「藍さまが結婚するらしい」
この話を聞いたとき、博麗霊夢はいつものように縁側でお茶を啜っていた。
そして聞いた後も、眉一つ動かさず、相変わらずのどかにお茶を啜る。
何も変わらない、平和な風景と言えば聞こえはいいが、相談者にとっては不満で仕方が無い。
「聞いてるの!?藍さまが結婚!」
「あーはいはい聞いてるわよ。で、その藍さまの式であるあんたが、一体わたしに何の用なの?」
「それは…」
そう聞かれて、八雲藍の式、橙は言葉を詰まらせた。
とにかく一大事なので博麗神社に来てみたが、何か具体的に目的があったわけでもない。
ぐっと俯く彼女に対し、霊夢はぼーっと空を眺めていた。
今日は風が強い。空は青いものの、時折その風に乗ってどこからかしずくが飛んでくる。
洗濯物を外に出すべきか否か、そんなはっきりしない空模様を見ながら、今度は自分の前にいる猫のことを思う。
こちらもまたはっきりとしない。橙は黙ったままだ。
「第一さ、藍が結婚するなんてどこ情報なの?」
「紫さまが…」
「紫が?」
痺れを切らして聞いてみたら、橙の口からは霊夢のよく知る名前が出た。
橙の主人である八雲藍の主人、幻想郷の管理者八雲紫である。
同じく管理者の立場である霊夢とも付き合いはそれなりにある。
「紫が何て言ってたの?」
「今朝、紫さまが『嫁入り』だって言ってた。本当ですかって聞いたら、『間違いないわ』って…」
「ふ~ん、なるほどね…」
よくよく考えてみたら、藍の主人が紫であるから、その結婚に彼女が絡む可能性は高い。
もしかしたら、婚談を取りまとめたのも彼女なのかもしれない。
それはさておき、霊夢は先ほどの質問に立ちかえる。
「それで、紫がそう言ってたとして、わたしに何の用なの?それに、あんたはどうしたいの?」
「わたしは…」
そう言って橙はまた下を向いて黙ってしまう。
が、今度はすぐに顔を上げた。
「わたしは、藍さまの相手がどういう奴なのか知りたい。わたしの尊敬する藍さまが幸せになるのならそれでいいけど…」
「相手がひどい奴だったら?それこそ、藍を幸せになんかできないような」
「それは…相手がどんな奴か知ってから考える…」
内心、やっつけてやりたいと言いたいところを橙はぐっと堪える。
この結婚話には紫も関わっているのだから、軽率な行動はできないのだ。
結果、はっきりとはしない曖昧な答えであったが、霊夢はそれで満足だった。
「とりあえずやりたいことは分かったわ。じゃあ、わたしは具体的に何をすればいいの?」
「え?」
「だーかーらー。手伝うにも何すればいいのか分からないから教えてって言ってるの」
「手伝ってくれるの!?」
「まあ、暇だしね」
「ありがとう!」
手伝ってくれる、という霊夢の答えに、橙は飛びあがって喜んだ。こんなに心強い味方はいない。
無関心だった最初からどういう心境の変化なのか橙には分からなかったが、とにかく嬉しかった。
というより、何で手伝おうなんて思ったのかは霊夢自身にもよく分かっていない。
ひょっとしたら、今の空模様のように曖昧な諸々をはっきりさせたかったのかもしれない。
霊夢はこのような天気が嫌いなのだ。洗濯物を干すべきか非常に困る。
「で、何をすればいいの?」
「えーっと…」
霊夢に聞かれ、橙は少し考え込んだ後、ぱっとひらめいた。
「昨日の藍さまの行動で気になることがあるから、一緒に調べて」
「気になること?」
「じゃあついて来て!」
「あ、こら!せめて何が気になるのかぐらい教えてからにしなさい!」
よほど気がせっていたのか、話の途中で橙は飛んでいってしまった。
制止も聞かず飛んでいくその様に、霊夢はやれやれと肩をすくめながら橙の後に続いた。
「着いたよ~」
「ここって…」
霊夢は驚いた。
博麗神社から飛び立って、降りついたのは霊夢もよく知っている場所。
魔法の森の入口にポツリと佇む、一見ガラクタに満ち溢れた建物。
「何で香霖堂なの?」
二人がやって来たのは香霖堂。
しかし霊夢には分からない。何故香霖堂が気になるのか。
もしかして藍の相手が霖之助か、という想像にも至ったが、それはないだろうと一蹴する。
九尾狐の藍の相手ともなれば、並々ならぬ妖怪であろう。霖之助には荷が勝ちすぎる。
一人頭を巡らせる霊夢の横で、橙は胸を張ってやや誇らしげに、ここにやって来た理由を話し始めた。
「藍さまの式であるわたしは、いつ藍さまに呼ばれてもいいように藍さまの居場所を大体把握できるの」
「ふ~ん、それで?」
「藍さまは毎日幻想郷中の結界を見回っていて、そのコースはいつも大体同じなの」
「それから?」
「でも昨日、見回りの途中で一度だけ、不自然に大きくコースから外れた場所が合って」
「なるほど、コースから大きく外れてやってきた場所がこの香霖堂だったと」
「そういうこと」
相槌まじりに聞きながら、霊夢は感心していた。なかなか冷静な分析である。
見た目こそ幼いが、八雲藍の式、八雲紫の式の式なのだ。
「じゃあいくよ!」
「はいはい」
橙が先導する形になって歩を進め、霊夢は後に続く。
そして、香霖堂の戸をガラッと開けた。
「やあいらっしゃい。おや、珍しい組み合わせだね」
「お邪魔します!」
「こんにちは」
橙たちがやってくるまで読んでいた本を片手に、霖之助は客人の方へ目を遣った。
その意外な組み合わせに若干目を丸くするが、橙はお構いなしに息を荒げて挨拶した。
敬愛する主人の将来に関わる重大なことなので、やはり少し興奮気味なのだ。
