―――風が吹く。鄙びた神社の裏手から。
―――風が吹く。魔力を秘めた木々の合間をぬって。
―――風が吹く。紅き館の門前を。
―――風が吹く。西行妖と呼ばれし桜の枝を揺らし。
―――風が吹く。迷ヒ家の廊下を流れるように。
―――風が吹く。人間の住む里に涼をもたらし。
―――風が吹く。竹林にざわめきを残して。
―――風が吹く。外界の品々を並べる店の前を。
―――風が吹く。氷精の住まう湖の上を。
―――風が吹く。この世界のあらゆる所で。
『風という名の旅人』
博麗神社の巫女、博麗 霊夢はこの日も、のほほんと日本茶をすすっていた。
いつもの熱い日本茶ではなく、ぬるくなるまで置いておいた日本茶だが。
霊夢がそんな日本茶を飲むのには理由がある。
「あっついわねー……」
今日は真夏のそれを思い起こさせるほど暑い日である。こんな日に熱い日本茶を誰が好んで飲むものか。
季節は夏に移り行く時期とはいえ、今日の暑さは異常であった。
「あー。何か涼しくなる事、ないかしらねー」
日本茶の湯呑みを右へ置いて、ごろんと縁側の廊下に寝そべる。
その時。ちりん、ちりん、と風鈴が鳴り、僅かな風が霊夢の頬を撫でた。
「あら、風?」
今まで無風に近い状態だったので、風が吹くだけで涼しいと思えた。
風は裏の方から吹いているようだったが、そんな些細な事はどうでもよかった。
「んー。涼しいー」
思いっきり伸びをして、上体を起こす。
微弱ながらも絶える事無く吹く風に、霊夢は懐かしさを覚えた。
「何だろう……この感じ」
次第に風は弱くなり、風鈴の音もしなくなった。
右手で湯呑みを取り、ゆっくり息をついて、
「……何処から来て、何処へ行くのかしら」
霊夢はそう呟き、再び日本茶を口にする。
口にした日本茶は少しだけ、冷えているように思えた。
風は何事にも囚われず―――
霧雨 魔理沙。普通の魔法使いである。彼女の何処が普通なのか、という事に対しての詮索は野暮だ。
普通の魔法を扱える事が、普通の魔法使いたる所以なのだろう。……恐らく。
そんな彼女は今、
「暑いぜ、暑いぜ、暑くて死ぬぜ~」
……見事なまでにバテてながら、森の中を自らの家に向かってとぼとぼと歩いていた。
この時機のみ生えるという珍種のキノコを採りに、早朝から森の中に入ったのだが、
陽が出て気温が高くなるにつれ、彼女の黒を基調としたエプロンドレスが熱を吸収して止まないので、やむなく自宅への撤退を余儀なくされた次第である。
「……あー。まだ初夏だってのに、何でこんな暑いんだ?」
誰に言うでもなく、愚痴るように魔理沙は言葉をこぼす。左手に持つ竹で編まれた篭には、何も入っていないところを見ると、
収穫はゼロだったのだろう。骨折り損のくたびれ儲け、というやつである。
「帰ったらなんか冷たい水でも飲むか……」
垂れ下がったトレードマークの黒い帽子をしっかりとかぶりなおし、ふっ、と気合を入れて歩を進める。
そんな折、一筋の風がふわっと魔理沙の背後から吹き抜ける。
「風、か―――」
たった一筋だけの風だったが、それは魔理沙の勝負心に火を付けるのには充分だった。
「風と勝負か―――うん、悪くないな」
いつの間にか、右手には箒が握られている。
「リードこそ許しちまったが、負けはしないぜ!」
魔理沙は箒にまたがると、音速機の如く飛行を開始した―――。
風は留まる事を知らず―――
紅魔館の門前には、一年中365日、門番という職を与えられた者がいる。
この日も例外ではなく、こんな炎天下の陽射しの中で愚痴もこぼさず、淡々と職務をこなしていた。
名を中国と言う。
「……中国じゃありませんよぅ」
