一年中霧の浮かぶ湖の畔、窓の少ない洋館がある。
草木の緑と対を為す深い紅――館の内は昼なお冥く、夜なお昏い。
紅魔館――紅い悪魔の居城である。
館の主――永遠に紅い幼き月、レミリア・スカーレットはいつもより早く目を覚ましていた。
しばらくベッドから起き上がるでもなくじっと動きを止めている。
「―――咲夜」
…………。
……あれ? いないのかしら。
いや、油断は出来ない。前日からずっとクローゼットの中に潜んでいたり、何だ居ないのかと思って自分で着替え始めるとワザとらしく「あ…失礼しました…」とか言いながらドアを開けて入って来たりなど日常茶飯事だからだ。
……つい先日などベッドの下でハアハアしながら貧血で意識を失っていたこともある。もう少し血の匂いに気付くのが遅れたらかなり危なかったという。
目を擦りながら身を起こす。
さっと視線を巡らせ――カーテンの陰に向かって、素早くポージング。
「―――バァン(はぁと)」
ついでにウインク。
コケティッシュさを前面に押し出し、従者にハートブレイクを試みる。主萌えな従者などイチコロだ。
「……………………」
聞く者が居なければ意味がない……哀れマイハートはブレイク寸前だった。
「…今のはわざと外した。が――次は当てる」
負け惜しみを口にする。
あまりの寒さに一気に目が覚めた。
心地よい目覚め――吸血鬼の一日が今、始まるのだ。……不意に視界がにじむ。
「…ち、違うわ……ちょっとあくびが出ただけよ………」
誰も聞いていないのにそう言い訳をしながら、着替えもそこそこに部屋を出た。
◆◇◆
……とりあえず食事を終え、腹いせとして咲夜に緊縛放置プレイを施してから、私はパチュリーの書斎を訪れた。
本、本、本……何処を向いても本、たまに本とかもあるが、概ね本だし。それと本。
「四面書架なんちゃって」
「……。」
図書館を棲家とする百年魔女は凡そあらゆる知識に精通する――私にとって頼れる友人である。一部では膨大な蔵書をエサに囲っている、等と実しやかに噂されているが、謂われなき中傷だ。……自分の尺度でモノを考えるなといいたい。私とパチェはプラトニックな関係なのだ。……じゃなくてただの友達だ。彼女の知識は私の野望に大きく貢献するだろう。
そう、私はいずれ幻想郷をこの手に収める。……その暁には先ず手始めに男とババアは皆殺し。女は巫女服とメイド服が正装、普段着はスカートとドロワーズ推奨、寝る時はねぐりじぇ。もんぺは禁止。ガーターは選ばれし者だけが着用できる。
……などなど、細かい法を定めなければならない。知識人の出番というヤツだ。
以前、館の主な面子を集めて滔々と語って聞かせたことがある。咲夜は「素晴らしいですわ!」と私の野望を褒めちぎり、門番は余程感動したのか、なけなしの給金を使い果たして肉まんを買い漁り「最後の晩餐です…」といって振舞ってくれた。図書館の小悪魔は何を思ったかその日から日記を付け始め、パチェは「手始めの段階で未来は決まったようなものね」と眉どころか顔の筋一つ動かす事なく磐石の未来を予言してのけた。その後、読んでいた魔導書を閉じて、代わりに分厚い医学書を読み始めた。全く、彼女の知的欲求はとどまるところを知らない。
…ただ、妹のフランドールだけが地下室に閉じ篭って内側から鍵を掛け、それきり出てこなくなった。
きっと幻想郷を支配する立派な姉の姿を幻視してしまい、私がどこか遠くに行ってしまう気がして狼狽えてしまったのね。
……と思っていたら、どうやら私の圧制(予定)に心を痛めたものらしい。
私は妹のあまりの純粋さに心を打たれた。実妹でさえなければ一線を越えてしまうところだったかもしれない。
だがフランは分かっていない。これが、その穢れなき純粋さを守るための苦渋の選択だということを。
今、幻想郷には秩序が必要とされている……例え恨まれることになろうとも、誰かが、それを為さねばならないのだ。
大丈夫、いつかあの子は分かってくれる――そのための時間はたっぷりあるのだから……。
ポジティブシンキングで綺麗に締め括って満足した私は、我が友に向かって、かねてよりの悩みを打ち明けた。
「ねぇ、パチェ。何か霊夢を簡単に私のモノにする方法はないかしら?」
「まさしく神をも畏れぬ発言ね」
「ありがとう。そう言ってくれるのはパチェだけだわ」
ズレた回答だが褒められて悪い気はしない。彼女はお世辞なんか言わないのだ。
「一番簡単な方法を使う気がないのなら……そうね、押しの一手だと思うわよ」
「それは実践中よ。私が聞いてるのは手管とか作戦とか、それか、より実戦向きな技術(テク)よ。
もっとこう……例えばどれほど鈍感な娘でも瞬く間に××××を自分で×××××て、
私を求めて××××、×××××せずには居られなくなるような、そんな」
「レミィ、ずっと友達で居ましょうね」
「当たり前じゃない」
嬉しい事を言ってくれる。霊夢に私を取られると思って不安になったのだろう。……馬鹿な子だ、一々確認するまでもなく私とパチェの絆はこんなことで損なわれはしないというのに……。
司書の小悪魔が何やらメモ用紙にペンでガリガリやって新たな知の探求に飛び立っていったが気にならない。
「……以前、あなたに渡した外の本があったじゃない。……勧める訳じゃないけど、アレなんかかなり実戦向けだった筈よ。
一目惚れした相手を強引な手で自分のモノにする話だったと思うし。
それに受け手の心理描写もかなり…リアルでためになったんじゃない? 参考にするといいわ」
「だめよパチェ。
だってあのお話は男同士じゃない。私たちに当て嵌めて考えるべきじゃない。役に立たないよ」
「そうは言うけどね……」
「本に頼るんじゃなくて実地に試してみたいわねぇ。でも霊夢はヤらせてくれないしなぁ……」
「咲夜は従順すぎるきらいが有るから難しいわよね。
――それなら、経験豊富なやつの意見を聞いてみるのはどう?」
「それで手を打つか。スキマのむらさきは……変なとこに住んでるから、あの世にでも逝ってみようかしら」
「そうね。そうしてくれると助かるわ」
「ありがと。邪魔したわね」
そうと決まれば直ぐにでも出かけるか。