「あ、あの!ちょ、ちょっと聞きたいことが!」
「こら、あんまり意気込みすぎないの。はい、深呼吸」
「スーハー、スーハー、ヒッヒッフー…」
「何を産む気よ!」
「あう!?」
パシンと頭をはたかれて、橙は思わずふらついた。
さっきまでの冷静さとは打って変わってこの様である。先ほどの感心は撤回しようと霊夢は思った。
そんな二人の様子を見て、霖之助は可笑しそうに笑う。
「ははは、なかなか愉快じゃないか」
「笑わないでよ霖之助さん。こっちだって好きでツッコミ役やってるわけじゃないのよ」
「ふふっ、すまない。それで?何か僕に聞きたいことがあるんだろう?」
「ああそうだったわね。ほら橙、早く聞いちゃいなさい」
「え、あ、うん。えーっと…」
霊夢に背中を押され前に出た橙は、話を切り出そうとするが、上手く言葉にできない。
昨日、藍がここで何をしていたのかを聞くだけなのだが、妙に怖くて口が動かない。
すると、横でじっとしていた霊夢が、橙の背中を支えていた手を今度は肩に乗せ、ポンポンと優しく叩いた。
それに反応した橙がチラッと横を見ると、霊夢の眼差しと目が合った。鋭く、それでいてどこか穏やかな目だった。
覚悟を決めなさい、と語りかけられているように橙は思った。
今回のことは橙が自分で解決しなければならない。霊夢は後押しをするけれど、肝心なことは全て橙がすべきことなのだ。
そうとも言われているように思えて、橙は覚悟を決めた。
心の中で霊夢にありがとうと言いながら、ついに霖之助に質問をする。
「あ、あの、昨日ここに藍さまが来なかった?」
「藍さまって言うと、八雲藍のことかい?ああ、確かに来たよ。珍しいお客だなって驚いたよ」
「ど、どんな様子だった?」
「どんなって…そうだなあ…」
手を顎にやりながら、霖之助はうーん、と考え込んだ。
昨日来た九尾のお客はどういう風だったろうか、ゆっくりと思い起こす。
「しいて言うなら、何だか楽しそうだったね」
「楽しそう?」
「ああ。彼女、指輪を買っていたんだけど、なんだかうきうきしていてね。どうしたんだいって尋ねたら、何でも『特別な日』だとか言ってたよ」
「そ、そうなんだ…」
そこまで聞いて、橙は霖之助にちょっと待ってもらうよう頼んでから、霊夢を引っ張って店の隅に移動した。
「ねえ…今の話どう思う?」
「どう思うって…そりゃあ指輪はきっと結婚指輪で、特別な日は結婚式の日かしらね」
「じゃあうきうきしてたってことは、藍さまは結婚が楽しみってこと…?」
「まあそういうことになるわね」
「そっか…そうだよね…」
そう言うと橙は少し悲しそうに耳を垂らしたが、それもすぐに直してにっこり笑った。
そして霖之助のところまで駆け寄り、深々とお辞儀をした。
「色々と教えてくれてありがとう!」
「どういたしまして。まあ僕としては、何か買って行ってくれた方が嬉しいかな」
「そっか、じゃあ…」
冗談半分で言ってみた霖之助であったが、存外橙は本気にしたようであって、店内をキョロキョロと見回した。
そしてめぼしいものが見つかったのか、目を輝かせてその商品を手に取った。
「これください!」
橙が手にしたのは、藍色の飾りが付いた安物のネックレス。結婚する藍へのお祝いのプレゼントである。
貨幣経済の勉強という名目で藍からもらっているおこずかいでは高価なものは買えないが、せめてもの気持ちだ。
「霊夢、付き合ってくれてありがとね!それじゃあ、わたし帰るよ」
「あ、うん…」
贈り物用に包装してもらったネックレスを手に、橙はあっという間に店の外まで駆けて行った。
残された霊夢は、何か腑に落ちないといったような態度で突っ立っていた。
「どうしたんだい霊夢?何かまだあるのかい?」
「ねえ霖之助さん。昨日買い物に来た藍だけど、他に誰かいた?」
「いや、彼女一人だったよ」
その言葉を聞いて、霊夢はまた腑に落ちない様子で、う~んと唸っていた。
「藍さま!」
「おや橙。どうしたんだ?そんなに慌てて」
結界の見回りの途中に突然名前を呼ばれて、藍は驚いた。
さらに驚いたことは、不思議そうな顔をする藍を前に、橙はゼエゼエとかなり息を切らせていた。
それもそのはず。一刻も早く藍のもとへと、超特急で飛んできたのだ。
「あ、あの…ハアハア…藍さま…ハア…」
「おいおい上手く喋れてないじゃないか。とりあえず一旦落ち着いて、はい深呼吸」
「スーハー、スーハー、ヒッヒッフー…」
「何を産む気だ!?」
頭をはたかれこそしなかったが藍のツッコミの後、橙はようやく息を整えた。
そして懐に入れておいたとっておきの物を、にっこり笑顔で藍に差し出す。
「藍さま、ご結婚おめでとうございます!」
「………は?」
「藍さまがご結婚されると、わたしとしては少し寂しいですが、それでも藍さまがお幸せならわたしも幸せです!」
「あの、橙ちょっと…」
「これ、たいしたものじゃないですけど、藍さまのお名前に合わせて藍色の飾りが付いたネックレスです。受け取ってください」
「贈り物は嬉しいけど、だからちょっと待って…」
「幸せなご家庭を築いてくださいね…ぐすっ…ただ、わたしのことも憶えていてくださいね…ひっく…」
「わー橙泣かないで!というか何で泣くの!?」
しまいには涙を零し始めた自分の式に、藍は慌てふためいた。
優秀な式として頭の回転も速い藍ではあるが、今はまったく状況が読めない。
仕方ないので、一番の疑問を橙にぶつけるしかなかった。
「わたしが結婚するってどういうこと!?」
