あれからかなり長い距離を歩いたはずなのだが、二人の行く手に花園の切れ目はまだ見えていなかった。
いや、それどころか…
「はぁ、はぁ…ち、チルノちゃん…やっぱり…へんだよ…ずっと飛んでるのに、ぜんぜん景色が変わってない…」
「…ぐっ…ふう、ふう…それに、な、なんだか身体が重いよね…」
「はぁ、ふぅ…も、もうだめ…」
「あ、トリルっ!」
トリルの羽が先に力を失い、地面に落ちる。チルノも、慌ててその後を追って地面に降りた。
「ご、ごめんね…でも、羽、動いてくれないの…」
「なら、歩いてここを出るまでよ。ほら、起きてトリル。ここにじっとしてたらすごくマズイ気がするんだ…」
「…うん…っ!」
顔をしかめながらトリルは必死に立ち上がり、歩き出した。チルノがその後ろに続き、彼女を気遣う。
いつの間にか、そんな二人の周囲に白い霧が忍び寄り始めていた…。
「チルノー!トリルー!どこなのー?!いたら返事をして!」
万の花の色で輝く常世の花園をようやく視界に捉え、レティは必死に叫んだ。せめてあそこに入るのをやめて引き返してくれていたら…と、淡い希望を抱きつつ。
しかし、それはすぐにあっけなく打ち破られた。二すじの氷の妖気がその境界線を越えてしまっているのを、とうとう確認してしまったから。
「あの子達…どうしてこんな所に!」
背筋に冷たいものを、そして胸の中に焼けつくようなものを感じながら、彼女はためらうことなく妖気を追って花園の中へと突入して行った。
…瞬間、明らかに空気が変わったのを彼女は感じた。そこは、間違いなく罠の口の中だった。巧妙に隠されていて、あの小さな氷精達ではけして気付けないような、悪辣な罠の。
そして、大地を伝わって明らかな欲望が感じられていた…養分を求める欲望、つまりは食欲だ。その主が何者でどの辺りにいるのかはレティにさえ感じ取れていなかったが、その意思と見えない妖気が密やかに絡みつき、彼女の力を奪っているのははっきりと判っていた。
その考えと脱力感は、さしもの彼女からも冷静さを急速に奪って行った…いや、彼女自身のためではない。同じ罠により早く掛かっているはずの、二人の友達のために。彼女はもはや金切り声で再び叫んだ。
「チルノっ!トリルっ!出て来なさい!…お願いだから…返事をしてぇっ!」
彼女の周囲にも立ち込め始めた霧の中、声は空しく弾き返される。返事も、誰かの動く気配もなかった。
そして、気持ちだけが先走る中、頭上の太陽は無情に傾き続け、時間は経過し続けて行く。
柔らかな草の中にはいつしか棘ある草花が混じり込み、二人の氷精の柔らかな足を引き裂いて行った。逃れるために空に舞おうにも、力の消耗があまりに激しく、羽は思うように言うことを聞いてくれない。
そして、傷から血が流れ出し、草の毒が忍び込むにつれて足はなお重く鈍り、霧の真っ白な闇は道をどこまでも長く感じさせ、重くのしかかる空気は残酷に心臓を食い荒らして行く。
一体感覚ごと失われた時間の中でどれだけ歩いただろうか。トリルの膝が急にがくんと折れ、その身体が傾いた。その倒れる先には、獲物を求める鋭い薔薇の棘が牙を剥き…間一髪、細い腕がそれを慌てて押し留める。
「わっ…と…トリル…!…うー…ん…!…はぁ、はあ…大丈夫…?」
眉をきつくしかめながら何とか彼女の身体を引っ張り上げたチルノに、トリルは顔をくしゃくしゃにして答えた。
「はぁ、はぁ…ダメだよ、チルノちゃん…足がぜんぜん動かなくなっちゃったの…。…チルノちゃん一人ならまだ帰り切れると思うから、私のことは置いてって…お願い…」
すると、チルノは…何も言わずに、そのままトリルを背負い上げて歩き出した。増えた重量により、足を苛む棘の刃がさらに深く肉を切り裂いたが、彼女は歯を食いしばって不敵な笑顔を浮かべた…ひどくこわばってはいても。
「ち、チルノちゃん…!ダメだよ…!」
