マエリベリー・ハーン。
この発音しにくい名前の女は私の親友である。
高校時代、思春期の終わる頃に出会い、それからずっといっしょだった。
物静かで、自分から事を起こすのをよしとせず、窓辺で詩篇でも捲っているのが似合うタイプ。
深窓の令嬢――いわゆるところのお嬢様、というのが彼女を表すのに過不足ない言葉だろう。
そんなお嬢様の紫色の眼は特別製。魔眼だとか妖精を見るセカンド・アイだとかいうんじゃなくて、人の心の機微に敏いというか、悩んでいたりするとさらっと何で悩んでいるのかまで見抜いたりする。あやふやなものを見抜くのが上手いのだ。
反して私、宇佐見蓮子の眼は残念ながらポンコツだった。
活発で動的……他人を率いる性格だと見られる私だが、実は違う。
率いるには他人を理解せねばならない。そういう者に求められるのはメリーの紫色の眼のようなもので、つまるところ私、宇佐見蓮子は他人の心の機微に疎かった。
性格と技能が噛み合ってない私たちは、だからこそなのだろうか、何の問題も無く親友だった。
ひと月前まではそう思っていた。
雨の日だった。
その日は朝から降り続いていて、まだ先の梅雨を連想させるのに十分な暗い空。
雨足は強く人払いの結界のように作用して、大学の図書館は閑散としている。
いや、閑散というより、私たち以外には誰も居ないのではないだろうか。
この図書館はひどい欠陥建築で、硬い石の床は足音を響かせる筈なのに何も聞こえない。
晴耕雨読。私たち以外にも読書に耽っている人が居てもおかしくはないのに、気配すらなかった。
それならそれでよい。静かな読書というものは得難き幸福の時間である、とは誰の言葉だったか。
ただ、読書に没頭するには……違和感が大き過ぎた。読書に集中など出来ぬほどに。
井上円了の著作から顔を上げホメロスの詩集に視線を落とすメリーに目を向ける。
二人揃って懐古的なチョイス。様式美を追求したこの欠陥図書館には相応しいかもしれない。
ただ性格が正反対な私たちらしく、読書への姿勢も大きく異なっていた。
「メリー?」
彼女は本を読んでいない。ページを捲る速度は一定で、機械的だった。
読むふりをして何か考え事をしている――そんな風に見える。
「なに? 蓮子」
視線は本に落としたまま。ページを捲るリズムは僅かにもぶれず。
「オデュッセイア、面白い?」
「面白いというより、興味深いわね」
彼女の手にあるタイトルは、イリアスだ。
心此処に在らずを地で行く返事。ヴィオニッチ手稿面白い? と問いかけても同じ返事が返ってきたかもしれない。何をそんなに悩んでいるのやら。
そう、彼女は悩んでいる。
人の心の機微に疎い私でも気づけるほどに。
その悩みから逃げようと、読書に走って――失敗している。
「今どこらへん?」
「図書館では静かに。原則よ」
どうやら彼女の悩みというのは世間話で紛らわせるものではないらしい。
にべもない言葉に肩を竦め本を閉じる。このままじゃ私も読書なんて続けられない。
「メリー、悩みがあるなら相談に乗るわよ?」
自然口を衝いて出た言葉だったのだが、彼女は過剰なほどに反応した。
一度私の顔を見て、即座に視線を逸らす。どこを見ているのか目は泳いだまま。
「別に、悩んでなんて」
わかりやすい嘘だった。
ページを捲る手は止まってしまっている。
こちらに目も向けずにそんなことを言ったって説得力が無い。
「そうかしら。ドン・キホーテみたいな顔してるわよ」
向かう方向さえ定かではない彼女には、私が必要だと思うのは自惚れだろうか。
