糸が針穴から逃げ続ける。
今日に限って上手くいかない。このへにょって感じは昼下がりの不快指数を倍増させると思う。
「おや、ツマベニですか」
何を言われたのか分からなくて、往生際の悪い糸から目を上げた。
椛さんが鋏を構えたまま小首を傾げてる。視線を追ってようやく気付いた。
「えっと、それってこれのことですか」
灼け付くような照り返しが縁側から差し込んでいても、部屋は静かな仄暗さに満ちている。よく見えるように右手を返して目の前に差し出した。
意識してなかった蝉時雨が耳に駆け込んでくる。
「ああはい、そうです。”ツメ”に”クレナイ”で爪紅と書きます。外では違うのですか」
「はい、マニキュアって言ってます」
甲を戻して軽く握った。私にとってマニキュアでしかなかった指先を検める。
私の中に幻想郷がまたひとつ増えた。まぁ古い言葉ってだけなんだろうけど。
「爪紅かー。なんか響きがいいですね。艶っぽいっていうか」
「なになに、私にも見せてっ」
一瞬前まで寝そべってたのに、もうにとりさんが覗き込んできている。
「へぇ、もっと仰々しいの想像したけど落ち着いた感じだねー。桜みたい」
「そうですね。ベビーピンクって色なんです。赤ちゃんの肌……でいいのかな」
何か違う気がする。もっと英語勉強しとけばよかった。帰ったら辞書引こう。
「しかしどうしてまた。めかし込む用もないでしょうに」
そうだった。浴衣も大切だけどこっちもあった。
「あ、はい、それでちょっと感想を頂きたくて。どうでしょうか」
浴衣に合う小物を探している内にうっかり発掘してしまったマニキュアだ。ドラッグストアで揃えた安物だけに、付けていくのは躊躇われる。でも私は全力投球したいのだ。全てはひと夏のアバンチュール、夏祭りという舞台のために使えるものならなんでも使う。
剣山に針を戻して両手を広げる。椛さんがふむと頷く。審判を待つ緊張がじわりと背中に染み出した。にとりさんの笑顔。
「そっかそっか、そういうのって大事だよねー。似合ってると思うよ。文も気に入るんじゃないかな」
「浴衣は大人しい白地ですから、色合いに問題はないでしょう。華美に過ぎない華やかさが出ます」
”ありがとうございます”を心の底から言えた。二人とも、お世辞や変な気遣いを言うような人じゃない。好評なようで安心だ。
文さん、待っていてくださいね。私の魅力でめろめろの骨抜きにしてあげます。私は止まらないのだ。
心配が消えたところでもうひとつ。
「お二人も試してみませんか。幾つか持ってきてるんです。気に入ったらお祭りのときにもお貸ししますよ」
素敵だったりかわいかったりするけれど、洒落っ気は皆無の二人に色々としてもらいたい。私の密やかな欲望だ。
モノトーンの姿で黙々と山を見回ってたり、油汚れの黒をどこかしら――時々、こともあろうに顔――にくっつけてたりするのは世界の損失だと思う。
「私がですか? ありがたいですが辞退します。水仕事で落ちるでしょうからもったいない」
「私も遠慮かなー。水じゃなくても油ですぐ汚れるし」
椛さんはぺたんと耳を倒して、にとりさんは興味津々な目をしてるけど眉を八の字にして。
そう来ると思ってました。でも、
「大丈夫です。トップコートをきちんとしてればちょっとやそっとじゃ落ちません。それに」
殺し文句は用意してます。
「はたてさんや雛さんが喜んでくれるかも知れませんよ」
沈黙。ぐるぐる考えてる雰囲気が、ひしひし肌に押し寄せる。
蝉の隙間を縫うように、風鈴がひとつ鳴った。
待つほども無く俯いていたふたつのつむじが上がって、
「やります」
「私もっ」
この素直さを、文さんに見習って欲しい。
***
ベースで下地を作り、本番に取り掛かる。
椛さんの手は大きい。私の手がすっぽり収まるくらいだ。背丈は私より少し高い程度なのに、この差はどこから来るんだろう。
幽かに灯った羨望が、幼い頃に通っていたピアノ教室を照らし出した。
小さな私にとって見上げるほど大きなピアノを前にして、フットペダルに届かない足をぶらぶらさせながら、やっぱり小さな手で鍵盤を弾く。何度やっても上手く出来ない。ちょっと音符が離れていたら、それだけで指は「届くわけない」って音を上げる。
そんなはずない。クラスがひとつ上の子はあんなに上手に弾けてるのに、順番を待ちきれなくて駆け出したくなるほど素敵なのに、私は出来ないなんて嫌だ。遅めに設定されたはずのメトロノームがシンバルより喧しい音で私を急かす。頭の中から運指は消えて指がどたばた駆けずり回る。
