※初めに一つ断りを。
この話は、『レミリアが元は人間だった』という設定で書かれています。
ガタガタと大きかった馬車の揺れが次第に小さくなり、視界を遮っていた木々がその数を減らしていく。
森を抜けたらしい。
窓から外を見やると、遙かな年月を経た城が悠然とそびえ立っていた。
ただ、手入れはあまり行き届いていないようで、城壁や塔の壁にはつたが巻き付き葉を茂らせその姿を覆い隠してしまっていた。
といっても年中晴れることのない霧に覆われ、日の光が差し込まないこの一帯にあっては、例え見えたところで霞んでしまうのだろうか。
そんなことを考えていると、意外に自分が落ち着いていることを知って笑ってしまう。
この中で恐ろしい運命が私を待ち受けているというのにたいしたものだ、と。
「お嬢さま……」
その時、向かいから声をかけられた。疲れきった老人のような声だ。
「なに、ハミル?」
顔は城に向けたまま私は答えた。
ハミルは私が生まれたその時から世話役として仕えてくれた男だ。今年で四十になる。本来は精力的な男で、こんな老いた声を出す男ではない。
だから顔を見ることがつらかった。……その原因が自分にあるならなおさら。
「本当に行かれるおつもりなのですか?」
恐る恐るといった感じでハミルは尋ねる。
「ええ」
それに対し私は努めて冷静に答える。
ハミルが息を飲むのがわかった。
「何故です! お嬢さまが行かれるならばと身代わりを申し出た者もおります! その皆の反対を押し切ってまで何故……!」
押さえていた感情を一気に吐き出すようにハミルは叫んだ。最後は声が掠れていた。きっと泣いているに違いない。いつでも私を第一に考えてくれる。ハミルはそういう男だ。
「ありがとうハミル。貴方の気持ちはとても嬉しい」
「お嬢さま……」
「でも――」
言葉を切って真っ直ぐに彼を見据える。
思った通り、ハミルの顔は涙でくしゃくしゃになっていた。
それだけでもどれほど心を痛めてくれたかわかる。
……それでもこれだけは言わなければ。
「貴方はそのために、このレミリアという人間の身代わりをたてるために、どれだけのお金をその子の両親に払ったの?」
私の言葉を聞いたハミルの顔が真っ青になった。
せめて否定してくれればと落胆している自分に私は気がつかなかった。
「二日前、新しい奉公人が入ったとお父様から聞かされたわ。その子が私と同じ年頃で、私の代わりに生贄になると言っていたとも。お父様は喜んでいたけれど私は気になった。何故奉公に来た人間が、私と面識のない人間が突然そんなことを言い出したのか。だから彼女に会ってみたの。驚いたわ。私にここまで瓜二つの人間がいるなんて思ってもみなかった。でも、それは向こうも同じだったみたい。彼女もとても驚いていた。私たちはしばらく惚けたように互いの顔を見つめていたわ。けれど、先に我に返った彼女がぽつりと言ったの。「どうして両親が私を知らない人に売り渡したのか、その理由がわかった」って。彼女は泣いていたわ。「まだ死にたくない」そう言いながら。……答えなさい、ハミル! 貴方は幾らのお金で彼女の命を、彼女の人生を買い取ったの!」
馬車の窓がびりびりと震えた。
元々静かに話すことの多い私がこれほどの声を出せるのか、と内心自分でも思うほど大きな声だった。
「私は……私はお嬢さまのために……」
絞り出すようにそれだけ言うと、それきりハミルは顔を伏せ黙ってしまった。
私も口を開かなかった。
気まずい沈黙が私たちの間に横たわる。カラカラと車輪がたてる小さな音が妙に耳障りだった。
私はこれ以上ハミルを責めようとは思わなかった。
いくら長年私の教育係として仕えたからとはいえ、両親と家族を一人で養っているハミルの家は決して裕福ではない。だからハミルにあの少女を買い取る金を出せるはずもない。
だが彼女は、ハミルが彼女の両親の前に積み上げていく山のような金貨を見たという。
……そんな大金を用意できる人間は、私の知る限りそう多くない。
そして私を助けようとするならただ一人しかいない。
「ハミル」
私が何を言わんとしたかを悟ったのだろう、ハミルの体がびくっと震えた。
「貴方にそれを命じたのは――」
「その先を口にするのは止めたまえ」
私がその名を口にしようとしたその時、深く響く声がそれを遮った。
誰と聞くまでもなく私にはわかっていた。
――吸血鬼、ブラド・ツェペシュ。
本当の名かどうかはわからない。彼の存在を恐れた過去の人が付けた名であるといわれているから。
