幻想郷の空は、黒々とした夜に覆われていた。
月は薄雲に隠れ、光は微か。
夜分遅くのことだった。
だが、ここ紅魔館の住人にしてみれば、これからが実質一日の始まりであり、また勤務の大きな節目であり、そして館内のメイドの指揮を一手に引き受ける、完全瀟洒なメイド長たる十六夜咲夜にしてみれば、まさに至福のときでもある。
最上階。バルコニー。白いテーブル。天井から下がる、仄かな明かりを燈したランタン。
「お嬢様、お待たせいたしました」
背後のガラス扉を軋ませることもなく、咲夜は開けた空と湖を見渡す、この場所に立ち入った。
手摺り際に据えられたそのテーブルには同じく白い椅子がふたつ、そしての一つには、こちらに横顔を伺わせる形で、ひとりの影がついている。
「まったくね。ほんと、待ちくたびれたわ」
その影が、あくび混じりに声を上げ、咲夜を見やる。机上に浮かぶランタン。その薄明かりが、輪郭を浮かび上がらせる。
白い肌に深紅の瞳。背には紅色の翼。頬杖を付くその手が指を一本、咲夜に向けた。
「でも、待った分だけは期待していいのよね?」
咲夜は微笑で肯定する。
「ええ、存分に。空腹は最高の調味料。期待は最高の隠し味とも言いますし」
「今考えたでしょう?」
咲夜が主と認めるその少女は、口を引き伸ばして可笑しげに笑う。
「ええ。しかし事実ですから」
咲夜も笑みを返し、歩を進める。
いつも通りの挨拶だった。
主の背に立ち、そっと、音を立てないよう、カップをソーサーごとテーブルに並べた。そして脇に寄り、今度はゆっくりと、両手を添えた小ぶりなポットで、カップに紅茶を、己が魂を注いでいく。
「…………ん、いい香り」
主が目を細めた。
上がる熱気は白く、夜の空気によく映える。
「咲夜」
「はい」
まず一連の会話。
「今宵の客は?」
「永遠亭の薬師。と言えばお判りになられるかと」
「薬師…………ああ、あの悪人面」
主は片目で優雅な面持ちを崩さぬまま、もう片方の目を巧みにしかめてみせた。付いた頬杖、余った指がこめかみを叩く。叩いて、納める。
「……ま、あなたがここまで通すくらいだし――こちら側にもそれなりのメリット、あるんでしょうね」
「ええ。聞き及んだ話が全て事実なら」
「そう、ならいいわ。通して頂戴」
「はい」
返答だけを残し、次の瞬間には、メイド長はそこにはいない。再びひとりに戻った主はカップを手に取り、口元にやった。
胸が熱くなる。喉を一度鳴らし、カップを置く。吸った空気は仄かに甘い。香りの残滓が鼻をくすぐる。
自分が淹れたわけでもなかったが、思わず会心の笑みがこぼれた。
「…………うん、期待しただけのことは、あったわね。やっぱり」
「あら。ここの粗茶って紅茶なの?」
ぬっ、と、
無闇に頭に、それも土足で踏み入ってくるような声だった。
夜風と紅茶で澄み渡っていた脳裏に、訳もなく苛立ちが浮かぶ。――――いや、
粗茶?
こいつ、咲夜の淹れた茶を粗茶と言ったか。
目から火が出ると本気で思った。
遠く咲夜の声がした。
「はい。大抵の場合は。しかし、ご要望とあらば、」
「いいわ。咲夜」
手を上げ断じる。
背後に生じていた気配はふたつ。情けない。自分ともあろうものが、紅茶に酔って認知もろくにもできないなんて。
しかし、それ以上に、茶にせよ、接にせよ、己が従者の手腕を褒め称えたくもある。
ここは、落ち着け。
深く、長く。一息吸って、声にした。
「うちの従者の逸品を無下に断るなんて、そんな『恥知らず』な『お客様』が『いらっしゃる』はずもないでしょう? ――――ねえ」
努めて威圧的に、なるたけ高圧的に足を組む、と同時に椅子に手をやり身を傾けて、斜にした半身を扉に向けて――
「え」
紅魔館の主、レミリア・スカーレットは目を瞬かせた。
「……………………、誰?」
「あらひどい」
視線の先には咲夜が立っていた、だが無論客分扱いの存在の前に立つはずもなく、その客分の傍らに。ただ、
その客分は、大和撫子を地で行く客分だった。
この空。黒々した、むらの強い、墨を塗りたくったような黒。
その空をそのまま縫い込んだような深い黒地の衣装。否、意匠。
そして、細身の腰に手厚く巻かれた、血よりも赤い深紅の帯。
随所に凝らされた、金糸銀糸の刺繍が光る。光は連なり、星座の形を模していた。
肩にかかっていたはずの銀髪は、後ろ頭で留めてある。髪の切れ間に、白い、竹の簪が覗いていた。
――――――んん?