「焦っちゃ駄目よ」なんて先生は言うけれど、言われる度に、ますます私は躍起になって鍵盤を叩き続ける。
悔しくて泣いたりもしたっけ。負けず嫌いだったなー。
この指ならリストも弾けてしまうんだろうか。ピアニストの椛さんは見てみたい。
ドレスはたっぷりドレープが入った深い真紅。コサージュも真紅の薔薇。白銀の髪と尻尾にスポットライトが反射する。背筋を真っ直ぐに伸ばして、生真面目な顔で譜面に目を走らせる姿は、きっとすごくかっこいい。
「どうかしましたか」
「椛さんの手、綺麗だなーなんて」
「嬉しいですが、褒められるような代物ではありませんよ」
謙遜だ。
指の付け根はタコだらけで、手のひらに山脈が聳えてるんじゃないかってくらいごつごつしてる。手の甲は切り傷とか多分だけど牙の跡とかその他よく分からない傷痕で、皮がよじれたりピンクになって大きな切り株の年輪に思えてくる。
「そんなことないですよ」
この手は綺麗だ。私の何十倍も生きてきて、何百倍も苦労してきた手だ。鍵盤を奏でる繊細で細く綺麗な指じゃなくて、剣を握る剛直で太く綺麗な指だ。
憧れる。いつか私も幻想郷で生きていくうちに、こんな手になれるだろうか。いつか泣き虫な私は、こんな風に逞しくなれるだろうか。なりたい。そうしたら二柱に心配をお掛けすることも無くなる……のは難しいけれど、少なくはなるんだろう。それに、文さんにも。
「終わりました。あとは少し待ってもらってからトップコートで仕上げます。どうですか」
ハケを戻してボトルのキャップを閉める。
顔を上げると、両手を突き出した椛さんの姿があって、眉を寄せて口はへの字で。あれ? 気に入ってもらえなかった?
「綺麗、なのでしょうね」
鬱ぎこんでた唇から、ぽつりと言葉が転がり出た。
「変われば変わるものです。私の手とは思えません。ですから、何でしょうか、私に合っているのか判断が付きません」
椛さんが選んだのはパールピンクだ。色の軽さに固さが取れてかわいくなると思ったし、私も賛成したけれど、こう悩まれると丸みも何も感じられない。
「いいなぁ、すっごくいいよ!」
じっと黙って見詰めていたにとりさんが、汗ばむ空気を叩き割った。
「そうでしょうか」
「うん、ほんとにいつもの椛じゃなくて、でもこれも椛なんだって。こんなところもあるんだ、って感じで。いいなぁ」
椛さんの眉が、少し開いた。
「ありがとう」
あ、駄目だ。かわいい。ぎこちない笑顔の椛さん。かわい過ぎる。抱き締めて頭撫でたくなる。むしろ撫でる。いざ、ふかふかもこもこの耳と尻尾を我が手に
「早苗早苗っ、私にも塗って、今度は私の番っ」
まぁ世の中こういうものだ。諦めよう。期待に輝く瞳を待たせると、私の良心が取り返しの付かない傷を負いそうだ。それに撫で繰り回すのははたてさんの仕事で、私じゃない。
でも羨ましいなぁ。少しはにかみながら指を眺める姿は、こっちまで照れてしまいそうなほどかわいい。ウェディングドレスを着た親戚のお姉さんを思い出す。普段はおっとりして何事にも動じないような人なのに、あの時ばかりは紅潮してて。
見蕩れかけた。心を鬼にして、にとりさんに向き直る。
「はい、どれにするか決めましたか」
「うん」
自信満々に差し出されたのはワインレッドのボトルだ。これ、にとりさんに合うんだろうか。もう少し大人の色気を持ってる人向けで、私も買って後悔した一品だ。頭の中で塗ってみても、やっぱりちょっとどぎつい気がする、
試すだけだしいいのかなぁ。でも他のを勧めたほうが。
「雛、綺麗って言ってくれるかなー」
あー、そうか。ドレスと同じなんだ。にこにこ屈託無く笑う顔は、太陽に向かって背伸びをする向日葵そのもので、こんな純真に想われてる雛さんが羨ましくなる。
ここで惚気られるとは思ってなかった。いただきました。
「きっと言ってくれますよ。それじゃ手を借りますね」
「お願い」
うきうきしてる指を手に取り……爪が大変なことになっている。
椛さんのは几帳面に切り揃えられていて、こんなところにも真面目な性格が出てるんだなって思った。今いる部屋を見回しても分かる。板敷きの、いっそ殺風景って言ってもいいくらいの中に、必要最低限の家具と申し訳程度の飾り房がついた長刀しかない。