はるか昔より存在し、神の威光さえ届かない深い霧に包まれた住み、その力は存在するどの怪物をもはるかに凌ぐと言われる闇の貴族。
そして、領主である父とその領民の命と引き換えに私を差し出すよう要求した張本人。
私はこの化け物にこの身を捧げるためにここへ来たのだ。
「やりかたの是非はどうあれ、彼は君を救おうとしたのだ。そこに嘘偽りはない。それは認めてやらねばなるまい?」
ブラドは私の想像していた恐ろしい化けのものとは違い、タキシードの上からマントを羽織っている、端正な顔立ちをした黒い髪の紳士だった。
彼は私の正面、ハミルのすぐ横に座っていた。いつ、どうやってこの中へ入ってきたのか。馬車のドアは一度も開いてはいなかった。
「私は――」
「他の誰かを犠牲にしてまで生きることは望まないと?」
「……そうです」
彼は私の心を読んだように先回りして見せた。
「何も知らないということは哀しいことだな」
「どういうこと?」
「……いや、それよりも」
彼は隣のハミルの腕を掴み捻り上げた。
その手から一本の銀に輝く短剣が落ちる。
「こんなものを用意して、どうするつもりかな?」
「化け物め! お前などにお嬢さまを連れていかせるものか!」
苦痛に顔を歪めながらもハミルは叫ぶ。
ブラドは笑いながらその手を離すと、ハミルの手に銀の短剣を握らせた。
「いいだろう、私を殺してみろ」
そこまで言うならばと、彼は腕を大きく広げる。
「頭でも心臓でもどこでもいい。好きなだけ刺し、斬り、抉れ。私が死ねば、『お嬢様』を無事に連れて帰ることができるぞ」
狙うならここだ、と言わんばかりに彼は自分の胸を指さす。
「う……うああああ!!」
初めは呆気に取られていたハミルだが、勇気を振り絞るように雄叫びを上げて銀の短剣をブラドに突き刺す!
悲鳴と飛び散る血飛沫を想像した私は思わず目を背けてしまった。
………………
…………
……
しかし、いつまでたっても断末魔の悲鳴が聞こえる気配はない。
頭に描いた惨状に怯えながらゆっくりと目を開けると、恐怖にひきつった顔をするハミルと変わらぬ姿勢で笑っているブラドがいた。
「どうした? もう終わりかな?」
その顔に、痛みを感じている様子はない。
「ぁ……そんな馬鹿な」
ハミルが手にした短剣を取り落とす。乾いた音をたてて短剣が床に転がった。
「教会の祝福を施されているようだが、私には無意味だよ。神の代行者の祈りなど恐れるに値しない」
最後の望みを断たれてうなだれるハミルにそれだけ言うと、彼はこちらを向いた。
漆黒の瞳が私を捉える。
「さぁ、行こうか」
そう言って広げたマントの中に彼の身体はなく、代わりに真っ黒な闇が広がっていた……。
◇◇◇◇◇
私は父の書斎の前にいた。
わずかに開いたドアの隙間から、中の様子を覗いている。
中で父がハミルに大金を手渡していた。
何のためにそんなことをするのだろう。
私は不思議そうにその様子を見ていた。
二人はなにか話しているが、ここからでは聞き取れない。
もっと耳を近づけようとしたけど体は全く動かなかった。
だから気づいてしまった。
これは夢なのだ。
私が自分の聞いた話を基に作り上げた夢。
私は見ているだけ。父がハミルに、あの少女を買い取るためのお金を渡しているところを。
止めることなんてできない。ただ、見ているだけ。
ただ、見ているだけ……。
◇◇◇◇◇
「おはようレミリア。気分はどうかな?」
「……最悪」
私の寝顔をずっと見ていたであろうその男に精一杯の嫌みを込めて言ってやった。
悪い夢を見た直後にこの男の顔を見なければならないなんて……悪いことは重なるものだと痛感する。
「ははは。それだけ元気があるなら充分だ。しばらくしたらまた来る。それまで休んでいるといい」
しかしブラドは気にした風もなくそれだけ言って部屋を出て行ってしまった。
彼の言うとおりにするのは癪だったけれど、今の私は相当疲れているらしく、目を閉じた途端に深い眠りの底へ落ちていった。
……どうか、またあの夢を見ることがありませんように。
眠る直前の私の願いは天に届いたらしい。今度の夢は幸せな気分にさせてくれた。
「おはようレミリア。気分はどうかな?」
目を覚ますまでは。
「……最悪」
どうやら今日の神様は不条理にも幸せに対価を求めているようだ。
さっきの焼き直しのようなブラドの笑顔で私の幸せ気分はいっぺんに吹き飛んでしまった。
「ふむ。人間は空腹になると怒りやすくなるものだ。食事にしよう」
「先に行っている」ブラドはマントを翻して部屋を出ていった。
むー、とベッドの上で唸っていてはたと気づく。
……私、今とても落ち着いている?
