このお話は作品集156「仕事の報酬」の流れを受け継いでいます。
さきにそちらをご一読いただけるとより展開がわかりやすいです。
ただ、こまやかなれ────
頭の中でそう念じながら、僕はひたすらに墨を磨り続ける。
落ち着きながらも熱心に、一心に。
硯の池を水で満たし、その水に墨の棒を差し込んで硯の陸とこすり合わせ、墨汁を作り出す。
墨を磨る音と、外から雀達が戯れる声がする以外は無音の部屋の中で僕は手を動かした。
まだ若かった子供の時分には墨を磨るのは面倒で嫌だと思っていたが、この時間こそ真に大切な時間なのだと気づいたのはつい最近だ。
良い墨が出来上がるように真心を込めて磨る。そうすると墨も筆もそれに応えてくれ、良いモノが書ける…僕はそう思っている。
心を込めて作り出された墨汁で書いたものはきっと素晴らしい、そんな気がするのだ。
歳を取ると考え方も違ってくるのかと少々感慨深くなり、また年寄り臭くなったなと幾分げんなりもする。
しかしそれで良いのだ。それこそが自分が確実に時の中を歩み続けて来た証なのだから。
そら、墨が出来て来たぞ。いい具合に滲み出た理想的な濃度だ。あまり濃すぎず、薄すぎない。これぐらいがいいだろう。
僕は握っていた墨を傍らに置き、かわりに筆を手に取って今しがた磨った墨をたっぷりと含ませる。
それから目の前の半紙に照準を合わせると、筆の勢いを殺さないようにさらさらと文を書き付けた。
い ろ は に ほ へ と
七文字をきっちり丁寧に書き終わり、僕はそれが満足のいく出来だという事を確認して半紙を押さえていた文鎮を外す。
そしてその文章が書かれた半紙を、僕の隣でずっと僕の作業を固唾を飲んでじっと見守っていた人物に渡してやった。
受け取った彼女はその紙を穴があくかと思う程熱心に眺めていたが、やがて顔をあげ、頭を振った。
「・・・露ほども読めぬ」
物部布都は苦虫を噛み潰したような顔をして、腹の底から絞り出すようにそう言った。
あんまりに悔しそうな口調と表情だったものだから、僕はなんだかおかしくってつい口元から笑みをこぼした。
そんな僕を見咎めた彼女は今度は拗ねたような調子になり、僕はそのフォローをすることになってしまった。
「ふん、笑わなくともいいではないか」
「違うんだよ。君がそれを読めないから笑ったんじゃない」
「じゃあなんだというのだ」
「その…君があまりに一生懸命だったものでつい、ね」
「どっちにしろ我を笑っているのには変わらんではないか」
「ああ、うん。それもそうだな。ごめんよ、布都」
「うむ、謝ればいいのだ。謝ればな」
布都はそれだけで機嫌を元に戻したようで再び視線を手元にある半紙に落とした。
相変わらず真剣な眼差しでその七文字を見つめていたが、結果はあまり芳しくなかったようで僕の方に向き直った。
「これがその…ひらがなというやつなのか」
「そうさ。それはいろは歌と呼ばれるものだ。ひらがなを覚えるのに良く使われてね、本当はもっと長いんだが」
「むう…どうもミミズがのたくったような物にしか見えんぞ。これが本当に文字なのか?」
「ところがそうなんだよ。焦る事はない。一つずつじっくりと覚えていこうじゃないか」
「そうか、そうだな!ゆっくりやっていけば良いのだよな!」
「そうだとも。さあ、まずはこいつを読んで発音してみようか。『いろはにほへと』、そら」
「い…いろ…?え、え?」
「『いろはにほへと』だよ。それがこの文章の読みだ。読んでごらん」
「……ほへ?」
「…こりゃ先は遠いかもなぁ」
彼女の胸元にある翡翠がキラリと輝く。
眉間にしわを寄せて交互に僕の口と半紙を睨めつけ、頭の上にハテナを踊らせる布都の姿を見て僕は苦笑いした。
始まりは一冊の本だった。
客のこない暇つぶしに僕が香霖堂で本を読んでいると、ドアベルを元気良く鳴らしながら物部布都がやってきた。
彼女は最近ここに良く来る。何か買い物かと言えば別にそう言う事でもなく、ただ遊びに来ているだけらしい。
いつも彼女は僕の出したお茶を飲みつつ、売り物についてあれやこれや質問したり世間話をしたりして帰ってゆく。