「え…だって紫さまが…ぐすん…」
「紫さまが?」
「紫さまが『嫁入り』って…うう…」
そこまで言って、橙はまた泣きだした。大切な主人が結婚で離れてしまうことが物悲しくて仕方が無いのだ。
だが一方で、どうしたものかと藍は悩む。
ともあれこのままではいけないと、はあ、と大きくため息をついて両手を橙の両肩に乗せた。
「いいか橙。紫さまが何と仰っていたかは知らないが、わたしは結婚なんかしないぞ」
「……え?」
藍の放った言葉が意外すぎて、橙は思わず泣きやんだ。
どういうことなのだろうかと、上目づかいに藍の方を見る。藍は、優しい笑みを浮かべていた。
「だってそうだろう?まだまだ半人前のお前を置いて結婚なんてできるもんか。とにかく、結婚なんてしないよ」
「本当ですか…?」
「ああ本当だ。今まで一度だって、わたしがお前に嘘をついたことがあったかい?」
「…無いです」
ふるふると首を横に振る。橙は心の底から藍を信頼しているのだ。
しかし分からないこともある。
「じゃあ…香霖堂で買った指輪は何だったんですか…?」
「ギクッ!?」
藍の言うことが本当だとして、では香霖堂での一件は何だったのか。
それが気になって聞いてみたら、藍はあからさまに動揺した。笑顔が引き攣っている。
「藍さま?」
「あー、えーっと、それはだな…」
「藍さま!」
「はあ、バレてしまったのなら仕方ない…本当ならもう少し後なんだがな」
煮え切らない態度の藍に橙が強く出てみると、観念したようにそうつぶやいた。
そして懐から小さな箱を取り出し、それを橙に手渡した。
「え?藍さま、これってどういう…?」
「もう少しでお前を式にして百年経つから、その記念にと思って。中は知っての通り指輪だ。お前の名前に合わせて、橙色の飾りが付いたな」
少し顔を赤らめさせて、頬をポリポリと掻きながら藍はそう言った。
それを黙って聞いていた橙は、藍の話が終わるや否や、ガバッと藍に抱きついた。
「わわっ!ちぇ、橙!?」
「ありがとうございます藍さま!大好きです!」
大好きです、と力強く言われ、藍の顔から蒸気が上がったような光景が確認された。
「はあ…どうりでおかしいと思ったわよ」
狐と猫のやりとりを遠くから見ていたのは、さっきまで橙と行動を共にしていた霊夢。
彼女が藍の結婚話に不審を抱いたのは、霖之助の話を聞いたから。
「結婚指輪を買うのに一人で店に行くっていうのは不自然よね」
普通だったら結婚指輪は二人で見に行くものだろう。なのに一人はやっぱりおかしい。
「まあ橙の心配事はこれで解決したとして問題なのはやっぱりあいつよね…」
そうつぶやいて、拳を握って怒りをあらわにぷるぷると震わせる。
今回の騒動の元凶、それは
「紫が変な嘘なんかつくから…」
「あら、嘘つきよばわりするなんてひどいじゃない」
「わあ!?」
突如、霊夢の背後の空間が割れて、そのスキマから八雲紫が現れた。
心臓に悪い登場の仕方に驚く霊夢に対して、紫は面白そうに笑っていた。
「ふふっ、うちの式の式が迷惑をかけちゃったみたいね」
「かけちゃったみたいって、あんたどこから知ってんのよ?」
「そうねえ、香霖堂の辺りからかしら。橙が霊夢と一緒にいるのが気になって様子を見てたのよ」
「まったく…だったら最初っから出てきなさいよ…」
呆れ果ててしまう霊夢であったが、はたと気付く。話が逸れている。
知らず知らず紫のペースに釣られてしまったが、問いただすべきはそんなことではない。
「それで、何で橙に嘘なんかついたのよ?」
「嘘って何のことかしら?」
「しらばっくれるんじゃないわよ。藍が『嫁入り』するって聞いて、橙が慌てふためいていたわよ」
「変ねえ…そんなこと言ったかしら?」
全く身に覚えが無いと言わんばかりに、紫はう~ん、と考え込んだ。
しかし霊夢は、それは単なるポーズではないかと思いっきり疑いの眼差しを向ける。
すると、紫は何か思いついたように、あっ、と声を出し、それから小声で霊夢に耳打ちした。
「…それだけ?」
「わたしが思い出せるのは、それだけのことなんだけど…たぶんこれが真相よ」
「ホント、なんてこったよ…」
耳元で告げられた事の真相に、霊夢はがっくし肩を落とした。
もし紫の言う通りなら、実に情けない真相である。
「まあ橙に付き合ってくれたお返しは今度してあげるから、元気出しなさい」
「言ったわね…絶対に実行してもらうわよ…」
「はいはい大丈夫ですよ。ところで霊夢、話は変わるのだけど…」
「何よ?」
「どうして橙にあそこまで親身になってくれたのかしら?あなたにしては珍しい」
「どうしてって言われても、ねえ…」
改めて聞かれて、霊夢にはよく分からない。
橙に協力すると決めたときは、はっきりしないことをはっきりさせたいという理由だと考えていた。
しかし、もっと違う何かがあったのかもしれないと霊夢も思う。
「家族…」
「え、なになにどういうこと?」
一言だけ零した霊夢に、紫は目を輝かせて、興味津々に身を乗り出した。
そんな紫の予想以上の食いつきに若干たじろぎながらも、霊夢は少し言いづらそうに話を続けた。
「ま、まあ藍のことを心配する橙が、まるで母親のことを心配する娘のように見えて。それで、わたしにはそういうのがないからちょっと新鮮に感じられたのかも…って紫、何泣いてんのよ?」
滔々と話す霊夢の横で、紫はどこからもってきたのかハンカチを目に当てていた。
そしてそのままの恰好で、今度は紫が話しだした。