そんなはずはないと自分に言い聞かせようとして、どうしてもできなかった。
認めたくないけど、ここは静寂と安らぎに満ちている。優しく包み込まれるような暖かさに。
それはブラドにも言えることだった。吸血鬼と恐れられている彼を前にして、妙な暖かさを感じるのだ、私は。
ショックだった。
私は我が家でも感じたことのない安らぎを感じていたのだ。この化け物の城で!
◇◇◇◇◇
「さっきよりまた一段と不機嫌そうだな。何かあったのか?」
二人が使うには大きすぎる広間で、原因の一端が自分にあると知っているのかいないのか、目の前の吸血鬼はそう言って微笑んだ。
「別に。……ただの自己嫌悪よ」
いちいち彼の言葉に反応するのも馬鹿らしい。素っ気なく言って私は席に着いた。
そんなことよりも聞くべきことが私にはある。
「それよりハミルは、お父様たちは無事なんでしょうね?」
ブラドは私の言葉に、心外だ、というような顔をした。
「私は嘘はつかないし約束は守る。彼らは無事だよ。むしろ、約束を違えようとしたのはそちらの方ではないのか?」
「あぅ……」
確かに。誰が聞いても彼の言い分のほうが正しい。
約束を破ろうとしたからといって自分もそうしていい、という法律はないが、人間のすり替えを行ってまで約束を破ろうとしたのはこちらだ。それで彼に難癖をつけるのはどう考えても間違っている。
「……私が間違っていたわ。ごめんなさい」
素直にそう言うと、彼は驚いたような顔をした。
その顔に向かって疑問の視線を投げかけてみる。
「いや、失礼。どうも君の階級にいる人間は素直に非を認めるということがあまりないのでね。驚いてしまった」
なるほど、と納得。
人にもよるが私たちは自分たちの間違いをあまり認めようとはしない。
それは決して悪い意味ではなくて、自分の考えに対する自信と責任の表れだということだ。
お父様も「相手の意見を聞くことも大事だが、それにつられて自分の考えをころころと変えているのでは下にいる者たちの不安を煽ってしまうだけだ」と言っていたし。
「もう一つ聞きたいことがあるわ。彼女たちはいったい何なの?」
『彼女たち』とは私をここまで案内してくれたメイドたちのことだ。
必要最低限のことしか喋らず――もちろん私がなにを聞いても答えない――、無駄な動きなど一切せず、私とブラドの傍らにまるで置物のように静かに控えている。ここまで躾の行き届いたメイドというものに私は未だかつて出会ったことがない。ある意味、この城で最も異質な存在だと思えた。
「何、とは? 彼女たちは見ての通りメイドだよ。私の身の回りの世話をしてもらっている」
「そうじゃなくて……!」
私は思わず怒鳴っていた。
ブラドは心底わからないというように首を傾げて、
「ああ、そういうことか」
と納得したように頷いた。
そして自らの傍らに控えているメイドに言った。
「お前たちがどういった存在か、彼女に教えて差し上げなさい」
「……畏まりました、伯爵様」
優雅な動きで一礼すると彼女は喋り始めた。
「私どもは、古くは百年以上前に伯爵様の救われた娘でございます。王族より平民まで身分に差はあれど、皆、国を、家を追われ、生きることすらままならなかった人間。しかし、伯爵様に救っていただいたその時より世間の柵から解放され、こうして伯爵様のお側に仕えております」
話し終え、再び優雅に一礼をすると彼女は静かにさがる。言った事を要約すると、自分は伯爵……つまりブラドの忠実な僕だと言いたいのだろう。
と、ブラドは思い出したように一つ付け加えた。
「彼女はこの国の先々代の姫君だ」
「そんな! その方は若くして病で亡くなったと聞いているわ」