「だーいじょうぶ、まだまだ全然へいちゃらだよ。だてに魔力強くないって。それに、あたいは紅魔湖の親分だもん。親分は子分を置いてなんて行かないもんよ」
その答えを聞いて、トリルはチルノの背中にそのまま顔を埋め、肩を小刻みに震わせ出した。
「ごめん…ごめんね、チルノちゃん…私があんなこと聞いて来なければこんなことにならなかったのに…!」
チルノは、手を回すとそのトリルの背をぽんぽんと叩いた。
「ここならあるって言ったのはあたいだし、きっと大丈夫だからって来ることにしたのもあたい。でもトリル、ついて来てくれて…こっちこそ謝りたくて仕方がなかったのよ。…もう泣かないで…あたいが悪かったんだもん」
そして、再び歯を食い縛ってチルノは歩き出した。少しづつ少しづつ、いらいらするようなペースで彼女は進んで行った。足を血まみれにしながらも、得体の知れない脱力感に抗って歩き続けた。
…だが、一つの石が彼女に止めを刺した。限界まで張り詰めていた足にとって、その石につまづいたことは致命的だった。
「きゃっ?!」
ずしゃっと重い音を立てて、二人の体が地面にもつれ合いながら倒れ込む。そして、今度はチルノも立ち上がれなかった。
「この、この!動けったら、このバカ足…!」
彼女は自分の足を拳でがんがんと叩いたが、それでも足は言うことを聞きはしない。気が一度張り詰めてから切れた時ほど、体が主に従わない時はないのだ。
「…ぐすっ…チルノちゃあん…」
そんな彼女の肩にしがみついて、トリルは身体を小刻みに震わせながら泣いていた。その涙のぬくもりが、彼女の揺らぎかけた闘志を再び燃え立たせる。
「くそ、負けるもんかあ…!」
地面に爪を立て、せめて足を突っ張り、身体をひきずって進む。青い服が湿った土でどろどろに汚れ、手も足も擦り傷だらけになりながら、それでも彼女は前を見据えていた。
しかし、手のひらを茨の棘が引き裂いた瞬間、さしもの彼女の口からもぽつりと弱気が言葉となって洩れ出した。
「っつ…!…レティ…」
かすかな予感めいたものに突き動かされ、レティは鋭く右手を振り向いた。蜘蛛の糸よりも細く頼りなげなその一瞬の感覚を必死に辿る。
…根拠は何も見当たらなかった。しかし、それでも彼女は考えるよりも先にそちらへと突き進んでいた。
まとわりつく霧から感じる惑いの力を残った力を振り絞って退け、地に根を下ろす花園に完全に支配されることはない空の風を必死に頼って一目散に飛翔した。
すると、彼女の視界に地面を這う青と翠が…今はけして間違うことのない、チルノとトリルの色が飛び込んだ。
「チルノーッ!トリルーッ!」
張り裂けんばかりに彼女が声を張り上げると、チルノがはっと顔を上げた。
「…呼んだとたんに声が聞こえるなんてね…幻覚かな。あたいもそろそろヤバイのかな…」
「でも…あたしにも聞こえたよ、チルノちゃん…」
荒い息で話す二人の前に、レティが降り立つ。その顔が緩み綻び、双眸にうっすらと涙が滲んだ。
「ようやく見つけたわよ…もう、悪い子達。危ない場所に入っちゃって…!」
気がつけば、レティは二人を思い切り抱きしめて頬を擦りつけていた。
「…えと…本当に、レティなの…?」
少し早く茫然自失の状態から醒め、トリルが問い掛けた。レティは涙を拭いながら微笑み、二人に肩を貸して立ち上がらせた。
「色々あるけど…後にしましょう。まずはここから出ないといけない」
「レティ、出口わかるの?」
チルノが目を丸くしてそう言うと、レティは周囲の花園を厳しい視線で見回した。
「この霧のせいで迷っているだけよ。これを消せばすぐに出られるわ。…そして、ようやく判ったの。この霧を出しているのも、私達の力を押さえ込んでいるのも同じもの…この花園そのものなのよ」
「花園?」
「植物の妖怪でもいるの?」
「いいえ」
レティはきっぱりと首を振り、
「花園に入ったものを甘い香りで眠らせて、気付かせることすらなくゆっくりと殺して…そうやって、この花園は養分を得てきたのよ。常世の花園とはよく言ったものだわ。私も、もう少しこのままでいたら危ない。…でもね、私は冬。花は冬に遭えば安らかに眠るもの。だから…おやすみなさい」
