気が付くと、私は寝そべっている状態であった。何故寝ていたのかはサッパリ分らないが、とりあえず急いで起き上がった。
今まで寝ていた足元を見てみると、何か花瓶が割れたような破片が散乱していた。このままにしておくと危険なので拾い集める事にしたが、何故私の近くにこんな物が散乱しているのか、まるで心当たりがなかった。
ふと、頭が何やら痛いのに気が付く。頭に手を当ててみると、おでこと後頭部辺りにコブが出来ていた。しかしいつ出来たのかもまた、心当たりが無かった。
何やら合点がいかないことが多いので首を傾げていると、不意に誰かに話しかけられた。話しかけられて初めて近くに人がいることに気が付いた。
後ろに向き直ると何やら顔面蒼白な赤髪でどこかの民族衣装のような服を着ている少女と、ただならぬ事が起きたという感じで周囲を見回している金髪で何故か羽が生えている、隣の赤髪の少女よりも幼く見える少女がいた。
何やら必死に赤髪の少女が取り繕うとして色々と言って来るが、そもそも取り繕われるような事をされた覚えはなかった。そして金髪の少女は私の事を必要以上に心配してくれているが、これまた心配される理由が分からなかった。
しかし、どうもこの二人の態度を見ていると私のことを知っているようだ。
「ねえ、貴方。貴方は私の事を知っているの。」
とりあえず、赤髪の少女に聞いてみた。
「あの、それって私の事は知らない人扱いって事ですか。」
一応、私は知らないので頷いた。
「違うんです。これは事故なんです。不可抗力だったんです。そりゃあ私がこっちに逃げたのが不味かったんですけど、妹様にぶっ飛ばされただけなんです。だから首だけは止めてください!!」
何やら赤髪の少女が変に拡大解釈をしていきなり土下座をしだし、金髪の少女が愛想笑いをしながら明後日の方を向いた。良く分からないが、とりあえず土下座を止めてもらう為に優しい言葉を選んで赤髪の少女を慰めたら、今度は二人して気味悪がられた。
その後も二人から何やら言われたが、全て合点がいかないものだった。そして、二人の言葉の中に度々ある人名が出てくる事に気が付いた。
「あの、咲夜さん。大丈夫ですか。どこか気分が優れないのですか。」
恐る恐るといった感じで、赤髪の少女が聞いてきた。また、咲夜という名が出てきた。
「ねえ、ひょっとして私の名前は咲夜って言うの。」
ここは率直に聞いてみることにしたが、二人は唖然とした表情で互いに顔を見合った。
私の目の前に、お嬢様と呼ばれていた何でもこの館の主である少女と不健康そうな紫色の髪の少女がいた。さっきの二人は、一人が私をこの部屋まで連れて来て、もう一人が不健康そうな少女を連れて来た。今は部屋の隅で大人しくしている。
「もう一度聞くわ、咲夜。本当に何も思い出せないのね。」
何度聞かれようとも思い出せないものは思い出せないので、頷くしかなかった。
目の前の二人が盛大に溜息をついて、困った顔をしながら何やら相談をしだす。
ねえ、パチェ。貴方の知識でどうにかならないの。記憶喪失を治すような薬とか術とか。
多分図書館のどこかにそんなことが書かれた本があるかもしれないけど、今は無理よ。洗脳系の薬だったら幾つか知っているけど、この際やっちゃう?
・・・そんな薬を咲夜に飲ました日にはどうなるか、分かっているわよね。
冗談よ。でも人間のメイドの記憶を元に戻す薬や術なんて本当に初めてだけど、上手く出来るかしら。まあ、頑張ってみるけど。でも、時間がかかるかもしれないわ。
・・・やっぱり止めておくわ。この前パチュの所の小悪魔が発狂して悶絶していたの、今思い出したわ。
酷いわ、誰しもたまには失敗する時があるのに。
じゃあ、どうする気なの。そう言えば八意永琳の薬の腕は確かよ。
得体の知れない宇宙人の力を借りたくないわ。私の大事な咲夜にもしもの事があったらどうするの。
・・・じゃあ、魔理沙も論外ね。
当たり前じゃない。後残るとするとあの人形遣いくらいかしら。確か、アリス・マーガ
・・・お願い、その名前を私の前で言うのは止めて。
じゃあ、記憶とかそういうのを専門に扱っているとしたら、あのワーハクタクかしら。
ああ、例のワーハクタクね。止めておいた方が良いと思うけど。
ん、何故。
この前レミィが宴会で酒に酔った勢いでワーハクタクに大怪我を負わせたばかりでしょう。
・・・そうだったかしら。
そうだったはずよ。咲夜の話では、調子に乗っていたのか乗せられたのかは知らないけど、スキマ妖怪が持ってきた怪しいお酒をビンごと一気飲みして完全に泥酔したそうよ。その後運悪くとばっちりを受けたワーハクタクがどうなったかは、さっき言った通りよ。レミィ、酔っ払って暴れるなんて、酒癖悪すぎ。
・・・全然覚えていないわ。
まあ、今度からスキマ妖怪が持ってきたお酒に気を付ける事ね。それはそうと、そんな事だからワーハクタクに頼るのはしばらく止めておいた方が良いわよ。
他に誰か適当な人はいないの。
じゃあ、・・・。
こんな調子でしばらく二人が相談していたが、結局良い案が出なかったようでまた大きな溜息をついた。
「仕方が無いわ、咲夜の記憶はしばらくは自然回復を待つという事にしましょう。その間にパチェは一刻も早く安全な記憶の取り戻し方を調べておいて。咲夜もそれで我慢して。」
「あ、はい。分かりました、その。えーと・・・」
「私の名は、レミリア・スカーレット。咲夜に改めて自己紹介するなんて、何か変ね。」
「あ、分かりました。すいません、レミリア様。」
「・・・頼むから、いつも通りにお嬢様って呼んで。調子が狂ってしょうがないわ。」
そう言うお嬢様の顔は、何とも言えない複雑な表情だった。
「それで、咲夜が記憶を取り戻すまでの間に、咲夜にはどう過ごしてもらおうかしら。」
「私はいつも通りの仕事をさせておけばいいと思うけど、レミィ。いつも通りの生活をさせたら、ひょっとしたら何か思い出すかもしれないから。」
それはいい考えだというように、お嬢様は頷いた。
「メイドのお仕事ですか。でも私、何をすればいいか全然分かりませんが。」
「うーん、そう言えば今の咲夜にはメイド長の仕事は無理そうね。仕方が無いから普通のメイドの仕事をしてもらいましょうか。」
「でも、誰が咲夜に仕事を教えるの。今まではそれは全て咲夜がしていた事よ。」
二人が悩み込んだ。どうやら、適任者がいないらしい。
「まあ、各部署の責任者に任せましょう。咲夜には全部の部署回ってもらって、少しでも早く全ての仕事を覚えてもらう事にするわ。」
「じゃあ、咲夜の代わりに暫定的なメイド長は誰にするの。」
「咲夜の代わりなんて誰も出来はしないわ。しばらく空位って事にしておきましょう。それに今の咲夜じゃあ、私の身の回りの事なんてできっこないでしょうし、しばらくは我慢するわ。フランも責任取って我慢してね。」
咲夜の入れた紅茶がしばらく飲めない、と何やら酷く落胆している。
「あ、あの、今すぐには無理かもしれないですけど、すぐにお仕事を覚えますから、その、お嬢様の身の回りのお世話もいつも通りにさせてもらえないでしょうか。」
「無理しなくて良いわ。この館のメイドの仕事は腐るほどあるのよ。それに、咲夜。貴方ここで宙に浮く事が出来る。」
私は何を馬鹿な事をという思いで、首を横に振った。人間が宙に浮けるはずが無いはずだ。
「やっぱり。廊下が真っ直ぐになった時から予想はしていたけど、貴方は今自分の能力を使えないのよ。その気持ちは嬉しいけど、咲夜が本調子になってから私の身の回りの事を改めて命じる事にするわ。」
驚きだった。自分が宙に浮けるなんて、思いもよらなかった事だ。
お嬢様がやれやれといった感じで、席を立った。
「レミィ、何処へ。」
「仕方が無いから皆に説明してくるわ。皆もいきなりの事で混乱している事だろうし。それよりも、パチェは一刻も早く咲夜の事を頼むわよ。」
「分かったわ。色々頑張ってみる。でもレミィ、あまり余計な事をしないでね。後始末をする人がいないんだから。」
お嬢様が軽くパチェと呼ばれている不健康そうな少女を睨んだ。
私はその後、紅美鈴と名乗った赤髪の少女に付き添われて、私の部屋に連れて行ってもらった。その間に美鈴さんは色々私の事について教えてくれたけど、何やらぴんと来ない話だった。
私の部屋は簡素な物だった。必要な物しかない言った方がしっくり来るかもしれない。
「どうです、咲夜さん。何か思い出しましたか。」
この問いには、首を横に振って答えるしかなかった。
とりあえず部屋の中に入って、重くて仕方が無かった物を取り外す。
「あれ、咲夜さん。ナイフを外しちゃうんですか。」
私が取り外したのは、幾つも身につけていたナイフだ。美鈴さんの話では私はナイフを上手く使えるらしいのだが、今の私には無用の物である。
私は自分でも呆れるくらいナイフを身に着けていて、机の上に置いていたら山のようになった。その中に、一つ他の物とは違う形のナイフを見つけた。
「ああ、それは咲夜さんがいつも大事そうに持っていたナイフです。結構古い物ですけど、切れ味は相当な物みたいですね。それだけは持ってい
たほうが良いかもしれませんよ。」
ナイフを納めてあった鞘から抜く。その刀身からは冷たい光が滲み出ていた。
ナイフを見つめていると、いきなり背筋がゾクリとした。憎しみ、恐怖、怒り、絶望、と言った負の感情に襲われて、次の瞬間幾つかの光景が目に浮かんだ。
何処までも続く路地の光景。そこを全力で走っている光景。恐怖に駆られて振り返りざまに無我夢中でこのナイフを振るう光景。そして、振るった相手の顔の・・・
「咲夜さん、咲夜さん!!」
ハッと気が付くと、目の前に美鈴さんがいた。
「どうしたんですか、咲夜さん。さっきから怖い顔をしてそのナイフを睨んでいましたけど。何か思い出したんですか。って言うか凄い汗ですよ!?」
さっき見た光景。あれは何だったのだろうか。あれは私が持っていた記憶なのだろうか。
手に持っていたナイフを見てみた。相変らず底知れぬ冷たい光を放っていた。見ているだけでも、全身から嫌な汗が滲み出てきた。
「ありがとう、美鈴さん。何だか分からないけど、助かりました。」
弱々しくなってしまったが、微笑んでお礼を言った。何やら美鈴さんが呆けた表情になってしまったが。
急いでこのナイフを鞘に収めた。それでも、何故かこのナイフを手放そうという気にはなれなかった。
あれから、目の回る忙しさだった。紅魔館のメイドのお仕事を頑張って覚える毎日だったが、何故か教えてくれる人が馬鹿丁寧だった事もあり、順調に覚える事が出来た。また、夜になるとよくお嬢様がやって来て調子の方を聞いてきた。
そして、今日は警備部の研修に日だったので、張り切った様子の美鈴さんが迎えに来てくれた。
「おはようございます、咲夜さん。どうです、調子は。」
「あ、おはようございます、美鈴さん。今日も張り切っていこうと思います。」
美鈴さんが人差し指を振って、何やら嬉しそうに訂正してきた。