「それは違う」
喉まで出かかった声が止まる。彼の声にはそれほどの力があった。
「宮中にいるものなら誰でも知っていることだ。表向きは病死ということになっているが、彼女は権力争いに巻き込まれ、毒を盛られて身体の自由を奪われた挙句、殺されるところだった」
華やかな宮中の裏側でそういった策謀が繰り返し行われていることは周知の事実だ。
貴族の中でも有数の権力を持つ父とて例外ではない。そして、自分の父親の裏側を知らないほど私も子供ではなかった。
だから、彼の言葉に私は何も言い返すことができなかった。
「この城にいる者たちは、皆が何かしらの理由で住む場所を追われたのだ。私はそういった者たちを迎え入れ、匿っているにすぎない」
「匿っている……? 馬鹿なことを言わないで!」
行き場のなくなった人間を救って匿っている?
百歩譲って彼女らはそうだったとしよう、それなら私はどうなる?
私一人を自分のものにしたいがために、この男は何をした?
お父様と領民たちの命を人質にとったではないか!
敵意を剥き出しにして睨みつけると、ブラドは困ったような顔をした。
「理由はいずれ話す。今は信じてもらえないだろうからね。だから一つだけ言っておく。この城に来た以上、ここから出ようとは思わないことだ。この城から出れば、君はきっと不幸になる」
「……それは私を脅しているの?」
「いいや。そんなつもりはないよ」
じゃあ、いったいどんなつもりでこんなことを言うのか。
ここを出れば不幸になる、なんて脅し文句以外の何物でもない。
「……貴方の言葉に従うなら、死ぬまでここで暮らさなければならないということ?」
「そういうことになる。ただ、この城の時間は私が止めている。だから、私が生きている限り、この城の中では永遠が約束される」
「永遠が……?」
ある意味魅力的にも思えるその言葉を聞いて私は身震いした。
不老不死を追い求める人間は大勢いると聞いている。
でも、私は絶対に嫌だ。そんなものは人の手に余る。この姿のまま年をとることもなく、永遠に生き続けることに何の意味があるのだろう。
たとえ短くてもいい。
私はお父様やハミルたち家族と一緒に暮らしていたい。
家族が死んで、自分だけが変わらない姿で生き続けるなんて絶対に嫌だ。
「君にとっては不本意かもしれないがね」
やや残念そうな彼の言葉には、しかし否定は許さないという断定の意思が込められていた。
今の私にそれを覆すだけの力はない。
ならば、それに従うしかないのだろう。
でも、それは今のうちだけ。
いつかきっと、ここから自力で逃げ出してみせる。
「……わかったわ」
「そうか。では、ずいぶんと待たせてしまったが食事にしよう」
ブラドは私を見て満足そうに頷くと指をひとつ鳴らした。
その後出された食事はいたって普通のものだった。
どんなものが出てくるのかとびくびくしていた自分が情けなくなるくらいありふれたメニュー。
「とても美味しかった」
素直にそう言うと、それを作ったらしい私よりいくらか年上のメイドは少しだけ顔をほころばせて喜んでくれた。
その表情を見ると、彼女たちはやっぱり人間で、知らず偏見を抱いていた自分が恥ずかしかった。
「私を信じてくれる日が来ることを願っているよ」
食事が終わると、ブラドはそう言って部屋から去っていった。
……一つ気になったことがある。
ブラドはいったい何に対して満足そうに頷いたのだろう?
私が服従の意思を示したことに対してか、それとも……。
◇◇◇◇◇
それから一ヶ月が過ぎた。
私もこの城での暮らしに慣れようと、今はメイドの真似事をやっている。
真似事というのは、
――ガシャン!!