なんとなく、気後れ。
紅い悪魔が、なんとなく気後れ。
視線が、正面から向き合うことを拒否していた。それを見透かしたように向こうが一歩。
目が、合った。薄い笑い。内側が読めない。さらに一歩。胸元に目が行った。行ったことを後悔した。
言い知れない敗北感。今の自分の顔が想像も付かない。正面。客分は苦笑して、思案するでもなく手を合わせた。
「ごめんなさい」
「…………何?」
「紅茶、そこまで言うのならご馳走に預かるけれど――どうかしたの?」
「……」
どっ、と疲れが、肩に翼に圧し掛かる。椅子にもたれる。低い背もたれを妙に頼もしく感じる。
視線と片手で、対面を示す。客分はきょとんとしていた。やむを得ず、口を開く。
「えっと…………あー…………、まあ、どうぞ。座りなさい」
「……ああ。どうも。では、まずは一杯ほど、頂きますわ」
椅子に静かに腰を下ろし、客分は言った。後半は咲夜に向けての物だった。
「かしこまりました」
黒い空。見えない月。紅い館。
バルコニーに三人。悪魔とメイドと蓬莱人。
黒い空に三人、三者三様の思いで臨む。
付いた頬杖、余った指がこめかみを叩く。叩いて、叩く。なお叩く。どうにも止まりそうになかった。
――こんなに月も塞いでるし、これはちょっと、
息を吐く。
長い夜になりそうね。
眉根を寄せて、レミリア・スカーレットはそう思う。こめかみを叩く力が強くなる。
メイド長は、瀟洒にその場に佇んでいる。
和服美人は、なんとも美味そうに紅茶をすする。
すするな。
黒い夜。
月は、相変わらず雲の彼方で職務怠慢を極めている。
それこそ、門前で不死の煙を昇らせる、愚かで哀れで逞しい、ほどよく焦げ付いた門番のように。
『永遠亭始めました vol.ワン』
「暇ね」
部屋にひとり。
空気を相手につぶやいた。
初めの日からずっと続けていた、数少ない日課だった。
幾千幾万も繰り返していれば、いい加減返事が帰って来ても良さそうなものだと思っていたが、その日の声もまた、静寂に巻かれて消えていった。
雲が流れていくのが判る。それは雲が流れているのを知っているからで、どんな風に流れていくのかをもまた知っているからで、結局のところ、知らないものは想像しようもないということだった。
四角い書机には自分の手のほか何もなく。縁から差し込む薄明かりだけ、影と変わらない濃さの光を投げていた。
横目。
庭で因幡が跳ねていた。
一羽、二羽。
数えるのはそこでやめた。概算十羽に満たないほどだろう。いずれも白く、屹立した両耳を揺らし、踊るように跳ねている。高く、なるたけ高く。それはそれこそ、月まで耳が届くほどに、高く。
兎、兎、何見て跳ねる。
ふと思い出す。
そんな唄があった。
もう、昔の話。
もう、忘れてしまってもいいくらい、昔の話。
庭で因幡が跳ねている。
「……う――さーぎ、うーさーぎ、なーに、見ーて、跳-ねーる、――――……」
透明な部屋に溶けていった。
ともすれば、消え入りそうな声だった。悪く言えば気のない声。良く言えば、儚げな声。
良い場合を後に挙げるあたり、自分は後者で思われたいらしい。
風はなかった。笹の葉の音がない。いや、
――ああ、そういえば。
此処から見える竹だけは、残らず刈るよう言っていたのだった。
気まぐれとはその根源からして一過性のものではあるけれど、気まぐれによって生じた変化は一過性ではないものばかり。今更ながらに殺風景に変わってしまっていた庭の景観に、私は気のないため息をつく。
「兎、兎、ね」
月の兎。
地上の兎。
まあ、どちらも兎。どちらも因幡。
差別も区別もない。する気もない。
「大切にする気もない、けれど――――」