方向を知るのなら私の右に出る者は居ない。京都では役に立たないスキルだけれど。
いや――うん、今も役には立たないかも。否定されてむきになっていたようだ。
元より心を読めないのにのめり込んでは尚更だ。
「……私の挑むドラゴンは風車程度じゃあ、ないけれど」
溜息と共にイリアスは閉じられた。
あら、認めたか。これで一歩前進ね。
「それではドン・キホーテ、あなた様はどのようなドラゴンにお挑みで?」
「馬もお伴も居ない孤独な老騎士の手には負えない怪物ね」
「ふむ、馬は嫌だけれどサンチョにならなれますわ」
ジョークのままに進む会話に差し込まれたのは失笑だった。
「いいえ、あなたは馬にもサンチョにもなれない。私は孤独な老騎士のまま挑むしかない」
それは流石に――頭に来る。
あなたは力になれないとはっきり言われて怒らない友など友ではない。
「メリー、私はそんなに信用できないかしら」
声が平坦になる。怒りを押し殺すのに精一杯で感情など籠められない。
懊悩に惑っていても私の怒りには気付いたのか、彼女は慌てた様子でようやくこちらに目を向けた。
「ちが、私、そんなつもりじゃ……」
……一歩後退、だ。
困らせるつもりなんてなかった。悩みを増やしてどうするんだ私は。
悩む彼女なんて見てられないから、手助けしたいだけなのに。
深呼吸をして心を落ち着かせる。言葉を選ばねば。
「ごめん。短気が過ぎたわ」
「……ううん、こっちこそごめんなさい」
謝り合い、か。全然前に進めない。
困ったな――彼女の言う通り、私には無理なのかな。
「蓮子が」
逸らしていた視線を彼女に戻す。
「蓮子が悪いわけじゃ、ないのよ」
そう言われてもね。歯痒いのは変わらないわ。
「あなたの専門じゃないっていうか、悩み相談とか、さ。恥ずかしいし――」
「恥ずかしいって、夢の話聞かせてたくせに何を今更」
「夢は夢じゃない。悩み相談とはまた……違うわよ」
「夢相談の方が恥ずかしいわよ?」
「へ? なんで?」
「夢は睡眠中に行われる記憶の処理――頭の中身告白してるようなものだもの」
「それは……でも……」
いまいちピンときていないらしく、メリーは尚も渋る。
――こうして見てても彼女が何で悩んでいるのかわからない。
先程のアンニュイな様子と、現在のきょどきょどした態度は噛み合わないように見える。
だけど私はそれを解答へと至らせることが出来ない……心の機微に疎いのだ。
なればこそ彼女に答えてもらわなければならないのだけど、拒まれてしまっている。
踏み込もうにも、どうすればいいのかわからない。拒む理由も見当がつかない。
放っておけということなのだろうけど、それは無理な話だ。
メリーは親友。一番大切な友達。悩む友を見捨てるなど宇佐見蓮子の選択に存在しない。
多少姑息な手段を使ってでも、彼女の懐に潜り込まねば――
「何でも話してよ、私たち親友じゃない」
友達アピール。彼女の良心に訴えかける。
私にしては有効な策だと思う。ほら、その証拠に――
「…………」
証拠、に……え? なんで空気が重苦しくなってるの?
メリーは私を見る。今度は、逸らす気配はなかった。
何故か、息苦しくて、動けない。目を、逸らせない。
「蓮子」
名を呼ばれても返事も出来ない。
だけど、そんな息苦しさなんて直後の言葉で消し飛んでしまう。
その言葉は私の呼吸を奪うのに、十分過ぎていた。
「あなたがドラゴンなの」
それは、ジョークで――ドラゴン?
ドン・キホーテが挑む妄想の獣? 私が、メリーにとってのドラゴンだって?
あれは、暗喩で――つまり、私が……メリーを悩ます原因だって……?