そして、空を向いて瞑目し、彼女は冬の風のような澄み切った声で歌い出した。どこまでも優しくて、同じくらい残酷な冬の告げ歌を。
それに合わせて冷気が立ち込め、周囲の霧がダイアモンドダストとなってきらきらしく輝き始め、花々には霜が降りて行った。
冷たい風の中、花々は少しの間抵抗するように揺れていたが、やがて全て頭を垂れた。そして、霧はもはや全て氷の粒となって地に落ち、声もなく見守るチルノとトリルの視線の先に、そう遠くない所に花園の切れ目が見えていた。レティは目を開くと、二人に笑いかけた。
「さあ…早く出ましょう。何とか眠らせたけれど、冬はもうほとんど終わっていたから…もたついていると、すぐに目を覚ましてしまうわ」
残った力を時ならぬ冬の歌に振り絞り、彼女の身体は地面に崩れ落ちる寸前だった。…しかし、幼い二人とは違って、それを押し隠す表情は完璧だった。
これが本当に最後の、ほのかに胸の奥に灯った力を全て呼び起こすと、レティは二人を肩にかつぐようにして真っ直ぐに飛んだ。飛んで飛んで、そしてとうとう境界線を越え、その近くの危険な範囲も越え…その瞬間、自分の中で決定的ななにかが砕け散ったのを彼女は感じた。
冬の妖精達はもう、風に乗って空へ還り始めていた。その中で最後まで地上に残っていたエリスの目の前に、ふとひとひらの雪が舞い降りた。
彼女は、ゆっくりと、ゆっくりと舞い落ちるそれをただ静かに見つめ続け…それが地に落ちて消えると、そっと囁いた。
「…さよならみたいね、レティ。願わくは、あなたの後悔が喜びに変わっていますように。そして…」
そこまで言うと首を振り、彼女は地面をとんと蹴って、空へ向かう風にその身を躍らせた。上空でひと滴の水が凍り、もうひとひらの雪となって、最後の冬と共に再び地面に降りて行った…。
レティはゆっくりと地面に降り、二人を降ろした。
「ここまで来ればもう大丈夫。あとは、休めばすぐに力も回復するわよ」
二人にそう告げると、彼女は大きく息を吐いて傍らの木にもたれかかった。
「ねえ、レティ…どうして来てくれたの?」
その傍に寄って、チルノが問いかけた。レティは、苦しい息を抑えてゆっくり答える。
「本当に妖精っぽくなくて、馬鹿だったのは私だったからよ。…あの時怒ったのは、全然うっとうしいからなんかじゃなかった。ただ、そうして自分を騙して…そしてあなた達に怒りをなすり付けた。とても卑怯だった…どうしても、謝りたかったの」
「ううん、そんなのどうでもいいよ!そうだ…これ!」
「…?」
チルノが懐から大事に取り出したのは、ひと綴りの青い花輪だった。
「これは…?」
「忘れな草の花輪よ」
「…私が聞いて来たの」
花を見つめるレティに、トリルが横から言葉を注ぎ足した。
「友達の魔女と話してたときに、たまたま教えてもらったの。忘れないためのおまじない…忘れな草の花で冠を作って、忘れてしまいそうな人の頭に載せるんだって」
レティは、少しの間その言葉の意味を考えた。まるで脳髄が麻痺したかのように、その意味への理解は遅かった…そして、不意に理解出来た瞬間、ハンマーで頭をひっぱたかれたような衝撃が走った。
そうだ…本当に、いつもいつも、呆れるくらいこの子達はバカだった。バカなくらい、いつだってまっすぐだった。
「…!じゃあ、あなた達、私にこれをくれるために…!?」
「…冬に花が見つかるとこなんて、あそこしかなかったから…」
二人が申し訳なさそうに言うのを聞いていたのかいなかったのか…レティの冬空の色の瞳からぽろぽろと涙が雨のように落ち、彼女は震える手を花輪へと伸ばした。…そして。
「ごめんね、こんな迷惑かけちゃ…レティッ?!」
掴もうとしたその指が、輪に触れるなり音もなくふわりと崩れ、銀色の輝きとなって散り始めた。トリルの言いかけた言葉が悲鳴に変わる。