無下に扱う理由も、また、なくて、
結局、私は遊び相手欲しさに庭に出た。因幡たちは跳ねるのを止め、首をこちらに傾けた。
「あなたたちは、人の言葉は話せない、……のだったかしら」
腰を落とし、膝を抱えて、片手で手招きしてみせた。
時によって人型に変わることもある因幡たちも、常日頃は大抵庭でこうしている。知能は人の赤子くらいはあるらしく、揺らめかせた指に誘われるように、一羽、また一羽と近寄ってくる。
空は暗い。雲の天井があるようなものだ。とはいえ、天井が水か木かの違いは大きい。事実、差し出した手の平に濡れた鼻先を触れさせるこの子達の瞳は綺麗な赤で、その白い体もよく見える。
「そうそう。いい子」
鼻先から指を離し、喉元へやる。喉仏を探るように毛並みをさすると、その子は猫のように目を細めた。
思わず、こちらの目も細まる。それこそ、
――――――――――――は。
「ぼき」
目が合った。
少し冷たい風が吹く。
髪を揺らし、頬を流れ、裾をはためかせて過ぎていく。
そのまま雲まで吹き飛ばしてと、願う願いも風に消えて。
「…………なあんて、ね」
手を離す。
意志が通じるはずもないけれど、合わさった視線にはなにかの意味があると思う。
そう思う私は、あえてそう問いかけた。
「あなた、私に伝えたいことでもあるの?」
赤眼のその子は耳を揺らし、それからぱっと離れていった。
起き抜けの身体のように、今まで感じていた温もりが、反転した冷たさで手の平を震わせた。
気がついたとき、周囲に因幡は一羽の姿もなかった。
ゆっくり、膝を伸ばす。立ち上がる。紅の袴をつまみ上げ、埃を巻かないよう軽くはたいた。
「…………嫌われたわね」
手を離す。ぱさ、と落ちる袴の音。
笹の葉の音はなく、また竹林そのものもすでになく、丘のように続く傾斜、遠く山裾の向こうまで、畑のように続いた荒地が、私には何故だか道に思えた。
「まあ、こういう日もあるでしょう」
手を翳す。手の平に浮かぶ御石の鉢が、重さを持って握られた。
「それと、」
今度は逆の手。細く、長く、重くも軽くもない感触。細長い枝。確かに握り、そして納める。
曇天を見上げた。
薄い光。薄い雲。薄い割には、決して消えない、儚くはない、確かな空。
月は雲の天井裏で、なにやら夜伽の最中らしい。
ならば私も、この地上で夜伽をしよう。
時刻は知れない。けれど一つの事実はある。
誰も、帰ってこない。
誰も、今宵の私の、空いた器を満たしてくれない。
思いつくのは、いつも顔を見る彼女達。
ひとりは彼女。けれど、彼女を心配するほど、私は弱くもなければ強くもない。
少し気になるのは、あのふたり。とはいえ、気になるというのはあくまで興味で、心配不安の類とは違っていた。
なんとなく、釣堀に垂らされた餌のように思ってしまう。何がかかるか、それが少し気になるのだ。
「すこし、遠出しようかしら」
風が髪を揺らした。首筋をくすぐる束を指に巻き、しばし見つめて後ろに流す。
黒い夜だった。
月は見えない。見もしない。それより下に、地よりは上に、山間の光を細目に見やる。
おおよその当たりをつけて、地を蹴った。
ふわり。
思う。
かかる得物は選り好みする性質だ。だから、ここでひとつの賭けに出る。
あの子に会えたら、きっとこれは成功する。
大きな一つの、終わらぬ歴史の節目が生まれる。
そんな予感。
「うふふ」
――大きな火の鳥、かーかれ。
微笑を浮かべ、蓬莱山輝夜は曇天を舞う。
帰り道は終始無言だった。
しかも、それは現在進行形で続いている。
面倒なことになった。
私、鈴仙・優曇華院・イナバは悔やんでも悔やみきれない心境で、竹の束を担いで道を行く。
後にはてゐがいるものの、手は明らかに添えるだけ。