一方で、家の外には謎の鉄塊がごろごろしていて、土間になると作り付けの棚に収まりきらない工具や部品が脇に積み上げられていて、奥の工房に進めば何かしら踏んづけないと入っていけない。それがにとりさんだ。
几帳面なんて単語とは無縁のはずなのに、白い部分は欠片も見えない。撫でてみた感触からは、爪と肉の境目が分からない。やすりも丁寧にかけているんだろう、滑らかに繋がっていて爪の存在を忘れてしまう。
それも一本だけの失敗かと思えば、目に映る全てがこうだ。
「私の指、何か変?」
「いえ、すごい深爪だなーって」
「あ、うん、そうだねっ」
指が引っ込んだ。驚いた川魚の逃げる速さだ。どうしたんだろう。
視線を正面に戻すと、にとりさんが両手を抱えてそっぽを向いてた。心成し、頬が赤らんでいるように見える。
「痛くないんですか」
「別に、平気だよ」
伏せた顔から声が湧いた。水底から出たように篭っていて聞き取りづらい。
痛々しい見た目でもないから本当なんだろうけど、困った。
「それでしたら塗りましょうか。手を出してください」
促しては見たけれど、にとりさんはもじもじしているばっかりだ。
あれだなー。ラブレターを渡す直前の女子中学生。しかもブレザーじゃなくて、昭和の香りがする黒のセーラー服だ。にとりさんかわいいなぁ。私に告白されても困るけど。
「どうしたというのですか。雛さんに喜んでもらうのでしょう」
助け舟ありがとうございます。
何度かためらう素振りの後に消え入りそうな”うん”が聞こえて、おずおずと指も出てきた。
「始めますね」
やすりを掛ける必要のない爪を拭って、ベースを塗り始める。気を抜けばすぐにはみ出てしまいそうだ。
どうしてここまで深く切っているんだろう。職業柄の用心? だとしたら、さっきの慌て方には納得がいかなくて。気になる。
「こうして見ると、にとりさんの指も綺麗ですよね」
「そうかな。ありがとう」
大丈夫だ。もう落ち着いたようで、照れはしていても声量が普段と同じだし、声音はいつも通り元気の象徴だ。
「はい、それに柔らかいし、女の子なんだなって思います」
「女の子なんて柄じゃないけどねー。そんなこと言うなら早苗のほうがよっぽどだよ」
「ちょっと照れますね」
相手はなかなかやりおる。出来ることなら文さんに言って欲しい。
でも無理なんですよね。照れ屋さんだから。諦めてます。
「でも夏はいいですけど、寒くなると水荒れがひどいんですよ。にとりさんって冷たい中だって平気で潜るのに、全然大したことなさそうで。やっぱりお手入れしてるんですか」
「特にないかなー。汚れたら洗う程度だよ」
これが妖怪か。妬ましい。
「でも爪はこんなに綺麗に磨いてますよね。よかったらどんな風にしてるか聞かせてください。参考にしたいんです」
「普通だと思うよ。雛にしてもらってるけど」
「雛さん?」
理由へ行く前に何か掘り当てたような気がする。思わず視線を上げて聞き返してしまった。
にとりさんの顔が見る見る内に染まっていく。これが火に掛けられたやかんなら立ち上る陽炎も見えそうだ。
「うん、そう、それだけ」
流石に聞き質すわけにもいかないんだろうなー。
諦めてベースを黙々塗り続ける。
***
「終わった?」
「はい、お待ちどおさま」
出来上がりは予想通りに派手だった。けれども悪くない、というより良いかも知れない。
爪が短いだけに表面積は小さくて、紅く咲いた姿に主張し過ぎない品の良さを感じる。良い意味で子供っぽい快活さに溢れるにとりさんだけど、そこに真紅のワンポイントが入って……蠱惑的? うん、それだ。とにかくエロい。
「ありがとう早苗」
「どういたしまして。椛さんにも言った通り、乾くまでしばらく時間が掛かりますから気をつけてくださいね」
指を眺めて、にへらと崩れる締りのない頬は、それでもやっぱり女の子だ。予想外の一面を見られて私としても満足なんだけど、なんだろうこの敗北感。
にとりさんには女の魅力で負けないだろうなんて密かに優越感を抱いていたのだ。自信を無くす。
いっそのこと、私もこれを塗ってしまおうか。そうしたら文さんだって……でも過去に披露した時のことが否応なく思い出される。諏訪子様の爆笑がいつまで経っても忘れられない。部屋に蛙の大群が雪崩れ込んできたのかと思ったほどだ。容赦の無さに救われはしたけれど、今になっては重い枷でしかない。
「椛、いる?」
「ええ、今開けますね」
雛さんだ。
流し場で作業していた椛さんが戸を引いた。湿気を含んだがたぎいに続いて、真紅のドレスが入ってくる。改めて見ると、同じ染料で染めたんじゃないかってくらいぴったりだ。