「駄目ですよ、咲夜さん。今日から私が教育の担当者になるのですから、せめて敬意を持って先輩と呼んでください。いいですね。」
「分かりました、美鈴先輩。」
いきなり何か難しい顔をして美鈴先輩が考え込みだした。
「・・・やっぱり美鈴と呼び捨てでも構いません。なんかそっちの方がシックリ来るので。」
「はあ、分かりました、美鈴さん。」
美鈴さんに付き添われて、門付近の詰め所に向かった。その間に大まかな仕事の内容を話してもらった。
「っと言うわけで、記憶喪失の咲夜さんが時期外れの新人研修に来ました。皆、しばらくの間仲良くやってくださいね。」
美鈴さんが部下に私の事を紹介する。その後、朝の合同鍛錬の時間になった。今の私は殆ど戦闘能力が無いので軽い汗を流すだけで済んだが、美鈴さんを中心に実践に近い感じの事をしている者もいた。
その後、各人が決められた持ち場に着いた。着くはずだった。しかし、必要最低限の人員を残して皆目の前の湖に向かって行った。
「あ、あの、美鈴さん。皆さんはどちらに。」
「ああ、あれは今晩のおかずを釣りに行っているんですよ。」
唖然とするような言葉が聞こえてきた。仕事そっちのけで釣りを。
「そういう顔をされるのも無理が無い話なんですけどね、これは紅魔館の食事を支える重要な仕事なんですよ。これだけの人員の食費は馬鹿になりませんから少しでも食費を抑えようということで、咲夜さん御自身の発案でちょっと前から私達が釣りをする事になったんです。」
紅魔館って、貧乏だったんだ。
「まあ、こんな所に来る物好きもそうそうにいませんから、最悪私が気をつけていれば良いだけなんですよね。」
思っていた以上にグダグダな所で、呆れてしまった。だから前の職場のメイドがいい骨休みになるって言っていたのか。
「そう言う事なので、張り切ってお仕事頑張りましょうね、咲夜さん。」
警備部の仕事といっても、殆ど見回りが主だった。のんびりと館の周りを一周して、侵入者がいないかを確認する。本当は空を飛んで警備するのだそうだが、いい時間潰しになるのでわざと歩いて回るのだそうだ。
館の周りをブラブラ歩いていると、そこら辺の岸辺では皆が釣りをしているのが見えた。中には美鈴さんの部下じゃなく、手空きのメイドまで釣りをしているのを発見した。夕食に魚料理が多い理由が、分かった気がする。
そうやって昼食の時間になるまで適当にぶらついて時間を過ごした。美鈴さん達との昼食は、殆ど争奪戦といっても過言ではないものだった。私がご飯にありつけなくて途方にくれていると、美鈴さんが私に自分の取り分を分けてくれた。笑顔でお礼を言うと、何やら更に分けてくれたが。
昼食が終わると、また適当に館の周りをぶらついた。適当に回り終えると、門の前で一息入れる事にした。座り込んで、適当に休憩を取る事になった。
「美鈴さん、暇ですね。」
「仕方が無いですよ、暇なのが当たり前なんですから。何事も平和なのが一番なんですけど、平和だと私達の仕事は無いんですよね。まあ、だか
らこそ夕食のおかず釣りに借り出されているんですけど。」
ここからでも皆がのんびりと釣りに勤しんでいる姿が見えた。何とも平和な風景である。
あまりの暇さ加減と昼下がりの丁度お手ごろな時間という事で、目蓋が重くて仕方がなくなってきた。
「咲夜さん、駄目ですよ。いくらなんでも気が緩みすぎって言うもんです。記憶を失って緊張感まで失っていませんか。」
隣で美鈴さんが注意をしてくるが、私は睡魔に勝てそうに無かった。瞬きをすると、もう目蓋を上げる力さえ出なかった。
逃げていた。恐怖から、そして何よりも自分に対して余りにも不条理な世界から。
分からなかった。何故自分が殺されなければならないのかが。
分からなかった。何故誰も私を庇ってくれないのかが。
分からなかった。何故世界が私を拒絶するのかが。
分かる事はあった。私に迫り来るものの存在が。死。私に片手を上げ、挨拶をしている。
この路地は何処まで続くのだろうか。私は後どれだけ走り続ける事が出来るのだろうか。それも分からなかった。
片手には確かな重みがあった。ナイフ。何故私が持っているのか分からなかった。そして、何故血に濡れているのか分からなかった。そして何故、私は返り血を浴びているのか。
一つの単純な事以外は、何も分からなかった。
前方が開けた。ようやく路地を抜けたのだ。しかし、人の壁に阻まれた。
急いで今来た道を戻る。しかし、そこにも人がいた。手には私を殺すのに十分な獲物。
凶器が振り上げられ、
何時ものようにそこで悪夢から覚めたが、余りの気分の悪さにまだ目を開ける気にはなれなかった。しばらくして髪を誰かに撫でられている感じに気が付いたが、気持ちが良かった。たまに見る悪夢の恐怖から、私を癒してくれるようだ。そしていつもの様に夢の内容を思い出す事が出来なくなった。
しばらくして薄っすらと目を開けると、美鈴さんの顔が見えた。美鈴さんは目を閉じ、私の髪に手を置いていた。
「あの、美鈴さん。」
私が呼びかけると、美鈴さんが目を開け私のほうを見る。
「あ、咲夜さん。ようやく目を覚ましたんですね。駄目じゃないですか、お仕事の途中で眠るなんて。ナイフ地獄もんですよ。」
私を叱る美鈴さんの表情は、それでもどこか微笑んでいた。
ようやく私は美鈴さんの膝の上に頭を乗せているのに気が付き、慌てて身を起こした。
「す、すいません、美鈴さん。私、ついうとうととしていました。」
「うとうとどころじゃないですよ。完全に熟睡していました。教育担当の目の前で眠るなんて、緩みすぎもいいところです。まあ、昨日までは他
の部署では非常に忙しかっただろうし、ここが暇すぎるってのもありますけど。」
この事については、ただ謝るだけしかなかった。
「今回だけですよ、見逃すのは。今回はいいものが見れたということで、チャラにしてあげます。」
「あの、いいものとは。」
「それは秘密です。」
その夜、何故かお嬢様に追い回される美鈴さんを目撃したとの話があった。何でも、寝顔がどうのとか、膝枕がどうのとか言いながら鬼の形相でお嬢様が追い回していたとか。
数日後、私は美鈴さんと共に人里に買出しに行くことになった。紅魔館に必要になった物を買い足しに行くのが主な目的だが、私が人里に行くことによって何か思い出せれば、という願いも込められてもいた。パチュリー様の研究はまだ余り成果が出ていないらしい。
私はいまだに空を飛ぶ事が出来ないので、館の前の湖を渡るときは美鈴さんに負ぶってもらう事になった。
その時、心配して見送りに来ていたお嬢様の顔色が変わり、私も行くとか美鈴さんの代わりに行くとか言い出して、パチュリー様が必死に押し留めていた。
人里に着くと、私は美鈴さんについて回った。必要な物を書き記したメモを頼りに、効率よく店を回った。
全ての物を買い終えたとき、私は何故美鈴さんが選ばれているのか分かった気がした。あれだけあった荷物を、全て一人で持ち運ぶ事が出来るのだ。
買い物を終え、茶店で一息入れる事になった。店に入ると適当な席に着いて、美鈴さんがやれやれといった感じで荷物を降ろした。
「あの、どうしてそんなに荷物を持てるんですか。」
「まあ、これでも警備部の隊長ですからね。だから咲夜さんに持ってもらわなくても余裕ですよ。それより、何か思い出しましたか。」
私は溜息と同時に首を横に振った。
「仕方が無いですよ、こればかりは。焦ってもどうにかなるもんじゃないし、気長に待ちましょう。パチュリー様も頑張っているみたいですし、何とかなりますよ。」
私を励ましてくれる美鈴さんに感謝しつつ、何とか記憶が戻らないかと思った。人の善意を無駄にするような事はしたくなかったからだ。
頼んだお茶を飲みつつ軽い世間話に花を咲かせていると、通りに何やら武装している連中を見かけた。
「あ、あの人達ですか。あの人達は主に森なんかで狩りを生業としている人達です。普段は動物を狩っていますが、必要と在らば妖怪も狩りますね。」
「人間が、妖怪を。」
「そうです、妖怪も狩ります。何か特別な力を持っている訳じゃないんですけど、力を持っている妖怪に対抗する為に知恵と技術を身に着けた人達です。」
美鈴さんが言うには、集団で統率が取れた行動をし、森での行動に長け、気配を消して走る事が出来るそうだ。そして、持っている武器にはかなり強力な毒が塗られているらしく、妖怪といえども危険な代物なのだそうだ。
「まあ、彼らのお陰で私達も人里で新鮮なお肉が買えるんですけどね。さすがに家畜だけでは数に限りがありますから。」
少し、酷く気になった。昨日珍しく夕食に出たお肉は、何のお肉なんだろう。
「でも、少し厄介な事は確かですね。縄張り意識が非常に強いせいか、自分達の狩猟場に入った者は、それが誰であれ襲ってきます。自分たちの狩猟場を誰かに知られたくないようですね。だから狩猟場に入った者は、それが家族であれ殺すようです。それに半分以上は森で生活しているせいか、世情に疎い面もあるようですし。」
そう言う美鈴さんの表情は、険しい物だった。
「下手をすると、いくら紅魔館の者だからと言っても襲われかねませんよ。でも、紅魔館の食卓を守る為には、私達も下手な事が出来ないし。もしメイドの誰かが殺されてお嬢様が出陣でもされた日には、その日から食事にお肉が消えかねません。その事態を回避する為には、お肉調達の為に自給自足率が更にアップする事にりますし。」
「あの、どこに紅魔館にお肉を買うお金があるんですか。」
「ありません。ですが、買わなければならないんです。一度覚えたお肉の味が忘れれないメイドが沢山いるからです。放っておくと、耐えられなくなった妖怪のメイドが人間のメイドを食べだすので、それを避ける為にも色々やり繰りしてでも買わなければならないんです。人間のメイドは細かい作業が得意で、居なくてはならない存在ですからね。」
何か、かなり深い話だ。そのお金を捻出する為にどれだけの苦労があるのか計り知れない。
「まあ、そんな訳で紅魔館としては、なるべく彼らとは係わり合いを持ちたくないんです。」
帰りも美鈴さんに負ぶさる事になった。美鈴さんは両手に荷物を、そして背に私をという状態で非常に申し訳ない気持ちになった。
あの後せっかく外に出たのだから色々回ってみようという事で寄り道をしたのですっかり夜になってしまっていた。その間中、美鈴さんには大変な思いをさせてしまったが、本人はいたって気にしたような表情は見せなかった。
帰路の途中である、紅魔館の前の湖の手前の森の真ん中に差し掛かった時だった。何処からとも無く歌声が聞こえて来た。
「あ、中国式門番の背に人ネギ発見!!」
暗闇で何が何だかサッパリ分からなかった。
「さあ、貴方も鳥目にされたくなかったらその人ネギを渡してもらおうか。鳥目にされたら門番性能が落ちる事220%だよ。」
「むー、あと少しだって言うのにこんな所で夜雀に出会うなんて、ついてないですね。」
気が動転している私と比べて、美鈴さんの声は落ち着いていた。
「さあさあ、早く渡さないともれなく鳥目サービスだよ。いいのかな。」