「ど――」
どういうことなの。
そう告げる前に彼女は続きを語り出す。
「私、蓮子が好き」
誰も居ない図書館。
なのに、その言葉は囁くような弱さだった。
だが聞き取れなかったなんてことはない。
はっきりと、くっきりと彼女の言葉は私の心に焼き付いていた。
なるほど、なんて思った。私は馬にもサンチョにもなれない。
あの言葉は皮肉でも何でもなかった。老騎士が挑むべき怪物は老騎士とは歩めない。
「違うの、友達じゃなくて、ライクじゃなくて、その」
私の沈黙をどう取ったのか、彼女は慌てる口調で語り出す。
「私が言いたい好き、は、あの、もっと濃い、っていうか……」
言葉に思考が追い付いていない。
だけどそれは私も同じで、どう応えればいいのか、わからない。
「え、と、なん、で?」
「なんでって、気づいたら、としか、でも、理由はいっぱいあって、蓮子、オシャレだし、気負わないでセンスのいい格好してたり、とか、格好いいなって、頭もいいし、高校の時とか、いつも勉強教えてもらって、感謝してたり――そのお返しって意味じゃなくて、ええとね、私――」
「ちょ、ま、待ってメリー。一気に言われても――その」
言葉を遮る。頭の整理が追い付かない。
彼女に好きだって言われたことなんて、何度もあったのに。
でも、だけど、今回の好きは、重さが違うって、私でもわかる。
いつもみたいな笑いながら言える好きじゃないってわかる。
呼吸を忘れるほどに重い好きだって、わかる。
大きく息を吐いて、吸う。頭に酸素が回っていない。
思考が、出来ない――
「あ――ご、ごめん。あの」
狼狽した声。
勘違い、されたのかな。
違うのメリー。今のは溜息じゃなくて。
じゃあ、何?
「メリー」
答えの出ないまま開いた口からは彼女の名が漏れた。
何と言うつもりだったのか。その答えは永遠に得られない。
何故なら私の口はメリーに止められてしまったから。
「急がなくていいから」
彼女は私の顔に手を伸ばして視線を遮っていた。
メリーがどんな顔をしているのか指の間からは見えない。
隙間だらけの掌が緞帳のように表情を覆い隠してしまう。
かすかに見えたのは、彼女の口元だけだった。
「ゆっくりで、いいから。いつかでいいから――よかったら、答え、聞かせて」
ポンコツな私の目にはそれがどんな顔で囁かれた言葉だったのかも、わからなかった。
結論から言って、私は答えを出さずに逃げ出した。
元々学部が違う。示し合わせなければ会うことも出来ない。
だから意識して避ければ会わないのなんて簡単だった。
今日も、2コマ目の授業を終えてすぐに食堂に移動する。この時間彼女はこちらに来ない。
メリーは混雑する場所が嫌いで、だからお昼時の学食には近寄らない。
私も混雑は好きじゃないけれど――なんで、こんなことしてるんだろう。
人ごみから外れ、死角になる階段裏まで歩く。そこに人影は無く、壁に背を預けてまるで安堵のような溜息を吐いた。雑踏を抜けた安堵の筈なのに……吐く息は、重い。
まるでおにごっこだわ。
もう三日もメリーに会ってない。
避け続け、逃げ続けているのだから当然。
ケータイを見る。着信もメールも、彼女からのは無かった。
「ああ……電話、嫌いだったっけ」
直接話すよりハードル低いでしょ。
こんな時くらい、電話使ったっていいじゃない。
ケータイは非常用の通信機じゃないのよ? メリー。
――なんで彼女を責めてるんだろう。私から電話すればいいのに。
ああイライラする。
…………イライラ? 何故?
宇佐見蓮子は馬鹿じゃない。自分の頭脳に自信と誇りがある。他人のことならいざ知らず己の思考展開さえ制御できないような馬鹿ではない。あらゆる難問を解いてきた自負は、経験は、そう易々と敗北を認めない。考えろ。立ち止まるな。思考を放棄するな。そんなの馬鹿のすることだ。私を馬鹿だと言い放つのなんて一人だけ。宇佐見蓮子は、私は、そんな言葉は否定する。
感情論に走るな。客観的に己を見ろ。バラバラにしか見えないパズルを組み合わせろ。
そうして至る答えはただ一つ。これは言い訳だ。弱者の泣き言。単なる責任転嫁。
選択の権利を与えられているのにそれを行使する度胸が無いだけ。
そんな己の弱さを認めたくなかったから、彼女のせいにしていた。
「私が、弱いだけ」
汚名返上だ宇佐見蓮子。そこまでわかったならさっさとこの状況を終わらせればいい。
己の弱さを駆逐して与えられた権利を行使する。それで終わる。
問題点を抽出する。私が答えを口にするのに要する時間は二秒で足りる。一秒でもいい。
たったそれだけのことが何故出来ない? 何故逃げる? それこそ電話で事足りるのに。
立ち向かってもまだまだ私に有利な条件は山ほどある。
今この状況は、それら有利な点を全て放棄して彼女に依存しているだけだ。
逃げているくせに彼女の方からコンタクトしてくれればなんて望んでいる。
呆れるほどに弱い。
反吐が出るほどに甘えている。
誰に?