「霊夢ったら一人でさびしかったのね…分かったわ、今度からわたしのことはお母さんって呼んでいいわよ」
「はあ!?そんなの死んでも嫌よ!」
「ああん、そんなに強がらなくてもいいのよ」
「あ、頭を撫でるなー!」
顔を真っ赤にした霊夢の陰陽玉が炸裂したのだった。
その夜、八雲邸にて。
「紫さま、ただ今戻りました…ってどうなさったんですかその顔!?」
「おかえりなさい…まあこの顔は反抗期の愛娘に引っかかれたとでも思って頂戴」
「は、はあ…」
藍が驚いたのは無理もない。
紫の頬が、まるで陰陽玉が物理的に炸裂したかのように腫れているのだ。
気にならないわけがないのだが、紫が気にするなと言うので藍もこれ以上深入りするわけにはいかなかった。
そこで話は、藍が大事そうに抱えている者に移る。
「あらあら、橙ったらすっかりおやすみね」
「ええ、仕事の途中で合流したのですが…」
日が沈んでしばらく経った頃から、橙はおねむになってしまったのだった。
永らく続いていた緊張が切れた分、その反動で疲れがどっと来たのだろう。
それはともあれ、藍には他に気がかりなことが一つ。
「あの、紫さま…」
「ああ、みなまで言わなくても分かるわ。貴女が結婚するって話でしょう?」
「ええ、その通りです。どうして橙にそんな嘘を言ったのですか?」
すやすやと眠る橙をそっと寝かしつつ、藍は紫の方を見る。
紫は、ちょっと困ったように苦笑していた。
「それなんだけどね、違うのよ」
「違うって、何がですか?」
「ほら、今日って天気雨だったでしょ?だからわたしが『狐の嫁入りね』って言ったのよ。そしたら偶然近くにいた
橙が血相を変えて『本当ですか!』って聞くから、『間違いないわ、狐の嫁入りよ』って答えたの…」
紫は、霊夢にしたのと同じ話を藍に対してもした。恐らく、これで間違いないはずである。
すなわち、橙は「狐の嫁入り」の「狐」を藍のことだと勘違いしてしまったのだ。
それを聞いていた藍は、霊夢同様、がっくりと肩を落とした。
「…橙には、もっと色んな言葉を教えないといけませんね」
力無くそう言ったのだが、ふと首にかけていたネックレスに手が触れた。
今回の騒動の中で、橙が自分にプレゼントしてくれた物。自然に顔が綻ぶ。
「あら、いいものしてるじゃない?」
「ええ、橙がわたしにプレゼントしてくれた物です。しかもわたしの名前に合わせて、藍色の飾りを選んでくれたんですよ。まったく可愛い奴です」
まるで娘自慢をする母親のような式に、紫は少しだけ嫉妬心のようなものを覚えた。
「いいわねえ…わたしなんて何も貰ったことないわよ…」
ちょっと意地悪してやろうかと、皮肉まじりにそう言う。
すると藍は、そうでしたね、と軽い調子で答えた。
「じゃあ何かプレゼントしなければ…紫さまの名前にちなんで、紫の鏡なんてどうでしょう?」
「嫌よ、そんな懐かしい怪談話なんて。何をプレゼントしていいか分からないなら、コックリさんにでも聞いてみなさいな」
お互い冗談を言い合って、ふふふと笑う。
付き合いが長い分、主人とその式という関係であるがこういった会話もよくある。
「そう言えば、もし今回のことが本当だとしたら、貴女どうする?」
「本当とは?」
「だから、貴女が本当に『嫁入り』するってことになったら、どうする?」
「正直言って、分かりませんね」
藍の答えは予想外に速かった。
ちょっと悩ませてやろうといういたずら心であったのだが、これでは面白くないと紫は残念がる。
そんなことは露知らず、藍は即答の理由を話した。
「橙にも言いましたが、橙を一人前に育てるまではそんなこと考えもしませんね。それに…」
「それに?」
「わたしの使命は、紫さまにお仕えすることですから」
「…にくいこと言ってくれるじゃない」
真っ直ぐ貰った忠誠というカウンターパンチに、嬉しさが隠せず笑みがこぼれる紫。
しかし、ちょっと物足りない。押されっぱなしというのは性に合わないのだ。
そこで、さっきよりもっと意地悪な質問を投げかけてみる。
「じゃあ、もし貴女の式の橙が『嫁入り』ってことになったら、貴女どうする?」
「…え?」
この問いには、流石の藍も面喰ったようで、二の句が継げないでいた。
してやったりというニヤニヤ顔の下半分を扇子で隠しながら、目はじっと藍の方を見据える。
果たして、どんな返事が返ってくるのか。
「…そうですね、橙の気持ちを最大限尊重したいと言いたいのはやまやまですが、主人として少しは口を出したいですね」
「具体的には?」
「まず最初に、本気を出したわたし相手に一分持つかどうか。話はそれからです」
「…え」
「その後もいくらか力量を測らせてもらいますが、最終的には『紫さまのご命令を頂いた上で』本気を出したわたしに勝てれば、結婚を認めましょう」
「あの、貴女さっき少しだけ口を出すって…」
「でも、結婚した後も気を抜くことは許しません。時折抜き打ちで寝首を掻きに行きます。それくらい余裕でかわしてもらわないと、橙を任せられません」
「…もういいわ」
紫の方が参ってしまった。敗北である。親バカここに極まれり、と言ったところだろうか。
そんな紫を尻目に、やる気満々の藍は優しく橙の髪を撫でる。
健やかな寝息をたてる橙の指には、橙色の装飾が施された指輪がはめられていた。
主人と式との絆の証なのだ。
この話を聞いたとき、博麗霊夢はいつものように縁側でお茶を啜っていた。
そして聞いた後も、眉一つ動かさず、相変わらずのどかにお茶を啜る。