「咲夜さん、少しいいですか。この荷物を持って、下の森で待っててくれませんか。丁度お嬢様へのフライドチキンのお土産が自ら転がり込んできましたから。」
そう言うや否や、私と荷物を森に降ろし夜雀と思わしき存在と弾幕戦を展開しだした。
私は二人の弾幕戦を、ただ黙って見ているしかなかった。色とりどりの弾幕に映し出され、今では夜雀の姿が見る事が出来た。
私が見たところ、美鈴さんが押しつつあった。ただ、夜雀の方も必死に抵抗している。勝負がつくまでに、もう少し時が必要となるだろう。
荷物の傍らで勝負の行方を見守っていると、不意に違和感を覚えた。その正体は掴めないが、肌に粟が立ってしょうがなかった。
急に夜雀の動きが止まった。その胸には矢が突き立っている。更に体に矢が殺到する。たまらず夜雀の体が地面に落ちた。
背筋が凍りつくような感じがして、咄嗟に身を捻った。刹那の瞬間、矢が通り抜けた。
「美鈴さん!!」
見ると、美鈴さんにも矢が殺到していて、凌ぐだけで精一杯の様子だった。
「不味いです、咲夜さん。例の狩りの連中です。そんなに数はいないでしょうから、私が気を引いているうちに逃げてください。このままそこに居れば、確実に殺られます!!」
更に数本、矢が来た。本来私には矢が来た事すら分からないのだが、肌が、体が飛んでくる物を感じ、無意識に回避に移る。
美鈴さんが矢が飛んできた方向に弾幕をお見舞いする。だが、手ごたえは無く更なる矢の応酬が来た。どうやら私達の周りを気配を消しつつ動きながら、矢を放っているようだ。
「でも、荷物は。」
「そんな物と自分の命、どっちが大事だと思っているんですか。馬鹿な事を言っていないで、早く逃げてください。はっきり言って、そこに居られると邪魔です。」
私が美鈴さんの足手まといになっている事を今更に気が付いた。そんな自分を恥じつつ、荷を捨てて森の奥へ逃げる事にした。
「紅魔館の警備部隊長、紅美鈴ここにあり。腕に覚えがある者は、纏めてかかって来い!!」
私は逃げていた。必死に私を追ってくる者から逃げていた。幾度か矢が放たれ、その都度奇跡的に避ける事が出来た。殆ど勘が働き、身をよじって避けたり持っていたナイフで叩き落したりする事を、体が勝手にやってくれた。それも美鈴さんが連中の殆どを引き付けてくれたからに過ぎないが。
しかし、それでももう限界だ。息は上がり、足元は覚束ない。だが、足を止めれば確実に殺される。
ナイフを片手に、何処まで走る事が出来るのだろうか。何処までも走らなければいけないのだろうが、それは不可能な話だ。いつ倒れてもおかしくない状態なのだから。何故殺されなければならないのか、泣きながらそれだけを考えていた。
不意に、何かが頭の中を掠めた。いつか見た光景が今の状態と重なって見えた。
そうだ、私は知っている。昔、今のように必死に何かから逃げていた事を、知っている。
矢が、数本放たれた。しかし、全て寸前のところでナイフで叩き落した。
体が覚えていた。限界以上の力を振り絞って逃げ回った事を。確かに以前にもあった。
矢が、急に放たれなくなった。私の気配の変化に気が付いたのだろうか。
逃げ惑う光景。路地の光景。手に持つナイフを振るう光景。凶器を振るわれる光景。恐怖に押しつぶされる光景。私を襲う狂気に駆られる人の光景。・・・
色んな光景が私の頭を過り、今の状況と一致した。そして、思い出した。
そうだ、前にも私はこうして人に追われたことがある。あの時あの場所で。
私の行く手を阻むように、急に前に人が飛び出してきた。手には、山刀が握られていた。
私はあの世界に拒絶された。きっかけは些細な事だった。しかし、その一瞬で私を取り巻く世界の態度は一変した。
飛び道具では私を仕留められないと判断したのか、私を追ってきていた連中の気配が変わった。前に一人、後ろに二人。
私には手によく馴染むこのナイフが一本。接近戦しかなかったが、この数を同時に相手にするには今の私には何かが足りなかった。
あれは事故だった。確かに世間の私に対する評価は恐ろしく悪かったが、あれは不運な事故だった。そして、私の周りの人間が一人死んだ。ただ、それだけの事だったはずだった。
前方の人間に可能な限り接近する。こうすれば後ろの二人は矢を撃てない。故に前方の人間に対する援護は無いものと見なせる。
何故あれほど私の評価が悪かったのか今ではもう思い出す事が出来ない。しかし、そのお陰で周りの人間はただの不幸な事故と捉える事はしなかった。
山刀が縦に振られた。それをサイドステップでギリギリのところで躱す。ガタイの良い男と力比べをするような愚を冒すような真似はしなかった。
その場は血の海と血に染まった一つの死体。そして、血に染まって泣きじゃくる私。それだけの状況証拠で、私が殺した事にされた。いくら泣いて釈明しても、どれだけ本当の事を言っても聞いてもらえなかった。
山刀を握る手にすれ違いざまにナイフを走らせた。これで利き手は潰した。
いつかやると思っていた。いつか私達に牙をむくと思っていた。そんな事を口々に、私を取り巻く人間達は恐ろしく冷たい目を向けてきた。私の周囲の人間、そして私の家族。誰も私に手を差し伸べてくれなかった。
もう片方の無事な手で、山刀が横に薙いだ。辛うじて前方に転がる事で、躱す。
誰かがポツリと言った。こうなる前に殺しておけば良かったと。誰も、その意見に異を唱えなかった。皆の私を見る目は、何か汚い物を見るそれだった。そして、私は警察に連れて行かれた。
転がり、もう一度転がった。立ち上がった時、男は倒れていた。転がる時にナイフを走らせ、アキレス腱を切断したのだ。これでこの男は動けなくなった。
警察の尋問を終え、一時保釈となった。家に帰ると義母が酷く罵ってきた。その傍らで義妹が冷たい目線を送ってきた。
私は倒れている男の喉にナイフを突き立て、残る二人に向き直った。二人は私を警戒して距離を保っている。逃げる事は止めた。殺し方を思い出した以上逃げ惑う必要が無い。
私の本当の母は、早くに他界した。そして私を引き取った父は子持ちの愛人を作り、その後再婚した。しかし、父はまた愛人を作り殆ど家に帰る事が無かった。私を押付けられた格好になった義母は、私を憎みいつも苛めて来た。義妹の関係もかなり良くなかった。
私は二人に踏み込めないでいた。二人は互いに連携の構えを崩してなく、同時に相手にするにはやはり今の私には何かが欠けていた。それが何なのか、まだ思い出せない。
義母は酒を飲んでいて、人殺しだの金食い虫だのと罵ってきた。相手側の遺族に払わなければならない金額まで言われ、自分でどうにかしろと言って来たが到底無理な話だ。私はまだ法律で保護の対象となる年齢なので、両親が肩代わりしなければならない。それが更に腹立しいのだろう。
二人が一斉に動き出した。手には山刀。一気に私との距離を詰めて来た。
酒が過ぎたのか、義母が突然ナイフを取り出して私に掴みかかって来た。私を床に押し倒すと、勢いをつけて顔をめがけてナイフを振り下ろしてきた。首を捻る事で何とか躱したが、凄い力で私の首を締め上げてきた。
私は一気に地面を転がり一人を潰そうと思ったが、警戒されていた。転がったところをもう一人に切りつけられ、躱すだけで精一杯だった。躱しきれず、背中が軽く切られた。
お前さえ居なければ。お前なんか死んでしまえ。そう呪い殺すように口々に私に吐きつけ、更に腕に力を入れてきた。薄れる意識の最中、私は死にたくないと心で叫んだ。
再度睨み合った。どうやらあの山刀には毒が塗られていないらしく、それで助かった。妖怪をも仕留めるほどの猛毒を、人間が堪えれるはずがない。
気が付いたら、義母は死んでいた。そして、私の手には血が滴り落ちる義母のナイフ。義妹は何が起きたのか理解できていない様子で呆然としていた。
今度は私から仕掛けた。潰すのは左。一気に距離を詰めて、連携をさせないようにする。
私は逃げた。力の限り、思いつく限りの場所を逃げた。そのうちに義妹の騒ぎを聞きつけたらしく、瞬く間にこの町中に私の事が広まった。私はナイフを片手に、ひたすら逃げ続けるしかなかった。しかし、追ってくる人間の私を見る目は最早人を見る目ではなかった。
左の奴が持っているのは、小太刀。袈裟懸けに切りつけてくる。ナイフでそれを受け流す。
薄暗い路地に逃げ込んだ。全力で走りながらも、追っ手のほうが足は速かった。手には重量のありそうな金属棒。首元を捕まえられた瞬間、反転して追っ手の手首を切りつけた。
左の奴の首筋にナイフを走らせる。しかし、薄く皮を剥いだだけだった。
路地を抜けた先に、凶器を持った人間達が待っていた。慌てて路地に戻ると、また人間が立ちふさがっていた。そして凶器を振り上げられた。地を転がって躱し、無我夢中で足を切りつけた。運良くアキレス腱を切断でき、それで逃げる事が出来た。
小太刀を握る腕の二の腕辺りを切りつけた。今度は手ごたえがあり、小太刀が地に落ちた。
遂に足が動かなくなり、地面に倒れた。何とか動こうともがいてみたが、立ち上がることは出来なかった。そして、怖い顔をした人間達に取り囲まれた。誰かが言った。殺してしまえ、警察には何とでも言えるからと。手に思い思いの凶器を持ち、皆私に近づいてきた。
もう一人が山刀を振り上げてきた。私は引く事よりも距離を詰める事を選んだ。
こんな事なら、さっき殺しておくんだった。そんな事を口々に言いながら、私に凶器を向けてきた。死にたくなかった。だから何故と聞いた。しかし、誰も答えてくれなかった。だが自分の胸中で問い続けた。何故私は殺されなければならない。何故世界は私を拒絶するのか。何故、・・・
山刀を掻い潜る。咄嗟に歩調を変え、相手を惑わしたのだ。そして、相手の胸にナイフを突き立てた。
そして、一つの結論に達した。世界が私を拒絶するなら、私が世界を殺す。そうすれば、私は死ななくてもすむ。
世界が開けた、そんな感じすらした。心が急に軽くなって、何か生まれ変わった気分にもなった。そして、時の流れが自分の意のままに止めれるのではないかとも感じた。
世界は敵だ。だから、私以外は全て敵だ。だから、私はその場に居た人間達を殺すことにした。
殺す事はたやすかった。時を止めつつナイフを突き立てる。殺し方は直感的に分かった。そして、全員を殺し終えた。
これが、私の全てだ。そして、どう言う訳か気が付いたらこんな所でメイドをしていた。
残る最後の人間の喉を切り、周辺の敵を全て殺した。
私以外は全て敵。ならば、全て殺すまでだ。私が死ぬか、世界が死ぬか。それ以外は無い。
「さ、咲夜さん、これはいったい・・・」
振り向くと、紅魔館の警備隊長が唖然とした表情で立っていた。体には数本の矢が刺さっており、毒のせいか顔色が悪かった。この同僚も、敵だ。
「咲夜さん、ちょっと待ってください。落ち着いてください。私ですよ、紅美鈴ですよ。」
踏み出した私に対して、手をブンブンと振り回し盛んに味方だという事をアピールしている。しかし、こういう奴が一番危険な奴だ。味方の様な顔をして、心を許すと後で酷い裏切りが待っている。