静かな調理場に食器の割れる甲高い音が響く。
「あ……」
「あ~あ、またやっちゃったの、レミリア?」
今日の私の指導役のメイドは困ったような顔をして頭をかいた。
「ごめんなさい……」
そう、真似事というのは、格好ばかりでお皿一つまともに運べない未熟者だから。
これで今日だけで四枚のお皿を割ってしまった。加えてグラス一つにティーカップとソーサーを二セット。しかも高価そうな物から壊していくのだから性質が悪い。本来ならとっくにクビになって城から放り出されているんじゃないだろうか?
どうやら私が生きていくためには、なんでも完璧にこなしてくれるメイドが必要のようだ。
そんなことを考えて余計に落ち込んでしまう。
「気にすることないよ。私もここに来たばかりの時はずいぶん派手に壊して回ったから」
「え……?」
目の前で完璧に仕事をこなしている彼女にも私と同じ時期があった……?
驚いて呆然としていると、
「二人だけの秘密だよ?」
そう言って彼女は悪戯っぽく笑った。
「……ふふっ。はい、わかりました」
私もつられて笑ってしまった。
顔を見合わせて二人で笑う。
「そうそう。レミリア、貴方はやっぱり笑っているほうがいいわ」
柔らかくて温かい手が私の頭をなでる。
彼女は私より頭一つ分背が高い。
その彼女にこうして頭をなでられると、まるでお母様にしてもらっているようだった。
「それじゃもう一頑張りしましょうか!」
「はい!」
元気よく返事をしてから私は割ってしまったお皿の片付けに取り掛かった。
……まあ、この後また何枚もお皿を割ったりしてしまったのだけれど。
この城に住んでいる人は皆いい人ばかりだった。(認めたくないけどブラドもそうだ。人ではないのだけど)
そして、そんな人たちと一緒に働き、自分が成長していくことを実感する。
それはとても有意義で楽しい時間だった。
――我が家で過ごしたあの時間を忘れてしまいそうになるほどに。
だから私は一人になると、思い出に縋るように、必死で昔のことを思い出した。
お父様のこと、ハミルのこと、みんなで過ごした大切な時間のこと、今の私を形作ったたくさんの出来事のことを。
でも、時間が経つにつれて少しずつ記憶があやふやになってくる。
初めは小さなところから、水滴が石を削っていくように少しずつ少しずつ記憶が薄れていく。もうはっきりと思い出せないことさえある。
それが悲しくて、寂しくて、お父様やハミルも同じなのだろうかと考えて涙が零れた日もあった。
そして、その度に、私はこの城を抜け出す決意を強くしていった。
◇◇◇◇◇
ある時、その機会は偶然にも訪れた。
ブラドは所用とかで外へ出かけている。
彼は月に二、三度の割合でこういうことがあった。
どこで何をしているのか誰も知らない。ブラド自身も決して語ろうとはしない。
ただ、ブラド不在のこの時ばかりは城の内外を監視する目が緩くなる。
城は相変わらず霧に包まれたままなので、外から侵入者が来ることはまずないが、その逆――内側から逃げ出すことなら可能なはずだ。
しかも今日に限って私一人で城内の見回りをする時間がある。
まさに神様が私のために全てのお膳立てをしてくれたような状況だ。実行に移さない手はない。
「今日の見回りは貴方の番ね。鍵は預けておくから、終わったら元の場所に戻しておいてちょうだい」
「ええ、わかったわ」
彼女の手から鉄製の輪に鍵を通した鍵束を受け取る。
ずしりと重いこれが、私をここから救い出す文字通りの鍵となる。
そう思うと自然に体が震えた。
そんな私の様子を彼女はどう受け取ったのか、
「大丈夫? 一人が怖いならお姉さんがついていこっか?」
含み笑いをしながらそんなことを言った。
「そんな心配しなくても大丈夫よ。子供じゃあるまいし」
「なに言ってるの。私から見ればまだまだ子供よ」
少しむくれてそう言うと、彼女は笑いながら私の頭をぽんぽんとたたいて部屋を出ていった。
よかった。気づかれなかったみたい。
遠ざかる足音を聞きながらほっと胸をなでおろす。
これで、城の中で私以外に部屋から出ているものはいなくなった。
すべての準備は整ったのだ。
部屋に戻り、しばらく袖を通していなかった私の白い洋服に着替える。
鍵束をしっかりと握って部屋を出た。ここから先、いくつかの扉の鍵を開かなければならないからだ。
靴音に気をつけながら廊下を歩く。
何度も通った長い長い廊下……それもこれで見納めかと思うと少し足が遅くなった。
玄関の扉を静かに開ける。ゆっくり、ゆっくりと音を立てないように。
人一人が通れるだけの隙間を空けて外へ。
今度は逆にゆっくりと扉を閉める。
あと少しで完全に扉が閉まるというところで、私は動けなくなった。
この扉を閉めたら最後、もう二度と彼女たちに会うことができなくなるような気がして。……彼女たちを思い出せなくなる気がして。
扉を閉めて、記憶にふたをして、私は彼女たちのことを忘れてしまうのだろうか?