私の知的好奇心が疼く。パチェの気持ちが少し分かった気がした。
◆◇◆
図書館を出たところで館の門番に出くわした。
「ああ、お嬢様、探しましたよ~」
「何かしら。私はこれから一人前のレディになるための勉強で忙しいの。半年くらい待ってもらえる?」
「そんなこと言わずに聞いてくださいよ~。咲夜さんったら酷いんです。
私が真面目にお仕事してないって言って、ここのところお給料がコッペパンだけなんです。
このままじゃ飢え死にしちゃいますよぅ」
どう見ても飢え死にする様子のない彼女の胸をパチェ並のジト目で睨む。
枯れ果ててしまえ。豊満に興味はない。無意識に両手が定位置に添えられ、「う~」と叫び出したい衝動に駆られる。
「う~~」
「……? それでお嬢様から咲夜さんに言ってやって欲しいんです。
門番はきちんと仕事をこなしてるんだからお給料を上げてやれ、って」
「どこの世界に門ごとブチ抜かれる門番が居るのよ。そういう事はあのg(検閲削除)を一度でも倒してから言うのね」
「うっ…。せ、せめて何か知恵をください。ホントにお腹が空いて大変なんですーー」
「パチェに聞きなさい。
論点ずらしてくれるから」
「お嬢様あーーー!!」
わんわんと泣き出す門番に目もくれず、私は館を飛び出した。
◆◇◆
時間が惜しい。一目散に空を飛び、途中にあった結界をバッドレディスクランブルで粉砕し、ながいながーい階段を音速で突破して私は白玉楼に到着した。静かなところだ……音がない。
「たのーもーう」
こう言えば庭師が血相を変えて飛んで来ると聞いていたが、返事がない。すでに死んでいるようだ。
まぁ、いい。どうせ縁側で茶でも飲んでいるのだろう。勝手に上がらせてもらうか。
そう考えると博麗神社を訪れるみたいで興奮する……ムラムラしてきたわね。
「西行寺幽々子はいるか。隠すとためにならんぞー」
……庭師は本当に居ないらしい。大方、亡霊嬢は華胥の国にでも逝ってしまったのだろうが……。
やっぱり、いた。
縁側でぼけーっとエクトプラズムを吐いている。……さすが、冥界。変なところで感心してしまう。
虚ろな笑みを浮かべ、涎を垂らしながら何事かほざいている。
「ようむのごはんは美味しいわ~。ホントにおいしいわよ、ようむは。ウフフ。
あっ、待ちなさいようむ。…よーむー、まってー。ほら、わたしを捕まえてごらんなさい。きゃっ。つかまえたー」
どっちだ。
亡霊嬢が自分で生み出した死蝶にぼんやり手を伸ばしている。……そう云えば来訪の目的をまだ告げてなかったわね。一応教えを乞うわけだから、礼を尽くしておくべきだろう。出来る女は違うのだ。……よし、まずは挨拶から。
「おはようございます」
そう言ってナイフを投げる。放たれたナイフは狙い違わず亡霊嬢の@マークに突き刺さる――正鵠を得た。
見慣れた光景に軽く安堵の溜息を吐く。ちゃんと挨拶できた自分に花丸をあげたい。
いつもの目覚めの風景と、門番の星でダーツを嗜みながら「挨拶代わりです」と瀟洒に微笑む咲夜の顔が思い出される。
「ちょ……ちょっと! 何するのよ、後少しだったのに……って、珍しい顔ね。もしかして迷子? お帰りはあちら」
「帰す前に用件ぐらい聞きなさいよ。少し相談事があってね、勝手に上がらせてもらったわ」
「こう見えても私は忙しいの。貴女の相手をしている時間なんてないわ」
「どう見ても忙しそうには見えないわよ。そんな訳で話を聞いてもらおうか」
「しょうがないわねぇ……。今、妖夢が買い物に出かけてるから私がお茶を淹れてあげるわよ」
「お構いなくよ」
甘くないミドリ色のお茶か。別にノドは乾いてないがせっかくの厚意を無碍にするのも悪い。どうせ自分が飲みたいだけだろうけど。縁側に腰掛けて待っていると、程なくして亡霊嬢が湯飲みを持って現れた。
「さあ、どうぞ。折角のお客様だからね。希少品入り」
「気が利くわね」
特に変わった様子はないが、元々飲み慣れない物なので違いなんて分からない。う……やっぱり苦い。
「お味はどうかしら」
「悪くないわね」
「ゲルセミウム・エレガンスを入れてみたの」
「ごふぁ」
私はおもいっきり吐血した。指先から生まれたての子馬のように痙攣していく。……息も苦しい。
「というか、ゲルセミウム・エレガンス・ティーなのよ。因みにファーストフラッシュ」
「くぉっ、こにょっ……!」
…呂律が回らない。来客に対してあまりな応対ではあるまいか。明らかに礼を失している。
「さっきのお返しよ。そういえば結局用件は何だったのかしら? 聞きそびれちゃったわ」
「い、いちゅうのあいてをろうりゃくするほうひょうよ……」
「あ、あら…元気なのね……。
――ところで、それを訊いてどうするつもり?」
「霊夢に、使うッ!!」
一気に身体機能が全快する。
嗚呼、霊夢……。貴女を思うだけで私はこんなに強くなれる。何度だって死の淵から甦ってみせるわ。
自分の中に熱い闘志が滾るのを感じる。まるで何時ぞやの蓬莱人みたいである。
「あの巫女に? 本気で…というか正気なのかしら。巫女は人間で、貴女は吸血鬼――悪魔でしょ。そんなの可笑しいわ。
――――いや、違うわね……。問題はあの巫女が、最早人間というより『巫女』であるということ…」
「巫女巫女うるさいわよ。
それは何? あなたも巫女萌えだった……そういう解釈でいいのかしら?」
「違うわよ。
最初の質問に答えるなら、そんな方法は無いし――あっても教える積りは無いって事」
「こっちも質問に答えるなら、私は本気よ。正気かどうかは知らないけどね。
それよりさっきの事だけど……覚悟は、いいわね?」
「……自業自得って言葉――知ってる?」
「ええ。あなたの為に有るような言葉ね!」
言って私は飛ぶように距離をとり、ナイフを抜いて亡霊嬢の頭を狙って投擲した。魔力など一切込めず、代わりに全力で。 鋼鉄製のナイフが空気抵抗で高熱を発し、朱色に輝く。ナイフが灼熱の弾体と化して的に迫る。…アンデッドは火に弱い。
亡霊嬢は眼前で扇を振るい、巧みにナイフの軌道を逸らした。
目標を逸れたナイフが地面に突き刺さり、ジュッと音を立てる。亡霊嬢が音も無く庭に出る。
「人間の寿命は短いし、蓬莱人の肝でもプレゼントすれば?