一見無防備そうに見えるが、さすがに隙らしい隙が見当たらなかった。だが、私の距離の中に入っている。どうにでも殺しようがあった。
一気に距離を詰めた。しかし、まだ相手は無抵抗な振りをしている。
ナイフの距離。しかし、まだなんら行動を取ろうとしない。
最後の距離。相手の表情を見た。何故か沈痛な表情をしている。
そして、ナイフを突き立てた。
いきなり抱き寄せられた。振りほどこうとしても無理だった。
「何故ですか、咲夜さん。」
何故。この敵は何を言っているのか。
「何故、またそんな表情をしているんですか。」
さらに強く抱き寄せられた。私はこの敵の胸に顔を埋めるという格好になっていた。
「せっかく、お嬢様達が咲夜さんの笑顔が見られるようになったと喜んだのに。何故、また紅魔館にお嬢様に連れられて来られた当時の表情をしているんですか。」
この敵の声は、涙で震えていた。何故、泣く事があるのだろうか。
しかしこの温もりは何なのだろうか。何故、殺そうとした私が温もりに包まれているのか。
不意に、何かを思い出した。
「私だって、あの時は嬉しかったですよ。始めは話しかけても完全に無視されるだけで、完全に嫌われていましたから。」
全てが敵。そう思い定めていた私は、誰も信用する事が出来なかった。だから、当然のように話しかけてきたこの少女を警戒し、無視した。
「でも、あの時の咲夜さんの目はこのままにしておいてはいけないという様な目でした。」
だから、この少女は何度振り払ってもしきりに私に近づいてきた。どんな些細な事でもいいから何とか会話をしようとしていた。余りに鬱陶しくなって、殴りつけたり切りつけたりもした。しかし、この少女は諦めなかった。
「初めて会話できた時は、それはもう記念日にしたくなるくらい嬉しかったですよ。」
何かにつけて様子を見に来るお嬢様とこの少女に私は根負けした。少し、試しにこの少女と話をしてみる気になったのだ。この少女の問いかけに答えてみると、少女は破顔の笑みを浮かべた。私も何となく、その笑みに引かれた。
「それからしばらくすると、咲夜さんの方から話しかけてくれるようになりました。そして、色々な感情も現してくれるようにもなりました。私は本当に嬉しかったです。」
いつの間にか私はこの少女とお嬢様を受け入れていた。気が付けばこの二人を求めてもいた。そして、自然と笑うようになっていた。
「だから、お願いです。そんな表情をもうしないでください。貴方は一人じゃない。貴方にはお嬢様がいます。だから、もうそんな表情をしないでください。」
暖かかった。本当にこの少女は暖かかった。私にはお嬢様と、この少女がいる。何故、私はこの温もりを忘れてしまったのだろうか。何故、一時の感情に駆られてしまったのだろうか。この少女は、こんなにも暖かいのに。
不意に、私に掛かる重さが増した。少女の声はあれっきし聞こえなくなっていた。
「美鈴、さん?」
呼びかけても、返事は返ってこなかった。その代わりに、美鈴さんの体がずれ落ち、地に転がった。
そして、私は見た。美鈴さんの血でぬれるナイフを。それもそのはずだった。私が先ほど美鈴さんに突き立てたのだから。
「い、嫌・・・」
義母の血を吸い、その他大勢の血を吸い、そして今度は美鈴さんの血をも吸ったのか。
私が、このナイフを使って、美鈴さんを、殺めてしまったのか。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
心臓が破裂しそうだった。私の背に居る美鈴さんの重さは増すばかりだ。それでも、止まる訳にはいかなかった。少しでも早く、紅魔館に行かなければ。
もっと早く走れない自分が恨めしかった。私はもっと早く走れるはずだ。何故もっと早く走れない。早く、風のように早く!!
走っていては湖を渡れないし、間に合わない。ならば空を飛べばいい!!
空を飛んでも、美鈴さんは間に合わない。ならば時を止めればいい!!
意識が限界に達し、白くにごり行く視界に向かって、心の底から吼えた。
「お嬢様、お湯をお持ちいたしました。」
部屋の中に招かれ、お嬢様にお湯が入った器を渡した。基本的にお嬢様と妹様は体をお湯で拭いて綺麗にする。お嬢様が体を拭いている間は、外に出て待機している。
あれから数日、私は溜まりに溜まっていた仕事を片付ける事に忙殺された。そんな事を知ってか知らないでかお構いなく、お嬢様の無理難題に振り回されもした。
部屋の中か招く声があり、私は再度部屋に入った。
「やっぱり、咲夜がいてくれると本当に助かるわ。咲夜が記憶を失っていた間は、地獄のようだったわ。」
うんうんと頷くお嬢様に、今度は用意していたお茶を渡す。
「咲夜の入れた紅茶は、やっぱり良いものね。他のメイドではこうはいかないわよ。」
そう言いながらも、何かまた良からぬ事を考えているようだ。
「もう、すっかり記憶は戻ったのよね。結局パチェは間に合わなかったようだけど。」
あの後私は、死ぬ一歩手前の美鈴を背負って、突然お嬢様の前に表れらしい。そして、美鈴をお嬢様に預けたのを確認したらそのまま倒れたらしい。その後三日間は眠り続けて、起きたときには記憶を取り戻していた。
「まあ、パチェが間に合わないのは何時もの事だけど。それより、今度は・・・」
嬉々としてまた何かを言いつけてくるお嬢様を、誰か止めて欲しかった。私が記憶を取り戻して嬉しいのは分かるし喜んでもらえると私も嬉しいのだが、今度は過労死しかねない勢いだ。
戸をノックして、部屋に入った。床に散らばる筋トレグッズを避けながら、部屋の奥にあるベッドに向かった。
「あら、美鈴。元気そうね。」
「あ、咲夜さん。これは、その、余りにも暇だったものですから、つい。」
ベッドの上で医者に安静を命じられているはずの美鈴が、軽いストレッチ運動をしていた。
元々体が頑丈な美鈴は、このくらいなら平気なのだろう。
美鈴が助かった理由は、私が辛うじて急所を避けて刺していたからである。あのまま急所を刺していたら、間違いなく助からなかったそうだ。
「それくらい元気ならば、そろそろ職場に復帰しても良いわね。」
「そ、そんな、咲夜さん、それはいくらなんでも無理ですよ。」
猛毒と、大量の出血。いくら美鈴が頑丈だからといって、おいそれ助かる物ではなかった。それでも、美鈴は助かった。私が日頃ナイフで鍛えているからか。
「そんなに情けない声を出す物じゃないわよ。ねえ、美鈴先輩。」
「あ、う、しっかりこの前の事を覚えていらっしゃるのですね。」
助かったはいいが、いまだに美鈴は安静を命じられている。職場復帰は、まだ先の事になるそうだ。
とりあえず、私が記憶を失っている事をいいことに勝手に先輩風を吹かしていた美鈴をナイフで脅しておいた。本当は当てたかったのだが、今の美鈴には厳禁だった。
「あ、あれ、咲夜さん、そのナイフは。」
見れば、私の手にはあの時のナイフ。
「御免なさい、美鈴。これは貴方にとって嫌な物だったわね。」
「いえ、そんな事無いで。ただ、何故そのナイフを何時も持っているのか気になって。」
「これは、私の過去よ。私は自分の過去から目を背けたくないの。だから、戒めとしてこれを持っている事にしているの。」
「咲夜さん・・・」
美鈴が悲しそうな顔をした。美鈴としては私にそんな過去を忘れて欲しいのだろうけど、忘れるには私は血を流しすぎた。
血と憎しみに彩られた私の過去。しかし、私をそこから救ってくれたのはお嬢様と美鈴だった。そして、美鈴は二度までも私を救ってくれた。
「美鈴」
私は何故美鈴が私を救ってくれたのかを聞いてみたくなった。しかし、止めた。どのような理由であれ、私は美鈴を信じているから。
「はい、咲夜さん。」
私を見つめてくるこの少女の気持ちに答える為にも、精一杯のお礼が必要だろう。だから、
「ありがとう、美鈴。」
精一杯笑顔を作って、お礼を述べた。
今まで寝ていた足元を見てみると、何か花瓶が割れたような破片が散乱していた。このままにしておくと危険なので拾い集める事にしたが、何故私の近くにこんな物が散乱しているのか、まるで心当たりがなかった。
ふと、頭が何やら痛いのに気が付く。頭に手を当ててみると、おでこと後頭部辺りにコブが出来ていた。しかしいつ出来たのかもまた、心当たりが無かった。
何やら合点がいかないことが多いので首を傾げていると、不意に誰かに話しかけられた。話しかけられて初めて近くに人がいることに気が付いた。
後ろに向き直ると何やら顔面蒼白な赤髪でどこかの民族衣装のような服を着ている少女と、ただならぬ事が起きたという感じで周囲を見回している金髪で何故か羽が生えている、隣の赤髪の少女よりも幼く見える少女がいた。
何やら必死に赤髪の少女が取り繕うとして色々と言って来るが、そもそも取り繕われるような事をされた覚えはなかった。そして金髪の少女は私の事を必要以上に心配してくれているが、これまた心配される理由が分からなかった。
しかし、どうもこの二人の態度を見ていると私のことを知っているようだ。
「ねえ、貴方。貴方は私の事を知っているの。」
とりあえず、赤髪の少女に聞いてみた。
「あの、それって私の事は知らない人扱いって事ですか。」
一応、私は知らないので頷いた。
「違うんです。これは事故なんです。不可抗力だったんです。そりゃあ私がこっちに逃げたのが不味かったんですけど、妹様にぶっ飛ばされただけなんです。だから首だけは止めてください!!」
何やら赤髪の少女が変に拡大解釈をしていきなり土下座をしだし、金髪の少女が愛想笑いをしながら明後日の方を向いた。良く分からないが、とりあえず土下座を止めてもらう為に優しい言葉を選んで赤髪の少女を慰めたら、今度は二人して気味悪がられた。
その後も二人から何やら言われたが、全て合点がいかないものだった。そして、二人の言葉の中に度々ある人名が出てくる事に気が付いた。
「あの、咲夜さん。大丈夫ですか。どこか気分が優れないのですか。」
恐る恐るといった感じで、赤髪の少女が聞いてきた。また、咲夜という名が出てきた。
「ねえ、ひょっとして私の名前は咲夜って言うの。」
ここは率直に聞いてみることにしたが、二人は唖然とした表情で互いに顔を見合った。
私の目の前に、お嬢様と呼ばれていた何でもこの館の主である少女と不健康そうな紫色の髪の少女がいた。さっきの二人は、一人が私をこの部屋まで連れて来て、もう一人が不健康そうな少女を連れて来た。今は部屋の隅で大人しくしている。
「もう一度聞くわ、咲夜。本当に何も思い出せないのね。」
何度聞かれようとも思い出せないものは思い出せないので、頷くしかなかった。
目の前の二人が盛大に溜息をついて、困った顔をしながら何やら相談をしだす。
ねえ、パチェ。貴方の知識でどうにかならないの。記憶喪失を治すような薬とか術とか。
多分図書館のどこかにそんなことが書かれた本があるかもしれないけど、今は無理よ。洗脳系の薬だったら幾つか知っているけど、この際やっちゃう?