ふと思う。もしかして、にとりさんの帽子って雛さんの髪に合わせてたり? ありそうだ。マニキュアが最初だとは限らない。
羨ましい。私が合わせるとしたら何だろう。ブラウスと巫女装束は合ってると言えなくもないけれど、何か違う気がする。
文さんって椛さんに負けず劣らずモノトーンだしなー。何か他に……あった。柘榴の瞳。
「揃ってるわね。進んだ?」
これっぽっちも、なんて胸を張って言えるわけがない。こんにちはと苦笑で無難に返す。
お揃いは置いといて浴衣に専念しないと。小物は後で考えればいい。
影が土間に飛び出した。
「雛っ!」
「あらあら、どうしたの。こんなところで押し倒されても……困らないわね。積極的なにとりも好きよ」
大人の色気ってこういうものなんだろうなって思わせる微笑み方。ここまで差を見せ付けられると、逆に自信が揺らぐ気配はない。逆立ちしたって敵わないから。
にとりさんがマニキュアより赤くなった。毎度ながら雛さんの言動は一々エロいと思う。にとりさん限定とは言え配慮をして欲しい。私は未成年なのだ。
「そうじゃなくてっ。ねぇ雛、見て見てっ」
どこからどう見ても、”取って置き”を披露したがってる小学生だ。こんなに喜んでもらえると私も嬉しいけれど、反応が怖くなる。雛さんのことだから、最悪お茶を濁す程度に済ませるんだろうけど、そういう気遣いは心に痛い。
「爪紅? そんな高価な物、何処から」
高価?
「ああ違うわね。ごめんなさい、にとり。とても素敵よ」
直前まで漂っていた色香が消えて、優しい眼差しに変わった。
諏訪子様が極稀に向けて下さるものと同じだ。私まで癒されてる気分になる。
「うん、ありがとう」
ふわりと頬を撫でられて、椛さんじゃないのにぱたぱた跳ね回る尻尾が見えてきそうだ。いいなぁ。あんな風に私も文さんに撫でられたい。きっと思い返す度に、私は変なにやけ顔になるんだと思う。まぁ出来るようになる頃には桜が散ってそうだけど。
かわいいんですが、その照れ屋さんっぷりを早くどうにかしてください。待ちきれなくて私が暴発しそうです。
何はともあれ一安心だ。あの様子なら気に入ってくれたんだろう。
雛さんの目が、急須を掴む椛さんの手に落ちた。
「貴方も綺麗ね。そうなると出所は早苗かしら」
「ご明察です。まずは上がってください。丁度茶を淹れるところですから」
サラシと袴で真夏を乗り切る暑がりなのに、椛さんは何故か熱いものを淹れる。感化されたのか付き合っている内に、喉を過ぎて汗の引く感覚が悪くないと思えるようになってきた。花の女子高生がこれでいいのか悩む。
「ありがとう。そうさせてもらうわね」
雛さんが上がり框に腰掛けてブーツを脱ぎだした。
始めてもいないけど、ひと息入れるにはいいタイミングなんだろう。お祭りまで時間はあるし、和裁のお師匠が二人に増えたから余裕もある。椛さんや雛さんに頼りっきりなのは申し訳ないし情けないけど、素人が一人で張り切っても仕方ない。
そういえば。にとりさんってどうして居るんだろう。雛さんに会いたかった? 説得力がある。オッカムの剃刀に出番はないし、これでまず確実だ。
マニキュアと小道具を片付ける手を休めて、何気なく当人に視線を向けた。
心を抉られた。
雛さんの頭越しに私を見詰める目は、”しょんぼり”って言葉しか当てはまらない。衝動的に土下座したくなったけれども何とか踏みとどまる。私は何をしたんだろう。割と失礼なことを考えてたのが見破られたんだろうか。でも読心術が出来るなんて聞いた覚えはないし、そもそもそんなエスパー染みた知り合いはいない。
みしみしと軋りを立てる良心を抱えて悩んでいたら不意に気付いた。にとりさんは私を見ているわけじゃない。
”これですか?”。口パクに併せて私の手元を、次に雛さんを指して……当たりのようだ。にとりさんは笑顔に輝いたかと思えば、激しく上下に首を振り始めた。動きから取り残されてツインテールが宙に浮いている。
分かりますよ、にとりさん。誰だって恋人の素敵な姿は見てみたいものです。そこに気が付かなかった私は切腹程度では許されません。せめてもの罪滅ぼしに責務を果たします。私も見たいし。どんな色気が出るのかなー。
「あの、雛さん」
「何かしら」
「良かったら、えっと爪紅、試してみませんか。色々揃えてますし」
さっきの二人と同じで、振り向いた顔は困惑している。口から出てきた「それは悪いわよ」も大体予想通りだ。