レティは、崩れる指に構わず手を伸ばして花輪を掴もうとしたが、さらさらと、まるで砂の人形が崩れるように両手は先から崩れ去って行く。
「あ、あぁ…」
もう手が全て崩れ去ってしまっているのに、それでも彼女は必死に残った腕だけを伸ばそうとし…それを懸命にチルノが止めた。
「もうやめて、レティ!どんどん崩れてっちゃうよ…そんなのいいから、早く…ええと…そうだ、あの紫もやしのとこへでも…!」
その金切り声に、弾かれたようにびくんと身体を震わせ、レティはゆっくりともう手のない腕を自分の顔の前に掲げ、静かに見つめた。
そして、いきなり…あろうことか…微笑みを浮かべた。
「どうやら、もう時間はないみたいね。冬は終わった…そして、春が来る。だから、私も去らなきゃいけない」
「そんな、レティッ!お願いだよ、もっといてよ!あたいだって言いたいこと一杯あるんだよお!」
「レティ、まだこんなに寒いじゃない!冬はまだ終わってないよっ!」
必死に呼びかける二人の愛しい妹分達の額に、レティはそっと顔を近づけ、優しくくちづけた。そんな間にも、身体の崩壊は容赦なく進んでいて…二人を抱きしめようと伸ばしかけた自分の腕がもうないのに気付き、彼女はほんの少し残念そうに目を伏せた。
「…ねえあなた達、私の最後のお願いよ…その冠を私の頭に載せてちょうだい。私は忘れていた…記憶がなくとも、忘れないものはある。残したものだけが、残るものじゃない。大地へ染み込んだ水は川となり、川は空へ上って雲を生み、雲から新しい雪が降る。それは違う雪だけれど、でも、前の雪そのもの。冬の妖精に以前の記憶はないけれど、以前の想いはいつだってその御霊に受け継がれて行くの。…だから、想い出の方を私が忘れたりしないように、そのおまじないを二人で私にしてちょうだい」
二人の氷精は、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしてぶんぶんと頷いた。
「ぐずっ…わかったよぉ、レティ…」
「えぐ…私たちも、絶対忘れたりしないから…」
そっと花輪が持ち上げられ、レティの頭に注意深く載せられた。その瞬間、彼女の双眸から、またふた筋の涙が流れ落ちる。
もう彼女は手も足も崩れ、胴体の半ばから上だけの姿になっていたが…その姿は悲惨ではなく、どこか清々しくすらあった。
穏やかな微笑みをたたえたまま、彼女はそっと目を閉じる。しゃくり上げながらも、チルノとトリルは彼女を静かに見送っていた。
「ねえレティ…あたい達のことを覚えてなくたっていいよ。来年もきっと見つけるから…またいっしょに遊ぼうね!」
「次の冬まで、ずっとずっと私達待ってるからね!新しいレティと、きっと友達になるから!」
しかし、レティには分かっていた。帰るべき時に帰れず、しかも全ての力を使い果たしてしまった彼女は、きっともう「レティ・ホワイトロック」として生まれることはないという事を。彼女であったものは全てほどけて大地と空に散り、もしかしたら別の冬にも溶け込むかもしれないが、同じ形と心を持った妖精となることは決してあり得ない定めだった。
「…うん」
だから、彼女は嘘をついた。初めての、そして優しい嘘を。
「次は幻想郷のどこが担当になるか判らないけどね…でも、いつかきっと会えるわよ」
そして、彼女はただ一心に空と大地に祈った。
(どうか、あの子たちのために、妖精の私にも小さな嘘をお許し下さい。そして、きっと素敵な友達が来年のあの子達に出来ますように。…幻想郷よ、今まで勤めを果たして来た冬の娘の願いを、一度だけ…たった一度だけ、どうか聞き届けてください…)
「…どうか、あなた達が幸せでありますように。お休みなさい…チルノ、トリル」
その言葉を発した瞬間、最後に残った胸と顔が崩れ去り、青い冠が地面にぱさりと落ちた。
止まることなく落ちる涙が彼女のあった場所を濡らし続け、泣き声は彼女を運び去った風を震わせ続けていた。
