「ねぇ、よ~むぅ」
ちゃぶ台を差し挟んだ向こうから、ねだるような幽々子の声がする。こういうのを猫なで声とでも言うのだろうか。軽く小首を傾げている仕草などは確かに猫っぽいかも知れない。
そんな幽々子に対してほんの一瞬でも、可愛いな、などと思ってしまった妖夢は、自身の修行不足を認識した。今度自らに滝行でも科すとしようか、と彼女は思う。冥界のどこに滝があるのかなど知らないのだが。
別に幽々子の事を可愛いとか綺麗とか思う事それ自体は構わないだろう。そこに変な感情がある訳でもなし。
従者である妖夢が言うと見方に偏りが起きるだろうが、事実幽々子さまはお美しい御方ですよと、妖夢は心の中で思っている。だから、もっとおしとやかにして頂けたらなぁ……と、妖夢は何度神に祈りを捧げたか分からない。
まあそんなありもしない幻想に耽るのは、どこぞの年中春爛漫な紅白に真っ当な巫女神楽を期待するようなものだ。詮無き事詮無き事。
……問題はそこではない。
今妖夢が置かれている限定された状況において、幽々子に対して「可愛い」などという感情を抱いてしまうのがダメなのだ。それはすなわち、幽々子の手管に掛かる事を意味してしまうのだから。
今置かれた状況。
目の前のちゃぶ台の上に並ぶ、3枚の空のお皿。
その内の1枚を、幽々子が差し出してくる。
「おやつのおかわりちょ~だい」
「ダメですっ!」
ブワッとちゃぶ台返しのごとく、妖夢はその皿を天井へとはねつけた。
「けち」
「言うに事欠いてけちですか」
ぶーぶーと文句をたれる幽々子の膨れっ面をよそに、妖夢は事務的に皿を片付け出す。
ちなみに先程天井へとすっ飛ばされた皿は、床に落ちる事なく妖夢がきっちり回収している。自分で飛ばしておいてナンであるが、割れてしまっても困るという事だ。
本来ならば皿を飛ばすどころではなくちゃぶ台返しでもカマして盛大に拒否と憤怒と抗議の意思を表明したかったのだが、結局従者である自分が後始末をしなければならない事を思い、理性を総動員してやっとの事で皿返しで我慢したのだった。宮仕えの辛いところである。主への非礼に当たるとかそういう事についてが一顧だにされてないあたり、妖夢らしいと言うべきか。
それに、ちゃぶ台返しと言うものはご飯やら味噌汁やらコロッケやらその他諸々のおかずが卓上いっぱいに載った状態で華々しくキメてこそ、極上の爽快感が得られると言うものだ。皿3枚ごときを宙に放ったところで何の面白みがあろうか。
話がそれた。
「いいじゃないの、おはぎの10個や20個くらい追加してくれたって」
「ぬけぬけと2ケタもの数を追加して貰おうとする幽々子さまのその根性は尊敬に値すると思います」
「これでも遠慮してるのよぉ」
「どこがですか! それに、これでもいつもより多くお出ししたんですから、もうダメです」
「え~、せっかく今日は剣のお稽古をしっかり受けたんだからごほうびくれてもいいじゃない」
「……それが一応、先程の山盛りのおはぎだったのですがね」
とりあえず、いい歳こいてごほうびなんてものを要求するところには妖夢は突っ込まなかった。
今日幽々子は珍しく、間に昼食を挟んで午前と午後それぞれ約2時間ずつ、妖夢の剣術指南を受けていた。
確かに、幽々子が真面目に竹刀の素振りをしたり剣術の型の稽古をしたりする姿を幻視するには、想像力の翼を二百由旬めいっぱい広げる必要があるだろう。しかし気まぐれに生きる幽々子にとっては、時には真面目に何かに打ち込む事さえ戯れのひとつなのだった。
まあ、真面目に稽古を受ければ妖夢がおやつをサービスしてくれるだろうなー、という心算が幽々子の中にあった可能性については、議論の余地がある……どころか大いに考えられ……いやいやむしろそれが真実か。
要するに、真面目に稽古を受けたら妖夢が思わずサービスしたくなるくらい、普段幽々子は剣の稽古をなおざりにしているという事なのだが。
「だいたい、お昼だっていつもの1.5倍くらい召し上がってたじゃないですか。それなのによくそんなにおやつが入りますね」
「それはもちろん、真面目に稽古を受けてたらお腹も減る訳だしぃ……」
“真面目に”のあたりに必要以上のアクセントが込められていたのだが、妖夢は無下にスルーする。
「おやつは別腹って言うしぃ……」
アンタは一体いくつの別腹持ってるんじゃいと突っ込みたくなる衝動に駆られるも、妖夢は何とか持ちこたえる。
「なにより、妖夢の作ってくれた料理って何でもすごく美味しいからたーくさん食べたくなっちゃうのよねぇー」
「うっっ!」
しかし突然のからめ手からの奇襲攻撃に、妖夢は思わずうめき声を上げてしまった。
幽々子はいかにもぶりっ子してますよーといった感じの甘えた声を出しており、しかも胸元で指を組んで小首を傾げるといういかにも乙女ちっくな仕草のオマケ付き。全身から「おやつもっとちょ~だい」オーラを余すところ無くビンッビンに発している。
――騙されてはいけない! これはおやつの追加を目論む幽々子の手管だ!