互いに口を開かないのはそれぞれ別の理由がありそうだったが、向こうのことはわからない。
下り坂なのがいけなかった。
夏が近いのか、うだるような暑さ。
歩調に合わせて、骨が荷重に軋みを上げる。主に肩甲骨と膝の皿が。
息を吐くごとに、汗が流れて滴り落ちる。主にわき腹付近と首筋を。
竹の束と一口に言っても、束ねたその数およそ百数本。大樹の丸太並みの太さだった。
大まかに縛り付けた荒縄が二本、私の手の中で揺れに合わせて暴れている。
これが伸びても十メートルに満たない、細めの鳳凰竹でなかったならば、明日の朝食、私は箸を使えない。
道は暗い。行く先はもっと暗い。来た道は更に暗い。仕方がない。暗いのが夜だと知っている。
思い返す気も起こらなかった。
ようは、切り過ぎたのだ。
そして、もったいなかったのだ。
その結果が、この強行軍。低空を飛ぶことすらままならない、なんとも物悲しいエピソードだった。
ナタを嬉々として振り回すてゐを押し留められなかったのは、軽く見ても一ヶ月の不覚としかいいようがない。
左右にそそり立つ竹林の壁。足元にかかる、文字通りの背丈の低い道草。
現在位置が判然としない。空は相変わらず黒々、道筋も変わらず黒々。竹藪だけは青々黒々。
けれども迷っているつもりもまたない。道のりは長いが、とりあえずの目途はある。
このまま足が棒になっても歩き続ければ、いずれ里に降りれるはずだった。
とはいえ、
「だるい……」
四半刻ぶりに声を出した。
「手ぇ痛い……豆で済むかなあ……」
「鈴仙さまー、けっぱれアイトー」
「気のない応援は足しにもならないって知ってる……?」
「ふむ、月の兎は胆力不足、と。メモっとこ」
「メモる手があるなら担ぎなさいよ……」
「身長差考えてよ」
「何しに来たのよあんた……」
「侍従長としての、責任に基づく監査と監督」
「……本当に手伝いに来たんじゃないんだ……」
声に覇気が篭らないのはいつものことだけど、今日は一際弱々しかった。
身体が重い。喉が渇いた。服がべとつく。
――お風呂が恋しい。
でもとにかく、今は進め。
自分で言うのも憚られるが、華奢な身体に鞭打って、私はひたすら歩き通した。そんな私を称えてくれるのは私だけ。
すこぶる虚しかった。
そして更に半刻の後、ついに竹林を踏破し、開けた空の下に私はいた。彼方の闇に浮かぶ山々の麓、遠く浮かぶ人工の光。そして今いる丘を下った先に、見慣れた風情の平屋が小さく、堀に囲まれ建っていた。
よろけて竹を落とさないよう、震える膝を片手で抑えてつぶやいた。
「あ、ああ……」
声も震える。震えるというものだ。
「あれが…………あれが人の心の光……」
「魚の油の光だね」
「黙れ因幡……」
自分で自分に驚いた。いつの間にか、返し言葉を吐くだけの余裕が戻ってきていた。
もう何度見上げた空か。
月は未だ見えないものの、竹の天幕がなくなったこともあり、周囲の景色は大分鮮明だった。
とはいえ、まだ人里とは幾らか離れている。
あの家は、知る人ぞ知る、少し特殊な家なのだ。
「……いるよね? もうこんな時間だし」
「たぶんね。ほら、最後のひと頑張りだよ鈴仙さま」
思いのほか抑揚のある声が返ってきた。
「……よっし、」
こういうとき、何故か力が湧いてくるのは、それこそ、こういうときのためなのかもしれない。
予備の体力を余さず使いきり、私は丘を下り堀に架かった橋を渡り、薄そうな扉の前で竹を壁に立てかけて、
「やっ――――たぁ」
力尽きた。膝が折れる寸前、睡魔に閉ざされた瞳の外で、
ぼふ、と、
誰かに、抱きとめられたような気がした。
――無茶をさせるわね。
――あれ。なんで?