メリーに。
ならば、それを是正しよう。
問題点は出揃った。それを全て直せばよい。
式は整った。計算は終了した。
こうなれば簡単だ。あとは解答欄に答えを書き込むだけでいい。
その答えが――――
「……わからない」
計算式は完成している。
なのに解答欄だけがぽっかりと空白のまま。
矛盾している。計算は終了しているのに答えがわからないだなんて。
そんじょそこらの計算機に負けない私の頭脳が答えに至れないなんて。
何を迷う。一秒で答えられる解答がわからない筈が無い。
答えなんて、二択だろう? つまりは、嫌いか――す――――
びりびりと頭の奥が、痺れた。
目眩がする。平衡感覚が狂ってしまったかのよう。
悪酔いによく似た気持ち悪さが、脳を揺さぶっている。
言い訳、するな――だから、こんなの、逃げじゃないか……!
先送りしても解決なんてしないのに。使い道のない時間を稼いでいるだけだ。
時間がもたらすのは解決なんかじゃなくて、もたらすのはもっと酷い……
また、八つ当たりしてしまいそうな気分だった。
目につくもの全てを蹴りたい。動くものは殴り飛ばしたい。
耳慣れた喧騒が癇に障る。食事する気になんてなれない。
とりあえず場所を変えよう。この大学で一人になれるところは、
「――――っ」
「あ、蓮、子」
階段裏から出たところで、メリーと鉢合わせた。
驚いた顔をしている。三日も避けてたんだから当然か。
そう、避けてた。避けてたのになんで会うのよ。なんで。なんで。
何度も計算した筈。ここには来ない筈――彼女が手にしているのは購買の紙袋。
ああ、突発的な買い物は想定していなかった。カオス演算が甘過ぎたか。
どうしようか、会っちゃったん、だし。避け続けるのは、失敗したんだし。
挨拶でもしてさ、笑って誤魔化して、久しぶりだし、話す、とか、
「――蓮子っ」
メリーの声が遠くなる。
私は走っていた。必死に、彼女から逃げていた。
捕まれば取って食われると思いこんでいるかのように。
息が上がる。必死さよりも先に体力が尽きて足が止まる。
ここ、どこ――だろう。
あんまり来ない棟だな――――
「…………バカ、何やってんのよ蓮子……」
偶然会った。それだけじゃない。逃げる必要なんてどこにもなかったじゃない。
なに問題を増やしてるのよ私は。また何故逃げたかなんて考えるつもり?
だけど、今度は考えることも出来なさそうだった。
頭の中がぐちゃぐちゃに掻き混ぜられてしまっている。
撹拌された脳髄は思考能力を失ってしまって、ただ頭痛だけを訴える。
なんか、ダメだ――今日はあと一コマあったけど、帰ろう――
その後は、どうやって家に帰ったのか憶えていない。
気づけばベッドに倒れ伏していた。
「あー……頭、いたい……」
脳が焦げ付いている錯覚。ポアンカレ予想やフェルマーの最終定理、エシュルビーの予測を目にした時だってここまでフル回転はしなかった。思考迷路に嵌り込んだコンピュータの気持ちがわかる。演算をいくら繰り返しても解答に至れる気配すら見つからない。なのに止まるという命令を受けていないが為に回路が焼きつこうとも演算を続けて――
眠りたい。
泥のような眠りが欲しい。
脳を強制停止させる眠りだけを、求めている。
サボっちゃった。
丸一日、無断欠席。
今のところ単位に響かないだろうけど教授たちの心証悪くなるだろうな。
なんて、普段なら小市民的に悩みだすところだけど今回は違った。
昨夜の頭痛が本当に脳髄を焼いたかのように自棄になっている。
何もかもどうでもいい。全身がだるくてしょうがない。
鼓動でさえも、自覚したら疎ましかった。
そんな自暴自棄の脳でも、後悔だけは忘れない。