――――何を言う! 主からお褒めの言葉を頂けるなんて従者として最上の喜びではないか!
――馬鹿! さっきの猫なで声を忘れたか? この大食らいは食の為ならばどんな手段をも行使するんだ!
――――ふざけるな! 従者たるもの主の言にいらぬ疑いを差し挟むなぞもっての外! 恥を知れ恥を!
真っ二つに分かれた妖夢の脳内で起こる激しい剣戟に、当の彼女自身は頭を抱える。時折あ~とかう~とかうめいたり頭をぶんぶん横に振ったりして悩む様子は、傍から見れば滑稽な事このうえない。
「わかりましたよ! またおはぎを作ってくればいいんでしょう!?」
ムキというか半ばヤケになって妖夢は言ってしまった。頭にいらん言葉が付随してしまうくらい真面目な妖夢は、主のこういう攻めに非常に弱い。九割九分冗談に見えても、もしかしたら心からの本音を言っているのかも知れない、と考えてしまうからだ。
妖夢のそんな性格を把握した上で、幽々子は妖夢を褒めたのだろう。そして妖夢自身も、幽々子の性格も作戦も理解している。それでも折れてしまうあたり、やはり妖夢の性格ははっきりとこう形容されるべきか。くそ真面目だ、と。
見れば妖夢の瞳にはうっすらと涙さえ浮かび、内面での葛藤の激しさを如実に物語っている。その葛藤の内容のアホらしさとは恐ろしいまでのギャップである。
「ありがと妖夢~」
笑顔でバンザイをして全身で喜びを表す幽々子に向け、精一杯の反抗の意思を込めて妖夢は大きくため息をついた。
しかし、1に食べ物2にお酒、3、4がなくて5に妖夢いじりな幽々子にとって、更におやつが貰えると決定した時点で他の事など思考の埒外。妖夢のささやかな抵抗は今日も途方に終わるのだった。
「おいし……」
言わなくてもその満面の笑みを見れば分かりますよ、とそんな言葉が喉元まで出かかったが妖夢は何とか飲み込んだ。数回咀嚼出来る間を惜しんでわざわざおいしいと言ってくれたのだ。何もそこまでひねくれた事を言う必要も無いだろう。
それに、自分の作った料理の味を褒めてくれているのだ。悪い気がするはずがない。……たとえそこにいささかの打算が含まれていたとしても。
妖夢はあらためて、おはぎを次々頬張っていく幽々子を見つめる。
目の前の主はお菓子でも何でも、本当に美味しそうに食べてくれる。見ている方が思わずほころんでしまうほどに。
「どうしたの妖夢?」
「いえ、何でもありません」
見つめ過ぎていたようだ。
「妖夢も食べたいの?」
「違いますって。……あ、いえ、やはり私も頂きます」
「そう。はい、あーん」
「うえっ!?」
皿に手を伸ばそうとしたところに、突如幽々子からおはぎが目の前に差し出される。しかも、「あーん」という魔法の言葉つきで。
「いいですよ、自分で取りますって」
「あーん」
「いえ、ですから」
「あーーん」
「自分で……」
「あーーーん」
ますます迫って来るおはぎ。あんこが鼻の頭にくっつきそうだ。
見ると幽々子はわざわざちゃぶ台に乗り出して来ている。これ以上断り続ければ、容赦など知らぬこの主は本当におはぎをべちょりとやってくれるだろう。やむを得ないんだ、と妖夢は自分に言い訳をした。
ぱくっ。
口の中に広がるあんこの甘さと、つぶつぶとした食感のするもち米。自画自賛と知りつつ、妖夢は美味しいと思った。
その味をひとしきり堪能して、妖夢はおはぎを飲み込む。
「そんなに遠慮しないで素直にあーんしてくれてもいいじゃないの」
「普通に食べさせてくださいよ」
「妖夢が風邪の時なんかはお粥をふーふーしてあーんしてあげてるのに、冷たいコね。ううぅ……」