そう思うと勝手に涙が溢れて止まらなかった。
だからわかってしまった。
……ああ、私はいつの間にか、家族と天秤に掛けられるほどに彼らを好きになっていたのか。
「ごめんなさい。それでも私は、私の家に帰りたいの……」
ここにはいないみんなに謝りながら、精一杯の勇気を込めて扉を押す。
重い音を立てて扉は閉まった。
その場にうずくまって、声を押し殺して私は泣いた。
◇◇◇◇◇
霧に覆われた森を馬に乗って駆ける。
月の光で薄ぼんやりと照らされるだけの道。目印になるものは何一つない。
おそらく方向を見失ったら最後、この中を何日も彷徨い続けることになるだろう。
私にできることはただまっすぐに馬を走らせることだけだった。
一向に出口が見えないことに軽い苛立ちを覚え始めたころ、不意に霧が晴れ、視界が開けた。ついに森を抜けたのだ。
「もういいわ。……ここまで私に付き合ってくれてありがとう」
馬から降り、その顔を抱き寄せてそう言った。
私の言葉がわかったのか、馬は小さく嘶くと頬を摺り寄せた。
「さあ、もうお帰りなさい」
抱きしめていた腕を放すと、馬は名残惜しそうにこちらを振り返りながらやがて霧の中へと帰っていった。
その姿が完全に見えなくなってからも私はしばらく動かずに立っていた。
そして、ふと我に返る。
「……そっか、私も帰らなくちゃね」
街は遠くに見えた。
今から歩けば夜明け前にはたどり着けるだろう。
でも、心弾むはずの一歩を踏み出した私の足はとても重たかった。
――空が明るい。
違う。空が赤い。
街に近づくにつれてわたしの足はどんどん速くなっていた。
嫌な汗が体を伝う。不安が胸を、体中を締め付ける。
あの空の色はなんだろう。まだ夜明け前なのになぜこんなに赤いんだろう。
嫌な想像ばかりが頭の中を駆け巡る。
そして街に近づくたびに初めはぼやけていた想像がどんどん鮮明になっていく。
風に乗って物が焼け焦げる臭いが鼻をつく。
もう歩いてなんかいられない。
躓きながら、転びながら、私は全速力で走っていた。
街は酷い有様だった。
建物は無残にも壊され、火を掛けられたものは赤々と燃え、夜空を赤く照らしていた。
そして何よりも、道のいたるところに焼かれた人間の……が転がり、喩えようの無い悪臭を放っていた。
「うぅっ……!」
喉の奥から苦いものがせり上がってくる。
こらえきれずに私は吐いた。
胃の中のものを全部吐き出して、喉から血が出るまで吐き気は治まらなかった。
――喉が痛い。苦しい。胸が痛い。気持ち悪い。なんでこんなに大勢の人が死んでいるの? 誰がこんなことをしたの?
頭の中がごちゃごちゃする。
「お父様……」
言ってはっとなった。
そうだ。街がこの有様なら屋敷とて無事で済むはずが無い。
血の気が引いていくのが自分でもわかる。
もしもお父様も同じ目にあっていたとしたら……。
思わず足が止まってしまう。嫌な想像でもなんでもなく、それは確信に近かった。
「そんなこと……そんなこと絶対にない!」
お父様たちは安全なところへ避難しているはずだ。
そう自分に言い聞かせて私は走り出した。
未だ燃え続ける私の屋敷に向かって……。
「あ、あ…………」
弱々しく首を振って私はその場に崩れ落ちた。
来ないほうが良かった、見ないほうが良かった。こんなものを見るために私は帰ってきたんじゃない!
