「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・くすっ」
風のざわめきのせいで、永琳が何を言っていたのか慧音には聞こえなかった。
だが、口に手をやる仕草とその表情から含み笑いをしているというのは容易に予想がつく。
「・・・・何がおかしい?」
「おかしいわよ・・・・・・あなたともあろう人がそんな事を訊くなんて・・・・あはは」
口元を隠すのをやめ、大笑い・・・とまではいかなくとも声を上げて笑い出す。慧音には、その笑いが作り物であるように思えた。
だがそこには突っ込まず、どうせ過剰反応を演じているつもりだろうと切り捨て、しばらく永琳を泳がせてやる。
・・・・・・・・・ややあって永琳もようやく落ち着き、一呼吸置いてから元のすまし顔に戻った。
「風邪を絶対に引かない人間なんて、果たして存在するのかしら?」
「・・・それは・・・・・・確かにいないだろうけど」
「そうでしょう?なら、そういう事よ」
「だが妹紅殿は普通の人間とは違うんだぞ・・・同列には扱えないだろう?」
「・・・・・・難しい話はさておき、私は『病原菌が感染した瞬間・病原菌が体に影響を与え始めた瞬間』を『風邪を引いた』と考えてるの。そういう意味ではあの子も私も、姫でさえも風邪を引いているという事になるわ。但し私達蓬莱人の場合、自己保存本能・つまり体の再生能力が並の人妖と比べると極めて強いから病原菌が感染した瞬間その部位が治癒していくの。もちろん病原菌はその場で死滅よ。だから、私の定義で説明すると私達蓬莱人は『感染はするけどその症状が目に見えて現れる事は決してない』って事になるわね。勿論自覚も全くない」
「・・・・・・質問を変える」
永琳の連続口撃に耐えかね、流石の慧音も話をそらす。
共に『頭がいい』と讃えられる二人だが、その分野がはっきり違っているのだからここはより多く喋った者勝ちだ。
「なぜ、妹紅殿の体に『風邪の症状が目に見える形で現れたのか』?これなら答えていただけるのかな?」
「・・・・そうねぇ・・・・・・・・・・・・」
彼女にとっても相応かそれ以上の難題だったのか、腕を組んで考え込む永琳。
視線をあちこちに泳がせ、グルグルと歩き回り、顎に手をやり、まるでステレオタイプな行動を一通り取ったかと思うと何かを納得したように視線が慧音の目の前に戻ってきた。
「これはあくまでも私の仮説だけど・・・」
勿体ぶるように、慧音の顔をチラチラと覗きながら続ける。
「・・・あの子が蓬莱の薬を飲んでから、随分経つわ・・・・・確か千年ほどだったかしらね?それだけの時を経て、あの子の体の中で少しずつ少しずつ薬の効果が薄れつつあった・・・・・・・としたら?」
「そんな事が・・・・・・・・・・いや、起こりうるのかも知れないな・・・・・・」
「可能性は常にゼロじゃないわ・・・・・とにかく、それによってあの子の再生能力が普段とは比べ物にならないほど弱くなってきて、遂には普通の・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ま、待ってくれ!?」
竹林を駆け抜ける涼やかな風は、もはや感じられなかった。
そこに在るのは肌にベッタリと張り付いてくる生暖かい空気、それだけでも慧音の呼吸は少しずつ荒くなってきているし、汗もとめどなく流れ落ちる。
だが、彼女をそこまで乱すのは勿論空気のせいだけではなかった。永琳の仮説が、最後の方は動揺のせいで慧音の耳には鮮明に届かなかったとしても、彼女の心を激しく揺さぶる。
「・・・・・・・もしも・・・・もしもだ。あなたの仮説通り、妹紅殿の再生能力が普通の人間並みになってしまったとしたら・・・・・・・・・?」
「・・・そうねぇ・・・・・まず体の強度は損なわれてはいないでしょう。少なくとも、姫と戦っても早々に傷つかない程度には。でも、ある一線を越えて傷ついてしまったらそこから先は分からない・・・・・・肉体は殆ど再生せず、しかし体は頑丈だからすぐに死ぬような事もなく、結果的に今までとは逆の意味で地獄を見る事になりそうね・・・・・・・・・・」
「そして、最後には死んでしまう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・か」
「・・・・もう一度言うけど、あくまでも仮説ですから」
「分かってる・・・・・分かってるんだが・・・・・・・・・・・・・・」
『月の頭脳』の二つ名を持ち、その叡智をもって蓬莱の薬をも作り出してしまった永琳。
そんな彼女の言葉は、たとえ仮説である事を強調しても強烈な説得力と真実味を帯びて慧音の心に刻まれる。
――妹紅殿はいつか死んでしまうのか。
――否、いつとは言わず風邪が治り次第竹取の姫に挑んでしまうのではないか。
――自分はそれを止めるべきなのか、そして止められるのか。
――妹紅殿にはこの事を伝えるべきなのか?
――自分は、どうしたらいいのか・・・・・・・・?