「少なくとも今は健康ですっ」
「あら、でも顔は微妙に赤いわよ」
「っ!」
ああ言えばこう言われ、こう言えばそう言われ。いつものように妖夢は言い負かされる。
別に競っている訳では無いのだが、おやつをもしゃもしゃと頬張りながらの相手にやり込められるというのは、どこか釈然としないものがあった。
「ごちそうさま」
「ってもう空ですか」
またしても綺麗さっぱりなくなってしまったおやつに、妖夢は呆れるしかなかった。
こうまであっさりと食べ尽くされると、作り甲斐があったのか無かったのか判断に困るところである。作り甲斐があったと言う事にしようか。精神衛生上。
「ねぇ妖夢」
「もうおかわりはダメですよ」
「まだ何も言ってないじゃないの」
失礼ねぇ、と幽々子は頬を膨らませる。
妖夢にそう言わしめている原因は幽々子自身の食いっぷりであるのだが、当の本人はそんな事はこれっぽっちも気に留めない。これこそ、白玉楼の主としての胃のデカさ……ではなくて器の大きさと言うところか。全く関係ないような気もするが、そういう事にしておこうか。精神衛生上。
「それで、何でしょうか?」
「おはぎ、美味しかったわ。ありがとう妖夢」
「……え?」
想定外の言葉に、妖夢は言葉を失う。
真意を伺いたくても、微かな笑みを浮かべるだけの主の、その心の中は読めない。つい言葉の裏を探ろうとするあたりは妖夢の悲しいサガであろう。
甘いものを食べた後の口直しに、渋めの緑茶を啜る幽々子。おはぎの甘さとお茶の渋さの両方に満足したように、ふぅ……、と長い息をつく。
静寂。
コトリ、と幽々子が湯呑みをちゃぶ台に戻す音が部屋に響く。
「その内また、お願いね」
「は、はいっ」
つい嬉しくて、いつもよりオクターブの高い返事をしてしまう。
そして嬉々として皿と湯飲みを片付けてゆく妖夢を、幽々子はふふ、と笑いながら見守るのだった。
夕刻前。
この時間になると、幽々子は夕餉の時刻まで書物を愉しむのが日課になっている。
夕餉の支度を始めるまでの間は、大抵妖夢もそれにならう事にしている。剣の修行も大事だが、学をないがしろにしてはいけない。文武両道というやつである。
春ののどかな陽気も随分前に過ぎ去ってしまい、次第に夏の足音が近付きつつあるこの時期。剣術指南をしていた昼頃は、身体を動かせば汗ばむくらいの陽気であった。けれど日が傾いてきたこの時間帯は、白玉楼は程よい涼しさに包まれていた。障子は開け放たれていて、部屋には時折涼しげな風がそよそよと吹いてくる。
そして、あたりは静寂。書を読むのにふさわしい頃合いである。
が。
「幽々子さま、起きてください」
当の主はうつらうつらと舟をこいでいた。
妖夢も読書中ではあったが、目の前で大きく前後に揺れる頭が気になって気になって仕方がない。その内ちゃぶ台にコンニチハごっつんこしてしまいそうな勢いである。
「……あら、私、寝てた?」
「寝てました」
それはもう物凄い勢いで。
「眠いのでしたら、夕餉の支度が整うまで横になられますか? それなら床の用意をして来ますが」
「そうね、お願いするわ……ふぁ」
後半の台詞は欠伸と同化していた。妖夢は思わず苦笑してしまう。
今日の幽々子は剣の稽古で長時間身体を動かしている。疲れから、眠くなるのは仕方が無いのかも知れない。ついでに言えば先程、おやつも沢山食べた訳でもあるし。
食後すぐ横になると牛になる、という文言が一瞬脳裏によぎったが、妖夢は言わないでおいた。
再びこっくりさんを始めてしまった主を見やり、妖夢は床の支度に向かった。
「幽々子さま、床の用意が……」