そうすれば博麗の巫女も、或は『巫女』という枷から逃れ得るかもしれない」
「要領を得ないわね。それに、蓬莱の薬なんて飲ませるくらいなら吸血するわよ。
絶対そっちの方が得だし。でも、霊夢に怨まれたくはないからねぇ……」
「勿論冗談だったんだけど……」
「分かってるわよ…貴女が全部冗談だって事は」
…ナイフへの対応を見る限り、反応そのものはかなり速い部類か。見切りも正確。
ともあれ、久方ぶりの弾幕ごっこだ。楽しまなければ損だろう。
欲求不満の解消も兼ねて、憂さ晴らしをするとしようか。
◆◇◆
先に仕掛けたのはレミリア。真正面から突撃してきた紅い悪魔を、幽々子は掲げた扇で迎え撃った。
相手の攻撃は単純ながら不意打ちじみた速度を持つ。
――永遠に幼いなんて碌なもんじゃない……痩せっぽちのコウモリなんて食べるとこ無いわよ……。
私は辺りをたゆたう死霊を操り、手にした扇に憑依させる。
強化された扇の大きさと破壊力は、もとの何倍にも膨れ上がるのだ――。
間合い等の主導権はあちらに取られる事になる。いつもの如くカウンター狙いである。
爪と翼を用いた高速連撃に、時折鋭い蹴りが組み込まれる……それらに扇を滑らせるように反撃を試みる。
なかなか当たらない。いとも容易く避けられる。当たったと思ってもきっちりガードが間に合っており、あまり堪える様子はない。まだまだ序の口だろうか。
そろそろとばかりに、相手が近距離でスペルカードを発動させる――そして同時に私の顔の高さで蹴りを放つ。
紅符「スカーレットシュート」
唸りを上げて迫る右足が暴力的な魔力を帯びて紅く、かがやく。疾風のような蹴りが刃物じみた風切り音を奏でる。
咄嗟に飛び退ったが、紅い魔力の弾塊が轟風と共に追い着き、叩き付けられる。……たまらなく痛い。
「お次は発展系……その鈍亀の如き動きで躱せるものなら躱して見なさい」
言うや、超高速の回し蹴りが放たれた。紅い旋風が吹き荒れ、直後弾け散るように先程の弾塊が圧倒的広範囲に及ぶ。速度と範囲は危険域だが弾塊同士の間にはだいぶ隙がある。迷わずそこに逃げ込みつつスペルで相殺する。
死符「ギャストリドリーム」
回転を加えた大型の蝶弾が、紅い奔流を両側から食い潰すように磨り減らす。かなり突破されたが概ね予想の範疇だ。
…それより吸血鬼は何処へ行った? 広範囲型スペルの応酬に相手を見失ってしまったのが痛い。
不意に、僅かな違和感を覚える。
理由もなく迫る弾塊の一つに目を向けた――大型弾の影から突如飛び出した紅い影は、探した敵手のものだった。
――思ったよりも既にかなり近づかれていた。
…大型弾の影に張り付くようにこっそりこちらを覗い見る幼い吸血鬼の姿を束の間幻視して、その子供の遊戯じみた所作に危うく萌えそうになるが、状況は逼迫しているのだ。それどころではない。そもそも私は
「妖夢ひとすじっ!」
…焦りが感情の高ぶりを生み、常ならぬさわやかっぷりを惜しげもなく周囲に露呈する。
吸血鬼が最初怪訝な表情を浮かべ、次いで理解の色が広がるが何を勘違いしているのだろう。私はイツだって正気だ。哀れむな、同情なんていらない。只、多様な人間性を認めて欲しいだけなのだ。
…………。
「のんきね。まだ効果は残ってるわよ」
レミリアが飛び上がるようにして蹴りを放つ。
……なんでバラすのだろうか。ともあれ忠告に従い、やや下方から跳ねるように迫った弾塊を回避する。ここで私は周囲にも注意を向ける。相手の放った紅色の弾塊は、先頭に威力の高い大型弾が配置されていた。その大型弾が私の放った弾幕を相殺したのだが、この弾塊にはかなり弾速にバラつきが有るようで、後からやってきた小型弾がじわじわとこちらの動きを阻害する。加えてつい先程の一撃は弾塊同士の隙間に撃ち込まれた物。大きく動こうとすれば小型弾の間を縫うしかない。
――不味い。誘導されたかも。
懸念を裏付けるようにレミリアの蹴り足が振り下ろされる。刃物の鋭さで翻った蹴りが、今度こそと立て続けに弾塊を生み出す。
亡舞「生者必滅の理」
螺旋を描いて飛翔した高密度の蝶弾が、間一髪レミリアの攻撃を巻き込んで押し流すと同時に、残っていた小型弾を相殺した。続けて放った大型連弾はあっけなく高速で回避される。
蝶弾を撒きながらバックステップで距離を稼ぐ幽々子と、それに倍する速度で滑走し瞬く間に距離を詰めるレミリア。
幽々子は飄々とした表情を崩さずに思考する。
分かっていたことだが、速さは圧倒的に向こうに分がある。
スペルを別とすれば、唯一の救いは彼女の体格によるリーチの短さ。
……あのスピードだけはどうにもならないけど、地の利を生かせば何とでもなるわね。
両者が再びぶつかり合う。
レミリアの右腕が妖気を纏い切れ味を増し、
幽々子の扇が霊気を喰らい威力を高める。
レミリアの最速最短の一撃――紅色の鉤爪を巻き込むようにして幽々子は扇で薙ぎ払う。
鉤爪と扇が噛み合うその瞬間、レミリアの一撃が大きく軌道を変えた。
――否、飛んだのだ。
扇は空振り、レミリアの逆の拳が真上から扇を打ち据える。予期しない方向からの一撃に堪らず扇を取り落とす。
◆◇◆
――もらった。
亡霊嬢の首をめがけて貫手を放つ。彼女は後方に下がりつつ上体を大きくそらして逃れる。
同時に追い討ちを掛けるように振るわれた黒翼は、さらに身を反らして躱され……ここで相手の体が大きく泳ぐ。
「王手詰み(チェックメイト)ね、亡霊さん」
「…………っ」
これで終わりとばかりに逆の手を振りかぶり――亡霊嬢が更に身を反らすように後方に跳躍した。
直感的に危険を感じ取り、私は急制動を掛けた。蝙蝠翼が大きく拡がる。
――幽々子が地に両手を着き、一息に慣性を殺す。
自身を包み込むほどの大きさになった黒翼が大気を掴み取り、勢いを殺そうと大きく羽ばたく。
――だがしかし、そのまま離脱しようとする私の背を衝撃が走る。
先程ばら撒かれた蝶弾が視界の外で転進、動きの止まった瞬間を見計らったように私の翼に殺到し、炸裂していた。
動きの要である翼が傷ついたことで高速移動が封じられ――そこに亡霊嬢が下半身を振り上げる。揃えた両の足が鞭のように撓り、完全に私の顎を捉えた。
消しきれなかった自身の慣性と絶妙なタイミングのカウンターが相乗効果を生み、その打撃は優に吸血鬼の本気の一撃にすら匹敵するものになる。
「ぐ……このッ……!!」
衝撃に大きく仰け反った隙を突き、幽々子は懐から取り出した予備の扇に霊気を込めて力の限り叩きつける。
やたらと重い音が響き渡り、矮躯が軽々と弾き飛ばされる。
翼を痛めたレミリアは受身を取るも勢いを消せぬまま、思い切り背後の木に激突した。
――……。
「いっ…たぁ」
バウンドした体が地面に投げ出される。不本意にも地に這い蹲る格好だ。頭部に受けたダメージが意識を攪拌する。
……あの亡霊、なかなかやってくれる。文字通り頭にきた。
しかもよりにもよって乙女の顔を足蹴にするとは――って、これは私もやるつもりだったけど――相手は死なない亡霊だ。
やりすぎて困るということはない。
……。
◆◇◆
幽々子は扇を元に戻し仔細に吸血鬼の様子を観察する。
頭へのダメージはかなり大きかった筈だ。翼も――こちらの方も深刻らしい…骨が折れたのか歪にゆがんだフォルムを晒して力なく垂れ下がり、扇を受け止めた左手は、折れてはいないようだが痛そうに右手で抑えている。
……一瞬、幼女虐待という甘美な単語が浮かんだが、いやいや妖夢…、とここには居ない庭師に弁解を試みる。
――これはれっきとした正当防衛なの。私が好き好んでこんな酷い事すると思う?