――なんでも。こいつ、内に寝かすよ。
――ごめん。けれど丁重にね。
――いいよ。お前には子どもらの恩もあるって慧音が言ってたし。
――そりゃどうも。そういえば、いないね。
――村は今祈願祭なんだと。
誰だろう。その声には、聞き覚えがあるようで、ないようで。
落ちていく意識は、ろくに頭を回してくれず。
私の記憶が溶けるまで、それは蝋燭の煙のように、じりじりじりじり、くすぶっていた。
「してやられたわね。咲夜」
「そうでしょうか」
「私にしてみれば、間違いなくね」
付いた頬杖、余った指がこめかみを叩く。叩いて、叩く。なお叩く。痛み始めてもなお。間断なく、叩く。
止まろうはずもなかった。
最上階。バルコニー。白いテーブル。天井から下がるランタンは、今は静かに揺れていた。
それを見上げて、咲夜が言う。
「お嬢様。ランタンの油が切れておりますが、」
「後にしなさい」
「かしこまりました」
主の様子は俗に言う一触即発というものだった。下手な干渉は館の修繕費の桁をひとつ増やしかねない。また、今はなだめる場面でもない。とにかく、寄越される命を遂行するのみ。新たに淹れたポットを手にし、澱んだ気配を滲ませる主を横目に、咲夜はその対面を見る。
今はもういない。温もりも消えているだろう椅子。そこに先刻まで座っていた。あの客分を思い起こす。
話題を切り替えた。
「あの薬師は、次はどこへ行くのでしょうか」
「ん?」
咲夜は思い起こす。
――では、私はこの辺で。貴重なお時間を頂き、どうも
――おべんちゃらはもういいよ。
――お嬢様。
――黙ってなさい咲夜。……ねえ、ひとつ訊かせなさい。
――どうぞ。
――何が目的?
――……そうね。今は、秘密。
――秘密?
――というのはどうかしら。
――……、
――お嬢様、いけません。
――あら、何故止めるの?
――ここでこれを八つ裂きにしても、いたずらに館を傷つけるだけですから。
――あら怖い。
――ただ、外出なされるのでしたら、私は別に止めませんが。
――…………、ふぅん。まあ、そうね。解ったわ。ここは、咲夜に免じて身を引きましょう。
――お心遣い、ありがとうございます。
――で、意見は纏まったかしら?
――ええ。秘密はそのまま、秘密で結構。いずれ明かすつもりがあるなら、待ちましょう。
――賢明ね。では、私は次が控えていますので、これで。
「……そうね、恐らくは」
主の声に我に返る。瞬き一つ見せず、メイド長は現実に復帰した。
「――いえ、恐らくじゃない。間違いない。奴が向かったのは博麗神社よ」
「まあ」
「驚くほどのことじゃないわ。ただの予想と手元の要素の組み合わせ。……お茶、注いでくれないの?」
「只今」
しばしの沈黙。
主は手にカップを浮かべ、従者はそこに、ポットの口を傾ける。しばらくして、幾度目かの芳香が夜風に運ばれ宙に舞った。
「あいつね。旅館を始めると言っていたわ」
「ええ。確かに」
「あの道楽者が長をしている集まりだから、そのくらいのことにいちいち疑問は感じないけど――」
傾けたカップの縁を、指先でなぞる。視線を這わす。
うっすらと剥がれている装飾に、レミリアはカップを空にした後咲夜に渡した。次の瞬間には同じ形の、傷ひとつないカップが手元に帰る。再び注ぐ。咲夜は主の言葉に続く。
「どこかが不審」
「それ以前に、不遜すぎ」
カップをテーブルに置き、レミリア・スカーレットは椅子を引かずに立ち上がる。
静寂に反比例して響き渡った音は、夜の帳を幾らか揺らす。
「あいつら、完全に私をなめ切ってる」
瞳が、軋むような音を立てて細められる。
「以前の件でもそう」
手摺りに寄り、彼方を睨む。腕を、砲台のようにゆっくりと、狙いすまして持ち上げた。