・・・そんな薬を咲夜に飲ました日にはどうなるか、分かっているわよね。
冗談よ。でも人間のメイドの記憶を元に戻す薬や術なんて本当に初めてだけど、上手く出来るかしら。まあ、頑張ってみるけど。でも、時間がかかるかもしれないわ。
・・・やっぱり止めておくわ。この前パチュの所の小悪魔が発狂して悶絶していたの、今思い出したわ。
酷いわ、誰しもたまには失敗する時があるのに。
じゃあ、どうする気なの。そう言えば八意永琳の薬の腕は確かよ。
得体の知れない宇宙人の力を借りたくないわ。私の大事な咲夜にもしもの事があったらどうするの。
・・・じゃあ、魔理沙も論外ね。
当たり前じゃない。後残るとするとあの人形遣いくらいかしら。確か、アリス・マーガ
・・・お願い、その名前を私の前で言うのは止めて。
じゃあ、記憶とかそういうのを専門に扱っているとしたら、あのワーハクタクかしら。
ああ、例のワーハクタクね。止めておいた方が良いと思うけど。
ん、何故。
この前レミィが宴会で酒に酔った勢いでワーハクタクに大怪我を負わせたばかりでしょう。
・・・そうだったかしら。
そうだったはずよ。咲夜の話では、調子に乗っていたのか乗せられたのかは知らないけど、スキマ妖怪が持ってきた怪しいお酒をビンごと一気飲みして完全に泥酔したそうよ。その後運悪くとばっちりを受けたワーハクタクがどうなったかは、さっき言った通りよ。レミィ、酔っ払って暴れるなんて、酒癖悪すぎ。
・・・全然覚えていないわ。
まあ、今度からスキマ妖怪が持ってきたお酒に気を付ける事ね。それはそうと、そんな事だからワーハクタクに頼るのはしばらく止めておいた方が良いわよ。
他に誰か適当な人はいないの。
じゃあ、・・・。
こんな調子でしばらく二人が相談していたが、結局良い案が出なかったようでまた大きな溜息をついた。
「仕方が無いわ、咲夜の記憶はしばらくは自然回復を待つという事にしましょう。その間にパチェは一刻も早く安全な記憶の取り戻し方を調べておいて。咲夜もそれで我慢して。」
「あ、はい。分かりました、その。えーと・・・」
「私の名は、レミリア・スカーレット。咲夜に改めて自己紹介するなんて、何か変ね。」
「あ、分かりました。すいません、レミリア様。」
「・・・頼むから、いつも通りにお嬢様って呼んで。調子が狂ってしょうがないわ。」
そう言うお嬢様の顔は、何とも言えない複雑な表情だった。
「それで、咲夜が記憶を取り戻すまでの間に、咲夜にはどう過ごしてもらおうかしら。」
「私はいつも通りの仕事をさせておけばいいと思うけど、レミィ。いつも通りの生活をさせたら、ひょっとしたら何か思い出すかもしれないから。」
それはいい考えだというように、お嬢様は頷いた。
「メイドのお仕事ですか。でも私、何をすればいいか全然分かりませんが。」
「うーん、そう言えば今の咲夜にはメイド長の仕事は無理そうね。仕方が無いから普通のメイドの仕事をしてもらいましょうか。」
「でも、誰が咲夜に仕事を教えるの。今まではそれは全て咲夜がしていた事よ。」
二人が悩み込んだ。どうやら、適任者がいないらしい。
「まあ、各部署の責任者に任せましょう。咲夜には全部の部署回ってもらって、少しでも早く全ての仕事を覚えてもらう事にするわ。」
「じゃあ、咲夜の代わりに暫定的なメイド長は誰にするの。」
「咲夜の代わりなんて誰も出来はしないわ。しばらく空位って事にしておきましょう。それに今の咲夜じゃあ、私の身の回りの事なんてできっこないでしょうし、しばらくは我慢するわ。フランも責任取って我慢してね。」
咲夜の入れた紅茶がしばらく飲めない、と何やら酷く落胆している。
「あ、あの、今すぐには無理かもしれないですけど、すぐにお仕事を覚えますから、その、お嬢様の身の回りのお世話もいつも通りにさせてもらえないでしょうか。」
「無理しなくて良いわ。この館のメイドの仕事は腐るほどあるのよ。それに、咲夜。貴方ここで宙に浮く事が出来る。」
私は何を馬鹿な事をという思いで、首を横に振った。人間が宙に浮けるはずが無いはずだ。
「やっぱり。廊下が真っ直ぐになった時から予想はしていたけど、貴方は今自分の能力を使えないのよ。その気持ちは嬉しいけど、咲夜が本調子になってから私の身の回りの事を改めて命じる事にするわ。」
驚きだった。自分が宙に浮けるなんて、思いもよらなかった事だ。
お嬢様がやれやれといった感じで、席を立った。
「レミィ、何処へ。」
「仕方が無いから皆に説明してくるわ。皆もいきなりの事で混乱している事だろうし。それよりも、パチェは一刻も早く咲夜の事を頼むわよ。」
「分かったわ。色々頑張ってみる。でもレミィ、あまり余計な事をしないでね。後始末をする人がいないんだから。」
お嬢様が軽くパチェと呼ばれている不健康そうな少女を睨んだ。
私はその後、紅美鈴と名乗った赤髪の少女に付き添われて、私の部屋に連れて行ってもらった。その間に美鈴さんは色々私の事について教えてくれたけど、何やらぴんと来ない話だった。
私の部屋は簡素な物だった。必要な物しかない言った方がしっくり来るかもしれない。
「どうです、咲夜さん。何か思い出しましたか。」
この問いには、首を横に振って答えるしかなかった。
とりあえず部屋の中に入って、重くて仕方が無かった物を取り外す。
「あれ、咲夜さん。ナイフを外しちゃうんですか。」
私が取り外したのは、幾つも身につけていたナイフだ。美鈴さんの話では私はナイフを上手く使えるらしいのだが、今の私には無用の物である。
私は自分でも呆れるくらいナイフを身に着けていて、机の上に置いていたら山のようになった。その中に、一つ他の物とは違う形のナイフを見つけた。
「ああ、それは咲夜さんがいつも大事そうに持っていたナイフです。結構古い物ですけど、切れ味は相当な物みたいですね。それだけは持ってい
たほうが良いかもしれませんよ。」
ナイフを納めてあった鞘から抜く。その刀身からは冷たい光が滲み出ていた。
ナイフを見つめていると、いきなり背筋がゾクリとした。憎しみ、恐怖、怒り、絶望、と言った負の感情に襲われて、次の瞬間幾つかの光景が目に浮かんだ。
何処までも続く路地の光景。そこを全力で走っている光景。恐怖に駆られて振り返りざまに無我夢中でこのナイフを振るう光景。そして、振るった相手の顔の・・・
「咲夜さん、咲夜さん!!」
ハッと気が付くと、目の前に美鈴さんがいた。
「どうしたんですか、咲夜さん。さっきから怖い顔をしてそのナイフを睨んでいましたけど。何か思い出したんですか。って言うか凄い汗ですよ!?」
さっき見た光景。あれは何だったのだろうか。あれは私が持っていた記憶なのだろうか。
手に持っていたナイフを見てみた。相変らず底知れぬ冷たい光を放っていた。見ているだけでも、全身から嫌な汗が滲み出てきた。
「ありがとう、美鈴さん。何だか分からないけど、助かりました。」
弱々しくなってしまったが、微笑んでお礼を言った。何やら美鈴さんが呆けた表情になってしまったが。
急いでこのナイフを鞘に収めた。それでも、何故かこのナイフを手放そうという気にはなれなかった。
あれから、目の回る忙しさだった。紅魔館のメイドのお仕事を頑張って覚える毎日だったが、何故か教えてくれる人が馬鹿丁寧だった事もあり、順調に覚える事が出来た。また、夜になるとよくお嬢様がやって来て調子の方を聞いてきた。
そして、今日は警備部の研修に日だったので、張り切った様子の美鈴さんが迎えに来てくれた。
「おはようございます、咲夜さん。どうです、調子は。」
「あ、おはようございます、美鈴さん。今日も張り切っていこうと思います。」
美鈴さんが人差し指を振って、何やら嬉しそうに訂正してきた。
「駄目ですよ、咲夜さん。今日から私が教育の担当者になるのですから、せめて敬意を持って先輩と呼んでください。いいですね。」
「分かりました、美鈴先輩。」
いきなり何か難しい顔をして美鈴先輩が考え込みだした。
「・・・やっぱり美鈴と呼び捨てでも構いません。なんかそっちの方がシックリ来るので。」
「はあ、分かりました、美鈴さん。」
美鈴さんに付き添われて、門付近の詰め所に向かった。その間に大まかな仕事の内容を話してもらった。
「っと言うわけで、記憶喪失の咲夜さんが時期外れの新人研修に来ました。皆、しばらくの間仲良くやってくださいね。」
美鈴さんが部下に私の事を紹介する。その後、朝の合同鍛錬の時間になった。今の私は殆ど戦闘能力が無いので軽い汗を流すだけで済んだが、美鈴さんを中心に実践に近い感じの事をしている者もいた。
その後、各人が決められた持ち場に着いた。着くはずだった。しかし、必要最低限の人員を残して皆目の前の湖に向かって行った。
「あ、あの、美鈴さん。皆さんはどちらに。」
「ああ、あれは今晩のおかずを釣りに行っているんですよ。」
唖然とするような言葉が聞こえてきた。仕事そっちのけで釣りを。
「そういう顔をされるのも無理が無い話なんですけどね、これは紅魔館の食事を支える重要な仕事なんですよ。これだけの人員の食費は馬鹿になりませんから少しでも食費を抑えようということで、咲夜さん御自身の発案でちょっと前から私達が釣りをする事になったんです。」
紅魔館って、貧乏だったんだ。
「まあ、こんな所に来る物好きもそうそうにいませんから、最悪私が気をつけていれば良いだけなんですよね。」
思っていた以上にグダグダな所で、呆れてしまった。だから前の職場のメイドがいい骨休みになるって言っていたのか。