整いました、とまで言葉を継ぐ事は出来なかった。
妖夢がもとの部屋に戻って来ると、幽々子はちゃぶ台に腕を乗せ、それを枕に見事に寝入っていた。妖夢が床の支度をする数分の間にこうなってしまうという事は、余程眠かったのだろう。
顔を横にしていて首が痛そうなものだったが、そんな事お構いなしに心地良さそうに幽々子は眠っている。
「幽々子さま、起きて――」
「よ~むぅ」
妖夢の言葉は、幽々子の寝言に遮られてしまう。聞いている方がとろけてしまいそうなほどの、とろんとした声。
妖夢は、自分の事を呼ぶその声色に聞き覚えがあった。それは、おやつのおかわりをねだる時の幽々子の声とそっくりだったのだ。
どうせ、この後に続く言葉は「おやつ~」か「ごはん~」に決まっている。
寝ても覚めても食べる事ばかり……と、妖夢はため息をつく。
今ちゃぶ台返しをしたら、そのまま見事に倒れこんで顔を畳に打ち付けるんだろうなぁ、と妖夢は従者にあるまじき不穏当な事を考える。まさか実行したりはしないが、想像までなら罪にはならないだろうと、妖夢は自分に言い訳をした。
けれど、
「ふふ…………」
妖夢の想像した言葉が続く事は無く、幽々子は、かすかな微笑みを見せるだけだった。それはあえて言えば、何かを可愛がる時のような穏やかな表情。
自身の所作を注意された訳でもない。心の内を見透かされた訳でもない。しかし妖夢は、自分の胸を刺し抜かれたような思いに捕らわれた。
自らの名を呼び、慈しみの表情さえも向けてくれる主。
なのに、自分はさっき何を考えていた? 想像するだけなら問題ないと自己正当化までして。失礼にも程がある。
罪悪感と恥ずかしさで、妖夢は耳まで真っ赤になる。誰にも見られていない事が幸いであった。いや、今の妖夢なら、罰として恥を公に晒される事さえ望んだかも知れない。
「う……ん」
幽々子の寝言で、妖夢はようやく我に返る。
妖夢は、恥ずかしくて主に顔向けさえ出来ない思いだったが、さりとてこのままちゃぶ台で寝かせておく訳にもいかなかった。
「幽々子さま、床の支度が整いましたよ」
「……ん」
何度か身体をゆすり、ようやく幽々子が重たそうに頭を持ち上げる。
どうにかして幽々子を立ち上がらせるも、足元はおぼつかないし、頭はふらふら。確実に意識の9割方は夢の中だろう。そのまま素直に歩いて行ってくれそうには思えなかった。
「さ、お部屋へ」
「……よーむが連れてって」
「えっ?」
幽々子が、す……と手を差し出してくる。つまりは手を引いて行けという事なのだろう。
一瞬、妖夢はその手を取るのをためらってしまう。今手を繋いでしまったら、自らの心の内が読み取られてしまうような気がしたからだ。
そんな思いを振り払い、妖夢はどうにか幽々子の手を握る。柔らかい感触が返ってきた。そのままその手を引いて寝間へ向かう。
幽々子は相変わらず夢見心地な表情で、妖夢は苦笑してしまう。いつも以上にふわふわとした雰囲気だった。
途中で転ぶ事も無く、無事に寝間の布団の前までたどり着く。
「さ、着きましたよ」
「……ん」
「お召し物はどうされます?」
「寝る」
「って、わっ!」
妖夢が驚きの声を上げる。突如幽々子に抱きすくめられたからだった。
そのまま二人は布団へと倒れこむ。
「妖夢の抱き枕~」
「ちょっ……やめて下さい幽々子さま!」
妖夢は幽々子の腕の中で抵抗を見せるも、意外にしっかりと抱かれていて振り解けない。幽々子はこの上なく寝ぼけているようだった。起きてる時だけではボケ足りないのかこの主は、と妖夢はかなり失礼な事を思う。
「寝ぼけないで下さいよぉ」
「……嫌?」