まったく、ここは道具屋であって喫茶店などではないんだけどな。お茶もタダじゃないんだぞ。
しかし僕が彼女の事をいくらか心良く思っているのは事実で、割と彼女の来訪を楽しみにしている節もあったりする。
彼女は相変わらずコロコロと表情が変わって見ていて楽しいし、彼女の話に僕がはっとさせられるときもある。
やはり他人と会話を交わすのは良い事だ。自分ではない他の誰かの考えに触れる事は自分の知識を深める助けとなる。
そういえば、彼女は風水を操る能力を持っていたっけな。今度香霖堂に客が来ない理由を突き止めてもらってみようか……
いや、話が逸れた。
ともかく、その日僕の店を訪れた布都はいつものようにお茶を飲んで店の中を探り回っていた。
が、いつしかそれにも飽きたのかトコトコとカウンターに座る僕の元へ戻って来て僕の手元の本を覗き込んだ。
そして僕にとっては驚くべき発言、彼女にとっては当然の疑問を言い放ったのである。
「・・・この妙な記号は一体なんなのだ?」
一瞬彼女が何を言っているのかを理解するのに手間取った。
僕はほぼ反射的に本に目を落とす。そこに書かれているのは何の変哲もないただの文章だった。
別に僕の読んでいる本は魔導書でもなんでもなく、どこにでもある普通の本だったから、その「妙な記号」とやらが分からなかった。
「何の事かな?」
僕が彼女に尋ねると、彼女は僕の本の文章の一部分をその手で指差して再び問うた。
しかし、僕はやはり分からなかった。彼女が指したのはただの「文字」であって、「記号」ではなかったからである。
その後も僕と布都はお互い疑問を抱えたままのやり取りを継続し、ようやく僕は彼女の真意を掴み取ってある事実に辿り着いた。
物部布都は、ひらがなとカタカナが分からない。
彼女が指していた文字は「普通」のひらがなであり、それが読めない人はこの幻想郷にはまずいない。
幻想郷には寺子屋がある。即ち教育制度が整っており、読み、書き、そろばんは幼少の頃に誰もが習得しているからだ。
僕もその事が頭にあったからこそ彼女の疑問を理解出来なかったと言えよう。
ひらがなとカタカナ。これは日本語教育の第一歩であり、大前提とも言えるものだ。漢字の理解が乏しくともこれが理解出来れば一応は良い。
しかし彼女は逆だった。文章中に使われていた漢字は全て正確に判別を下したが、それ以外の文字は全く認識出来なかったのである。
別に布都が教育を受けてないという事ではない。読み書きが出来ぬわけでもない。
では彼女がひらがなカタカナを理解出来なかったのは一体何故か?考えてみれば答えは至極単純だった。
そもそも布都が生きていた時代にひらがなとカタカナは存在していなかったからだ。
物部布都ら復活した尸解仙たちは、元は飛鳥時代に人間として活動していた者たちだ。
6世紀ないし7世紀。今からおおよそ1400年も時の彼方にある時代。彼女達はその時代に眠りにつき、ついこの前現代に蘇った。
そして彼女達が眠っていた間も時は目まぐるしく変化し、時代は成長を遂げ続けていったのである。
その昔、曇徴と呼ばれる渡来人が紙と墨、絵の具の製法を日本に伝えたのが彼女らが存命していた時代のこと。
その時初めて日本に書道が伝わった。当時の文字と言えば中国の文字、即ち漢字だ。紙と墨を使って書き起こすのも漢字であり、漢文だった。
彼女達の学問と言えば漢文であり、大陸の事を学ぶ事に重きを置いたのが当時の教育だったというわけだ。
やがて布都たちは眠りにつく。世の中が平安時代と呼ばれる時代になってからやっとひらがなとカタカナは生み出された。
布都が日本人の常識とも言えるひらがなを読めないのも頷けるというものだ。
なにせそれが出来たのは彼女らが眠りについてからざっと数百年も後のことだったのだから。
布都はひらがなとカタカナを覚えるために僕の教えを受けたいと言い出し、僕はそれを聞き入れる事にしてやった。
さして手間なことでもなかったというものあるし、彼女のまっすぐな向上心に感心したからでもある。
冒頭のやりとりはそれを受けた結果、僕がお手本を見せてやったというというわけであった。
先ほど僕が半紙に墨と筆を使って書いた文章は「いろは歌」の一番最初の一節である。