――いえ、確信しています。
――さすが私の一番弟子。誰よりも私のことを良く理解しているのね。嬉しいわ、妖夢。
――あっ……、幽々子さま……。
――…妖、夢……。
あいらびゅーん…ふぉーえばー。
「みーとぅー…」
一言目の割とリアルなリアクションから強引に己の欲望を叶えた幽々子はほう、と息を漏らす。この間一秒に満たない。
「うふ、うふ、うふふふふふふふ」
――妄想の翼が広がる。
既に幽々子の脳内では妖夢を相手に何度も夜伽が繰り広げられていた。
妖夢のあられもない痴態を夢想すると自然、不気味な笑顔になるのだが。
思考は速くても抜け出すのはまだのようである。
扇で顔を半ば隠している為、図らずも敵を窮地に追い込み嘲り笑うラスボスの風格が醸し出されるが、
「まだまだ、こんなものじゃないのよ?」
――幻想である。
とはいえ、レミリアにしてみれば手痛いカウンターを貰った挙句、己の未熟を指摘されて嘲笑を受けたようにしか聞えず。
さらに、畳み掛けるでもなく笑顔を覗かせながら動かない幽々子の態度は随分と余裕に満ちたものに見えた。
……実際は忙しく思考を巡らせていたので余裕はないのだが。
レミリアが身を起こす。
「まだまだですって? それはこちらの台詞。相手を良く見なさい。
私は誰? これで勝ったと思うなら、貴女はまだまだ――まだ死に足りないのよ」
――結婚二年目の秋、光陰矢の如しだった。
幽々子はそこで一旦思考を打ち切り眼前の敵に集中する。白昼夢に浸るには目の前の吸血鬼は邪魔である。
邪魔者はさっさと追い払って妖夢との夢の新婚生活を愉しむのだ。俄然やる気が沸いていた。
「……それに、どうせ死にはしないでしょう」
相手は正真正銘の吸血鬼、放っておけば直ぐに回復してしまう。倒すなら傷が癒えていない今が好機。
力押しでは決定打にはならないかもしれない。…しかしここは白玉楼、相手は既に詰んでいるのだ。
レミリアが頭を押さえながら立ち上がる。
「……余裕ね、後悔するよ」
「あなたの相手はもういいわ。それより考え事の途中なの」
「へぇ。例えばどんな?」
「素敵でお腹いっぱいな夜の観光旅行……じゃなくてちょっとした人生設計よ。未来予想図を思い描いていただけ」
「ふん、人外が。死んでから人生設計なんて笑える話よね。速さでいえばマイナスよ? あまりの遅さにあくびも出ないわ。
――それに何より、幽霊が未来を語るだなんて」
「幽霊は人間よ。ちょっと死んだだけ。
未来予想といっても大げさなのじゃなくて、よく見るじゃない? 白昼夢、というか妄想の類」
「やる気なさすぎ。後にしたら?」
「そうね、すぐかもしれないし」
…余り回復に充てる時間をくれてやるのは上手くない。
会話で気を惹きながら、布石として残しておいた蝶弾で注連縄を破壊する。
……レミリアの背後―――西行妖の注連縄を―――。
取り替えたばかりであろう、まだ新しいソレが、どさ、と音を立てて地に垂れ落ちる。
境界から漏れた妖気が密やかに周囲を侵す。頭の痛みをこらえつつ、こちらに象でも射殺しそうな視線を向けるレミリア。
戦意が微塵も損なわれていない心臓に悪い視線だが、元より心臓は止まっていたのを思い出す。
音には気づいたようだが、警戒しているのか目は逸らさない……異変にはまだ気づいていない。
吸血鬼が懐からスペルカードを抜き放つ。 対する私は扇で口元を隠したまま――、
「 ―――西行寺無余涅槃――― 」
慌てて振り返ったレミリアの視界を、季節外れの桜吹雪が覆い、微細で濃密な弾幕を形成する。
今しも開放されようとしていたスペルは幽々子の――西行妖の攻撃に掻き消された。
弾幕を幾何かその身に受け、スペルカードは主の手を離れ花弁に紛れて流される。
既に葉桜と化していた筈の西行妖から、夢幻の桜花が湧き出し、一面を埋め尽くす。
……異常事態に何事か、と幽霊たちが集まり始める。
新緑の枝葉と空の色が、桜に引き立てられてより一層、際立つ。
冥界と呼ぶには余りに色鮮やか。唯、偽りの花弁だけは雅な外見と裏腹に風を泳ぐ兇器と化してレミリアに襲い掛かる。
近距離からの高密度の弾幕から、咄嗟に両腕を交差させ、妖気を纏うことで身を守る吸血鬼。
――幾千万の刃を孕んだ大気の壁が真正面から叩きつけられた。
――……。
◆◇◆
レミリアは突如として狂い咲いた薄紅色の桜花に血肉を妖気をこそぎ取られながら高速で思考を巡らせていた。
逃れる場所などない――範囲が広すぎる。
躱すことなど出来ない――数が多すぎる。
耐え切ることも出来まい――攻撃が激しすぎる。
……咲夜ならどうするだろうか? 種あり手品で脱出ショーでもやってのけるのか。私も手品が使えたらなぁ。
時間を止めて助け出してくれたりしないものだろうか。
スペルカードはもうない。例えあっても既にこの状況では使えない。
半端なスペルでは間に合わず。強力なものは集中時間が確保できないのだ。そも、符を取り出す余裕すらない。
結論:このままでは限界を迎えるのは時間の問題
……ならば本体を狙うしかない。恐らく桜の方は亡霊が操っているのだろう、多分あいつには花弁が当たっていない筈。
弾幕の勢いが若干緩んだあいだに亡霊嬢の様子を確認した。
案の定、この密度なのに1Grazeたりとも稼いでいない。
さらに、幽々子は西行妖の制御に集中しているらしく隙だらけに見えた。
……なるほど。
折角のチャンスを見逃すようでは永遠に紅い幼き月の名折れというもの。
最近妙に館の住人の態度が反抗的なのが気にかかるし――やってやろうではないか。
西行妖に正面を向いたレミリアから見て幽々子は斜め後方。翼はまだ使えない。それに、広げたところですぐ穴だらけになっただろう。レミリアは西行妖から注意を外さぬようにしながら、幽々子に向かって駆け出した。
直後――唐突に妖怪桜から大量の光条が照射される。
注意を逸らさなかったのが幸いし、自身に当たるものは熱を持つ前の予告線の段階で難なく躱す。
だがしかし、躱した先で足を止めざるを得なくなる。
幾本もの光条は全て妖怪桜から伸びたもの。西行妖とレミリアの周りを結ぶように光の牢獄が完成し、二者を結ぶベクトル上だけに動きを制限される。しまった、とレミリアの表情に焦りが浮かんだ。
「これが王手詰みよ。吸血鬼さん」
光のトンネルが急激に数と勢力を増した桜花で満たされる。妖気を纏って両腕で頭部を守るが、今や完全に動きを止めたレミリアに無数の弾幕が襲い来た。微細な花弁は紅い妖気をあるいは切り裂き、あるいは貫き穿ちて削り取る。
―――桜に紛れて高速で飛来した死蝶が、遂にレミリアの妖気の壁を打ち貫き、胸を抉った。
◆◇◆