「え?」
「私と、こうしてるのは……嫌?」
そう問う主の声はなぜか、どこか寂しげな気がした。もしくは、拗ねているような。
それが寝言なのか、それとも清明な意識のもとで言っているのか、妖夢には分からなかった。
表情を伺おうにも、妖夢は幽々子の胸元で抱かれていて顔を動かす事が出来ない。
そもそも妖夢は、幽々子にこうされる事が嫌なのではなくて、あくまで突然の出来事に驚いてそれに抗おうとしていただけの事だった。
実際、妖夢は自分でも気付かぬ内に抵抗を止めていたし、何より、抱かれる腕には既に力が込められていなかった。それでも、幽々子から離れようとしないという事は。
「……え、と」
「……うん?」
「嫌では……ないです」
それが、妖夢の本音だった。
そしてまた、あの、ふふ……と微笑むような声が耳に届いて、間もなく頭上から主の寝息が聞こえて来た。今度は本当に眠っているようだった。
ふう、と妖夢は一息つく。
この主には、分からないところが本当に沢山ある。
いつもどこか呆けているようで、物事の本質はしっかりと見据えていたり。それらしい事を言ったと思ったら、結局ただの冗談だったり。
先程の言葉も、夢の向こう側から発せられた幽々子の寝言なのか、本音からの問い掛けなのか、はたまた単なるからかいの言葉なのか、妖夢は分からなかった。
もしかしたら、この主には夢と現の別など無いのかも知れないな、と妖夢は思う。いつもどこかふわふわとしていて、あたかも普段から常に夢の中にいるみたいなのだから。――決して覚める事の無い、夢の中に。
あるいはさっきの言葉は、夢の向こうからの幽々子の本音なのかも知れない。夢ではない、妖夢と言う現実の手応えを求めたがゆえの。
そう思うと、妖夢は幽々子の事がとてもいとおしく感じられた。不遜は承知。そして考え過ぎだとも思っている。
それでも、今あなたが腕に抱いている相手は、夢の中の幻想などではなく現実に確かに存在しているのですよと、伝えたかった。私達は確かに今、ここ白玉楼に居るのですよ、と。
「幽々子さま……」
小さく、そう口にしてみる。
けれどその声はすぐさま空気の中に霧散し、消えてしまう。まるで、今は失われた昔日の夢の記憶みたいに、初めから存在しなかったかのように。
そんな現実に、妖夢は寂しさを覚えずにはいられなかった。
それでも。
「……ん」
寝言と共に、幽々子の手が動く。妖夢を抱くその手は、そのまま妖夢の背を撫でるように、一回、二回と上下する。
それだけで、妖夢はどこか救われたような思いだった。優しく撫でてくる手の感触が、この上ない現実感を与えてくれたのだから。
妖夢は足元に手を伸ばし、上掛けを自分たちの身体に掛ける。
もともと妖夢は横になるつもりは無かったのだが、嫌ではない、と言った手前、この場を離れる事は出来なかった。何より妖夢自身も、こうして主に寄り添っていたかった。少しの間だけでも。
夕餉の支度を始めるまでは、まだ時間はある。夕刻という今の時間を、こうやって送るのもいいな、と妖夢は思った。
陽は傾いて、部屋の中でも微かな夕焼けの色が感じられる。
どこか遠くから、風に揺られる木々の葉擦れの音が聞こえる。
そして互いに寄り添う、主と従者。
そんな、いつもと少しだけ違うふたりの様子。けれど白玉楼は、いつもと同じように、ゆっくりと夕暮れの時を迎えるのだった。
>ゆずってくれ たのむ!
もうなんて言うか、なんて言ったらいいか……。 そのごちそうさまって言うです!!
なんていうかくすぐったい。
なんていうかじっとしてられない。
これが、これが白玉楼……!