということは。
入り口の直近にいるということだ。
寸秒の沈黙を経て。
ぬっと顔を出したのは、
「……熊?」
――の、ようだな。
返答した龍の子は、競争後の弛緩から一転して、警戒を深めた姿勢に移っている。
冬眠していたのだろう。雪で塞がっているはずの洞が雪崩によって露出した上、子龍の咆哮で目を覚ましてしまったのだ。
一口に冬眠と言っても、熊のそれはとても浅い。少しの刺激で起きてしまう――そんな話を思い出す。ここ数日、雪が降っていなかったことも災いした。洞が塞がっていたならわざわざ出てくることもなかっただろうに。
なにしろ。
立ち上がった熊は、ゆうに十尺近い身長なのだ。これだけ育っていて、なおかつ妖怪の山であることを考慮すれば、半ば以上に妖怪化していてもおかしくはない。そういう獣は得てして争いを避けるものである。
それでいて尚、敵意を剥き出しにするということは。
雪崩への苛立ちと、叩き起こされた苛立ちが、綯い交ぜになって私たちの方へ向いているのだ。
――全く、今日はつくづく運がない。
「……スペルカードルールを受けてもらえるようには見えませんね」
――同意しよう。話を聞くつもりはないと言っている。
憂さ晴らしの相手をしろ、と。
そういうこと、なのだろう。妖怪と龍ならば相手にとって不足はない。そう見られたのか。それとも、誰でも構わないから鬱憤をぶつけたかったのか。
いずれにせよ――こういうのは。
「あまり得意ではないのですがね」
獣相手は、加減が分かりにくいからだ。
――やるぞ。
龍の子が臨戦態勢に入る。血の気の多い。華仙様の苦労が窺い知れる。
相手の熊もまた、背を弓なりに曲げている。既に唸り声は止んでいた。奇妙な沈黙が場を支配している。
――準備は万端、というわけね。
程よい疲れを得られれば、再び眠るに違いない。行き会ったが運の尽き――なのだろう。洞を埋め戻すくらいのことはしてやるか。
私はそう心に決める。
やると決めたら。
全力を以て当たるのみ。
加減はできないものと知れ。
「雲を」
――応。
龍の子が口から黒雲を吐き出す。
雷雲だ。黒の狭間からちらちらと青雷が見える。
あたかも――龍神様が舌なめずりをするように。
私たちの頭上を覆う、局所的な荒天。雨はいらない。どうせ雪になってしまう。それはあの熊を倒してからすべきことだ。
協力するのは初めて。それでも、既に二度刃を交えた間柄。
龍宮の使いと――龍。
言わずもがな。
相性は、極めて良い。
ばちん――と、空気が爆ぜる。
「行きます」
この場はもはや、私の住まう空域だ。
雷雲に道を付け、気流を伝わせ、いかずちを撃ち下ろす。
常ならば――緋色の羽衣が。
淡く燐光を放つ。
青白く。
覗く稲光と同じ色に。
はためかせているのは空気ではない。
蓄えられた雷の力だ。
空を指す。
――さあ。
獲物は鈍い。
簡単に打ち抜けますとも。
来い。
紫電が――奔る、
瞬間。
「双方、そこまで!」
みたび、雪の広場に咆哮が響く。
否。咆哮、と呼ぶのは間違いだ。その声は明らかに私たちを制止する意思を持って放たれたものであり、ただ吠えただけではないからだ。
響いたのは声だけではない。大地を震わせる振動が、遅れて届く。
震脚。
それ以外には考えられまい。振り返った視界の先、仁王立ちしている彼女の細い足に、そんな力があったとは。それとも、これも仙人の業――なのか。
疾駆に乱れた髪が、怒りで逆立っているようにも見えて。
逆上せていた頭からすぅっと血が抜けていく。
怒声の主が、
「己が過ちで起こしておきながら、力で打ち負かすなど言語道断!」
一歩、
「然るべき手段を用い、速やかに眠りに戻してあげるのが筋というものでしょう!」
また一歩、
「よしんば自分に不可能であるのなら!」
さらに一歩、
「私を待つことくらい、考えつかなかったのですか!」
近付いて。
立ち止まる。
「貴女!」
最初に矛先を向けられたのは、私だった。
「……はい」
「龍宮の使いであるならば龍を諌めずしてどうします!」
「……そんなことは」
したことがないのですけれど。
――なんて。
言えばまた話が拗れそうだ。
ここは黙っておくが吉か。
「そして!」
たじろぐ龍の子に向けて、はあ――と、華仙様は雲海より深い溜息を吐く。
「……今日だけで一度ならず二度までも私の命に背くとは。春まで修行休みはないと思いなさい」
――それは。
「文句がある、と?」
言葉は分からずとも、拒否したいという気配は察せるのだろう。刺すような視線が子龍に向けられる。