西行寺幽々子は戦いの結末を見届ける。
弾幕を一時緩めたのはこちらを確認する暇を与えるためであると同時に、詰めに用いるための弾幕の溜め時間でもある。
誰だろうがあの非常識な弾幕を避け切ることなどまず出来まい。となれば術者の撃破を試みるであろうことは自明。
レミリアが最初、真正面から弾幕を受け止めたのを見て、まさかとも思ったが、流石に無理があったようである。
後はわざと隙を見せて誘い出し、レーザーで動きを止める。貯めておいた桜を使って一気に守りを削り、桜を盛大な隠れ蓑にして特製の蝶弾で仕留める。勿論手を出すまでもなくこちらの勝ちになるだろうとは踏んでいたが、しかし敢えて自身を危険に晒すことにより相手の思考と行動に移るタイミングを把握し確実性を増すことができる。
攻められるよりも誘うほうが精神的にも優位に立てるのだ。
とは云え、西行妖を長く活性化させ続けることは望まぬ暴走を招きかねない。――切り札は常に諸刃の剣でもある。
「……はぁ」
また庭を汚して、と妖夢に叱られるのだろうか。正当防衛なのに……。
心臓でも破れたのか、盛大に血潮を噴き上げる幼い吸血鬼を視界に納め、ようやく肩の力を抜く。
辺りが真っ赤に染めあがる様子を見て、来年こそはもしかしたら満開になるかも、などと考える。
――やはり濃い紅色に染まるのだろうか。
…正直、流石にやり過ぎな気がしないではないが、こちらも相応のリスクを負ったわけだしお互い様よね、と一人ごちる。
ふら
いまさらのようにレミリアの体が頽れる。こちらに頭を向けて仰向けに。頭を打ったら馬鹿になるわよ、と思いなけなしの
良心を発揮して幽霊で受け止めてやるべく指示を飛ばす。
――と、レミリアの首ががくんと傾き――――――目が、合う。
「 ――― レッドマジック ――― 」
耳障りな異音が冥界に響き渡った。
レミリアの体が解け崩れるように無数の蝙蝠に分化する。数百か、数千か、それ以上か。
あるものは空高く舞い上がり、またあるものは地を這うように。
着々と版図を広げながら、自身にして眷族たる吸血コウモリたちが縦横無尽に飛び回り、視界を黒一色に塗り潰す。
幽々子は己の迂闊さを心底呪った。不死吸血鬼――伝説のイモータルは生きながらにして滅びを内包し、死と共に在り続ける悪魔の中の悪魔。その本質は蓬莱人のそれに極近い処にあるのだろう。
――物の本の記述に拠るならば、即ち
「その魂のみが本体であり、新しい肉体を自在に生み出す…」
……情け容赦の欠片もなくにんにくと一緒に磨り潰すくらいのことをしておくべきだったのだ。
我が強いとは正しくこのことである。
後悔してももう遅い、か。
レミリアのスペルは――あれはスペルカードではない。
自分が使った極意と同じく、符(カード)の形式に依らない魔法の類。
カードの助けも、然るべき儀式すらも必要としない純然たる奇跡……その威力と規模は通常のスペルを遥かに凌ぐ。
凡百の妖怪とは違うのだ。寧ろこの可能性をこそ危惧すべきであった。
見れば恐れを為したか先程まで太平楽にふよふよと漂っていた幽霊達が一匹残らず姿を消している。
逃げたのならばまだ良いが、喰われたのならまた寂しくなる。
もしそうなら彼らのたましいは一体どこへ行ってしまうのだろうか。
幽々子がとかく考えるうちに事態は更なる変化を見せる。
高周波の啼き声を上げながら喧しく飛び回っていた彼女らが次第に数を減じていった。
影が薄れるように、或いは泡がはじけるように、音もなく姿を消していく。
消えたその場に残るのは、僅かばかりの――紅い霧。
あたかも獲物を喰い尽くした狩猟者が滅びを免れ得ぬが如く、外の人間が夜を闇を妖を放逐するが如く……、
――疾く過ぎ去り、はかなく散る。悪魔の軍隊はそれこそ悪夢の如く雲散霧消し、
あとには唯、―――紅色の幻想が残された―――。
◆-Red Magic-◆
――其れは不死の体現――
レミリアの撒き散らした血が新たな紅霧となって空間に充ち満ちた。霧は既に見渡す限りに広がっている。
―― 復活と創造を司る ――
空間が生あるモノのように不吉に蠢動し大振りな、ムラサキ色の魔力塊が幾つもいくつも、果実のように、虚空に、生る。
――― 紅色の冥界 ―――
次々と撃ちだされた大型弾が空間の因果律を狂わせ、通った跡にまるで尾を曳くように紅い輝きを点々と灯す。
大型弾がゆったりと見せ付けるようにソラを舞い、時折何の前触れもなく軌道を変えながら幻惑するように流れ行く。
紅い光輝がムラサキに付き従う、或は不自然に蛇行する。カーブを描きながら加速するモノ、歪んだ筈の空間を何事もなく直進するモノ、複雑怪奇な弾幕の渦が宙を席巻する。
もはや白玉楼は完全なる異空。
本来の在り様を逆転させた冥界自体が敵となって幽々子に牙をむく――。
…既に西行妖は活動を再開させている。然しすぐ無駄だと悟る――狙うべき本体がない。
だが弾消しには有効だろう。そう思い直して西行桜の花弁で周りの魔力弾を打ち払おうとし、
――愕然とした。
弾幕が一片たりとも発生しない。のみならず西行妖の妖気が急激に衰えていく。何事かとそちらを見やった幽々子の目に飛び込んできたのは、何時の間にか西行妖の幹に浮かび上がっていた不可思議な紋様。血で描かれたそれは見る者が見れば悪魔召喚などに用いられる魔術文字やシンボルを彷彿させる禍々しい物であった。ジャックの犯行現場じみたそれは幽々子が自分で破った結界の類ではなく、一種の呪詛としての役割を担うものである。
「役に立たないわねぇ…」
まあいい。どのみち程なく限界だったろう。
今度はこちらが耐える番か……なんとか時間一杯凌ぎ切るしかない。
しかし…何というか久しぶりに楽しくなってきた――素面なのに雰囲気に酔うというのだろうか。
「…でもねぇ」
自分ひとりが酔うのも空しいだけだ……みっともないし。相手も同じだと良いのだが残念ながら確認する術はない。
顔が見えない、姿も見せない。いつぞやの小鬼もそうだったがあれは酒気がぷんぷんしてるし何時でも酔ってる。
いよいよ酔いが回ってきたか、思考が乱れてきた。それにつけても、何はなくとも弾幕だ。というか現在進行形で弾幕の只中なのだが、今の今まで無事だったことからして恐らく先の意趣返しのつもりなのだろう。
――悪魔のくせに御親切なことだ。
姿が見えないくらいで相手の心情を酌めないようでは半人前か? だが、杯を酌み交わそうにもお酒もない。
『――お酒がないなら、弾幕に酔えばいいじゃない』
レミリアの声が響き渡る。 …ん? 声に出てたか。此れだから酔っ払いは……。
ともあれいい案だ。問題は解決したことだし、思い残すことは――最早ない。…か?