何も変わらない、平和な風景と言えば聞こえはいいが、相談者にとっては不満で仕方が無い。
「聞いてるの!?藍さまが結婚!」
「あーはいはい聞いてるわよ。で、その藍さまの式であるあんたが、一体わたしに何の用なの?」
「それは…」
そう聞かれて、八雲藍の式、橙は言葉を詰まらせた。
とにかく一大事なので博麗神社に来てみたが、何か具体的に目的があったわけでもない。
ぐっと俯く彼女に対し、霊夢はぼーっと空を眺めていた。
今日は風が強い。空は青いものの、時折その風に乗ってどこからかしずくが飛んでくる。
洗濯物を外に出すべきか否か、そんなはっきりしない空模様を見ながら、今度は自分の前にいる猫のことを思う。
こちらもまたはっきりとしない。橙は黙ったままだ。
「第一さ、藍が結婚するなんてどこ情報なの?」
「紫さまが…」
「紫が?」
痺れを切らして聞いてみたら、橙の口からは霊夢のよく知る名前が出た。
橙の主人である八雲藍の主人、幻想郷の管理者八雲紫である。
同じく管理者の立場である霊夢とも付き合いはそれなりにある。
「紫が何て言ってたの?」
「今朝、紫さまが『嫁入り』だって言ってた。本当ですかって聞いたら、『間違いないわ』って…」
「ふ~ん、なるほどね…」
よくよく考えてみたら、藍の主人が紫であるから、その結婚に彼女が絡む可能性は高い。
もしかしたら、婚談を取りまとめたのも彼女なのかもしれない。
それはさておき、霊夢は先ほどの質問に立ちかえる。
「それで、紫がそう言ってたとして、わたしに何の用なの?それに、あんたはどうしたいの?」
「わたしは…」
そう言って橙はまた下を向いて黙ってしまう。
が、今度はすぐに顔を上げた。
「わたしは、藍さまの相手がどういう奴なのか知りたい。わたしの尊敬する藍さまが幸せになるのならそれでいいけど…」
「相手がひどい奴だったら?それこそ、藍を幸せになんかできないような」
「それは…相手がどんな奴か知ってから考える…」
内心、やっつけてやりたいと言いたいところを橙はぐっと堪える。
この結婚話には紫も関わっているのだから、軽率な行動はできないのだ。
結果、はっきりとはしない曖昧な答えであったが、霊夢はそれで満足だった。
「とりあえずやりたいことは分かったわ。じゃあ、わたしは具体的に何をすればいいの?」
「え?」
「だーかーらー。手伝うにも何すればいいのか分からないから教えてって言ってるの」
「手伝ってくれるの!?」
「まあ、暇だしね」
「ありがとう!」
手伝ってくれる、という霊夢の答えに、橙は飛びあがって喜んだ。こんなに心強い味方はいない。
無関心だった最初からどういう心境の変化なのか橙には分からなかったが、とにかく嬉しかった。
というより、何で手伝おうなんて思ったのかは霊夢自身にもよく分かっていない。
ひょっとしたら、今の空模様のように曖昧な諸々をはっきりさせたかったのかもしれない。
霊夢はこのような天気が嫌いなのだ。洗濯物を干すべきか非常に困る。
「で、何をすればいいの?」
「えーっと…」
霊夢に聞かれ、橙は少し考え込んだ後、ぱっとひらめいた。
「昨日の藍さまの行動で気になることがあるから、一緒に調べて」
「気になること?」
「じゃあついて来て!」
「あ、こら!せめて何が気になるのかぐらい教えてからにしなさい!」
よほど気がせっていたのか、話の途中で橙は飛んでいってしまった。
制止も聞かず飛んでいくその様に、霊夢はやれやれと肩をすくめながら橙の後に続いた。
「着いたよ~」
「ここって…」
霊夢は驚いた。
博麗神社から飛び立って、降りついたのは霊夢もよく知っている場所。
魔法の森の入口にポツリと佇む、一見ガラクタに満ち溢れた建物。
「何で香霖堂なの?」
二人がやって来たのは香霖堂。
しかし霊夢には分からない。何故香霖堂が気になるのか。
もしかして藍の相手が霖之助か、という想像にも至ったが、それはないだろうと一蹴する。
九尾狐の藍の相手ともなれば、並々ならぬ妖怪であろう。霖之助には荷が勝ちすぎる。
一人頭を巡らせる霊夢の横で、橙は胸を張ってやや誇らしげに、ここにやって来た理由を話し始めた。
「藍さまの式であるわたしは、いつ藍さまに呼ばれてもいいように藍さまの居場所を大体把握できるの」
「ふ~ん、それで?」
「藍さまは毎日幻想郷中の結界を見回っていて、そのコースはいつも大体同じなの」
「それから?」
「でも昨日、見回りの途中で一度だけ、不自然に大きくコースから外れた場所が合って」
「なるほど、コースから大きく外れてやってきた場所がこの香霖堂だったと」
「そういうこと」
相槌まじりに聞きながら、霊夢は感心していた。なかなか冷静な分析である。
見た目こそ幼いが、八雲藍の式、八雲紫の式の式なのだ。
「じゃあいくよ!」
「はいはい」
橙が先導する形になって歩を進め、霊夢は後に続く。
そして、香霖堂の戸をガラッと開けた。
「やあいらっしゃい。おや、珍しい組み合わせだね」
「お邪魔します!」
「こんにちは」
橙たちがやってくるまで読んでいた本を片手に、霖之助は客人の方へ目を遣った。
その意外な組み合わせに若干目を丸くするが、橙はお構いなしに息を荒げて挨拶した。
敬愛する主人の将来に関わる重大なことなので、やはり少し興奮気味なのだ。
「あ、あの!ちょ、ちょっと聞きたいことが!」
「こら、あんまり意気込みすぎないの。はい、深呼吸」
「スーハー、スーハー、ヒッヒッフー…」
「何を産む気よ!」
「あう!?」