――……ない、が。
もう一度大きく息を吐いて、華仙様は私と龍の子の間を抜けた。
気圧されたように固まっている熊に、彼女はゆっくりと頭を垂れる。
……正直、対峙していた相手のことなどすっかり忘れてしまっていた。
「申し訳有りませんでした。私の眷属が粗相をしてしまったようで」
頷く。
他に取るべき行動が見つからないだけなのだろうが。
「埋め合わせはしますので。私の顔に免じて許しては頂けませんか?」
小刻みに何度も頷く熊を見やり。
華仙様は、ようやく胸を撫で下ろしたようだった。
ここへ到着してから一分と経っていない。力を用いることもなく、それゆえ誰一人として傷ついていない。迫力だけで双方を押さえつけてしまったのだ。
解決、と。
そう呼ぶに相応しい幕切れだった。
梢から落ちた綺麗な雪を掌に。
完全な球形ではなく、やや楕円状を目指して成形する。横から覗き込んだ龍の子が、ごくりと唾を飲み込んだ。
――餅が食いたくなるな。
「食い気から少しは離れた方が良いのでは? でないとまた華仙様の逆鱗に触れますよ」
――それもそうか。
ふしゅう、と龍の子は鼻息を白く立ち上らせる。苦笑したのだ。
もっとも。
二人は言葉が完全に通じているわけではないのだし、私が口をつぐんでさえいればいいだけの話なのだが。
「はあ。とんだ大仕事を押し付けられたものです」
洞に入っていた華仙様が、肩をほぐしながら現れた。するすると近寄った龍の子が、吐息を巧みに使って入り口を塞いでいく。
気功――と呼ばれる技法がある。
体内を巡る見えない"気"を整えることで、体調を良くし、健康を得る鍛錬法だ。自身に向けたそれは内気功、他者に向けたそれは外気功と大別される。
仙人はその扱いを熟知しているのだ――と、言われている。実際、目にしたことがないから分からないのだけれど。龍神様の食事と同じようなことなのだろう、おそらくは。
気功練達のひとである華仙様曰く。
あの熊は私の見立てた通り、妖怪となりかけていたのだそうだ。それが原因で"気"が乱れ、今年の冬は特別に眠りが浅く、虫の居所が悪かったのだという。
「気の流れを少し穏やかなものに整えましたから、まあ、これで一応ぐっすり寝られるでしょう」
「それは良かった」
「……まったく、話を最後まで聞かないからこうなるんですよ」
あの小鳥はそこまで警告してくれていた――らしい。洞が露出していることも、中には熊がいることも。最初からこうするつもりだったのだと華仙様は言った。
しかし全てを言う前に私と龍の子が先走ってしまったため、彼女が必要以上に疲れる結果となってしまったのだ。
龍の子がどこまで聞いていたのかは――定かでないけれども。
前もって分かっていたのだとしたら。少し恨み節を言ってもいいような気もする。
私以上に愚痴りたいひとが、目の前には居るわけだけれど。
眉間の皺を揉み解しながら、苦労性の――今日一日、華仙様を見た総括だ――仙人様が言う。
「貴女は多少マシだと思ったのに。どうしてこう、私の周囲には言っても聞かない連中ばかりが集まるのかしら」
「類は友を呼ぶ、と言いますね」
「……私も同類であると?」
「そこまでは。とは言え、朱に交われば赤くなるとも言います。ご用心を」
睨まれる程度でこたえていては、龍神様の側仕えは務まらない。関わらなければ良かったと後悔しているのだろう。龍の子が私たちを交互に見やる。こちらは緊張が手に取るようで面白い。後で存分に叱られればいいと私は思う。全てのきっかけはこの子なのだから。
――まあ、それはともかく。
「できた」
会話を続ける傍ら、手を動かし続けていたのである。
少々不恰好だが初めて作ったのだから及第点だろう。そういうことにしておく。
掌よりもちょっと小さい雪玉を胴体に、赤い実を目、紅葉した葉を耳にして。こんなものだったかなと記憶を掘り返してみても、名前の影に隠れて実物が出てこなかった。自分のあやふやさに参ってしまう。
「赤耳ですね」
「こういうものなのです」
たぶん、という一言は付け加えない。
「此方へ」
――何か。
龍の子をちょいちょいと手招きする。
空中を滑るように近付いてきたその頭に、私は雪兎を載せてやった。
「八ツ時にでも食べてください。氷菓代わりとは言いませんが、その程度ならばあなたの主も許してくれるでしょうし」
これ見よがしに人差し指を唇へと持っていく。龍の子には、食い気から離れろと言ったばかりで何を――と、思われるかもしれないが。