けれども一呼吸おいた後に、ゆるりと眉が開かれて、
「と思ったけれど、この場合は遠慮する方が悪いのでしょうね。ありがたく試させてもらうわ」
背後で百面相をしていたにとりさんが歓喜のポーズで固定された。
「はい、そのために持ってきましたから」
ボトルを並べながら、なんとはなしに茶の間へ上がる雛さんを見た。
深爪だった。
***
ぱちり、お風呂上りでふやけた爪を順番に切っていく。爪切りがベビーピンクを食べていく。
――何故って、気になるの?
後ろで絶望してるにとりさんが気にならない程度には気になります。魂の篭った力作が木っ端微塵になった時と変わらない表情には罪悪感も湧くけれど、私の好奇心は止まらない。
ぱちり、思い出すと雛さんに触れられた腕が、なんだかむず痒くなってくる。
――今のは撫でただけ。これはどう。
無闇にエロい手付きでくすぐられて全身の毛穴まで笑い出しそうになった後、肌に指が浅く沈んだ。突き立てられて、引っ掻かれ……た?
ひっくり返したコップから水が落ちなかったら、こんな気分になるんだろう。”特に何もない”と答えた自分が嘘を吐いているようで落ち着かない。
――これが理由よ。貴方も覚えて置きなさいな。
ぱちり、夜に爪を切ると親の死に目に会えないんだっけ。
大丈夫。手元が暗いと危ないってだけの話だ。変に考えなくていい。
不意に競りあがった胃液を飲み下して、出されたクイズを振り返る。
ヒントはにとりさんの赤面する姿だろう。でもやっぱり分からない。何故恥ずかしがらないと駄目なんだろうか。
案ずるより生むが易しの精神で、小指を深く切ってみる。にとりさんの言う通りで全然痛くない。事故ならともかく分かってやるなら、”これ以上無理”って部分を指先に感じる。自然、爪切りもそこで止まって血が出るようなこともない。
でも、だからこそ自分の指以外に出来る気がしない。
雛さんに切ってもらってる、って言ってたけれど、きっと積み重ねの成果なんだろう。何年も、それこそ付き合いだしてから何十年も繰り返してきたから”平気”だなんて言えるようになったんだと思う。私は文さんとそんな関係になれるだろうか。
ふと思い立ち、小指を文さんのものだと想像して腕をなぞる。
くすぐったいのもあるけれど、それ以上に触れた部分の毛穴が開く感じに身を捩りたくなる。まぁこれはいつも通りだ。じゃあ、引っ掻いたら? 爪とは思えない爪を立てる。
痛くない。
文さんが引っ掻いたのに、腕に白い線は幽かにも付いてない。
なんだ。分かってしまった。にとりさんが恥ずかしがるのも当然だ。覚えておきなさいなんて、もう少し配慮をして欲しい。なんてったって私は未成年なのだ。
ぱちん、爪切りを再開する。
どうしようか。深爪にしたなら、文さんはきっと気付くだろう。髪に隠したイヤーカフだって事も無げに見つける観察眼だから。そして何かあったのか訊いてくる。問いを受けて私は説明するのだ。文さんに傷を付けないようにするためです。
どうしよう。すごく楽しい。文さんはきっと悩むんだろう。けれどもすぐ察すると思う。たまに置いてけぼりにされた気分になるほど頭の回転が速いし、初心だけど疎いってわけでもないはずだから。そして文さんは一目散に逃げ出すのだ。仕事がありますので、なんて言いながら。
「ふへっ」
変な声が漏れた。文さんがかわい過ぎるから仕方ない。それでも決まり悪さに身じろぎして。
不穏な気配を感じた。何奴。我の痴態を見たとあっては生かして返せぬ。
ぐるり、ランプの灯りに浮かぶ乙女の聖域を見回して、
「隊長、敵機の襲撃です!」
「ただちに応戦せよ」
「了解!」
早速見失った。
「如何いたしましょうか。この薄暗さでは機影を視認できません。更には暗がりを巧みに使うようです」
「静まれ。案ずることはない。我が方には心強い友軍がついている」
「しかし」
「穣子様から直々に賜れた神器、蚊取り線香の御力を疑うのか」
「いえ、そのようなことは決して」
「ならば座して見よ。勝敗は既に決している」
窓際で頑張ってくれてる蚊遣りペンギンに心持ち近寄って座りなおす。
何しろ私は悩んでいるのだ。不埒な侵入者にかかずらってる暇はない。
To be, or not to be. 深爪にするべきか止めるべきか。それが問題だ。
どこまで考えたっけ? 文さんが真っ赤になって飛び出したところか。
それじゃあ、その後は?