捻くれた口調で、中国と呼ばれし者は空へ言葉を投げる。
「……? 貴女、誰に言っているの?」
中国(仮)が後ろを向くと、怪訝そうな顔で一人のメイドが立っていた。
「あ、咲夜さん? 今、誰かが私の事を中国って言ったんですよ~」
十六夜 咲夜。紅魔館のメイド長にして、この館を切り盛りする存在である。
「幻聴よ。美鈴」
「それならいいんですけど……」
はぁ、と溜息をつく中国こと紅 美鈴。よほどそう呼ばれる事に抵抗を感じるのだろうか。
「暑さにやられたのかしら? それなら、休憩も兼ねて冷たいモノでも摂らない?」
「え? でも、私はまだ仕事が―――」
「たまには部下に任せたっていいでしょう? 大丈夫。何かあったら責任は私がとるわ」
「そうです! 隊長は働きすぎです!」
「たまには仕事を任せてください! 私たちだってそこそこは務められます!」
「隊長のお身体の心配をするのも、我々の仕事です!」
何時の間にか、周りには美鈴の部下達が集まっていた。
「で、どうするの?」
答えは既に決まっている。
「はいっ! 喜んで!」
風が吹き、美鈴の紅い髪が静かに揺れた。
空という大海を、風は泳いでいく―――
冥府、白玉楼。亡霊嬢である西行寺 幽々子とその庭師、魂魄 妖夢の住む邸である。
この日は冥界でも暑いのか、幽々子は殆ど無気力状態。妖夢は気合を五回ほど使用して、いつもの状態を保っているようである。
「暑いわね、妖夢」
ぐてー、と居間でノビている幽々子が気だるそうに、妖夢に話し掛ける。
「幽々子様、我慢してください。私なんて半分は人間なんですから、完全な亡霊より暑いと感じるんです」
台所で漬物の熟成具合を見ている妖夢は、少々嫌味っぽく主へ言葉を返す。
「そうねぇ……。うん、心頭滅却するのよ妖夢。そうすれば自ずと涼しくなるわ」
「心頭滅却、ですか」
意外な言葉が出るものだな、と妖夢は思った。大抵こういう時は、自分に向かって無理難題が出されるからだ。
「善は急げ、早速実行に移しましょ、妖夢」
「はい、わかりました」
二人は居間に二つの座布団を用意し、その上に正座で座って目を伏せた。
~少女心頭滅却中~
「…………」
「…………」
「………」
「…………」
「……暑いわね、妖夢」
「十秒も経っていませんよ! 少しは忍耐という言葉を覚えてください!」
がぁー、という声が聞こえてきそうな表情で、妖夢は幽々子に詰め寄る。
「いやいや妖夢。今のは単なる私の独り言よ」
「む……」
「それに、心頭滅却っていうのは心を静めるという意味も含まれているのよ。こんな些細な事にいちいち腹を立てていたら、いつまで経ってもこの暑さを涼と感じる事は出来ないわ」
「……私が、未熟でした……」
頭を垂れる妖夢。まだまだ一人前には程遠い。
「いいのよ。じゃあ妖夢、水羊羹でも出してちょうだい」
「心頭滅却して涼を得るのではなかったんですか!?」
「ん~。ちょっと飽きちゃった」
二人の間に、乾いた風が吹いた。
風は何処からか吹き、何処へと去るのみ―――
マヨヒガ。八雲 紫とその式神たちの家である。
「藍さまー。暑いー」
「……確かに暑いな……」
紫の式神、八雲 藍とその式神、橙は揃いも揃ってダレていた。
自分の主は隙間にでも避難しているのか。朝から姿を見かけない。
珍しく寝ていないと思ったら、こうなる事を予期していたとでも言うのか。
ふと、藍の脳裏に浮かぶものがあった。
「橙、少し待っていろ」
それだけ言うと、藍は外へ出かけていった。
五分後……。
「待たせたな、橙。少々探し出すのに手間がかかってな」
「藍さまー。それ何?」