「構わないのですか?」
小さく苦笑しながら華仙様が訊いてくる。
私はええ、と頷いて、
「こういうものは作るまでが楽しいと相場が決まっているものでしょう? 作れただけでも満足しました。それに」
埋め戻された洞に目を向ける。
「見事、"難を転じて"くれたお礼も兼ねて、ということで」
持ち帰ったところで保管する場所もないのだし。身も蓋もない理由は、心の中だけに留めておく。
元々、何らかの礼をするつもりではいたのだ。鳥にだけ何かを贈ったのでは釣り合いが悪い。始まりが龍の子にナンテンを食べられてしまったことであるとしても、だ。
力を貸してもらうだけでは気持ちが淀んでしまう。空気の流れと同じようなものだと――私はそう思っている。
「とは言え、それだけでは物足りませんよね」
とん、と雪兎の額を突く。
「食べてしまうよりも少しだけ待っていただけるのなら」
『どうなるのだ?』
「そうなります」
「あなた――声が」
華仙様が驚いたように目を瞠る。
雪兎が融けるまでの簡単なおまじない。
私たちが龍神様の言葉を解するすべを封入してみたのだ。巫女や神主が、神霊と交信する術を真似て。ぶっつけで上手く行ってよかった。華仙様ばかりでなく、龍の子にも言い分はあるはずだし。礼にはこれくらいがちょうどいいだろう。
――さて、と。
ふわり。
宙に浮く。
「私はこれで。今日はありがとうございました」
何だか色々と――文句だとか礼だとか説教だとか――言いたいのを無理にこらえるような、そんな表情が一瞬華仙様の顔を過ぎり。
しかし。
結局、彼女は仕方なさそうに眉尻を下げた笑みを私に向けた。
「次の地震予報はどうか、私のところを訪ねて下さい。悪いようにはしませんから」
「肝に命じておきます。それでは」
「また、いずれ」
『また、いずれ』
仙人と龍の子は異口同音に言って、ほぼ同時に頭を下げた。
ひらひらと手を振り私は私の居場所を目指す。
龍神様に雪兎を贈ったら、どんな顔をなさるのだろう。ふと、そんな想像が頭を掠めた。
凍て空の雲を胴にすれば、作れるだろうか。冬の乾いた薄雲では難しいかな。頸の珠を瞳に使いたいので貸して下さい、なんて。冗談口で言ってみようか。
形容しがたい表情の龍神様を思い、口元をほころばせたその時だ。
「――おや?」
頬に冷たいものが付着した。
粉雪。天気予想は当たったらしい。
――ふむ。
急ぎ帰るとしましょうか。
この分なら、空には良い感じの冷気が待っている。
地上でもらった温もりを胸に抱いていれば。
私好みの静かな冷たさが、きっと際立つだろうから。
食する事で空腹をかきたてる質の良い前菜、みたいな感じのお話。
この衣玖さんは好きだ。
良い感じに感情がフラットで、それでいて多少の茶目っ気もあったりして。
枷の付いた自由を満喫しているような、そんな雰囲気がとても好き。
>あるいは、惣領娘様が案外穏当な伝え方をしたものか→総領娘様
そういうのもあるのか
作中の衣玖さんのようにゆるーくコメント返しを。
>雰囲気が良く読んでて面白かったです
>ふらふら散歩もよいやな
散歩って身近にある意外なものを発見する機会でもあるんですよね。
たまには何にも考えずに歩いてみるのもいいかもしれません。
>良い感じに感情がフラットで、それでいて多少の茶目っ気もあったりして。
>枷の付いた自由を満喫しているような、そんな雰囲気がとても好き。
龍宮の使いは妖怪なのに仕事を持っているという、一風変わった種族のイメージがあります。
天狗のような社会性があるわけでもないと思うのですが。その辺りが想像する余地として面白いです。
>龍の子のキャラクタ性
私が書いている最中思い描いていたのは、某有名アニメに出てくる白龍だったりします。
魔法使いに魔法を教わるため、彼は弟子入りしていたわけですし。こちらはもっと穏やかな関係性ですけれど。
>あと実家の庭にも南天が植えてあります。
奇遇ですね、私の家にも植えてあるんです。あまり寒い地方ではないので、雪と一緒に見ることは少ないのですが。
南天は毒がある、といっても生薬として利用されている植物です。咳止めに効果があるんだとか。
有名所は南天のど飴でしょうか。ただし、素人判断で使うことは危険――という意味を込めての毒発言でした。
それではこれにて。誤字の指摘をしてくださった方、重ねてありがとうございました。では。
白い山にもなお紅く舞い泳ぐ衣玖さんが素敵でした。