悪いことしちゃったな――メリー。
ケータイを開く。新着は無し。
あんなことしたんだから、当たり前。
電源を切って放りだす。役立たずの箱なんてもうどうでもいい。
気だるい体をベッドに投げ出す。起きてなんかいられなかった。
ただ、メリーのことだけが繰り返し想起される。
ずっと、友達だって思ってた。
いつまでも楽しいまま、そんな関係が終わらないと思ってた。
青臭い、子供っぽい感傷だってわかってる。永遠なんて存在しない。
感情の理解が追い付かないんだ。頭ではわかっていても、終わりだって認められない。
私たちの関係が変わってしまうことに怯えて、受け入れられない。
――それでも、メリーの想いを否定することは出来なかった。
彼女の感情はある意味、とても正しい。
客観的に見れば、停滞を望む私よりも進歩を望むメリーの方が正しい。
変化の無い関係なんて、間違っているんだろう。
「……それの、何が悪いのよ」
独り言は、弱音そのものだった。
でも、だけど、安寧を望むのはそんなに悪いことなのか。
変化し続ける人生なんて疲れるだけじゃないか。停滞に安らぎを見出すのは、自然じゃないか。
誰もがドン・キホーテのように夢を追えるわけじゃない。サンチョ・パンサのように現実的な視線を持ちながらも夢に生きれるわけじゃない。そうしてみようとしたところで、私たちが立ち向かう現実という名の風車は強靭で、突撃しては跳ね返されるの繰り返しだ。重ねた敗北の末にいつか、目覚めなければいけない時が来てしまう。何の言い訳も通用しない終わりを迎えてしまう。
それくらいなら――夢も見ないで停滞する日常に沈みたい。
深く、息を吐く。
弱音を吐いた。夢を拒絶した。
なのに、まだ私は、メリーの想いを、否定できない。
「私のことが、好き……か」
ライクじゃない好き。友達じゃない好き。
私は、どうなんだろう。私はメリーのこと、好きだと思う。
ならばその好きの濃さは? 重さは? その好きの、種類は?
そのどれにも、おぼろげな答えは浮かんでくる。
だけど、茫洋とした答えはその輪郭さえ掴ませてくれなかった。
メリーは、特別、だと思う。特別で、別格で、他のどの分類にも属さない位置に居る。
ただそれがメリーの好きとイコールになるのかはわからない。あの好きもまた、特別で別格なんだ。私の感情が、想いがそれに比肩し得るのか。同格でないのなら私の想いは彼女とは違うことになって、違うのなら私が求められている答えは、多分、きっと、彼女が望まない形に――……
「は――ぁ」
もう幾度目かわからない溜息。気が遠くなりそうだ。
時間感覚が狂いきっている。今日が何日なのか本当にわからない。
ケータイを確認して、溜息を吐くまでがワンセット。昨日から、何度も何度も同じことをしている。
同じことばかり繰り返して、色々な感覚がマヒしてしまった。
自分で勝手にやっているのに、拷問に等しい苦しさ。
本当に――なにやってんだか。私は、馬鹿じゃないのに、馬鹿みたいだ。
また溜息。それに、雨音が被って聞こえた。
雨、降ってるんだ。いつから降っていたのかな。
メリーの、あの告白。何日前だっけ……あの時も雨降ってたな。
ざあざあと五月蠅いな――雨音って、こんなに癇に障るものだっけ。
イライラしてるのに、また耳障りな音が響く。
チャイム? こんな時に来客なんてついてない。
無視したかったけど、一応確認だけはしよう。
リモコンを操作してホロウィンドウを展開させる。寝たままそれを覗いて――――メリー?
ホロウィンドウに映し出される玄関口の映像。そこに映っていたのはずぶ濡れのメリーの姿。
ずぶ濡れ、って、え?