…ああ、私はなんて幸せだったのだろう。
いや、それどころか…
「はぁ、はぁ…ち、チルノちゃん…やっぱり…へんだよ…ずっと飛んでるのに、ぜんぜん景色が変わってない…」
「…ぐっ…ふう、ふう…それに、な、なんだか身体が重いよね…」
「はぁ、ふぅ…も、もうだめ…」
「あ、トリルっ!」
トリルの羽が先に力を失い、地面に落ちる。チルノも、慌ててその後を追って地面に降りた。
「ご、ごめんね…でも、羽、動いてくれないの…」
「なら、歩いてここを出るまでよ。ほら、起きてトリル。ここにじっとしてたらすごくマズイ気がするんだ…」
「…うん…っ!」
顔をしかめながらトリルは必死に立ち上がり、歩き出した。チルノがその後ろに続き、彼女を気遣う。
いつの間にか、そんな二人の周囲に白い霧が忍び寄り始めていた…。
「チルノー!トリルー!どこなのー?!いたら返事をして!」
万の花の色で輝く常世の花園をようやく視界に捉え、レティは必死に叫んだ。せめてあそこに入るのをやめて引き返してくれていたら…と、淡い希望を抱きつつ。
しかし、それはすぐにあっけなく打ち破られた。二すじの氷の妖気がその境界線を越えてしまっているのを、とうとう確認してしまったから。
「あの子達…どうしてこんな所に!」
背筋に冷たいものを、そして胸の中に焼けつくようなものを感じながら、彼女はためらうことなく妖気を追って花園の中へと突入して行った。
…瞬間、明らかに空気が変わったのを彼女は感じた。そこは、間違いなく罠の口の中だった。巧妙に隠されていて、あの小さな氷精達ではけして気付けないような、悪辣な罠の。
そして、大地を伝わって明らかな欲望が感じられていた…養分を求める欲望、つまりは食欲だ。その主が何者でどの辺りにいるのかはレティにさえ感じ取れていなかったが、その意思と見えない妖気が密やかに絡みつき、彼女の力を奪っているのははっきりと判っていた。
その考えと脱力感は、さしもの彼女からも冷静さを急速に奪って行った…いや、彼女自身のためではない。同じ罠により早く掛かっているはずの、二人の友達のために。彼女はもはや金切り声で再び叫んだ。
「チルノっ!トリルっ!出て来なさい!…お願いだから…返事をしてぇっ!」
彼女の周囲にも立ち込め始めた霧の中、声は空しく弾き返される。返事も、誰かの動く気配もなかった。
そして、気持ちだけが先走る中、頭上の太陽は無情に傾き続け、時間は経過し続けて行く。
柔らかな草の中にはいつしか棘ある草花が混じり込み、二人の氷精の柔らかな足を引き裂いて行った。逃れるために空に舞おうにも、力の消耗があまりに激しく、羽は思うように言うことを聞いてくれない。
そして、傷から血が流れ出し、草の毒が忍び込むにつれて足はなお重く鈍り、霧の真っ白な闇は道をどこまでも長く感じさせ、重くのしかかる空気は残酷に心臓を食い荒らして行く。
一体感覚ごと失われた時間の中でどれだけ歩いただろうか。トリルの膝が急にがくんと折れ、その身体が傾いた。その倒れる先には、獲物を求める鋭い薔薇の棘が牙を剥き…間一髪、細い腕がそれを慌てて押し留める。
「わっ…と…トリル…!…うー…ん…!…はぁ、はあ…大丈夫…?」
眉をきつくしかめながら何とか彼女の身体を引っ張り上げたチルノに、トリルは顔をくしゃくしゃにして答えた。
「はぁ、はぁ…ダメだよ、チルノちゃん…足がぜんぜん動かなくなっちゃったの…。…チルノちゃん一人ならまだ帰り切れると思うから、私のことは置いてって…お願い…」
すると、チルノは…何も言わずに、そのままトリルを背負い上げて歩き出した。増えた重量により、足を苛む棘の刃がさらに深く肉を切り裂いたが、彼女は歯を食いしばって不敵な笑顔を浮かべた…ひどくこわばってはいても。
「ち、チルノちゃん…!ダメだよ…!」
「だーいじょうぶ、まだまだ全然へいちゃらだよ。だてに魔力強くないって。それに、あたいは紅魔湖の親分だもん。親分は子分を置いてなんて行かないもんよ」