歴史の流れをいくら手繰ってみても答えが見つかるはずはない。
かといって再び蓬莱の薬を飲ませてもらうというわけにもいかない。
不老不死になる・・・・・・ヒトの領域を超えた重大な事象であるが、そこから元に戻るという事もまた(起こり得るかどうかは別として)人智を超えた領域であるのだ。
「あ、あの・・・・永琳殿ならこんな時、どうするのかな・・・・・・・?」
「・・・私?」
「永琳殿が今の私の立場にいたら、逆にあなたの所の姫が今の妹紅殿と同じ立場にいたら・・・・・あなたはどうしてる?」
慧音らしからぬ質問・・・いや、慧音らしからぬ行動だった。
敵意がないとはいえ、永琳は妹紅の敵側の人間。慧音にとっても味方というわけではない。だが、迷う慧音はそんな永琳にすらすがる思いで問いかける。
そのか弱き姿に『人間の守護者』という凛とした空気はなく、今の慧音は大きな壁を前にもがくただの少女に過ぎなかった。
「愚問ね」
「・・・・・・え?」
「その質問には答えられないわ・・・いえ、答えた所でどうなるものでもない」
永琳はそんな慧音から背を向け、慧音を突き放す・・・いや無造作に突き飛ばさんという口調で返す。
「あなたと私は何もかもが違うし、あなたの姫と私の姫も違う・・・・・・言うまでもないでしょう?」
「う・・・・いやまぁ・・・・・・・・・・」
「だから私の言葉はあなたの灯火にこそなれ、満足のいく答えには程遠いはずよ?」
「・・・そ、それでもいい!灯火でいいんだ、私に何か一つでも助言をかけてくれれば、私は・・・私は・・・・・・・!」
背の向こうの永琳はどんな顔をして立っているのだろう。
怒っているのか、同情してくれているのか。
それとも、この空気の中にいてなお微笑みを浮かべているのだろうか。
ともすればこの場で殺し合いが始まってもおかしくない間柄なのに、こんな事を懇願する自分が恥ずかしい。
だが、恥ずかしいと思うだけでは何も進みやしない。自分の力だけでどうにもできないなら、せめて何か助言を受けて何かをしたい・・・・・・
拳を固く固く握り締め、慧音は永琳の背に向かって迷う事なく頭を下げた。相手に塩を求めるなど、気位の高い慧音としては到底考えられない行為だ。
「・・・頼む!この通りだ、今一度あなたの知恵を借りたい・・・・・・・!」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
ザァァァ・・・・・・・
再び、風がざわめき始めた。
風は竹の葉を鳴らし、竹の小枝を揺らし、無数のざわめきを生み、二人の周りの雑音をかき消してくれる。
この竹林は元々棲む者の少ない所だが、竹の奏でる音はまるでここに慧音たち二人しかいないような錯覚を与え、すぐ近くにあるはずの慧音の庵の存在すらも忘れさせ、二人だけの『静』の世界を創り出す。
その中で永琳はゆっくり振り向き―――しかしその顔には感情のない微笑が張り付いていた。
「私なら・・・・・私なら、どこまでもついて行き、どこまでも信じ、どこまでも尽くす。それだけよ」
「・・・・・・・・!」
言葉と表情が符合する。
これは決して無感情の微笑などではない。思案、苦悶、努力、期待、希望、絶望・・・・・・
永い時を経て、あらゆる行動を起こし、あらゆる感情を興した者だけが知り得る、一種の諦観と確かな決意・・・・・永琳は、言うなれば『悟り』を開いた者の瞳をしていたのだ。
その瞳は深く深く、全てを呑み全てを映し出しそうな輝きを放つ。目と目が合った瞬間、慧音は永琳の足跡のごく一部を垣間見たように感じていた。
「そうか・・・・・・強いんだな、永琳殿は」
「まあ、長生きしていればそれなりに打たれ強くはなりますわ」
「・・・ありがとう。こんな簡単な事を思いつかなかったなんてな・・・・・・莫迦みたいだ」
「歴史を振り返るのもいいけど、現実もしっかり見つめないとね・・・って事」
「ハハッ、耳が痛いよ」
暗く沈んだ顔の慧音は、いつの間にかどこかに消え去っていた。
永琳の言葉を聞き、その瞳から永琳を感じ、自らの後ろ向きな思考を恥じ、そして吹っ切れた。
肩の荷が下りた感じで、今後妹紅とはどのように接すればいいかという疑問もあるがそんな物は瑣末な事のように感じられる。
「さて・・・姫を待たせてもいけないからそろそろお暇しようかしら」
「そういえば、私も病人を置き去りにしたままだったな」
「じゃあお大事に。ここからは私一人でも帰れるわ」
「ああ。今日は本当にありがとう・・・・・」
「いえいえ。あの子の為、姫の為、そしてあなたの為よ・・・」
慧音に再び背を向け、最後に一瞥をくれ、永琳は地を蹴って竹林のはるか上方に抜けていった。
振り向き際に慧音が手を伸ばしてくるのがチラリと見えた。だが、永琳はそれを知りつつ敢えて一瞥をもって返事と為したのだ。
「・・・・・・そりゃまあ、私の為って言ったらそのままなんだがなぁ・・・・・・・・・・・・」
後に残された慧音は伸ばした腕を引っ込め、掌をじっと見つめてバツが悪そうに俯きつつブツブツと呟く。
自分の癖、それも悪い癖を永琳に見抜かれたような気がしてならなかったのだ。
だが彼女のお陰で勇気付けられた事もまた事実。現実を見つめ、とりあえず今は妹紅の回復に努めよう・・・・・・結界の歪みを広げ、慧音は引き返して庵に向かう。
「『栄養のある物を』と言ってたな・・・・・よし、腕にヨリをかけてやるか」
空の隙間から顔を覗かせる月の明かりが、少し輝きを増したように見えた。
(続)