「不死が取り柄の蓬莱人が、いい気になるって許される……?」
鳴り始める紅い羽音。細い、振動する光が、雷のようにレミリアの掲げた腕から溢れ出す。
「ここからでも十分届く。結界を張っていなければ、この空でも一息に「お嬢様」
音が止む。光が消える。静寂の中、主は振り向いた。
「あまり粗相をなさらぬように。いたずらに破壊するのは本分でしょうが、ここは自重ください」
静かに微笑む咲夜の前には、気の抜けた表情のレミリアがいた。
「――今日は夜から、あなたに免じてばかりね」
紅い悪魔は肩をすくめて息を吐き、倒れた椅子に手を添え、持ち上げる。
表情が巻き戻った。
「じゃ、こいつで」
「あ」
飛んでいった。止める間もなかった。
瞬く間に小さく、視界の中にありながら、視認不可能なまでに小さく、地平線の向こうへ消える。しばし遅れて、湖を一太刀に波紋が割った。
滝壺のような遠い轟音。咲夜は露骨に嘆息してみせ、レミリアはにやりと皮肉めいた笑みを浮かべる。
「あー、すっとした。咲夜、ご苦労様。今日はもう休みなさい」
「……そうさせてもらいます」
従者は肩をすくめて息を吐き、机上のカップ一式を片付け始める。その後ろで、レミリアが更にもう片方の椅子も全力投椅していたが、咲夜はもはや声もかけなかった。
「そうそう。さっきの話」
「はい」
再びの遠い轟音。ガラス扉が細かく揺れる。流石にテーブルには手を出さず、レミリアは手摺りに腰掛けつぶやいた。咲夜は片手で道具を抱え、もう片手で、テーブルクロスを取り払う。
「霊夢が認めるのなら、私も付き合うことにする。興が乗ったから」
「それはそれは。聡明なことで」
「でもね」
くるりと向き直る。空に背を向け、レミリアは問う。
「私の嫌いなこと、三つ言ってみて」
「一、自分の意志を曲げること。一、他者に制限を受けること。一、十字架を怖がること」
咲夜は作業を乱すことなくそらんじて見せた。主は満足げに笑った。
「よくできました。で、私が今問題にしているのは今の三つのうち、どれでしょうか」
「二つ目、でしょうか」
「正解。そして今回の場合、私は恐らく付き合うことになる。霊夢はあいつの申し出を飲むわ」
「でしょうねえ」
「ほんと、どうなのかしら。私はこんなにご執心なのに」
口を尖らせる主に、咲夜は無言で返した。沈黙が重さを持つ前に、思い出すように告げる。
「お嬢様の予想通りとなると――再来週、でしたか。あの屋敷に再び赴くことになりますね」
「他のも来るわよ。幽霊やら黒いのやら隙間やら。あの事件の関係者全てにコンタクトを取ってるはず。これはただの予想だけど、私と霊夢は多分締めね」
「では、明日にでも神社に伺ってみてはどうでしょう」
「あら。いいの?」
「明日までこの天気が続くなら、私も供を離れましょう。それに、ひとりの方が身軽でしょうから」
含みのある笑顔。主はいよいよ笑みを深めた。
「さすが咲夜。わかってる」
「わかっていますとも」
「じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
レミリアの寝室は階下にあった。咲夜の手にはカップ一式とクロスがあった。
風が吹く。
そこにはすでに誰もいなかった。
椅子をなくしたテーブルだけが、身包み剥がされた枯れ木のように、頼りなくそこに据わっていた。
少し強めの風が吹く。
天井から下がったカンテラが、火のない身体を大振りに揺らす。
雲が絶え間なく流れていく。
黒い夜だった。
――続――
いや、別にモコタンモコタン言ってるのが嫌いというわけではないのですが、
最近どうも食傷気味で。それ故に。
キャラ描写に萌。続きを期待しております。
永遠亭の台所事情改善話かと思ってたら……
いいぞぅ! もっともっと盛り上がれ!