パシンと頭をはたかれて、橙は思わずふらついた。
さっきまでの冷静さとは打って変わってこの様である。先ほどの感心は撤回しようと霊夢は思った。
そんな二人の様子を見て、霖之助は可笑しそうに笑う。
「ははは、なかなか愉快じゃないか」
「笑わないでよ霖之助さん。こっちだって好きでツッコミ役やってるわけじゃないのよ」
「ふふっ、すまない。それで?何か僕に聞きたいことがあるんだろう?」
「ああそうだったわね。ほら橙、早く聞いちゃいなさい」
「え、あ、うん。えーっと…」
霊夢に背中を押され前に出た橙は、話を切り出そうとするが、上手く言葉にできない。
昨日、藍がここで何をしていたのかを聞くだけなのだが、妙に怖くて口が動かない。
すると、横でじっとしていた霊夢が、橙の背中を支えていた手を今度は肩に乗せ、ポンポンと優しく叩いた。
それに反応した橙がチラッと横を見ると、霊夢の眼差しと目が合った。鋭く、それでいてどこか穏やかな目だった。
覚悟を決めなさい、と語りかけられているように橙は思った。
今回のことは橙が自分で解決しなければならない。霊夢は後押しをするけれど、肝心なことは全て橙がすべきことなのだ。
そうとも言われているように思えて、橙は覚悟を決めた。
心の中で霊夢にありがとうと言いながら、ついに霖之助に質問をする。
「あ、あの、昨日ここに藍さまが来なかった?」
「藍さまって言うと、八雲藍のことかい?ああ、確かに来たよ。珍しいお客だなって驚いたよ」
「ど、どんな様子だった?」
「どんなって…そうだなあ…」
手を顎にやりながら、霖之助はうーん、と考え込んだ。
昨日来た九尾のお客はどういう風だったろうか、ゆっくりと思い起こす。
「しいて言うなら、何だか楽しそうだったね」
「楽しそう?」
「ああ。彼女、指輪を買っていたんだけど、なんだかうきうきしていてね。どうしたんだいって尋ねたら、何でも『特別な日』だとか言ってたよ」
「そ、そうなんだ…」
そこまで聞いて、橙は霖之助にちょっと待ってもらうよう頼んでから、霊夢を引っ張って店の隅に移動した。
「ねえ…今の話どう思う?」
「どう思うって…そりゃあ指輪はきっと結婚指輪で、特別な日は結婚式の日かしらね」
「じゃあうきうきしてたってことは、藍さまは結婚が楽しみってこと…?」
「まあそういうことになるわね」
「そっか…そうだよね…」
そう言うと橙は少し悲しそうに耳を垂らしたが、それもすぐに直してにっこり笑った。
そして霖之助のところまで駆け寄り、深々とお辞儀をした。
「色々と教えてくれてありがとう!」
「どういたしまして。まあ僕としては、何か買って行ってくれた方が嬉しいかな」
「そっか、じゃあ…」
冗談半分で言ってみた霖之助であったが、存外橙は本気にしたようであって、店内をキョロキョロと見回した。
そしてめぼしいものが見つかったのか、目を輝かせてその商品を手に取った。
「これください!」
橙が手にしたのは、藍色の飾りが付いた安物のネックレス。結婚する藍へのお祝いのプレゼントである。
貨幣経済の勉強という名目で藍からもらっているおこずかいでは高価なものは買えないが、せめてもの気持ちだ。
「霊夢、付き合ってくれてありがとね!それじゃあ、わたし帰るよ」
「あ、うん…」
贈り物用に包装してもらったネックレスを手に、橙はあっという間に店の外まで駆けて行った。
残された霊夢は、何か腑に落ちないといったような態度で突っ立っていた。
「どうしたんだい霊夢?何かまだあるのかい?」
「ねえ霖之助さん。昨日買い物に来た藍だけど、他に誰かいた?」
「いや、彼女一人だったよ」
その言葉を聞いて、霊夢はまた腑に落ちない様子で、う~んと唸っていた。
「藍さま!」
「おや橙。どうしたんだ?そんなに慌てて」
結界の見回りの途中に突然名前を呼ばれて、藍は驚いた。
さらに驚いたことは、不思議そうな顔をする藍を前に、橙はゼエゼエとかなり息を切らせていた。
それもそのはず。一刻も早く藍のもとへと、超特急で飛んできたのだ。
「あ、あの…ハアハア…藍さま…ハア…」
「おいおい上手く喋れてないじゃないか。とりあえず一旦落ち着いて、はい深呼吸」
「スーハー、スーハー、ヒッヒッフー…」
「何を産む気だ!?」
頭をはたかれこそしなかったが藍のツッコミの後、橙はようやく息を整えた。
そして懐に入れておいたとっておきの物を、にっこり笑顔で藍に差し出す。
「藍さま、ご結婚おめでとうございます!」
「………は?」
「藍さまがご結婚されると、わたしとしては少し寂しいですが、それでも藍さまがお幸せならわたしも幸せです!」
「あの、橙ちょっと…」
「これ、たいしたものじゃないですけど、藍さまのお名前に合わせて藍色の飾りが付いたネックレスです。受け取ってください」
「贈り物は嬉しいけど、だからちょっと待って…」
「幸せなご家庭を築いてくださいね…ぐすっ…ただ、わたしのことも憶えていてくださいね…ひっく…」
「わー橙泣かないで!というか何で泣くの!?」
しまいには涙を零し始めた自分の式に、藍は慌てふためいた。
優秀な式として頭の回転も速い藍ではあるが、今はまったく状況が読めない。
仕方ないので、一番の疑問を橙にぶつけるしかなかった。
「わたしが結婚するってどういうこと!?」
「え…だって紫さまが…ぐすん…」
「紫さまが?」
「紫さまが『嫁入り』って…うう…」
そこまで言って、橙はまた泣きだした。大切な主人が結婚で離れてしまうことが物悲しくて仕方が無いのだ。