このいろは歌は手習い歌とも呼ばれ、七五調の四句から成り立っている。日本語の全ての音を一つずつ使っているため、覚えやすい。
いろは歌を覚えてしまえばひらがなカタカナの読み書きの練習がとてもスムーズに進むという次第だ。
「『いろはにほへと』」
「『いろはにほへと』」
「そうだ。それがこの文章の読みだ。落ち着けばなんのことはないじゃないか」
「う、うむ。先刻は少し慌てていただけだからな。このくらいは造作もないぞ」
「そうかい。基本的にひらがなカタカナは一字一音だ。一つの文字に一つの音が対応する。これはいいね?」
「ああ、理解しておる」
「そして今、君はこの七文字の読み方を早くも習得してしまったというわけだ。これは大いなる進歩だよ」
「な、なんと、そうか!?」
「ひらがななんて全部で50文字程度さ。その一割以上を今のでもう覚えたんだ。誇るべきことだと思うけどね」
「えへへ、そうか、そうなのだなぁ。えへへ…」
布都は二つの頬に両手を添えてニヤニヤと嬉しそうだ。やはり単純というかなんなのか。
少しおだててここまで喜んでくれて更にやる気を発揮してくれるというなら、こちらとしてもやりやすいというものなのだが…。
いつか、詐欺なんぞに引っかかったりしないだろうな。僕には関係のない事だが、なんだか心配になって来た。
まあその辺のところは彼女の主に任せてしまうとするか。僕が請け負ったのは文字の教育であって人を疑うことを教える事ではないのだから。
さて、布都のやる気があがったのは良いがこんなものはまだまだ序の口。ここからが本当の地獄だ。
読み書きが出来ない人間が言語を理解できないのかというと、それはイコールではない。
むしろ世の中には、言語を口で自在に操るが文字を書いたり本を読んだり出来ない人間達が大勢居る。
文字を読めないからといって言葉を使えないという証拠にはならない。同時に、言葉が喋れるから文字を読めるというわけでもない。
口上の言語と、紙上の言語。これは同じ線を共に辿りつつも微妙な位置でかすかにズレている、極めて厄介な代物なのだ。
読みの練習は比較的楽である。大体の人間は喋り方を身近な人たちから自然に習得する。喋り方が分からない人間はいないはずだ。
決まった文字を見て決まった音を発すればいい。端的に「読み」とはそういうことだ。通常は読みを先に覚える人の方が圧倒的に多い。
布都も僕が喋った事をそのまま真似て口にして成功した。あとはそれを繰り返すだけで体が覚えてくれるのだ。
厄介なのは「書き」の方だ。
書きの手順は読みに比べてややこしい。読みを習得していればその過程は幾分楽になるのだが、それでも大変だ。
まず文字の形を覚えなくてはならない。次にそれを頭の中に描いて筆を動かし、文字を紙に映し出す必要がある。
更には他人が読める様に正確に書かなくては文字として認識してもらえない。ここまでやって初めて覚えたと言えるのが「書き」なのだ。
僕は布都をカウンターの椅子に座らせ、筆を持たせた。
「書道はやったことがあるだろう?僕の文字を真似てその七文字を紙に書いてみたまえ」
「あいわかった」
布都は手にした筆に墨を含ませ、結構な勢いをもって僕の書いた文字を模倣して描いた。
さらりと最後の一文字を書き付け終えると満足げな表情で僕の方を見返した。
「どうだ!?我ながら結構な物だろう?」
「ふぅむ、これはなかなかどうして…」
僕は布都が書いた半紙を取り上げてまじまじと眺めた。
意外に達筆な筆致で書かれたそれは十分正視に耐えうると言って良いほどの出来だった。
そう思った僕は素直にそれを口にする事にした。
「良いじゃないか!上手な筆遣いだぞ」
「そりゃあ、書道は嗜んでおったからな。このような妙ちきりんな文字を書くのは初めてだったが」
ふんすふんすと鼻息も荒く布都が胸を張る。
そうか、布都には元々の土台があったんだな。こりゃあ案外すべて飲み込んでしまうのも早いかもしれない。
僕はそれを確かめるべく布都に質問した。
「布都、これは一体なんと読むんだったかな?」
「ふふん、先ほど覚えたぞ。『いろはにほへと』、だ」