その答えを聞いて、トリルはチルノの背中にそのまま顔を埋め、肩を小刻みに震わせ出した。
「ごめん…ごめんね、チルノちゃん…私があんなこと聞いて来なければこんなことにならなかったのに…!」
チルノは、手を回すとそのトリルの背をぽんぽんと叩いた。
「ここならあるって言ったのはあたいだし、きっと大丈夫だからって来ることにしたのもあたい。でもトリル、ついて来てくれて…こっちこそ謝りたくて仕方がなかったのよ。…もう泣かないで…あたいが悪かったんだもん」
そして、再び歯を食い縛ってチルノは歩き出した。少しづつ少しづつ、いらいらするようなペースで彼女は進んで行った。足を血まみれにしながらも、得体の知れない脱力感に抗って歩き続けた。
…だが、一つの石が彼女に止めを刺した。限界まで張り詰めていた足にとって、その石につまづいたことは致命的だった。
「きゃっ?!」
ずしゃっと重い音を立てて、二人の体が地面にもつれ合いながら倒れ込む。そして、今度はチルノも立ち上がれなかった。
「この、この!動けったら、このバカ足…!」
彼女は自分の足を拳でがんがんと叩いたが、それでも足は言うことを聞きはしない。気が一度張り詰めてから切れた時ほど、体が主に従わない時はないのだ。
「…ぐすっ…チルノちゃあん…」
そんな彼女の肩にしがみついて、トリルは身体を小刻みに震わせながら泣いていた。その涙のぬくもりが、彼女の揺らぎかけた闘志を再び燃え立たせる。
「くそ、負けるもんかあ…!」
地面に爪を立て、せめて足を突っ張り、身体をひきずって進む。青い服が湿った土でどろどろに汚れ、手も足も擦り傷だらけになりながら、それでも彼女は前を見据えていた。
しかし、手のひらを茨の棘が引き裂いた瞬間、さしもの彼女の口からもぽつりと弱気が言葉となって洩れ出した。
「っつ…!…レティ…」
かすかな予感めいたものに突き動かされ、レティは鋭く右手を振り向いた。蜘蛛の糸よりも細く頼りなげなその一瞬の感覚を必死に辿る。
…根拠は何も見当たらなかった。しかし、それでも彼女は考えるよりも先にそちらへと突き進んでいた。
まとわりつく霧から感じる惑いの力を残った力を振り絞って退け、地に根を下ろす花園に完全に支配されることはない空の風を必死に頼って一目散に飛翔した。
すると、彼女の視界に地面を這う青と翠が…今はけして間違うことのない、チルノとトリルの色が飛び込んだ。
「チルノーッ!トリルーッ!」
張り裂けんばかりに彼女が声を張り上げると、チルノがはっと顔を上げた。
「…呼んだとたんに声が聞こえるなんてね…幻覚かな。あたいもそろそろヤバイのかな…」
「でも…あたしにも聞こえたよ、チルノちゃん…」
荒い息で話す二人の前に、レティが降り立つ。その顔が緩み綻び、双眸にうっすらと涙が滲んだ。
「ようやく見つけたわよ…もう、悪い子達。危ない場所に入っちゃって…!」
気がつけば、レティは二人を思い切り抱きしめて頬を擦りつけていた。
「…えと…本当に、レティなの…?」
少し早く茫然自失の状態から醒め、トリルが問い掛けた。レティは涙を拭いながら微笑み、二人に肩を貸して立ち上がらせた。
「色々あるけど…後にしましょう。まずはここから出ないといけない」
「レティ、出口わかるの?」
チルノが目を丸くしてそう言うと、レティは周囲の花園を厳しい視線で見回した。
「この霧のせいで迷っているだけよ。これを消せばすぐに出られるわ。…そして、ようやく判ったの。この霧を出しているのも、私達の力を押さえ込んでいるのも同じもの…この花園そのものなのよ」
「花園?」
「植物の妖怪でもいるの?」
「いいえ」
レティはきっぱりと首を振り、
「花園に入ったものを甘い香りで眠らせて、気付かせることすらなくゆっくりと殺して…そうやって、この花園は養分を得てきたのよ。常世の花園とはよく言ったものだわ。私も、もう少しこのままでいたら危ない。…でもね、私は冬。花は冬に遭えば安らかに眠るもの。だから…おやすみなさい」