橙は藍の抱えている物に興味を惹かれている。
「ん、これか? そうか、橙はまだ着る機会が無かったな」
藍は抱えている物を床におろすと、丁寧に広げ始めた。
そして現れたのは、二着の浴衣だった。一着は大きめで、青を基調とした色合い。
もう一着は小さめで、赤を基調とした色合いの物だった。
「藍さま……これ……」
「いつか橙の為にと思ってな。私の着るものと合わして作っておいた物だ」
藍は青い浴衣を手にすると、
「さ、着替えるぞ。これで少しは涼しくなるだろう。後は、井戸水で西瓜でも冷やして食べようか」
満面の笑顔で、橙に赤い浴衣を手渡した。
「藍さま……ありがとう」
「気にするな。お前は、私の大事な式神なのだから」
今日も、世界の何処かで風が吹く―――
上白沢 慧音は今日も人間の里にある自宅で、この里の歴史を書き綴っていた。
半人半獣という種族にありながら、人間が好きだという至極単純明快な理由で、常に慧音は人間側の立場に立っている。
筆を置くと、慧音は足を崩しながらゆっくりと立ち上がる。
―――今日は、ここまでで良いだろう。
昼食の材料を揃えるために、慧音は市場へと足を向けた。
目当ての物はすぐに揃い、慧音が自宅への帰り道を歩いていた時。
「けいねさまー」
里の子供の一人が、慧音にぱたぱたと駆け寄ってきた。
「ん、どうした?」
「あのね、おかあさんがこれをけーねさまに、って」
「―――?」
疑問を浮かべつつ、子供から渡された包みを開く。そこには五つのよく冷えた器が。
「これは―――寒天か」
「うん。おかあさんがつくったの」
「そうか、ありがたく頂戴しよう」
ふむ、と慧音は思案顔をすると、
「……良かったら、一緒に食べないか?」
「いいの?」
「勿論だ。一人で食べるより、二人で食べた方が美味しいだろう?」
「でも……」
躊躇する子供の背中を後押しするように、慧音は次の言葉を紡いでいく。
「それに、お前も食べたいだろう? 冷たいものを」
子供はその言葉で、自分の答えを決めた。
「……うん。たべたい」
「決まりだな。では、私の家で食べるとしよう」
「おいしかったね。けーねさま」
「ああ、美味しかった。こんなに美味しいものを作ってくれる母親がいるのだから、お前は幸せ者だな」
慧音と子供は寒天の入っていた器を空にして、共に笑みを浮かべた。
その時、風が慧音と子供の身体を吹き抜けていく。
「けーねさま。すずしいね」
「ああ、涼しいな」
慧音も子供も、吹き去った風の余韻を味わっていた。
それは歴史にも残ることの無い、風の記憶―――
人間の里から十里ほどの距離にある竹林。
翠嵐の言葉がよく似合うこの竹林には、不老不死の存在である藤原 妹紅が居を構えている。
「暑いわね……全く、不老不死になっても、こういう感覚は残っているんだから堪ったモンじゃないわ」
愚痴をこぼしながら、妹紅は右手に持った団扇で顔を扇ぐ。
何百回もの夏を経験しているが、毎回毎回こういった暑い日は、妹紅にとっても辛いものであった。
同じ不老不死の存在である蓬莱山 輝夜に殺される時の痛覚よりもマシな方ではあったが。
「……今年もまた、肝試しとか言って来るんじゃないかしら」
妹紅はそう思わずにいられなかった。
去年、人間と妖怪の二人一組の不可思議な組合せによる、『肝試し』がこの竹林において行われた。
その結果、妹紅は魔砲で吹っ飛ばされたり、全身にナイフが刺さりまくったり、刀でたたっ斬られたりと散々な目に遭った。
「……ま、こんな存在になってしまったんだし、仕方ないか」
妹紅の言葉に呼応するかの如く、風が何処から吹き始める。
ざわざわ……。ざわざわ……。