いやいや――
桜花「未練未酌宴」
扇を展開する。お楽しみはこれからこれから、遊び疲れて尚眠りに落ちるには早すぎる。
これもまた未練だろうか。転生には程遠い。
――先に酔い潰れた方の負けね?
『――負けないわ、絶対』
――私の台詞を取らないで。
◆◇◆
狂気の月の兎――鈴仙・U・イナバは永遠亭の廊下を出口に向かって歩いていた。
彼女は今、七つの深刻な悩みを抱えており、内一つは名前のこと。
鈴仙・U・イナバ――彼女は初対面の者に名乗る時、いつもそう言う。UはI love youのユウだ。
本来は「ウドンゲイン」と読む。無駄にかっこいいミドルネームは、しかし何故か漢字だった。
「優曇華院」…彼女の師が付けた名前だ。最初はフザけんな!! と思ったものだったが、聞けばこの優曇華というのが中々に有難い花として神聖視されており、転じて珍しいことの象徴であるそうだ。
月を追われる罪人であった師と姫が、同じく月から逃げ出したレイセンと出会い、その数奇な運命を祝して冠したのであるがそれは関係なく寧ろ―――、
「うどんげ~~っ」
「…私をその名で呼ぶなあァァァッ!!」
「何かっこつけてるのよ」
魂の叫びだった。
「何ですか姫。後、その名前で呼ぶのはやめて下さい」
「饂飩毛。」
「殺しますよ」
「何怒ってるのよ。漢字に変換してるじゃない」
また始まった。空想と現実の境界が曖昧になっているのだ。
今度、紫さんに境界をいじってもらおう。ニートと社会人の境界でもいい。……何を持ってかれるか知らないが。
「あのね…あなたは『名前で呼ぶのはやめて下さい』なんて言うけど、これってすごく罪深い台詞だと思うの。
世の中には名前を呼んで欲しくても呼んでもらえない……そんな可哀想な国もあるのよ……?」
言わんとすることは分かるのだが国じゃなくて人だろうが。お前の方が遥かに罪深い。したり顔で説法かますんじゃない。
「イナバとお呼び下さい」
脳内で輝夜を20回ほど惨殺した後でそう答える。今の自分は間違いなく瀟洒だった。今ならどこかのメイドにも勝てる…。
イナバというのは優曇華院と同時に付けられた名だ。ミドルの破天荒な響きに引っ張られて当時は気が付かなかったが、ここ永遠亭に於いてはすべての妖怪兎に付けられたファミリーネームであり、まんま兎のことである。
こいつは名前を覚えているくせに誰も彼もイナバと呼ぶので始末が悪い。ほとんど蔑称だ。裁判所さえあれば損害賠償が請求できる。いっそ私が空想と現実の境界をいじってもらおうか。空想を現実化するのだ。事実、蓬莱人でさえなければとうの昔に秘儀り殺している。誰か私のこの桁違いの精神力を褒めてくれ。
「イナバ~、外に出るの?」
「ええ、少し外の様子が気になりました。……距離がありますが不吉な気配。少し様子を見てきます」
「ところでにんじん食べない? さっき外で採ってきたの」
「珍しい。この引きこもりが」
これはご苦労様です。まだ泥が付いてますね。お台所に持って行きましょう。
――間違えた。
「失礼、これはご苦労様です。まだ泥が付いてますね。お台所に持って行きましょう」
「ここで食べない? 取れたて新鮮よ。今なら私の愛情がたっぷり詰まってるわ」
「補正0ですが」
むしろマイナスだろうが。愛情がたっぷりって、お前それ引っこ抜いただけだろ。つか土付いたもん食わせんな。
「いらないんだ~。私もい~らないと。 っぽい」
「とう」
Get!!
「ないすキャッチ! ぱちぱちぱち」
死にてえ……最大限の屈辱だ。理性が働く暇もなかった。やはり私は、どこまでいってもイナバなんだ。…がつがつ。
……うまい。マイナス補正を受けて尚、泥の付いたにんじんを美味いと感じる自分がたまらなく厭だった。
こうして私は堕ちていくんだ――。
「お~。いい食べっぷり」
「もう、真っ白ですから!!」
「私は部屋に戻るけど、疲れてるみたいだしイナバも今日はいつもより早めに休みなさいね」
あんたのせいだ。
だが気になるものは気になる。
「……いえ。どうにも悪い予感がするので確認だけでもしてきますよ。では失礼します――」
「やめなさい、鈴仙」
「は…?」
「とっくに永琳が向かってる」
「…と言いますと?」
「知らないわ。確認のために永琳を向かわせたの。まぁ、どこかの大物(バカ)が本気で喧嘩を始めたってとこかしら?
因みに私はお留守番」
「大事なのですか? 日常茶飯事でしょう。それにこの程度、わざわざ師匠が出向く必要などない」
「それが私がここに残っている理由。異変を感じて直ぐに屋敷の周りに結界を張ったのよ。
――誇りなさい、鈴仙。一切の魔力その他を悉く防ぎ、また内からも漏らす事の無い絶対領域。
あなたの勘は正鵠を得ているの。そのへにょりミミもムダではなかったのよ。
それにあなたは私たちにとって掛け替えの無い家族なの。
腕のいい薬師でもあるし、こんな他者同士の諍いなんかで失いたくはない」
「……一つだけ。師匠はご無事ですか」
「死にはしないわ、当たり前だけど――それにいざとなれば私が動く。あなたが出る幕は無い。
わかったらさっさと部屋に戻りなさい?
ああ、後…、因幡たちを怯えさせないように外出を禁じておきたいから、このことはてゐに伝えて頂戴」
「………分かりました。よろしくお願いします」
絶対領域だとかへにょりだとか突っ込みたいのは山々だが、珍しくカリスマを振り絞っているのでそれらはそっと胸にしまう。へへっ、いいパンチ持ってんじゃねぇか。――決しておだてられたからではない。
……涙腺にきたわけでも、ない。
実はお世辞や適当な戯言がかなり混じっていたのだが。
「やっぱり鈴仙はからかい甲斐があるなぁ」
なよ竹のかぐや姫はお腹の中までぬばたまだった。
◆◇◆
……気持ち悪い。そろそろ限界だ。心地よい酩酊感が疲労と吐き気に取って代わる。やはり酒とは勝手が違う……。
弾消しとして限界運用してきたスペルが遂に力尽きる。
相手のスペルはまだ健在か? どうしたものか。
困った困ったと考えていたら唐突に霧が晴れる。時間を巻き戻したように霧が蝙蝠に、蝙蝠がヒトカタを象り凝固する。
……スペル使用前と違うのは、傷が全て塞がっていること。
――それとは逆に、魔力が消費され大分弱まっていること。
「あら、あなたも酔ったのね。勝負は私の勝ちでいいかしら」
「…『も』って何よ。そんな死人みたいな顔で言っても説得力のかけらも無い」
「生まれつきよ。いや死につき?