そして、空を向いて瞑目し、彼女は冬の風のような澄み切った声で歌い出した。どこまでも優しくて、同じくらい残酷な冬の告げ歌を。
それに合わせて冷気が立ち込め、周囲の霧がダイアモンドダストとなってきらきらしく輝き始め、花々には霜が降りて行った。
冷たい風の中、花々は少しの間抵抗するように揺れていたが、やがて全て頭を垂れた。そして、霧はもはや全て氷の粒となって地に落ち、声もなく見守るチルノとトリルの視線の先に、そう遠くない所に花園の切れ目が見えていた。レティは目を開くと、二人に笑いかけた。
「さあ…早く出ましょう。何とか眠らせたけれど、冬はもうほとんど終わっていたから…もたついていると、すぐに目を覚ましてしまうわ」
残った力を時ならぬ冬の歌に振り絞り、彼女の身体は地面に崩れ落ちる寸前だった。…しかし、幼い二人とは違って、それを押し隠す表情は完璧だった。
これが本当に最後の、ほのかに胸の奥に灯った力を全て呼び起こすと、レティは二人を肩にかつぐようにして真っ直ぐに飛んだ。飛んで飛んで、そしてとうとう境界線を越え、その近くの危険な範囲も越え…その瞬間、自分の中で決定的ななにかが砕け散ったのを彼女は感じた。
冬の妖精達はもう、風に乗って空へ還り始めていた。その中で最後まで地上に残っていたエリスの目の前に、ふとひとひらの雪が舞い降りた。
彼女は、ゆっくりと、ゆっくりと舞い落ちるそれをただ静かに見つめ続け…それが地に落ちて消えると、そっと囁いた。
「…さよならみたいね、レティ。願わくは、あなたの後悔が喜びに変わっていますように。そして…」
そこまで言うと首を振り、彼女は地面をとんと蹴って、空へ向かう風にその身を躍らせた。上空でひと滴の水が凍り、もうひとひらの雪となって、最後の冬と共に再び地面に降りて行った…。
レティはゆっくりと地面に降り、二人を降ろした。
「ここまで来ればもう大丈夫。あとは、休めばすぐに力も回復するわよ」
二人にそう告げると、彼女は大きく息を吐いて傍らの木にもたれかかった。
「ねえ、レティ…どうして来てくれたの?」
その傍に寄って、チルノが問いかけた。レティは、苦しい息を抑えてゆっくり答える。
「本当に妖精っぽくなくて、馬鹿だったのは私だったからよ。…あの時怒ったのは、全然うっとうしいからなんかじゃなかった。ただ、そうして自分を騙して…そしてあなた達に怒りをなすり付けた。とても卑怯だった…どうしても、謝りたかったの」
「ううん、そんなのどうでもいいよ!そうだ…これ!」
「…?」
チルノが懐から大事に取り出したのは、ひと綴りの青い花輪だった。
「これは…?」
「忘れな草の花輪よ」
「…私が聞いて来たの」
花を見つめるレティに、トリルが横から言葉を注ぎ足した。
「友達の魔女と話してたときに、たまたま教えてもらったの。忘れないためのおまじない…忘れな草の花で冠を作って、忘れてしまいそうな人の頭に載せるんだって」
レティは、少しの間その言葉の意味を考えた。まるで脳髄が麻痺したかのように、その意味への理解は遅かった…そして、不意に理解出来た瞬間、ハンマーで頭をひっぱたかれたような衝撃が走った。
そうだ…本当に、いつもいつも、呆れるくらいこの子達はバカだった。バカなくらい、いつだってまっすぐだった。
「…!じゃあ、あなた達、私にこれをくれるために…!?」
「…冬に花が見つかるとこなんて、あそこしかなかったから…」
二人が申し訳なさそうに言うのを聞いていたのかいなかったのか…レティの冬空の色の瞳からぽろぽろと涙が雨のように落ち、彼女は震える手を花輪へと伸ばした。…そして。
「ごめんね、こんな迷惑かけちゃ…レティッ?!」
掴もうとしたその指が、輪に触れるなり音もなくふわりと崩れ、銀色の輝きとなって散り始めた。トリルの言いかけた言葉が悲鳴に変わる。