「そう言う事なので、張り切ってお仕事頑張りましょうね、咲夜さん。」
警備部の仕事といっても、殆ど見回りが主だった。のんびりと館の周りを一周して、侵入者がいないかを確認する。本当は空を飛んで警備するのだそうだが、いい時間潰しになるのでわざと歩いて回るのだそうだ。
館の周りをブラブラ歩いていると、そこら辺の岸辺では皆が釣りをしているのが見えた。中には美鈴さんの部下じゃなく、手空きのメイドまで釣りをしているのを発見した。夕食に魚料理が多い理由が、分かった気がする。
そうやって昼食の時間になるまで適当にぶらついて時間を過ごした。美鈴さん達との昼食は、殆ど争奪戦といっても過言ではないものだった。私がご飯にありつけなくて途方にくれていると、美鈴さんが私に自分の取り分を分けてくれた。笑顔でお礼を言うと、何やら更に分けてくれたが。
昼食が終わると、また適当に館の周りをぶらついた。適当に回り終えると、門の前で一息入れる事にした。座り込んで、適当に休憩を取る事になった。
「美鈴さん、暇ですね。」
「仕方が無いですよ、暇なのが当たり前なんですから。何事も平和なのが一番なんですけど、平和だと私達の仕事は無いんですよね。まあ、だか
らこそ夕食のおかず釣りに借り出されているんですけど。」
ここからでも皆がのんびりと釣りに勤しんでいる姿が見えた。何とも平和な風景である。
あまりの暇さ加減と昼下がりの丁度お手ごろな時間という事で、目蓋が重くて仕方がなくなってきた。
「咲夜さん、駄目ですよ。いくらなんでも気が緩みすぎって言うもんです。記憶を失って緊張感まで失っていませんか。」
隣で美鈴さんが注意をしてくるが、私は睡魔に勝てそうに無かった。瞬きをすると、もう目蓋を上げる力さえ出なかった。
逃げていた。恐怖から、そして何よりも自分に対して余りにも不条理な世界から。
分からなかった。何故自分が殺されなければならないのかが。
分からなかった。何故誰も私を庇ってくれないのかが。
分からなかった。何故世界が私を拒絶するのかが。
分かる事はあった。私に迫り来るものの存在が。死。私に片手を上げ、挨拶をしている。
この路地は何処まで続くのだろうか。私は後どれだけ走り続ける事が出来るのだろうか。それも分からなかった。
片手には確かな重みがあった。ナイフ。何故私が持っているのか分からなかった。そして、何故血に濡れているのか分からなかった。そして何故、私は返り血を浴びているのか。
一つの単純な事以外は、何も分からなかった。
前方が開けた。ようやく路地を抜けたのだ。しかし、人の壁に阻まれた。
急いで今来た道を戻る。しかし、そこにも人がいた。手には私を殺すのに十分な獲物。
凶器が振り上げられ、
何時ものようにそこで悪夢から覚めたが、余りの気分の悪さにまだ目を開ける気にはなれなかった。しばらくして髪を誰かに撫でられている感じに気が付いたが、気持ちが良かった。たまに見る悪夢の恐怖から、私を癒してくれるようだ。そしていつもの様に夢の内容を思い出す事が出来なくなった。
しばらくして薄っすらと目を開けると、美鈴さんの顔が見えた。美鈴さんは目を閉じ、私の髪に手を置いていた。
「あの、美鈴さん。」
私が呼びかけると、美鈴さんが目を開け私のほうを見る。
「あ、咲夜さん。ようやく目を覚ましたんですね。駄目じゃないですか、お仕事の途中で眠るなんて。ナイフ地獄もんですよ。」
私を叱る美鈴さんの表情は、それでもどこか微笑んでいた。
ようやく私は美鈴さんの膝の上に頭を乗せているのに気が付き、慌てて身を起こした。
「す、すいません、美鈴さん。私、ついうとうととしていました。」
「うとうとどころじゃないですよ。完全に熟睡していました。教育担当の目の前で眠るなんて、緩みすぎもいいところです。まあ、昨日までは他
の部署では非常に忙しかっただろうし、ここが暇すぎるってのもありますけど。」
この事については、ただ謝るだけしかなかった。
「今回だけですよ、見逃すのは。今回はいいものが見れたということで、チャラにしてあげます。」
「あの、いいものとは。」
「それは秘密です。」
その夜、何故かお嬢様に追い回される美鈴さんを目撃したとの話があった。何でも、寝顔がどうのとか、膝枕がどうのとか言いながら鬼の形相でお嬢様が追い回していたとか。
数日後、私は美鈴さんと共に人里に買出しに行くことになった。紅魔館に必要になった物を買い足しに行くのが主な目的だが、私が人里に行くことによって何か思い出せれば、という願いも込められてもいた。パチュリー様の研究はまだ余り成果が出ていないらしい。
私はいまだに空を飛ぶ事が出来ないので、館の前の湖を渡るときは美鈴さんに負ぶってもらう事になった。
その時、心配して見送りに来ていたお嬢様の顔色が変わり、私も行くとか美鈴さんの代わりに行くとか言い出して、パチュリー様が必死に押し留めていた。
人里に着くと、私は美鈴さんについて回った。必要な物を書き記したメモを頼りに、効率よく店を回った。
全ての物を買い終えたとき、私は何故美鈴さんが選ばれているのか分かった気がした。あれだけあった荷物を、全て一人で持ち運ぶ事が出来るのだ。
買い物を終え、茶店で一息入れる事になった。店に入ると適当な席に着いて、美鈴さんがやれやれといった感じで荷物を降ろした。
「あの、どうしてそんなに荷物を持てるんですか。」
「まあ、これでも警備部の隊長ですからね。だから咲夜さんに持ってもらわなくても余裕ですよ。それより、何か思い出しましたか。」
私は溜息と同時に首を横に振った。
「仕方が無いですよ、こればかりは。焦ってもどうにかなるもんじゃないし、気長に待ちましょう。パチュリー様も頑張っているみたいですし、何とかなりますよ。」
私を励ましてくれる美鈴さんに感謝しつつ、何とか記憶が戻らないかと思った。人の善意を無駄にするような事はしたくなかったからだ。
頼んだお茶を飲みつつ軽い世間話に花を咲かせていると、通りに何やら武装している連中を見かけた。
「あ、あの人達ですか。あの人達は主に森なんかで狩りを生業としている人達です。普段は動物を狩っていますが、必要と在らば妖怪も狩りますね。」
「人間が、妖怪を。」
「そうです、妖怪も狩ります。何か特別な力を持っている訳じゃないんですけど、力を持っている妖怪に対抗する為に知恵と技術を身に着けた人達です。」
美鈴さんが言うには、集団で統率が取れた行動をし、森での行動に長け、気配を消して走る事が出来るそうだ。そして、持っている武器にはかなり強力な毒が塗られているらしく、妖怪といえども危険な代物なのだそうだ。
「まあ、彼らのお陰で私達も人里で新鮮なお肉が買えるんですけどね。さすがに家畜だけでは数に限りがありますから。」
少し、酷く気になった。昨日珍しく夕食に出たお肉は、何のお肉なんだろう。
「でも、少し厄介な事は確かですね。縄張り意識が非常に強いせいか、自分達の狩猟場に入った者は、それが誰であれ襲ってきます。自分たちの狩猟場を誰かに知られたくないようですね。だから狩猟場に入った者は、それが家族であれ殺すようです。それに半分以上は森で生活しているせいか、世情に疎い面もあるようですし。」
そう言う美鈴さんの表情は、険しい物だった。
「下手をすると、いくら紅魔館の者だからと言っても襲われかねませんよ。でも、紅魔館の食卓を守る為には、私達も下手な事が出来ないし。もしメイドの誰かが殺されてお嬢様が出陣でもされた日には、その日から食事にお肉が消えかねません。その事態を回避する為には、お肉調達の為に自給自足率が更にアップする事にりますし。」
「あの、どこに紅魔館にお肉を買うお金があるんですか。」
「ありません。ですが、買わなければならないんです。一度覚えたお肉の味が忘れれないメイドが沢山いるからです。放っておくと、耐えられなくなった妖怪のメイドが人間のメイドを食べだすので、それを避ける為にも色々やり繰りしてでも買わなければならないんです。人間のメイドは細かい作業が得意で、居なくてはならない存在ですからね。」
何か、かなり深い話だ。そのお金を捻出する為にどれだけの苦労があるのか計り知れない。
「まあ、そんな訳で紅魔館としては、なるべく彼らとは係わり合いを持ちたくないんです。」
帰りも美鈴さんに負ぶさる事になった。美鈴さんは両手に荷物を、そして背に私をという状態で非常に申し訳ない気持ちになった。
あの後せっかく外に出たのだから色々回ってみようという事で寄り道をしたのですっかり夜になってしまっていた。その間中、美鈴さんには大変な思いをさせてしまったが、本人はいたって気にしたような表情は見せなかった。
帰路の途中である、紅魔館の前の湖の手前の森の真ん中に差し掛かった時だった。何処からとも無く歌声が聞こえて来た。
「あ、中国式門番の背に人ネギ発見!!」
暗闇で何が何だかサッパリ分からなかった。
「さあ、貴方も鳥目にされたくなかったらその人ネギを渡してもらおうか。鳥目にされたら門番性能が落ちる事220%だよ。」
「むー、あと少しだって言うのにこんな所で夜雀に出会うなんて、ついてないですね。」
気が動転している私と比べて、美鈴さんの声は落ち着いていた。
「さあさあ、早く渡さないともれなく鳥目サービスだよ。いいのかな。」
「咲夜さん、少しいいですか。この荷物を持って、下の森で待っててくれませんか。丁度お嬢様へのフライドチキンのお土産が自ら転がり込んできましたから。」
そう言うや否や、私と荷物を森に降ろし夜雀と思わしき存在と弾幕戦を展開しだした。