――スペルを解いたのはそろそろ限界だからでしょう? スペルを発動しながらのびるのは格好悪いものね」
「…まぁ、否定はしないけど……それ以上に必要なくなったからよ。
――お互い余裕も無いし、そろそろ終わらせようかと思ってね!」
神槍「スピア・ザ・グングニル」
レミリアは己の左手に霧の残り香を掻き集めるように紅い輝きを収束させ、後ろ手に構えた。
……何時の間にか発動していたらしい。
不意打ちとはおのれ卑怯千万と憤慨するも、結果的には自分も盛大な不意打ちをぶち噛ましたことを思い出す。
…でも良く考えれば二連発だわ。順番的に今度は私の筈なのに狡いではないか。
不意打ちとはおのれ卑怯千万と化けて出てやった。
それよりも目の前のアレだ。
その名の示す通り弾幕ではなくただの投擲槍(スピア)である。ただし効果は折り紙つき。目標を捕らえて逃さぬ紅い槍。異郷の聖人の血を啜った神殺しである。物が重力に引かれて落下するように、命ある者が必ず滅びるように……ひとたび解き放たれれば、あの槍は只当たり前のように標的に命中する。
――運命だ、諦めろとでも言うように。
…普通に避けて回避できるシロモノではないが、かといって放っておけばド真ん中を持っていかれるだけでもある。
冗談ではない。逃げる積りが毫もない以上、玉砕覚悟だろうが挑むしかないのだ。これさえ凌ぎ切れば勝機は有る。
……先ず、弾幕は効果的ではない。あれを強引に弾幕に見立てても攻撃力は屈指だろう。更にその形状ゆえ、貫通力は最凶の部類。結果、一般的な拡散型のスペルでは容易く破られる。そして残りの符の中にあれに対抗できるものは無い。
扇に霊気を満たしていく。幽霊が全滅の憂き目に遭ったので今度は自腹だ。関係ないがお腹が空いた。
紅い輝きが視界を彩る――解き放たれた閃光に私は渾身の力を込めて扇を叩きつける。
巨大な扇が真正面から閃光を叩き潰した――――!?
「ミスディレクション、よ」
そう、叩き潰したのだ。在るべき手応えが無い。
ミスディレクション――振り向いた先にあったのは、吸血蝙蝠が一匹とボロボロになったスペルカード。
両者が塵に還り、代りに撃ち出される紅い槍。
神速で迫るそれは体勢を崩した私が躱すには余りに速く――――
真っ紅に染まった視界が、不意に何かに遮られる。
槍が止まった?
「遅くなりました、幽々子様」
「あら、すごい妖夢。もしかして狙ってた?」
「…滅相も有りません」
「ちょっと疲れたから、見物に回っても良いかしら?」
「ええ、もちろん」
魂魄妖夢は二刀で神槍を押さえつつ答える。
在るべき運命に到達せんと次第に槍が力を増す。
妖夢がじりじりと圧されながらも右腕一本に力を込め、白楼剣を鞘に戻す。空いた手でスペルカードを取り出し、
「冥界一硬い盾、とくとご覧下さい」
断迷剣「迷津慈航斬」
全て貫く紅い槍と冥界一硬い盾はしばし拮抗し――
「運命を、斬る!!」
裂帛の気合と共に切れ味を極限に高めた楼観剣が均衡を崩し、紅い運命を切り裂いた――。
◆◇◆
――…………。
「さぁ、次は貴方だ吸血鬼。何か言いたいことは有るか?」
「……言いたか無いけど、何かずるくないかしら」
「不意打ちは漢の最も恥ずべき行為よ。さあ、妖夢やっておしまい」
「自分を棚に上げて何を…、ってか、漢じゃないからいいのかしら」
「問答無用。おとなしくこの楼観剣の錆になるが良いわ」
そう言って魂魄庭師が駆け出した。紅い悪魔は溜め息を吐きつつ迎撃体勢をとったが、
庭師の脚が止まる。
向かう先に――ナイフ。
それがコマ落としのように次々と数を増し、瞬く間に数十にも及ぶナイフの群が生み出された。
「これは!? ――――疾ッ!」
ナイフの群れが時間差を置いて、まるで伸びるように銀線と化し宙を奔る。
庭師は素早く短剣を抜き、二刀で以ってナイフを捌きに掛かる。
銀の刃金(ハガネ)は、庭師と――その後ろの亡霊嬢をも狙って放たれた物。
二刀の剣士はその場を動かず、過現未の彼方から飛来する浄化の刃を一つ残らず叩き落していく――。
迫る刃を切り落とし、返す刀で薙ぎ払い、反動すらも利用して峰と鍔元で的確に弾く。
剣の舞を終えた後には、銀の屍は既に、無い。
「さぁ、お嬢様。遊びはこの位にして帰りましょう」
「咲夜、まさかと思うけど狙ってた?」
「滅相もございませんわ」
「…ならいいけど――惚れ直した?」
「それはもう。」
バレバレだった。
せめて鼻血を拭くべきではなかろうか。
庭師が亡霊嬢の方をちらりと覗い見る。亡霊嬢が鷹揚に頷いたのを見て、それきり興味を無くしたように剣を収める。
「幽々子様」
「ああ、妖夢。おかげで助かったわ。ところでご飯はまだかしら」
「幽々子様……」
「まったく妖夢は心配性ね。ちょっと休めばよくなるわ。ご飯を食べてから」
「では食事を用意してきますので、それまでに西行妖の封印をお願いしますね。お食事はその後に」
「………………。
ああっ…急に眩暈が……」
「いきなり濃ゆい顔して白目剥いても駄目です」
「……非道いっ! 妖夢ったら…昔はあんなに単純(すなお)ないい子だったのに……!!」
「有難うございます。幽々子様こそ昔は幾分まともでしたよ……」
亡霊嬢がわざとらしく泣き崩れ、庭師にすげなくあしらわれている……実に間抜けな絵だった。
「情けない……ああはなりたくないものね」
「それより帰らないんですか? あまり長く館を空けるとみんな心配しますよ」
「これから神社を急襲するわ。 れいむー、今逢いに行くわよぉーーー!!」
「ああはなりたくないって言ったばかりですが……。って、置いてかないでくださいよ、お嬢様ーー!」
「遅いわよ咲夜っ――ほら、しっかりつかまりなさい」
紅い悪魔が瀟洒な従者を引っ下げて空を飛ぶ。今日の帰りは遅くなるのだろう……まぁ、いいけどね。
◆-Voile Magic Library-◆
動かない大図書館――パチュリー・ノーレッジは紅茶の満たされたカップを静かに口に運んだ。
――ペラリ
ページを捲る音が響く。
テーブルの中央にはやや大型の、精緻な装飾を施された水鏡が鎮座していた。対面には館の門番が腰掛けており、傍らにはティーセットを載せたワゴンがある。
「……小悪魔、クッキーを」
「はい、――失礼しますね」
「あ…、すみません私ばっかり食べて」
それほど食べる訳ではないから構わないのだけど。ただ手が届かないだけだし。