『この城から出れば、君はきっと不幸になる』
このことなの? ブラドが言っていたのは……。
門は見るも無残に破壊され、屋敷はそれこそ天まで届く勢いで燃え上がっていた。
ここで敵を迎え撃ったのだろう、蹂躙された庭先には大勢の死体が転がっている。
その中に一つだけ他とは違う鎧を着た死体があった。
ドクンと心臓が大きく脈打つ。
――あそこに倒れているのが誰だかわかる。
私は立ち上がると、ふらふらとした足取りでそれに近づいていった。
血溜まりの中その死体の傍らに膝をつく。
――だからやめて。近づかないで。
顔を覗き込む。
頭全体を覆う兜のために、誰かはわからなかった。
震える手で兜を持つ。
――それを私に見せないで……!
頭の声とは裏腹に私はこの隠された顔を見ようとしている。
わかっているのに、見たくないのに、体が勝手に動く。
兜が外し、血塗れの顔を覗き込むその瞬間、
「――まだ生き残りがいたか」
私の胸を何か硬いものが貫いた。
痛みは感じなかった。ただ、貫かれた部分が焼けるように熱い。
声を出そうとすると、代わりにごぽっという音と血が口から飛び出した。
胸を貫いたそれが引き抜かれる反動で、真っ赤な血溜まりの中に倒れこむ。
なんとか起き上がろうとしたけど、体はぴくりとも動いてくれなかった。
「………ミリア……レミリア!」
誰かが呼んでいる。誰だろう? 目の前はもう真っ暗で何も見えない。
その誰かは私の体をしっかりと抱き起こした。
「しっかりするんだ! お前はこんなところで死んではいけない!」
無茶を言わないでほしい。
私は胸を貫かれた。たくさん血も出た。間違いなくもうすぐ死んでしまうだろう。
別にそれでも構わない。
お父様も、おそらくはハミルも死んでしまった。
お屋敷も焼けてしまった。
家族も、家もなくしてしまった。
だからもう生きていたくない。
(……もう……放っておいて)
「駄目だ、駄目だ駄目だ! 私はお前を死なせたくはない」
ああ、しつこいなこの人は。
いったい何様のつもりなんだろう?
私が死にたいといっているんだ。死なせてくれればいいじゃないか。
……でも、どうせこの傷だ。何をやっても助かるわけがない。
(……じゃあ……好き、に……すれば?)
「――わかった」
彼の言葉を最後に、私は意識を手放した。
その間際、首筋にちくりと小さな痛みを感じた。
◇◇◇◇◇
次に目を覚ますと、つい昨日まで生活していた見慣れた部屋のベッドの上にいた。
天国はこんな場所なのか、まずそう思った。
天使はいないし雲の上でもないし光に満ち溢れているわけでもない。
……絵本や聖堂のステンドグラスのような光景を期待していただけにかなり幻滅。
でも、この部屋は私のお気に入りの場所だ。
そしてこの城は私にとってとても居心地の良かった場所。
案外、天国とはこういう場所なのかもしれない。
そう考えれば悪くない。
「さて、記念すべき天国での一日目ね。まず何をしようかしら?」
バサバサッ。
「え?」
ベッドから飛び降りると鳥の羽ばたくような音が聞こえた。
「何の音?」
振り返っても、部屋中を見回しても鳥なんてどこにもいない。
首をかしげながらとりあえず鏡を見てみる。
「……?」
何も映っていない。
どういうことだろう? 鏡はここにあるのに?
「あれ?」
鏡をさわっている自分の手。
私の爪ってこんなに長かったっけ? ……それに紅い。
「――おや。目が覚めたようだね」
鏡越しにドアが開くのが見えた。
しかし、声の主の姿は見えない。
振り返ると、そこにはブラドがいた。
もう一度後ろの鏡を見るがやっぱり何も映っていない。
「ブラド。これ、どういうこと?」
“これ”とはもちろん鏡のことだ。
どんな仕掛けになっているのかは知らないが、姿が映らないのはとても不便だ。
悪戯なら早くやめてほしい。ここは天国なんだから楽しくなくちゃ嘘だ。
「……レミリア。君は知らないのか?」
「知らないって……何を?」
やれやれ、と首を振ってみせるブラド。
なぜかは分からないが、彼は呆れているらしい。
「吸血鬼は鏡には映らないのだよ」
「――は?」
……いったい何を言っているの、この人?