だが一方で、どうしたものかと藍は悩む。
ともあれこのままではいけないと、はあ、と大きくため息をついて両手を橙の両肩に乗せた。
「いいか橙。紫さまが何と仰っていたかは知らないが、わたしは結婚なんかしないぞ」
「……え?」
藍の放った言葉が意外すぎて、橙は思わず泣きやんだ。
どういうことなのだろうかと、上目づかいに藍の方を見る。藍は、優しい笑みを浮かべていた。
「だってそうだろう?まだまだ半人前のお前を置いて結婚なんてできるもんか。とにかく、結婚なんてしないよ」
「本当ですか…?」
「ああ本当だ。今まで一度だって、わたしがお前に嘘をついたことがあったかい?」
「…無いです」
ふるふると首を横に振る。橙は心の底から藍を信頼しているのだ。
しかし分からないこともある。
「じゃあ…香霖堂で買った指輪は何だったんですか…?」
「ギクッ!?」
藍の言うことが本当だとして、では香霖堂での一件は何だったのか。
それが気になって聞いてみたら、藍はあからさまに動揺した。笑顔が引き攣っている。
「藍さま?」
「あー、えーっと、それはだな…」
「藍さま!」
「はあ、バレてしまったのなら仕方ない…本当ならもう少し後なんだがな」
煮え切らない態度の藍に橙が強く出てみると、観念したようにそうつぶやいた。
そして懐から小さな箱を取り出し、それを橙に手渡した。
「え?藍さま、これってどういう…?」
「もう少しでお前を式にして百年経つから、その記念にと思って。中は知っての通り指輪だ。お前の名前に合わせて、橙色の飾りが付いたな」
少し顔を赤らめさせて、頬をポリポリと掻きながら藍はそう言った。
それを黙って聞いていた橙は、藍の話が終わるや否や、ガバッと藍に抱きついた。
「わわっ!ちぇ、橙!?」
「ありがとうございます藍さま!大好きです!」
大好きです、と力強く言われ、藍の顔から蒸気が上がったような光景が確認された。
「はあ…どうりでおかしいと思ったわよ」
狐と猫のやりとりを遠くから見ていたのは、さっきまで橙と行動を共にしていた霊夢。
彼女が藍の結婚話に不審を抱いたのは、霖之助の話を聞いたから。
「結婚指輪を買うのに一人で店に行くっていうのは不自然よね」
普通だったら結婚指輪は二人で見に行くものだろう。なのに一人はやっぱりおかしい。
「まあ橙の心配事はこれで解決したとして問題なのはやっぱりあいつよね…」
そうつぶやいて、拳を握って怒りをあらわにぷるぷると震わせる。
今回の騒動の元凶、それは
「紫が変な嘘なんかつくから…」
「あら、嘘つきよばわりするなんてひどいじゃない」
「わあ!?」
突如、霊夢の背後の空間が割れて、そのスキマから八雲紫が現れた。
心臓に悪い登場の仕方に驚く霊夢に対して、紫は面白そうに笑っていた。
「ふふっ、うちの式の式が迷惑をかけちゃったみたいね」
「かけちゃったみたいって、あんたどこから知ってんのよ?」
「そうねえ、香霖堂の辺りからかしら。橙が霊夢と一緒にいるのが気になって様子を見てたのよ」
「まったく…だったら最初っから出てきなさいよ…」
呆れ果ててしまう霊夢であったが、はたと気付く。話が逸れている。
知らず知らず紫のペースに釣られてしまったが、問いただすべきはそんなことではない。
「それで、何で橙に嘘なんかついたのよ?」
「嘘って何のことかしら?」
「しらばっくれるんじゃないわよ。藍が『嫁入り』するって聞いて、橙が慌てふためいていたわよ」
「変ねえ…そんなこと言ったかしら?」
全く身に覚えが無いと言わんばかりに、紫はう~ん、と考え込んだ。
しかし霊夢は、それは単なるポーズではないかと思いっきり疑いの眼差しを向ける。
すると、紫は何か思いついたように、あっ、と声を出し、それから小声で霊夢に耳打ちした。
「…それだけ?」
「わたしが思い出せるのは、それだけのことなんだけど…たぶんこれが真相よ」
「ホント、なんてこったよ…」
耳元で告げられた事の真相に、霊夢はがっくし肩を落とした。
もし紫の言う通りなら、実に情けない真相である。
「まあ橙に付き合ってくれたお返しは今度してあげるから、元気出しなさい」
「言ったわね…絶対に実行してもらうわよ…」
「はいはい大丈夫ですよ。ところで霊夢、話は変わるのだけど…」
「何よ?」
「どうして橙にあそこまで親身になってくれたのかしら?あなたにしては珍しい」
「どうしてって言われても、ねえ…」
改めて聞かれて、霊夢にはよく分からない。
橙に協力すると決めたときは、はっきりしないことをはっきりさせたいという理由だと考えていた。
しかし、もっと違う何かがあったのかもしれないと霊夢も思う。
「家族…」
「え、なになにどういうこと?」
一言だけ零した霊夢に、紫は目を輝かせて、興味津々に身を乗り出した。
そんな紫の予想以上の食いつきに若干たじろぎながらも、霊夢は少し言いづらそうに話を続けた。
「ま、まあ藍のことを心配する橙が、まるで母親のことを心配する娘のように見えて。それで、わたしにはそういうのがないからちょっと新鮮に感じられたのかも…って紫、何泣いてんのよ?」
滔々と話す霊夢の横で、紫はどこからもってきたのかハンカチを目に当てていた。
そしてそのままの恰好で、今度は紫が話しだした。
「霊夢ったら一人でさびしかったのね…分かったわ、今度からわたしのことはお母さんって呼んでいいわよ」
「はあ!?そんなの死んでも嫌よ!」
「ああん、そんなに強がらなくてもいいのよ」
「あ、頭を撫でるなー!」