レティは、崩れる指に構わず手を伸ばして花輪を掴もうとしたが、さらさらと、まるで砂の人形が崩れるように両手は先から崩れ去って行く。
「あ、あぁ…」
もう手が全て崩れ去ってしまっているのに、それでも彼女は必死に残った腕だけを伸ばそうとし…それを懸命にチルノが止めた。
「もうやめて、レティ!どんどん崩れてっちゃうよ…そんなのいいから、早く…ええと…そうだ、あの紫もやしのとこへでも…!」
その金切り声に、弾かれたようにびくんと身体を震わせ、レティはゆっくりともう手のない腕を自分の顔の前に掲げ、静かに見つめた。
そして、いきなり…あろうことか…微笑みを浮かべた。
「どうやら、もう時間はないみたいね。冬は終わった…そして、春が来る。だから、私も去らなきゃいけない」
「そんな、レティッ!お願いだよ、もっといてよ!あたいだって言いたいこと一杯あるんだよお!」
「レティ、まだこんなに寒いじゃない!冬はまだ終わってないよっ!」
必死に呼びかける二人の愛しい妹分達の額に、レティはそっと顔を近づけ、優しくくちづけた。そんな間にも、身体の崩壊は容赦なく進んでいて…二人を抱きしめようと伸ばしかけた自分の腕がもうないのに気付き、彼女はほんの少し残念そうに目を伏せた。
「…ねえあなた達、私の最後のお願いよ…その冠を私の頭に載せてちょうだい。私は忘れていた…記憶がなくとも、忘れないものはある。残したものだけが、残るものじゃない。大地へ染み込んだ水は川となり、川は空へ上って雲を生み、雲から新しい雪が降る。それは違う雪だけれど、でも、前の雪そのもの。冬の妖精に以前の記憶はないけれど、以前の想いはいつだってその御霊に受け継がれて行くの。…だから、想い出の方を私が忘れたりしないように、そのおまじないを二人で私にしてちょうだい」
二人の氷精は、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしてぶんぶんと頷いた。
「ぐずっ…わかったよぉ、レティ…」
「えぐ…私たちも、絶対忘れたりしないから…」
そっと花輪が持ち上げられ、レティの頭に注意深く載せられた。その瞬間、彼女の双眸から、またふた筋の涙が流れ落ちる。
もう彼女は手も足も崩れ、胴体の半ばから上だけの姿になっていたが…その姿は悲惨ではなく、どこか清々しくすらあった。
穏やかな微笑みをたたえたまま、彼女はそっと目を閉じる。しゃくり上げながらも、チルノとトリルは彼女を静かに見送っていた。
「ねえレティ…あたい達のことを覚えてなくたっていいよ。来年もきっと見つけるから…またいっしょに遊ぼうね!」
「次の冬まで、ずっとずっと私達待ってるからね!新しいレティと、きっと友達になるから!」
しかし、レティには分かっていた。帰るべき時に帰れず、しかも全ての力を使い果たしてしまった彼女は、きっともう「レティ・ホワイトロック」として生まれることはないという事を。彼女であったものは全てほどけて大地と空に散り、もしかしたら別の冬にも溶け込むかもしれないが、同じ形と心を持った妖精となることは決してあり得ない定めだった。
「…うん」
だから、彼女は嘘をついた。初めての、そして優しい嘘を。
「次は幻想郷のどこが担当になるか判らないけどね…でも、いつかきっと会えるわよ」
そして、彼女はただ一心に空と大地に祈った。
(どうか、あの子たちのために、妖精の私にも小さな嘘をお許し下さい。そして、きっと素敵な友達が来年のあの子達に出来ますように。…幻想郷よ、今まで勤めを果たして来た冬の娘の願いを、一度だけ…たった一度だけ、どうか聞き届けてください…)
「…どうか、あなた達が幸せでありますように。お休みなさい…チルノ、トリル」
その言葉を発した瞬間、最後に残った胸と顔が崩れ去り、青い冠が地面にぱさりと落ちた。
止まることなく落ちる涙が彼女のあった場所を濡らし続け、泣き声は彼女を運び去った風を震わせ続けていた。
…ああ、私はなんて幸せだったのだろう。