「素晴らしい。しっかり読みを覚えているね。やはり君には才があるようだな」
「そうだろう、そうだろう。もっと褒めても良いのだぞ?」
「……それでは」
僕は今布都が書き付けた半紙と先ほど僕が書いた半紙を取り上げて、布都からは見えないような位置に置いた。
そして新しい半紙を取り出すと布都の前にパサリと置き、文鎮をその上に乗せて言い放った。
「次は、何も見ずに書いてみようか?『いろはにほへと』」
「………え」
得意満面な笑みが一瞬にして凍り付いた。
ここだ。ここが一番の難関なのだ。「読み」など軽いもの。漢字と同じく、ひらがなだって「書き」が難しい。
自分で覚えた文字のイメージを目の前の紙に映し出してこそ「書き」は完成する。模倣ではダメなのだ。
「あ、あの、まだ我はその文字をちゃんと覚えてはいないのだが」
「おやおや?君は僕に褒めてほしいんだろ?真似て書くなんて誰だって出来る。そんなのじゃあ褒められんよ」
「う、うー」
布都は困った様にちらちらと僕が隠した半紙の方へ視線を飛ばす。しかし悲しいかなそれに書かれた文字は布都の目には届かない。
対して僕は眼鏡のふちをキラリと光らせ、柄にもなくニヤリニヤリとさでずむな笑みを浮かべて布都を見つめる。
「さあ!ここを乗り切れれば大したもんだよ?君は果たして僕が褒めるに値する人物かねぇ?」
「や、やるとも!我はやってみせるぞ!」
布都は意を決した様に大きく息を吸い込んでうなずくと筆を手にとった。
そして筆に墨を含ませ、先ほどとはうってかわって非常にゆっくりとした動きでそろそろと筆を動かした。
ナメクジが這い回るような緩慢とした時間をたっぷり二十秒は使い、布都はかろうじて「い」の文字を半紙の上に書き出した。
さっき布都が書いた綺麗な字とは違い、弱々しく自信がない文字。まさに今の布都の心を表しているといっても良い。
いざ二文字目となってから、布都は筆を構えた状態で動きを止めた。視線は紙をピタリと睨んだままで動かない。
次の文字の形はなんだったかなんだったかと必死に思い出しているようで、変に鬼気迫っている。
「…………あぅ」
が、それも長くは続かなかった。
布都はゆっくりと筆を筆置きに置くと机の上に突っ伏した。ああ、半紙がしわくちゃになってしまった。もったいない。
「どうも、降参のようだね」
「なぅ」
布都の頭にちょこんと乗っかった烏帽子が力つきた様にふにゃりとしている。
僕が突っ伏した布都の肩にポンと手を置いてやると布都が妙なうなり声をあげた。ネコか君は。
流石に意地悪が過ぎたかな。やはりいきなり何も見ずに書けという方が無茶な要求だったのには違いない。
僕はそれを伝えるべく口を開いた。
「そう気を落とす物じゃないよ。君は現に頑張って一文字書いたんだ。これは充分に立派なことだよ」
「そ、そうか!?」
布都が僕の言に反応してガバリと飛び起きた。あまりの勢いに僕は思わず一歩仰け反る。
あれ、いつのまにか烏帽子がシャッキリポンと天井を向いているぞ。もしかしてあれは布都の機嫌のバロメーターなのだろうか。
分からない事は気にしないに限るという僕のモットーに乗っ取って言葉を続ける。
「そうさ。大抵の人は何回も見ながら書いてやっと一文字っていうのが普通だ。それを君は一回真似ただけでこなしたんだからね」
「じゃ、じゃあやはり我はスゴいのだな!?」
「ああそうだ。スゴいぞ、布都」
「ん……えへへへ」
僕が布都の烏帽子を取り上げて頭を撫でてやると布都は目を細めてはにかんだように笑った。
なんだか…子供を持った親にでもなったような気分だ。感慨深く布都の頭を撫で続けていると、不意にあるイメージが心をよぎった。
所謂、デジャヴと呼ばれる感覚。既視感。なんだ、今のは?僕はそれを追いかける。そして正体を捉えた。
そういえば、魔理沙が小さかった頃もこうして褒めていてあげていたな。
僕が霧雨の親父さんの元で修行を積んでいた頃、僕はよく小さかった魔理沙の話し相手になっていた。
幼い頃の魔理沙はなにかと自分のやった、僕に取ってはなんでもない事をさも大手柄のように僕に喋ったものだ。