顔を真っ赤にした霊夢の陰陽玉が炸裂したのだった。
その夜、八雲邸にて。
「紫さま、ただ今戻りました…ってどうなさったんですかその顔!?」
「おかえりなさい…まあこの顔は反抗期の愛娘に引っかかれたとでも思って頂戴」
「は、はあ…」
藍が驚いたのは無理もない。
紫の頬が、まるで陰陽玉が物理的に炸裂したかのように腫れているのだ。
気にならないわけがないのだが、紫が気にするなと言うので藍もこれ以上深入りするわけにはいかなかった。
そこで話は、藍が大事そうに抱えている者に移る。
「あらあら、橙ったらすっかりおやすみね」
「ええ、仕事の途中で合流したのですが…」
日が沈んでしばらく経った頃から、橙はおねむになってしまったのだった。
永らく続いていた緊張が切れた分、その反動で疲れがどっと来たのだろう。
それはともあれ、藍には他に気がかりなことが一つ。
「あの、紫さま…」
「ああ、みなまで言わなくても分かるわ。貴女が結婚するって話でしょう?」
「ええ、その通りです。どうして橙にそんな嘘を言ったのですか?」
すやすやと眠る橙をそっと寝かしつつ、藍は紫の方を見る。
紫は、ちょっと困ったように苦笑していた。
「それなんだけどね、違うのよ」
「違うって、何がですか?」
「ほら、今日って天気雨だったでしょ?だからわたしが『狐の嫁入りね』って言ったのよ。そしたら偶然近くにいた
橙が血相を変えて『本当ですか!』って聞くから、『間違いないわ、狐の嫁入りよ』って答えたの…」
紫は、霊夢にしたのと同じ話を藍に対してもした。恐らく、これで間違いないはずである。
すなわち、橙は「狐の嫁入り」の「狐」を藍のことだと勘違いしてしまったのだ。
それを聞いていた藍は、霊夢同様、がっくりと肩を落とした。
「…橙には、もっと色んな言葉を教えないといけませんね」
力無くそう言ったのだが、ふと首にかけていたネックレスに手が触れた。
今回の騒動の中で、橙が自分にプレゼントしてくれた物。自然に顔が綻ぶ。
「あら、いいものしてるじゃない?」
「ええ、橙がわたしにプレゼントしてくれた物です。しかもわたしの名前に合わせて、藍色の飾りを選んでくれたんですよ。まったく可愛い奴です」
まるで娘自慢をする母親のような式に、紫は少しだけ嫉妬心のようなものを覚えた。
「いいわねえ…わたしなんて何も貰ったことないわよ…」
ちょっと意地悪してやろうかと、皮肉まじりにそう言う。
すると藍は、そうでしたね、と軽い調子で答えた。
「じゃあ何かプレゼントしなければ…紫さまの名前にちなんで、紫の鏡なんてどうでしょう?」
「嫌よ、そんな懐かしい怪談話なんて。何をプレゼントしていいか分からないなら、コックリさんにでも聞いてみなさいな」
お互い冗談を言い合って、ふふふと笑う。
付き合いが長い分、主人とその式という関係であるがこういった会話もよくある。
「そう言えば、もし今回のことが本当だとしたら、貴女どうする?」
「本当とは?」
「だから、貴女が本当に『嫁入り』するってことになったら、どうする?」
「正直言って、分かりませんね」
藍の答えは予想外に速かった。
ちょっと悩ませてやろうといういたずら心であったのだが、これでは面白くないと紫は残念がる。
そんなことは露知らず、藍は即答の理由を話した。
「橙にも言いましたが、橙を一人前に育てるまではそんなこと考えもしませんね。それに…」
「それに?」
「わたしの使命は、紫さまにお仕えすることですから」
「…にくいこと言ってくれるじゃない」
真っ直ぐ貰った忠誠というカウンターパンチに、嬉しさが隠せず笑みがこぼれる紫。
しかし、ちょっと物足りない。押されっぱなしというのは性に合わないのだ。
そこで、さっきよりもっと意地悪な質問を投げかけてみる。
「じゃあ、もし貴女の式の橙が『嫁入り』ってことになったら、貴女どうする?」
「…え?」
この問いには、流石の藍も面喰ったようで、二の句が継げないでいた。
してやったりというニヤニヤ顔の下半分を扇子で隠しながら、目はじっと藍の方を見据える。
果たして、どんな返事が返ってくるのか。
「…そうですね、橙の気持ちを最大限尊重したいと言いたいのはやまやまですが、主人として少しは口を出したいですね」
「具体的には?」
「まず最初に、本気を出したわたし相手に一分持つかどうか。話はそれからです」
「…え」
「その後もいくらか力量を測らせてもらいますが、最終的には『紫さまのご命令を頂いた上で』本気を出したわたしに勝てれば、結婚を認めましょう」
「あの、貴女さっき少しだけ口を出すって…」
「でも、結婚した後も気を抜くことは許しません。時折抜き打ちで寝首を掻きに行きます。それくらい余裕でかわしてもらわないと、橙を任せられません」
「…もういいわ」
紫の方が参ってしまった。敗北である。親バカここに極まれり、と言ったところだろうか。
そんな紫を尻目に、やる気満々の藍は優しく橙の髪を撫でる。
健やかな寝息をたてる橙の指には、橙色の装飾が施された指輪がはめられていた。
主人と式との絆の証なのだ。
まあ読めていても面白ければいいんだけど、そこから今ひとつですかね。
頑張ってる橙が可愛かったのはよかったですが、先が簡単に見えてしまったこと、そして勘が鋭い筈の霊夢や頭のいい筈の藍様や紫のうちの誰一人として簡単に絡繰りに気づいていないことに違和感を強く感じてしまったのが残念。
それはそれとして、橙と結婚できる条件満たすのって紫様ぐらいじゃね?