跳ね起きて玄関まで走る。センサーに手を置いて解錠、ドアを開けて、
「メリー!?」
見間違いじゃなかった。目の前に、金色の髪から爪先までずぶ濡れの、メリーが居る。
傘持ってないの? なんで、いつも通りに笑って、どうして……
「や、蓮子。今大丈夫?」
「大丈夫って、こっちのセリフよ!」
まだ寒いこの時期に、こんなに濡れたら風邪じゃ済まないかもしれないじゃない。
違う、そんな、ことより。
「ど――どうして……」
なんで、ここに。私のアパートの場所、教えてたけど、知ってるって、知ってたけど。
来るなんて考えもしなかった。だってあんなに気まずい別れ方して、会うなんて、無理だ。
少なくとも私なら来れない。会おうなんて思ったら、足が竦んで部屋から一歩も出られない。
それにどれだけの勇気が要るというのか。考えただけで、ぞっとする。
「電話」
ぽつりと呟かれた言葉にびくりと震える。
「何度かかけたんだけど、繋がらなかったから」
「え、あ、ああ――ご、ごめん。電源、切っちゃってって」
何度もなんて、電源を切ってからそんなに時間が過ぎていただろうか。
頭の中が、マヒしてて、時間間隔が狂ってて、わからない。
「風邪……風邪、ひいちゃうわよ。中、入って」
義務的に口が動く。彼女を私の部屋へ招き入れる。
「いい部屋に住んでるのね」
「そんないい部屋でもないわよ」
「一般的な学生が聞いたら怒るわよ?」
ああ、そういえば彼女が私の部屋に入るのは初めてだ。
なんでかな、あんなにいっしょに遊んでたのに、会うのはいつも外だった。
メリーは、親友で、一番の、友達、なのに。
辻褄が合わない。なにか矛盾している。
見逃してはならないピースを見落としている。
どこで買ったのか思い出せないオブジェに手を伸ばす彼女に目を向ける。
何故だろう。何故私は、こんなにも親友に恐れを抱いているのだろう。
「ちょ、ちょっとお風呂見てくるね」
彼女を気遣っての言葉は、彼女から逃げ出す口実だった。
濡れたままでは風邪をひいてしまう。だからお風呂に入れさせるのは当たり前。
もっともらしい言い訳だった。私らしい、フェイルセーフを備えた理由。
私らしい。滑稽なほどに、宇佐見蓮子らしい、理論的な、情けない行動。
硬い音を立てて浴室の扉が開く。駆け込むに等しい速度で浴室へと入った。
コントロールパネルを操作して湯船にお湯を張る。広がる湯気が視界を狭める。なんてことはない極当たり前の光景にさえ暗示じみた何かを感じてしまう。
余計なことは考えるな。今は、感じた矛盾を解き明かさねば。
前に進むには明確で、解答に至れる可能性のある問題から解いていかねばならない。
まずは、何故彼女が私の部屋に来なかったのか。思い返せば私も彼女の部屋に行っていない。
お互いのプライベートエリアには一切訪れてない? 親友だと、何度も言葉を交わしたのに?
彼女と同じ空間に居たのなんて、喫茶店や図書館、旅先の宿くらいしかなかった。
だけど、幾度かそういう機会はあったのに、どうしてただの一度も。
私が自覚していなかったということは、彼女が?
不自然に、思いもしなかったけど――距離を取られていた……?
待て、だとすると、なんで今彼女は私の部屋に。
――――ガチャリと響く、硬質な音。
「め、メリー」
扉が閉められた。
振り返るまでもなくそこに、彼女が居るって、
「いっ……!」
肩を掴まれ強引に振り向かされる。
押さえ込まれて動けない――逃げられない。
「なに、そ、そんなに寒かった? でも、まだお風呂沸いてな」
「蓮子」
彼女は、無表情だった。
何の感情もうかがえない、うかがわせない鎧われた無表情。
伝わるものなど何も無い筈なのに曖昧さなど微塵も感じさせない決意の貌。
――逃げたい。ここに居たくない。
「は、放してよ……」
彼女は放さない。
幾分か背の低い私を見下ろして、壁に押し付けてる。
華奢なくせに、こんなに力が強いだなんて知らなかった。
ぐいと彼女の顔が近づいてくる。悲鳴を飲み込む。
噛みつかれるかと、思った。
「メリー、あの、ほら、お風呂場って、声響くから」
「お隣さんに聞かれちゃう?」
「う、うん」
「こうすれば聞こえない」
空いた手で彼女はシャワーのコックを捻る。
ざっとお湯が噴き出し私たちを濡らしていく。
服、脱いでない――お湯を吸った服の重さが現状の異常性を際立たせた。
なにしてるのよ。なんなのよこれ。わけ、わかんない……
事の発端からして、私はまだ理解出来てないのに。
彼女が、私を好きって、その答えを聞かせてって。
答えって、そもそも、問題が提示されてないじゃない。
無理じゃない、答えれるわけ、ないじゃない。
「ねえ蓮子。あのさ――」
だから、好きかどうかなんて答えられ、
「私、気持ち悪い?」