笹の葉が擦れ合うざわめきが、細波のように妹紅の耳に残った。
風は絶える事無く世界を巡る―――
香霖堂。幻想郷の外に存在する外界―――つまり、人間界の品物を主に扱う店である。
この店の主―――森近 霖之助は扇風機なるもので涼を得ながら、よく冷えた炭酸水を口にしている。
「なるほど、これは快適なものだ」
外の猛暑もこの店内には関係ないのか、霖之助は涼しげな顔をしている。
「外の世界の魔法はやはり進んでいるな。こんな楽に風を生み出す事が出来るのだから」
恐らく、今日の幻想郷で人間にとって一番快適な環境はこの店であろう。
「ん?」
ふと、霖之助の目に妙なものが止まった。
扇風機のスイッチの中に『最強』と刻まれたスイッチがあったのだ。
霖之助は未知の品の名前と使用用途が判る程度の能力を持ってはいるが、詳細な面については知る事が出来なかった。
「最強―――」
どういう意味だ? 霖之助の脳内がヂヂヂと音を立てて、目前の言葉の意味を理解しようとする。
結論―――押してみれば分かるだろう。その行為が、最悪の結果を招くとも知らず。
「ポチっとな」
と軽く霖之助はスイッチを押した。
次の瞬間。
ブウウウウウウウウウウウウウウウウンンンン!!!!!!!!!
扇風機は最強、という言葉に相応しいほどの回転を始め、疾風怒濤の言葉そのままに突風を生み始めた。
その風量は凄まじく、店内は品物が生き物のように飛び交わるほどであった。
ちなみにスイッチを押した霖之助は、壁に頭から突っ込んで気絶。情けない限りである。
その後、扇風機は自ら生み出した風に乗って、何処かへ飛んでいってしまったとか。
激しい濁流の如く、時には小川のせせらぎの如く、風の勢いは変化する―――
紅魔館の目前に広がる湖。この湖には一人(?)の有名な妖精が住んでいる。
名前は……えーと、⑨?
「違うっ!!」
怒声が湖面の上に響く。
「あたいはチルノ! 湖上の氷精ッ!! 断じて⑨なんかじゃない!!!」
握り拳を震わせながらわめく⑨―――否、チルノ。
「大体、何であたいが最近、⑨とかバカとか呼ばれるようになったのよ!」
自分で凍らせた湖の氷をガリガリとかじりながら、誰に話すわけでもなく、チルノはボヤく。
「……あたいにだって名前があるんだから、ちゃんと名前で呼んで欲しいな……」
掌に残った氷をぽいっと投げる。少し時間が経った後、ちゃぽんという音を残して、湖は再び静かになった。
氷精はふわふわと、湖面の上に浮かんでいる。その瞳からは、何処か儚い感じを感じ取る事ができた。
「……やめやめ。こんなせんちめんたるになるなんて、あたいらしくないわ」
頭を振って、両手をぐっ、と握りこむ。
「よーし、なら今日も新しい技を編み出してやるんだから!」
勢いよく、氷精の周りを冷風が包み込む―――
風は何者にも属さない。未来永劫―――
風。それは永遠の旅人。
風。それは世界の傍観者。
風。それは一にして万の存在。
今日は今日の風が吹く。ならば明日はどうだろうか、それは風のみが知っている。
一人だけ楽をしつつも間抜けな霖之助が新鮮でした。
あと、「住もう」は「住まう」じゃないでしょうか?
ただ一つ、
藤原妹紅は妹"江"では無くて妹"紅"かと…。
>「住もう」は「住まう」じゃないでしょうか?
キー入力ミスです。すいませんでした。というかそれぐらい気付け、自分。
>藤原妹紅は妹"江"では無くて妹"紅"かと…
永夜抄のキャラ設定を読み直してみたところ、正にその通りでした。これは完全に自分の勘違いでした。申し訳ありません。
読んでる方の気持ちもいいかんじで涼しくなりました。
おみごと。