しかし億劫なので声には出さない。
レミィが出て行った後、入れ替わりにここを訪れた紅い門番は、それからずっと職場の待遇改善を訴え続けていた。
私は丁度ここに腰掛けていたわけで、わざわざ奥に引っ込むのも億劫に思い、書物を読み進める片手間に延々彼女の愚痴に付き合っていたのだ。
館の主人の友人として、又無駄飯喰らいの一員としての自覚から館の使用人の不満を解消してやるのも、まあ、出過ぎた真似では無いだろうと判断したためだったが、慣れないことはするもんじゃない、との当然の帰結により途中から適当に相槌を打ちつつページを捲るだけの単純作業に移行した。
一応、とっとと職場に戻るように適当に丸め込もうともしたのだが、赤髪の門番の決意は固いらしく言うことを聞かない。
それだけの気概が有るのなら咲夜に直訴するのが最善なのは自明だが、彼女にとってそれは大層恐れ多いことであるらしい。……要約すると彼女は、客分である私の口から待遇改善について執り成して欲しいようである。
彼女が上司の体罰、勤務時間に見合わぬ対価、この館における門番の必要性と皆が名前を覚えてくれないとの個人的な悩み相談に発展しかけたところで――不意に不穏な空気を感じ、これ幸いと術具による即席の鑑賞会と相成ったわけだ。
――ともあれ、とりあえず友人の無事は見届けたわけで。
そのタフネスぶりを羨ましく思いつつ、門番の話題がループしないうちに次なる手を打つ必要があった。
「見てたでしょう。お茶でも如何?」
呼ばわる。
出てこなければ哀れな人だが、今なら機嫌もいい筈で呼びかけにも応じると思われる。
侵入者が現れれば門番も自分の役目を思い出すだろう。
『呼ばれて飛び出てぇ』
「……!」
声はすれども姿は見えず。門番が無言で席を立ち剣呑な表情で身構えた。いい具合ね。
「どうもどうも。お招きに預かり――」
にゅう。と空間が縦に裂け、八雲の紫がスキマから顔を突き出す。……門番の豊満な胸の谷間から。
「光栄で」
「う、きゃぁあああああっっっ!?」
すわぁーー? とドップラー効果を上げながらすっ飛ばされ、書架に勢いよく激突する。スキマから這い出た何者かの手に胸を鷲掴みにされた我らが門番が、上司他諸々のストレスと共に繰り出した何かの奥儀を炸裂させ、哀れなゴスロリ少女を本棚に叩き付けたのだ。衝撃に刹那、思考が停滞し注意力が散漫となる。衝撃を受けたのは無論、人妖のみに止まらず。
――本棚がグラリ、グラリと危うく揺れる、と言うかスキマのむらさきを押し潰さんとゆっくり傾く――。
「っ! ――いけない!!」
真っ先に我に返った小悪魔がそちらに飛び出し――間一髪、ワゴンを引き寄せる。
直後……端的に言えば本棚が倒れた。
門番がサッと顔を蒼ざめさせ、小悪魔がホッと胸を撫で下ろし、私はそっとページを捲った。
「美鈴、後の処理は私に任せて職場に戻りなさい。小悪魔、クッキーを包んであげて」
「はい。」
「あ、あの私はこんな…」
「いいのよ」
罪悪感を植え付け、次第に忠誠心に掏りかえる。歴史書の類を紐解けば人が古くから用いてきた効果的な手法だ。
古典的だがそれだけ実用性に富むということ。大陸出身の癖にまだまだ功夫(クンフー)が足りていない。
予定と違ったが門番を退室させる。余程ショックだったのか今度は大人しく従う。彼女は誰よりも従順になるだろう。
下に立ち、支える者には節制の精神が肝要である。
「そんなことよりも……お友達の手助けはしなくていいの? あなたが境界張れば一発よ」
「そんなことよりお酒呑まない?」
「そんなことより本題に入るけど、結構な大事だったのに何故止めなかったの?」
「そんなことより見て、この芋焼酎。
ここに来る前にスキマで拾ったんだけど『紫』ですって。私たちが呑むにこそ相応しいと思うのよ」
翻訳すると私と同じということだ。
…そう、たまには羽目を外すのも精神衛生上好ましいと云える。
レミィも亡霊嬢も――そして私にも。
カップに残った紅い液体を飲み干す。
「頂こうかしら」
「流石、話が速い。さあ、どうぞ」
「互いの困った友人たちに――乾杯」
「かんぱぁい」
「ついでに私もいいですか?」
――読み終えた書物を閉じる……歴史的に吸血鬼はしばしば魔女と同一視される。悪魔、不浄の存在として。
悪魔とは即ち、まつろわぬもの――神の敵対者。異端の神であったり堕天使であったり。面と向かって尋ねた訳ではないが、事実彼女のスペルには直接・間接問わず神との符号が多く見られる。無論、悪魔としての矜持から来る痛烈な皮肉の線も無視できないのだが……。友人の破廉恥ぶりに何となく堕天使のイメージを抱いた。
人間が天使を堕落させて悪魔にする。だから悪魔は人間の事が好きだし、人間もまた悪魔が好き。…符合する。
……だとすれば、彼女らが神を討たんとするのは、まさか人間がそれを望んだからか? 幻想の果てに追いやられて猶、その在り方を貫くものか? 何れにせよ興味は尽きない。だがしかし…。……。
パチュリーはティーカップに注がれた酒を一息に呷った。視界の端で小悪魔の翼がパタパタと忙しなく動く――。
……当面の研究材料が決まると、漸くパチュリーは人心地ついたのだった。
(―了―)
バトルも情景が容易に想像できましたし。
難を言えば、筋というか焦点がボケてしまっているところでしょうか。
閑話としてならば問題ないのですが。
バトルシーンも中々の白熱ぶり。でも良いのか?西行妖の封印簡単に解いて。
あとエーリンは?
ミスディレクションなグングニルには、その場面を想像して燃えましたよ……
これが初投稿との事ですが、是非また、次回作も読んでみたいと思いますッ!
ですが、曖昧のうちに消えて行った人たちと話しの行く末は・・
でも戦闘シーンはよかったです
視点の切り替えが旨く、とても読みやすいかったですし。
ただ一点言わせてもらえれば
>扇は空振り、レミリアの逆の拳が真上から扇を打ち据える。予期しない方向からの一撃に堪らず扇を取り落とす。
>
>
>
> ――もらった。
上記の間に「◆◇◆」を入れてほしかった。
その前後で幽々子とレミリアの視点がいきなり入れ替わったので一瞬混乱しました(^^;
後、えーりんはどちらに?
実は次回の伏線で、同時期に別の場所で弾幕り合いが勃発してたりして…
そういやSSでゆゆサマーをやる幽々子様を初めて読んだ気がしますw
では次回作期待してお待ちします。