私は二人の弾幕戦を、ただ黙って見ているしかなかった。色とりどりの弾幕に映し出され、今では夜雀の姿が見る事が出来た。
私が見たところ、美鈴さんが押しつつあった。ただ、夜雀の方も必死に抵抗している。勝負がつくまでに、もう少し時が必要となるだろう。
荷物の傍らで勝負の行方を見守っていると、不意に違和感を覚えた。その正体は掴めないが、肌に粟が立ってしょうがなかった。
急に夜雀の動きが止まった。その胸には矢が突き立っている。更に体に矢が殺到する。たまらず夜雀の体が地面に落ちた。
背筋が凍りつくような感じがして、咄嗟に身を捻った。刹那の瞬間、矢が通り抜けた。
「美鈴さん!!」
見ると、美鈴さんにも矢が殺到していて、凌ぐだけで精一杯の様子だった。
「不味いです、咲夜さん。例の狩りの連中です。そんなに数はいないでしょうから、私が気を引いているうちに逃げてください。このままそこに居れば、確実に殺られます!!」
更に数本、矢が来た。本来私には矢が来た事すら分からないのだが、肌が、体が飛んでくる物を感じ、無意識に回避に移る。
美鈴さんが矢が飛んできた方向に弾幕をお見舞いする。だが、手ごたえは無く更なる矢の応酬が来た。どうやら私達の周りを気配を消しつつ動きながら、矢を放っているようだ。
「でも、荷物は。」
「そんな物と自分の命、どっちが大事だと思っているんですか。馬鹿な事を言っていないで、早く逃げてください。はっきり言って、そこに居られると邪魔です。」
私が美鈴さんの足手まといになっている事を今更に気が付いた。そんな自分を恥じつつ、荷を捨てて森の奥へ逃げる事にした。
「紅魔館の警備部隊長、紅美鈴ここにあり。腕に覚えがある者は、纏めてかかって来い!!」
私は逃げていた。必死に私を追ってくる者から逃げていた。幾度か矢が放たれ、その都度奇跡的に避ける事が出来た。殆ど勘が働き、身をよじって避けたり持っていたナイフで叩き落したりする事を、体が勝手にやってくれた。それも美鈴さんが連中の殆どを引き付けてくれたからに過ぎないが。
しかし、それでももう限界だ。息は上がり、足元は覚束ない。だが、足を止めれば確実に殺される。
ナイフを片手に、何処まで走る事が出来るのだろうか。何処までも走らなければいけないのだろうが、それは不可能な話だ。いつ倒れてもおかしくない状態なのだから。何故殺されなければならないのか、泣きながらそれだけを考えていた。
不意に、何かが頭の中を掠めた。いつか見た光景が今の状態と重なって見えた。
そうだ、私は知っている。昔、今のように必死に何かから逃げていた事を、知っている。
矢が、数本放たれた。しかし、全て寸前のところでナイフで叩き落した。
体が覚えていた。限界以上の力を振り絞って逃げ回った事を。確かに以前にもあった。
矢が、急に放たれなくなった。私の気配の変化に気が付いたのだろうか。
逃げ惑う光景。路地の光景。手に持つナイフを振るう光景。凶器を振るわれる光景。恐怖に押しつぶされる光景。私を襲う狂気に駆られる人の光景。・・・
色んな光景が私の頭を過り、今の状況と一致した。そして、思い出した。
そうだ、前にも私はこうして人に追われたことがある。あの時あの場所で。
私の行く手を阻むように、急に前に人が飛び出してきた。手には、山刀が握られていた。
私はあの世界に拒絶された。きっかけは些細な事だった。しかし、その一瞬で私を取り巻く世界の態度は一変した。
飛び道具では私を仕留められないと判断したのか、私を追ってきていた連中の気配が変わった。前に一人、後ろに二人。
私には手によく馴染むこのナイフが一本。接近戦しかなかったが、この数を同時に相手にするには今の私には何かが足りなかった。
あれは事故だった。確かに世間の私に対する評価は恐ろしく悪かったが、あれは不運な事故だった。そして、私の周りの人間が一人死んだ。ただ、それだけの事だったはずだった。
前方の人間に可能な限り接近する。こうすれば後ろの二人は矢を撃てない。故に前方の人間に対する援護は無いものと見なせる。
何故あれほど私の評価が悪かったのか今ではもう思い出す事が出来ない。しかし、そのお陰で周りの人間はただの不幸な事故と捉える事はしなかった。
山刀が縦に振られた。それをサイドステップでギリギリのところで躱す。ガタイの良い男と力比べをするような愚を冒すような真似はしなかった。
その場は血の海と血に染まった一つの死体。そして、血に染まって泣きじゃくる私。それだけの状況証拠で、私が殺した事にされた。いくら泣いて釈明しても、どれだけ本当の事を言っても聞いてもらえなかった。
山刀を握る手にすれ違いざまにナイフを走らせた。これで利き手は潰した。
いつかやると思っていた。いつか私達に牙をむくと思っていた。そんな事を口々に、私を取り巻く人間達は恐ろしく冷たい目を向けてきた。私の周囲の人間、そして私の家族。誰も私に手を差し伸べてくれなかった。
もう片方の無事な手で、山刀が横に薙いだ。辛うじて前方に転がる事で、躱す。
誰かがポツリと言った。こうなる前に殺しておけば良かったと。誰も、その意見に異を唱えなかった。皆の私を見る目は、何か汚い物を見るそれだった。そして、私は警察に連れて行かれた。
転がり、もう一度転がった。立ち上がった時、男は倒れていた。転がる時にナイフを走らせ、アキレス腱を切断したのだ。これでこの男は動けなくなった。
警察の尋問を終え、一時保釈となった。家に帰ると義母が酷く罵ってきた。その傍らで義妹が冷たい目線を送ってきた。
私は倒れている男の喉にナイフを突き立て、残る二人に向き直った。二人は私を警戒して距離を保っている。逃げる事は止めた。殺し方を思い出した以上逃げ惑う必要が無い。
私の本当の母は、早くに他界した。そして私を引き取った父は子持ちの愛人を作り、その後再婚した。しかし、父はまた愛人を作り殆ど家に帰る事が無かった。私を押付けられた格好になった義母は、私を憎みいつも苛めて来た。義妹の関係もかなり良くなかった。
私は二人に踏み込めないでいた。二人は互いに連携の構えを崩してなく、同時に相手にするにはやはり今の私には何かが欠けていた。それが何なのか、まだ思い出せない。
義母は酒を飲んでいて、人殺しだの金食い虫だのと罵ってきた。相手側の遺族に払わなければならない金額まで言われ、自分でどうにかしろと言って来たが到底無理な話だ。私はまだ法律で保護の対象となる年齢なので、両親が肩代わりしなければならない。それが更に腹立しいのだろう。
二人が一斉に動き出した。手には山刀。一気に私との距離を詰めて来た。
酒が過ぎたのか、義母が突然ナイフを取り出して私に掴みかかって来た。私を床に押し倒すと、勢いをつけて顔をめがけてナイフを振り下ろしてきた。首を捻る事で何とか躱したが、凄い力で私の首を締め上げてきた。
私は一気に地面を転がり一人を潰そうと思ったが、警戒されていた。転がったところをもう一人に切りつけられ、躱すだけで精一杯だった。躱しきれず、背中が軽く切られた。
お前さえ居なければ。お前なんか死んでしまえ。そう呪い殺すように口々に私に吐きつけ、更に腕に力を入れてきた。薄れる意識の最中、私は死にたくないと心で叫んだ。
再度睨み合った。どうやらあの山刀には毒が塗られていないらしく、それで助かった。妖怪をも仕留めるほどの猛毒を、人間が堪えれるはずがない。
気が付いたら、義母は死んでいた。そして、私の手には血が滴り落ちる義母のナイフ。義妹は何が起きたのか理解できていない様子で呆然としていた。
今度は私から仕掛けた。潰すのは左。一気に距離を詰めて、連携をさせないようにする。
私は逃げた。力の限り、思いつく限りの場所を逃げた。そのうちに義妹の騒ぎを聞きつけたらしく、瞬く間にこの町中に私の事が広まった。私はナイフを片手に、ひたすら逃げ続けるしかなかった。しかし、追ってくる人間の私を見る目は最早人を見る目ではなかった。
左の奴が持っているのは、小太刀。袈裟懸けに切りつけてくる。ナイフでそれを受け流す。
薄暗い路地に逃げ込んだ。全力で走りながらも、追っ手のほうが足は速かった。手には重量のありそうな金属棒。首元を捕まえられた瞬間、反転して追っ手の手首を切りつけた。
左の奴の首筋にナイフを走らせる。しかし、薄く皮を剥いだだけだった。
路地を抜けた先に、凶器を持った人間達が待っていた。慌てて路地に戻ると、また人間が立ちふさがっていた。そして凶器を振り上げられた。地を転がって躱し、無我夢中で足を切りつけた。運良くアキレス腱を切断でき、それで逃げる事が出来た。
小太刀を握る腕の二の腕辺りを切りつけた。今度は手ごたえがあり、小太刀が地に落ちた。
遂に足が動かなくなり、地面に倒れた。何とか動こうともがいてみたが、立ち上がることは出来なかった。そして、怖い顔をした人間達に取り囲まれた。誰かが言った。殺してしまえ、警察には何とでも言えるからと。手に思い思いの凶器を持ち、皆私に近づいてきた。
もう一人が山刀を振り上げてきた。私は引く事よりも距離を詰める事を選んだ。
こんな事なら、さっき殺しておくんだった。そんな事を口々に言いながら、私に凶器を向けてきた。死にたくなかった。だから何故と聞いた。しかし、誰も答えてくれなかった。だが自分の胸中で問い続けた。何故私は殺されなければならない。何故世界は私を拒絶するのか。何故、・・・
山刀を掻い潜る。咄嗟に歩調を変え、相手を惑わしたのだ。そして、相手の胸にナイフを突き立てた。