それを聞いた僕は今の様に彼女が被っていた帽子を取り上げては彼女の頭を優しく撫でて、すごいじゃないか、などと褒めた。
そして魔理沙は決まって嬉しそうに顔をほころばせて僕に笑いかけていたっけ。
そんなに昔のことではあるまいに、とても懐かしい思い出のような気がする。これも自分が年を取った証なのだろうか─────
「……い!おい!」
「あ、ああ、なんだい?」
僕の胸元辺りから聞こえて来た鋭い声に僕は我に返った。
見下ろしてみると何やら布都が頬を膨らませて僕の襟元を掴んでいた。
「ぼーっとするでない、せっかくいい具合だったというに」
「ごめんごめん。ちょっとね」
僕は眼鏡の鼻当てを指で押し上げて位置を微調整し、取り上げていた烏帽子をカポッと布都の頭にかぶせた。
ともかく、これで読みは覚えただろうし、書きのお手本も見せてやった。ここからは布都の努力次第だ。
僕はさっき隠した僕のお手本が書かれた半紙を取り出しもう一度布都に見せてやった。
「さて、いいかい?これが『いろはにほへと』だ。それはもういいね?」
「うむ、大丈夫だ」
「それでは今から君に宿題を与える。心して聞きたまえ」
僕が念を押すと布都が慌てたように裾を払って佇まいを直した。
僕は僕の目を見つめてごくりと生唾を飲み込んだ布都の目を見つめ返し、厳かに言い放った。
「このお手本を君に授ける。今晩、これを見ながら百五十、これを見ないで百五十。合わせて三百、『いろはにほへと』を書いてくる様に」
「さ、さんっ……!?」
「そうそう。書くときに読みを口に出しつつやる事も忘れない様に。それを明日までに終えてここへ持ってくる事。以上だ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!そんなに一杯書かなくてはならんのか!?」
「何か問題があるかね。たったの三百だ、簡単だろう?」
「そ、そうはいってもいっぺんにそこまで」
「つべこべ言わずに手を動かすんだ。そうしないと覚える物も覚えられないぞ」
「い、いじわる!そんなに我をいじめずとも良いであろうに!ばーか、ばーか!」
「ちゃんと明日持って来たら君にご褒美をあげよう」
「うむ、これくらいことなど我には造作もないことよ」
殺し文句がスパリと決まった。何事にも適度なアメとムチが必要ということだ。
僕のご褒美発言にすっかり気をよくした布都は意気揚々と僕のお手本を抱えこみ、いそいそ扉から出て行った。
早速霊廟にある自室に戻ってひらがなを書く練習をするのだろう。学問に王道無し。ただ修練あるのみだ。
しかしこういってはなんだが、やはり彼女は扱いやすいというか、手玉に取りやすいというか。
僕が課題を出した時にはぶーぶー言っていたのに、すこしアメをちらつかせるだけでこうもあっさり態度を変えるとは。
ええっと、ああいうタイプの人間をなんというんだったかな。彼女が出て行った後の開け放しの扉を見て僕はぼんやり考えた。
確か、こういう時にぴったりの言葉があった気がしたんだが。ああ、思い出した。
チョロい。
布都はそれからメキメキと上達していった。
もともと書を嗜んでいたらしいということもあってか、習得の速度には目を見張るものがあった。
それには彼女自身の向上心もあったのだろうが、半分は僕のアメの効果のおかげではないかと僕は睨んでいる。
毎日のように布都が僕の家にやってきて課題を提出するたびに、僕はご褒美として用意してあったお菓子を与えてやる。
僕から貰ったそれを大切そうにちまちまゆっくり食べる様はなんだか微笑ましくて、そんな僕の顔を見た布都にまた膨れっ面をされた。
布都が課題を終えたら僕はいろは歌の次の部分を教えてやる。読み聞かせて紙に書き、それを彼女に与えてまた宿題を出すのだ。
宿題をこなすたびに僕は布都にアメを与える。細かいゴールと明確なご褒美によってやる気は持続されるのである。
布都は着実に知識を定着し続け、僕の出す課題を次々にクリアしてはご褒美のお菓子を食べ尽くしていった。
思った以上に彼女が食いしん坊で出費がかさ張った事を一応ここに書き記しておく。
さてさて、あれから一ヶ月近く布都は僕の家に通い詰めた。いよいよ大詰めだ。