「他にも太陽の光に当たってはならないし、流れる水の上を渡ることもできない、清められた水や銀に触れるなどもってのほかだ。闇の貴族といえば聞こえはいいが、不便なものでね。まあ、私ぐらいになればどうということもないが……どうした?」
「な、な……」
「ん?」
怪訝な顔をするブラド。
私は震えるこぶしを握り締めてつかつかと歩み寄り、
「なんてことするのよ貴方はー!!!」
力の限り怒鳴ってやった。
その衝撃(?)たるや凄まじいもので、ブラドがひっくり返り、窓が割れ、半開きだったドアは勢いよく開いたまま壁にめり込んで元に戻らなくなった。
ふーっふーっ、と荒い息をつきながらブラドの胸倉をつかむ。
自分の身長の倍近くあるブラドを、まるで空気か何かのように片手で引きずり起こしていた。
「う、ぁ……レミリア、もう少し、加減をしてくれないか……」
額を押さえてうめくブラドに顔を近づけて問いかける。
「答えなさい! どうして私を吸血鬼にしたの!」
「……心外だな。あの時好きにしろ、と言ったのは君じゃないか」
私の中で、気を失った瞬間から止まっていた時間が動き出したような気がした。
「…………そっか」
落ち着いて考えればわかったことだ。
あんな大怪我を負って今にも死んでしまいそうな私を助けられる方法なんて一つしかないじゃないか。
人間にとっては致命傷だけれど、不死といわれる夜の吸血鬼ならば助かる可能性は高い。
私を助けるためにブラドは私の血を吸ったのだ。
きつく握り締めていた手を離す。
急に支えを失ったブラドは私の前に膝をつく形になった。
その胸に手を回し、抱きしめる。
「……ありがと」
「いや。君は死なせてくれと言った。それを私は……」
「いいの。貴方が私を本当に助けようとしてくれたのはわかっているから」
「すまない」
「謝らないで。……でも、でも……お父様も街のみんなも死んでしまった……きっとハミルも……どうしよう、ブラド。私……私独りになっちゃったよ……」
ブラドの胸に顔をうずめたまま、私は泣き続けた。
彼は何も言わずに私をやさしく抱きしめてくれた。
「レミリア。君は独りじゃない。君は私たちの家族だよ」
◇◇◇◇◇
「なんて夢だよ……まったく」
毒づきながら紅茶を飲む。
口の中に広がる香りがイライラを少しだけ抑えてくれた。
今日の私は機嫌が悪い。
理由は言わずもがな、今朝の夢だ。
どうして今頃五百年も昔の夢を見るのか。
それだけならまだしも私が――!
パンッ!!
思い出したらまた腹が立ってきた。
おかげでお気に入りのティーカップがまた一つ砕けてしまったじゃないか。
「咲夜!」
名前を呼ぶと私の手にあったティーカップが別の物と交換されている。
中には淹れたての紅茶が湯気を立てていた。
なんて綺麗な紅。どうやら今回は混ざり物が少し多いらしい。
なかなか気が利くじゃないか。
それを飲もうと口をつけたとき……
――今日のお嬢様、ものすごく不機嫌でしたけど、何かあったんでしょうか?
――さあ?
――「さあ?」ってそんな……このままじゃ死人出ますよ?
――そうならないようにするのが貴方の役目でしょ。私はああなったレミィに付き合えるほど体力はないから。
――そ、そんな……私だって無理ですよ~。
「褒めた先から職務怠慢……これは再教育が必要ね」
吸血鬼の聴覚はこんな時とても便利だと思う。
こうやって憂さ晴らしの相手をすぐに見つけることができるんだから。
腑抜けている咲夜をどうしてやろうかと考えながらティーカップを置いて椅子から降りた時、私は気づいた。
幻想郷に来てから感じることのなかったもの。
そう、とても懐かしい吸血鬼の気配に。