そして、一つの結論に達した。世界が私を拒絶するなら、私が世界を殺す。そうすれば、私は死ななくてもすむ。
世界が開けた、そんな感じすらした。心が急に軽くなって、何か生まれ変わった気分にもなった。そして、時の流れが自分の意のままに止めれるのではないかとも感じた。
世界は敵だ。だから、私以外は全て敵だ。だから、私はその場に居た人間達を殺すことにした。
殺す事はたやすかった。時を止めつつナイフを突き立てる。殺し方は直感的に分かった。そして、全員を殺し終えた。
これが、私の全てだ。そして、どう言う訳か気が付いたらこんな所でメイドをしていた。
残る最後の人間の喉を切り、周辺の敵を全て殺した。
私以外は全て敵。ならば、全て殺すまでだ。私が死ぬか、世界が死ぬか。それ以外は無い。
「さ、咲夜さん、これはいったい・・・」
振り向くと、紅魔館の警備隊長が唖然とした表情で立っていた。体には数本の矢が刺さっており、毒のせいか顔色が悪かった。この同僚も、敵だ。
「咲夜さん、ちょっと待ってください。落ち着いてください。私ですよ、紅美鈴ですよ。」
踏み出した私に対して、手をブンブンと振り回し盛んに味方だという事をアピールしている。しかし、こういう奴が一番危険な奴だ。味方の様な顔をして、心を許すと後で酷い裏切りが待っている。
一見無防備そうに見えるが、さすがに隙らしい隙が見当たらなかった。だが、私の距離の中に入っている。どうにでも殺しようがあった。
一気に距離を詰めた。しかし、まだ相手は無抵抗な振りをしている。
ナイフの距離。しかし、まだなんら行動を取ろうとしない。
最後の距離。相手の表情を見た。何故か沈痛な表情をしている。
そして、ナイフを突き立てた。
いきなり抱き寄せられた。振りほどこうとしても無理だった。
「何故ですか、咲夜さん。」
何故。この敵は何を言っているのか。
「何故、またそんな表情をしているんですか。」
さらに強く抱き寄せられた。私はこの敵の胸に顔を埋めるという格好になっていた。
「せっかく、お嬢様達が咲夜さんの笑顔が見られるようになったと喜んだのに。何故、また紅魔館にお嬢様に連れられて来られた当時の表情をしているんですか。」
この敵の声は、涙で震えていた。何故、泣く事があるのだろうか。
しかしこの温もりは何なのだろうか。何故、殺そうとした私が温もりに包まれているのか。
不意に、何かを思い出した。
「私だって、あの時は嬉しかったですよ。始めは話しかけても完全に無視されるだけで、完全に嫌われていましたから。」
全てが敵。そう思い定めていた私は、誰も信用する事が出来なかった。だから、当然のように話しかけてきたこの少女を警戒し、無視した。
「でも、あの時の咲夜さんの目はこのままにしておいてはいけないという様な目でした。」
だから、この少女は何度振り払ってもしきりに私に近づいてきた。どんな些細な事でもいいから何とか会話をしようとしていた。余りに鬱陶しくなって、殴りつけたり切りつけたりもした。しかし、この少女は諦めなかった。
「初めて会話できた時は、それはもう記念日にしたくなるくらい嬉しかったですよ。」
何かにつけて様子を見に来るお嬢様とこの少女に私は根負けした。少し、試しにこの少女と話をしてみる気になったのだ。この少女の問いかけに答えてみると、少女は破顔の笑みを浮かべた。私も何となく、その笑みに引かれた。
「それからしばらくすると、咲夜さんの方から話しかけてくれるようになりました。そして、色々な感情も現してくれるようにもなりました。私は本当に嬉しかったです。」
いつの間にか私はこの少女とお嬢様を受け入れていた。気が付けばこの二人を求めてもいた。そして、自然と笑うようになっていた。
「だから、お願いです。そんな表情をもうしないでください。貴方は一人じゃない。貴方にはお嬢様がいます。だから、もうそんな表情をしないでください。」
暖かかった。本当にこの少女は暖かかった。私にはお嬢様と、この少女がいる。何故、私はこの温もりを忘れてしまったのだろうか。何故、一時の感情に駆られてしまったのだろうか。この少女は、こんなにも暖かいのに。
不意に、私に掛かる重さが増した。少女の声はあれっきし聞こえなくなっていた。
「美鈴、さん?」
呼びかけても、返事は返ってこなかった。その代わりに、美鈴さんの体がずれ落ち、地に転がった。
そして、私は見た。美鈴さんの血でぬれるナイフを。それもそのはずだった。私が先ほど美鈴さんに突き立てたのだから。
「い、嫌・・・」
義母の血を吸い、その他大勢の血を吸い、そして今度は美鈴さんの血をも吸ったのか。
私が、このナイフを使って、美鈴さんを、殺めてしまったのか。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
心臓が破裂しそうだった。私の背に居る美鈴さんの重さは増すばかりだ。それでも、止まる訳にはいかなかった。少しでも早く、紅魔館に行かなければ。
もっと早く走れない自分が恨めしかった。私はもっと早く走れるはずだ。何故もっと早く走れない。早く、風のように早く!!
走っていては湖を渡れないし、間に合わない。ならば空を飛べばいい!!
空を飛んでも、美鈴さんは間に合わない。ならば時を止めればいい!!
意識が限界に達し、白くにごり行く視界に向かって、心の底から吼えた。
「お嬢様、お湯をお持ちいたしました。」
部屋の中に招かれ、お嬢様にお湯が入った器を渡した。基本的にお嬢様と妹様は体をお湯で拭いて綺麗にする。お嬢様が体を拭いている間は、外に出て待機している。
あれから数日、私は溜まりに溜まっていた仕事を片付ける事に忙殺された。そんな事を知ってか知らないでかお構いなく、お嬢様の無理難題に振り回されもした。
部屋の中か招く声があり、私は再度部屋に入った。
「やっぱり、咲夜がいてくれると本当に助かるわ。咲夜が記憶を失っていた間は、地獄のようだったわ。」
うんうんと頷くお嬢様に、今度は用意していたお茶を渡す。
「咲夜の入れた紅茶は、やっぱり良いものね。他のメイドではこうはいかないわよ。」
そう言いながらも、何かまた良からぬ事を考えているようだ。
「もう、すっかり記憶は戻ったのよね。結局パチェは間に合わなかったようだけど。」
あの後私は、死ぬ一歩手前の美鈴を背負って、突然お嬢様の前に表れらしい。そして、美鈴をお嬢様に預けたのを確認したらそのまま倒れたらしい。その後三日間は眠り続けて、起きたときには記憶を取り戻していた。
「まあ、パチェが間に合わないのは何時もの事だけど。それより、今度は・・・」
嬉々としてまた何かを言いつけてくるお嬢様を、誰か止めて欲しかった。私が記憶を取り戻して嬉しいのは分かるし喜んでもらえると私も嬉しいのだが、今度は過労死しかねない勢いだ。
戸をノックして、部屋に入った。床に散らばる筋トレグッズを避けながら、部屋の奥にあるベッドに向かった。
「あら、美鈴。元気そうね。」
「あ、咲夜さん。これは、その、余りにも暇だったものですから、つい。」
ベッドの上で医者に安静を命じられているはずの美鈴が、軽いストレッチ運動をしていた。
元々体が頑丈な美鈴は、このくらいなら平気なのだろう。
美鈴が助かった理由は、私が辛うじて急所を避けて刺していたからである。あのまま急所を刺していたら、間違いなく助からなかったそうだ。
「それくらい元気ならば、そろそろ職場に復帰しても良いわね。」
「そ、そんな、咲夜さん、それはいくらなんでも無理ですよ。」
猛毒と、大量の出血。いくら美鈴が頑丈だからといって、おいそれ助かる物ではなかった。それでも、美鈴は助かった。私が日頃ナイフで鍛えているからか。
「そんなに情けない声を出す物じゃないわよ。ねえ、美鈴先輩。」
「あ、う、しっかりこの前の事を覚えていらっしゃるのですね。」
助かったはいいが、いまだに美鈴は安静を命じられている。職場復帰は、まだ先の事になるそうだ。
とりあえず、私が記憶を失っている事をいいことに勝手に先輩風を吹かしていた美鈴をナイフで脅しておいた。本当は当てたかったのだが、今の美鈴には厳禁だった。
「あ、あれ、咲夜さん、そのナイフは。」
見れば、私の手にはあの時のナイフ。
「御免なさい、美鈴。これは貴方にとって嫌な物だったわね。」
「いえ、そんな事無いで。ただ、何故そのナイフを何時も持っているのか気になって。」
「これは、私の過去よ。私は自分の過去から目を背けたくないの。だから、戒めとしてこれを持っている事にしているの。」
「咲夜さん・・・」
美鈴が悲しそうな顔をした。美鈴としては私にそんな過去を忘れて欲しいのだろうけど、忘れるには私は血を流しすぎた。
血と憎しみに彩られた私の過去。しかし、私をそこから救ってくれたのはお嬢様と美鈴だった。そして、美鈴は二度までも私を救ってくれた。
「美鈴」
私は何故美鈴が私を救ってくれたのかを聞いてみたくなった。しかし、止めた。どのような理由であれ、私は美鈴を信じているから。
「はい、咲夜さん。」
私を見つめてくるこの少女の気持ちに答える為にも、精一杯のお礼が必要だろう。だから、
「ありがとう、美鈴。」
精一杯笑顔を作って、お礼を述べた。
最近美鈴株どんどん上がってます。
良作乙です。
閑話休題。美鈴の啖呵がすごい良いですね。紅魔館の警備部隊長、紅美鈴ここにあり~ってやつです。やっぱ美鈴は良いです。
ですが私の最も言いたい事。それは、「新人時代の咲夜さんの、美鈴に自分から話しかけはじめたころの話」が読んでみたいです!
無茶っスね。
本心ですけど。