これから彼女は、僕が主催するひらがなカタカナ教室の卒業試験に臨む。
雲一つない晴れやかな空の日、彼女は例のごとく香霖堂にやってきた。
ドアを開けた彼女を待ち受けていた僕は彼女を手招きしてカウンターの方へ呼び寄せる。
僕はカウンターの席に着いてやや緊張した様子の布都の前に立って彼女の顔を覗き込んだ。
「それでは、これから最後のテストと行こうじゃあないか。これが上手くいったら君は晴れて卒業というわけだ」
「そうかぁ。なにやらあっという間であったなぁ」
「そうだね。もちろんこのテストにもご褒美はちゃんとあるよ。しっかり合格していってくれたまえ」
「うむ!どんと来るがよい!」
「その意気や良し。それではまず、「いろは歌」を何も見ずに暗唱してみたまえ」
僕の言葉を受けた布都は頷いて呼吸を整えた。
一拍の間を置いて、布都は目を閉じてその小さな口からゆったりと言葉を紡ぎ出した。
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす
「…素晴らしい。しっかり覚えたようだね。ひとまずはオーケーと言えるだろう」
「ふふん、そうであろう。何しろ我はスゴいからな」
「安心するのはまだ早いぞ。第二にして最後の関門だ。今口にしたいろは歌を目の前の紙にひらがなとカタカナでそれぞれ書くんだ」
「ん」
僕の声に、笑顔だった表情を切り替えて真剣な目つきになった布都は椅子に座りなおして姿勢を正した。
布都はあらかじめ磨っておいた墨に筆を浸し、充分に馴染ませると半紙に向かって走らせた。
さらり。さらり。さらり。
お手本も何も見ていないというのに、迷いのないはっきりとした筆致。
あの時、弱々しい「い」を書くのが精一杯だった人物とは同一とは思えない程の確かで力強い筆が紙の上をなぞっていく。
きっちり最後まで書き終えた布都は紙から文鎮を取り除き、僕の鼻先に突きつけた。
僕は渡されたそれをじっくりと眺め、隅々まで目を通し終わってから布都の顔を見つめた。
自分の服のすそをぎゅっと握りしめて僕の判定を今か今かと緊迫して待っている布都に僕は言ってやった。
「……合格!」
「や、やったぁー!」
僕が宣言すると、布都は緊張した表情を緩めてぱっと花が咲いたような笑顔になった。
よほど嬉しかったのか、椅子から立ち上がってぴょんぴょんと飛び跳ねている。
そしてカウンターを回り込んで僕のところに駆け寄ると嬉しそうに僕の手を握りしめてぶんぶんと上下に揺すった。
「ありがとう、ありがとう!我がここまでこれたのもすべて霖之助のおかげぞ!」
「うんうん。ひらがなもカタカナも見事な出来だった。まったく君は大したもんだよ」
「そうであろう!撫でても、撫でてもよいのだぞ?」
「それは光栄。よしよし。よく頑張ったな」
「んっふっふっふー」
僕がまた烏帽子を持ち上げて布都の頭を撫でてやると彼女は満足気に鼻を鳴らした。
僕はもう一度布都が書いた紙に目をやる。そこには達筆に書かれたひらがなとカタカナのいろは歌があった。
どうも当初思っていたよりも早く課程を修了したようで、いや良かった良かった。
生徒が優秀だったからなのか、それとも先生の方が上手だったからなのか。
「…どっちでもいいかな」
僕は笑って呟くと烏帽子を布都の頭に被せ、かわりに懐から一冊の本を取り出した。
それは今回のお話の始まりとなった本。布都が香霖堂に訪れた時に僕が読んでいた本だ。
僕はそれを布都に手渡した。
「開けてみたまえ。今の君にならきっと…」
「おぉ…!読める、読めるぞ!」
パラリと本をめくった布都は目を輝かせながら色々なページを眺めて喜んでいた。
僕は思った。今まで彼女は漢文で書かれた書しか読めなかったのだろう。当時の文字は漢字しかなかったのだから。
今、彼女は新たに二種類の文字を会得した。彼女の世界が広がる。この幻想郷にあるより多くの本を読める。
彼女は好奇心の強い性格を持っている。新たに覚えた文字で書かれた本──現代の本にもきっと興味を示すだろう。
書を読み、知識を深める。とても素晴らしいことだ。僕はそれの手助けをしてやれたのだ。