ぐちゃぐちゃに広がった思考が、一つ残らず崩れた。
「……え? メリー、何言ってるの……?」
今までのどの言葉よりも意味がわからない。
知らない異国の言葉のようだ。耳に届いてもすり抜けてしまう。
だのに、彼女は私の問いに答えずに言葉を吐き続ける。
「高校時代からあなたのことが好きだった」
シャワーの音に掻き消されてもおかしくない小さな声。
「初めて会って、数度言葉を交わした時にはもう好きになってたかもしれない」
なのに耳に届き続ける。聞き逃すことさえ出来ない。
「ずっとずっとあなたが好きで、進学先もあなたを追って決めた」
意味がわからないまま、脳髄に沁み込んでくる。
「我慢、してたのよ。あなたと二人きりになったら自分が抑えられないってわかってたから、私の部屋に呼ばなかったし、あなたの部屋にも来なかった。我慢できるラインを守ってるつもりだった」
語調がどんどん荒くなる。声が大きくなっていく。
「最初は、いっしょに居られればそれでいいと思ってた。あなたに想いを告げなくても傍に居られるだけでいいと思ってた。でも、我慢できなくなっちゃったの。傍に居るだけじゃダメになっちゃった。あなたが私以外を見ないようにしたい。あなたの心を私だけで埋めたい。あなたにも、私のこと……私の……ねえ蓮子――こんな私は、気持ち悪い、かな」
沈黙。シャワーの音だけしか聞こえない。
応えなきゃ。答えなきゃ。
「ち、が」
喉が引き攣る。それが怯えなのか、忌避なのかもわからない。
だけど伝えなきゃ。真っ白な頭でも喋るくらいはできる筈だ。
引き攣った喉でも声は出るんだから。
「私、違うの、そんなこと考えて、ない。私、私はただ、ただ――」
もがく、足掻く。
否定しなきゃ。あんな言葉は否定しなきゃ。
違う。違うのよ。私が逃げてたのは、そうじゃない。
「怖かった」
メリーが怖いんじゃなくて、気持ち悪いんじゃなくて、私が怖かったのは。
「怖かった、のよ――あなたと私の関係が、変わっちゃいそうで、終わっちゃいそうで、それが、怖くて……だから、私……」
「そっか」
溜息のような声だった。
だめ、だ。この声、だめ。
メリー、わかってない。勘違いしてる。
「ん――傷つけるつもり、なかったんだ」
待って。待ってよ。結論出さないで。私まだ伝えられてない。
傷つけるとかじゃなくて、私が、悩んでたのは、だから――
「ただ答えを知りたくて、嫌なら嫌で知りたかっただけで、でもそれさえもあなたを傷つけるなんて知らなかったから……ごめんね、蓮子」
肩から離れる手。
彼女の手が離れて軽くなったのに、重さを増す身体。
手枷で繋がれているように動かない腕を、伸ばす。
「違う!」
叫んで、掴んで、「さ」と開きかけていた彼女の口を止める。
嫌だ。嫌だ。そんな言葉聞きたくない。今得られる唯一の逃げ道だとしても、そんなの要らない。
言うな、言うな――その言葉だけは、言わないで、メリー。
「……蓮子、痛いわ」
うるさい。さっきのあなたの方がよっぽど強かった。
彼女が押さえつけたように、私は彼女を縛りつける。
「嫌いじゃ、ないの、私、やだ、終わらせたく、ない」
声が震える。一瞬が千倍に引き伸ばされる錯覚。
たどたどしくしか喋れない自分がひどく疎ましい。
焦燥感が身体中を焼いていく。
「メリーのこと、嫌いじゃ、ない。さよならなんて――やだ」
頭の中が焼かれて、がりがりと燃え尽きていく。
「もっと一緒に居たい。もっとお喋りしたい。もっと遊びたい。終わりにしたくない」
力の抜き方を忘れてしまって、彼女の腕を掴む手を緩められない。
「そんな、さよならみたいなこと、いわないでよ。やだよ、やだよメリー……」
どんどん、どんどん頭の中が焼け焦げて、空っぽになっていく。
熱い。熱い。身体がシャワーよりも熱くなって、思考能力を奪う。
理屈も理論も何もかも、プライドさえも燃え尽きて――
「やだよ――メリー。わかんないよ……どうすればいいの? 私、わたし――」
頬を伝うのはシャワーよりも熱い何か。
「ばかだから……こたえ、わかんないよ……メリィ……」
初めて己をばかだと認めて、わからぬ己の心を投げ出した。
聞こえるのは嗚咽。ああ、私は泣いているのか。これは涙なのか。
まるで子供。処理能力を超えた事態を前に癇癪を起している。
でもどうすることもできない。自信も誇りも焼き切れてしまった。
己を律するものが何も無い。泣き散らすことしかできない。
私は眼だけじゃなく頭脳までポンコツな、ばかだから。
「蓮子――」
掴む手を握られる。
泣いているだけの私は何もできない。
握る力が強くなった。爪が刺さる程に。
「それは、きっと」
ようやく気づく。
握る手も、彼女の声も、震えていた。
私の願望だけど、と前置きして、彼女は告げる。
「きっと……好きってことだわ」
好き?