どうなるんだろう。
きっと真面目に考えてくれる。一週間ほどなんの音沙汰もなくて、後悔する私が寝不足になった頃、風を巻き返して会いに来てくれる。やっぱり目の下に立派なクマを育てて、それでも何もなかったように挨拶してくれるのだ。
他愛無い立ち話を二、三交わす。それから本人にとっては何気ない素振りで手帳を取り出す。爪がよく見えるように。今日はこのネタを調査してみましょうか、なんてわざとらしく呟きながら。いつもの演技派も形無しの大根っぷりに、私は我慢できず噴出すのだ。
文さんは怒るだろうか? それはちょっとないと思う。けど怒ってみせるくらいはしそうだ。うん、それくらいかな。私の気も知らないで、なんて声まで聞こえる。でもそれって文さんなりの照れ隠しなんですよね。私はちゃんと知ってます。
そして私は文さんに抱きつくのだ。嬉しくて、しがみついていないとどこかに飛んでいってしまいそうになるから。
きっと、きっと文さんは悩むはずだ。どこまでも初心だけど、嬉しさに泣きたくなるほど真摯に私のことを考えてくれる人だから。
***
切り終えて、やすりをかけた。影響されやすい私が少し情けなくて面白い。私はまだまだお子様だったってことなんだろう。お祭りまで伸ばそうか、なんてついさっきまで考えていたのに、
爪切りと一緒に、出しっぱなしだった裁縫セットも仕舞う。マニキュアはどうしようか。
少し考えて、雛さんへ贈ることに決めた。使いさしでも多分喜んでもらえるだろう。昼間は恐縮するほど感謝されたから。それに椛さんやにとりさんにも使ってくれるだろうし適任だ。
買い置きのトップとベースにボトルを合わせて紙袋に包む。でもベビーピンクは別だ。私はまだまだお子様だから。一年か二年か十年か、どれだけ掛かるか分からないけれど、いつかちゃんと使える日が来るまで取って置く。その頃には文さんに見せる私の手は、少し椛さんに近付けてるんだと思う。
ぱちん、頬を叩く。手のひらに真っ赤な染みが付いていた。私の血だ。
「敵将、討ち取ったり」
少し申し訳なさを感じるけれど、殺生戒はお寺さんに任せよう。
私を悩ませる高周波音が消えて、今夜は平和に眠れそうだ。
虫刺されの薬って何処にやったっけ。
「早苗ー、悪いけど少し来て頂戴」
神奈子様だ。肴は御自分で用意すると仰っていたのに何かあったんだろうか。
「はーい、ただいまー」
薬は諦めよう。とりあえず応急処置だけ。
人差し指で十文字に跡を付け、階下に向かった。
心の底から同意。もみじもみもみ。
爪紅って中々趣のある表現ですね。口紅とか頬紅とかもそうかな。
双方楽しめる、素敵な作品ですね。
それぞれの美しさとかお洒落とか色々見ることができて面白かったです
登場人物がみんな可愛く恋する乙女で、三者三様にいとおしい。
欲を言えば早苗の想像の中じゃなく文に出てきてもらって、あわあわしながら爪紅の感想を言ってほしかった!
あやさないいですね