僕は自分が何か一大事を成し遂げたような、奇妙で爽やかな満足感に浸っていた。
布都が僕に向かってパーに広げた形の手を突き出したのはその時である。
「ん!」
「…ん?」
布都の行動の真意を読めず、しばらく目をぱちくりとさせて彼女の瞳を見つめる。
彼女の期待に満ちた目線を読み取って初めて、僕は布都が言わんとしていることを理解した。
「ああ、そうか。ご褒美だね?」
「そうとも!はやくせんか!」
布都がわくわくとした口調で僕をせかす。まったくこの食いしん坊めが。
そう急ぐんじゃないよと言いながら布都から本を取り上げ、ひとまずカウンターの上に置いた。
今日はせっかくの合格祝いだ。いつもとおんなじご褒美では彼女も物足りないだろう。
僕は店の奥の戸棚に赴き、そのさらに奥の方に大事にしまってあったあるものを取り出してえっちらおっちら運んで来た。
それをドンとカウンターに置く。ぷんと芳醇な香りが辺りに充満し、僕は彼女の方を見てニヤリと笑った。
「今日のご褒美は、こいつさ」
「おお、それは…」
布都が感嘆の溜め息を漏らす。
僕が取り出して来たもの。それはいつぞや僕が布都から譲り受けた、壷一杯に入った濁り酒だった。
古代大和の濁り酒。僕の仕事の報酬として布都が僕に与えてくれたものだ。
随分高級そうだったから、大切なときのために飲もうと思っていたとっておきだ。今こそその時だと僕は踏んだのだ。
「元々君から貰ったものだからね。贈り主と一緒に酌み交わすのも悪くないだろう?」
「うむ、うむ!やはり霖之助はなかなかに気が利く男ぞ。褒めて遣わす」
「はは、ありがとうよ。それでは祝杯といこうじゃないか」
僕は布都に席に着くように促し、柄杓を使って壷から中の液体を掬い上げて二つのお猪口に移した。
その一つをカウンターの前に椅子を持って来てちょこんと座った布都に渡しつつ自分もカウンターの席に着く。
そしてお猪口をほんの少しだけ高く持ち上げて唱えた。
「布都の合格祝いに、乾杯」
「乾杯!」
布都は笑顔いっぱいのままに自分の杯を僕の杯に軽くぶつけ、キン、と涼しげで澄んだ音を店の中に響き渡らせた。
相変わらずちまちまと酒を呑む布都の様子を見て笑いながら僕はその小さな杯を一気に煽った。
布都が自慢げに持って来た大和の濁り酒。
生まれて初めて呑んだはずのその味は、なんだかひどく懐かしく、あたたかなもののように思えた。
「なぅ」
布都ちゃんに胸キュンなう。
私の中ではもう布都霖の人認定ですのでもっと書いてくださいお願いします。
しかし貨幣制度に続いて、ジェネレーションギャップというかカルチャーギャップというか、時の流れは酷です。
次回の布都霖も期待しております
寺子屋が出来たのは異変後で幻想郷の教育は親が教える
「あ」之表音、乃「阿」哉。
とか回りくどいことやっていたのかな?
その意気や良し!と言わせていただきたい。
これからも素晴らしい布都霖を書き続けてください。
でもちゃんと書けるようになってよかったです。
また、学ぶことの楽しさも改めて堪能いたしました。
アメにつられて頑張るのがもう可愛い。
自分の中ではもうあなたは布都霖の人です。これからも頑張って下さい!
「なぅ」
眼福、眼福。
今回も素晴らしいお話でした。次回も期待しています!
香霖知っててその教え方したなら性格悪いなーw
いえむしろ書いて下さいお願いします
ぱねぇ
お話のながれとしては実に真っ直ぐでしたね。読みやすくすんなりと受け取れるのでダイレクトにふとちゃんの愛くるしさが伝わってきてあたくしのニヤニヤがマッハでしたw
ただ、逆に言えば若干起伏に乏しい感があるように思われます。さくっと読めてすごくかわいい。実に結構ですしもっとやってほしいというか神子様サイドとかもぜひやってほしいんですが、ペンダコとかできちゃってちょっと挫けそうなふとちゃんの苦渋に満ちた表情とかも、あ、ちょっと離してください、あたくしは変態じゃ(ry
流石天然ドSの霖之助さんやでぇ…
さすが未熟者へのS加減に定評のある霖ちゃんやwww
ふとちゃんは、いろは歌は知らないか。ならば、たいにの歌の世代なんだろうな