わからない。だってそれは、何度も考えた。
何度も何度も繰り返して、考えて、辿り着けなかった。
私には、好きがわからない。
「わかんないよ……わた、わたし……そんなの、しらない……」
「初恋、なんだ」
彼女は微笑む。
「おそろいね、私たち」
「……え?」
「私もね、蓮子が初恋。これが恋だってわかるまで、時間がかかったわ」
はつこい。こい。この、なんだかわかんない、ぐちゃぐちゃしのたのが、恋?
何故だろう。わからないまま。ぐちゃぐちゃのままなのに、涙は止まった。
私の好きは、恋なんだって言われて、それが答えなんだって、理解する。
いきなり抱き締められる。頭の中はぐちゃぐちゃなままで反応し切れない。濡れた服が気持ち悪いなとか、関係無いことだけ考えてしまう。
「両想いで、いいのかな?」
耳元で囁かれる。
ぐちゃぐちゃの思考回路では答えられない。
だけど本能的な、原始的な何かが代わりに答えた。
「うん」
メリーは何かを呟く。
それはシャワーの音に掻き消されて、聞き取れなかった。
お礼、だったように思う。なんか、こういう場面でお礼とか、変だと思うけど。
だって本で読んだ恋とかはもっとキレイで、劇的で、はっきりしてた。
すっとメリーの身体が離れる。彼女の紫の瞳は、私だけを映していた。
「キスしていい?」
「……キスの仕方、わかんない」
「私もわかんない」
笑いながら彼女は、下手だったらごめんねと呟いて私の頬に触れる。
こういうときはどうすればいいんだっけ。知識を何も引き出せない。
私の身体は勝手に眼を閉じていた。思考と肉体がバラバラ。
でも、悪い気はしない。
初めてのキスの味は、熱くて、熱くて、よくわからなかった。
メリーのことを親友だと思っていたのはひと月前。
そんなわけで。
お付き合いを始めて一カ月が過ぎました。
テンパっちゃう蓮子可愛い
恋に戸惑ってしまう蓮子なんて素敵じゃないですか
蓮子の、理路整然とした思考回路を表現しつつ、恋の不可思議さ(といったらいいのかな)も表現しているのがすごい。蓮子が本気で恋に溺れたら、確かにこんな感じになりそうだ。
最後の一言に対して「で?で?ねぇもうデートとかしたの!?」とか色々と聞きたくなっちゃう野暮な人が私になります。そんなことしたら蓮子がまたテンパりそうだ…
初恋の、整理できない感情と思考が上手く表現されてた。
秘封ちゅっちゅ最高です!
メリーの鉄の自制心が付き合うことで開放されたらそうりゃもう大変なことになっちゃうんでしょうね……二人共幸せになぁれ!
よくわからなくなるけれど、相手と一緒にいたいという感覚。
初恋とはよいものですな。
ひふーちゅっちゅ
たまらんかったです。
もう世の中のガールズラブは全部メリーと蓮子で良い。
そう思わせられる作品でした。